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台湾の「拼音論争」とアイデンティティ 問題

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台湾の「拼音論争」とアイデンティティ 問題

―国際化と 主体性の狭間で―

菅 野 敦 志

The Pinyin Controversy and the Problem of Identity in Taiwan:

Between Internationalization and Subjectivity

Atsushi Sugano

This paper examines the controversy over the Chinese Romanization system (Pinyin) as a way to understand problems of identity in Taiwan since the end of the 1990s. Unlike in Chinese Mainland, which is unified under Hanyu Pinyin, in Taiwan there have been numerous Pinyin systems, which has of- ten lead to chaos and confusion. This issue remained largely untouched until the late 1990s when the Kuomintang (KMT) government began to take measures to standardize Pinyin system for transliteration.

After Democratic Progressive Party (DPP) won the presidential election and became ruling party from 2000, this turned into a furious political debate.

This attempt to standardize the Pinyin system has created a tremendous controversy, which has split the society into two. Supporters of Hanyu Pinyin have claimed the importance of internationalization by implementing the de facto global Pinyin system. Supporters of Tongyong Pinyin, on the other hand, have claimed the significance of protecting the cultural subjectivity of Taiwan by possessing an original Pinyin system, even though Tongyong Pinyin is 85 percent identical to that of Hanyu Pinyin.

This controversy seemed like it was almost resolved in 2002 when DPP regime successfully imple- mented Tongyong Pinyin as the standard Romanization system for transliteration. However, this decision was later overturned when the KMT regained power in the 2008 presidential election when Ma Ying- jeou assumed power. During his time as the Mayor of Taipei City, Ma had already implemented Hanyu Pinyin in the city, and, as President of Taiwan, he completely reversed Pinyin policy from Tonyong to Hanyu Pinyin. By examining the Pinyin issue from a historical and political perspective, this paper iden- tifies the complexities of identity politics in Taiwan, which remain mired between internationalization and subjectivity.

はじめに

中国語を公用語とする国や地域を総称して中国語圏というならば,それら中国語圏のなかでも言 語・文字政策が容易に政治性を帯び,混乱や対立が最も顕著に見受けられる地域の一つが台湾であろ う。なぜなら,台湾は国共内戦に敗退した国民党政権が中央政府を移転させ,1949年から中国の分 断/分裂国家として存在していることの特殊性ゆえに,その言語・文字政策は対岸の共産党政権との 対抗関係においてその帰趨が規定され続けてきたからである1

本稿は,1990年代に始まり,島内を二分する論争にまで発展した「拼音(ピンイン)論争」につ

 早稲田大学アジア太平洋研究センター特別センター員,公立大学法人名桜大学国際学群専任講師

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いてとり上げる。「拼音」とは「表音式表記」,「(中国語の)ローマ字表記」の中国語であるが2,こ れは,中国語の音標表記システムとして中国の共産党政権によって開発された「漢語拼音」3導入の 是非をめぐって起きた大論争である。

本来,拼音問題の焦点は漢語拼音の全面的導入の可否ではなく,当初においてはあくまで地図,交 通標識,郵便事業等での地名・道路名のローマ字表記といった「中文訳音」(中国語の音訳)システ ムの統一化が問題とされたのであった。しかし,その台湾における拼音問題は,単なる音訳の問題に 止まらず,「国際化」と「主体性」が複雑に入り組み,いわばナショナル・アイデンティティのあり 方をめぐる論争にまで転じていくことなった。それは,グローバリゼーションによる制度的同一化の 圧力に対して,台湾で進展していた「本土化」4(中国語で現地化・土着化の意。「台湾化」と同義で 使用)と脱中国化の力が複雑に作用していたからであった。

この拼音論争に関する先行研究としては,日本語では初期の論争を紹介したものがあり5,中国語 では,王麗雲が教育課程と政治の関係から,汪宏倫がナショナリズムとの関連から,何萬順が経済的 観点から示唆に富む考察を行っている6。だが,これらの先行研究の範囲は皆2000年代前半の通用 拼音採択までに限られ,何よりも拼音政策をめぐる状況は2008年の二度目の政権交代によりさらな る展開をみせたことから,本稿では「国際化」と「主体性」の二つのキーワードを軸にしつつ,拼音 論争の再検討を通じて台湾社会の変容に対する考察をより包括的な形で試みてみたい。

1. 台湾における拼音問題の前史 1.1 近現代中国・台湾における拼音問題

1990年代に始まった拼音論争は,台湾をアジア太平洋地域における一大経済拠点とするための環 境整備を課題とした国民党政府が,未統一であったローマ字表記の統一化を図ろうとしたことで開始 したのであったが,同時に,教育改革の一環として学童の言語学習上の負担軽減を目的とした新たな 拼音の採用までもが統一化の議論の範疇に入れられたことが事態の複雑化を招くこととなった。だ が,台湾の拼音問題の全体像を理解するには,近現代中国・台湾における拼音の歴史をみる必要があ るだろう。次に,近現代の中国と台湾における拼音問題の歴史的経緯を簡単に振り返ってみたい。

中国語の音標表記システムの問題とは,歴史的にみれば極めて新しい問題でもあった。そもそも,

表意文字である漢字を用いる中国語には,日本語の仮名文字のような表音文字が存在しなかったが,

各地方で異なる読音がありながらも,表意文字である漢字の持つ視覚的統一性により「書同文」とし ての共同体性が維持され続けてきた。しかし,中華民国建国後,国民国家建設のための共通語の制定 と普及が求められ,北京官話を「国音」の基礎とした「国語」が制定される。その国語の普及に際し て必要とされ,誕生したのが1918年に公布された「注音符号」7であった。

五四新文化運動では旧来の文言文(文語体)から白話文(口語体)への転換がもたらされたが,同 時期に誕生した注音符号も教育改革を推進する利器となるべく創造された。だが,広大な国土を抱え る中国の共通語として人為的に制定された国語の読音を正確に発音できる者は現実には多くなく,独 自の注音符号の普及は順調には進まなかった。一方,西洋文字で漢字を表記するローマ字拼音につい ても,それが各国で採用されている重要な表記法であるとして,国民政府は「国語ローマ字」8を考 案し,1928年に公布した。とはいえ,中国独自の注音符号の普及が前提とされ,その国語ローマ字

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も声調記号が不要である代わりに,声調に応じた書き分けが求められる過度に複雑化した表記方法が 災いし,普及は進まなかった。

やがて,1949年に国共内戦で敗退した国民党が台湾に逃れ,共産党政権による中華人民共和国が 建国されると状況が一変する。かねてから教育の普及と近代化のため文字改革を企図していた共産党 が政権を奪取したことで,中国大陸では漢字の段階的な簡略化を経た後に廃止する方針の下,1956 年に「漢字簡化方案」によって簡体字が公布され,1958年には国民政府の注音符号を廃してローマ 字による漢語拼音が公布・制定された。

他方,台湾に目を向けてみると,日本植民地期の台湾では,日本語が国語として普及していくなか で仮名文字が識字と教育の普及に大きな役割を果たした。しかし,多数の台湾漢人の母語である台湾 語(閩南語)については,欧米の宣教師による福建省での宣教経験が生み出したローマ字表記法であ る「教会ローマ字」を活用した蔡培火によるローマ字運動などがあったが,当局に阻まれて成功しな かった9。その教会ローマ字は戦後も使用され続けたが,使用者がキリスト教信者中心であったこと や,漢字の保全を第一とし,拼音には漢字学習の補助としての役割しか認めなかった政府の国語推進 の圧力の下で普及には至らなかった。

1.2 拼音に込められた意味・役割の変容

ところで,近代中国では音標表記システムに対しては民族主義者から往々にして疑念の目が向けら れるものであった。その理由とは,ラテン文字(ローマ字)への表記法の改革が進められた地域10 と同様,ローマ字が漢字を代替しうる可能性を有していたからであった。

近代帝国主義はアジアの多くの地域を植民地に変えたが,列強諸国による脅威の下,1930年代に おいてもなお人口の約8割以上が非識字であった中国では11,国力の増強にとって大衆の識字率向上 が急務であった。何より,社会進化論的な立場からは「伝達手段としての文字は次第に簡素化へ向か うもの」であり,難解な漢字が教育,ひいては近代化を阻害してきた根本的な害毒であるとの見解は 当時の社会で流行を極めた。しかしながら,漢字改革に対する保守派の圧力は少なくなかった。中国 独自の注音符号も本来は「注音字母」と命名され,漢字を代替する可能性を有していたものの,その 名称は後に「符号」に改められ,その役割は漢字を補助する道具に限定された12。事実上,中国初の 拼音文字案として登場した国語ローマ字も,結局のところ漢字を補助する注音符号の「第二式」とし て位置づけられるものであった13

魯迅は「漢字が滅びなければ,中国は必ず滅びる」と述べて新文字運動を支持したが14,ローマ字 でもって漢字の読音を普及させるに止まるのではなく,漢字そのものをローマ字に代替させる実験は 共産党が実効支配する地域を中心に進められた。共産党は「ラテン化新文字」15をもって漢字の代替 と非識字の一掃を目標としたが,漢字保守の立場に立つ国民党はラテン化新文字の使用を禁止した16

だが,1945年に中華民国の一省となり,1949年以降は対岸の共産党政権と対峙することとなった 台湾では,共産党政権の中国文字のラテン化計画を「伝統文化の破壊」と非難する国民党政権が,文 化保守の立場から注音符号以外の拼音に対して制限を加えるようになっていった。1952年には自国 民がローマ字で中国語を綴る行為は禁止され,教会ローマ字による台湾語聖書も取り締まりの対象と なった17。共産党政権が漢字の廃止と文字のラテン化を視野に入れていたことから,伝統文化(文字)

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保全の立場をとる国民党政府としては,西洋文字を用いた拼音の普及は積極的に講じるべき政策とは ならなかったのである18。ローマ字は中国語を解さない外国人の便宜を図る用途に限定されたが,そ こで広く使用されてきたのは一般的に慣用されてきたウェード式の綴りであり,国民政府自らが制定 した国語ローマ字ではなかった19

やがて,台湾では教育が著しい普及をみせ,東アジアでは長年にわたって日本に次ぐ初等教育の普 及率を誇るまでになった。かつて簡略化の是非が大論争となった漢字も,就学率の向上と教育の普及 により,「字画が難解で学習が容易でないことから近代化を阻害する」との説明も説得力を失っていっ た。戦後の台湾では従来の「国語」と「繁体字」が使用され続けた一方,中国では「普通話」と「簡 体字」に呼称や文字が変更されたが20,漢字のラテン化が前提として考えられていた共産党政権によ る漢語拼音の開発と推進も,簡体字が使用され続けることで,拼音文字による漢字の代替はやがて現 実味を失っていった。両岸において,拼音が漢字を代替する可能性は消失することとなり,拼音文字 の役割は変容をみせたのである。

2. 台湾における拼音論争

2.1 拼音システム統一化問題の浮上―「国際化」の側面から―

中国と台湾双方において,拼音文字はあくまで漢字の音を表記する記号として,その役割は固定化 されるに至った。しかし,語学教育であれ地名表記であれ,全てが西洋文字を用いた漢語拼音で一元 化されている中国大陸に対して,台湾は国語教育では独自の注音符号が使用されるものの,ローマ字 による地名表記は一向に統一化されることなかった。これが後に台湾で生じた論争の元凶となったの であったが,それでは,1990年代の台湾で起こった拼音論争はいかなる経緯で開始したのか,次に その概要についてみていきたい。

戦後,中国では漢語拼音での一元化が進められた他方,台湾では従来の注音符号以外,音訳システ ムの統一化は放置され続けた。両岸での異なるシステムの採用と棲み分けは,冷戦下では問題視され ることはなく,むしろ当然視されていたといえるが,台湾における戒厳令解除と民主化の開始(1987 年),冷戦終結(1989年),両岸関係の変化とグローバリゼーションによる「国際化」が1996年から 拼音問題を浮上させたのであった21

1990年代半ばに突如勃発した台湾の拼音論争は,国民党政府が打ち出した「アジア太平洋オペレー ション・センター」構想22を発端としていた。台湾をシンガポールのようなアジアにおける国際経 済ハブにすべく,英語に堪能な人材の育成といった台湾の国際化推進策が打ち出されたのであった が,同構想を受けて「即座に解決すべき問題」として挙がったのが台湾における英訳名称の統一化 だったのである。

既述のように,台湾では学童の国語学習が独自の注音符号で統一されていたのに対して,道路表記 や郵便用の地名表記に用いるローマ字表記に関しては主管が存在せずに放置され,未統一の状態が続 いていた(例えば,中央政府の交通部観光局や内政部路政司・地政司ではウェード式,郵政局では郵 政式が使用され,その他にもイェール式等が存在)23。しかも,共産党政権が1958年に開発した漢語 拼音に対抗するため,1986年に教育部が独自のローマ字表記である「国語注音符号第二式」(注音符 号第二式)24を公布していたため,台湾ではローマ字表記をめぐる混迷が極めて深刻な状態にあった。

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例えば,「忠孝東路」の道路標記はウェード式で「Chung Hsiao E. Rd」と表記されてきたが,注音 符号第二式では「Jungshiau Dunglu」となり,道路標識や地図では同じ道路・地名に対して異なる表 記が並ぶなど,混乱は極限にまで達していた。これらの英訳名称の混乱は台湾の国際化を進めるうえ で早急に解決が必要であるとした国民党政府は,1996年に入ってようやくローマ字表記法の統一化 に向けて動き始める。19964月に行政院経済建設委員会はアジア太平洋オペレーション・セン ター構想推進のために道路や地名の英訳名称の統一化を決定し25,同月下旬には教育部が公布した注 音符号第二式の採用が正式決定された26。当時は,共産党との政治的競争・対抗関係から,台湾の拼 音システムに注音符号第二式が採用されたのは当然の結果であり,漢語拼音との互換性が問題として 挙がることはなかった。

だが,台湾全土の統一音訳システムとして注音符号第二式採用が決定されると,野党である民主進 歩党・陳水扁の施政下にあった台北市が反発する。「注音符号第二式は国際標準に見合うものではな く,外国人にとっては受け入れられにくい」という理由から,翌年の1997年に市長・陳水扁が総統 府直属の研究機関である中央研究院に対し,台北市の街道の音訳システムを検討するよう指示した。

その結果,同年9月に「国際標準」の漢語拼音を改良した「漢字訳音」(後の通用拼音の原型)が提 出され,台北市の民政局長が採用を決定したことから事態は大きく急変していったのである27

2.2 通用拼音の誕生と漢語拼音の採用決定

漢語拼音を改良した「漢字訳音」は,その後「通用拼音」の名称で表舞台に登場していく。通用拼 音とは,中央研究院の余伯泉によって考案された表音システムであり,例えば漢語拼音のx, q, zhを

改良してs, c, jhに変えるなど,閩南語や客家語の学習にも使用可能とされたものである。例えば,

先述した「忠孝東路」を例に挙げれば,漢語拼音では「Zhongxiao Donglu」となるが,通用拼音で は「Jhongsiao Donglu」となる(表1)。

この通用拼音は,1998年4月14日の台北市政会議で採用が決議され28,同月から市内の道路標識 やMRT等の公共交通機関の表記が通用拼音に順次変更された。しかし,この台北市の単独行為は即 座に中央政府からの非難をよぶこととなった。19988月,監察院の教育委員会は「人名・地名の 中文訳音の基準が統一されておらず」,「主管機関が不明である」ことを是正するよう行政院に対して 要求し,台北市に対しては「多数の政府機関がこれまでに注音符号第二式に対して注いできた努力を

1 拼音表記の違い

出所: 筆者作成

注:表では以前使用されていたウェード式に限り「東路」を「E. Rd」,「西路」を「W. Rd」と表記しているが,実際の道路表記 では他の拼音についても同様の表記法がとられている。

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全く顧みない行為」と非難した29

ここで注目すべきは,通用拼音が本来その独自性として打ち出していた点が「漢語拼音との差異化」

ではなかったことである。この時点では,「台湾が国際的に孤立することを阻止」するという名目に おいて,むしろ漢語拼音と90近くの互換性を持つものとして,いわば漢語拼音の双生児として考 案されたのであった。

だが,国民党政府の対共産党イデオロギーによって通用拼音は猛烈な反対を受け,1999年1月26 日,教育部は改めて注音符号第二式を標準として定めた「中文訳音統一規定」草案を公布する30。こ れに対して,著名な学者の李遠哲31を筆頭に各界から異論が呈されたため,行政院は同年2月9日 に外国籍人士らを招聘して「中文英訳座談会」を実施する。その座談会で注音符号第二式に対する異 議が相次いで出され32,その結果を受けて,漢語拼音の採用について改めて検討し直すという可能性 が行政院副院長の劉兆玄によって初めて示されることとなる33。「中文訳音」に関しては,国民党の 立法委員からも「台湾を真に国際化された社会とするため」,「注音符号第二式を廃止し,漢語拼音を 採用すべき」との提言があり34,漢語拼音が一転して有力候補となる。結局,7月26日に「中文訳 音には漢語拼音を採用」との決議が行政院の教育改革会議において下されたのである35

国際化の大義名分のため,国民党政府が独自の注音符号第二式を捨てて漢語拼音の受容を決定した ことは,極めて象徴的かつ歴史的な出来事であった。漢語拼音は共産党が戦後に開発したシステムで あったが,国際社会における漢語拼音の採用と標準化36という現実を重く見て,かつては「漢賊不 両立」を唱えていた国民党が同システムを受容したことは国民党の変容をも意味していたといえよ う。他方,通用拼音を採択した台北市では,1998年の選挙で民進党の陳水扁から国民党の馬英九へ と市長が交代していたが,中央政府の決定を受け,国民党の施政下に戻った台北市も1999826 日に通用拼音から漢語拼音への切り替えを決定した37。ここに,漢語拼音による「中文訳音統一規定」

の制定は確実な趨勢となったかにみえた。

2.3 政権交代と通用拼音の採用

だが,20003月の総統選挙において,台北市長であった民進党の陳水扁が勝利を収めたことで 事態は一変する。与党・国民党の敗北と戦後初の政権交代は拼音政策の転換をももたらすこととなっ たのである。拼音政策の最終決議は教育部国語推行委員会(国語推行委員会)に委ねられていたが,

陳水扁政権誕生後に改組され,「本土(台湾)派人士」を多く迎え入れた同委員会は2000年9月16 日に突如として通用拼音の採用を決議し,10月7日には通用拼音を全国の「中文訳音」の統一基準 に定めた「中文訳音統一規定」草案が教育部によって公布されたのである。

この「通用拼音採用」の決定には,国民党側から猛烈な反発の声があがった。そこでは,「漢語拼 音こそ世界的な潮流」(台北市長・馬英九),「通用拼音の採用は前時代に逆戻りさせ,国際化の障害 となる」(前教育部長・楊朝祥)といったように38,「国際的制度との整合」〈与国際接軌〉という「国 際化」に反するものとして非難された。交通部は,1996年の決定を受けて国内の道路標識の8割が すでにウェード式から注音符号第二式に掛けかえられているなか,これ以上の拼音政策の改変は経費 と資源の無駄な浪費を招くだけだとして反発した39。しかしながら,民進党側は,これが単なる「国 際化」の論理だけで処理できない問題であるとして反論した。通用拼音採用に対して実質的な主導権

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をとっていた教育部政務次長の范巽緑は,「この決定は,『国際的制度との整合』,『本土言語教育』40

『国内の受容度』の三原則に基づくもの」であるとし,これがもはや「中文訳音」に止まらない問題 であることを示した41

当初において,「中文訳音」の統一はグローバリゼーションに伴う「国際的な環境整備のための必 要性」を理由として提唱されたに過ぎなかった。しかし,それに加え,次第に「国内的な教育・学習 ツール整備のための必要性」が浮上したことが,拼音システム統一化問題を複雑化させていった。台 湾では長年の一元的な国語教育を改め,1996年から開始した「郷土教学活動」の一環として母語教 育が実施されるようになっていたが(2001年から「郷土言語教育」として必修化)42,国語の学習に は注音字母が使用される一方,母語学習には基本的にローマ字が使用されること43が学習負担につ ながると指摘されてきたため,教育改革の一環として拼音システムの統一化が新たに提唱されるよう になっていたのである44

とはいえ,国語教育での注音符号廃止の是非については多くの学者が反対を表明し45,国民党政権 期の教育部も「国内の学生の国語学習には注音符号を引き続き使用し」,廃止しない方針を発表して いた46。行政院の教育改革会議でも「国民の国語学習に注音符号を引き続き使用」することが決議さ れたことからも47,教育改革の一環として浮上した拼音システム統一化の議論から注音符号は早々と 外されたのだった。

このようにして国語教育は拼音システム統一化の議論から除外されたのであったが,そうであって も,通用拼音支持者にとって拼音問題は依然として「中文訳音」と「母語教育」両方の問題であった。

そのようななか,上述した教育部政務次長の范による通用拼音支持だけでなく,2000年9月の国語 推行委員会でも賛成14票反対6票で通用拼音が可決されたにもかかわらず,教育部長である曾志朗 が「学術的見地」から「漢語拼音支持」を表明し,行政院に対して漢語拼音の採用を建議したために 通用拼音支持者から猛反発を受けることとなる。教育部内での対立が表面化したことにより,再度十 分な意見調整が行われる必要があるとして行政院は同案件を教育部に差し戻したのであったが,この 混乱に業を煮やした台北市の馬英九が独自に漢語拼音採用の決定に踏み切るなど,状況はさらに混迷 の様相を見せるようになっていた48

だが,その曾志朗の辞任後,20022月に新たな教育部長となった黄栄村がこの政治的「地雷」

の処理に着手すべきことを明言し49,その5ヵ月後の710日に「中文訳音」システムは国語推行 委員会において賛成10票,反対0票で通用拼音の採用が最終的に決議される。この決議により通用 拼音での統一化がようやく実現をみたものの,しかしながら,この決定に対する新聞各紙の社説は,

通用拼音賛成派50と反対派51に二分され,あたかも「統独」(統一/独立)問題に対する各社のスタ ンスを反映するかのようであった。その後,822日には通用拼音を統一基準と定めた「中文訳音 使用原則」が行政院によって公布されたことで論争は収束へ向かった52

1996年から約7年間に及んだ拼音論争を経て,2002年に台湾独自の通用拼音が全国の統一基準と して採用されることとなった。当初は国民党系の県市が漢語拼音,民進党系の県市が通用拼音,と明 確な立場の主張があったものの53,通用拼音を採用する地方政府への優先的な財政補助が行政院に よって発表されると通用拼音が優勢となっていった54。他方,母語教育での使用に関しては,客家語 には通用拼音が多くみられるようになった一方55,人口の大多数を占める閩南語では通用拼音による

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統一基準の制定には至らなかった(その後2006年に通用拼音とは異なるローマ字による統一規定が 示される56)。結局,2002年までの状況としては,「中文訳音」と「母語教育」のいずれにおいても 通用拼音による統一化が果たされることはなかったのである。

3. 言語政策とアイデンティティ問題 3.1 「本土化」と通用拼音

ローマ字表記法の統一化の困難さについては,日本で訓令式とヘボン式の二種類のローマ字表記が 併用され,韓国では2000年になってなお新表記法が採用されたように,東アジア全体をみてもそれ は決して台湾独自の問題ではない。だが,拼音論争の発生における台湾独自の要因の一つとして確実 に挙げられるのは,独自の主体性を希求する台湾アイデンティティの高揚であろう。

台湾は1945年に日本の植民地統治を脱して中華民国の一省となったが,1949年に国共内戦で敗退 した国民党が台湾に退去したため,国号は依然「中華民国」のままである。戒厳令が敷かれ,国民党 の一党支配が続いた1987年までは,正統中国を標榜する国民党の教育・文化政策の下で中国ナショ ナリズムが優勢であったものの,その後はあらゆる方面で「本土化」の傾向が強まり,中国大陸との 長期に及ぶ隔絶は中国人アイデンティティとは異なる台湾人アイデンティティの高まりをも示すよう になっていった57。それに加え,当初「台湾独立」を党是としていた野党・民進党が2000年に戦後 初の政権交代を実現させたために,初の本省人総統として「本土化」を牽引していた李登輝時代

(19882000)に進められた教育・文化面での「本土化」が一層加速することとなった。

このような情勢の下,上述したグローバリゼーションによる国際化が理由とされた他方,文化面で の「本土化」という観点から通用拼音が誕生し,結果的に通用拼音は中国とは異なる台湾という文化 的主体性の確立のためにその必要が叫ばれたのだった。例えば,通用拼音の開発者である余伯泉は,

自己の国家独自の言語政策の保持が,国家の主体性を守るうえで極めて重要であることを次のように 説明していた。

「台湾は主権国家であるが,しかし国際的には中華人民共和国からの圧力により往々にし て国家としての承認が得られていない。言語は国家を形成する要素の一つであることから,

台湾はなおさら自己の国家言語の基準を保持し,国際社会に対して台湾が一つの主権国家で あることを示す必要がある。」58

さらに余伯泉は,「グローバリズムとローカリズムが結び付き,台湾の主体性が国際性と結び付い た」結果として誕生したのが台湾独自の「台湾拼音」,すなわち通用拼音なのであり,「世界標準」と される簡体字とは異なる繁体字を台湾が堅持していることと同様に,台湾の言語面での主体性を保持 する役割を通用拼音が担っていると説いていた。この余の説明のように,通用拼音の支持者にとって 音標表記システムにしてもそれは文化的主体性―台湾アイデンティティ―を守るための重要かつ不可 欠な要素と見なされていたのであった。

ちなみに,論争では,漢語拼音を使用しながらも文化的自主性を保持し,なおかつ高い国際的競争 力を誇るシンガポールの例が挙げられるなどしたものの59,国際社会からは独立した主権国家として

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扱われるシンガポールに対して,多くの国から主権国家として承認されず,中国の一省として見なさ れる台湾では両者の立場は決定的に異なるといえる。そのようななか,中華民国の国号を維持しつつ も独立志向を内に秘める民進党政権下の台湾にとって,漢語拼音の採用という,中国との同一制度の 許容と受容は自身の定位にかかわる大問題とされ,現実的には即座に実現が困難な独立を文化面での 脱中国化とネーションビルディングで達成しようと図る民進党政権による通用拼音の採択は当然の帰 結であった。

3.215%の差異と「主体性」

だが,この通用拼音採択に対する反対派の反応は実に過剰なものであった。通用拼音の採用に対 し,大陸メディアの中新網は「台湾は独立した言語システムを推進しており,その意図は台湾通用言 語の主体性を打ち立てることであり,教育文化の手段でもって大陸と台湾の文化的紐帯を断ち切り,

台湾独立の夢を達成しようとしている」との反応を示し60,また,国民党の『中央日報』も通用拼音 の採用に対しては同様のトーンで「最悪なことは,それが必ずしも中国からの独立という『台独』に はならず,むしろ世界文明からの独立[孤立]という『台独』になることである」61([ ]内は引用者)

と過剰な非難を行っていた。

しかし,漢語拼音と通用拼音の差異はそれほど大きいとはいえない。通用拼音は漢語拼音と85 の互換性があり,異なるのは15%(開発当初は11.3%)に過ぎず,最初に国民党政府が推進を決定 した注音符号第二式は,漢語拼音との互換性は62.2%,しかも差異性は37.8%と通用拼音の倍以上 であり62,この違いをみれば通用拼音が如何に漢語拼音により近い存在であるかがわかる。注音符号 第二式の採用に国民党政府が固執していた以前の状況を鑑みれば,通用拼音が採用されたことでむし ろ両岸の文化的差異は縮まったといえるものの,急激に可能性を帯びた両岸の制度的同一化が失敗に 終わったことで,統一派は過剰なほどの反応を示したのであった。

国民党は1999年から突如として漢語拼音支持の立場にまわったとはいえ,それまでは漢語拼音の 採用など考慮される余地すらなかったのであり,漢語拼音を基礎として考案され,漢語拼音と85% も互換性を有する通用拼音の採用時に対して浴びせられた「反国際化」,「文化的な台湾独立」の非難 は従来国民党がとり続けてきた立場からは大きく矛盾するものであった。そもそも,漢語拼音を採用 しなければ台湾は国際競争力を失うという議論の非論理性は,台湾がこれまで国際社会のなかで確立 してきた経済的地位をみても明らかであろう。この点については汪宏倫が香港の例を挙げて指摘する ように,香港では返還時に約束された「50年間不変」の原則に基づき,1997年の中国返還後も道路 標示やパスポートの人名表記の標準として漢語拼音が制定されていないが,にもかかわらず,そのこ とはすでに中国の一部となった香港の国際化のさらなる進展を何ら妨げるものではない63。国際的な 制度との同一化と国際競争力は,拼音に関していえば必ずしも同一の問題ではないのである。

この拼音論争で露呈されていたもの,それはグローバリゼーションによる制度的同一化の下で進め られようとした「国際(中国)化」と,それに抵抗しようとする「本土(台湾)化」の間で顕在化し た台湾のナショナル・アイデンティティの分裂状況であった。漢語拼音と通用拼音の差異は15%と されるが,たとえわずか15%の差異であったとしても,そこには確かに台湾の持つ文化の独自性と 主体性を認めることができるだろう。だが一方で,15%の差異のなかに独自性を見出し,その意義を

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主張せざるを得ないところに台湾の「主体性」のありようと難しさが看取できるのかもしれない。

3.3 拼音政策の転換と「新北市」英訳問題

以上のように,拼音論争は2002年の民進党政権下での通用拼音の決定によって終結したかにみえ た。ところが,その6年後に予想外の逆転劇が生じることとなる。2008年の総統選挙における謝長 廷の敗北と馬英九の勝利により,国民党が民進党から政権を奪回したことによって,拼音政策で下さ れた決定が覆されることとなったのである。

馬英九政権は,かつて教育部長在任時に漢語拼音の採用を強硬に主張していた曾志朗を行政院政務 委員に抜擢する。その曾が政界の表舞台に復帰するや否や,2008916日,教育部の提案を受け た行政院は通用拼音から漢語拼音への変更に同意し,200911日から「中文訳音」システムは 漢語拼音へと切り替えられたのである。

結局,政治権力の交代によって大転換をみせた拼音政策であったが,しかし,拼音問題はこれで解 決したわけではなかった。政策転換の翌年である2010年10月,台北県が新たに「新北市」の名称 で直轄市へ昇格することとなったが,同市の英訳名称が問題として浮上したのだった。

直轄市への昇格前,台北県民政局は「中文訳音使用原則」の規定に基づき,漢語拼音による音訳の

1 台湾高速鉄道の標識(台北駅)

台北(上)から左営(下)までのうち,板橋は通用拼音,左営は通用拼音と漢語拼音で共通,桃園・台南は通用・漢語拼音,ウェー ド式で共通,その他の台北,新竹,台中,嘉義はウェード式のままとなっている(20118月,筆者撮影)。

(11)

「Xinbei City」を英文名称としていた。ところが,この決定が世論および民進党の反対を招くことと なったのである。

そもそも,「中文訳音」の規定を定めた「中文訳音使用原則」では,漢語拼音が原則とされている ものの,「他に定めるものを除く」として,例外も設けられていた。例えば,歴史的な名称(歴史上 の王朝,地名,伝統的な習俗や文化的な名称)のほか,台北をはじめとする国際的にすでに通用度の 高い名称は漢語拼音での「Taibei」ではなく,旧来通り「Taipei」での使用が認められていた(図1)。

このように,厳密には必ずしも漢語拼音しか許容され得ないわけではなかった。だが,例外とされ るのはすでに存在し慣用されている名称であり,新たな固有名詞には当然のことながら漢語拼音が適 用されるはずであり,内政部に対しても台北県は音訳で報告済みであった。ところが,「新北市」に 漢語拼音特有の「x」が含まれることへの拒否反応があったためか,台北県の委託による世論調査で は,音訳の「Xinbei City」は好ましい表記ではなく,むしろ,意訳の「New Taipei City」が圧倒的 に支持される結果として出たのである64

結局,音訳の「Xinbei City」か,それとも意訳の「New Taipei City」という二者択一に対する最 終的な決断は新市長に委ねられることとなったが,新市長にはかねてから意訳名称を支持していた国 民党の朱立倫が就任したことから,その名称は「New Taipei City」として内政部に提出,受理された のであった65

新北市の意訳には,市民全員でこれから「新たに」創造していく都市という建設的な意味が込めら れていると朱立倫は説明していたが66,内政部に報告済みであった音訳が急遽意訳に変更されたこと については,明らかに世論調査での意向を重く見た結果であった。民進党政権期の通用拼音採用決定 は国民党の与党復帰により覆されたが(表2),経済面での効率性だけが求められた場合には,漢語 拼音の優位性は確かに否定できないといえよう67。しかし,この「新北市」英文名称の事例は,グロー バリゼーションの圧力の下で進められていった漢語拼音による制度的同一化に対して,拼音問題はや はり表象とアイデンティティの問題であるとして,台湾の世論が自身の文化的主体性を求めて異論を 呈した好例であったといえるのではないだろうか。

2 「中文訳音」システム採用決定の変遷

出所:筆者作成

注: 上記のうち,中央については政府の各部局内で行われた決定とその時期を示しているが,正式に行政院から公布されたのは 2002年の「中文訳音使用原則」による。注音符号第二式の中央での採用は1996年の行政院経済建設委員会での決定(教育 部は1986年)に遡るが,拼音論争は1999年に教育部の「中文訳音統一規定」草案で注音符号第二式が改めて標準と定めら れたことで激化した。注括弧内は当該決定がなされた際の与党(台北市は首長の所属政党)。

(12)

おわりに

グローバリゼーション下での制度的同一化の高まりは,未統一であった「中文訳音」の見直しを迫 り,それが台湾における拼音論争をもたらす原因となった。歴史的にみると,拼音問題とはローマ字 による漢字の代替という脅威が消失した後,グローバリゼーションの進展によってようやく統一化が 求められたことで浮上した問題であったが,この拼音論争から見えてくるものは,両岸関係と国内政 治の変化を受けて,国民党と民進党の二つの政治主体がそれぞれ「国際化」と「主体性」を担保とし て,交互に立場を入れ替えながら争われた政治的正当性の主張であった。

1990年代までは,敵対する共産党政権による漢語拼音に対抗する国民党政権は独自の注音符号第 二式を提唱していたものの,国民党に対抗する民進党は,共産党のシステムが「世界標準」であるこ とを理由に,共産党のシステムに互換性を持たせて開発された通用拼音を支持した。民進党にとって の通用拼音とは,「国際的制度との整合性」という大義名分の下で自身の政治的主張の正当性を下支 えるものであり,当初では国民党は「主体性」の,民進党は「国際化」の代弁者であるはずであった。

ところが,国民党に拮抗しうる現実的な政治的脅威へと成長した民進党を前に,国民党は1990年代 後半に大胆な方針展開を行い,従来の態度を一変させて漢語拼音採用へと動いた。かつて民進党は共 産党が開発した漢語拼音のシステムに「国際化」のラベルを被せることで国民党の擁する注音符号第 二式への対抗策としたが,その後,国民党は民進党と同様の手法でもって―なおかつ民進党よりも さらなる「国際化」の牽引役としてのポジションを印象づけるべく―一転して漢語拼音の容認・採 用へと動いたのであった。

「国際化」のスローガンを奪われたことで,民進党は台湾の「主体性」に主張を転換させて漢語拼 音の採用に反対するほかなく,結果的に民進党は「主体性」の,国民党は「国際化」の代弁者になる

2 彰化県鹿港での道路標識

漢語拼音への変更が決定した後も依然として通用拼音の表記のままである。鹿港の表記はウェード式(20118月,筆者撮影)。

(13)

という主客転倒の状況が引き起こされた。2000年の民進党政権発足により2002年に通用拼音の採用 で決着がついたかと思われたものの,2008年の国民党への政権交代は漢語拼音が通用拼音の座を奪 い返す逆転劇をもたらしたのであった。

以上のように,拼音論争は行政院による「中文訳音使用原則」の変更により,最終的に漢語拼音派 の勝利に終わった。とはいえ,注意すべきはこの「原則」が行政命令に過ぎず,強制力を伴わない点 である。台北以外の多くの地方ではいまだ通用拼音の標識が多く残され(図2),修正作業のための 経費も10億新台湾ドルが見込まれていることから68,台湾全土の地名表記が漢語拼音に掛けかえら れるまでには依然として時間が必要であろう。漢語拼音派と通用拼音派の論争は漢語拼音の採用でひ とまず幕を閉じたが,台湾内部の政治的変化が対立の構図をしばしば逆転させたように,民主化以降 の文化的「本土化」の流れにおいて,台湾の言語政策には「本土化」(もしくはローカリゼーション)

と,グローバリゼーションの深化に加え,政権交代によって再浮上しかねない脱中国化という問題が 複雑にからんでくることも,先行きの不確実性を高めさせているといえる69。台湾の曖昧な国際的地 位は―それが曖昧であるがゆえに―拼音論争をアイデンティティ論争へと転化させたが,そのわ ずか15%の差異性にこそ,台湾の複雑かつ曖昧な立ち位置が如実に反映されていたといえるのでは ないだろうか。

1 この一事例としては,1950年代の「簡体字論争」が挙げられる。台湾でも1950年代に「簡体字」公布に向けて教育部が「簡 体字研究委員会」を立ち上げるなど文字改革への機運が高まった時期があった。しかし,一方の中国大陸で共産党政権が 1956年に「漢字簡化方案」を公布し,台湾に先んじて「簡体字」を採用したため,台湾では保守派の反対を受けて実現に至 らなかった(詳しくは拙書『台湾の言語と文字―「国語」・「方言」・「文字改革」』(勁草書房,2012年)第4章を参照)。

2 拼音(ピンイン)の語は,共産党が開発した漢語拼音と同義として使われる場合もあるが,本稿では中国語の定義に従い,

広義の意味での表音式表記を指す語として原文の「拼音」をそのまま使用する。

3 新中国成立後,共産党が制定した標準中国語のローマ字表記法は「漢語拼音方案」として1958年に公布され,その後は一 貫して漢語拼音の普及が推進されてきた。

4 1949年の中華民国政府の台湾移転後,台湾が全中国を代表するという中国ナショナリズムの下,教育文化では中国国家文化

(言語)が重視される反面,台湾の地方文化(言語)は一段低く位置づけられ,周辺化される結果がもたらされた。だが,

1987年の民主化以降,とりわけ初の本省人総統となった李登輝政権下では,従来の中国ナショナリズムに代わり,台湾の地 方文化をナショナルなレベルに引き上げていく「本土化」(台湾化)が主流となっていた。言語面では,2001年から実施さ れた郷土言語教育(母語教育)が好例。言語・文化面での「本土化」については,上掲した拙書のほか,次の拙書を参照さ れたい。拙書『台湾の国家と文化―「脱日本化」・「中国化」・「本土化」』(勁草書房,2011年)。

5 日本語では有働彰子「台湾の言語領域における『台湾化』の動きとそのジレンマ―漢語ピンイン論争を中心に」(『現代台湾 研究』第3031号,2006年,175183頁)があるが,初期の論争紹介に止まる。その他,山崎直也の研究でも論争の一部 が紹介されている。山崎直也『戦後台湾教育とナショナル・アイデンティティ』東信堂,2009年。

6 王麗雲「中文拼音政策的争議与課程政治面向的反省」『教育研究集刊』第48輯第1期,20023月,95131頁。汪宏倫「全 球化与制度同形化:従拼音争議看台湾『国族問題』的後現代情境」『政治与社会哲学評論』第3期,200212月,121178 頁。何萬順「『全球化』与『在地化』:従新経済的角度看台湾的拼音問題」『人文及社会科学集刊』第17巻第4期,2005 12月,785822頁。その他,専門家による論考をまとめたものに,李壬癸主編『漢字拼音討論集』(台北,中央研究院語言 学研究所籌備処,2001年)などがある。

7 1918年に公布された中国語の発音記号。北京官話音を標準とし,漢字の古形に基づいて作られた声符(子音)21と韻符(母

音)16から成る。

8 国語ローマ字〈国語羅馬字〉は,1926年に教育部国語統一籌備会において考案され,19289月に国民政府大学院から正 式公布された。黎錦煕『注音漢字』上海,商務印書館,1936年,142143頁。

9 蔡培火の台湾白話字普及運動については陳培豊の研究に詳しい(陳培豊『「同化」の同床異夢―日本統治下台湾の国語教育 史再考』三元社,2001年)。戦後,蔡培火がローマ字ではなく注音符号を活用した「閩南語注音符号」を提唱した経緯につ いては拙書第6章を参照されたい(前掲拙書『台湾の言語と文字―「国語」・「方言」・「文字改革」』)。

(14)

10 例えば,ベトナム語,マレー語,インドネシア語,トルコ語など。

11 倪海曙『中国音文字運動史(簡編)』上海,時代書報出版社,1948年,83頁。

12 同上,8790頁。

13 同上,113頁。

14 同上,138頁。王均主編『当代中国的文字改革』北京,当代中国出版社,1995年,27頁。

15 ラテン〈拉丁〉化新文字とは,ソ連の少数民族文字のラテン化運動に影響を受けた瞿秋白が1921年から研究を始め,1929 年に「中国ラテン化文字方案」がモスクワで出版,1931年にウラジオストクでの中国文字ラテン化第一次大会での「中国漢 字拉丁化的原則和規則」採択を経て主に共産党支配下で普及した。王均主編,前掲書,2536頁。

16 解禁されたのは,日中戦争開始後の1938年。同上,30頁。

17 前掲拙書『台湾の言語と文字―「国語」・「方言」・「文字改革」』8384頁,178179頁。

18 1980年代中期においても,教育部国語推行委員会では「自国民は拼音を学習せずともよい」ことが示されていた。汪,前掲

論文,135頁。

19 そこでは,外国(西洋)人が開発したウェード式を用いてこそ,ローマ字システムが外国人向けの制度であり,自国民に対 して積極的に学習を奨励すべきではないことを示す効果があったといえよう。

20 国民党政権が大陸時代に「国語」と称した共通語の名称を台湾でも使用し続けた他方,1949年に中華人民共和国を建国した 共産党政権は1955年に「普通話」と改めた。字体については,台湾で繁体字が使用され続けた他方,共産党政権は1956 に「漢字簡化方案」を公布して「簡体字」が使用されることとなった。

21 汪宏倫も,「台湾の拼音問題とは,完全にグローバリゼーション問題の反映である」としている。汪,前掲論文,135頁。

22 19941月に行政院長の連戦は,マレーシアとシンガポールへの非公式訪問後,経済発展において東南アジア諸国との経

済的協力関係の構築が重要であると述べ,今後はシンガポールをモデルに,台湾がアジア太平洋における経済活動のハブと なるべく,英語に堪能な人材の育成や国際化に対応した法令の修訂などを進めなければいけないとした。『中央日報』1994 16日,第2版。

23 ウェード式(ウェードジャイルズ式)は,19世紀末にイギリスの駐清公使館に在職していたトーマス・ウェードが考案し,

後にハーバート・ジャイルズが改良したもの。郵政式はウェード式をもとに開発され,1906年の大清帝国郵便聯席会議で制 定された。イェール式は米国イェール大学で開発されたもの。『中央日報』1996419日,第5版。汪,前掲論文,

127128頁。

24 注音符号第二式の前身は,1928926日に南京国民政府大学院長蔡元培が再公布した「国語羅馬字」である。注音符号 第二式は,19845月から1年間の試用期間を経て1986128日に正式公布された。曹逢甫「従語言規格的観点検討 国語注音符号第二式―兼論漢語拼音的優劣」李壬癸主編,前掲書,2223頁。

25『中央日報』1996419日,第5版。

26『中央日報』1996430日,第5版。

27『中国時報』1997911日,第13版。

28『中央日報』1999425日,第17版。

29『中国時報』1998814日,第9版。

30『中央日報』1999127日,第6版。

31 行政院教育改革審議委員会で「通用表音システム」の検討を提起した李遠哲は,注音符号第二式が閩南語等の母語教育に適 せず,かつ大陸の漢語拼音とも重複性が高くないとして,最終的な統一規定草案決定には「半年間の延長が必要であり,慎 重に審議すべきである」と主張した。『中央日報』1999129日,第10版。

32『中央日報』1999210日,第10版。

33 同座談会で,行政院副院長の劉兆玄は「今後はイデオロギーを放棄し,政治的なくびきから解放されねばならない」とし,

従来の思考を改め,漢語拼音の採用を視野に入れて再検討すべき旨の発言を行った。『中国時報』1999210日,第9版。

34 199947日に開催された「街道訳名政策公聴会」での国民党籍立法委員李先仁,羅明才の主張。『中央日報』19994

7日,第5版。

35『中央日報』1999727日,第9版。

36 1972年の中華人民共和国の国連加盟後,1979年に国連は漢語拼音の採用を決定し,1998年には世界最大規模の蔵書数を誇

るアメリカ議会図書館までもがウェード式からの変更を決定した。

37『中央日報』1999827日,第17版。

38『中国時報』2000108日,第9版。

39 同上。

40 ここでいう「本土」とは台湾を指す。

41『中国時報』2000108日,第9版。

42 2001年からは,閩南語,客家語,原住民言語のいずれかを「郷土言語教育」〈郷土語言教育〉として毎週1時限学ぶことが

小学1年次から必修化されている。

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