O 論 説
台 湾 に お け る ﹁ ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ﹂
の変動(一九九一‑二〇〇〇年)謝政諭
・ ・ ⁝
ナショナル・アイデンティティという言葉は︑意味が交
錯しかつ複雑な様相を呈している︒本論では台湾における
政治・経済システム︑思想文化︑国際情勢︑民族主義の分
離結合等の視角から︑九〇年代台湾のナショナル・アイデ
ンティティをめぐる問題︑矛盾︑抵抗を分析し︑また同時
に﹁複線の歴史﹂および﹁弁証論理﹂の概念による分析を
試みたい︒
一九九〇年以前︑政権の座にあった中国国民党は︑台湾
の現代化を進めるべく︑﹁三民主義﹂を思想の﹁大伝統﹂
として︑﹁漢賊両立せず﹂の﹁正統﹂史観を掲げるととも
に︑﹁中華民国﹂の名を堅持し︑中国全土の統一という
﹁一つの中国﹂を目標とした︒しかし︑李登輝政権下にお
いて︑一九九一年に﹁反乱鎮定動員時期体制﹂に終止符が 打たれた後︑憲政改革が進められると︑主要反対勢力とし
て民主進歩党が急速に勢力を伸ばすことになった︒九〇年
代の民進党は﹁台湾文史﹂︹訳者注11台湾文学・歴史︒以
下﹁文史﹂とする︺を主体とする﹁小伝統﹂を以って﹁三
民主義﹂に取って代えただけではなく︑地方政府の過半数
を獲得し︑二〇〇〇年には総統選挙に勝利して︑中央をも
獲得した︒しかし︑九〇年代は中国大陸が改革開放を加速
させた時代でもあり︑その対台湾政策は経済的誘引︑政治
的圧迫︑民族アイデンティティを柱としている︒ポスト冷
戦の時代には︑国際政治上のリアリズムの立場をとり︑
﹁一つの中国﹂政策を堅持してきた︒こうした内外の相互
作用によって︑台湾では﹁台湾鴨中華民国﹂のナショナ
ル・アイデンティティの攻防戦を繰り広げているのであ
台湾 に お け る 「ナ シ ョナ ル ・ア イ デ ンテ ィ テ ィ」の 変 動
215
る︒このような状況下で︑目下のところ︑国際情勢と中共
の﹁一つの中国﹂政策の制約のもとで︑﹁台湾の中華民
国﹂(中華民国在台湾)という観念が九〇年代朝野におけ
る最大公約数である︒だが漂流する台湾のナショナル・ア
イデンティティとはどのように定位したらよいのだろう
か︒
はじめに
この二〇年間︑台湾の経済力は常に世界の二〇位以内に
位置し︑政治の近代化レベルも九〇年代にハーバード大学
のハンチントン教授が提唱した民主化のいわゆる第三の波
の典型であり︑台湾の政治権力と市民的自由のレベルは︑
日本や韓国と共にアジアでトップ3と言われている︒こう
した成功の陰には︑台湾が﹁国家の定位﹂の危機に直面し
ており︑中華民国の名ではわずかに二十数か国との国交が
あるのみで︑中華人民共和国の強大な圧力のもとで︑中華
民国は﹁主権﹂が必要とされる国際組織に参加できない現
状がある︒
一九八八年蒋経国が死去し︑副総統だった李登輝が総統
に就任すると︑三年後には国家の根本に関わる﹁憲政改
革﹂を進めた︒本論ではこの一九九一‑二〇〇〇年という
時期を縦軸とし︑この期間に台湾が直面した国内外の政 治・経済システム︑文化思想︑民族主義︑憲政改革を横軸
としてこの時期のナショナル・アイデンティティの変動を
分析してみたい︒筆者は︑この十年は﹁台湾の中華民国﹂
であれ台湾であれ︑中国とは﹁特殊な国と国の関係﹂であ
るという政治的憂慮︑あるいは根本的な思想文化への懸念
が︑量的にも質的にも変化を遂げた鍵となる十年であると
ム 考える︒同時に︑この十年は国際社会が﹁ポスト冷戦時
代﹂に突入した国際秩序再編の時期であり︑また︑台湾が﹁反乱鎮定体制﹂を終結させ︑﹁ポスト権威主義﹂へ突入し
た民主化の時期でもあり︑さらには李登輝政権下での重要
な改革の時期でもある︒
アイデンティティの本質には多面的かつ複雑な意味が含
まれる︒心理学的には︑人類が未知の世界に直面した際の
﹁同﹂と﹁異J(identity/difference)に対する一種の生体心
理学的(biopsychological)な本能的要求のことを指す︒こ
れによって不安を取り除き︑外界との関係を構築すること
ムヨ で生活をさらに意義あるものにするのである︒人類文明が
近代の﹁国民国家J(nation‑state)に到達してからは︑ナ
ショナル・アイデンティティは政治実体の発展や統合︑国
ム 際関係等と関連する言葉となった︒つまり︑ナショナル・
アイデンティティという言葉には︑政治共同体内の構成員
の政治制度︑エスニシティおよび歴史文化の三方面に対す
る同意︑帰属意識および忠誠を含むことになったのであ
る︒これは﹁主権の独立﹂を表すと同時に︑﹁民族統=
バら というエスニックな文化的意識を含んでいる︒
このような文脈から︑本論では︑第一に︑国家の行動は
さまざまな社会権力の制約を受けており︑そのためさまざ
まな国内外の権力構造の変動︑特に異なる主張︑異なるア
イデンティティ観の権力構造が異なる国家の方向性をもた
ム らす︑と考える︒本論がアイデンティティに重大な影響を
及ぼす権力構造の変動に着目したのはそのためである︒第
コミュニタリアンニは︑共同体主義の学者チャールズ・テイラー(Oゲ巴︒ω
Taylor)が指摘している四つの要素である︒それは︑コ
ミュニティの構成員の㈲﹁善﹂に対する概念︑㈲自身のグ
ループ内の自分に対する理解︑㈲自分たちの生活を一層意
義あるものにさせてくれる言説と叙述︑および㈹人類の主
体性についての理解である︒これら四つの要素はアイデン
ムア ティティの道徳の根源と関連している︒また︑テイラーは
文化コミュニティの共通認識の確立は政治コミュニティを
形成するための前提であるという︒この指摘にしたがっ
て︑本論は台湾の文化思想とナショナリズムの変動がナ
ショナル・アイデンティティに対してもつ重要性について
分析を試みる︒つまり︑本論は権力構造と思想の二つの側
価からナショナル・アイデンティティに対する分析を行う
ものである︒
歴史の変遷とは決して単一の要素によって主導されてき たものではなく︑ナショナル・アイデンティティの変動は
それ以上に一直線に進んできたものではない︒そこで︑筆
者はシカゴ大学のプラセンジット・デュアラ(Prasenjit
Duara)が中国史研究の中で提起した﹁複線の歴史﹂(bifurcatedhistory)6̀方法論を援用する︒そこでは歴史と
は往々にして当面の需要に応じて︑過去の散逸した歴史を
利用︑再編したもので︑さらには︑過去と未来のナショナ
ル・アイデンティティと国家建設のさまざまな可能性を再
建︑創造するものであると強調している︒この方法論は基
本的に歴史は交易的(transactional)価値を持つと見なし︑
意味の上でのシステム'覆(systematicreversal)を意図し
バ ている︒換言すれば︑この十年間の台湾のナショナル・ア
イデンティティの問題は︑過去の複雑かつ歪曲・抑圧され
た歴史を再構築する可能性を持っている︒このなかでは政
治・経済の力︑思想︑イデオロギーがさまざまな推進力と
牽引力を生み出す一方で︑相互のあいだにはプラス作用と
マイナス作用が存在している︒台湾の﹁不正常なナショナ
ル﹂アイデンティティに影響した力は︑弁証法的に発展し
たものということができる︒すなわち︑この時台湾の事物
には矛盾律︑否定律が内在し︑正・反・合の相互作用と闘
争によって発展するという﹁法則﹂と﹁方法﹂の一連の弁
ム 証法的行動論理にしたがって進んでいるといえよう︒
台 湾 に お け る 「ナ シ ョナ ル ・ア イ デ ンテ ィテ ィ」の 変 動
217
システム論的分析
一九四九年蒋介石政権は中共に敗北し︑大陸を放棄して
台湾に遷都した︒一九四九年から一九八八年まで蒋介石・
蒋経国父子は台湾を統治したが︑その政権の正当性には以
下に挙げる四本の支柱があった︒第一は︑中国史観の﹁正
ムリ 統論﹂である︒毛沢東は非合法手段によって大陸を占拠し
た︑といういわゆる﹁窃統﹂︹正統を盗みとる︺に加え
て︑﹁三反・五反﹂運動や文化大革命などの時流に逆行す
るような動きによって︑両蒋政権の中華民国を正統とする
コつの中国﹂政策の毛沢東政権に対抗する道徳的基礎が
強化された︒第二に︑台湾は一九七一年に国際連合を脱退
し︑一九七九年にはアメリカとの断交に至り︑一連の外交
危機に直面するが︑基本的に台湾は﹁民主﹂と﹁共産﹂の
両極の間で︑﹁国家の名分﹂は窮地に立たされても︑多か
れ少なかれ局地的な﹁囲い込み政策﹂の保護下にあった︒
第三に︑蒋介石・蒋経国両政権は反乱鎮定時期臨時条項の﹁戦時憲法﹂によって︑中央におけるリーダーシップを安
定させ︑中華民国の﹁法統﹂をつなぎとめた︒第四に︑蒋
介石・蒋経国は中共に敗北したことで︑自ら徹底的に反省
し︑国をよく治めようと努力し︑台湾を﹁三民主義の模範
省﹂にすると誓い︑民生経済を大いに改善して︑東アジア の﹁四小龍﹂の名声をも勝ち取った︒この成功は国家と政
権の部分的正統性の後押しとなった︒しかし︑その後一九
九〇年代に到り︑国内外の政治・経済の情勢と構造に巨大
な変化が引き起こされたのである︒
国 際 シ ス テ ム に お け る
台 湾 の ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 苦 境
一九九一年︑ソ連が解体し︑国際関係はポスト冷戦時代
に突入して︑国際秩序に新たな変化が生じた︒一九九〇年
台湾では﹁台湾地区と大陸地区の人民関係に関する条例﹂
が制定され︑これによって一九八七年以来の両岸交流に統
一的な規範が与えられた︒この﹁一国両区﹂の考え方は︑
数年にわたる﹁実務外交﹂により構想されたもので︑﹁地
区﹂によって台湾の主権性を表し︑国際社会に=国両
区﹂︑﹁一国両府﹂︑﹁一国両席﹂という考え方を推進するこ
とが試みられた︒一九九一年銭復外交部長は︑当時の国際
関係の現実は︑﹁新メンバーとして国連加盟を申請﹂した
り︑あるいは﹁中国代表権問題﹂を提出しても︑成功は容
易ではないと述べた︒彼は迂回戦術を採るべきと考え︑ま
ず国連のオブザーバー資格を取得してから︑正式メンバー
バロ になる機会をうかがうべきであると提起した︒この提案は
当時李登輝により承認されたが︑その後一気に﹁加盟国﹂
として連合国に復帰する方式に転じた︒