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経験と形而上学

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経験と形而上学

著者 桜井 弘木

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

7

ページ 1‑17

発行年 1989

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000168/

(2)

経験

と形而上学

高 島善哉︵一九〇四ー一九九〇︶

貫 く棒の如きもの﹂と言っているのは﹁去年︵こぞ︶今年貫く棒の如きもの﹂という虚子の名句から取った

ものである︒﹄1﹁時代に挑む社会科学﹂よりー

井 弘木

はじめに

1  ヨハネによる福音書は︑﹁はじめに︑ことぽありき﹂ではじまる︒ファウストは︑これを何回か書きなおして︑最後に︑      し   へ

じめに行為ありき﹂に落ち着く︒小論は︑これになぞらえて︑これに近い意味あいにおいて︑﹁はじめに経験ありき﹂

か らはじめる︒

験﹂は︑云うまでもなく︑あくまでも﹁人間の経験﹂であるが︑その経験の機能︵はたらき︶と内容を究明するこ

とによって︑人間存在︵人間とは何か︶だけでなく︑他のすべてのものも含めて︑存在そのもの︵世界とは何か︶につい

も︑光を当てることが出来るのではあるまいか︒それによってまた︑人間の生き方も︑真理の探究としての学問の在り

も見えてくるのではあるまいか︒そういった予断をたずさえた︑経験についての︑序論的な解明が以下の叙述である︒

(3)

2

じめに経験ありき︑である︒

  我々が︑何を︑どのように問題とするにせよ︑我々において先ず以て︑そこにあるのは︑経験するというはたらきと︑

その所産としての経験内容の合一されたものとしての経験であろう︒経験は︑そのあと︑そのはたらきにせよ︑その所産

としての内容にせよ︑反省的︑分析的に︑さまざまな方法と分類によって区別され︑整理されながら︑問題として深めら

れ︑拡がってゆく︒しかし︑問題は︑どのように取り扱われようとも︑結局ははじめに戻って︑いわぽ経験的に統合され︑

として︑差当り︑その都度解決される︒問題というのは︑解決としいう目的︵おわり︶を予め含んでいる︒そ

に︑はじめに経験ありきというのは︑我々にとって問題になることがらは︑経験にはじまり︑経験におわる︑という

ことである︒

えぽ︑ ﹁地震を経験する﹂という場合を考えてみる︒恐怖と不安は︑当面の自己防衛にはじまり︑将来における対応

策に至るまで︑それぞれの問題意識に応じた問題を生む︒日常的な安全対策も︑科学的研究も︑またその他保険制度の整

備なども︑ここにはじまる︒我々は︑これらの諸側面の現時点における経験的所産の統合をもって︑当面の問題解決とす

る︒そのようにして人間は今日を生き︑明日を迎える︒

らず︑問題にならないことは︑まさに問題外であって︑我々の関知し得ないものである︒そこに経験はない︒

経 験のないところに人間の生活はないのである︒はじめに経験ありき︑というのは︑そういう意味である︒

       ヘ   ヘ       ヘ   へ それでは︑その経験とはいかなるものか︒それは最初にして最後の問題でもある︒差当り︑経験とは人間が世界にかか

(4)

  シ      ヘ  ヤ  わることである︒そして︑人間と世界を貫通し︑両者をかかわらしめるのは自然である︒そういったところに着目するこ

 とからはじめたい︒

自然というのは︑ホッブズの云い方を借りれば︑﹁神がそれによって世界をつくったところの︑そしてそれによって世

界を統治するところのわざ︵③﹃吟︶﹂である︒神がつくったかどうか︑神の問題はさて措く︒ここで我々のいう自然という

 のは︑ホッブズがいうわざ︵それによって示される世界の性質︑本性︑本質︶のことだけでなく︑それによって形成され︑

されているもの︑いわば自然的世界という意味も含む︒また︑自然は人間のわざ︵技術︶によっても模倣されるとす

      ト   ヘ   ヘ   ヘ   へ ぽ︑人為的な文化的世界もまた︑第二の自然として︑自然的世界の裡にある︒

 一方︑人間も自然というわざによってつくられ︑支配されている︒即ち︑人間もまた自然的世界の一部として︑いろい

  ろ機能している自然的存在である︒いわぽ︑人間は人間にとって︑一つの小さな世界である︒

それ故に︑人間が世界にかかわること︑即ち経験には二つのパターンがある︒一つは︑私︵人間︶が私自身︵人間とい

       ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   へ

  う小さな世界︶に︑自覚的に︑内的にかかわり︑かつそのかかわり方の拡張において︑世界︵大きな世界︶にかかわる仕

      ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   へある︒もう一つは︑私︵人間︶が私自身を囲んでいる大きな世界に︑対象的に︑外的にかかわり︑そのかかわり方の

て︑私自身︵小さな世界︶にかかわる仕方である︒

   自覚的経験︑または内的経験︑後者を対象的経験︑または外的経験と名付けて︑差当り区別しておきたい︒例え

ば︑のどの渇きを覚えて水を飲むとか︑腹痛から医者のところへ行くなどという経験は前者であり︑身近かな病人の世話

ることから医者になるとか︑食べすぎて胃をこわすなどという経験は後者である︒しかも︑いつれの︑いかなる経験

よ︑自然のはたらき︵わざ︶が自己貫徹しているということについては︑軌を一にしている︒それなのに︑経験に二の3 パターンがあるとすれば︑自然︵のわざ︶の︑我々に対するはたらきかけの仕方にも︑二つあると云わなければならない︒

(5)

4  フッセルの自然的観方の措定にも︑そのことが示されている︒即ち︑私は﹁唯一の時間︑空間的現実  即ち︑その中      ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へ しそれに対し同様の仕方で関係している所の他のすべての人間と等しく私自身もそれに属している現実  を︑私に

      ︑ ︑ ︑ ︑ ︑      ②

対 するものとして恒常的に手前に在るのを見出す︒﹂つまり︑唯一の時間︑空間的現実︑即ち︑︵自然的︶世界は︑私の手

に︑対象的に存在し︑かつその私自身はその世界に所属している︑含まれているということである︒世界を対象化しそ

界にかかわっている︑その私が世界のなかにいるというのは︑自覚的︑内的な表象にもとつく︑自覚的︑内的な経験

ある︒云うまでもなく︑対象的︑外的な表象にもとつく経験は︑対象的︑外的な経験である︒そして︑この自覚的経験

   の世界と対象的経験の世界は自然によって貫通されている同一のものである︒世界は一つである︒

るに︑我々は経験にはじまり︑経験において︑自然によって世界とのかかわりを持ちつつ︑そのかかわりを深め︑

そのようにして経験しつづける︒我々が︑人間として知り︑かつ行為するということ︑つまり生きるということは︑そう

      ヘ   ヘ      ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ  いうことである︒知るということを学ぶということぽに置き換えて考えてみれば︑自覚的経験においては自然に学び︑対

自然を学ぶということができる︒世界は自然的世界として一つであるから︑両者は相互依存的にから

合っている︒我々は自然に学びながら自然を学び︑自然を学びながら自然に学ぶ︒そのようにして行為する︒学びなが

  ら行為し︑行為しながら学ぶ︒

け︑自然との関係を二つに分けるのは︑それが人間の本性︵自然︶だからである︒しかし︑このこと

分けること︶と︑自然そのものとは同じではない︒即ち︑人間が本性上︑関係的に自然を二つに分けて世界とかかわら

ざるを得ないとしても︑またかかわるとしても︑自然は依然として自然である︒世界が一つで以上︑自然も一つである︒

      ヘ   ヘ   へことを我々は自明のこととして︑自然に学んでいる︒先程のホッブズの﹁自然﹂の説明もそれを示している︒また︑

      ヘ    ヘ    ヘ       ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ  フッセルが自然的観方において︑唯一の時間︑空間的現実︵世界︶と人間を︑二重の仕方でかかわらせているのも︑同様

(6)

そのことを示している︒       ③   ところで︑そのホッブズは︑﹁自然は︑自ら人間に真理を印象づける︵O﹃Oωω︶﹂といっている︒ホッブズのいう真理は︑

       の ある意味で経験を超えた形而上学的なものである︒それは︑原理的に云えば︑ 世界は物体の運動であるということで

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   へ   ある︒その物体の運動というのは︑唯単に︑人間にとって対象的な物体の外的運動だけでなく︑表象し︑自覚し︑行為す

       ヘ   ヘ  カ   へ

  る物体︑即ち人間の内的運動も含まれる︒人間の内的運動というのは︑外的︑および内的な事象の感覚的受容のメカニズ

論のこと︑欲求や嫌悪  一般的に云って努力︵OO合OP<O已﹁︶  として自覚される自然的運動︑いわゆる自然的

欲求︑自然的嫌悪︑およびその変容のことである︒ホヅブズは︑このような人間の欲求や嫌悪などを︑ ﹁ふつう情念      ㈲Opωω﹂oロ︶とよぼれる︑意志による運動︵行為ー筆者︶の内的端緒︵日9ユo﹃ぴo笹口巳p険︶Lといっている︒努力とは︑       ︑     ⑥

  目に見えない運動のことである︒

自然は︑自ら人間に真理を印象づける﹂ということで︑ホッブズが云わんとすることは︑物体の運動の真相︵世界の

在 り様︶は︑外的運動についても︑内的運動についても︑自然に︵まさに︑おのつから︶与えられる︑ということである︒

  従って︑自然をそのまま受け容れることが真理である︑ということである︒

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ こういう見方をとれぽ︑内的な︑自覚的経験において︑自然に学ぶことによって得られたものは︑外的な︑対象的経験

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

て︑自然を学ぶことによって得られたものと全く同様に真理であるはずである︒そうであるならば︑自然に学ぶと

うことはどういうことなのか︑ここで改めて見直す必要がある︒その上で︑それを自然を学ぶこと︵その典型が近代科

学である︶とがどう結びつくのか︑どう結びつけるのが自然か︑つまり真理か︒それを問わなけれぽならない︒

5

(7)

6

自然に学ぶことと︑自然を学ぶことを区別することに関しては︑ホッブズと同時代人であるデカルトの﹁省察﹂Wが極

唆に富んでいる︒そこでは︑感覚を媒介とする︑人間と自然のかかわりが述べられている︒

カルトは﹁省察﹂Wの冒頭において︑人間の純粋な知性作用︵言苫巨9=oo自o昌︶と想像作用︵一旨①゜qぎ旬江o昌︶を区  m別する︒そして︑その想像作用を︑精神とは別個で︑しかも精神と結合している物体的なもの︑即ち身体に依存させてい

る︒その上で︑形︑大きさのほか︑色︑音︑味︑苦痛といった想像を︑記憶を間にはさんで︑感覚に還元する︒ ︵ホップ      ⑧

も︑想像はおとろえゆく感覚であり︑また想像と記憶は同じものである︒︶

  その感覚は内部感覚と外部感覚に区別される︒前者は︑身体内の苦痛︑快楽の感覚︑また飢え︑渇きといった欲求の感

覚などである︒後者は︑身体︑および身体外の物体の形︑大きさ︑運動の感覚︑また堅さ︑光︑色︑そのさまざまな変化

覚である︒この二つの感覚が区別される理由について︑デカルトは︑﹁私︵11精神のことー筆者︶は身体以外の物       ⑨体からは切り離されることはできるが︑それと同じように身体から切り離されることはできはしなかった﹂し︑また﹁私

は︑苦痛の感じや快楽の操りに︑身体の部分において気づいていたが︑身体の外に存する他の物体においては気づくこと    帥なかった﹂からである︑と云っている︒そして︑内部感覚については︑﹁なぜ︑飢えと私の呼んでいるところの︑あの

       ヘ    ヘ    へ    め    ヘ    ヘ    ヘ    シ    ヘ    ヘ    ヘ    へ何か知らぬ胃の締めつけが︑食物をとることについて私に告げしらせるのか⁝⁝については︑自然が私にそのように教え       り

暮ξo冨c°q宮日●8°⁝︶から︑という以外には︑他の理由を私は別段もっていたわけではないのである︒﹂

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へといっている︒ここに︑我々は︑自然に学ぶという︑自然を主体︑または主語とする︑人間と自然のかかわり方の一つの

(8)

 パターンを見出すことができる︒このかかわりは否応なく︑人間の取捨選択が許されない︒

      ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ト    ヘ    ヘ    へ  一方︑外部感覚についてはは︑ ﹁私の感覚の対象に関する︑その他のすべての判断を︑私は自然から学んだ︵︻げρ口       ⑫       ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ いo曽白Φ臼怜o日昌巴ξP−・︶ように思えた︒﹂といっている︒ここに︑我々は︑自然を学ぶという︑人間を主体︑または

とする︑人間と自然のかかわり方の︑もう一つのパターンを見出すことができるのである︒このかかわりは︑時と場

合により人間の取捨選択が可能である︒

我々は︑︵自然が私に教えることを︶自然に学び︑︵私が自然から学ぶことによって︶自然を学ぶ︒そうすることによっ

   て︑自己を知り︑世界を知り︑存在の真理に近づこうとする︒

    さきほど︑ホッブズに即して︑ 自然をそのまま受け容れることが真理であるということを指摘した︒この点に関し

 ては︑同時代人デカルトにおいても何ら異るものではない︒即ち︑デカルトはいう︒﹁一般的に考えられた自然によって︑

 いま私が知解しているのは︑神そのもののことか︑または神が被造物のうちに確立した秩序と性質か︑のいつれかにほか

ならない︒また︑個別態における私の自然によって︑私が知解しているのは︑神が私に与えたものすべてを複合したもの

 にほかならない︒それ故に︑何んと云っても自然が私に教えるものすべてのうちに︑或る真理が含まれているということ

は︑疑いないのである︒﹂従って︑﹁私が身体を持っていて︑この身体は︑私が苦痛を感覚するという場合にはその加減が

く︑私が飢えに襲われるという場合には食物あるいは飲料を必要とする⁝⁝︒こういったことすべてのうちには或る真

      ⑭

あるということを︑私は疑うことができない﹂と︑いうわけである︒

に︑時として︑人間の感覚は自然的に欺かれる︒時々︑自然は人間を欺く︒デカルトも︑脚とか腕を切断した人び

と︵彼らはそれでも苦痛を︑その失くした身体の部分に感覚するように思う︶や︑水腫病に冒された人びと︵彼らは喉の

︑ 渇きによって︑病気を重くするような飲料をとってしまう︶の例をあげてい郁︒しかし︑感覚による自然の過誤は︑何も

(9)

8 内部感覚に限らず︑外部感覚においても同様である︒例えぽ︑月は時により︑所によって︑大きさが異って見える︒いつ       個

よ︑これらはすべて自然が人間に思い知らせるところの︑人間の不完全性︑ ﹁人間的自然の弱点﹂としか云いよう

ない︒それでも我々は感覚によらなければ自然︵的世界︶にかかわることができないのであるから︑真理に一歩でも近

くためには︑感覚に頼り︑感覚を使用しなけれぽならないのである︒そして︑何んと云っても︑﹁感覚は偽なるものよ      ⑰り真なるものを︑はるかにいっそう頻繁に報知する﹂のであるから︑真偽を区別し︑自然に欺かれないために︑可能な限

りの感覚︑記憶︑および知性が総動員されなけれぽならない︒しかし︑いつれにせよ︑自然に欺かれずに真理に近づくこ

とを可能にする土台は経験以外にはないのである︒

るにあたって︑ここで︑くりかえし指摘しておかなけれぽならないことは︑以上のように︑たとえ時とし

自然が人間を欺くとしても︑感覚を使用し︑感覚をとおして人間が自然にかかわるとき︑内部感覚により自然に学ぶこ

とと︑外部感覚により自然を学ぶことは︑世界そのものの真相に関するかぎり︑決して切り離すことができないものであ

る︑ということである︒何故ならぽ︑もし両者を切り離すことができるとすれぽ︑また切り離さなけれぽならないとすれ

ぽ︑自然が二つあることになるからである︒

自然は一つである︒ただその自然と人間との関係の仕方に二つあるというだけである︒関係の仕方のちがいによって自

然が別様に示されるだけである︒つぎに︑その点に立ち入って考えたい︒

えば︑時計は正しく時を報じるのが本性︵自然︶である︒従って︑﹁時を正しく報じない場合︑その時計は自己の自        ㈱ ら逸脱している﹂のである︒しかし︑同時に︑時計は︑正しく時を報じる場合も︑またそうでない場合も︑時計は時

計であって︑すべて自然︵の法則︶を守っている︒自然に従っているのである︒つまり︑正しく時を報じない場合︑その

原因は必ずあるのである︒その原因の究明は︑自然を学ぶことによってなされる︒しかし︑時間︑空間的現実の裡にある

(10)

       ヘ   ヘ  ヘ   ヘ         ヘ  へ   時計は︑仲々製作老や使用者を満足させない︒時計が正しく時を報じないのはおかしいし︑困るのである︒おかしいとか︑

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 困るということを︑我々は自然に学ぶ︒だからこそ我々は︑自然を学ぶことによって︑その原因を明らかにし︑時を正し

  く報じるものを作ろうとする︒努力する︒

  同様にして︑空腹の人間は︑その解消を欲し︑食料や飲みものを求める︒病人は健康の恢復を欲求する︒それが人間の

本性︵自然︶であり︑そのことの裡に真理が含まれている︒それ故に︑空腹の人間や病人は自然を逸脱しているのである︒

そのことを我々は自然に学ぶ︒そして︑同時に︑空腹の人間も病人も自然に従っており︑それぞれの人間が︑それぞれに

そうである原因を必ず持っているのである︒そのことを我々は︑自然を学ぶことによって知ることができる︒しかも︑空

腹の人間や病人に限らず︑この現実の世界の裡なる如何なる人間も︑それ以上に何も求め︑欲しないような︑完全な在り

方を常に維持しているわけではない︒これを我々は経験的︑自覚的に︑自然に学ぶ︒完全でないが故に完全を求める︒自

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ しているが故に︑自然の復元を求める︒そこに問題が生じる︒だからこそ︑その自然の復元という問題を解決す

  るために︑経験的︑対象的に︑自然を学ぶ︒

間は自然を逸脱し︑自然に従っていないにも拘らず︑しかも自然に従っている︒そこでは︑人間の目的志向性と因果

して一体をなしている︒このように︑一見して︑論理的には矛盾対立しているもの︑即ち自然に学ぶことと

自然を学ぶことを︑本質的にはその順序に︵﹁だからこそ﹂として︶結びつけるのは経験以外にはない︒それが経験の最

も重要な機能の一つである︒

9

(11)

0  経験する︵人間が世界とかかわる︶ということは︑時間の流れの裡においてのみ︑はじめて可能である︒経験するのは1 常に現在︵いま︶であるが︑自然に学ぶことにより︑人間は常に現在を未来にかかわらせ︑欲求を実現しようとして︑未

  来に規定された現在を意識する︒一方︑自然を学ぶことにおいて︑人間は常に現在を過去にかかわらせ︑原因を明らかに

  しようとして︑過去に規定された現在を意識する︒そして︑いつれの場合の現在も︑同時に︑過去︑現在︑未来という時

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

  間の流れの裡を︑未来に向って連続的に運動する︒この常に運動している現在においてのみ在る︑運動としての経験が︑

自然に学ぶことと自然を学ぶことを︑それ故にまた︑目的性と因果性を︑時間の流れの裡で︑いわぽ表裏一体のものとし

   て結びつけているのである︒

じめに思考ありき︑ つまりコギト︵ooぴq一9︶からはじめたデカルトは︑自覚的自然の抽象的担い手を精神︵理

性︶と名付け︑対象的自然の抽象的担い手を物質と名付け︑それぞれを実体と称した︒実体とは何かが充分に問われない

  ままに︑デカルトの物心二元論的世界観は構築されている︒その最大の欠陥は︑心身結合体としての人間の問題を︑理性

      胸 としては︑﹁明白確実に﹂扱うことができないことである︒これまでのところで︑しぽしば引用してきた︑デカルトの

 ﹁省察﹂からの引用は︑感覚的︑経験的に︑心身結合体としての人間を問題にしており︑それらの言及は︑理性主義的な

物心二元論とは必ずしも相容れない内容である︒﹁三領域iー精神︵心︶︑物質︵身体︶︑および心身結合体としての人間

者の註︶ーそれぞれの本質的相違性︑または異種性  それは必ず気づかれることであるが  は理性の要求とい

う照明のもとにおいてのみ現れるのであって︑事物の本性︵自然︶についての言明ではない︒﹂のである︒理性は自然を

   否できない︒従って︑経験を否定することはできないのである︒むしろ︑理性は経験に従わなけれぽならないのであ       ヘ   へ

  る︒特に︑自然を学ぶというときの自然を︑ ﹁対象的実体﹂に化して︑そのようなものとしてのみ自然的世界が存在する    と速断するのは明らかに一面的である︒そうではなく︑その自然は︑自然に学ぶというときの自然と同一のものとしてう

(12)

  けとめられなけれぽならない︒つまり︑自然というのは︑人間が︵自然的︶世界とかかわる︑そのかかわり方によって︑

  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へそれぞれに︑人間に気づかれ︑知られるものとして︑いわぽ現象論的に︵実体論的にでなく︶理解されなけれぽならな

  いo  このように考えることで︑対象化原理にもとずく近代自然科学は︑何の被害もうけないのである︒むしろ︑自然に学ぶ

こととの一体性を受け容れることによって︑更に存在の真理に近づくということができるのである︒

  さきほど︑運動としての経験︑即ち経験の運動性を指摘した︒人間と世界のかかわりである経験の本質は︑この運動性︑

間性にある︒経験するもの︵人間︶も︑経験されるもの︵世界︶も︑常に運動︑即ち時間の裡にある︒これが人間も含

て︑自然的世界の本性である︒ここで︑その運動の本性的内容について︑自然が人間に教えていること︵自然に学ぶこ

   と︶はどういうことかに目を向けておきたい︒即ち︑人間は本性上︑どのように運動しているのか︑また人間に限らず自

   的世界のすべてのものが︑どのように運動しているのか︑という問題である︒いわぽ︑自然的世界の運動の原理の問題

ある︒

   まえに述べたように︑病人は健康の恢復を求める︒完全でないが故に完全を求める︒自然を逸脱しているが故に自然の

  求める︒そのような人間の努力と行為  いつれも人間の運動ーにおいて︑自然に学ぶことに自然を学ぶことが

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   へ

取 り込まれ︑両者は結合する︒人間は自ら自然を維持するように運動する︒ホッブズの自然権の考え方もこれに相当する︒

ち︑ホッブズによれぽ︑ ﹁一般に自然権︵冒ω2巴ξ巴o︶とよぶ︑自然の権利とは︑各人が︑かれ自身の自然︑即ち

自身の生命を維持するために︑かれ自身の欲するままに︑かれ自身の力をもちいるという︑各人の自由である︒した

て︑かれの判断と理性において︑そのためにもっともてきとうな手段だとおもわれるあらゆることを行なう︑自由で

ユ      − ある︒自由とは⁝⁝外的障害の存在しないこと当である︒人間的自然における自然は︑生命の維持にせよ︑健康の獲得に

(13)

       ト  ト  ト  も  ト  ト  へ2 せよ︑また一般に︑欲求の充足にせよ︑いつれにせよ自覚的経験に基づいて云えることは︑一貫して自己保存の原理が貫1

るということである︒

間的自然の運動の原理は自己保存の原理である︑ということができる︒自然に学ぶことによって人間は︑そのことを

る︒自己保存というのは︑一般に︑自然の秩序に従い︑自然の支配に則って︑存在するものの本質にかわることなく内

在 している目的を実現しようとする︑存在するものの努力を意味する︑と思われる︒それゆえに︑この自己保存の原理は︑

我々が自然に学ぶことからはじめて自然を学ぶとき︑人間的自然をこえて自然全体を貫いていることに気付く︒それゆえ

に︑次のような指摘は︑自然に︑明白に受け容れることができるのである︒﹁ニュートン物理学の基本的前提によれぽ︑

  あらゆる物体は︑外力がくわわらぬ限り︑静止ないし一様に直線的な運動の状態にある︒市民的社会哲学と経済学の基本

的前提によれぽ︑あらゆる個人は︑合理的に︑みずからよく理解した自分の利害関心にしたがうことによって︑社会的に

活を営む︒ダーウィンの生物学と今日のシステム理論の基本的前提によれば︑およそ︑有機体︑群︑システムは︑すべ

な︑複雑きわまる環境にたいして︑自己の生活領域を区画し︑かつそれに適応することによって︑その生存を維

す るのである︒﹂

   ニュートン物理学の基本的前提とは︑云うまでもなく︑運動の第一法則︵慣性の法則︶のことである︒この︑一般に云

う慣性の法則︑または慣性原理については︑すでに︑ホッブズも言及している︒﹁ひとつのものが静止しているばあいに︑

  なにか他のものがそれを動かさぬかぎり︑それは永久に静止しているだろう︑ということは︑誰もうたがわぬ真理である︒

      ㈱   ⁝⁝物体が︑ひとたび運動するときは︑それは︑他のあるものがそれを阻止せぬかぎり︑永遠に運動する︒﹂また︑デカ      ⑭ トも︑それを﹁自然の第一法則︵けげoS障ω古庁乞oS昌①言﹁o︶﹂として︑とりあげている︒

  慣性の法則は︑つまり自己保存の原理である︒例えば︑ビリヤードの玉は︑時により︑さまざまな力によって突かれ︑

(14)

どんなに複雑な運動をしていても︑慣性の法則を逸脱しているわけではない︒そして︑自己保存の原理に従っている︒た

だ︑外的障害︵人間でいえぽ邪魔︶がはいっているだけである︒そして︑人間なら邪魔されると文句を云い出すが︑ビリ

ードの玉は︑人間とちがって︑異議申し立てをしないだけである︒玉は自覚しないかもしれないが︑自分に外力が働く

問題のはじまりである︒そして同時に︑その玉の運動は︑対象的自然としては︑因果必然的に︑力学的に︑精緻な説

明が可能である︒

このように︑自己保存の原理は︑自然的世界を貫通しているということができる︒しかし︑確かに︑この原理を基本的

前提として認めるとしても︑この原理がどのような仕方であてはまるかは︑無生物︑生物︑そして人間等々︑それぞれの

自然的なものの本性によって︑さまざまに異る︒そのことを我々は︑自然を学ぶことによって知ることができる︒即ち︑

自己保存の原理に対し︑無生物は受動的にのみ妥当し︑生物は︑いわば条件反射的に︵受動的ではあるが︑ものによって

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へは︑あたかも自然に学び︑自然を学んで環境に適応するかのごとくに︶妥当し︑そして人間は︑能動的に︵本性上︑自然

び︑自然を学ことによって︑まさに合理的に環境に適応する仕方で︶妥当する︒しかしながら︑いつれにせよ︑すべ

自然的物体は︑自己保存の原理に基づいて運動している︑と云うことができる︒そして︑この運動は︑対象的にみれ

ぽ︑すべて因果必然の運動である︒

     四

   まえて︑ここで経験の構造を明らかにし︑それによって経験の権利と限界を明らかにしたい︒

3ユ       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ    とは︑はじめに指摘したごとく︑自然において︑人間が世界とかかわることである︒自然においてが何を意味する

(15)

14 究明は暫く措き︑まず︑人間と世界とのかかわり方についていえぽ︑それは二通りある︒それは人間からみて︑受動

と能動的の二通りである︒これまで主としてとりあげてきた︑自然に学ぶことと自然を学ぶことは︑自覚的に気付くと

う仕方と︑対象的に理解するという仕方のちがいに関する限り︑前老の受動性︑後老の能動性という区別をすることは

きる︒しかし︑自然について何かを受容する︵学ぶ︶という点において︑いつれも広い意味においては受動的である︒

これは知識の領域である︒もう一つの人間と世界とのかかわり方は︑人間が世界に対し積極的︑能動的に働きかける仕方

ある︒これは行為の領域である︒経験は知識と行為をともに含んだものである︒知識は受動的経験であり︑行為は能動

的経験である︒前老は発見であり︑後者は発明であると云ってもよい︒

と行為を含んだ経験を︑構造的に云えば︑自然に学ぶことが︑その中核をなしている︒即ち︑これまで述べて来て

明らかなごとく︑自然に学ぶことは︑自然を学ぶことに結びつき︑かつ︑それとともに︑行為に連続する︒病人は健康の

を欲求し︑病気の原因を明らかにし︑健康をめざして努力し︑振舞う︒自然に学ぶということは︑対象的知識︑およ

行為いつれもの端緒である︒それ故に︑経験の中核として︑知識と行為を構造的に一つのものにしているのである︒

  自然に学ぶことも︑自然を学ぶこと︵科学︶と同じように︑それ自体として︑学問の領域を形成するはずのものである︒

えば︑デカルトの﹁情念論﹂に︑その可能性を見出すことができる︒しかし︑デカルトの場合は︑理性主義的な︑実体

論 的物心二元論が前提されているため︑いかにしても︑ ︵デカルトのいう心身結合体としての︶人間を︑整合性をもって

扱 うことができない︒デカルト自身︑つぎのように云っている︒﹁人間の精神が︑魂と肉体の区別と︑その結びつきを︑

      ㈱きわめて判明に︑それでいていちどきに理解することが出来るとは︑私には思われない︒﹂従って︑自然に学ぶことが︑      ヘ   へ内的経験の学として成立しにくい難点を持っている︒それ故に︑精神︵魂︶と物質︵肉体︶が実体であるということはど

ういうことか︑それを改めて吟味し︑そこから理性と経験の関係を明らかにすることによって︑はじめてデカルトの世界

(16)

観は完成すると思われる︒その究明は後日を期さなけれぽならない︒

よ︑経験は︑自然に学ぶことからはじまって︑知識と行為を結びつけ一体のものとする︒そこに経験の構造

される︒そして︑この経験の構造性を時間の流れの裡に置き︑経験の運動性︵過去︑現在︑未来と連続する時間

   性︶が︑そこに備わることによって︑最終的に︑経験の真実の姿があらわになる︒この経験において︑この経験のうちに

  人間は生きているのである︒

された問題は︑先程︑経験とは︑自然において︑人間が世界とかかわることである︑といったときの︑自然において

何を意味するかの問題である︒ここで経験と形而上学との関係を明らかにしたい︒それは︑形而上学とは何かの問題で

  もある︒

験 は︑自然においてなされる︒自然を媒介としてなされる︒ホッブズは︑先に引用したように︑自然とは︑ ﹁神がそ よって世界をつくったところの︑そしてそれによって世界を統治するところのわざ︵自﹃吟︶﹂である︑と云った︑デカ      ヘ   ヘ トにおいても同類である︒神がつくったかどうか︑神とは何か︑それは自然を︑つまり経験をこえている︒また︑自然

  も︑人間の作ったことぽであり︑経験的概念である︒それ故に︑経験において︑自然において︑自然を媒介として人間が

      ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  へ 界は︑過去︑現在において︑また恐らくは未来においても︑実は自然的世界︑経験的世界であって︑世界そ

  ヘ   ヘ   へ

ものではない︒世界そのものがどのようなものであるか︑それは経験をこえているが故に︑我々は知らないのである︒

従って︑また自然に学び︑自然を学ぶことによって人間が働きかける︑行為の対象も︑かかかがでかかは︑それは自然的と       閻 界であって︑世界そのものではない︒世界そのものは︑人間の経験にとって隠されたままの大陸である︒そのよう

  な世界そのもの︵経験をこえたもの︑自然的世界の背後に︑その奥にあるもの︶︑それが形而上学︵日o冨℃庁ぺω一〇ω︶の対

− 象である︒存右である︒それは︑少なくとも自然的︑経験的知識の内容にはなり得ないのである︒

(17)

16 は︑その本質的運動性︵時間性︶によって︑完結していない︒たとえ︑未来をさきどり︵推測︶したとしても︑現

在の経験が世界そのものを全く経験しつくしたかどうかの保証はどこにもない︒ここに経験の限界がある︒しかし︑それ

とともに︑経験は︑常に︑未来につづく連続的な現在において︑世界そのもの︵存在︶から学び︑かつ︑それに働きかけ

ることができる︒それは経験にのみ許される権利である︒我々は経験の権利と限界において︑形而上学的存在とかかわる︒

ると同時に︑その形而上学によって存在から遮断される︒また︑形而上学は︑自らを経験と切

り離さない限りにおいて︑その存在理由を失なわない︒この︑経験と形而上学の関連の裡に︑真理の探求や如何に生きる

       ヘ   へ

べ きかの問題の根拠があるのである︒そして︑はじめに経験ありき︑である︒

 ︵一九九〇・一二=︶

ω 弓犀︒国旨ぴq一︷ω●乏o済ψ︒oS弓庁o日器国︒σσo竺くo一゜ωO﹂×°水田洋訳﹁リヴァイアサンω﹂︵岩波文庫︶三七頁︒

口βωi−雪目①ロ黛切阜目u℃°oω池上訳﹁純粋現象学及現象学的哲学考案︵上︶﹂︵岩波文庫︶ 一一一頁︒傍点は筆者︒

㈲ 出oOぴoω戸巨Oこ戸ωΦ同上︑九六頁︒

 この命題はホッブズ哲学の核心である︒その真理性についての論究は︑星薬科大学紀要︑二二号︵一九八〇年︶︑拙文﹁ホッブズの

物 体⁝元論について﹂を参照されたい︒

㈲ 国o●●oρ声σ︷臼二∨ω︒︒−同上︑九五頁︒

国oσσoω−ま戸やωO一同上︑九五頁以下︒

ω 弓庁o勺巨ざc︒8匿o巴綱自丙ωo冷9のS詳①ω︵OP巳Pげ﹃一〇ひqO⁝︶<o一.H.P﹂°︒切h廿所雄章訳﹁デカルト著作集2︵省察︶﹂︵白水社︶九

 三頁以下︒

出o●げoρま戸︑Oげ旬pや同上︑第二章︒

(18)

⑨ 9ω8詳oω゜一露臼こo□°︒°︒同上︑九七頁︒

9ω8詳㊥p︷宮△こo°H°︒c︒同上︑九七頁︒

ω 9ω8詳oω−︷ぴ宣G°H°︒°︒∨同上︑九七頁以下︒傍点は筆者︒

⑫ 9︒︒8耳︒ρ吉置⁝o﹂︒︒c︒°陳︑同上︑九八頁︒傍点は筆者︒

9ω8詳09ま置⁝o°戸ΦN同上︑一〇二頁︒

9ωop詳o夕ま︷貸o°﹂ON同上︑ 一〇二頁︒

OOω8詳Oρま庄⁝O°H°︒9HO切︑同上︑九八︑一〇六頁︒

Ooω8詳o望庄庄⁝℃°﹂ΦP同上︑一一三頁︒

9乙・op詳o酌ピ匡⁝戸HΦc︒同上︑一一一頁︒

9ω8詳09ま庄⁝o°H㊤9同上︑一〇七頁︒

09 00ω8詳霧一ひ置⁝O°HON一一一宅・小池訳﹁デカルト著作集1︵方法序説︶﹂︵白水社︶三九頁︒

⑳ 国゜民Φロ巳旨σq9ロ⁝9ωo巽需ωpロ合呂pω富蔓o︵2暮旨o°︵m°勾゜Q力巳o汀お9°⁝○お③巳ω日w﹈≦o巳oぎp ①コ臼﹈≦o汁eげ尾c力ざω゜H㊤∨◎︒°

O.困o匡巴勺已庄声ω巨づσqOoも゜巴ρ︶

 国oO●o°り臣庄⁝u°HH9同上︑二〇八頁︒

S 出ρげ2目Pω⁝弓9︒吟8画・ωパ︒日日匡巳苔寸写①ロロ昌合一P9・お゜︒9︵Q力β冨訂日O<6巳①ぴq︶ロ臼︹℃認9ハーバーマス﹁コミュニ イション的行為の理論︵中︶﹂藤沢他訳︵未来社︶︑一五七頁︒

倒 ロoげ∀①ω.ま置⁝o°ω﹈︹同上︑四七頁以下︒

    9︒︒8詳︒ρ昔庄⁝o°N①Sゴ一輪・本多訳﹁デカルト著作集3︵哲学原理︶﹂︵白水社︶一〇三頁︒

識 −行為﹂と﹁発干発明﹂の比嘆検討については︑﹃星薬科大学一般教育論集﹄︑第四輯二九八七年︶︑拙文﹁知と生に関

 する一考察﹂を参照されたい︒と  ㈱ 竹田篤司訳﹁デカルト著作集3︵書簡集︶﹂︵白水社︶二九六頁︒

旨 ロ①ぴo吋日四p苦庄⁝u°︽切ト︒同上︑八四頁︒

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