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Gisela und Richenza −

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(1)

ギゼラとリヒェンツァ

−神聖ローマ帝国皇后考−

池谷 文夫

*

(2008 年 11 月 30 日受理)

Gisela und Richenza

über die imperatrix augusta

Fumio I KEYA *

(Received November 30, 2008)

Zusammenfassung

はじめに 「創業者」・「王権の共同者」である皇后

 中世ドイツの貴族家門では,妻の「寡婦扶養料」(Wittum =「固有財産」)が「嫁資」(Dos),「花 嫁持参金」(Mitgift),「朝の贈り物」(Morgengabe)等から構成されていた。妻は相続権と財産能 力を有した。「寡婦扶養料」は寡婦の一生涯の用益に委ねられた財産である。夫の死後,妻は夫の管 理下を離れて,自分の「寡婦扶養料」=「固有財産」を自律的に管理・処分した。彼女の死後は子 供がそれを相続し,子のない婚姻の場合は,夫の親族が相続した。生前,寡婦が固有財産の一部乃 至相当部分を教会等に寄進したり,修道院・施設教会(Stiftkirche)を新たに建立するケースが多く,

息子や夫の親族との紛争が生じるケースも少なくなかった。歴代の神聖ローマ皇后・王后も寡婦資 産を十分に利活用した。彼女は「王権の共同者」(consors regni =「王后」regina),「皇后」(imperatrix augusta)として特に強い影響力を発揮した。教会政策にも積極的に関与し,裁判権行使で強力な主 導性を発揮した皇后も少なくない。特に王朝の「創業者夫婦」の場合に色濃い。ザリアー朝のコンラー ト2世と皇后ギゼラ夫婦,ヴェルフェン家の「王朝」の創業者皇帝ロタール 3 世と皇后リヒェンツァ

茨城大学教育学部外国史研究室(〒

310-8512 水戸市文京 2-1-1;Seminar of Foreign History, College of Education, Ibaraki University, Mito310-8512 JAPAN)

*

Im hochmittelalterlichen Reich war die Kaiserin (imperatrix augusta) die Koherrscherin (consors

regni oder regina) des Königs und Kaisers gewesen. Sie hat an der Reichsregierung, an der Königs-

und Kaisersgerichtsbarkeit, an der Reichskirchenpolitik, an der Kirchen-und Klostergründung und an

der Schlichtung zwischen den Parteien wie auch zwischen Kaiser und Fürsten teilgenommen. Gisela,

die Kaiserin salischen Kaiser Konrads II, und Richenza, die Kaiserin sächsicher Kaiser Lothars III,

waren die mächitigste Kaiserinnen und Koherrscherinnen des deutschen Reiches (consortes imperii

et regni). Auch für die Zweck der Klostergründung haben sie iher große Wittum geübt.

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夫婦に共通するのは,夫婦ともに壮年で国王・王后戴冠及び皇帝・皇后戴冠を行ったことである。

 王后・皇后戴冠に際しての聖拔は,カリスマと正統性及び職務権限を付与した。それ以前もしく は同時の婚姻(結婚)により,家門の神聖性やカリスマ保持も設定され,血縁的結合の裾野は拡大 し,人的結合関係も実体を伴い強化した。<王家=王・皇帝>∞<皇后・王后=婚家>を合わせる

「家門」は反目も内に包含しつつ強固な存在感を示す。その象徴が皇帝・皇后の「共治」体制である。

父皇帝と息子の「共同皇帝」の複雑・微妙な関係とは異なり,皇帝・皇后「夫婦一体」の統治者の 誕生である。壮年夫婦が戴冠した場合,皇帝権の執行実態が皇后の側面からも具体的に観察できる。

それでは,ギゼラとリヒェンツァ両皇后の事績からそれらを観てみよう。

Ⅰ.コンラート2世の皇后ギゼラ

Gisela

(990 年頃~ 1043 年2月 15 日;ゴスラルで没,シュパイアー 大聖堂に埋葬)

 彼女はシュヴァーベン大公ヘルマン 2 世とゲルベルガ(ブルグント王コンラート1世の娘)の娘。

三度結婚している。①ブラウンシュヴァイク伯ブルーノ(1013? 没),②シュヴァーベン大公エルン スト1世(1015 没)。③ 1016 年頃ザリアー家のコンラート(後の皇帝コンラート2世,1039 没)。

子供は①からリウドルフ Liudolf,②からシュヴァーベン大公で長男エルンスト2世,同次男ヘルマ ン3世,③から皇帝ハインリヒ3世。彼女は当時,血縁的・家門的に多様な人脈の中にいた。

【国王選挙と夫婦の戴冠】 1024 年9月4日,カムバ Kamba においてザリアー家のコンラート年長 Konrad der Ältere 伯の国王選出がなされた。対立者はケルンテン大公コンラート年下 Konrad der Jüngere 公(年長伯の従弟)。ケルン大司教ピルグリムは当初オーバーロートリンゲン大公フリード リヒら反年長伯勢力と結びついていた1)。しかし最終的に年長伯の王位を承認した。年長伯は当時 34 歳。選挙直後に別々に挙行された国王夫婦の国王・王后戴冠が大きな意味を持つ2)

 ハインリヒ2世と后クニグンデの戴冠即位(1002 年)以後,支配権掌握初期に行われる国王・王 后戴冠と治世途中のローマでの皇帝・皇后戴冠が長期に維持された。盛期皇帝権を象徴する教皇の 手による皇后戴冠はクニグンデが 1014 年2月 14 日,ギゼラが 1027 年3月 26 日,アグネス(ハイ ンリヒ3世后)が 1046 年 12 月 25 日,ベルタ(ハインリヒ4世后)が 1084 年3月 31 日である。

 ギゼラのケルンでの聖拔は9月 21 日,加冠者は大司教ピルグリムであった3)。『クヴェートリン ブルク編年誌』だけは,ギゼラの聖拔と戴冠がマインツでアリボーによるとしている4)。コンラー トの事績録作者ヴィポーの記述ではマインツとケルンとで別個に儀式が行われたことになるが,王 と両大司教との妥協の結果と思われる。アリボーはギゼラの再々婚の異例さとコンラートと彼女の

「近親性」故に儀式遂行を拒否したと考えられるが,ケルン大司教が初めて加冠者となったことも 重要である。1028 年のハインリヒ3世のアーヘンでの共治国王戴冠にも,ケルン大司教は国王加冠 への権利要求を貫徹している。

 ケルン大司教は選挙直後にコンラートと和解し「以前の罪を正すためであるかのごとく」5)ギゼ ラの王后戴冠式挙行の許可を得た6)。ロートリンゲンの有力者たちの反コンラート行動は 1025 年 12 月中旬のアーヘンの宮廷会議で彼らが王に臣従することで終了した7)。コンラート2世の 274 通 の国王証書のうち,160 通に彼女は賛成者として名がある。そこでは「配偶者」(coniunx),「共治者」

(consors )という称号が用いられている。

【ブルグント王国の帝国編入前史】 ブルグントの帝国編入は長期の交渉と軍事行動によって貫徹され

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た。1006 年にハインリヒ2世のバーゼル回復に始まり,1032 年のブルグント王ルードルフ3世の死後,

皇帝コンラート 2 世がパイエルヌ Payerne(ペーターリンゲン Peterlingen)で 1033 年2月2日ブルグ ント王に選挙され戴冠して終了する。ドイツ王国とブルグントのルドルフィング家との政治関係は既 に東フランク=ドイツ王ハインリヒ1世の時代から始まっている。両国の境界交渉が高地ブルグント 王ルドルフ2世(高地ブルグント王 911 年,ブルグント全体=アルル王 930-937 年)とハインリヒとの 間で行われ,ハインリヒがバーゼル市を譲る見返りにブルグントの最重要聖遺物「聖槍」を譲られた8)  さらに親族的結合が続く。イングランド王の娘エドギーヴァ Edgiva が妹のエドギート Edgith(後 にオットー1世の后)と一緒に大陸に渡り,高地ブルグント王ルードルフ2世の弟と結婚した9)。オッ トー 1 世はルードルフ 2 世の娘アーデルハイトを再婚の相手とした。彼女の弟のブルグント王コン ラート3世はイタリア王で彼女の夫ロタール王の死後,オットーの宮廷に引き取られ4年間過ごし 10)。その彼が今度はドイツとの婚姻結合を継承し,長女ギゼラ(Gisela, 1006 年没)をバイエルン 大公ハインリヒ好争公と,次女ゲルベルガをシュヴァーベン大公ヘルマン2世と結婚させた11)。皇 帝ハインリヒ2世はギゼラと好争公の息子であり,同じく皇帝コンラート2世はゲルベルガとヘル マン2世の娘ギゼラと再婚した結果,ブルグント王家との近い親族関係となった。

【ギゼラとブルグント王国の譲渡条約】 1016 年初夏にシュトラースブルクでの皇帝ハインリヒ2世 とルードルフ3世の会合に引き続き,長期間交渉された条約12)は「ブルグントの有力者たちの同意 を得て,ルドルフ3世が正統の後継者なく亡くなった場合,ハインリヒ2世がブルグント王国を継 承する」と定められ,「ルドルフ存命中も既に皇帝の政治的協賛権が認められた」13)。1018 年2月,

マインツでブルグント王国の帝国レーン譲渡儀式が行われた。ルードルフは妻イルミンガルト,彼 女の連れ子 2 人,諸侯の列席する中で,王冠と王笏を譲渡し,臣従と誠実宣誓を果たした14)  協定の軍事的確認のため 1018 年夏にハインリヒはブルグント遠征をした15)が,ルドルフより 8 年 前に亡くなるので同協定の実現は見届けられなかった。この条約の維持のため後継の王コンラート2 世は新たに闘わねばならなかった。侮蔑的に「ブルグントの臆病な小王」16)と呼ばれたルドルフがハ インリヒと結んだ協定がその死によって失効したとする意見に与したからである17)。コンラートの后 ギゼラもルドルフの姪として,ブルグントへの世襲権利要求を掲げることができたが,ギゼラが先夫 との間の息子たちにも相続権を伝えることができるために,シュヴァーベン大公エルンストの反抗・

反乱に対応中のコンラートがギゼラの相続権利を表に出せなかったと推測される18)

 むしろコンラートはこのケースでも国法的熟慮をもって論を進めている。即ち,ハインリヒ2世 は私人としてでなく帝国の代表者として交渉し条約をまとめたのであると19)。ヴィポーはこの解釈 を強く説き,相続的・私権的動機については報じていない。王の目標は帝国を拡大させて前任者の 労苦の成果を収穫することだったと明言した20)

 コンラートは 1025 年バーゼルへ進軍した。1006 年に帝国の領有に復帰したが再びブルグント領 となっていた同市を服従させ21),前任者の政策への連結の意志を明示した22)。情勢の推移の中,ルー ドルフの姪ギゼラ(王后)が両王(コンラートとルドルフ)を良く仲直りさせた23)。意志貫徹力の 乏しいルードルフは 1027 年妥協の用意を示し,使者による通知の後,1027 年復活祭にローマで執 行されたコンラート・ギゼラ夫婦の皇帝戴冠に参列した24)

【ブルグント王国の帝国への編入】 帝国とブルグント間には更なる交渉と皇后の仲介が必要であっ た。1027 年8月のムッテンツ Muttentz 近郊とバーゼルでの会談である。ヴィポのみがそれを伝え

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る。打ち解けた会話の後,皇帝は王を伴いバーゼル市へ入場し,互いの平和を結んだが,「皇后ギ ゼラが仲介した」25)。それに基づいて,ブルグント王国はハインリヒ2世時と同条件で皇帝コンラー ト2世に譲渡された。コンラート2世とルドルフ3世の和平締結とブルグント王国の帝国への編入 の最後の決定的根拠は皇后の仲介に帰されているが,ギゼラの「説得力」がルドルフとの交渉成果 にどの程度まで影響したかは史料からは知ることができない。

 1032 年の王家断絶後,ブルグントに関するザリアー家有利の継承規則はブロワ=シャンパーニュ 伯オドー2世に対抗して軍事的に護らねばならなかった26)。コンラート3世には息子のルドルフの 他に3人の娘が居たが,三女ベルタ Bertha の子として,オドーは相続権利要求を掲げブルグント に進攻した。ベルタはブロワ=シャンパーニュ伯と最初の結婚をし,その死後フランス王ロベール 2世と再婚した。しかし,コンラートのブルグント王位は深刻な危険に陥ることはなかった。

 1033 年2月2日の聖母お潔めの祝日にコンラートはペータリンゲンでブルグント王に選挙・戴冠し 27)。ギゼラは彼の地で夫と共に戴冠してはいないようである。コンラートが息子で後継者のハイン リヒ3世を同行したが28),国王即位と同時にオドーと闘う意図でブルグントへ進軍したため后を伴わ なかったと思われる。1033 年1月 24 日バーゼルで発給のパヴィアのペテロ教会宛の証書に彼女が記 名されているが29),ブルグント遠征へのギゼラの参加の可能性,少なくともペーターリンゲンまで行っ た可能性については,ヴィポーを超える証明はない。この証書は 1027 年4月2日にローマで発給さ れた証書30)の補筆再録である。従って,関与者の名も同じく繰り返されているので31),バーゼルに 居たかどうかも曖昧となる。さかのぼって,ギゼラが 1032 年のクリスマス祭を夫と息子と一緒にブ ルグントへの途中のシュトラースブルクで祝ったかどうかも問題として残る。

 1034 年夏のオドーとの最終戦の間と同様32),1033 年の極寒の冬の時期,君主夫婦は別行動だっ たと思われる。この箇所の描写では,馬でさえ夜にはもはや動けず蹄が地に凍り付いたと33)。夫婦 は最後にクヴェートリンブルクで 1032 年の秋を過ごしたことが明らかである34)。彼女の証書関与 は 1034 年5月ナイメーヘンで再開する35), パーダーボルン司教宛)。コンラートはブルグントでの 戦いの中断後,チューリヒ経由でナイメーヘンに復活祭に戻っている36)。そこでギゼラが穏やかな 気候の中で冬を過ごし,夫と息子の帰還を待っていたであろう。

 ブルグント王后戴冠がなかったことは,彼女の 1034 年夏の巡幸からも根拠づけられる。彼女はコ ンラートに随ってブルグント行きの途中バーゼルまで行ったが,そこから戻り,シュトラースブルク に滞在し夫の帰還を待った37)。彼女はジュネーヴへは行かず,コンラートは8月1日に王冠を燦めか せてジュネーヴに入場式を行い,ブルグントの有力者たちからあらためて王に選挙された38)

【巡幸を共に】 ザリアー朝の皇后たちは大概夫と行を共にし,広範な関与をしている。ギゼラのイ タリアにおける滞在と施策への関与は史料で証明できる。1024 年の国王選挙後,彼女は夫と離れな かったが,1029 年初めて単独でメルゼブルクに滞在した。夫はその間ポーランド遠征を企てたが成 果はなかった39)。1030 年5月 19 日付マイセン辺境伯ヘルマン宛証書に参画40)の後,コンラート 2 世のハンガリー出征を間に挟み9月 19 日付クール Chur 司教教会宛の証書に再び彼女の名が登場す る。彼女のミサがバンベルク近くのフレンキッシャー・メーゲルドルフで行われ,ギゼラが当該期 間中ザクセンに滞在し,遠征終了後の夫をバンベルク方面で出迎えたことが証せられる41)  1032 年晩夏から 1033 年早春までの遠征時にも同様な行動がとられる。コンラートの遠征には息子 のハインリヒ3世のみが同伴し,ギゼラは 1032 年6月及び8月にはマクデブルクに居て42),1033 年

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5月ナイメーヘンに戻り,パーダーボルン教会への寄進状に関与している43)。1034 年夏の第2次遠征 時には,夫と共にバーゼルまで赴き,企ての継続中はシュトラースブルクに滞在した44)

 1036 年 12 月の第2次イタリア遠征では,まず皇帝が出発し,皇后は息子ハインリヒ3世や同年 に結婚したばかりの嫁(イングランド及びデンマーク王クヌート Cnut 大王の娘クネリンデ(グン ヒルトともいう;1018 頃~ 1038 年)45)たちとレーゲンスブルクでクリスマスを祝った46)。1037 年 5月に彼女たちはミラノ近郊でコンラート2世と合流した47)。イタリアでも夫婦は時々別ルートを とり,皇帝は教皇ベネディクトゥス9世も加えて直接南イタリアへ進み,スポーレトで復活祭を祝っ 48)。一方,ギゼラはローマへ寄り道し,ミサ参拝をしてから夫の後を追った49)

 1038 年夏の暑熱で軍勢中に蔓延した疫病により,王后グンヒルトも死亡し,皇帝夫婦は別経路で ドイツへ戻った。グンヒルトの遺骸のリンブルクへの移送はギゼラとハインリヒ3世が遂行し,コ ンラートと軍勢はその後に続いた50)。1038 年 12 月初めにリンブルクで皇帝夫婦は再会し51),ギゼ ラはコンラート2世の死(1039.6.4,ユトレヒトにて)までの時期,夫の傍に不在で,ブレーメン近 くのレーズム Lesum を訪れていた。リンブルクが最後の出会いとなった。

【巡幸と共治者】 君主夫婦がしばしば別個に旅(巡幸)している例が少なくないことを,皇后ギゼ ラの巡幸が示している。皇后随伴者の一員アレッツォ司教イモーが記しているが,1036 年8月 10 日,

彼女はナイメーヘンを発してザクセンに直帰したが,皇帝はヴュルツブルク経由で王宮ティレダへ 到着している52)。史料では証明されぬこの類の個別巡幸が稀でなかったと思われる53)

 王后・皇后たちが「自分の道」をとって進むのも観察される。11 世紀には未熟な形ではある が,12 世紀には明確な形になった。ハインリヒ2世皇后クニグンデの 1018 年夏のカウフンゲン Kaufungen への旅は,自己の寡婦資産所領に修道院を建てるためだったが,ギゼラの 1038/39 年の レーズムへの旅も史料状況から推測すると,ブレーメン大司教領内にある王宮領地近くに寡婦資産 を拡大しようとしていたと思われる。コンラート2世はエシコ伯領内のケルビクにおける市場(既 存)を罰令権,関税徴収権を含む全ての特権ぐるみで 1036 年に「余の配偶者にして皇后かつ尊厳女 であるギゼラ」(coniugalis nostra Gisala imperatrix videlicet augusta)に授与した54)。その後 1043 年に,ギゼラから同所領を受け継いだハインリヒ3世により后のアグネスへ譲渡された55)  君主夫婦の「共同証書」と言うべきものがある。例えばクニグンデとハインリヒ2世の7つの文 書である。ギゼラとコンラートの共同証書には,「余の配偶者にして皇后であるギゼラと一つになっ て」(una cum Gisela imperatrice coniuge)とか,「いとも親愛なる世の妻ギゼラ即ち王后の手と一 つになって」(una cum manu dilectissime contectalis nostre Gisele videlicet regine)と書かれる夫 婦の固有資産の贈与文書がある。1通目はシュパイアー聖堂参事会に対して56),2通目はリムブル ク修道院建立のために発給された57)。シュパイアーへの贈与でコンラートは自分の国王選挙の際の 約束(誓約)を果たしたが,この交渉はケルンでギゼラが王后戴冠する前に行われていた58)

【帝国教会人事への皇后の関与】 王后の宮廷には少人数ながら公証人ないし法務官,礼拝堂付司祭 が確認される。彼らこそ女主人の権威ある後ろ盾によって司教座へのキャリアアップを果たすこと になる59)。ギゼラは礼拝堂付司祭長であるヴィルヘルムをシュトラースブルク司教座の候補者に 据えた。これが意味するのは,ギゼラが少なくとも2名の礼拝堂付司祭を置いていたことであろ 60)。史料中に王后付礼拝堂司祭への言及は稀であるが,同一宮廷礼拝堂の「王又は皇帝の司祭」

(capellani regis; capellani impertoris )と記されている。

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 コンラート2世が教会問題で妻のギゼラに大きな影響力の行使を許容していたことは間違いない61) ブレーメンのアダムによれば,ブレーメン聖堂首席司祭リベンティウスは 1029 年に自分の教会の司 教杖を「皇后ギゼラの厚意で」(favore Gislae imperatricis)コンラート2世から受領した62)。同様に 1029 年,前述のヴィルヘルムがシュトラースブルク司教位を得た63)。司教ヴェルナーが皇帝の委託で コンスタンティノープルに使節として赴き64),帰還することなく彼の地で没した65)後任としてだった。

ヴィルヘルムはコンラートの叔父ケルンテン大公オットーの息子であり,シュトラースブルク司教を 1046年まで勤めた。彼の兄ブルーノはトゥールToul司教だったが,ローマ教皇グレゴリウス5世となっ た(在位 996-999 年)66)。『ポッポ伝』によれば,元々スタブロー修道院長ポッポがヴェルナーの後任 に選ばれていたが,彼自身が継承を拒否したとのことである67)

 1025 年フルダを皇帝夫婦が訪問した折,高価な贈り物を手渡した修道士バルドー68)は,ギゼラ の親族だったとされる。彼は皇后の支援でキャリアを積み,1031 年中にヘルスフェルト修道院長に 任ぜられ,その後遅くない時期に,ローマ遠征から帰還できなかったマインツ大司教アリボーの後 任として帝国教会トップへと昇進した69)。バルドーはマインツ大司教座を 20 年の長きにわたり主 宰したが,特別に政治的に際立つことはなかった70)

 司教登用がいつも私欲の無いものとして支持されたわけではないことは,ウルリヒ(バーゼル司 教在位 1025-1040/41 年)のバーゼル司教選出に際して,コンラートとギゼラの振る舞いをヴィポー が非難していることが物語る71)。彼は皇帝夫婦をシモニスト的慣例の故に叱責し,彼らが司教任命 の代償に巨額な金を受け取ったと告発した72)

 盛期中世において皇后たちが「協賛権」(Mitsprechen)を行使して教会人事で意志を貫徹できた としても,ギゼラの例から見て,それは彼女たちと人間的つながりがあった例外的な人物たちだっ たからであり,とりわけ皇后・王后の礼拝堂付司祭のグループに偏したものであったことは当然で あろう73)。コンラート2世在位中の 1024 年から 1039 年までに 365 件の帝国司教昇進があったが,

そのうちギゼラが夫の教会政策で「自由な手」を行使したものはほとんどないようである74)。彼女 が関わったのは自分の周辺出身の聖職者に関する人事だった。中世後期の皇后・王后たちの教会昇 任人事への影響力行使についても同じことが言えよう(いわゆる「第一請願権」)75)

 王后・皇后による修道院建立は特に盛期中世に多かった。ザリアー朝時代には国王夫婦の共同関 与が多かった。ハールト河畔のリムブルク修道院がその例であり,コンラート2世とギゼラの設立 した教会に数えられる。ザリアー家領の上に設立された同教会は,1024 年のコンラートの国王選挙 後に建築され,1035 年に地下納骨堂の完成後に奉献された76)。同修道院の多数の贈与(寄進)を受 けての充実は(ギゼラの固有財産からの寄進も含まれていた),君主夫婦の共同証書による奉献の 折に行われた77)。同修道院は,1038 年には嫁のグンヒルトの墓所としての役割を果たした。

【シュヴァーベン紛争】 コンラートの義理の息子エルンスト2世(ギゼラの2度目の結婚相手であ るシュヴァーベン大公エルンスト1世との間の息子)との「敵対」(inimicitia)は長く続いた。ア ウクスブルクで 1025 年復活祭に集結した反対勢力の中に名が見える78)。「平和の敵である悪魔に唆 されて」シュヴァーベン大公エルンスト,フランケン大公コンラート,オーバーロートリンゲン大 公フリードリヒは多数の者と共に王に対する謀反を起こした79)。大公たちの「同盟」(coniuratio)

には既に老齢に達していたヴェルフ大公も加わった80)

 エルンストは 1007 年頃生まれ,1015 年に未成年にもかかわらずハインリヒ2世の命により父の跡

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を継いでシュヴァーベン大公となる。母ギゼラの摂政の後は叔父であるトリーア大司教ポッポの監督 下を経てコンラート2世の選挙直後に大公領の統治権を手にした。1025 年にカンブレー司教ゲルハル トを含むロートリンゲン勢力の服従により「反乱」(rebellio)と「紛争」(discordia)81)が終わった後,

エルンストはコンラートの第一次イタリア征行出発前に「母の制止により」(interpellante matre)王 と和睦した82)。母に和解の願いを託したという史料はないが83),ギゼラが息子と夫の和解を推進した と思われる。むしろエルンスト側に母の勧めなら和睦する用意があり,コンラートがイタリア遠征軍 を召集した 1026 年1月のアウクスブルク行きには随行した84)

 母・異父弟(ハインリヒ3世)と諸侯の賛同のうちに公式の和解が成った。コンラートも和解を拒 んできたが今や受け入れて,エルンストは再び臣従した85)。このケースは,ギゼラのみの影響力行使 ではなく,アウクスブルクへの旅の途中の和解でもなく,ハインリヒ3世と他の諸侯の関与を必要と した公式の和解・臣従だった。こうした経過から王后の影響力行使86)にも限界が見られよう。ギゼ ラの息子のために取りなしよりは,コンラート2世に対する反乱が王后・共治者として緊密に関与す る彼女に対する公的な反乱でもあったため,最後に公式の服従を要したと考えられる87)

 しかし,宥和の時期は短期間に終わった。エルンストは当初イタリア遠征に加わり,その奉仕の 代償にケムプテン修道院をレーンとして得たが批判があった88)。というのも,その間シュヴァーベ ン伯ヴェルフ2世がアウクスブルク司教ブルーノとの間でかなり激しいフェーデを始めており,同 司教領内において同伯は略奪,放火(焼討),侵犯していたからである89)。レーンを授与されたエ ルンストはヴェルフ2世に対し措置を講ずると期待されたが何もしなかった。彼は新たに理由なき 蜂起を始め90),エルザスを荒らし,コンラート王の親戚のエギスハイム伯フーゴーの城塞をいくつ か破壊した。その後,大軍を率いてブルグントへ干渉し,ゾロトゥルン城に対抗する陣地を設営し た。これによりエルンストはもう一度コンラート2世の敵となり,叔父であるブルグント王ルード ルフ3世の支持も得られず撤退を余儀なくされた。チューリヒの上手に彼は城を建設し,略奪によっ てライヒェナウやザンクト=ガレンに多大な損害を引き起こした。

 コンラートが皇帝戴冠後にイタリアから戻った後,エルンストはこうした違犯の数々により 1027 年7月のウルム宮廷会議で改めて責を問われた。その際に宮廷会議の眼前の地で企てられた,シュ ヴァーベン貴族たちに自らへの忠誠を誓わせようとの試みは失敗した。彼はコンラートとの和解交渉 が失敗した場合に,力を保持しつつ撤退できるようシュヴァーベンの豪族たちの支持を確保しようと 望んだのである。しかし,彼らは拒否し,自分たちの自由を訴え,最高の保護主として皇帝を支持し 91)。エルンストには無条件降伏しかなかった。直後にそうしたのがヴェルフ伯92とコンラート年 下公93)である。エルンストはザクセンのギービッヒェンシュタイン城に捕囚となった94)。その間,

皇帝軍部隊は,エルンスト腹心のヴェルナー伯の周りに残存する蜂起派の城塞を占領した95)

【皇后のジレンマ】 皇后ギゼラはウルムの宮廷会議に全期間出席していた。その証明がヴュルツブ ルクとザルツブルクの両教会宛証書へのマインツ大司教アリボーと彼女の関与である96)。しかしな がら,彼女は息子に対する処置には全く関与していない,息子の中庸を失した許されざるべき略奪 行為に鑑みて,無関与は怪しむべきではない97)。コンラート年下公が早々と地位を回復したのに続 いて,宮廷会議の 1 年後にエルンストの恩赦とシュヴァーベン大公職への再任命も施された。しか しこれもわずかな期間だった。エルンストは自分の腹心であり数多くの侵害行為により帝国を混乱 させたヴェルナー伯に対する断固たる処置を拒否したからである。

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 1030 年3月 29 日,インゲルハイムの復活祭宮廷会議で,エルンストは旧来の蜂起同盟者に与し ていると決定され,改めて「皇帝の公敵」(hostis publicus imperatoris)と宣告され,大公領を剥奪 された。彼は若干名の従者たちと共に会議から逃亡したが,この逃亡の結果,コンラートは司教や 帝国諸侯と合同で,彼に対して,そしてまた法と平和のあらゆる敵対者に対して破門と帝国追放刑 を下させた98)。エルンストの流血の最後は遠からず訪れ,皇帝軍との戦いの中で戦死した99)  こうした状況の中でギゼラは,長男エルンストに対抗して同父次男ヘルマンのシュヴァーベン大 公領授与のために仲裁した100)。エルンストとの親族関係の中に根拠付けられた権利が懲罰の対象と なり,彼女の支配者としての義務と対立したが,インゲルハイム宮廷会議の決定とその結果を共に 負うものとなった101)。ギゼラは母としてではなく,皇后として対応し行動した。皇帝の傍らに常に 身を置き,良い意味で息子エルンストを後回しにしたのである102)

【東方の新情勢】 ボレスワフ・フローブリイとオットー3世の間の良き隣人関係がハインリヒ2世 の治下で敵対関係に変わった103)。和戦の攻防が続き,ボレスワフの息子ミェシュコ2世が 1013 年 以降引き継いでいた。皇后クニグンデは二度に亘り,ポーランドに対する軍事的統帥を指揮したが,

次の皇后ギゼラは和平のために登場した104)。1015,1017 の両戦役後に結ばれたバウツェンの和(1018 年 1 月 30 日)105)を,ミェシュコは 1028 年に破棄し東ザクセンに侵攻した106)。成果に乏しい 1029 年のコンラートの戦役後107),益々ポーランドが脅威となった108)

 ミェシュコの襲撃は 1030 年初めにはドイツの境界地域へと及び109),それに応えてコンラートは 1031 年に新たな遠征を起こし,この度は勝利を収めでラウジッツとミルツェン地方を奪回した110) この間,相続で無視された異母弟ベツプリュムとキエフ大公ヤロスラフが結び,1031 年ヤロスラフが ポーランドを攻撃し,ミェシュコがベーメンへと逐われ,ベツプリュムが支配権を戦い取ることがで きた111)。しかし,即位後数ヶ月でベツプリュムが暗殺され,ミェシュコには再び支配権奪還のチャ ンスが開けた。彼には今や和平の用意があった。ミェシュコはポーランド帰還に際して,使節をザリ アー宮廷へ送り,皇帝の前で自らが相応な仕方で償いを果たせる確証を求めた112)

【ポーランド問題の処理】 ミェシュコはあらゆる方法で皇后ギゼラ及び他の諸侯の恩寵を請い求 め,彼らを通じて皇帝の恩寵を取り戻そうとした。皇帝は最終的には彼を慈悲深く赦してやり,ポー ランドを三つに分割して,彼をその一部の支配者に任命した。縮小した権力を保持するミェシュコ の信頼性への疑いを除去した113)。ポーランドは分割されたが「以前はミェシュコだけが統治してい たものを,後に再び全体を自己の支配権下にもたらした」と編年誌が伝える114)。協定の日付につい ては,諸史料が和平を 1032 年とするが,近年の研究は 1033 年7月7日とする115)

 コンラート2世の礼拝堂付司祭で宮廷歴史著作者のヴィポーが,宮廷の個々の出来事を承知した 上で特に強調するのは,ミェシュコが皇后並びに挙名されていない諸侯たちの「恩寵」を強く願っ たことである。コンラート2世との対立の中で仲介者を獲るためのミェシュコの努力とされてきた。

皇后が最終的に和平協定をもって紛争を終結させたのだから。しかし,なぜ何十年もの戦争と和平 の行きつ戻りつの後,皇后が加わったのか。彼女の前任王后(皇后)の誰もが,長年の戦争相手ポー ランド人との和平仲介の任を引き受ていない。

 ポーランド問題へのギゼラの関与は,ブルグント紛争やシュヴァーベン大公エルンストとの闘争 での仲裁活動と比べ,直接の親族関係に基づくものではなかった。平和仲裁が婦人の美徳であるだ けでなく,むしろ皇后の義務だった116)。とはいえ,皇后の介入は宮廷における彼女の位置(立場)

(9)

及び王への人格的影響力に基づくものと見なされた。当事者との「直通会話」を前提としている。

皇后は帝国利害が懸かっている場合に和平仲介者として登場した。その際明らかなことは,支配の 共同者(consors)として,皇后は帝国利害や国王利害に反することは行えないことだった117)

【皇后の仲裁と人脈】 皇后は仲裁を請願された場合に初めて関与している。即ち,当事者間の対話 が収拾不能となり,面目を失うことを避けるために,外交や政治的能力よりは妥協を導き出す必要 が生じた時に人格的影響力行使の可能性が働く。ヴィポーによれば,1032 年と 1033 年の具体的情 勢の中でギゼラの仲介がいかに成功したかは明白であった。ミェシュコ2世はそこへ向けてあらゆ る可能な努力をした。どんな方法でいかなる人物を通じて接触が図られたか。それ以前のミェシュ コとギゼラの出会いは明らかでない。ミェシュコはライン宮中伯エッツォ家のリヒェツァ Richeza

(1063 年没;皇帝オットー2世と皇后テオファーヌの孫)と結婚し,帝国諸侯の多数と良い関係を持っ ており,彼らが皇后に至る道を開いた可能性がある。

 1034 年に亡くなるエッツォ(955 頃 -1034 年)は,オットー2世夫婦の娘マティルデ(1034 年没)

と結婚して 10 人の子をなした。娘7人のうちリヒェツァがミェシュコに嫁いだ118)。エッツォ自身 はザリアー皇帝夫婦と直接の結びつきは史料上確認できないが,息子のヘルマン(リヒェツァの兄;

後のケルン大司教,1056 年没)とのつながりをミェシュコはもっていた。ヘルマンはその急上昇す るキャリアをザリアー宮廷で始めたばかりであり,皇帝コンラート2世の礼拝堂付司祭兼イタリア 書記局長として 1034 年以来証書に名が出ている119)

 もう一つの可能性としてはザリアー家のコンラート年下公(ケルンテン大公,コンラート2世と 王位を争った人物)と結婚し,その死後オーバーロートリンゲン大公フリードリヒと再婚したマティ ルデ(皇后ギゼラの妹)との関係が推測される。彼女はオーバーロートリンゲン大公后としてミェ シュコと友好関係にあり,今は失われたが献呈細密画と献呈書簡を備えた祈祷書写本をミェシュコ の戴冠直後の 1025 年に作成させている120)。バンベルクのミカエル教会の奉献(1021 年)に際し て,追悼文にミェシュコの名があること,コンラート2世の王位への初期の抵抗勢力としてオーバー ロートリンゲン大公とポーランド大公が政治的に共通利害を有したことも傍証である。

 しかも,マティルデとギゼラの関係は 1030 年代には常に良好であり,1033 年7月 29 日にマティ ルデが亡くなった後,娘二人(ソフィアとベアトリクス)をギゼラが王宮に引き取り養育の世話を している121)。ヴィポーによると,ミェシュコはギゼラの皇帝への大きな影響力を熟知し,彼女を通 じて新たな和平条約を得ることが可能と確信した。皇后は高価な贈り物を得て恩寵の求めを拒否で きず,皇帝に和解賛成を申し入れたことは確かであろう。最終的に成就したポーランド分割を含む 和協をミェシュコは尊重し,1034 年に亡くなった。

Ⅱ.ロタール3世の皇后リヒェンツァ

Richenza

(1087/89 年頃~ 1141 年6月 10 日;ケーニヒスルッ ターに埋葬)

【戴冠と巡幸】 「最後の重要な共治者」だったと評価される皇后リヒェンツァ122)は,1100 年頃当時 のザクセン大公ロタールと結婚したが,1125 年8月 29 日の国王戴冠(アーヘンにおいてケルン大 司教フリードリヒにより挙行,マインツ大司教アダルベルト,リエージュ司教アダルベロ−他の司 教たちの補佐)の数日後,彼女の聖拔はケルンで執り行われた123)。史料は相反する記述をするが夫 婦戴冠はなかったようである124)。ケルンでの夫婦戴冠を報じているものもある。ケルンではロター

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ルの「祝祭戴冠」が催されたとする説もある125)。リヒェンツァはアーヘンでの戴冠(1125 年9月 13 日)には「出席していなかった。さもなくば,彼女はおそらく夫と共に王冠を受けたであろうか ら」126)。彼女の皇后戴冠の方は夫とともに 1133 年6月4日に行われる。

 リヒェンツァと次のコンラート3世の后ゲルトルート・フォン・ズルツバッハの両王后の巡幸の 日時及び経路等の再構築・再確認も困難である。リヒェンツァは前任の王后たちの例に従って,大 抵の時期夫のロタール3世と一緒に帝国内の巡幸をしたと推測される127)。支配権行使の初期であ る 1126-28 年には,彼女の滞在地に関する手掛りは無い。1125 年9月のケルンでの戴冠後,彼女は 1129 年初頭に史料に再登場する。その関与が記される証書(聖ブラジエン修道院宛証書)128)は偽書 と思われるが129),彼女がこの間全く宮廷から遠ざかっていたことはあり得ない。夫婦一緒の行動が 通常である以上,史料に后の動向が常に記されることはない。確かなことは,1127 年聖霊降臨祭に メルゼブルクの宮廷会議に彼女が訪れており,その際ロタール3世がバイエルン大公ハインリヒ尊 大公に夫婦の一人娘ゲルトルートを結婚させていることである130)

 1129 年4月から 1130 年4月の間の王后の行動は分からない。ロタール3世は 1129 年7月半ばか ら 1130 年初頭まで,シュパイアーを攻囲しており,軍事行動については通例皇帝・王の単独行に なることが多いからである。1130 年4月5日にリヒェンツァはバンベルク教会宛証書に関与した

131)。これ以後,数としては少ないロタール3世の証書に,それほど長い中断なく彼女の関与が見ら れる132)。1132 年8月,二人はイタリアへ一緒に赴く。1133 年6月4日,ローマのラテラノ宮殿で の教皇インノケンティウス 2 世による皇帝戴冠は遠征の頂点として描かれている133)。リヒェンツァ は 1136-37 年の第二次イタリア遠征に際しても一緒に遠征した。

【国王裁判権の行使】 ロタール3世はベルトルトをフルダ修道院長に任命する証書の中で,「共同統治者 リヒェンツァの共同関与と諸侯の助言」という特別の書式を提示した134)。皇后の統治関与の実例は,盛 期皇帝権に通底し,証書発給時に明確に示される。皇后リヒェンツァは上部イタリアにおいて裁判高権を 執行した。知られるのは,1136,37 年における4つの争訴である。3つはレッジョ・ネレミーリャ Reggio nell'Emilia で 1136 年の①9月,② 11 月7日,③ 12 月初めに商議され,4つ目はイソラ・デラ・スカラ Isola della Scala で④ 1137 年 11 月6日のものである(① DRich. 1, ② DRich. 2, ③ DRich. 3, ④ DRich. 4.)。

 ①は 1136 年9月に召集された裁判集会に由来する。名指された者たちの財産毀損について,モ デナの聖ピエトロ修道院及び修道院長から皇后へ提出された訴書であるが135),証書原本が伝えられ ておらず,他の文書と共に 12 世紀の写本の中に含まれている。出席したのはシュトラースブルク 司教ブルーノ,ハーフェルベルク司教アンセルム,裁判人のアデゲリウス・ディ・サン・クローチェ 及びジラルドゥスであった136)

 1136 年の②と③の文書は,「裁きをなすべく」137)皇后がレッジョに滞在したと確言する。イタリ アで通常の書式に則って公証人が作成した 2 通の証書は,②138)は聖シルヴェストロ・ツェ・ノナ ントゥーラ修道院が,③139)はレッジョのマリア教会が,特定の財産所有の承認を得るべく起こし た訴えに関するものだった。皇后がその裁判を主宰し,両訴訟手続きは,訴人側有利な判決宣告を もって終了した140)。修道院長と守護領主が彼女に依頼した訴えの聴取後,皇后は出席していたドイ ツ人やイタリア人たちに,「正義が行われるためには(ut iustitiam consequeretur)どのように訴訟 が処理されるべきか」を問うた141)

 判決は一致して修道院側に有利に下った。嗣子なくして没した辺境伯コンラートの死後,修道院

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に帰属したチェッラの所領を,皇后の代理人が修道院長の領有に定めた。この命令を皇后はドイツ 人コンラートに与えた。更に,宮廷裁判に出席しているドイツ人・イタリア人たちは,チェッラへ の抵当権を主張する者は金と土地を失う一方,レーン諸権利を主張する者は,それらを修道院長の 法廷で立証すべしと決定した。皇后は 50 ポンド金の罰金をもって罰令を布告した142)

 ③のレッジョのマリア教会の不法に奪われた所領についての訴えは,多数の人々に対して提訴さ れ裁かれた。彼らは再三の招き(恐らくは主宰する裁判人たる皇后の側からの)にも出廷しなかっ たので,全員の所有権要求を剥奪して,大聖堂有利に決定された143)。同聖堂は枚挙された財産項目 全てを認定された144)。最後に法廷は,皇帝と皇后のために 100 ポンド金の罰金をもって同所領に関 する聖堂のゲヴェーレ(占有用益権)を確認した。レッジョのマリア教会のために交付されたこの 証書のみが,再現可能な皇后署名を帯びている145)。今日失われてしまった捺印された蝋印章がこの 署名を覆っていた。いかなる印章だったかは確定できない146)

 ④の証書は多くの点で②,③と区別される。イソラにはリヒェンツァが随員とともに滞在してい ただけでなく,皇帝ロタール3世,女婿バイエルン大公ハインリヒ,シュタウフェン家の大公コン ラート他多数を伴う宮廷全部も居たからである147)。訴訟ではヴェロナの主教会聖マリア及び聖ジョ ルジュの聖堂参事会からの2名の使者が,チェレア及びクルティス・アンジャーリの城と邸館の所 有について「極至聖なる」皇帝・皇后の面前で訴えた。次いで 11 月6日土曜日に宮廷法廷が開催 され主宰者を皇后が勤めた。「皇帝の指令に基づき」(ex mandato imperatoris Lotharii mariti sui)

出席を挙名されている人々の前で,特に名を挙げられている皇帝侍従ベルトルト,辺境伯ランペル トゥス148)及びジラルドゥスに対して,聖堂参事会の所領を確定するよう命令した149)。訴訟手続き において3つの段階が確認できる。(1)皇帝・皇后への訴えの提出,(2)皇帝の決定(判決),(3)

皇后による所有権確定の実施である150)

 リヒェンツァも同時代の慣行(実践)に従い,制限されずに王の裁判高権を行使した。しかし,

普段行使したのではなく,限定された時と場においてであり,王が別のことに専念している時でも あった。すなわちロタール3世は「自らはポー川上流域に居たため,リヒェンツァを特にこの目的 のために(正義を為すべく)レッジョに派遣した」のである151)。皇后マティルデはハインリヒ5世 不在時のみ法廷を主宰したが,リヒェンツァは国王法廷で議せられる争訟を全権を有しつつイタリ アで委ねられた。彼女は夫と一緒にいる時でも裁治権を行使し,その場所へ赴いた。

【教会人事への関与】 シュトラースブルク司教ブルーノは,1125 年にマインツ大司教アダルベルト によって剥奪された司教職に,王后リヒェンツァの強力な支持で 1129 年再び任ぜられた152)。書簡 の中でブルーノは彼女に感謝し「私の今あることと私が為しうる全てのことは,神の次に貴女様の 御陰を被っております」と書き添えた153)。ブルーノのリヒェンツァ称賛は,同時期に書かれたロター ル3世宛書簡でも記されている。当時勃発していた教皇シスマ(インノケンティウス2世とアナク レトゥス2世間)において,まさに困難な交渉に際しては「至高のキリスト者たる」王后の助言を 得るように,と王に勧めている154)。それ以上の史料は知られていない155)

 しかしながらブルーノは短期間しかシュトラースブルク司教座に座れなかった。不法な土地占有 と不法な聖拔を行ったと訴えられて,教皇使節臨席下で開かれたマインツ公会議(1131 年5月)で 辞職せねばならなかった。解任後バンベルクへ戻ったが彼が王后の周辺から消えたわけではなかっ た。というのは,前述の 1136 年レッジョ・ネレミーリアでリヒェンツァによって王の裁判高権が

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行使された際に,ブルーノは王后書記局の指導者として再び史料に現れているからである156)  こうした経過から観て,教会官職への人の配置(配役)決定に王后が参加したり口添えしたりす ることは,ヴォルムス協約後の時代においてもなお,王后そして国王の最高権威と貫徹力によって 実現した。彼女が教会の「人事政策」に影響力を強く行使したことは修道院の領域でも証拠立てら れている。1133 年6月 14 日,ロタールとリヒェンツァの皇帝・皇后戴冠の日に,フルダ修道院長 へと叙階されたベルトルトは,自らの選挙並びに修道院長に属する財産の再下封禁止の両方を文書 により承認を受けた157)。彼の選挙に同意した人々のリストに最初に皇后の名がある158)

【シュタウフェン家との戦い】 1125 年8月 24 日ドイツ諸侯の選挙集会がマインツで開催された。

有力な国王候補者はハインリヒ5世の甥でシュヴァーベン大公フリードリヒ(35 才)とザクセン大 公ロタール(50 才)であった。ザクセン派とシュヴァーベン派はそれぞれライン川を挟んで対陣した。

バイエルン大公ハインリヒ黒公は息子のハインリヒ尊大公とロタールの相続女ゲルトルートとの結 婚取り決めで提携を結ぶ。イニシアティヴを取ったのはマインツ大司教アダルベルトであった。そ の判断の最大要因は自己の教会領国政策の利害であった。シュタウフェン家領は相続したザリアー 家のシュヴァーベン地域の家領に隣接している。マインツ以南のライン地域ではヴォルムス,シュ パイアー周辺にまとまっており,シュタウフェン家が帝国南西部においてマインツ大司教を脅かす 権力地位有したが故に,大司教はシュタウフェンの登位を阻止したかった159)

 8月 30 日の選挙により選ばれたロタールは,アーヘンで9月 13 日に戴冠したが,国王選出が残 した影響と問題は大きかった。事実上最初の「自由選挙」が行われ,血統権に対する自由選挙権に よる国王選出の原理が貫徹したこと,二つには,ロタールとアダルベルトの提携に見られるドイツ 教会と帝国の良好な関係が以後もプラスに働いたが,司教修道院長は,彼に誠実宣誓をしただけで あり,レーン関係を結ぶ際し通常行われた跪いて両手を差し出すという「臣従礼」は行わなかったし,

ロタールはそれに満足したこと,三つ目は,ロタールとヴェルフェン家の婚姻提携により,ドイツ のみならず,イングランドやイタリアを巻き込みその後半世紀以上続くシュタウフェン家とヴェル フェン家の対決が始まったこと,最後に選挙結果を教皇へ通知して「認証」を得たことである。

 ロタールはザリアー家領と帝国領を合わせ相続しているシュタウフェン家との争いでは,1125 年 9月のレーゲンスブルク諸侯判決により帝国領(公領)と家領(私領)の分離を貫徹しようとした

160)。クリスマスにシュトラースブルク宮廷会議でシュヴァーベン大公フリードリヒは帝国平和喪失 を宣告され,彼に対する帝国軍役が決議されたが,後者は執行されなかった。

【皇后の仲裁調停】 リヒェンツァは王后の地位を得る前に 20 年以上にわたりザクセン大公后として 政治的経験を十分に積んでいた。「目的を意識して実行力のある政治的天分豊かで老練な女性」161)

という彼女のイメージは多数の史料に拠り,調停的・紛争回避的かつ,仲裁者的活動と結びつく。

彼女はロタール 3 世の緊密な助言者サークルに属し,皇帝の統治に能動的に参画した162)

 彼女はまた親族からも助言者を得ていた。義兄弟のライン宮中伯オットー・フォン・ラインエッ 163),従兄弟のヘルマン・フォン・カルフェラーゲ164)とジークフリート・フォン・ボイネブルク

165)の二人(ノルトハイム伯家の男系最後の人々)であり,彼らに支えられて彼女の王の決定への影 響力は大きかった。しかし,なぜ王后がしばしば仲裁を引き受けたのだろうか。

 目を引くリヒェンツァの関与は,ロタール3世とシュタウフェン家のフリードリヒ,コンラート 兄弟との間の和協への努力だった。彼ら兄弟は叔父(兄弟の母アグネスの弟)である皇帝ハインリ

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ヒ5世の死後,王位継承への権利要求を告知した。兄のフリードリヒ2世が敗れた 1125 年8月 30 日のマインツでの国王選挙166)の後,兄弟は要求権を放棄しフリードリヒは選挙直後にマインツで 新国王に誠実誓約と託身をもってする臣従礼を行ったが,その後も長年に及ぶ戦闘対決がロタール

=ヴェルフェン派とシュタウフェン派との間で続く。この対決は 1127 年 12 月 18 日,弟のコンラー トを対立国王に選挙することで頂点に達し167),帝国司教側からの破門を被った168)

 帝国領域内での支持・共感の欠如によりコンラートはアルプス越えで帝国イタリアへ進軍した。ミ ラノで王の栄誉をもって迎えられ169),モンツァのサン・ミケーレでミラノ大司教によってイタリア王 に戴冠した170)。一方,シュヴァーベン大公フリードリヒ2世の方は,ロタール3世と戦いを続けていた。

しかしながら,初期の成果無き軍事状況から転じて,ロタールは最終的には,1128 年2月にシュタウ フェン勢力が占領したザリアー家の墓所シュパイアー171)を,長期間の攻囲172)の後に 1129 年クリス マス後に同市の開城により取り戻した173)。なお続くシュタウフェンとの戦争は,1134 年秋のロター ルの遠征174)によりようやく終わる。シュタウフェン派は戦いをやめ皇帝に屈服した。皇帝は引き続 いて帝国修道院であるフルダへと赴き175),皇后も同じく滞在した。

【シュタウフェン家の降服】 シュヴァーベン大公フリードリヒは特定の人々を通じて皇帝の恩寵を 再び得ようと努力したようである176)。大公が皇后に服従する場面を『マクデブルク編年誌』は詳細 に描写している。「大公フリードリヒは,自分が多くの者たちから見捨てられ,欺かれたことを知っ て,必要に迫られ,裸足でへりくだって皇后の許へ赴いた。皇后は皇帝と一緒に前述の地(=フルダ)

に滞在していた。そして皇后の恩寵を嘆願して得た。大公は彼女(自分の伯母に当たる)を通じて 同時に皇帝の恩寵に戻ることを望んでいた。かくしてその事は行われた」177)と。

 大公の「降服」のために皇后が看板にされただけなのか。ロタールはフリードリヒの出現に驚いた。

長年の「帝国の敵」の公式の降服は目撃者の少ないフルダではなく大勢の見物人が居る場面で,多 数の帝国諸侯が訪れる宮廷会議で受け容れたかったと思われる178)。皇帝との出会いは,戦闘の終結 直後でしかも仲裁者(この場合は皇后)の介在なくして不可能なことをフリードリヒは知っていた。

自らが王家の血統であり皇后の血縁であることが,彼女なら自分のために口添えしてくれるとの希 望を持たせたのである。事実,リヒェンツァの母ゲルトルード・フォン・ブラウンシュヴァイクは コンラート2世の皇后ギゼラの曾孫であり,ギゼラと最初の夫ブルーノ・フォン・ブラウンシュヴァ イクとの結婚による所生である息子リウドルフの孫である。従って,フリードリヒ大公と皇后リヒェ ンツァはザリアー家を経由する血縁関係にあった179)

 しかし,皇后の行動は大公の降服を受け容れることで彼のために介入することに尽きるものでは ない。皇后は大公の皇帝への降服後,居合わせた教皇使節180)(1135 年1月1日のアーヘンの皇帝宮 廷に居たことが証明されるところの枢機卿司教ディートヴィンと考えられる)を促して,7年間に 及んだフリードリヒの破門を解除させた181)。直ちに破門解除されたこと,ロタールとの事前協議が あったにしろ,重い決定に際して彼女が公式に振る舞えた事実が示すのは,いかに強く彼女が支配 権行使と結びついていたか,そしてまた,教皇使節と教会法的事項に関して交渉できる彼女の権限 が,いかに完全に受け容れられていたか,更に,批判が全くなかった,ということである182)。王后 特に皇后の有する「王権の共同」(consortium regni)は決して空虚な語句や形式的権限ではなく,

実践に移され結果も受け容れられていた共同の支配権行使であると考えられていた。

【ロタール 3 世の治世の最盛期】 こうして,ほぼ 10 年間続いたロタールとシュタウフェン派との闘

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