『おくのほそ道』における土石について(上) : 記録する石、記憶する石
著者 濱 森太郎
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 13
ページ 59‑65
発行年 2002‑06‑23
URL http://hdl.handle.net/10076/6579
『おくのほそ道』における土石について(上)
‑記録する石、記憶する石‑
溝
森太郎
一
土石の伝兢
二〇〇一年秋に巷間を賑わした映画『ハリー・ポックーと賢
者の石』に登場する魔法使いニコラス・フラメルは、十四世紀、
フランスに実在した錬金術師で「賢者の石」を用いて水銀を金
に変えることができたという。その流行のせいかどうか、イン
ターネットを検索すると「Legend
Of
theSacred
StOne弄bsi
te」などと言うサイトもあって、魔法の石もなかなかにかまび
すしい。
一方、我が国では、怪石伝説の代表格に当たる河童石(注l)
は「河童が淵」にあり、水神(龍神)を集る雨堂には修験者が
伺候して治病や除霊に当たっている。また修験道の山、葛城山
頂に鎮座する嗣堂の石宝は、弘法大師が竜王を勧請したものと
言い、葛城修験道では第九番目の「竜の宿」にあたる。巨岩に 如意輪観音を安置する岩山観音」や奇石を集る「石薬師」も
また怪石伝説が寺院化したものだが、効能は主に除霊や治病に
あり、水銀を金に変える事ではない。
そしてその目で見れば、他ならぬ『おくのほそ道』は、熱湯
を吹き出す奇岩や人畜を殺生する怪石が登場して、物語を賑わ わせる作品のかたちで見えてくる。 ここに亨フ『おくのほそ道』の熱湯を吹き出す奇岩とは、羽
具修験道の聖地、湯殿山の秘所にある神体岩、人畜を殺生する
怪石とは、那須修験道の聖地、那須山の地獄谷の「殺生石」で
ある(注2)。これに「文字摺り観音」の鏡石、安達が原の鬼の
岩屋、多賀城の沖の石(注3).、壷の碑.を加えれば、『おくのほ
そ道』の墓石もなかなかの賑々しさと言える。
加えて、これまでは軽く見過ごされてきたが、『おくのほそ
道』の主人公が、「春立る車の空に白川の開こえんと、そゞろ
神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取も
の手につかず。」と語る牧歌的な信仰心の持ち主だったことも
忘れてはならない。
二.土石の民俗
こ ぞ
〓うじiうはおく
くも
ふる†
くれ
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、
春立る霞の空に白川の開こえんと、そゞろ神の物につきて
心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず
(中略) 牒瑠も住誓代ぞひなの家
こうじ;
ここに亭フ「去年の秋」は元禄元年(一六八八)秋、「江上
の朝風」は水辺にあるあばら屋の意で、江戸深川にあった芭蕉
庵を言う。「蜘の古巣をはらひて」は、貞享四年(一六八七〉の
冬の西国巡礼以後留守にしていた庵室の蜘蛛の古巣を払って入 居するさまを亭フ。「そぞろ神」は心を惑わす神の意。松尾芭
蕉の造.語で、長閑に春が明けて白河の閑に春霞が立つかと思う
と、そぞろ神がそこここに姿を現して気もそぞろになる様を表
す。「道祖神」は道祖神。『奥の細道菅菰抄』『奥の細道傍注』等
に、「黄‑帝ノ妹塁・祖卜云人、遠l遊ヲ好ミ、終二途二死ス。因 テ以テ岐ノ神トスト云。日本ニテハ、臆丁甲彦ふヲ衝ノ神ト
ス。」とある。「衝
ノ神」とされるサルタヒコは、天遜降臨に際して地上の道案内
を務めた土俗的な神である(注4)。後にこの「道祖神」は、藤原
実方の塚を尋ねる際に「道祖神の社、かた見の薄、今にあり」
(笠島)という形でみちのく在住の「衝ノ神」として登場する。
つまり主人公は当初から、白河の関を越えて呼びかける「
そゞろ神」に「心をくるはせ」 「道祖神のまねきにあひて、取
もの手につか」ない汎神論的な信仰心の持ち主として設定され ているのである(誉)。そしてその感受性に即してみると、
「みちの一く」は名所歌枕の土地柄である以上に、樹木や岩石が
物言う辺境民族の楽土であり、琵琶法師や修験道の行者が駿属
する北辺のパストラル(牧歌地帯)としてイメージされる場所に なるのである。
しかし念のために言えば、「予」の言説がこの紀行の冒頭か
ら一貫して、岩石のかたまりや鉱物の破片に宿る生命を感受し
ている訳ではない.。そもそも、この紀行の冒頭に言う「日月は
し●んやえん†るし▲じ●うていとうり百代の過客」は、語り手の予が李白の「春夜宴二諸従弟卜桃李
えんじ1
克てんちははんぷつのげ毒よ こういんはー量くたい○富†く
ふ
園‑序」にいう「夫天地者万物之逆旅、光陰看官代之過客、而浮
せいゆめのごとしかんせな†こといくばくぞ
世若レ夢、為レ歓幾何ごを踏まえて、人生の旅なるゆえんを 説くもので(誉)、「予」に独自の言説ではない。しかも、予が
しかしてふせいゆめのごとしかんきな†こといくほくぞ下敷きにした詩句の焦点は「而浮世若レ夢、為レ歓幾何」に
あり、「浮世、夢のごとき」生活の中で、歓楽の一刻を惜しむべく
宴席に読者を懲憩するものである。ところが、『おくのほそ道』
における予は、r光陰は百代の過客」という李白の詩句を引用し
ながら、「光陰」を「日月」と誤まり、さ.らに強いてこの儲句
から天地自然を満たす森羅万象が旅にいそしむ活況を説いて止
まない。
同様に、次の用例通り『おくのほそ道』の土石、岩石は〈注
7)、(土3)の「土石老て苔滑に」を除けば1格別、修験者的
な色彩を持った用例ではない。
●(土) l・石璽土に埋てあり(裂郡石誉)
2・石ハ埋て土にかくれ木ハ老て若木にかハれば壷の彗
3.土石老て苔滑に(立石寺) 4・ミづから革を刈土石を荷ひ泥沖をかはかせて和㌫が
60
1 2.
3.
4.
5.
6
●(石) 石上の小庵、岩窟にむすびかけたり董岸寺)
法雲法師の石室をみるかごとし簑岸寺)
殺生石ハ温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまたほろびず
(殺生石)
しのぶもぢ摺の石を尋て(文字摺り石)
石半土に埋てあり支手摺り石)
此石を試(み)侍(る)をにぐみて支字頼り石)
っ け
9 8 7
墜己一∵石
の面下ざまにふしたりと云支字摺り石)
家の石碑を残す(医王寺)
涙の石碑も透きにあらず(医王寺)
〇..
11●
12.
川.13.
15.
16.
2. 1 3.
4.
つぼの石ぶミハ高サ六尺徐毒の碑)
石ハ埋て土にかくれ、木ハ老て若木にかハれば壷の彗
野田の玉川、沖の石を尋ぬ(末の松山)
坐禅石など有(松卓
土石老て苔滑に(立石寺)
奇石さまざまに(那谷寺)
石山の石より白し秋の風(那谷寺)
●〈岩〉
がんとういたださひり●うひ◆くせさへさたん岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧渾に落たり。盲光)
岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりミれバ青光)
松の炭して岩に書付侍りといつぞや聞え給ふ童岸寺)
石上の小庵岩窟にむすびかけたり童岸寺) 5.二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し妻積沼) 6.水をわたり岩に願て肌につめたき汗を流して(離那峠)
要するに大方の土石、岩石は無機物として登場し、時に石板
となり(岩且、座石となり(石柑)、隔壁となり(石l)、石
室となって(石2)生活の一部分を構成している。岩石が生活
の一部と成り人間の生計に密着している様は、この地域を放す
る者には共通の実感である。そして、その中に殺生石や文字摺
り石といった墓石や壷の碑のような記念碑が登場する。また
(石川15用)では、土石が重層して奇観を呈し、いわゆる景勝
地の景観を形成している。無機物として登場する岩石の用例が
まず目に付くために、これまで『おくのほそ道』の岩石は、等
しく無機物化されて読者の目を惹くこどがなかった。しかし、
そこにある読者の僅かな錯覚が『おくのほそ道』の理解を妨げ
る例も無しとしない。
三
伝説の石
さてまずは、みちのくの霊石や記念碑の機能を一歩踏み込ん
で観奏し、次に芭蕉的独創の結果と見られる叙述を分析しよう。
「もぢ摺の石」(福島市山口)訪問の前日、『おくのほそ道』
の主人公「予」は、須賀川から日和田まで五里歩き、そこで「
花がつみ」を探索するが果たさず、名残惜しげに福島まで歩き
出す。そしてその翌日、昨夜の疲労を引きずったまま、「もぢ摺
の石」を訪問する(注9)。
ところが、この難行苦行にも関わらず、念願の「文字摺り石」
は、半ばが土に埋もれて見る影もない。加えて「石の面下ざま
にふしたり」と知らされて、予は言葉を失うほど博然とする。
ここでは、恋歌の文脈上で理解されてきた「文字摺り石」のコ
ンテキストが破壊され、文字摺り石がただの石として者出して
いるのである。
あくれバ1しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。
Iよるかやまかげなかはゎらぺ
さた
遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて
教ける。昔ハ此山の上に侍しを、往束の人の褒章をあら
して、此石を試 侍をにくみて、此谷につき落せバ、石
の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
ここに言う「あくれバ」とは、夜が明けたのでの意。疲労困
優した前夜を振り返る言葉で、日和田の里で日没を迎えたため
に、急遽「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に
宿」
った昨夜の行程が集約されている。須賀川から日和田まで
は二十キ㌔日和田から福島までは三十五㌔の距離である。
「忍ぶのさと」は信夫の里の意。元来「しのぶ」は郡名だが、
『詳考奥の細道』 (阿部喜三男他)に掲げられた[俳常幸留]以下、
俳文九例の中には、「忍の里」、「忍ぶ郡しのぶの里」と書くも
のが二例残る。
「もぢ摺の石」は、岡山村宇山ロ(いま福島市に属す)の文字
摺観音堂の境内にある霊石で、福島細の染色作業に用いる「も ぢ摺石」と倦へられる(注l。)。「みちのくのしのぶもぢずり誰 故に軋れむと息ふ我ならなくに」(古今集、河原左大臣源邑や「陸 奥の忍ぶもぢずりしのびつ〜色にはいでじ乱れもぞする」(千 載集、寂然法師)などとある恋の記念碑としても名高い。当然、 そこを通過する旅人はそこが見目発しい恋人達が住まいする恋 の里らしいと期待する。しかしこの裏石は、『奥羽戦旗聞 老志』には「土人言フ(中略)、往昔好事ノ者、変ノ葉ヲシテ 石上二磨ルトキハ、則チ息フ所ノ人ノ影ヲ見ルト。近郊ノ変随 (麦畠)之ガ為二蕪:就ク。故二農夫之ヲ寧、、、其ノ石ヲ塵倒 シテ土中二埋ム。」
(注目)という日く付きの岩である。
「遥山陰の小里に」は、墓石が思いがけず遠くにある様。前
日「花かつミ」を探索して、日和田から福島まで約三十五㌔歩
いた疲労感が示唆されている。「石半土に埋てあり」は、「文字
摺り石」の荒廃振りが誇張された表現で、曾長の『随行日記』
には「谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。」とあり、柵を
設けて丁寧に保存された痕跡が見える。
r里の童部」は、同類の句文(九例)の内四例では、さと人
(里人)となっており、『おくのほそ道』だけが「里の童部」
の言動としている。すなわち、予は里の童に説得されて「さも
あるべき事にや。」と、不承不承、領くのである。
「昔ハ此山の上に侍しを、、……・・石の面下ざまにふしたりと
云。Jは、里の童部の言葉で、『奥羽戟蹟聞老志』と似ている。
「昔」や「侍し」といったそつのない語り口の中に行き届いた
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敬語法が使われていて‥子供の解説にしては洗練されている。
「さもあるべき事にや」は、「文字摺り石」 の不本意な惨状
を説明する童部の言葉に納得しかねるさま。「文字摺り石」
の
惨状を説明する童部(娘) の言葉を聞き取り、「さもあるべき
事にや」と不審することで、予は自然にこの墓石を突き落とし
た里人の生活感情に向かつて想像力を働かせる。
倍夫の里の別名は「狭布の里」、福島鯛の産地である。「し
のぶもぢずり誰故に」と「しのぶもぢずり」を引き合いに、み
ちのく下向中の貴公子たちが里娘達の気を惹くのは、福島絹の
紡ぎ子、織り子達が明朗で活発に暮らしていたからだろう。そ
してその信夫の里に恋草が茂るのは、織り子の乙女達が明るい
展望を持ち、rよき男衆」には率直だったからに相違ない。も
ちろん、「みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ」
喜今集、河原左大臣痛撃と歌われるような、貴族相手の軽薄な恋
愛がこの里娘らの誇らしい伝統であるはずはない。
発句「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」 の初案は、「五月乙女
にしかた望んしのぶ摺」 (俳請書留)とある。見目麗しい人々が
住まう恋の里という薄っぺらな幻想が壊れた後に、改めて目の
前で田植えにいそしむ「早乙女」たちの初々しい手つきを眺め
れば、そこに「しのぶ摺」 の華やかなりし昔が偲ばれるという
意味である。再案「早苗つかむ手もとや」 (芭蕉翁遺芳)は、早
乙女の初々しい手許に焦点を合わせたもので、定稿「早苗とる」
に至って、その手付きの優雅さが強調されている。 要するに、ここ信夫の里では、文字摺り石がただの石として
露出し、この石を恋の記念碑として受け止めるコンテキストが
破壊されている。加えて、その破壊の原因が麦革をむしって鏡
石を磨く好事家に対する里人の怒りだと聞かされて、予は言う
べき言葉を失う。
では、信夫の皇は恋の里というリジエンドは、宮廷貴族達が
作り上げた気軽な幻想だったのか。恋の里の幻想が壊れた後に、
予は改めて現場に立ち、なお残る恋の里の痕跡を探ろうとして
周囲を見回している。すると見えてくるのは、信夫の里にまだ
残る早乙女達の手つきである。ここでは、荒廃し転倒した「文字
摺り石」が、予が「みちのくぶり」を発見する契機として用意さ
れている。
四
伝説の石文
言うまでもなく、「霊石」は、リジエンドとなった石であっ
て、人々の記憶の中に格納されることで魂を宿す石となる。ま
た石板や碑としての石は、記念すべき事跡を永遠に記録する
ことで、確かな記憶の継続を保証する。予が「壷の碑」を見て、
「愛に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。」
と感嘆するところには、堅固な記録媒体としての碑の特質が
いかんなく発挿されている。石を石として取り扱うことが物理
的な知性なら、その物理の 「しきり」を破って霊石が霊石にな
る契機を解き明かすことは、.私たちが『おくのほそ道』のテク
ストを昔に返す方策を見付け出すことを意味するだろう。
さて、予が福島を過ぎて仙台領に入ると、そこでは「みちの
くぶり」 のルーツに当たる独立自尊の精神が記念碑となった出
現する。すなわち「壷の碑」 の出現である。l度は転倒し、た
だの石に返っていたこの「壷の碑Jが掘り出され、四方の国境
からの距離を刻むことで、ここを立国の拠点とした男がいたこ
とを語り継ぐための石碑として蘇えっている。
っ威武み
郡㈹椚翫軒郵に郁。つぼの石ぶミハ高サ六
あまりばかりかこけ
うかちか†かなりしゆいこっかいの
尺徐、横三尺斗欺、苔を穿て文字幽也。四経国界之敷
里をしるす。(中略)天平賛字六年、参議東海東山節度使
えみ
あそんあさかりし●うぞうついたち
同牌軍春美朝臣(朝)猿修造而、十二月朔日と有。聖武皇
帝の御時に嘗れり。むかしよりよみ置る寄枕、おほく吾
停ふとい・へども、山崩川流て、道あらたまり、石ハ埋て
土にかくれ、木は老て若木にかハれば、時移り代襲じて、
其跡たしかならぬ事のミを、愛に至りて疑なき千歳の記
念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、
扇旅の努をわすれて、洞も落るばかり也。
「苔を穿ちて」は、予が碑文を読むべく焦って苔を剥すさま。
また「四経国界之教皇」は、隣国の国境から多賀城までの距離
の意。この石碑には「去京一千五百里。去蝦夷国界一首廿里。
去常陸国界四首十二塁」などと刻字されている。「古人の心を
閲す」は、碑文を作り偉人の功唐を残そうとした古人の情熱を
目の当たりにして、感激したことを言う。ここに言うr 壷の碑」は、江戸時代初期に掘り出されて以来、人々の注目を 集めてきた碑文で、曾長の『俳楷書留』には、この碑文が詳細 に筆写されている。
「天平賛字六年」は西暦七六二年で、浮仁天皇の第五年に当
たる。参議は、太政官の職員、四位以上の者が任ぜられた。東
海東山の節度使は東海道(現在の東海並びに関東の沿財部を含む)、東山
道(注望の節度使の意。節度使は、各道の軍団せ束ねて辺境を
警備した軍職。恵美朝臣(朝)溝は、恵美押勝の子、天平宝字の初
めに陸奥守となり、次いで節度使となって鎮守府将軍を兼ねた。
またこの石碑建立の二年後(天平宝字八年)に勃発した、父、
恵美押勝の反乱に際しては、朝溝もまた係累となり誅殺された。
「聖武皇帝」は第四五代聖武天皇を尊称したもの。
「愛に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。」
とある通り、碑文を通じて多賀城を立国の拠点と記した恵美朝
猫の熱い情熱を確認し得たことが予の喜びである。ここでは、
幸運にも発掘された碑文が偉人の事庸を記録し保存するという
本来のコンテキストに添って十分に活用されている。だからこ
そ読者は、碑文が盲人の意志の半永久的な表示装置であること、
その表示装置の効力を発揮させるのが他ならぬ「みちのく」
の
生活者であることを思い知ることになる。
しかし、実のところ、これらはまだ、みちのくの墓石や記念
碑の既成のコンテキストを踏まえた叙述であって、言葉の錬金
術師が生みだした芭蕉的独創の結果ではない。
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