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運動実践を基盤に置いたスポーツ運動の「概論」構築への検討(第3報)

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運動実践を基盤に置いたスポーツ運動の「概論」構築への検討(第3報)

         一「運動を行う」ことに関連して一

三 浦 忠 雄*

(1995年10月13日受理)

An Attempt to Generalize Movements in Sports(皿)

      Problem of Practicing Sports Movements 一

        零   Tadao MIURA

(Received October 13,1995)

はじめに

 運動についての学問でありながら,「運動を行う」ことから離れて,説明論や解説論に重きがおか れているのが,体育やスポーツの世界における運動の学問の実状である。その原因としては,いろ いろなことが考えられるが,その一つに,体育やスポーツにおいては,運動に関する研究で,強く

「科学的」ということを意識したことが考えられる。それも母体科学とも言うべき,力学や生理学に よって運動(そこでは,測定可能な,再現されうる,モデル化された運動として捉えられることが 多いのだが)を説明することにその「科学性」が認められ,運動をどのようにして,うまく行うか のような問題は,経験の世界とされ,それは余り科学的でない,学問になりづらいものと考えられ てきたのである。

 どのように行うか,あるいは何を,どのように指導するかの,いわゆる「方法論」は,原理原 則を研究する生理学や物理学より一段低いものとみなされてきた。方法論は複合的な領域と呼ばれ れば聞こえはいいが,逆にその学問性,科学性はどこのあるのか疑問視されているのである。この ことが,体育やスポーツにおいて運動に関する研究が,行うこと,すなわち具体的な実践感覚をき り捨てての実証主義的研究が多くなった要因であろう。しかし,スポーツの運動は行うことによっ て初めて意味,価値があるのであり,行うこと自体が問題にされ,前舞に立てられなければ,その 依りどころを失うのである。マイネル(K.Meinel)は運動学の科学性は,スポーツ運動経過の客観 的法則性を正しく反映させ,かつスポーツの実践をより高い段階に引き上げることができるという

ことによって実証されなければならない,と言っている1)。

 我々は,運動を行おうと思って(心に企図して)実行にはいる(ヴァイツゼッカー[V.v.Weizsacker]2)

*茨城大学教育学部保健体育講座体育方法学研究室(〒310茨城県水戸市文京2−1−1)

(2)

や養老3)等の指摘する通り,その経過は単純なものにはならないようであり,さまざまな視点から考 察されなければならないが)のである。だからと言って,スポーツ運動において,我々は自分の運 動を全身くまなくそれも同時に企図して動くわけではないし,また運動の開始から終了までの全経 過を通して,注意深く企図しているわけではない。例えば跳び箱運動の時,踏切りの際は手をつく 先(場所)に目がいったり,下半身に注意が集中するだろうし,着手の突き手に意識を集中させれ ば,下肢の動く様子は強く自覚されない。また,習熟が進まなければ,跳び箱に対しての空間の中 で,身体がどのように飛躍しているか思い浮かべることはできないだろう。しかし全体的には運動 はうまく遂行されるのである。それは無意識ということではなくて,経験を重ねた状態の,いわば 自動化への進化と考えられる4)。野球で三塁手が打球を受けて,ランナーを一塁に刺そうとする時,

三塁手のねらいは,そのほとんどをランナーを刺すことに集中し,捕球しながらの行動ということ になる。捕球に意識が集中し過ぎれば,走るランナーにタイミングを合わせることはできないだろ う。優れた選手では捕球動作はほとんど完壁に自動化されているのだが,それは全くの無意識では なく,捕球から投球へつなげる組合せ運動の前提ともいえるものである。バイテンディク(F.J. J.

Buytendijk)の考え方によればrわれわれの運動は,距離とか高さとか,わざわざ頭の中で思い浮か べるようなものではなく,私が意識するのはただ,自分がボールに向かっており,ボールを捕って 投げれば刺すことができる,ということにすぎない。何かある表象とか計画とか考えとかいったも のではなく,この「できる」という見通しこそまさしく,私と情況との関わり方を規定し,見たも のと行為とを直接結びつけつつ私が何気なく行う行動を決定するものである。だからといって,私 は決して自動機械という訳ではなく,あくまで私に見えるものは有意味なものであり,私が為すこ とは有意味な仕方で見たものと関わっているのである。』ということになる5)。

 リクール(P.Ricoeu1)はこのような運動遂行を「監視された自動運動」と呼び,それは意識の暗 黙の許可と隠れた統御だけで働くことになると捉えている6}。リクールによれば,これらの監視され た自動運動と,「どんな瞬間にもわれわれのものとして与えられない反射」とは明確に区別されるも のだとしているT。どのように動こうと心に企図し,遂行に移る経過は相当に複雑な過程があるのだ が,このような問題にも,運動学習に携わる者は無関心であってはならない。重要なことは,学習 者が主体的に,どのように動こうと意図しているか,そして意欲を持って運動しようとしているか を大切にすることで,教師を含め,それが保証される環境をつくることである。

 既報8)で検討してきたように,スポーツ運動においては実行への経過は,ゲーレン(A。Gehren)の 言うように特に意図的,計画的,想像的である9)。このような子どもたちの運動実行への企画性とい

うことを大事にしながら,豊かな,創造的な運動生活を保証,育成することが,学校体育において 重要な視点であり,また運動遂行論の中心的な課題になるであろうと考えるのである。

運動遂行の問題性

 このような視点から体育やスポーツの分野における,「運動を行う」問題性について,運動概論の 構築への検討(講義内容の検討)を考慮して概観すると,次のような諸点が考えられる。

(3)

① スポーツ運動の特性論

 まずわれわれのスポーツ運動は,基本的にどのような特性,特徴をもっているか,という問題で ある。マイネルは,スポーツ運動の特性を把握することは,教育学的運動学(padagogische Bevvegunng−

slehre)の対象領域を明確にし,また規定していくことになると言うIo)。

 まず第一の問題は,われわれが対象とするのは,外から観察できる,すなわち直接に目に見える 運動現象であるという点である。このことはどういうことかというと,ある予断をもって説明し,解 説する前に,スポーツ運動の遂行の中で,何が,どのように行われたかのかを,記述し,確認して いくことが,運動研究の第一段階であるということである1n。スポーツ運動が行われる現象は複雑で,

なかなか捉えにくい。だからと言って,その複雑性から離れて,測定可能な,再現性のある,モデ ル化された運動の研究では,現実の実践感覚から乖離するばかりである。

 運動研究の基本に,運動モルフォロギー(Morphologie der Bewegung)の捉え方をかかげるマイネ ルによると,モルフォロギーの対象は,現実に与えられたスポーツ運動の現象であり,そこでは,わ れわれの感覚器特に目に直接に訴えられる運動形態の把握と記述が前景に立てられる。モルフォ ロギーは,スポーツ運動が漸次に発生したり,形成化されていくのを追求することによって,形態 発生すなわち運動形態の発達と形成の理論へと発展するのである12}。吉田によれば,素晴らしい音楽 演奏が音を聴き分けることによって形成されるように,スポーツ運動では個々の運動経過は眼で見 て判断され,修正され,形成されていく。運動の観察と見抜き,そこから得られた経験知の集積,観 察の客観性を保証する視点,それらが一体となってモルフォロギー的考察法を構成するのである13〕。

 運動を学習,指導する場面において大切なことは,運動現象をわれわれの目でよく見るというこ とである。もちろん運動の形態的変化は,映画やVTRで記録し,再現できるわけであるが,それに おいても肝心なことは,われわれの直接の目で見るということである。スローモーション再生も含 めて,このような機械的な記録の再現は,本来の,現実の現象とはかけ離れる危険性がある。われ われの目は,機械的な記録以上のものを見ることができるし,また感覚的な情報を含めて見ること ができるのである。われわれは,運動を記録し,把握しようとする時,実践感覚を含めて,実際の 遂行される現象からできるだけ離れないで,運動を記述することが肝要である。外から見える運動 の形態的変化は,見る者にさまざまな事実を報告してくれるのである。木村はr行動はかたちを持 っていて,かたちを持っているから目に見えるのである。重要なことは,わたしたちはそのかたち を眺めて,目に見える外面的なかたちの背後にある目に見えない「内面」を推測するという点であ る。推測するというよりも,かなり確実な「直感」でもってそれを見ている。』という14)。木村によ れば,この内面というのは,行動の意図あるいは志向性のようなものである。

 自然科学的な運動研究においては,人間の運動を,感情や意志をもたない,成された結果として の,「眼前に投げ出された」対象15)としてみてきたのである。

 マイネルによれば,モルフォロギー的考察法は,スポーツ運動を目を通して外から知覚していく だけでなく,体験し,中から知覚することによって大きく補充され,拡大されると言う16)。このこと は,運動実践の面からみると,重要なことである。

 第二の点が,スポーツ運動の行為性の特性(Handlungscharakter)である。マイネルは,スポーツ運 動は単に生物学的,力学的現象でもないし,さらに運動を構成している 諸要素 の単純な総和と

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して捉えられるものではないというm。スポーツ運動は現実としてあるまとまりをもった「人間の行 為」としてみるべきであり,マイネルの指摘通りここにスポーツ運動の行うことの問題性,すなわ

ち「行為性」が浮き彫りになってくるのである。

 スポーツ運動はある目標に向けられ,多かれ少なかれ,意識された一定の動機から出発し,また,

意識的に制御され,修正され,改善されていく行動形式なのである18}。このような意識された目標指 向性は,スポーツ運動を人間の行為として特徴づける第一の点である。目標指向性ということでは,

スポーツ運動系は労働運動系と似ているが,労働運動系が生産目的と直結し,さまざまな制約を受 けるのに対して,スポーツ運動系は基本的に自由であり,このことが膨大な変形や組合せを生み出 す,はるかに多くの人間の運動可能性や発展性を引き出すのである。

 しかも有意味な行為としてのスポーツ運動には,なんといっても喜びと自主性の特徴が付帯する

のである19)。

 第三の点が,スポーツ運動の達成性の特性(Leistungscharakter)である。マイネルはスポーツ運動 系の概念には,ある運動課題,ある運動系の達成の実現をその内容とするすべての運動領域が包含 されると,ある意味で幅の広い考え方をとっている2°)。例えば30cmの高さの台から両足そろえてと び下りてみようとか,プールにもぐって,底に置いてある石を拾ってこようとか,どんなに簡単な,

単純な目標でも,その課題の実施に向けて行われ,「意味のある達成」がはかられようとすれば,ス ポーツ運動としてのひとつの内容をもつことになるのである。スポーツ運動系というものは,バイ テンディクの意味において達成運動系(Leistungsmotorik)なのである21)。というよりも,達成運動 系だということを認識することが大切で,課題に対する達成の内容を十分に把握することである。重 要なことは,学習者の習熟レベルに適合した,学習内容や過程に対応したスポーツ運動系としての 意味と価値をふまえた運動課題が設定されているか,ということである。

② 運動を「知る」から「できる」までの経過

 マイネルによると,運動系の学習は,新しい運動を獲得し,洗練させ,定着させ,さらに適用し ていくまでの全過程を含むのである。そしてこの学習過程においては,意識言語,運動表象,示 範説明,練習が重要な役割を演じると論じている22)。動物とちがって人間は人の助けを借りて学び,

認識と熟慮をもって,さらに意識的に学ぶのである。それは人間が言語をもつからであり,言語は 思考を可能にし,また思考しながらの学習をも可能にするのであり,次第に感覚上の多くの直接的 運動刺激を思考的学習におきかえることを可能にするのである23)。

 授業において,新しい運動を学習させようとする場合には,まずその運動を一度見せるのが一般 であり,生徒も学ぽうとする運動の全体がどんなふうになっているかを知りたいのである。その情 報提示の代表が示範である。示範に関する研究事例は多数あるが,重要なことは示範というものは,

学習者に運動遂行への第一歩を踏み出させるものであるということである。このようにやろうとい う,具体的な企図(完全でなくても,ほんの小さなことでも)を持たせられるような情報の提供が できる示範であるかどうかが重要である。

 このことに関してマイネルは次のように指摘する。運動系の学習過程の初めに,きわめて明確な 視覚表象がなければならないという見解は適切ではない。この考え方を主張する人は視覚像,視覚

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表象を運動覚表象と取り違えているのである。単なる視覚表象は新しい運動の習得にまだ余り関係 していない。見るだけで運動ができることはあり得ない。やろうということとやれるということの 間にある矛盾を意識することは,生徒にとって今後の試みや練習の大きな推進力になっていくであ ろうという指摘は重要である24)。

 運動に対する運動覚表象は運動をやり遂げていくプロセスにおいてすこしずつ形づくられるので ある。実際の授業においては,初めには,視覚像や示範の他に,課題や目的の明確な把握と,そし て行為つまり最初の試行があるはずである。その試行を容易にするのは運動を「例示的」に見せる ことであり,また必要な場合には,運動全体を初めて成功に導くような「需助」である25)。

 運動表象が運動習熟の形成に密接な関係をもっていることを,プー二(A.T. Puni)も指摘してい る。これから学習しようとするスポーツ技術についての表象(事前的表象)が完壁であればあるほ ど,運動表象のもつトレーニング効果は大きなものとなるのである26)。プー二によると,運動表象は,

実際の動作が理想的に行われるや否や消滅する。そのときこの表象は,運動習熟の形成を促進する 好ましいメカニズムの中に吸収され,それによって,スポーツマンはスポーツ・トレーニングで新 しい動作の育成と改造を計り,更に,その結果得られた諸表象を利用する方向へと進むことができ るのである2D。

 金子はマイネルが言うように,運動を知る(Wissen)と運動ができる(K6nnen)は区別され,そ の間には多くの問題が潜んでいることを十分に認識した上で,運動学習(当然ここでは,新しい運 動ゲシュタルトが発生する場面に限定しての運動学習の意味であるが)における,図式技術の個人 化のプロセスでの,「わかるような気がする」段階と,「できるような気がする」段階の設定を主張 している。ここでは示された運動像を,感覚運動的に理解する潜勢自己運動(virtuelle Selbstbewegung)

による成功や,それを支える感覚運動性シーケンスを呼び出せる運動経験が必須であるが,これら の経過の把握は,運動の習得について重要な示唆となるであろう28)。すなわち運動学習においては,

学習者の運動経験や運動生活史をふまえた,系統的なプログラム設定ができれば理想的である。

③ 運動の自己観察

 マイネルによると,動物とちがって人間は,練習やトレーニングによって自分の運動を意識的に 訓練し,人間にだけ可能な洗練さや多様さに発展させることができる。このことは,人間が運動覚 による運動性分析器によって,また言語を通して自分自身の運動の「遂行意識」(Vollzugsbewusstsein der Bewegung)をもっているという事実によるものである29)。運動の感覚に基づいて,自分の運動を 意識化することは,人間にとって同時に自分の運動を「対象化」(Vergegenstandlichung)することを 意味する30)。このような対象化は自分の運動を思うままに構築し,操作していく前提となるのである。

 マイネルによると,学習者ははじめのうちは自分の運動経過の詳細について,明確iな運動覚表象 を十分にはもてないでいるが,運動が仕上げられ,洗練されていくうちに,運動諸感覚とそれに結 びっいた運動感(Bewegungsgeftihl)はますますはっきりと意識にのぼってくるようになり,明確な 運動の自己知覚が可能になってくると言う31)。体操競技の選手が演技後に,自分の演技を感覚的にも,

言語的にも反復して呼び起こすことができるように,優れた選手になるほど,遂行直後に,自分の 行った運動経過について正確に報告できることはよく目撃されることである。

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 このことからすると,優れた選手の主観的発表と,映画やVTRに収められた客観的な経過との比 較は興味深い。例えば水泳のスタートとび込み(逆とび込み)で,練習者がどうしてできないかよ

くわからないというのは,スタート台をけって,入水するまでのわずかな時間に,逆位での自分の 運動経過が知覚できないため,そこからくる先生の指示や入水時の水面に対する運動感との差によ

る修正ができないからである。ところでよく自動化された運動でも,ところどころは正確には知覚 されないことは認められるところである32)。このことから運動学習において,学習者の主観的発表と VTRに記録された運動経過の比較は重要なものとなるであろう。それは明確な運動表象の把握に貢 献するからである。しかし重要なことは,自分の運動を意識的に体験しているということで,そう でなければ説明語による運動修正はほとんど効果がなくなってしまうからである33)。

 マイネルによれば,rところで内的分析器(運動覚や前庭分析器)によって伝えられる信号は簡単 には言語で表せない,ということも事実である。セチュノフ(LM. Setschenow)によれば,筋感覚 で感じることは,ある意味で「ぼんやり」していると述べている。確かに,言語によってとらえら れない,あるいはとらえにくい運動性の成分はたくさん存在している。しかし重要なことは,これ らの感覚は,運動遂行に直接に利用するばかりでなく,意識的な修正にもぜひ必要であるというこ とである。このことはどういうことかというと,指導者やコーチはいろいろな方法によって,補足 的な表象や比喩的な比較ででも,これらの運動覚を言語でとらえ,修正のなかにとりあげていく努 力をすべきであるということである』34)。教師の任務は,なかでも運動をうまく行うことに直結した 運動諸感覚を生徒にわかりやすい形式で伝えることにあり,その方法的な研究と検証は絶えず行わ なければならない。

 運動遂行に伴う感覚に関する領域において,ぜひ取り上げていきたいのが,運動感あるいは運動 感情と呼ばれる体験についてである。とくに,うまく協調して行われた運動で体験された運動感と いうものは;運動学習において重要な役割を果たすといわれているからである35)。

 フェッツ(F.Fetz)によると,運動感(Bewegungsgefifhl)という語は,複合的な資質あるいは複 合的な体験にもとついたものであり,単なる感情(GefOhl)ではない36)。しかしフェッツも指摘する

ように,運動表象(Bewegungsvorstellung)や運動感覚(Bewegungsempfindung),そしてまた運動体 験(Bewegungserlebnis)等との概念の混同は避けなければならないが,運動感を理解するのはなかな か難しい。フェッツは,運動感というものはいわゆる「語感」とよく似たものとしているが,「運動 感という体験」あるいは新しい運動を習得する段階での「この運動はまだ感じさえもσかんでいな い」という表現に,その実像をうかがうことができる37)。例えば,走幅跳びが教材として,扱いが難

しく,また学習者にあまり好まれない存在なのは,学習者が跳んだ,という遂行感を抱くことがな かなかできないし,快感をも体験することが難しいからである。

 運動表象に限りなく近づこうという遂行が,それもきわめてよい協調のもとで成された時,最高 の快感が得られる。この意味で,運動感の存在は運動学習において重要な意味があるのである。例 えば器械運動で,練習に練習を重ねてある技がようやくできた時,思わぬ快感を体験することがあ る。この快感とともに得られた自己知覚や自己評価が,その後の技の確実な習得に貢献することに

なる。

 フェッツは,以上のような体験としての運動感の他に,資質としての運動感を区別している。あ る人が,見たり,あるいは描写された運動,ないし,一連の運動を容易に思い浮かべ,そして比較

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的早く,苦もなく学ぶ能力を持っている場合に,そこでも運動感ということが語られる38)。

 フェッツによると,こういうことは,体験としての運動感とは区別され,能力(Fahigkeit),資質

(Disposition)としての運動感,すなわち運動を理解し,遂行する能力としての一般的運動感(allge−

meines Bewegungsgeftihl)として捉えようとしている39)。

 朝岡は,いわゆる「運動学」が「運動を外側から客観的にとらえる立場」と「運動をやっている 人の側から主観的にとらえる立場」の2つに発展的に分化するだろうと指摘しているが,後者の意味 で,運動感の研究はその必要性が認識されるところである40)。

 「運動感」の教育的な検討をまとめると,次のようになるだろう。

 ●運動感覚,運動表象などとともに,複合的である運動に関する「感じ」の存在を認識すること。

 ●ただ快感を得たからいいんだ,楽しいからいいんだの意味ではなく,企図した運動表象に近づ き,運動課題解決を目指す道程としての存在として捉えること。すなわち,運動を学ぶ側からの主 観的な運動感にもとついた運動財の系統化が検討されるべきだろう。

 ●すばやい運動の把握や理解と効率的な運動習得への方法として考えること。

④ 運動ができないこと

 われわれは運動ができないということに,もう少し注意を払うべきと,既報で指摘した41)。この問 題は意識やその投企,実行への企図,決断等と関係してくるからである。できない原因を生徒に求 める前に,運動学習の過程の中に原因がある場合が多い。運動ができないという状況には次のよう な点が考えられる。

 ●示範を見たが,何が行われたのかわからない。

 ●示範を見た時,何が行われたのかはわかったが(実は,このわかったの意味と内容が問題なの だが),それを実際に行うやり方はわからない。

 ●できると思ってスタートをきったが,やっぱりやり方がわからなかった(本当は自分はわから なかったのだ,ということがわかった)。

 ●できると思ってスタートをきったが,急に止めたくなった。

 ●過去に失敗した経験があるので,やりたくない。

 ●自分ではできたと思ったが,違う運動になってしまったことを自分で判断できた。

 ●自分ではできたと思ったが,違う運動になっていると,あるいは基準どおりになっていないと 先生に指摘された。

 子どもたちの「わかった・わからない」については,やはり慎重に確認する必要がある。示範や 先生の指示から,どのような図形的イメージをもったのか,それを実行に移すための運動感覚的表 象をもてたのか,事前的表象と実際の実行状況との差を自己知覚できるのか背景にある問題は多い。

この問題を,子ども達の不安や恐怖心など,単純に心理的な問題に置き換えてはならない。運動学 習の過程の中での問題点には次のような点が考えられる。

 ●運動課題が,生徒の運動習熟のレベルを考慮して,適切に設定されているか。

 ●運動課題設定に関する運動認識は何か。

 金子の言うように,できる・できないの判定は目標値を,運動習熟のどの位相におくかによって

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変わってくるし,達成の難しさも変わってくる42}。また学習の対象になった運動についての技術認識 も重要である。例えば,鉄棒のさか上がりは,どの高さで行うかによって運動内容が変わってくる。

腰くらいの高さでのさか上がりは腕立て支持後転にきわめて近い経過になるが,高い鉄棒では体を 引き上げる経過が多くなるし,その時反動を使って上がればまた内容が変わる。学習目標にしたさ か上がりとはどのような運動なのか。どこに課題をおくのかの検討が重要である。

 ●運動学習の組織化

 ●教師の修正指示は,運動共感にもとついた適切なものか。

 学習目標に至る道筋を体系化することが重要である。生徒の運動レディネスを確認しながら,段 階を踏んだ運動財の整備が必要である。教師の固定的な,鋳型化された認識を押しつけることなく,

生徒の自由な運動発生を促すことが重要である。渡辺の言うように,例えば跳び箱運動で跳べない のは,以外に学習における固定化された考えによる場合が多い。跳ぶ運動が発生するような環境条 件設定への工夫が必要である43)。

前提となる運動認識

 岸野の一般運動学の提案44)から27年,金子の「マイネル・スポーツ運動学」刊行45)から14年が経 過し,日本におけるスポーツ運動の研究領野において,いわゆる運動学(Bewegunngslehre)の存在

は大きなものとなったが,しかし金子の指摘の通り,運動発生論を地平においたモルフォロギー研 究を中核とする運動研究は必ずしも定着をみたとは言えないのが現状である46)。その原因は,いわゆ る近代自然科学的な,因果分析から離れての,行為ゲシュタルトの発生様相の解明とその構造分析 を目指す発生論的モルフォロギーの考え方が,なかなか理解されないということと,何よりも,そ の具体的な研究方法がいま一つ明快でないという現状がある。モルフォロギー的研究について論究 するのが本論の目的ではないが,運動学の基盤をなす,基本的な運動認識について2つの視点から論 述する。

①運動を見るということ

 われわれのスポーツ実践においては,そこで行われる現実の運動を見ることが,運動を指導する 側にとっても,学習する側にとっても,それらの活動の起点となる47}。しかし「運動を見る」という ことは以外に容易なことではないようである。金子も言うように,われわれは常に動かされている

「からだ」を見ているのであって,決して「運動それ自体」を見抜いているのではない48)。マイネル も指摘するように,われわれは「何を」見ているのか,何を見ることが「できる」のかということ は決定的なことである49)。器械運動を見慣れない者が,ぐるぐるまわる鉄棒の車輪を見て,回転する 方向の違いに気付いて,前方車輪と後方車輪を区別することはまずできないだろう。たとえ,順手

と逆手の握りの違いを見抜いても,回転運動の中で,体の背面が先行する前方感覚,体の正面が先 行する後方感覚については,車輪を経験した者でなければわからない。

 マイネルの,人間の運動観察力は,いわば,人間が生活のなかで収集し,獲得した数えきれない

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ほどの運動経験と運動知識によって増大するという指摘は重要だ。さらに,ルビンシュテイン(S.

LRubinstein)を引用して,「運動観察力は,音楽を聴き分けると同様に,全体的な,意味を読みと る,一般化された知覚なのである」と言っている50}。運動を見るということは,目の前に展開される 運動現象から何が見えるか,に関わってくるのである。

 木村はr生きているものを生きているものとして研究する唯一の可能な方法は,生きものとわれ われ自身との共通の根拠であるこの「生きている」ことを,われわれ自身のこととして,というこ とはつまり主体的に捉えるという仕方でしかありえない。要するに,単に「見る」だけの立場を放 棄するということだ。対象として目の前に与えられたものを単に見るだけでなくて,見ているわれ

われ自身の「見る」という行為でもってわれわれが見るものを作り出して,それを見るということ である』と説明する5D。 r生きているものを研究するために生命と関わりあうということは,われわ れ自身が行為者として,行為しながら,行為そのものに内在する感覚でもって生きものを「見る」と いうことにほかならない。外界の光を媒体として見るのではなく,われわれ自身の動きを媒体とし て見るということである』52)。尼ケ崎は「他者の身体の意味作用は,自己の身体を媒介として,身体 的に(悟性を介さず)感得されうる」と表現している。しかしまたここに,身体の共感ないし共振 の問題が浮上してくると指摘している53)。

 ところで木村は,運動系のもつ「目」について興味深く表現している。rピッチャーの投げる速球 を打ち返すバッターは,目でボールを知覚した後で,それに合わせて筋肉を動かしてバットを振っ ているのではないだろうとし,バットを振るという動作自身が,なんらかの仕方でボールを「見て」

いるだろうと言う。それは肉眼の視覚とは別のなんらかの「目」つまりボールを打ち返すという行 為を先取りした運動系のもつ「目」だけが,スピードボールを捉えるのだろうと指摘する。このよ うな運動の例は,例えばピアノの演奏者の,早く正確な指の動きにもみられるが,これらすべては 要するに,実際になんらかの目的をもrって行動している人間が,その行為そのものを通じて対象界 と結びつき,この結びつきがそのまま感覚的な結びつきであるということだ。』つまり「目で見なく ても,われわれの行為それ自身が目を持っているかのように,肉眼以上に的確にものを見ているの である」54}。木村の言わんとすることは「行動系と感覚系をあらかじめ分離しておいたうえで,その 間にフィードバックというような機能を,事後的に介在させる説明では,現実に絶えず続いている 生体と環境との関係に,十分対応することができないのではないか。行動するだけで感覚しないシ ステムとか,感覚するだけで行動しないシステムとかは,生体には考えることはできない」という

ことなのであるSS)。

 われわれはスポーツ運動の遂行において,さまざまな「見る」ことに関わっているし,その重要 性は十分に理解している。だからといって,見るということを単に視覚的機能として捉え,現実の 情況から切り離して,その強化訓練をしても,スポーツ運動の中に存在する「見る」には役に立た ないだろう。

 マイネルは運動に関わる知識について次のように指摘する。実践の中で,あるいは実践を通して

「前科学的認識」を獲得していくことこそ,すべてのスポーツにおける技術改善に大きな関わりをも っている,ということを認めざるをえない。われわれは,この実践的経験知識を見過ごしたり,過 小評価したりしてはならない。何故なら,このような認識は具体的な運動課題の解決に向けられた 現実のスポーツ運動経過を観察することによって獲得されるからである。

(10)

 これに対して分析的諸科学は,スポーツ運動経過をたくさんの,個々の問題にばらばらに分解し てしまう前の,全体的過程の把握を見逃してきた。重要なことは,人間と環界の間で,運動経過と いうものを目の前にはっきり示された機能として,根底に横たわる神経支配機序の可視的結果[パ ヴロフ(L.P. Pawlow)]として規定し,分析し,判断する試みがまずもって考えなければならない ということである56}。

②  主体性の問題

 スポーツの分野において,運動を行うということは,スポーツ(運動)としての特性,課題性,技 術性から離れては考えられない。まずスポーツとしての意味,価値と,それらを実現するための独 自の技術課題を常に背景にした,目的を持った「行為」として運動を捉える必要がある。金子は,わ れわれの運動は,意味や価値に依拠しない,「無色透明な」運動形態としては観察することはできな い,という5n。すなわち,スポーツ運動経過は,有意味の活動として,行為としてのみ理解されるも のであるSS)。バインテンディクによれば, rわれわれは行為を,認知しつつ情況との意味関連におい て体験する。われわれは人間や動物がなすことを,その行為の向かう世界から理解する。一個の主 体は常に「ある情況のうち」にある。有機体は主体であって,機械ではない』のである59)。このよう な基本的立場から,運動の本質の認識に肉迫するためには,マイネルは,概念的因果的分析とは別 の,モルフォロギー的研究の立場を主張するのである60)。そこでは,条件や原因の問題に触れる前に,

まず第一に「いったいそこに何が与えられているのか」ということが確認されるのである。

 マイネルによれば,運動研究の中に「主体」を導入しようと試みたのはバイテンディクである6D。

ところで,本論は「主体性」について論究する意図はなく,また「主体とは何か」というような論 題は,極めて深遠なテーマであり,拙者のような一スポーツ運動学徒には手の届かない領野である ことは十分に認識している。しかし,バイテンディクが,ヴァイツゼッカーと同様に,生命ある人 間の運動は,生物学的,力学的現象「以上」のものである,という強い考え方に立ち,個別諸科学 により分割されたものを,元に戻そうとする努力の中から,人間の運動の洞察には,主体概念の導 入の不可欠さを主張したことは62),スポーツ運動学の立場からも首肯できるものである。

 主体は,何かを知覚し,行為し,あるいは表すものである。すなわち,主体は「自分のからだを 動かして」「意のままにするし」「あらゆる運動の基盤」であり63),また「バイテンディクの意味の

自己運動(Selbstbewegung)」として現出するからである64)。

 木村はr主体を導入するということは,生命への根拠関係(ヴァイツゼッカーの意味の)を対象 としながら,生きている対象に関わるということである。そこではじめて相手の行動の主体性が見 えてくるし,自分の行動も主体的になる』というem。主体性とは難しい概念だが,木村の表現はひと つの理解には役に立つ。主体概念や自己運動については,人間の運動の哲学的な捉え方という背景 の広がりを理解するためにも,運動概論において触れておきたい基本的問題圏である。

(11)

運動学習における諸問題

 運動に関する学習,指導の領域において,運動全体を見通す概論や総論が必要なことは,指摘し てきたところである。特に義務教育を中心とした教員養成の課程にあっては,教育学的見地から,ス ポーツ運動を扱う体育であっても,まず「生ある人間の運動」を対象とする基本的な立場に立つこ とが必要なことは言うまでもない。本論の目的は,教員養成における,学生の基礎的素養のひとつ として,体育教育の入り口とも言うべき,人間の運動の全体像を理解する「運動概論」の構築の可 能性について,スポーツ運動としての「意味一価値」を踏まえた,運動実践の有り様を捉えようと するマイネル等の運動学研究を手がかりに検討しようとするものである。今回は特に,運動学習に おける基本的な問題について検討するものである。

① 運動発生論を主軸にした,スポーツ運動のモルフォロギー的研究からの検討

 マイネルが,学校体育の歩みの中での,シュピース(A.Spiess)以来の運動の「鋳型化(Stillsieren)」

や「要素化(Elementarisieren)」を指弾していることは,現在においてもなお重要である66)。永い体 育の歴史の中で,いわば伝統とも言える,運動や姿勢について直線的な仕方を重視する「運動の幾 何学」6Tへの思い入れは,ラジオ体操の例を見るまでもなく,今日においても運動の方法に強く影響 している。また,人間の運動を,解剖学的な理論から,機械的な,代理的(あるいはモデル的)な 動きの単位に「構成」し直す「要素化」的考え方は,結局は動きの「形式化」を招き,数多くの姿 勢規定や形態規定を生み出してきた68}。

 このような批判は,体育史的にみて,特に体操体系へ与えられたものだが69),今日においても,ス ポーツや体育のさまざまな局面で確認されるところである。スエーデンのリング(P.H. Ling)は,生 理学的効果という新しい視点から,体操系の運動財の正当性を主張したが,人間の運動の自然性,意 味・価値性ということからみれば,結局は,「構成されたもの」は,たとえ部分的運動であっても,

人間は全身が一体となって動くという事実から乖離して,身体各部の絶縁状況を招いたのである。マ イネルは,合理的に考え出された運動,あるいは考えられる運動としてつくられた運動財は,鋳型 化,形式化を招き,スポーツの達成にとって,決定的な合目的性や経済性の要求を満足させるもの ではない,と指摘し,構成された運動の形態を利用していくには,効果の期待できる最小限に制限

し,その他では,合理的な全身運動を取り上げていくのが新しい体育の任務だと指摘する7°)。

 今日,スポーツの達成を目標に行われるトレーニングの過程において,ある効果を期待しての,

「考え出された合理的,構成的」運動を通じての,さまざまな「モデル的,代理的」トレーニングが 考案され,実施されているが,その効果が発揮されるであろう,具体的な「達成情況」への転移や 波及が正確に検証されない場合が多い。「そう厳密に言わなくても,似たような運動をしているのだ から何かの役に立つであろうし,少なくとも体力はつく」式のおおらかな考え方も根強い。マイネ ルが注意を喚起するのは,主張された運動の方法には,それを支える「運動認識」というものがあ り,その運動認識が運動練習の素材の選択や体系論,方法学的な全体の授業構成に重大な結果を引 き起こすほどの重要さをもつ,という点である71)。

 運動学習において大切なことは,人間の運動を,機械論的な因果連関で捉えての固定的な学習・指

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導方法を反省することである。鋳型化された運動認識にもとついた,概念的な運動説明から離れ,実 際の運動遂行の感覚を重視し,それにもとついた学習過程の構築が必要である。例えば跳び箱運動 は,無色透明で,概念的な「走」,「跳」,「腕の支え」で構成されるものではなく,跳び箱運動とし ての意味と価値を背景に,意味のある「跳び箱」という情況のなかで発生していく運動なのである。

跳べないのはスピードが足りないからと,やみくもに助走させたり,手をついた時,腕が曲がるの は力がないからだと,腕立て屈伸のトレーニングをさせるのは,運動の本質を理解していないと思 わざるをえない。

②運動共感にもとつく,生徒と交流のある指導

 マイネルは,運動分析(Bewegungsanalyse)→運動判断(Bewegungsbeurteilung)→運動指示(Bewe−

gungsanweisung)が,スポーツ指導者の運動系の方法学的思考活動の中核だとしている72〕。そしてそ れらの根源にあるのが運動観察である。しかし注意しなければならないことは,観察することは,単 に見ることだけではない。見るだけでは,近年はVTRもあるし,スローモーション再生観察も容易 である。肝心なことは,見る経過のなかから,何を見抜き,そして判断していくかである。

 現実的にみて,運動習得において,学習者が運動を獲得する最終段階は,いわば学習者の自得世 界73}にあり,指導者ともいえどもそこに入り込むことはできない。しかし金子の言うように,ただ 傍観して自得を待つのでは,指導者はいらない。学習者の運動世界に住み,その感覚運動に共振す るのでなければ,学習者と教師の覚え・覚えさせるという「切迫性」を担う当事者にはなれない74)。

 マイネルによれば,スポーツ指導者は   ●運動質

  ●運動が遂行される様相   ●運動形態の発生

などの見抜きを通して,運動経過の中にひそむ本質に近づいていくのである75)。教師の運動観察の能 力は,訓練によって発達するのであるが,何よりも重要なことは,教師が生活の中で収集し,獲得

した無数の運動経験と運動知識によって増大するということである。それゆえにわれわれは,運動 の外的経過を,写真のように正確に,いわば運動の内容から分離して見ることもできるし,そして また現実のなかに動いている「人間」をも見抜くことができるのである76}。金子は,運動観察の能力,

運動内観の能九運動共感の能力について教師自身がトレーニングすることを要求するのである77}。

その基礎となるのが,教員養成課程における体系的な実技実習であるが,どんな実技実習がトレー ニングにとって必要なのか,カリキュラム的に検討しなければならないが,重要なことは,学習す べき運動内容が,構造体系論的に裏打ちされていなければならないのである78)。

③ 学習の個別化

 マイネルは,スポーツ運動の特性に関連して,スポーツ運動の「個別性の原理」を取り上げてい る79〕。「運動経過は,ある運動者の運動として,ある具体的な情況において,ある特別な目標づけを もって具体的にのみ存在する」と考えてきたのだから,「全く同じ運動経過は2度と存在しない」と80)

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考えるのは当然である。ここに運動の1回性の特性81)が浮き彫りになってくる。また,運動する主 体が異なれば,主体から表出する運動が異なってくる個人性(lndividualitat)の原理が存在するのも 当然である。

 あえて個別性の原理を主張をするのは,金子の言う通り,個別性の原理は,スポーツ運動に限ら れるわけではなく,人間の運動すべてに表れる特徴であるが,ただスポーツ運動が,随所にあるま とまりをもった一定の運動形態(Bewegungsform)を示し,運動の鋳型化現象を引き起こしやすい傾 向をもつので,特に前面に出しておく必要があるという理由からである82)。スポーツの世界では,教 える側が学ぶ側を強く教え込む傾向が強い。指導者がかつて有名選手であればなおさらである。そ の時危惧されるのは,固定化された考え方が教え込まれないかということである。すなわち鋳型化 された運動認識への不安である。マイネルは更に「発達の原理」の考慮を主張する。「運動は決して 固定した不変の現象ではない。それは絶えざる流れの中にあり,常に生成と退化のなかで理解され,

いつも完成度の大小の中にあり,そのように表される」83}。金子の言うように,誰に対しても運動鋳 型を押しつけて教えたり,その指導法も十年一日の如きは,まさに運動の本質的特性をよく認識し ていないところからくるものである84)。運動の世界では,不変の技術は存在しないし,現実の運動場 面から絶縁された,万能薬のような,絶対的な技術もありえない。マイネルによれば,どんな運動 課題でも,さまざまな解決の仕方があり,それゆえに決して「技術そのもの」というものは存在し ないのである。優れた選手が示す技術は,決して「定常」ではなく,それらの技術は選手個人とそ の周囲のさまざまな情況との関わりをもちながら,絶えず変容を重ねてきたものなのであるas)。固定 化された常識から離れた,柔軟な運動と技術の認識の流れの中から,例えば走り高跳びの背面跳び やスキーのジャンプのV字飛行が生まれてきたのである。指導者は最新の技術情報を含めた,技術 の流れの把握に十分に配慮すべきである。

 「スポーツ指導者は指導しながら,すなわち運動を絶えず完成へと導きながら,生徒たちの運動を まさに研究しているのである」「スポーツ指導者はつまり生起の移り変わりのなかで運動を研究し,

その移り変わりと新しい徴表の形成が行われる規則や法則こそスポーツ指導者にとって重大なので ある」とマイネルの指摘は極めて意義深いものである86)。運動学習の基本は,学習者の主体的な運動 め形成と発生を促すことであり,形式的で,固定的な運動の形態や仕方を教え込み,ドリル的な練 習を強いることがあってはならない。

 現実の体育の授業においては,学習の個性化といっても,カリキュラム上の時間的制約から,学 習目標の数段階の区分設定がせいぜいである。これでは本当の運動学習の個性化とは言えないだろ

う。授業の中で,生徒全員に対して(あるいは習熟段階を多少考慮に入れて,ある程度選択されて 与えられることもあるが)示された,課題解決の仕方(公共的な図式技術,すなわち「こつ」とい うもの)をいかに個人化するのか,そのプロセスが個性化なのである。そこでは潜勢自己運動の世 界における試行錯誤が続けられ,今までの運動経験との有効的な照合を通じて,感覚運動性の理解 が進められるのである87}。その過程にこそ,教師の実践の知が必要なのであり,それが稼動する,生 徒と教師の運動感覚的共振の場づくりが求められるのである。

 金子によると,実践的意義をもつ観察とは,観察対象になっている運動経過を改あて,観察者自 身の自己運動として,潜勢的にやってみて,それを観察するのでなければならない。それが「潜勢

自己運動による観察」であり,「運動共感」なのである88)。

(14)

ま と め

 スポーツ運動に関する「知」は,実践の場において実証されるべき知であり,実践に役立つ知で あるべきである。そのような知は,実践の中から得るものである。教師が,この運動はできないし,

やった経験もないが,教えることはできるというのは,例えば畳の上の水練を容認するようなもの であり,本来的にあり得ない知識である。VTRを繰り返し観察しても,スローモーション再生で見 ても,わからないものはわからない。スポーツ運動の世界では,運動経験の裏付けのない知識の構 築はあり得ないし,感覚的な経験(すなわち,実践の知)を度外視した運動の科学論もあり得ない。

マイネルも,視覚からでもたしかに運動を「見知ったり」,その知識を得ることはできるだろうが,

より深く把握し,理解することはできないという89}。例えば,豊かな選手経験を持つ体操競技の審判 員は,経験のない者とは比較にならないほどの多くのことを見抜くし,驚くほどの正確さで,終了

した選手の演技の全経過を運動残像として記憶し,そして反復,報告できる。

 中村は,科学の知と相対するフィールド・ワークの知として「臨床の知」を表している。すなわ ちそれは,これまでの科学概念からはみ出した学問,対象との身体的な相互行為が,理論そのもの にとって決定的な重要な諸学問のことである90}。中村は,科学の知が,冷ややかなまなざしの視覚の 知であるのに対して,氏の言うパトスの知,すなわち「身体的な知」「体性感覚的な知」であると捉 えている91)。われわれの運動実践の知も,ポラニー(M.Polanji)の言う「実践的な知識」であり,身 体の知であり,事実の知であり,まさしく臨床の知である。それは物事の普遍性を求めるのではな

く,個々の事例や場合を重視し,物事のおかれている状況や場所(トポス)を重視する立場に立っ ているからである92)。

 マイネルも自己観察における,いわば経験の知,主観的な知に対するいわゆる科学的信頼性につ いて言及して,自己観察の研究方法はたしかに100%の信頼を得るのは難しいとしている。それはひ とつの背景に,運動覚の正確さは,音楽における聴覚と同様に,長い間の実践を通じて,実践的に 訓練されて得られるという前提があるからである93}。だからといって,この方法を放棄するものでは ない,とマイネルは言う。何故なら,自己観察の中に与えられる筋覚による運動の把握は,この方 法でしかできないからである94)。スポーツ運動を「本質的」に「完全」に把握しようとする者は,そ れを自ら行ってみなければなるまい。われわれは経験を軽視しないのである。

 中村も,近代科学の知に比べて,臨床の知がその正しさ(真理性)を証明する難しさに言及して いる。『たしかに観察し,感じとったことを記述する場合,その記述が正しいか正しくないかという ことは,すぐには判別しがたい。経験は論理にくらべて,多分に曖昧さを含む。しかし,そのよう に考えることがすでに近代の知に囚われている結果なので,臨床的な記録にしろ,フィールド・ワー クの記録にしろ,観察し感じとったものを言語によって記述した場合,その記述は,ある程度永い 期間にわたって多くの人々の検証にさらされれば,それが正しいか正しくないか,どこまで信頼で きるかを判定することは十分可能だからである。同じように,行為の積み重ねとしての経験も,永 い間にわたってのことであれば,その経験の教え告げることは,決して曖昧ではなく,微妙な判別 をもなしえるのである』95)。

 スポーツや体育の世界では,運動の科学といえば冷ややかな対象化や形式的な計量化など,分析 的自然科学的研究に強く傾斜してきた。複雑で多様な現象から,なんとか普遍性を求め,共通的な

(15)

原理・原則を説明しようとしてきた。それが科学的であると考えてきたからである。しかし結局は,

主体性をもった人間が運動をおこなうのであり,人間から離れたところに運動は存在しないし,情 況のうちにある人間から離れての運動研究も存在しない。仮にあったとしても具体的な運動実践に どのように役に立つのか確認しなければなるまい。マイネルは「どんなスポーツ技術でも,あらゆ る経験に先んじて,科学的研究結果にもとついて組み立てられたものはひとつもない」と言ってい る96}。実践の知は経験から出発し,経験の中で検証されていくのである。

おわりに

 スポーツ運動の概論を語るにしても,まず「人間の運動」という根本的な領野にあるという大前 提に立つことを心がけて検討してきた。マイネルが言うように,われわれ人間の運動は,生物学的,

力学的現象「以上」のものであると考えるからである。スポーツの世界では運動を語る時,その運 動は「すでに動いたもの」と捉えられ,時間的,空間的軌跡を計測する対象という形で語られてき た。しかしそれだけでは,広範な運動現象の,あるひとつの側面を捉えたにすぎない。尼ケ崎によ ると,舞踊で,外側(観衆)からは自然で,優美に見える動きが,内側(踊り手の身体運動感覚)で は,不自然な筋肉の踏ん張りにすぎないこともあるen。われわれの運動という現象は,外側から眺め るだけでは把握できない。朝岡が先に指摘(p.81.)した点と同様である。外側も内側も含んだ視点 から,人間の運動とスポーツ運動の全体像を掴む,運動概論の構築を検討していきたいと考える。

1)K.Meinel,金子明友訳『マイネル・スポーツ運動学』(大修館書店,1981)p.88.

2)V.v.Weizsacker,木村 敏大原 貢訳r病因論研究』(講談社,1994)pp.118−121.ヴァイツゼッ カーは「表象したことと実行したことがあまり関係ないようであり,個々の運動を,われわれは表象す ることなく遂行することができるが,それを表象したからといって,それだけではまだそれを意図した り遂行したりすることはできないと言う。そこでわれわれにできることはただ,運動を遂行するときは 意図もしていたのだし,その一部は表象もしていたのだけれど,この〔意識的〕表象との結合はふたた び解消される〔運動が無意識に遂行される〕こともあるということを確認するだけである。つまり行為 のなかでの表象と遂行の結びつきは,ごく不安定なものでしかない。」と言う。

 ヒステリー患者の運動行為について言及したヴァイツゼッカーによると,動こうというある意図ない し要求の成果は,意志が随意運動の神経路まで精神身体的に到達するかどうかにかかっているのではな く,有機体の環境との関わりいかんにかかっていたり,行為そのものの内容によっても左右されるとい う(同書,p.116.)

 たとえば指で空中に円を描く作業では,大きな円でも小さな円でも,それに要する時間はほぼ同一で ある。だから,大きな円は最初からそれだけ大きな線速度で描き始められる。有機体の運動は,その最 初の時間部分からすでに,作業の全体を,もっと正確にいえば,作業の図形を先取りしている。すなわ ち,作業それ自身が,作業(の時間)を規定しているのである。[ヴァイツゼッカー,木村 敏訳r生 命と主体』(人文書院,1995)p. 25.]

 ハチャドウリアンは動きおよび行為の概念に言及して「(哲学的な用法とは異なって)日常語的な用

(16)

法においては動きも行為も(a)自由意志にもとつくものであってもなくてもよく,(b)意図的であること もそうでないこともある。したがって(c)その究極原因はともかくとして,それを合理的に説明できる 理由がある。ある動きを何らかの理由のために意図的に行うこともあるであろうし,格別な意図もなく 何の気なしにある行為を行うこともあろう。(中略)しかしながら,全く無意識的な動きはありうると しても,全く無意識的な行為はありえない」としている。さらに,意識と行為とを密接に結びつけるこ とに関してはハンプシャー(Hampshire)の考え方を首肯して,次のように引用する「意識をもった精 神は常に必ず行為の可能性,目的のための手段を見出す可能性を予見している・…」そして「意識を

もった人間であるということ,つまり考える存在であるということは,意図やプランをもつということ,

つまり何らかの結果を生み出そうと心がけるということである」。[H.Khatchadourian,渡辺裕訳「上 演芸術における動きと所作」尼ケ崎 彬編『芸術としての身体』(勤草書房,1988)pp.217− 219.]

3)養老孟司『唯脳論』(青土社,1989)pp.229−233.養老は「多くの運動は無意識である。ただこの無 意識の意味はあんがい難しい」ということである。『われわれは日常,動作の過程をいちいち意識しな い。慣れた動作でも意識したらとたんにギゴチなくなるのは誰でも経験する。ふつうは,目的を設定し,

号令を発すればあとはほとんど自動的に動いてくれる。こうした運動を,われわれの知覚が監視してい る。また筋自体にも知覚をもっている。そして脳は,感覚の場合と同じように,自分の運動系を知って いる。』これを養老は「運動自体の知覚」と呼ぷ。このような運動の意識は,運動のプログラムをいち いち意識するようなものではなく,プログラム的な細部は省略するが,出力と入力はしっかりおさえる ものであったろう。それが「目的意識」である。『われわれは何かを「しようと思い(意図)」それに「適  した行動をとる(運動)」それだけ知っていれば,行動は十分であるらしい。それ以上の細部が必要な

のは,新しい随意運動を練習する時だけであろう。』

4)A.T. Puni,藤田 厚,山本 斌訳『実践スポーツ心理』(不昧堂書店,1967)p. 29.

5)F.J. J. Buytendijk,浜中淑彦訳r人間と動物』(みすず書房,1970)p.28.

  ところで滝浦によれば,われわれの行動には「努力」という契機がつねにつきまとう。ところで「意 志する」ということには,ほとんどつねに「できる」という意識つまり「能力」の意識を伴うのであ  り,それがいわば「努力」の意識につながるのである。[P.Ricoeu1,滝浦静雄他訳『意志的なものと非

意志的なもの・1』(紀伊国屋書店,1995)「訳者あとがき」p.597.]

6)P.Ricoeul,滝浦静雄,竹内修身,中村文郎訳r意志的なものと非意志的なもの・ll』(紀伊国屋書店,

 1995) pp.522−523.

 ところで滝浦によれば,われわれの行動のかなりの部分は,いわゆる「習慣」された運動で占められて  いる。しかし習慣が全くの自動運動になってしまえば,生体はもはや意志とは無関係な「機械」になっ  てしまうであろうし,実際には多くの一見自動運動らしきものも,それなりの監視がつきそっているこ  とを,リクールは明らかにしているのである(「訳者あとがき」p.597.)

7)P.Ricoeul,前掲書, p.523.

8)三浦忠雄「運動実践を基盤に置いたスポーツ運動の[概論]構築への検討(第2報)一より運動遂行  に近づいた運動概論への基礎的な検討一」r茨城大学教育学部紀要(教育科学)』44(1995)pp.19− 20.

9)A.Gehlen,亀井 裕,滝浦静雄i他訳r人間学の探求』(紀伊国屋書店,1970)pp.52−54.

10)KMeinel,前掲書, p.97.

11)このことに関連して木村は,自身の現象学的な姿勢を「線型の科学的思考になじまない現象を,でき  うるかぎり現象それ自身に即して写生する」と表現し,「生命」と「かたち」というテーマこそ,この  姿勢がもっとも必要とされる課題だと考えている[木村 敏r生命のかたち/かたちの生命』(青土社,

 1992) p.238.]

12)K.Meinel,前掲書, p.106.

13)吉田 茂「スポーツ科学の中の運動学の位置」『体育の科学』第45巻,2月号(1995)p.92.

14)木村 敏r生命のかたち/かたちの生命』(青土社,1992)p.101.

 当然ながら木村のいう「かたち」とは,完了形の,時間の停止したかたちではなく,ヴァイツゼッカー  の言う「行為においてそのつどかたちを形成し,消滅させる生成の動きそのものである」この意味での

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