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野呂栄太郎の天皇制国家論(三)

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(1)

野 呂 栄 太 郎 の 天 皇 制 国 家 論

︵ 三

− 野呂栄太郎論︵2の中・二︶ −

山     本     義     彦

Ⅰ   問   題   の   所   在

Ⅰ 野呂栄太郎における天皇制国家論

1 ﹁

発 達

史 ﹂

︑ ﹁

諸 条

件 ﹂

を 中

心 に

︵ 以

上 ︑

第 二

五 巻

一 号

Ⅱ 天皇制国家論構築のための基礎視点

−絶対主義・ボナパルティズム論の検討1

課 題 の 設 定

一最近の天皇制国家論の一傾向

二 マルクス・エンゲルスの絶対主義・ボナパルティズム論と天皇制国家

︵ そ

の 1

︶  

二 八

四 八

年 ﹂

  二

八 五

二 年

﹂ の

時 期

t5日4)(3)(2)(1)

フランスにおける階級闘争

ドイツ国憲法戦役

一八五〇年前半の一連の評論等から

ドイツ農民戦争

(2)

㈲ ドイツにおける革命と反革命

m

㈱一八五二年−一八五三年三月の若干の論説から

三 マルクス・エンゲルスの絶対主義・ボナパルティズム諭と天皇制国家

2

Ⅳ むすぴー天皇制絶対主義論の展望

マルクス ドイツにおける革命と反革命︵一八五一−一八五二年執筆︶

この論文において︑マルクスは︑一八四八年のドイツ︑オーストリアの挫折革命の経過を明らかにしている︒

﹁ヨーロッパ大陸における革命劇の第一幕は終わった︒一八四八年の嵐のまえにあった﹃過去の権力﹄が︑ふたたび﹃

現 在

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力 ﹄

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らにその敗北とを不可避とした原因⁝は︑⁝動乱を起こしたそれぞれの国民の一般的な社会状態と生活条件とに求めなけ

ればならないのである︒﹂ ︵旨註こいの︶

﹁革命が勃発したときのドイツの状態⁝ほとんどどこでも封建的な土地保有制度がおこなわれていた︒⁝政府の高官⁝

軍隊の将校も︑彼ら︹封建貴族︺がほとんど一手で供給していた︒/ドイツのブルジョアジーは︑富の点でも集中度の点

で も

︑ フ ラ ン ス ま た は イ ギ リ ス の ブ ル ジ ョ ア ジ ー に 遠 く 及 ば な か っ た

⁝ ド イ ツ の 工 業 が こ の よ う に お く れ た 原 因 は

第一に︺ 世界通商の大公道となっていた大西洋から隔たっているこの国の不利な地理上の位置と︑︹第二に︺一六世紀以

(3)

来今日までドイツがひっきりなしに戦争にまきこまれ︑しかもその戦争がドイツの土地で戦われたという事情とである︒

ィギリスのブルジョアジーは遠く一六八八年以来政治的支配権を享有していたし︑またフランスのブルジョアジーは一七

八 九

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げたものは︑数がとぼしく︑とくに集中された数がまったく欠けていたというこの事情であった︒﹂︵賢㌣S.700︶﹁た

しかに︑一八一八年のプロイセンの保護関税と関税同盟NO≡ereiロの成立とは︑ドイツの商工業者にとって︑⁝ずっと大

きな値うちがあった︒こうして富が増大し︑商業が拡張するにつれて︑ブルジョアジーは︑まもなく︑国の政治制度die

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− i t i s c h e g r f a s s u n g d e S L a n d e s の た め に ー つ ま り

︑ ド イ ツ が ︑ あ い 反 す る 志 向 と 気 ま ぐ れ を も っ た 三 六 人 の 君 主

のあいだにでたらめに分割されていること︑農業や農業に関連した工業が封建的な束縛にしはられていること︑彼らのあ

らゆる取引が無知であつかましい官僚のさしでがましい監督をうけていることなどのために︑自分たちのもっとも重要な

利益の伸長が妨げられていることに気がつく段階に到達した︒⁝ドイツの中間階級が︑政治権力をめざす最初の真剣な闘

争に勝利をおさめた⁝この変化は︑一八四〇年︑すなわちプロイセンのブルジョアジーがドイツの中間階級の運動の先頭

に立ったときに︑始まったとみてよい︒﹂︵賢㌣S・豊﹁ドイツでは階級としての大資本家と大工業家の発達が弱かった

ため︑小商工業者の階級がこの国ではきわめて多数である︒大都市ではこの階級が住民のほとんど過半数を占めており︑

小都市ではこれと勢力を争うより富裕な競争相手がいないため︑この階級が完全に優勢である︒この階級は︑あらゆる近

代国家で︑また近代のすべての革命できわめて重要な階級であるが︑ドイツではその重要性はいっそう大きく︑ここでは

最近の諸闘争のさいにこの階級が一般に決定的な役割を演じた︒﹂ ︵諌早S.豊

﹁ドイツでは︑労働者階級の大多数は︑イギリスがあのようなりっぱな見本を提供している近代の工業貴族に雇われて

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(4)

野呂栄太郎の天皇制国家論︵三︶       二七〇 いような小手工業者たちに雇われていた︒⁝近代的な生活条件︑近代的な工業生産様式の全般的な欠如des agemeiロeロ

F a h − e ロ S   m O d e r ロ e r   L e b e ロ S く e r h 巴 t ロ i s s e   u ロ d   m O d e r ロ e r   i ロ d u s t r i e e

r   P r O d u k t i O n S W e i s e ロ   に と も な っ て

︑ も ち ろ

ん︑近代思想も同じくらい全般的に欠けていた︒だから︑革命が勃発したときに︑労働者階級の大きな部分がギルドや中

世的な特権的同職団体の即時復興を叫んだことも︑不思議ではない︒﹂ ︵旨叫㌣S.︶

﹁最後に︑小農業者︑すなわち農民の膨大な階級があった︒この階級は︑それに付属する農業労働者と合わせて︑全国 民の大多数を占めている︒⁝第一に︑富裕な農業者︑ドイツで大農および中農GrOロund MitteTBauerロとよばれてい fr ei en  K

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ていたライン州で優勢であった︒⁝以前に彼らの土地に課せられていた封建的負担を鏑却することに成功したのであった︒

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﹁ドイツの小君主たちk−eiロeren deutscheロF賢steロは︑一つにはオーストリアとプロイセンの覇権にたいする︑さら

に自国内貴族の勢力にたいするもっと大きな独立性を確保するために︑また一つにはヴィーン会議によって彼らの支配下

に併合されたばらばらの諸州を一体に統合する目的で︑多少とも自由主義的な性格をもったく○ロmehr Oder weロiger

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− e n   C h a r a k t e r 憲 法 を あ い つ い で 与 え た

︒ そ う し て も

︑ 彼 ら 自 身 に は な ん の 危 険 が あ る わ け で も な か っ た ︒ と い う の は︑もしオーストリアとプロイセンの偵偏にすぎない連邦議会が主権者としての彼らの独立性を侵害しょうとすれば︑連

邦議会の押しっけに反抗するうえで世論と議院Kammerとの支持を頼めるということを︑彼らは知っていたし︑また反対

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思うままに動かすことができたからである︒﹂︵旨叫㌣S.−A︶﹁ドイツ精神の発展のもっとも複雑な︑だが同時にもっとも確

(5)

かな温度計であるドイツ哲学も︑ヘーゲルがその﹃法哲学﹄で︑立憲君主制こそ︑終局の︑もっとも完全な統治形態h腎hste︐

く ○ k O m m e ロ S t e   R e g i e r u ロ g S f O r m   で あ る ︑ と 公 言 し た と き ︑ 中 間 階 級 に 味 方 す る こ と を 声 明 し た の で あ っ た ︒ い い か

えれば︑ヘーゲルは︑この国の中間階級が政権をにざる日が近づいていることを宣言したのである︒﹂ ︵旨叫㌣S.−∽︶

﹁ドイツのブルジョアジーが反政府の旗をあげたのは︑一八四〇年︑すなわち一八一五年の神聖同盟の創立者中の最後

の生存者であったプロイセンの先国王︹フリードリヒ・ヴィルヘルム三世︺が死んだときに始まったと見てよい︒新王が︑

その父の官僚・軍事臭の強い君主制の支持者でないことは︑よく知られていた︒かつてフランスの中間階級がルイ一六世

世にかけたのであった︒⁝/⁝彼は︑プロイセン君主制の官僚的要素を憎み︑軽蔑していたが︑それというのも︑彼の共感

があげて封建的要素によせられていたからにすぎない︒⁝国王は︑貴族の優越した社会的地位をできるだけ完全に復活す

ることを目標としていた︒⁝国王が完全な行動の独立性を保つことのできるよう︑これらの種姓または﹃帝国等族﹄の全

体が︑権力と勢力においてたがいにみごとな均衡を保つようにする − これが︑フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が当時

実現しょうと企て︑そして現在また実現しょうと試みている︒うるわしい理想beauidかa−だったのである︒﹂︵無さ㌣S・

︸T︸00︶ ﹁あわれにも︑その中世趣味にたいして経済的困難という痛烈きわまる風刺を受け取った国王は︑忘れられて久

しい一八三年と一八一五年の約束の最後の名ごりとして︑一八二〇年の法律に体現されていた︑あの﹃人民代議機関﹄

にたいする人民の声高な要望に︑なにかささやかな譲歩を与えないかぎり︑統治をつづけることは不可能だということに︑

すぐに気がついた︒⁝各州議会の常任委員会の合同会議を召集することだ︑と国王は考えた︒この州議会というのは︑一

八二三年に設けられたものであった︒﹂ ︵旨声S.−豊 ﹁これらの八つの州議会はそれぞれ一つの委員会を選出していた

が︑いまこの八つの委員会が︑熱望された借款を可決する目的で一つの代議制議会をかたちづくるために︑ベルリンに召

(6)

集されたのである︒⁝しかし︑合同委員会は︑自分たちには人民代表として行動する資格がない︑と宣言して︑国王の要

求をきっぱりと拒絶したうえ︑陛下に︑彼の父王がナポレオンとたたかうため人民の協力を必要としたときに与えた代議

制憲法の約束を履行して欲しい︑と要求した︒/合同委員会の会議が証明したことは︑反政府精神がもはやブルジョアジ

ーだけに限られないことであった︒農民の一部がブルジョアジーに加担していたし︑多数の貴族も︑各自の領地ではそれ

自身大農業経営者であり︑穀物︑羊毛︑酒精︑亜麻の販売業者であって︑絶対主義や︑官僚や︑封建的復古にたいする同

じ保障を必要としていたので︑同じように政府に対する反対を表明し︑代議制憲法に賛成する︑と宣言したのだった︒﹂

︵崇㌣S・−7邑こうして金策の手は尺︑き︑翌年二月国王はやむなく八州議会を一つの﹁連合州議会﹂に再組織し﹁借

款と租税の増徴とを表決﹂させたが︑またもや﹁拒絶﹂され︑国王は議会を解散する︒これにより一八四七年末には中間

階級の︑都市労働者階級と農民を糾合しての︑革命の準備が進展した︵諌早S.巳︒﹁要するに︑種々異なる利害から生 まれた反政府派の異質的な集団が︑多かれ少なかれブルジョアジーの指導に従っており︑さらにそのブルジョアジーの最

前列には︑プロイセン︑とりわけライン州のブルジョアジーが進軍していた﹂ ︵無声S.N00︶︒

ォーストラリアの情勢について†−−﹁メッテルニヒ侯の政府は︑二つの軸を中心として回転していた︒その第一は︑オ ーストリアの支配に服しているさまざまな民族のおののきを︑同様の状態にある他のすべての民族によって牽制すること

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di eE i f u u dd ie Ma ch t がいに均衡させておくauSSpie−enことであった︒﹂ ︵賢㌣S.N豊 ﹁メッテルニヒは︑帝国でもっとも強大で勢力のあ

る二つの階級の支持を確実に頼むことができたうえに︑絶対主義のあらゆる目的からみて申し分なくうまく組織された軍

(7)

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たいていの場合にいっさいの外国の競争が完全に締め出されたほどの︑手あつい保護をうけていた︒しかし︑このような

便益が彼らに与えられたのは︑主として彼らの納税力をたかめる目的から出たことであって︑⁝最後に︑農民と労働者は︑

たんなる課税物件として扱われており︑⁝﹂ ︵岳を㌣S●u↑︶

﹁しかし︑目にみえないところで︑一つの緩慢な運動が進行していて︑それがメッテルニヒのあらゆる努力の裏をかい

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の応用は︑⁝社会のいくたの階級の古い諸関係と生存条件をくつがえした︒それは︑農奴を自由民に変え︑小農民を工業

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ストリアの国家機構Staatsgef厨eには︑一つの危険な部分があった︒すなわち︑議会の討論をふくむハンガリーの封建

的憲法がそれであって︑これには︑政府およびその同盟者である大貴族にたいする多数の貧困化した反政府貴族の闘争が

ともなっていた︒⁝プロイセンの場合と同様に︑官僚の一部はブルジョアジーに加担した︒⁝貧乏貴族の一部も同様に中 間階級BOurgeOisieに味方していた︒また住民の下層階級についていえば︑⁝たいていの場合にブルジョアジーの改革

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﹁ヴィーンの革命は︑ほとんど全住民の総意によって起こされたといってよい︒︵銀行家と証券業者を除いた︶ブルジ

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﹁革命的行動の第二の中心Breロロpunktはベルリンであった︒⁝プロイセンでは︑ブルジョアジーはすでに政府との

(8)

野呂栄太郎の天皇制国家論︵三︶      二七四

現実の闘争にまきこまれていた︒﹁連合州議会﹂は決裂に終わっていた︒⁝フランスで二月革命によって転覆された政府

は︑プロイセンのブルジョアジーが彼ら自身の国にこれからうちたてようとしていた政府と︑また同種のものであった︒

二月革命は︑中間階級BOurgeOisieにたいする労働者階級の革命として登場した︒ところで︑プロイセンのブルジョア

ジーは︑財産︑秩序︑宗教︑家族︑その他の近代ブルジョアの諸守護神︹penates︺のもっとも危険な敵だと思えた人々

がパリ政府の頂点に立っているのを見たとき︑彼ら自身の革命的熱情は︑いっぺんにはなはだしく冷却したのであった︒

⁝そして︑ついにメッテルニヒの没落の知らせがあってから︑国王が二︑三のわずかな譲歩をしたとき︑ブルジョアジー

は︑これで革命は完了したと考えて︑陛下のところへ︑人民の願いをすべてかなえてくださったお礼を言上しに出かけた

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目 的に利用した︒ただひとりの閣僚︑ただひとりの将校も︑罷免されなかった︒従来の官僚的行政組織b賢OkratiscFeロ

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﹁プロイセンでは︑自由主義的ブルジョアジーが︑カンプハウゼン氏とハンゼマン氏という二人の富商を代表として︑

直接に政権Machtのたずなをにぎったのにたいして︑ブルジョアジーの政治的教育がはるかにおくれていたオーストリ

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敗北をこうむった︒彼らは︑まずドイツのそれぞれの国でやっつけられ︑打破され︑官職から追放され︑ついで中央ドイ

ッ議会で潰走させられ︑恥ずかしめられ︑やじりたおされた︒君主制の統治形態RegieruロgSfOrm のもとであろうと︑

共和制の統治形態のもとであろうと︑政治的自由主義︑すなわちブルジョアジーの支配は︑ドイツでは永久に不可能とさ

(9)

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以上の叙述における特徴点は何であろうか︒ヨーロッパ大陸における一八四八年ブルジョア革命挫折の根本原因を探る

Ⅰこれが本論文の目的とされる︒ドイツについて1そこにおけるブルジョアジーの経済的勢力は︑イギリス︑フランスに はるかにおとっていたこと︑とはいえ︑一八一八年のプロイセン保護関税と関税同盟がかれらを急速に成長させ︑ドイツ

の封建的政治制度を桂糖と感じるに至らしめ︑一八四〇年︹フリードリヒ・ヴィルヘルム四世即位︺ を機にプロイセンの

かれらが︑ドイツの運動の先頭に立った︒だがこのブルジョアジーも︑殆んどが小商工業者にすぎず︑したがってドイツ

の労働者階級は近代的工業に雇用されているものとはいい難いものであった︒膨大な農民層についてみると︑大・中農︑

小自由農︑封建的小作人と分化している︒小君主たちは︑オーストリア︑プロイセンに対する独立性を確保する運動を始

めている︒ヴィルヘルム四世は︑プロイセン君主制の官僚的要素を憎み︑封建的支配の再編強化を目論む︒折からの経済

的困難でその穴埋めのための借款と租税の増徴を可決させるべく人民代議機関の召集をはかるが︑ブルジョアジーを先頭

に労働者・農民︑それにブルジョア化しっつあった貴族層を含めての反対に遭う︒革命前の階級関係はこのように現われ

ていたのであった︒オーストリアについていえば︑メッテルニヒ流の絶対主義︵封建的地主と大証券資本家の勢力均衡︑

有効に組織された軍隊と官僚制︑納税家としての工業家の育成︶が支配していたが︑ほかならぬこの支配は資本主義発展

を推進し絶対主義対抗勢力を強化することとなり︑さらに<議会の討論>を含むハンガリーの封建的憲法がオーストリア

国家機構の弱い環←階級利害の尖鋭化を惹起したと分析される︒だがフランスの二月革命が<中間階級にたいする労働者

階級の革命>としての性格を示すや︑メッテルニヒの没落を機に︑プロイセン・ブルジョアジーの動揺と後退が始まる︒

革命から<秩序>回復へ︒ドイツでは二人の自由主義ブルジョア︑オーストリアでは自由主義官僚が主役を演じっつ︑旧

<秩序>の復活が図られたのである︒

(10)

野呂栄太郎の天皇制国家論︵三︶       二七六

ここでまた絶対君主制のオーストリア ︵メッテルニヒ︶型が示される︒つまり︑多民族国家であるところから︑民族間

の反目をうまく操る︵牽制︶一方で封建的大地主と大証券資本家の勢力均衡を図り︑軍隊と官僚制をもって統治する︑と

いう図式である︒

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マルクスはさきに﹁フランスにおける階級闘争一八四八〜一八五〇年﹂を著わし︑七月王政から一八四八年二月革命

を経て一八五〇年三月のナポレオンによる立憲共和制解体の着手に至る政治過程の分析を与えたのであるが︑ここでは︑

二月革命から一八五〇年五月の選挙法以後いっそう無力化させられた国民議会と反対にますます強大な権力を握るに至る

ナポレオン︑そしてついには一八五一年一二月の議会的共和制の終焉に至る精細な分析を与えている︒ここでは︑前のも

のよりいっそう詳細に︑それぞれの政治過程の変遷を支えた階級関係・担い手の解明などにさかれている︒以下︑その叙

述を追ってみよう︒

一八四八年二月二四日 ︵ルイーフィリップ打倒︶ から一八五一年一二月までの革命過程はおよそつぎのように三区分さ

れる︒第一は︑四八年二月から同年五月四日憲法制定議会開会までであって︵二月の時期︶︑﹁有産階級そのもののうち

政治的特権者の範囲をひろげ︑金融貴族の排他的支配を倒す﹂ べく選挙制度の改革︹﹁直接・普通選挙権﹂︺が行われ︑

﹁革命を準備し︑あるいは決定した分子はみな⁝二月政府内に臨時の地位を得た︒﹂こうして ﹁パリのプロレタリアート

が︑自分たちのまえにひらけた偉大な展望にまだうっとりと見とれていて︑社会問題についての大まじめな討議にふけっ

ていたあいだに︑社会の古い諸勢力は結合し︑集合し︑われにかえり︑そして思いがけない支柱を国民の大多数者のあい

だに兄いだしていた︒それは︑⁝農民と小ブルジョアである︒﹂ ︵旨叫㌣S.−N0−−巴︶

(11)

第二期は五月四日開会の憲法制定国民議会から翌年五月二八日までの﹁ブルジョア共和制の制定﹂ 樹立 ﹁ルイーフィリ

ップのブルジョア君主制冨︑︑駕ミ叫C訂さき喜言已屯 のあとにつづくことができるのは︑ブルジョア共和制買︑駕ミ訂訂

知息ま巴蒜だけである︒すなわち︑これまでは王の名でブルジョアジーのごく一部が支配してきたのだが︑今後は人民の

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geOisie FerrscFen︒⁝︹これに対して︺パリのプロレタリアートは︑ヨーロッパの内乱史上もっとも巨大な事件である

六月反乱 盲等羊.旨重さ象諌言 でこたえた︒ブルジョア共和制が勝利を得た︒﹂ ﹁ヨーロッパでは︑ブルジョア共和制は

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敗北は明るみにだした︒⁝古い文明諸国では︑一般に共和制は︑ブルジョア社会の変革の政治形態習琵叫的C訂qS等已N学

長鼠S苧計こ露頭邑註岳Gへ篭︑訂Cむさを意味するだけであって︑たとえば北アメリカ合衆国でそうであるように︑ブ ル ジ ョ ア 社 会 を 保 有 す る 生 活 形 態 を 意 味 し な い こ と を

︑ こ の 敗 北 は 証 明 し た

︒ ﹂   ︵ 旨 革

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﹁ ブ ル ジ ョ ア 共 和

派の排他的な支配は︑一八四八年六月二四日から二一月一〇日までしかつづかなかった︒この支配は︑共和制憲法の作成と

パ リ の 戒 厳 状 態 と に 要 約 さ れ る

︒ ﹂   ︵ 岳 き

㌻ S

. 岩 の ︶

さて︑一八四八年の憲法はつぎのような矛盾性をもっていた︒﹁一方には普通選挙権によって選ばれ︑再選されること

もできる人民代表七五〇人がいて︑なにものにも支配されない︑解散させることのできない︑不可分の国民議会をかたち

づくっている︒⁝立法の全権をもっており︑宣戦︑講和︑通商条約締結について最終の決定をおこない︑ひとり大赦権を

もち︑常時開会しているのでいつも舞台の前面を占めている︒他方には大統領がいて︑王権の属性をことごとく備えmit

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野呂栄太郎の天皇制国家論︵三︶

(12)

野呂栄太郎の天皇制国家論︵三︶       二七八

のほうからは憲法に従って大統領をやめさせることができるが︑大統領のほうから国民議会をやめさせるのは︑憲法に反

するやり方によるはかないように︑すなわち︑憲法そのものを廃止するはかないように︑つくられている︒﹂ ︵旨e

﹁一八四八年三月一〇日にルイ・ボナパルトが大統領に選挙されたことは︑カヴェ=ヤツクと憲法制定議会の独裁

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反動︑農村の都市にたいする反動であった⁝﹂ ﹁一八四八年三月二〇日から︑一八四九年五月に憲法制定議会が解散さ

れるまでの時期は︑ブルジョア共和派の没落の歴史にあたる︒﹂ ︵とき㌣S.−u↑︶

第三期−﹁一八四九年五月二八日︑立法国民議会がひらかれた︒一八五一年三月二日︑それは解散された︒この期間

は︑立憲共和制あるいは議会的共和制ぎ邑ぎ罫邑訂3邑〜ミ諷§邑諷邑§知合邑蒜の生涯にあたる︒﹂︵旨註.︑

SL邑 ﹁ボナパルト派の代議士はあまりにもまばらだったので︑独自の議会政党をつくることはできなかった︒彼らは

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そのうえ︑この覚の支配を人民の意志のように見せていた総選挙によって︑また同じころ︑ヨーロッパ大陸全体で反革命

が勝利したことによって︑精神的に力づけられていた︒﹂︵ききS・↑呂秩序覚は正統王朝派︵ブルボン︶とオルレアン

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者は資本を基礎としている対立物であった︒しかるに﹁大土地所有は︑その封建ふうの気どりゃ血統の誇りにもかかわら

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﹁ブルジョアジーの二つの利益集団﹂となっている︵賢㌣S.−室︒

こうして﹁連合した王党派は⁝⁝他の諸階級に対立するブルジョア階級として⁝⁝無制限で苛酷な︹支配を行った︺⁝

(13)

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ものであった︒というのは︑この形態のもとではじめて︑フランスのブルジョアジーの二大部分が一致協力することがで

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の政治的支配の社会的基礎を掘りくずすということを︑本能が彼らに教えたのである︒というのは︑いまや彼らは︑媒介

するものもなく︑王権という衝立くersteck der KrOneもなく︑お互いどうしや王権Kかロigtumとのあいだの第二義

的な闘争で国民的な関心をそらすこともできずに︑被抑圧階級と対立して︑これと格闘しなければならないからである︒

連合した王党派は︑自分たちに対立する王位俸望者であるボナパルトと衝突するたびに︑自分たちの議会的全能par−a・

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支配の政治的権原を表面におしださなければならなくなるたびに︑王党派としてではなく共和派として登場する︒﹂︵恕叫㌣

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﹁ブルジョアジーの連合に対抗して︑小ブルジョアと労働者との連合ができあがっていた︒いわゆる社会Ⅰ民主党がそ

れである︒⁝︹その︺独特の性格は⁝資本と賃労働という両極端をともに廃止する手段としてではなく︑それらの対立を

やわらげて協調させる手段として︑民主主義的=共和制的諸制度を要求する︑ということである︒﹂ ︵旨叫㌣S.−舎︶

﹁バロ=ファルー内閣は︑ボナパルトがつくった最初で最後の議会内閣であった︒だから︑この内閣をやめさせたこと

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Regimesを維持するのに欠くことのできない部署である執行権力にたいする把握を失い︑二度とそれをとりかえすこと

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参照

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