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『宗教研究』新第11巻第4号(*83号)

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(1)

――目次――

1,

日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗,山川智応,Chiō YAMAKAWA,pp.1-17.

2,

有部宗内における発智系,非発智系等の諸種の学説及び学統の研究,西義雄,Yoshio NISHI,pp.18-33.

3,

日本「民間信仰史」研究序説,杉浦健一,Kenichi SUGIURA,pp.34-56.

4,

中世における新宗教の伝道について,圭室諦成,Taizyō TAMAMURO,pp.57-79.

5,

聖トマス・アクィナスの神の証明,基礎的解明としての類比(analogia)観念,今泉三良,Mitsuyoshi

IMAIZUMI,pp.80-91.

6,

分別論 Vibhaṇga 中の法心分別 Dhammahadaya-vibhaṇga について,舟橋一哉,Kazuya

FUNAHASHI,pp.92-100.

7,

パングツアハ族の神々,馬淵東一,Tōichi MABUCHI,pp.101-118.

8,

唐蕃両国仏教之交渉,立花秀孝,Hidetaka TACHIBANA,pp.119-135.

9,

同名類名僧の混淆を是正す,寺崎修一,Shūichi TERASAKI,pp.136-152.

10,

新心理学的宗教学説の批判,Hughes,T.H. The New Psychology & Religious

Experience. 1933, London,

棚瀬日出麿,Hidemaro TANASE,pp.153-162.

11,

新刊紹介,pp.163-180.

(2)

+ 鎌倉時代における我が国の宗教的偉人の多くは、大抵もとその宗籍を天台に置けるものから輩出したといふこ とは、世間周知の事案である。 法然上人が、常時の山門における、相思に著名の畢徒であつたことは、その﹃智慧法然房﹄のあだ名を外にし ても、その四大上足が悉く天台の畢徒であり、大原の撃輿をして傾倒せしめ、﹁愚管抄﹂の記者をして、その臨終 について筆を努せしめただけでも推想し得られる。 親鸞聖人は、たとへ倦詮の如き位崖でなかったとし、また或は堂衆に属したる人であつたと仮定しても、その 山門伶たることを否定したものはない。 柴酉膵師は、碓門の先達としてよ少も、昔時の上下を風靡し、現身大師競の希望をまで持つに至つたのも、葉 上房として台幣菓上流の始組たる天台倍としてゞあつた。 采修道隆に光って、平安京にはじめて脱俗絶塵の躍風を、身を以て示した道元繹師も、またこれ山門の畢徒で あり、入来しても彼の四明の末流が、観鮭の十六観を主とせるを嘲笑せる台畢の俊才である。 ● 日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗

日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗

l ■■一′

β47

(3)

日蓮聖人の宗故の母蛤としての大人‖宗

桐都の覚壊。囲暗・有厳・叡尊等に克ちて戒律小バを神輿し、は㌧んかに後の妙託和尚の或る鮎において党躍とな ったともいふべき俊石上人も.ま空口門の人であ少、少しく下つて凰歯偏新風の如きも∵また寺門でこそあれ、 常時著名の台畢倍であつた。 これ等の諸仰の事膵妄概観するに、法然上人は.四十三歳にして専修念俳の一門を開きその﹁選捧集﹂墜ハ十 六蔵の著にかゝり、親皆聖人は、±十九にして法然上人の門に入つたが、﹁数行信誇﹂は五十二歳の集といはれー 栄西描師が、大日虜能忍と共に、京師に抑制を開かんことを請ふたのは、其の五十国威の時で、﹁輿膵護飼論﹂は その時山門の妨難に答へたものとせられ、道元稀師が、天童山の如渾膵師から印可せられたのは、その二十六七 歳の時であつたが、純然たる締風を博へたる永平寺の開創はその凹十五歳の時であり.﹁正法眼赦﹂は、三十蔵前 後から五十囲歳の寂年に至るまでの諸著の集成である。俊蕃上人が泉涌寺を採大して台祁の中興としたのは、そ の六十蔵の時、柳川挿師が束摘寺の開創もその五十四歳の時であつた。 要するに、これ等の諮師も.或は挿土∵或は膵、或は戒律等を以て、その弼口の心胸を開いたのは、多く凹十 歳乃至ハ十歳の闇灯あ▲る。けだし仙人の虞の駒井如が、二十五山ハ蔵以後から始められ.その醇熱期が、五十五六 歳乃至ハ十蔵前後においてせらるゝことは、古今東一日の舛しく一致するところであり、孔夫子が、五十にして命 を知るといつたのも.決して孔子一人のことではないであらう。 而して此等鎌倉桝の宗教的偉人が、多く天台の門から出て居て、しかも後には、或は普学生警戒は臨苧曹 洞、或は南山等の諸師をその組に仰ぎ、天台・倍数は、或は全く用ひす.或は傍系の人として、或はたゞ畢系の ∂塵β

(4)

人として崇むるに勤して、日蓮聖人はこれ等諸師と異なり一路生、天台大師講を修し、またその五十歳以後の、

礪創建設期においても、﹃我師天台﹄﹃我帥俸教﹄と和し、彼等諸師が同じ︿叡山・園城喧机で⊥、新宗教の開創

着たると共に、多︿天台から蝉放し経れるに封して、聖人は天台を母胎としての新宗教を建設せると同時に、ま

た天ム〓を終生jE系の師として仰いでゐたといふ鮎で、より拭き天台との関係を認めなければならぬ。

本篇は、その鮎に就いての、脚かなる考察を試みんと欲するものである。

元来、天台の囲教は、印度の龍樹・天親の両家を集大成せるものともいふべきもので.大師の﹃龍樹●天親、 内鑑冷然。外攣時冥各棟所レ嬢。両人師偏解、聾者筍執、速輿夷ポ↓各保二撃大串垂道場e﹄とはlその

抱負を演べたものと見るべきであらう。

したがってその回教は、支部沸教における精華であつた。見よ、道元膵師が、五年問の入来研噂に知り得たと

ころのものは、伶は四頬あ少、法師は天台の教畢、繹師は達磨の兄孫、律師は南山の末裔、玲伽師は不基の系脈

であるといふことであつた。そしてその達磨宗は、はやく永嘉の玄覚から、智覚延蒔、湛然囲澄の如きーそのい

かに天台に影響せられてゐるかを知るべく、南山律宗が、天台輿示に基づけてゐることは、乃組律師の感通倦に・

南島夫台を藤山藷衆としてゐる鮎でも、その弟子弘景・鑑眞の俸承から見ても、その小城即大域の推論から見て

も、おほふこと能はぎるものがあるのであり、琴∵=稔伽宗も、一行筆受の﹁大日紅疏﹂はいふまでもなく、不基 の﹁翫智儀軌﹂も.また全然無闇係とはいひ得ないものがないでもない。 日漣聖人の宗教の付肺としてS天ム‖︰■朴 ∂イ9

(5)

日蓮聖人の宗教の母胎としての大台宗 田 我が鎌倉時代の締宗・.律宗も、支那のものを大髄において享けたものであり.浄土宗い曇鴛・迫綽・善導の諸師 は、多く天台に影響せられてゐなかつたが、日本浄土宗の法然上人は、﹁選捧集﹂におけるその判教・宗旨・信行・ 安心の開明と、その法語集を見れば、その教畢的精練は、之を天台に得たるをおもふべく、その四大弟子は悉く 合従であり、親焙聖人の純他力教と、自然法爾の立教は、日本天台の抱待妙・諸法貫相の思想と、大なる関係あ ることを否定することは出来ない。 而かも此等の諸師が、天台に満足すること能はすして、念彿・躍・律等に新しき宗教を建設し、若くは輸入せざ るを縛ざるに至ったのは何故で透らうか。 けだし、天台の止ヒ観は梼念山林の修行である。都合殿堂の教ではない。観念慧解の教であつて、現誇信念の行 でない。判樺精扱の畢であつて、端的直悟の道でない。大人心地の城であつて、身口規範を主としない。これ等 の瓢は、天台の教法が平安朝において、塁一日の修法に墜倒せられ、鎌倉の初中期に過去の宗教として遺却せられ るに至った所以であつた。法然・親鸞、柴酉・道元、俊萌・囲爾等の諸師が、鎌倉時代に新宗を開くに至ったこ とは、まことに止みがたき講師自身の要求であり、また衆生救護の慈念でもあつた。 そして或は信念解脱の遺を開き、或は端的直情の洗を倦へ、或は身H正路の造は祁かれたのである。 日蓮聖人の蟹心は、これ等同期の諸偉人に此して、より複雑により根本的なものであつたことは、今こ1には 略するが、要するに、聖人は単に自己個人の悩み、または常而に悩みつ1ある衆生に封して、より適確なる安心 立命の道を興ハんといふよりも、聖人時代の世相と、俳教の現勢に於いての、深く遠き疑問の結英.その枕木的 ∂う∂

(6)

解決の造を組んが.駕めに、さては鎌倉、説法諸地方への十有五年の修挙があつたのである. そしてその結発として得氷ったものが、建長五年四月二十八日の早且を以て唱へ出されたる、南無妙法蓮華経 の五字七字の題目完であつた。 三 もつとも素朴なる観察者は、名耽六字の易行に倣って、七字唱題の行を立て、眞言旦英雄に擬して、いはゆる 本尊固頼を試み、直指人心の端的に準じて、即身成件の安心を示したものであるとしてゐた。 だが、即身成俳は、天台法輩の肝姿の法門であり、五字七字の唱潜も、天台大師の﹁法華二昧﹂の行法たるの みでなく、聖人常時、山‖の秘要法門書たる﹁修帽寺決﹂に、臨終の一心三観、一念三千ともに此の行を説き、 ● 十弗を示したる本尊も.また彼の書にその類想が示されてゐる。 こ1においてか、聖人の正宗は、念彿・虞冨・膵宗の長所を締めて、雑株合成Lたるものとするよりも.日本天 台の﹁修挿専決﹂などから、時機に邁臆せる新宗を開いたものとする方が、一骨合理的説明に近いといふべきで あらう。 さればこそ、かつて日蓮宗大畢が大崎に移った頃、前田憲実師.島地大等師が、天台宗閲係の講義をせられた が、前田博士は、聖人の宗教は.日本天台を一歩も出ですと説き、島地師は僅かに数歩を出でたるものと説かる る1薦め、常時の同教授たりし某師は、島地師と常に論討せられた相だが、私の虚へも卑見を徴せちれたから、 それは全然、日蓮聖人を知らないものであらう。それに封しては、宗教の五綱と、世界統一の本門の事の戒壇の 日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗 五 ∂封

(7)

思想は、果して口本天台に存在するかを反問せらるべきであらうと答へたのであ.る。 前世紀の後年において.泰西の俳教研究、殊にその史的研究の成英が、我が闊に輸入せらる1以前には、彿教

各宗ともに、天台の五時の詮を多くは恕容してゐたのであつた。それは控詮によつての解樺に就いては・最も安

常に近きものがあつたからで.その五時の詑は、要するに、教理は、横根に封して開設せられ、その機椀の長短 に即して、或は頓教を説き.或は漸教を説き.やがて漸次成長せしめて、咄漸の機を同一に辟せしむる、そこに 五時が設けられたのであつて.即ち五時の中には.教と機と時との三つの思想が含まれてゐる。此の三者の相踊

関係と、賛展幽係において五時が生じ、その五時の組括統合が法華経にありと説いた天台の教判は、容易にこれ

忙超勝することがⅢ来ヰして、各宗ともに準用するに至つた。

勿論、それは人間悉連多の八相成遺を示せる樺迦應身と、その封せる機類においては天台の判樺の如く・法華

最第﹂であらう。しかしその劣磯に封せざる俳陀の内許と.法身の機類に封しての説法においては、輩蝦を以て 耗第一とせねばならぬとは、能化の俳と、桝化の磯に自1Jして、華糀蚊勝を説いたもので、しかも樺迦應身を示し てゐる頼も.その内容には、嵐合邦身ありとするのであるから、畢慈して畢巌最膵別敬一乗の児想は、法身の大 士を朋封とすとhふ概則の稚勝に録するぃである.彼の琴∵=の教刊も.畢克して密横に封して法身説法ありとす

るもので、横の殊勝を以て、能化の俳身と∵所詮の特勝を説くものである。我が平安朝の教判諭は、ほゞそこに

その筋趨を示したといつてもよい。

だが、樺専一代最勝の法華経も、二乗及び潮磯の菩薩をそのiE横とL、巌合邦仰の華厳麗は、頓横の菩薩、大 日蓮聖人の崇敬の母附としての人ム〓宗 占5β

(8)

日加釆の眞言経は.粁機の菩薩人天を救ふが蔑めに説かれたものとすると.十怒五逆山末法の惑逆の凡夫には. その用を為さゞるものでなければならぬ。現に見よ、この法滅の姿をとは、法然上人、親鸞聖人の立場であつた。 そしてかゝる劣横車救ふは悲願の一乗であると.末法といふ時に約して、磯と教とを翻りみ、華厳、法華、大日 等の控数−みなその用にあらすとしたのである。 膵山水の如きは、三時の如きを以て椴設とし、機根また古今基だ典らすとするのであるが、それでも理数・機紬・ 向上の三根を認むるなどの詮もあつて、仝︿機と時とを離れて、教を設くることは約束ない。更に此の以上に図 を説いたのは、博教大師の﹁願戒論﹂をはじめとする。 かくて俳数々畢史上、教・機・時。国は説かれたが、此の四者を組合紙諭すともいふべき序の〓薬は.何人も 説いては店ない。 また三大秘法の本日の本尊は.﹁修膵専決﹂の凶敦三身。本日の題目は、蓮華因州。本門の戒埠は、常寂光土義 ● の蟹展と見得られないではないが、しかも日本を中心としての世界統一戒壇の如き思想は、日本天台には全く跡 を別つてゐる。日本天台のみならす、俳数々畢史上、さやうなる思想を、他に見ることは出水ないのである。 さらば、日本天台の黎展としての外に、日蓮聖人の天台宗における関係は、いかなるところに存す竃のであら うか。 四 壁人の見る桝に伐れぼ.天ム‖大師の法華経に伐れる教相は、単に五時八教なのではたくて、﹁法華玄義﹂奄一の、 口述聖人Sルポ紘の砕附としての天ム〓ハ小 七 ∂53

(9)

八 日蓮資人e軍靴の母的とLての天台宗 三種の教粕にありとせられてゐる。即ち第一は、根性融不融相。第二は.化道始終不始終相。第三は、師弟遠近 不遠近相である。而して五時八教は、この第一の根性融不融相の下の判繹に過ぎないのである。 ・これを支那天台に見るも、章安大師にT天台八教大意↑あ少、行滅法師に﹁畢天台宗法門大意﹂あり、ともに 五時八教を天台の教判としてゐる。日本の聾興和何の﹁天台宗毒薬﹂にもまた四教・五味を主として、三種の教 相を詮いては店ない。けだしこれ五時八教は、法華における法・撃一周の詮によつて設くる所であつて、化道始 終不始終相は、下根の薦めの因縁詮たる、化城喩品によつて設くる所の教相であるから、一代彿教の教判として は、まづ五時八教を以て之を判梓し、後の第二、第三の教相に必らすしも及ばなかったものであらうかとおもは れる。しかも法華経の宗教味は.むしろ第二・第三の教相に在るかの如くである。 されば聖人の﹁富木入道殿御返事﹂︵東棟椚界書︶に、 トヘテゼシタノ 惣ジテ御心へ侯へ、法華経輿二軍禦引向判二成彿不城俳蕗、常分跨節ノ事二有二三棟旬日蓮ガ法門ハ琴ニノ法 ポセトモアタ 門也。世間粗如レ夢、一二ヲバ申セドモ.第三ヲバ申サズ侯。第三ノ法門ハ、天台・妙柴・倦教モ、粗示レ之、未二 苧蒜詮、撃輿宏之生地∩︵肺臓二代詣︶ といはれてゐる秒は.聖人の立脚地は.三種の教利の中の一撃二の教粕、第三の法門、師弟の遠近不遠近といふ・ 宗教的建設所にあつて、第一の教相、即ち根性融不融といふ、解丁的哲理的方面を表とせざることを示されたも のであると解せられる。 此の鮎において.聖人の見たる天台の教判と.迅速の天台宗の教判の見方とは、その立脚地が、かくの如く蓬 5∂室

(10)

ってゐることに︰揮目せねばならないのである。 第一の教相、根性融不融相とは、唯併輿彿の諸法責相の妙理、囲融無塵の妙道に、衆生が融即するや否やを検 し、法華経に至りて一切衆生を悉く融即せしめ得たるを明すのであつて.此の教相の主鯉は一乗造であり、算粕 の妙理である。衆生は各みづからその一乗道、質相の妙理を、智慧僻了によつて観念的に照験すべせである。そ の箕践法として天台大師の示されたものが、即ち﹁摩討止観﹂の衆生妄心の中に、三観三諦の箕細を成する脱法 なのである。この教相はいまだ宗教的なる多くのものを持たない。しかも大師の誓喩品・信解品の樺に、光宅が 長者を阿禰陀俳を以て樺せるを排し.﹃西方ハ俳別ニシテ繰異ル。子父ノ養成ゼズ﹄と樺したのは、大師の第二・ 第三の教相を濠想せしめるものであるとも解し得られる。 第二の教相は、化道始終不始終相で、大通智勝件の十六王子の各が、各自に別の教化を逓し、その下種したる ■衆生を、各自成俳の国土において、之を教化し虔陀せしめることを説かれたもので.婆婆国土の衆生は、大通智 膠件の第十六の王子に下種せられ、子父の義を成じたのであるから、樺迦牟尼俳において必らす成仰せしめらる べしとするのであるから.第一の教相よ少も、より多く宗教的となつてゐるのである。 第三の教相は、師弟遠近不遠近相で、樺尊成道の久遠を顛はし、姿婆世界を本国土として、十方の世界を之に 稀め、十方の諸彿を樺食の分身とし、久遠成道の樺尊の弟子たる地浦上行等の菩薩は、弼勒等の菩薩と.全然境 界の別なる菩薩として、こ1に華厳経以来、涌出晶以前の俳とその国土とその所化の菩薩と、別類の俳と国土と 菩薩とのあるを示し.この本俳、本化、本図土こそ、眞の俳法にして、他は其の影現垂連な少とし、長の遥々の 日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗 九 戊述

(11)

師弟かくの如しと顆はしたるもので.酔人が﹁法準J取要抄﹂に. ノノハゴリノ ﹃此土我等衆生、五骨盤鮎劫巳水、教主樺食愛子也。﹄ 七いはれてゐるのも.此の立脚地であり、その本仰は、三身常任∵ニ世塩物にして、﹃或準己身↓或撃他身可成 示二己身叫或示二他身叫或示t己撃戎示二地学﹄の六或化導によゎ∴己身己事の併身及び俳の国土所作、他身他事 の九界の身土所作をも、或は詮き或は示さる1がゆゑに、此の本門間鞍の比地からは、﹁関目抄﹂の如く、儒教・ 外道をも仰法の初門とする意義をも生じ、本彿無方の械化の中に入れらるるに至るので思る。 五 以上の三拉致相の中、天台大師はいづれの教相を最も探重なるものとせられたかと云ふ時、日蓮聖人の見地に 依れば、それは第三の教相、如来蒜量品なのであつた。さうして大師が法華経の解膵において.最も力を轟され たものは、表面的には、方伸品、安東行品、容量品、敬音品であるが、通絶して概観する時は、普く経意に添ひ. 班帥茜貿塔品から.紳力品鳩巣晶の十二品に力を用ひられて層少.したがって賛塔品・涌拍品・詔豊品・耐力品 の梓交の如きは.合薔喉元にハ﹁l⋮める光彩陸離たるものがあるのである。 けだし、淡紫維はその華㌫分は、迩門に八‖⋮、本〓に言⋮二隼、∧‖して十=⋮に過ぎす、連木の序分一品牛、残 れる十六品牛はみな流通分であ少、而かもその主なるものは、姿婆世界の閣浮捉の、恋世末代の、凡夫の四衆の 馬め、誘法逆恵の衆生の篤めに、最後の五宵歳の中において、既定流布しはじむべしと預言せられてゐるのであ る。而して天台大師までの法華経証揮者は、嘉群書赦大師に過ぐるものはないが、しかし帥も流通分においては 日蓮雅人の宗教の母胎としての人ム‖︰ポ 古56

(12)

あまり多くの力を注いでゐないのである。

然るに天ム‖の法華経におけるや、流通分に非常なる力を致してゐる。而してその最も注目に倍すべきものは.

霹量品における、﹃追使遺骨﹄の樺なのである。

天台大師以−羅の樺家は、此の﹃追使還昔﹄をいかに種したか、大師はいふ、 トハ︿サテノノヲシト︿テシヲハチシタハテシテヲスト︵チろノノ, ﹃遣使者、戎撃滑奥中大聾普草二軍使人”或用二紳通∵域川二舎利↓或用二経数等一撃使人”今用下四依菩薩語ユ ニ;こシムノヲスキケズトノシタJ√ノス∼﹁ヲクラー:ヤニ 衆生去申彿巳減産、但撃此準我今宜弘。汝賢受行一也山後時衆生、若禦四倍偉三越経法∵豊能自知。俳巳滅

スエテl’レ

虔、故用二四俵↓是使人也。﹄

遣使の使人とは、四依の菩薩であるとする。囲伐の菩薩七は、﹁大淫楽麿﹂囚伐品の明かす所、俳の城後鱒蔑生

チエラニチエラニテ の依止と焉り得る凶種の位の人であり、此の囚依の人は、かならす常に、﹃依レ法不レ依レ人、依レ養不レ俵レ語、依レ

ニラ三三クエ

智ゲ依レ隷、弊嘉攣不レ依二不了蓬︼﹄の法崖によつて、法塞くべせこと是めてゐるのである。

彿の浬尭とは、常在襲鷺山の怖が、衆生の悟悉厭怠を誠しめて、彼等をして法に随はしめんが焉めの方便であ

る。こ▲においてか四依の菩薩を遥はして、彼等を覚醒せ七める。そこに滅後付魔の大事が生する。諸師が、或

は遣使とは大聾普台東とか、紳通だとか、併合利だとか、経巻軽法だとか解してゐる中で、生きた人間としての

菩薩を遣はすことであると押したる天台大師の、紳秘的の信念をこ1に見ねばならない。単なる托事的観念的楓 樺でのみ、経文にむかふものは、働じてか1る解鐸をすることは出来ないであらう。

南山道立は、大師を以て霊山の聴衆だとし、賢首法政もまたそれを引用してゐる。これ南岳大師が天台大師に

日蓮数人の宗敢の付附としての天ム‖宗 ∬7

(13)

日蓮聖人の乗数の母胎としての天台宗

一二

告げし語に依るのであらうが、天台大師みづからも、その妙悟は.襲王品の﹃是虞精準是名虞港供養如来﹄の 文に至つて裕然して詞通したといふのだから.幕量品の遣使還昔を、斯の如く解樺したる大師は、またみづから

薬王菩薩の應化としての自覚を有して居られたであらうと思はれる。そしてこの註樺の中には、本件貫在の信念

と.その三世益物の慈悲と紳過とに卸する信念が、あふれてゐることを感ぜざるを得ない。 こ⊥にお.いては、沸教は立派なる宗教であるといはねばならぬ。

既に城後に四依菩薩が、本件慈悲の使として、出世して衆生を導くものとすれば.経文の伸展といふことは.

重大なる意義を生じて来る。

上の﹃遣使遺骨﹄の樺と同じく.前人の嘗て繹してゐ庖い注目すべき樺が∵賓塔品にある。即ちヨ一俳並坐﹄ ス チ ノ , シテ一:メントル1 \ の詮明の後に、経文に、﹃彿欲下以二此妙法華撃伸展有島 在﹄とある文に封して、大師は、殊に﹃庇妙法華経﹄ の文に就いて. シセ.︰■カントタラクメチヲシナ’ちシチユシ’ ﹃若欲レ開レ堵、・須丁寧分身↓明レ玄伸展朗聾徹二下方↓苧本弟㌔敷於等量己

と樺してゐる。妙実は之を扶持して、

冒二明レ玄等奉‰琴鮮軌↓玄牧二一部可故云二彿欲以此妙法等一望 フユムヲミフ

明玄付屠といふのは、妙法華経の題目の中に玄く一部の撃示用を牧めてゐるから.その題目を挙げ明して付蜃

する。その聾が下方峯中に徹して、本弟子を召し、本弟子来るによ少て毒量品が詮かれると解したのである。ま

∂ββ

(14)

た﹃付属有咋出の二意を膵して、 ニリニハグ′セスノニュヘケ′セシテ三 ﹃付鶴有在者、此有二二意”﹁近令二有在↓付二八高一高鷲仕草隆二﹁遠令二有在↓付l哀弟子下方彼鹿三間底流 セ/.メ スルタ 通、文教二起詩量一也。﹄ といひ、法華経を滅後に弘逸すべき囚伏の菩薩に、二椛あることを明かにし、近分有在は菓王等の八萬二筋の菩 薩、違令有在は下方本化の菩薩、而してその本弟子は、明玄付屠で、題目を付廃せらる1ことが、上の持と合せ ぼ既に明瞭であるといつてもよい。 次ぎは勧持品・安柴行品の二品に、折伏上掃受の行法が示されてゐるが、大師は勧持品を以て、深位菩薩の行 法とし.安楽行届を初心始行の菩薩の行法として、而かもみづからの止観行を似て之を種せられてゐる。これに 依ると、勧持品の深位菩薩とは、おのづから賓塔品の違令石衣、明玄付巌の本化菩薩のことでないかとの事が考 へられるのである。. ● ハグレケリ 涌出品・寿量品の大師の樺の光欲萬丈は.今之を略するが、天台の薄量品をば﹃長詩礪足許鰹之用﹄とりみ見 ニスル︵ヲレ ナリ るのは、大師の全貌ではない。同じ妙禦が、涌出品の﹁文句﹂を梓する時、﹃密閉二琴革是第一養﹄とあるを扶樺 して、 テレ スヤユ ﹃即此一部最極之理、笠非二第一一﹄ といつて、蒜量品の頼本を以て、一部鼓極の理とし七ゐること々忘れてはならない。 タ 而して流通の分別・随喜・法師の三功徳=⋮の事讃であるところの常不軽品に至りて、大師は﹃得二正詮之宏宗” 日蓮聖人の宗欽の哩的Tしての天台㌫ 古jク

(15)

︰と説かれてぉる。此の.不軽晶.は、∵上の勧持品と同じく折伏の舐通である。而して勧持品は安楽行品に封して、滞 位菩薩の行上tたのを.ば、此の不振品.は、初随喜の位としてゐるから、おのづかち探位菩薩が、迩にあつては安 ヽ 発行品の観行即よりもたほ初心の位として、道化の化を施さる1⊥ことを暗示してゐると認むべきである。 七 更に翻力品の寸紳力の中の、後の五紳力こそ彗天台大師の神秘的信仰的方面を、一骨強く示すものである。 乃はち第六の普見天倉を以て.、.﹃未凍工機一アルコトヲ表スル也﹄とて、成立流布の時々預許せる藩のせ⊥、第七 の琴甲唱聾は、‘﹃未亦ニ′教﹂アルコトヲ表スル也﹄とて、その時には、本俳、本法、本図土の三政一鰹の教に節す べせをいひ、第八の南無囲命は﹂﹃未来三人一アルコトヲ衰スル也﹄と.衆生.ことごとく本件に辟し本件を父とす る時ある骨いひ.第九の造敬謙物は.町︼兼米二行︻ア.ルコ.トヲ表スル也hと、.祷俳に廃したる衆生は、みな木偶の 心を心とし、一切を事情せすして供養するに至る時あるをいひ、第十の通一俳土は、﹃理一ヲ表スル也﹄とて、か くて本有資相わ理に膵して、閻浮捉の常寂光化する時なるを示せるものと樺んてゐられる。 その以下に上行菩薩に封する付巌を、結要付巌と名けて、﹃如来一切所有之法、如釆一切自在紳力、如来一切秘 月蓮聖人の宋教の母胎とLての天台宗 \ モ

タサヲ 得

二流通之妙釜﹄せ賛七.その折伏道化を樺して . ろヲ ニルハ

チヲモシタ

チヲ ﹃本巳有レ凄∵塵迦以レ小而野蛮茎本丸軒漕、不磨以レ大、雨季毒草﹄ といひ、その功徳をば、 ′’ ノタノニスルモミチノ’ ﹃毀者、得一重悪所典ぺ誘故堕レ悪、聞二俳性名↓毒鼓之力、獲二幸果報這 一周 ∂の

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蟄之赦、如来一切甚洗之事﹄の四句を以て、これ一切伽法を妙名・妙用・妙醍・妙宗に結⊥たるものとして、 タ ヲモスヲ ナフタ ジテスルニヲ ﹃絶結ニー経↓唯凹而巳。挿二其枢柄一両琴由ハ之一﹄ との樺をせられたのである。之.に封して妙栗は扶樺して、 蒜乳郵針句一針−本迩二門各軌ユ示川”二門之髄∵両虎不レ‰宕軋紆三孟宗︶両難警コ一部之聖堂 ギシ† ユ ニ一/ナ チ ’ チ ズ ヲ 過二於此叫故級撹レ之.以成こ流通︼﹄ といつてゐる。天台が﹃其椙柄﹄といつたのは、即ち妙名たる妙法蓮華綻である。之を以て上行菩薩に授けたと 樺してゐる。そしてこれは上の資格品の明玄付属に應するものである。 そして次の嘱累品においては、仰が、法華経を信する者には此の控を説け.信ぜざらん者には、飴の探法の中 において、示し教へて利み喜ばしめよとある文を、大師は、飴深法とは別教を以て、囲教を助けて、国教以下の 横を導くものと樺してゐる。 以上によつて、天台大師は、法華経に本迩二門あると共に、その弘適者にも二類あゎ∴付庵の沈も二桂であ少. 弘適法も二つ別なること、付巌の式も相異せることを鐸してゐるので、而かもそれは悉く俳浬紫の後に、四依の 菩薩を遣はさるといふ、寿量品の樺を中心として、賓塔品から.鳴累品の問において、具さに樺しあらはしてゐ られるのである。 日蓮聖人の宗教の母胎は、此等の天台大師の樺義にあつた。此等の樺義に対する検討と、その検討の結果の信 日蓮聖人の宗教の母胎としての天台宗 ββJ

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日典型人の再ポ教の母胎としての天ム〓宗 一大 会から.里人の上行菩薩の自覚は畿生して釆たのである。即はち聖人の新宗教は、常時のいは砂る日本天台から 張展したものではないが、天ム‖大師、妙柴大師、博教大師の樺義の正常信受から費生したものであつた。﹃遣償 還昔﹄に封する.天台の信念控同じき信念が、おのづから聖人の上行菩薩の自覚を促さしめたのであるといひ得 るであらう。 聖人が、いかなる紅路を取って、途に此の大師の信念に慣れ、同じ信念に悟入せらる1に至ったかは、更に別 の横合に研究しやうとおもふが、今は彼の聖人の宗教を以て、或は些一己と繹渾の長所を、法華経に雑株合成せし めたものであらうとか、日本天台の一歩出たものに過ぎないなどといふ、想像詮や礪断論に封して、聖人の宗教 の依るところの、極めて深く、天台大師との閲係の、頗る撞きものあるを示さんことを欲したのである。 以上の天台大師の、紳秘的なる信念に就いて、聖人常時の日本天台の諸師が.いかに触議覚であ少、無知識で あり、風馬牛であつたかは、聖人の少卜以前に、山‖の線畢頭となつてゐた、慧檀術流乗単の碩畢、賓地房符虞 法仰の、﹁三人部私記﹂にも、以上の大師の樺には、何等解れてゐるところのないのと、聖人から七八十年以後 に、拍〓の‖決闘を究めたる、等海の﹁ハ小大事‖決﹂や、また少しく下れる尊舜の、﹁玄義私難璧﹂や、﹁文句略 大綱見聞﹂や、﹁摩詞止搬見聞﹂などによつて見ても、常時のじ本天ム〓は、仝ぐ教棚方傍観心眞貫の立脚地にあつ たとおぼしく、経文の詮和は多くはみな托事触に僻梓して、全然帥秘的信仰的なるものは無純して丁つてゐるこ とが知らる1のであるっ 勿論、聖人の軍師であつた大和荘俊範を中心として、称明、心賀の三代、その以前の勝範、忠尋や、範源、教 占ββ

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探、慶深等をはじめ、聖人萬時のいはゆる名匠の口決を鍼乗せる、聖人の少しく後進にして同率なる、松林房政

醇の﹁宗要期衆﹂は、年来見んことを欲したが、去る大正九年、身延久遠寺酉蔵の魔境の中から捜し出しT一乗 論談抄﹂と共に之を見出して.大切に保存せらるゝやうに勧告したが、その内容はまだ見る機密を凄まれてゐな いから.その中に何ごとがあるかは知り難いが、これ等諸師の日次も、以上の等海や尊舜の顆衆に引川せられて ゐるから、一斑を見て全豹を察する時は.おそらく大師の信仰的、預言的方向には、何等得るところなく・たゞ 観念的.類推的、托事椒的に.軽々の所見を闘はしてゐた。いはゞ亀毛兎角の賽諭を残してゐたに過ぎないこと

をおもふのである。

詮するところ.日蓮聖人の宗教の母胎は、天台大師、妙柴大師の、信仰的、像言的の繹義と、偉教大師の純大 乗の三畢撃止、一固同辟の大乗城壁の規模を以て、此の信仰的.複冨的なるものへの前進であると餌得したると ころの、無師礪悟の経巻相承、数百年を隔てたる知識相承に依るのであつて、もろ′∼の江戸時代の聖人の倦記

が、天台の﹃追使遺骨﹄の樺に直接に慣れては層ないが、聖人の雲ポ開覚のはじめを、彼の﹁浬東経﹂の法囚依

に依りての研鎖に塞けてゐるのは、偶然にも此の機微に間接に爛れたるものといふべきであらう。しかしながら、

これなほ単なる推論的で、紳秘的信仰的なるものへは竹瞑を隔て1居る。天台の合理的なる樺義と同時に、帥秘

的なる信仰に封する交響共鳴。これ即ち聖人の天台宗における不可離の闊係なりとするこそ、如責に天台を解し、

如賓に聖人の宗教を解せるものと信するのである。 日蓮聖人・い宋敢の付締としての人ム〓宗 ー一九、六、十五= 5β3

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− は t が き

部浜俳敦の文献即ち阿批達磨論中に現れる諸種の畢詮中には、宗輪論などの所謂二十分派の畢誼と比較して見

て、其中の何れに属するかを容易に決哀し難いものが少くない。而して此等の部派の系統又は析魔等を決定する

には、各部派の其部放たる所以の猫特の教義なり特殊の因縁なりを明瞭にすることが先決問題である。叉、之を

決定するにしても、或る一部の俸説とか、宗輪論の連記又はカターブツツの︵芥告ぎ邑旦の俳晋︵ぎddh品OSO︶

の註樺とかの如きを其健肯定するとならば、敢て巌稗を期する必要もないが、それでも其間の諸種の矛盾や撞着を

裁断せんとすれば、大いに研究を必蟄とする。況して諸種の倦詮や謄詮、個人の註樺意見等が安富であるか香か の問題む諭するとなれば、印度が後塵史閲などと解せられる丈に、英数義。教相的立場の判明は必然のものとな

って来る。然し斯る企てが部派仝恒に封して果して可能であるか点かは大なる疑問の存する所であるが、今私は

最・も豊富な文献を有し且つ其特色も見易い誰一切有部宗に就いて.、それが説一切有部宗と稲し得るー又、有部の

布部宋内に於け・る蚤智系、非菟智系等の諸種の牢記及び畢総の研究

有部宗内に、於ける螢智系、非螢智系等り

諸種の拳説及び拳銃の研究

∂β4

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所厩と断じ得る褐特の教義的立場を定め、此立場に立って部涯所願の扮しい拳派畢準で批判しっ1、本論攻の主 目的たる詮一切有部宗内.の.種今の垂畢系統の存在、即ち所謂蟹智系統と非恐智系統との存在を健駄羅師等の諸師 の所詮に操って明にし、賽に同じ蟹智系と稀し終る中にも、更に異革統の存したことを畿智と八健度との比較灯 依って論許しー.囚に八健度以外に佃﹂敬智の異本が有ったに相違ないことをも明にしたいと田山ふ。 こ 有部宗の柑殊教義 さて詮一切有部宗が詮一一切有部宗と耕せられる所以は、其部名を薩婆多宗︵Sarv訝tiく試ぎSabb註hiく註in︶と 解せられる様に、一切諸法の算有なることを主振する鮎に有るは言ふ迄もない。が然し一切と言.つ・ても仝分の一 ヽ′ 切もあれば少分の一切もあサブ二世を一切と言ふ詑もあれば、十二庭を一切と解するものもある。.その何れが、 有部宗の言ふ一切なりや、此鮎に限界を定める必要がある。 ・叉、有部猫特の教養を三世貴有法鰹恒有と主張する所にあ少とするとは、早く世親の倶合論第二十.に.於h.て、 ﹁若し人有り、三世の諸法が賓有すと詮かば、方に彼は是れ詮一切有宗なりと許す﹂と簡明に断定してからわ教相畢 上の一般常識であるから間顔はない株である。然し世親の時代に於ては、単純にかく言つた丈で充分であ.つたら うが、巳に私が嘗て指摘した様に、石部は必ずしも三世有馬法のみの賓有を解説としてゐるもの.でもない、。亦現 在の如Y部派彿教の教義の観察も多株になり、部派俳数分派史にも、北倦あり、南博あり、西赦健かり。北倦に も異部完輪論︵部執異論等︶あゃ、、舎利弗閉経朗我のものもあり、西赦倦にもバグヤ︵字avya︶倖に探るもの、 クーラナー.夕︵T計旨ビha︶の印度彿教史に凍るもわありと冨ふ風に、多柾知の文献が出現して、其分涯の順位系 布部宋内に於ける獲智系、非姿智系等の諸種の軍記及び夢枕の防究 占β∂

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石部歪内に於ける菟智系.非韓智系等の講和の揮庸及び弊紙の研究 二C

覇が多律多様に考へられる様になつて氷ると、必ずしも左程貫純な梗準丈では充分ではない拉であ毛例せば、

宗輪諭に連れば、化馳部︵Mah叫訝a訂︶の未完は、明に﹁過去・未来有り﹂とて三サ貫有論を主張したことになつ てゐる。宗輪諭の著者の参見した化地部の未完の拳詮の中には、三世責有誼をなすものがあつたに相違ない︵痛も

り 化地部の未完と言って有部宗とはしてゐない。勿儲∴ホ輪論、バグヤ第三詭、クーラナ一夕の有部俸、舎利神岡

軽等の如く、化地部は誼一一切有部宗の末流とするーものに従へば、その亦末宗が三世賓有を説いたからとて敢て

不思議はないと言ひ得よう.。然し若し南怪鳥史やカターダブツの彿音の意見の如く、化地部から有部が出たもの

うと思ふ。

とすれば、化地部の未完と有部との閲係は如何に匿別すべきであらうか、ともかく一應は考へて見る必要があら

叉、古来の註撞着中には、一般に布部の四大諭師と解せられる巾の覚天や法政を、党天、法政、雷職者.西方

師、健駄経国師、外帥師等の蘭に密接な帥偵を認めて、此等は↓或は健駄辣師又は西方師と∵ふてもよいし、外

り 閉路師と名けてもよいのであり、進んでは誓喩脊と一∵=ふてもよいとの如き畢誼をなすものである。此中、誓喩者 ︵冒r菩−邑ka︶又は誓喩部帥が控邦︵S”乏rぎtik︰この先駆‖心和音たすと﹂■=ふ考へは、意思の堆積速記用木\︰五十三丁︺ ヽ■ノ 一づ 及び同二本︵三十六丁︶に於て巳に諭ぜられてゐるこjは、周知の事柄であ少、近時の研究も之に同ぜんとする傾 ﹂

何にあるが、果して然らば、法政・驚天の児想は誼一切有部ハバでもあれば、同時に誓喩部師の所詮でもあり、院

て古昔の軽部師であつたともなる。若し長の如くなれば、部波分立差別はどうたるであらうか。部派雑乱の発掛

ないであらうか。之を分派分立史上の立場から今一膝検討する必蟄がある仇ではなからうかと言ふ関越が起る。

占〝6

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然し諌め断つてか、らねばならぬのは.彿教史の研究に放りに差別の方面ばかり見るよりも.その中心児憩な り統一方面なりから見て、H来る文、前後の摘係を辿ると共に、俳数史を二賞して見ようと言ふ立場︵前掲の拳 詑は此立場に立っての主張であらうと思ふが︶、即ち類似鮎を中心に観る見方の重要であること墜一一口ふ迄もない、 が同時に、その史的展開上に於ける差異瓢を明すことも亦、歴史的研究方法としては、怠つてならぬ所であらう。 私は前者の立場を考慮しながら、主として今は後者の立場に立って行かうと思ふのである。 勿論、部派分立の原因は、革に教誌上の差異鮎のみに障すべきものではなからう。其問に、地理的た事情、経 済的の條件、又は佃人的或は眞派的感情等の種々の原因が考へられる。然し其等は、その分派分立首座の問題で あ少、少べも虞の阿眈達磨の研究封象とはなし得ない。兎も角放では、如何なる拳詮を如何に設けば共を石部試 用巌と決し、然らずんば他部族と見倣すべきか、其判定の目安を定めることをさしあたつての急務とする。 私は此目安を↓詮一切石部宗は、三世の有為法と離世法とを共に資有と主張し、而かも其を主張するに際して は、最も重要な教義として力強く主張するもの﹂なれば、此を詮一切南部完と許して差支へないものと解したい。 り 封 此考へは、置諦の部勃興論疏と及び慈思の異部宗輪論述記に於ける意見とに基く。即ち眞諦は言ふ、﹁この詮一切 有部宗kては、一切の桝知を明すに六柾に過ぎす、即ち是れ三石篤あ少、三有馬とは即ち三世なり一。三無鶉あ少、 三無為とは即ち鹿茎と恩揮滅と非忠持戒となり。此六稚を銘けて一切と為す。此六は見れ有なるが故に、一切有 と言ふ。その一切有の義を説くが故に川ひて部の名を揺す⋮:﹂と。老恩は此置諦詮を多少改めて、﹁設一切有とは、 ︼切に二有り、一は有為、二は舛篤なり、有馬とは三世をごひ、無名とは離世牢∵=ふ。其鰹皆有なるをもで、一 布部宗内に於ける発豹−系、非食舞糸帝の諦耗の閂謹及び印紙山研究 J)ん7

(23)

肩部境内に於ける蔓智系、非登智系等の誇称の軍記及び草紙の研究

ニニ

切有と名く﹂と言ふ。私の掲げた前の目安は此両説に掠って数行したものに外ならぬ。以下、此目安に従って・ 替らく部波及び個人の単語を批判して行かう。 一

三 有部と化地部末計・誓喩部師等との閲係

㌧先づ布部と同じく三世賓有を説く化地部の末計に就いてゞあるか、宗輪論の記述と英文勢とから考へると、化

報部の本誌は、三世貫有を主張する有部よりの分派としてT過去無憺、現在と無為とは是れ有なり﹂との主張を

なしたのであ少、更に其未完は、同一部内の本宗の宗義に封して﹂之と異る詮を焦すことを表さんが馬めに、其

の一詮として三せ賃有詮をなした上説かる1ので、決して封他部派的教養として力強く主詮されてゐると考へ.る

必要もないし、亦、離世法に封する考へも、有部宗と異る。即ち化雅部の未完の他の部次に封する重要なる教義

は依然として化地部本宗の諸他の、整我に同するが薦めであつて、彼が異詮を唱えてもT侍化地部の﹂と栴せら

れる所以が故にある。

次に南俸の分派史の如く・、嘉し化地部から有部宗が出たものとし、吏に∴−霜冷の記述を補って其深溝が三世

貫有を説いたとすれば、其未完虻は正しく有部に外ならぬであらう。若し化地郡の名の下に、椅、三世貫有を詮

くものが有ったとすれば、少くともカターグッツ註樺の化地部の宗義とするもの1中に、この三世責有論が見出

されなければなるまい。然も、カターゲッツ註樺に墟る化地部研磨の宗義と日されるものゝ中には、三世貫番論

は見川されたい。其の上、化地部より有部を派生したと見る南倦は、少くとも教義中心に見る限り飴程垂加が透

ると思ふ、それは.ともかくとして以上、化堀部を有部と和し得ない所以であらう。 一 ∂β5

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次に誓喩部師又は質喩者の所詮に就いて考査しょうご冗氷、慧喩者の所詮は、正統布部たる毘婆沙師︵くP言h抑 ■ .即 貰a︶ の故大の論敵として分別論者所詮と共に大腿婆沙論上で屡々破斥を蒙むるものであるが、一度それが有部 宗内の法救又は党天の単語を介して関係附けられる眠りに於て部派判別が紛らしい立場に退かれるも.のである。 さて、誓喩者は∵無を嫁する智あり︵婆沙巻節四四、大聖一七、二二八、巾︶とし、朗繋の事︵見苦・集・滅・遣朗 断と修所断との五部の法︶と、能繋の結と、祁特伽羅︵我︶との三事の中、能繋の結のみは賓有なりとするも、 共他の法の責有なるを許さず、︵婆沙巻節五大、大正二七、二八八六票、申︶叉、練性非責有︵婆沙巻一≡、六八〇貢、下︶ とし、共中には常然所縁々訂ち境の慣性の貫有の杏定をも含むから、結局、彼部師は、能練の智及び結は貫有な るも、一切の所縁事の貴有性を認めない。従って恒に意識の所縁として知らる⊥外なき過去・未来の法の貫有は 否定すること1なる。即ち誓喩者は婆沙論上、過未無照詮を顛詑する斯こそないが、間接には斯く章張したこと になつてゐると給詳し得るのである。 .佃、故に豊息すべきは、雪喩者の世鰹常任の思想である。婆抄巻第七十六∵及び阿寒第す三十五に掘れば、誓 喩者と分別論者とは共に、世︵.>dぎ呂︶と行︵Sジ膏kキa︶とは興る。なんとな紅ぼ、世鰻虹常任なるも、行貯は 無常なればなり。行が世に行する時は、恰も器︵世︶中の果︵行︶が此器より出で1縛じて彼器に入るが如く、 亦、多人が此合より軋で1絡じて彼合に入るが如しゃ諸行も亦爾り。束来世より現在世に入り∴現杏世より過去 世に入る﹂と言ってゐる。・故に行とは諸行無常の用法に於けるが如く、靡く有為法を指すことは言ふ迄もない。. 即ち此文意は、過去世、現在世、未来世といふ、英世鰹と諸法とは全然別物とするのであつて、有部完の世無別 有部宗門に於ける鞄智系、非壕智系等の諦種の軍記及び撃統の研究 ∂βク

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布部㌫内に於ける発智系、非党勢系等の諦稀♂I軍記及n印紙の軒先 り 二凹 照、伏法而立詮とは根本的に異ってゐる。此は取りも直さず、世醜とは諸法と別なる客観的存在としての時間の 常任をホ張する説であると思ふ。従って、婆沙奄第二十三と、百八十三とに出づる、誓喩者 り 布部の所詮と輿少、か1る意味の時聞詑として解すべきであらう。即ち誓喩者の世憶官位詮は決して三世法貫有 の意味ではない。 更に質喩者は、離世法即ち持戒と非揮城との貫有をも否定する︵婆沙巻夢三十一、大正二七、〓ハ一貫、上︶。虚巫 無銭の否定に就きては顛課する何がないが、川路事及び朗繋事の貰有を認めぬ立場から、之をも否定すると解し て決して過舘ではなからう。 以上に於いて少くとも文厭上からすれば、誓喩者の所詮には特に有部的と見得る何等の特質も存しないのみな ヽノ 0 1 らす、寧ろ大衆部系放と共に、反石部児想の匡頭と有機し得るものであると思ふ。 次に、世照常任問題の序でとして、然らば、分別論者の所詮はどうかと言ふ関越が生するが、この部派斯展開題 †▲ は己に赤沼智善、木村泰賢両教授等に伐りて相次いで論述されたことがあかから、今畦共に譲ることゝとしたい。 四 法政・覚天の部派研嵐批判 攻に∵二世法及び離≠法の賓有詑を有部ハホの粘殊教義とする立場から、淡救、驚天の思想が詮一切布部完と栴 し得るか香かを検しよう。法救や髄天を特に故に問題とする所以は、彼等の所詮が、布部の大論帥連の中でも甚 だ特異のものであり、所謂、如是誼者、加算養老、應理論者なぞと日柄する鬼婆沙師の持論とする桝と驚くべき程の 相違を見出すからである。例せば、法政も覚天も共に、法虚析梯の色即ち燕麦色の貫有を否定する︵婆沙巻餅一二 占m

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七、六六一fr、下︶し.又、二十二根の賓照論に於いて、如社説者が、名は二十二なるも貰照は十七たりと説くに 対して、法救は賓鱒十四椀詮をなすが、此中、命根の別惟賓有を否定する序でに、心不相應行法仝髄の賓醸賓有を 否定する ︵婆沙巻餅一四二︶。覚天も亦、二十二枚の貫惟唯一詮を唱導し、有馬法に二の自性あり、一は凹犬種 ︵色︶にして、二は心なりとて﹂心所及び不相應行法の別の自性貫有詮を認めない︵婆沙同上︶。心所及び不相應行 法の非賓有詮の如せは、所謂五佗七十五決算有詮を有部猫斡の教義であると固執する通途の立場からは許すべか ちぎる非違であらう。覚大の詮の如きは特に、此等の鮎に於て誓喩者の詮に近く、後世の軽部の色心瓦窯詮など との関係が直ちに念頭に浮ぶ程である。 然し共にも拘らす、彼等繭師は共に三世有馬法及び無焉法の賓有を否定しないのみならす、有部の三サ箕有訟 鰹恒有論の詮明に就いては、各々石部四大諭師の一人として華々しい名聾を止めてゐる︵婆沙巻第七十七巻初頭及快 食巻解二十︶。不幸にして法救の類異説も覚天の待異説も、妙音の相異詮と共に、婆沙評者の選摸する何とならな かったけれども、何れも三世有為法の賓有詮を維持し、其詮明に首らんとしてゐる鮎は、注目されねばならぬ。 此に由りてこそ此両者の所詮は共に或る鮎に於ては可なり猛列左破斥を蒙少つ\而も依然として有力なる詮一 .切有部の教養の解梓者として、屡々世友、妙音と同列に重用され、詮一切布部宗の大給師なり︵婆沙巻解七七し、有 部宗内の二論師なり︵婆沙一二七︶と解せられる所以がある。特に法救の如きは、其の著述が、迦多拇指子の頚智 八薙の編纂順位の安常性の許明の用にすら供されハ婆沙巻解こ、叉、仮令、一膝は其の所詮が非三蔵なり等と言っ て破斥を蒙る場合があつても、次下に﹁復次に云々﹂とて、港救の所詮が鬼婆沙師に依って脅迫され、彼尊者の 布部︰ポ内に於ける獲智系、非登智糸等の諸種の撃説及び甲統の研究 ∂7J

(27)

石部宗内に於ける冤智系.非登智系箪の紡錘の軍記及び撃維の研究

二六

詮も亦失無しなどゝ、彼れの輿めに態々研解の努を取って通る場合も珍しくない梓である・︵婆沙季節品及び婆沙 巻竺二〇︶。是の如きは、分別論者や誓喩描師の詮が殆んど例外なしに混婆沙仰の避止藍賃てゐるのと格段の

相速である。故に於いて、私は法敦、覚天は必ずしも牽智系統とは言へない瓢があるが、共にやはり詮一切有部

小露の大諭帥とすべきであつて、少くとも前述の有部の部派聞に認められた特殊教義から見る限り・、決して他部

次の諭師止すべき仙仙人〓で無い様に思ふ。然し日時に注目すべきことは、彼等は有部論師には相違ないが、思ひき

った自由論着であつたに相違ないこと、及び彼等の思切った所詮には、・後世の同宗派内の諭師連にも可なりに影

響されたものが少くなかったであらうといふことである。

五 迦渦潮薙閣内及び閣外に就いて

以上に於いて私は︵こ詮一切石部宗には、其が有部宗と和する限りに於いて越ゆることの根来ぬ限界的重要教 養を有すること、︵二︶若し此教義を主諭しない場合は如何に多くの類似鮎を有Lてゐるとしても詮一切有部宗と は解されなかつたこと、︵三︶来し北限界を越えないならば、完非常な異説を提唱する璧口でも、彼は有部宗の

所屠とされてゐたことを略々明かになし得たと信する。で、此を以て、従来、此較的漠然と知られてゐた布部宗

文献内の詔異説、諸の異拳銃の存在を明にすべき順序となつた。蓋し、共中、個人的畢詮に就いては、眈に赤沼

教授の努力の名著﹁印度俳教固有名詞解典﹂内に於いて、職令、尚多少の補遺を要するとしても・兎も角逐次的

に列馨してあるものが多いから、今は之に偶れぬとして、従前殆んど注意が向けられなかつたと忍ばれる・圏院

的異詑を明にしたいと思ふ。

β7β

(28)

其は所謂迦混禰羅囲外の緒論帥の所詮に就いてゞある。婆沙・惧令∴此理尊の有部所属の紹文献を研究すノるに際 して国際的拳銃として度々池過するも′の尤、迦濾摘羅図の諸諭師と健駄罪因︵又は乾陀羅G呂dl旨P︶ の諸論櫛 と、西方︵溜≠c抑tyP︶の詔師と外囲︵P↑︼l”rde賢抑︶の讃師とがあ少、共外に葡阿児達磨師なずの文句もある。此 中、迦濾瑚羅図讃諭師の畢説は、大毘婆沙諭中の、如是認者、如貰読者、應理論者、評者等﹂所謂、毘婆沙諭編 簡者の胡簸であるから、殊更諭ずる必姿はないが、其他の迦漁猟確固外の詔師、即ち健駄羅図譜師等に就いては英 . 名目は一般化熟知されてゐるに係らす其等が如何なる畢詮を有し、其畢詮は云何などの問題は、散り畢界の︰望息を 惹かなかった楼である。そこで先づ此等の畢誼.を明す準備工作として、務めなさるべきこと、は、第一に俸競を中心 とする圏陳的学説又は忠恕となると、.そこに年代的蓉連を旗想するから、其史的限界を兄⑬てか㌧ちねばならぬて と、準正、英国陳の地理的閲係を明にすること、第三に、拳銃其のものを明かにしなければならぬことである。l 第一把年代的費展に関しては、婆沙論中にも﹁琶阿良達磨論師﹂の詮を述べて﹁今の阿艮達磨師﹂の所詮と封 比せLめることが度々ある︵婆沙巻由二八、巻七五、竺.ニ三︶様に、又、倶令以前の有部思想と替薩婆多部と栴⊥、 正理J撃ポの所詮を新鵜婆多部と稲するが如く、同様に迦儲獅羅園外.の諸.論働の諸説に鴻攣連のあつたことが濠 想されなければならぬ。私は今之を婆沙諭編纂常時以前の所蔵に限りた一書と小ふのは、倶合資疏などが横合師 の所詮なり等と.なすものは、世親が健駄羅布部の出身とされるが故に、供合製作昔時の健駄羅凶諾師の所詮を代 表するものと見えぬこととがないに拘らす、之に閲する光、賛二者の意見に.は多少の相違があつて、其の決定は 別の横合を待つものがあるからである。 有部穿内に於ける弦智系、非壁智系等の諸種の埋設及び撃統の研究 占ア3

(29)

市部宗内に於ける環骨系、非鎗智糸等の綿細の軍政及び印紙の軒先

二八

佃、この年代的限定は第二の地理的区分の研究と密接の開係を持つ。迦漁軸羅固と一言ひ、健駄疑団と言ふも、

時代に伐りて其範囲に贋狭の差別を生することが考へられねばならぬ。一鱒、故に言ふ外囲とは迦漁軸羅国外の

意味であ少、叉、西方と言ふも迦渥摘確聞の田方なることは、婆沙論編纂が迦漁鵬羅図であつた鮎から明瞭であ

る。蓋し外囲師と西方師と健駄羅図師との三者の関係は如何んと一∵=ふに、外図師と.言へば他の二が此に包含され

ること言ふ迄もないが、外聞師は即ち西方帥又は健駄建国師を指すか、西方師と言へぼ直ちに健駄羅陶師をも指

すか着か。換言すれば、此の三者の言語わ包延関係を、少くとも鬼婆沙師等は全然同一と見たか香か、即ち同一

郡、又は同一拳銃の諸師を或は外囲師とも西方師又は健駄羅師とも呼んだのかどうか等の問題が起る。此に就い

て古来、之等を異名同照として取扱ったものも少くない。例せば﹁彼同分忙五種あヤ⋮・・﹂との詑を婆抄巻七一

にては外図師の詮とし、倶合食一節二にては西方諸師の詮とし、之を光記︵大正凹一、四六貢、下︶には↓是れ迦漁

翔羅図の酉、健駄雄図の有部師の所詮なりとし、賓疏も之に同するが如く、叉、略心に閲して、婆沙巻一九〇に

迦温摘羅由外の謂帥の諒とあるを、倶命令二六に西方路師の詮とし、光賓共に、之を健駄雄図仰の詮と解するが

如き、是である。又、外囲詔師と西方捕帥との匪別を全く無祓して便川してゐると考へ得るものも少くない。例

せば、苦薩の単位に滅定を待すと言ふに闘して、同じ婆沙の巻五川にては西方帥誰とし、巻一五三にては外囲帥

誼とするし、無間造と解脱遺との所諸に閲する同一の詮を婆沙巻九〇にては酉方諸師誼とし、巻一〇八にては外

圃諸師訟とするし、叉、修の六種類藷を、婆沙一〇五には西方諸師詑とし、懇一六三には外囲諸師詮とする。復次に、

色は色に於て同類因無しとの詮は、婆沙省一七には外囲論師詮とし、同金一三一には西方諸師誰となすし、四無

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(30)

記根詮に就きて、婆沙省一五六に四方講師詮とあるを、惧合省一九にては外閥師課と残すが如き走れである。此小、 地理的に見ても常時西方師と言へば健駄羅囲師の中に包含され得ること文は可能の様である。勿論、漢書︵魯九 大、上∴などによる尉貧困即ち︵多くの場合迦浪翔羅図を指す︶といへば、迦温摘薙、健駄羅、迦畢試︵芥apiど︶ などをも包括した随分贋範囲のものであつて︵解説西域紀一L五三参照︶、迦浪摘羅と健駄羅を匿則しない時代の精分 に擬する株であるが、既に健駄羅と区別して考へられる尉賓閥即ち迦漏獅羅閥は、憶説に掠る世親の棋合論燕作 3 時代の如く、此較的狭少であつて、現今の迦漁摘羅閲と略々同じく、極く小範閲の一地域を指したものであらう 之阻封して婆沙編纂常時、即ち迦賦色迦王出現時代より玄非入竺時代迄の健駄羅開は迦温摘羅困に此して可なり に西方に於て騎く横がってゐたに相違ないと思はれるからである。然し外囲諸師と言ふのと他の二者とを同一と 見るのには、伺一抹の不安を残す。 よしんば以上の如く、婆沙以前の此等三地方の諸論師は同一地方即ち健駄雄図の諮諭師を指すとしても、伺或 る問題は、此等の詳論師達の畢詮は、果して凡て同一系統のものごあり、同一傾向のものであつたか薫かであ少、 而して此の問題は未だ何等決定されて居らぬと瓜ふ。即ち第∵、従水l般に漠然考へられてゐた様に、此等外図 師は蟄智系ならざる非正統淡の有部であつたか、第二丁色は色に於て同類因無し﹂と言ふ誼に於七西方師と誓喩 者と同執とせられるが、寧ろ撃喩部師に近かったのではないか、︵是の疑は後に軽部詮を可なりに採用したと糾せ られる世親の出生地丈に相常に根強い疑である︶。第三、外図師は六波羅密を詮くとするから、巳に大乗思想が混 在した︵労月、彿敢齢典、節一巻、九八三誓㌧のではないか等の疑問が起って氷る。而して此間題に最後の断定を下 市部髭内に放ける費智系、非逸勢系等の諦縄の申訳及び堺統の研究 占75

(31)

三〇 有部宗内に於ける致智系、非螢智系琴の諸棟の由紀及び挙統の研究 すものとしては、共等諸論師の所詮とされるもの1内容の詳細なる研究に待つより外はないと思ふ。以下煩を厭 はす此を畢示する所以である。 六 特に健駄羅図師の所詮 先づ健駄羅閉路諭師の所詮から摘げよう︵以下、同一の教義を示すもの1中、西方師のものは健駄羅国師詮の 申に、外圃師のものは西方師又は健駄羅師所詮中に梼した。叉、以下所詮の配列順低は原則としては倶舎諭の詮 順に准ぜんとした、が有部宗義との親疎などを考へて、必ずしも是に准じないものもある。囚に、以下の頁数は 大正蔵に依った︶。 人一︶健駄羅図の諸師の言く↓不律儀に任するものが、入費戎を受くる時は、不律儀を給して律儀を得し明且時 に至りて律儀を給して遣って不律儀 儀は静くな少﹂と。︵婆沙一︼七、六〇八、中︶ 此は迦渦潮羅圃の諸大論師が↓明旦時に至少て律儀を冷するも不律儀を得せす﹂と詮くに封して作されたもの であるが、正珊巻第三九︵大正二九、空ハ六京、下︶には、却って﹁悪の阿世耶牢氷給するに非ざるが故に﹂との理 由の下に、健圃の所詮を謄理としてゐる。 ︵二︶健駄羅図の西方師の青く↓飢と潟との二解は、長蕃と等流とに通するも、異熱生にを非す。飲と食とを以 て能く断するが故に、阿見達磨者は、異熱色が断じ己少て復繰くといふを許さゞればな少﹂と。︵婆一二七、 六大五貫、下︶ 占7β

(32)

迦濾鰯羅園の諸師はl有誼の﹁飢と渇とは亦、輿熱生にも過す⋮﹂との詮に同するも敢七前書隠斥してない。 ︵二〇健駄羅固の緒論帥の青くl﹁限と相臆する心を説きて名けて略と為す。せ尊は眠を詮きて心略と名くるを以 ての故に﹂と。︵婆沙.一五一、七七〇貢、上︺

婆沙一九〇には迦渦銅羅園外の諸師の言として更に此文に緯けて言ふ。

﹁詮くが如し、眠とは云何、謂く、眠者の所有の眠夢にして身を持すること能はぎるものなり。心の略なるを

性と為せばなり﹂と。

婆沙評者は略心とは善心を言ふとて此詑を評破せり。

︵四︶畿智文に﹁若し憂根を成就すれば、彼は必ず過去、未来の八根︵今男・女・眼等の五根︶と三世の一︵具知 根︶とを成就せす、定んで過去・未爽の凹︵四受︶、三世の二︵意と妄︶と、現在の二︵身と命︶とを成就す﹂ と言へるに封して. 健駄薙図の諸論師は説く、﹁此文は應に、過去の五︵受︶を成就し、三世の︼︵意︶を成就すと作るべし。受 の名は定まらざるが故に﹂と。︵婆沙一五六、七九三貢、下︶ ︵五︶毘婆沙師は詮く、﹁若し男・女の二棋を成就するものなれば、彼は定んで過手凍釆の八︵命・男・女・眼等の五 根︶と一三世の三︵三無漏根︶とを成就せす。定んで過去、未来の九︵四受と信等の五︶と、三世の二︵意 と一受︶とを成就し、現在の四︵男・女・身晶︶を成就するも、飴は定まらす﹂と言ふに封し、 西方師の言く↓應に説くべし、過去、未来は定んで十を成就すJ謂く五受と信等の五とな・ク。三世は定ん 有部寮内に於ける蚤智系、非螢智系等の詰癒の単記及び畢統の軒先 ∂アア

(33)

で一を成就す、謂く意な少。受の名は足らざるが故に﹂︵婆沙一五大、七九三貫、下︶

と。前の第四と此所詮と盟ハに三世の法の成就、不成就性を認める鮎に於て有部宗の特相を表し、叉、婆沙

論上の前後の関係から見て、こは同じ健駄羅園諸師の所詮なることが明である.。 ︵六︶頚智に↓世今は不動寂静定に伐りて而して般淫興し、世闇の眼滅す﹂と。此は定に在りてとせんや、定よ り出でゝとせんや、答ふ。定より出で1なり﹂とするを、 ・西方健駄羅囲の藷師は言くT詮くが如し、世尊は第凶櫛慮に入りて般唱柴し、世間の眼滅せ少、と。此は 定に在りてとせんや、定より出で1とせんや。答ふ、定より出で1なり﹂と。︵婆沙一九一、九五五貫、中、下︶

右の所詮は、共に俳が定に在りて般理髪せ少との所詮を破する為に毘婆沙師により採用されたものである。

︵七︶健駄羅圃の諸論師は貫く↓善律儀が漸得にして十支︵身三・口甲恵三︶を具せざることあるが如く、不律儀

も十支を具せぎることあり。諾し諸・の有情にして種々の不律儀の家に生姦し、生れながらにして梧痘なるも

のなれば、衆同分を亜すあひだ言説すること能はすして、彼は但、身の三乗性の不律儀業のみを得すべく語

わ川は柑せざる桝なり﹂と。

こは迦淑獅羅図師の﹁諸不律儀にして支を具せざるもの無し﹂との詮に対するもの。光記は此.詑を軽部師の所 詮︵雀十五、大正四一、軍ニニ四、上︶としてゐる。 ︵八︶健駄羅朗の諸論師の言くT唯、俳・学僧への三辟を受くるのみと、及び律儀の紋減とによりても、悉く近 事を成す﹂と。︵婆沙︼ニ凹、六四五頁、下︶ 肩部宗内に於ける猿轡系、非獲智系等の謙積の軍記及び撃統の研究 ∂7β

(34)

じてゐる。︵大正凹一、六四大、下︶ 赴はl唯∵二尉を受くるのみと紋減の律儀とに伐りては近事を成すること無しとの迦漁捕郷関輌の詮に封する もので、光記十四、︵大正四−、二二五雪中︶には、迦浪瑚蘇園外の健駄羅圃の軽部法師の詮とし、賛疏も之に同 1、快食解二十巻。宗研六ノ一、﹁倶合論上貸有思想に封ナる世親の濃度﹂参照。 2、以下は囲辞典邪宗輪論肘鉄、特集史分派史考参照。 3、日本彿敦畢協令弟一年、宮本正尊氏、﹁僻喩者、大概法救、童受、喩貰論の研究﹂−七〇貢参細。及び彼の、迦滋瑚経由 の内外の諸伽に就きての項を参醸されたし。 4、高井取海氏﹁小乗彿政思想論﹂笹。 6、三諭玄鶉、瞼関集餅六、彿教大系本五二七貢。 6、興部宗輪論述紀螢扱、中、四丁、左。 7、兼津智尊氏、由虔俳敢闘有名詞辞典、及び林五印氏藩論事下巻、四七四貢参照。 8、大局襲沙諭に於ける曹喩者所説の反駁は、私の手記に揺れば、約九十同に及び、分別諭仰のは約五十三四同忙及ぶ。之 に次で多きは墳子部の十四同、大衆部の約八同︵勿論同一事は除く︶である。 9、此響喩部伽の時間諭と有部の三世誼及び時分諭との関係は、珊稿﹁詭︼切石部宗の根本法有諭﹂中に述べて置いた。︵甘 塩博士還暦紀念、彿教諭叢、二〇三富以下参照︶ 10、響喩部帥と軽部との関係は古木廣1問題にされた併であるが私は、倶合諭の託持たる光記の所説等には何、大いに批判 を要するもの1あることを、此際一言して荘く。 n、宗教研究、節二審、第五鍵、解六娩参照。 13、此中、婆沙諭、似合諭中にある大概︵浮adantpしが十四替稗姿沙が度々点す棟に、果して尊者法救又は大徳法救︵即ち 達磨多純DbamPt・旨︶と同一人を指すか香か、又、華婆沙の如く、畳六郎ち佃陀掟婆穿ddhadeくP︶と同一人を指すか 否かの開港は特別に論じない。其を明すをヰとしない上に、何れであると見ても私の諭旨には大差ないからである。因 みに、婆沙諭上の厚着法救と大徳法救とは、脊婆沙との封比上全く同一人たることを断つて置く。 川、西域妃に凍るに、現今の迦淵棚羅は、海軟五千呪にして四面山を以て癖らきれ、長さ八十五哩、幅二十五哩位の卵闘形 の地域であり、規香の南東倖に凍れば、東西八百里︵支那里教︶南北三百里の地域とせられるに封し︵解脱酉域紀、二六一 貫︶、健駄雄図は西域記に接れば、梨西千飴里、南北入官傲里とあるからである︵解記西域記、一七〇貢︶。 . 布部宋内に於ける婁智系、非餐智系等の諸種の軍記及び畢統の折究 ︵未完︶ β79

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