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1950年代後半の日本における 道徳教育論とその転換(上)

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(1)

はじめに──敗戦後の道徳的「荒廃」と 道徳教育課題

山形の山村の中学生は、生活綴方集『山び こ学校』(1951年)のなかで、こう書いていた。

終戦時、彼らは小学校4年生であった。

「そのころから急に、『勝手だべ。勝手だ べ。』という言葉がはやり出しました。

お父さんの煙草入れなどいじくりプカプ カ煙草などふかしたりしました。お父さ んなどに見付けられてしかられると、

『勝手だべ。』といって逃げて行く子にな ってしまったのでした。……私たちが中

学校にはいったのは昭和二十三年です。

そのころは、すこし落付いていましたが、

それでも、『勝手だべ。』などという言葉 は、なおっていませんでした。」1)

「勝手だ」とは、「自由だ、自分で判断する。

大人たち・親たちの言いなりにはならない ぞ」ということでもある。それが価値や行為 の自主的な判断と選択への宣言であれば、道 徳的に悪だとは言えない。しかし既成社会秩 序からの離脱宣言であれば、既成社会秩序の 住人たる大人から見て、それは、子ども・若 者の秩序破壊であり、社会的・道徳的「荒廃」

である。

1950

年代後半の日本における 道徳教育論とその転換(上)

奥平康照 OKUDAIRA Yasuteru

はじめに──敗戦後の道徳的「荒廃」と道徳教育の課題 1──道徳性の基盤として、統合と共同の原理を求める 2──道徳性形成の生活基盤の模索

【要旨】1958年版学習指導要領は、小中学校に「道徳」の時間を特別に設けることを規定 した。それは戦後教育政策の大きな転換の一つであった。この道徳教育政策の実施に対し ては、教育学界や民間教育諸団体は強い批判をし、単に批判するだけでなく、活発に道徳 教育論議を展開し、さらに特設「道徳」に対抗する道徳教育実践と理論をつくり上げよう とした。その対抗的道徳教育論議をとおして、道徳教育実践と論は一定の形に整理されて いった。その整理は、一面では60年代生活指導運動の隆盛をもたらしたが、他面では道徳 教育と生活指導の論と実践の一面化を結果することになった。戦後50年代までの道徳教育 と生活指導の理論と実践は、素朴で荒削りではあったが、豊かで多様な試みをつみ重ねて いた。しかし50年代の後半を境として、道徳教育・生活指導の論と実践の豊かさは消えて いく。道徳教育論議の転換は、58年特設「道徳」政策への対抗的必要によって生まれたも のであるだけではなく、この時期に起こった日本社会の急変貌によって生じたものでもあ った。本稿ではまず、50年代までの道徳教育論議の多様性を記述する。

(2)

敗戦後に、東京の浅草の今戸高等小学校2 年F組の代用教員になった古川原は、大都市 の十代前半の少年たちの荒廃ぶりにおどろい た。自分の学級の14歳男子のおもしろがるこ とは、

「アヴェックの女に新聞紙にくるんだど ぶどろを投げつけること、安全かみそり の刃を指の間にいれて持ってあるき若い 婦人のゆかたやワンピースのスカートを 切ること、観音様へ行ってお賽銭を釣る こと、学校の前の文房具屋へ行って鉛筆 やケシゴムを万引きすること、……。少 し目立つ女の子の下駄箱には毎日何通か のラヴレターがはいっている。……その 文句の汚らしさ、文章のへたさ……醜怪 目を覆わしめる露骨なことが書いてある。

グロテスクなラヴレター……」2)

古川は学生時代に、社会事業団体の活動に 参加して、東京のバタ屋部落に出入りしてい たことがある。そこは文化的にも経済的にも 極貧の地域だった。あまりの貧困に耐えきれ なくなって、女たちは子どもを置いて出て行 ってしまう。「ここには女はいないが子ども はいる。……」父親は夜中にリヤカーを引い て、紙くずを集めてまわり、それを仕切り屋 に売って、生活している。子どもは紙くずと 一緒にリヤカーのなかで眠る。朝、部落に帰 ってくると、父親たちは酒を飲んでそのまま 寝てしまう。子どもたちは親から与えられた 金で勝手に腹を満たす。子どもたちには正式 の名前がない。学校にはいかず、昼間は20−

30人と群れて騒いでいる。学齢期になっても 戸籍も学籍もない。その子どもたちの学習を 支援する活動などを、古川たちはしていたの

である3)

大都市最貧困地域の生活と子どもたちの実 態をすでに知っていた古川ではあったが、そ れでも自分が担任となって知った、浅草の中 学生の頽廃的行動は、古川にとっておどろき だったのである。

民主主義社会における自由と統制の問題は、

子どもたちの教育の具体的問題であった。教 育科学研究会の57年大会の「小学校の生活指 導」分科会では、次のような意見が出たと、

報告されている。「社会生活の自由と統制へ の正しい理解を育ててやる」こと、そして

「他人の自由を侵害しないための統制が必要」

である。「戦後の教育が、こういう種類の強 制から解放することに力を注いできたことは 正しい。が、解放されっぱなしでは正しい生 活者にはなれない。……抑制のきく力を持つ 子どもに育てなければならない。」4)

子どもたちの道徳性の指導をどうするかは、

戦後教育の大きな関心事だったのである。戦 後10年、仲間づくり・集団づくりと生活指導 や教科指導について、また、道徳教育と生活 指導や教科指導との関係のあり方については、

多様な実践がつみ重ねられていたはずである。

しかし、道徳教育についての実践と理論は、

いまだ模索状態であった。

戦後初期の「荒廃」現象に対応するために、

道徳教育は二つの基本的課題に答えなければ ならなかった。一つは個人の自由と解放であ る。子どもたちを家父長的な家族・村落地 域・天皇制国家共同体への隷属から解放して、

自由な個人を形成することである。もう一つ は新しい社会・国家の一員として、その秩序 の担い手へと形成するという課題である。後 者のためには、共同性原理が必要であった。

それは、社会秩序への統合のための政治的・

(3)

精神的な規制枠であり、同時に社会的アイデ ンティティの支柱・基盤となるものである。

1──道徳性基盤として、

統合共同原理める 戦後教育の主要課題のひとつは、子どもた ちを天皇制国家主義の思想と行動への統制か ら解放し、民主主義社会の担い手に育てるこ とであった。それは戦後教育の思想と実践に とっては自明のことであった。しかし、そこ から解放して、代わって子どもたちの精神的 支柱をどこに見出すか。旧体制からの脱出を 明瞭に意識している人ほど、新しい支柱の所 在を明らかにすることが、重要な課題となっ っていた。

天皇制に代わる共同

『教育』第5号、1952年3月号の座談会

「日本人の道徳」で、丸山真男は敗戦後初期 の自分の心情状態を次のように語った。

「ぼくは、おそらく磯田さんだの鶴見さ んと比較すると、一番この(おなかを押 して)なかに天皇が多い方だろうと思う。

戦争前にしょっちゅう頭のなかにモヤモ ヤしていて、さっぱり解決のつかなかっ たことは、やはり天皇とデモクラシーと いうことで、……シコリみたいに悩んで いたわけです。……それから兵隊になっ て、終戦直前に新聞に小さく載ったポツ ダム宣言を読んだときに、一度にそのシ コリみたいなものがとれて、爽快な風が 頭のなかをふきぬけた感じだった。しか し……終戦直後に現存の天皇制なんかい らないものだと考えたかというと、その 時分でもそうは考えなかった。その年の

九月ごろのノートみたいなものをみると、

やはり今後の天皇制の存在理由はどこに あるかということを問題にしている。…

―日本みたいにデモクラティックな伝統 のないところでは、社会的階級的対立闘 争がルールにしたがって行われることが 困難で、そのために民族的な統一が破壊 される恐れがある。その場合、天皇制と いうものが、一種の潤滑油的な役割をす るのではないか。むろんそのためには、

絶対主義的な要素はなくて、ただ国民の

『情緒的統一のシンボル』……になれば いい。―まあ当時の考えはそんなものだ った。」

しかし丸山の天皇制論は、天野貞祐、安倍 能成と同じではない、とする。天野などには

「そういう天皇制の効用があるかないかとい う一応合理的な問題以前の、恐れ畏かしこみという 感情がやはりあると思う。」と批判し、現在 の心境を次のように語っている。

「天皇制がないと民族的統一が保持され ないんじゃないか、と考えるべきではな くて、なにかそういう他の権威にすがら ないと民族統一がたもてないといったな さけない状態をぬけ出すことによって、

はじめて日本民族は精神的に自立できる んだ―そういうふうに問題を立てていく のが正しいのだと思う。さっきのような 遍歴を経て、やっとこの二、三年、ぼく の心のなかで、……考え方がきまった。

……現在のきもちをいえば、天皇制がモ ラルの確立を圧殺していることに対して、

どうにもがまんのならないものを感ずる。

天皇制に対して、じつにそういう意味で

(4)

の嫌悪、憎悪を感じる。これを倒さなけ れば絶対に日本人の道徳的自立は完成し ない。」5)

そのように天皇制離脱を宣言している丸山 は、天皇制に対してまだこだわりをもってい たのであろう。だから、それを(丸山の内な る天皇制をふくめて)倒さなければ先に進め ない、ということになるのである。丸山世代 にとっては、天皇に対する心情に決まりをつ けなければ、道徳的価値観を確立することが できなかったのである。

民族的統一のための基盤、あるいは道徳的 に自分を支えるもの、そういうものの必要を 述べているのは丸山だけではなかった。同じ 座談会で竹内好も、今それはすべての日本人 の悩みであると言っている。

学校の先生だけではなく、わたしたちも、

「その点じつに深刻な悩みをもっていま す。生きる苦難というか、自分にささえ がないことが非常に苦しいですよ。……

おそらく日本人みんなそうじゃないか。」

しかし「この悩みは、天皇中心の道徳、

古い規範が倒れたから、それで空白がで きて悩みが発生したのではない。わたし 自身のことを申しますならば、国民教育 で教育勅語によって天皇中心の道徳が強 制されていた時には、……この不合理な 規範から、どうして脱却したらいいかと いう悩みをいだいて、自分だけで努力を つづけて来たわけです。その悩みは今日 でもまだ解決されていない」。6)

天皇中心の古い規範が倒れ、空白ができた から悩み始めたのではない。天皇制価値規範

は、強制された不合理なものだと見て、そこ から離脱しようとしながら、それに代わる精 神的倫理的規範の支柱を見出すことができな いでいたのだという。そのように言う、竹内 の発言は注意しておく必要がある。天皇制国 家ではもちろんないが、西洋市民主義でもな く、マルクス主義社会主義でもなく、そのよ うな既成の規範では間に合わせることができ ずに、新しい規範の根拠を求めようとしてい た少数派もあったのである。

日本人の道徳的規範の拠りどころを日本の 伝統の中に求めるとしても、天皇制という恣 意的な狭い伝統ではなく、もっと広く民衆の 生活に根ざした民族的伝統を明らかにし、そ こに日本人の精神的・道徳的拠りどころを見 出そうとする方向もあった。竹内好もそうし た民族的伝統を求めようとしている一人であ った。先の座談会のなかで竹内は「日本の伝 統のなかにほんとうの庶民道徳の芽ばえがう もれているんじゃないでしょうか」7)と発言 している。

民衆文化の掘りおこし

当時、日本の民衆的伝統をたずね、掘りお こし、共通の文化的遺産として見直そうと実 際に動き出していた人たちもいた。

東京の「うたごえ喫茶」でアコーディオン を弾いていた岡田京子という人が書いている。

当時の「うたごえ喫茶」には、学生や労働者 の若者が集まり、アコーデオンなどの伴奏で、

ロシア民謡などをよく歌っていた。それらに は民族のほこりや独立への願いがうたわれて いた。しかし「これらの歌の、なんと色あせ ていることでしょう。なんとよそよそしいこ とでしょう。」そう感じていた彼女は農村に 赴いて、そこの民謡を現地の名人に歌っても

(5)

らいながら、それを録音し採譜した体験を記 して、次のように述べている。

「うたごえ喫茶」に来る前には、わらび 座に所属していた。そのわらび座が行っ ていた秋田農村での「歌唱指導」では、

「どんな歌ならばみんなに歌って貰える か、どうやったならば大きな声を出して せいいっぱい歌って貰えるか、一生けん めい心を砕きました。/また、この人達 から何を学んだらいいか、どう学ぶか、

それには、いっそう心を砕きました。」

「民謡は、たっぷりと私に生活の充実感 を与えてくれます。」

「歌ごえ運動」の「『民族』や『祖国』や

『農民』を歌った歌が、実際の『民族』

『祖国』『農民』ということばの充実感か らいかに遠く離れていることでしょうか。

……実際の生活感からは足を踏み外して いるからではないでしょうか。これは芸 術ではありません。」

「芸術の創造は、民衆の中に燃えている 火を自分の中にも発見し、自分の薪をも 添えて燃えあがらせ、その火を更に大き く育てることだと思います。」8)

岡田は、「うたごえ喫茶」などで歌われ好 まれ、自分もそこのステージに立って歌って いるロシア民謡などを、日本人にとっては借 り物の「民族」「祖国」「伝統」であり、民 族・祖国の抽象化であると批判的に見ていた のである。そして日本の民衆の中に、生活と 労働に結びついて存続している民謡に着目し、

採譜活動などを始めていたのである。

当時の農民など、伝統的地域の民衆の生 活・労働・文化・習俗や喜び・悲しみなどの

感情表現は、家父長制的生活秩序と分かちが たく結びついていたであろう。そこに日本の 精神と感情の伝統を見つけだし、新しい民主 主義社会へとつながり発展していくものを見 分けることは、当時の日本の教育学や教育実 践にとっては、いまだ難しいことであった。

たとえば、秋田の農村の若手教師、土田茂範 は疑いもなく、農村民衆と子どもに深い愛情 をもって、誠実に接していた教師だが、その 土田も、村の祭礼の屋台を親子で楽しもうと する親たちを、苦々しく叙述していた9) 郷土教育、地理・歴史教育をとおして 祖国への愛と理想を

相川日出男の教育実践記録『新しい地歴教 育』(1954年)では、郷土の地理と歴史の学 習をとおして、子どもたちに郷土への愛と知 を育てようとした。歴史的・地理的な科学的 認識と郷土への愛を結ぼうとしたのである。

相川は郷土の地理と歴史への認識を通して、

子どもたちに世界の普遍につながる地理と日 本の民衆の歴史の真実を見出させようとした のである10)

また勝田は社会科を地理や歴史の教科に分 解してしまうことには反対しながら、社会科 への世間の批判の一つとして、「道徳教育の 面では、いちばん切実に批判される点は、日 本の現実に対決する誠実な責任感を育てる機 会が社会科の指導においては乏しいというこ とである」とし、日本の現実に無責任な「世 界主義」におちいる危険を指摘し、祖国への 愛情を育てる、という課題があると考えてい た。

「社会科の客観主義が、主体的な倫理の 領域を無視するかたむきを見せているこ とも否定しえぬ。」「とくに地理的・歴史

(6)

的教育の目標の中に、人類感情とともに 祖国の運命に対する誠実な愛情を育てる ことを考慮することは大切なことである。

しかし空虚な祖国礼賛はショーヴィニズ ムの温床となる。……日本民族への愛情 は民族の歴史的課題や同胞のそれと取り 組む努力に対する同感と尊敬とを通じて 培われなければならぬと思う。……解決 は、教育者たちの日本民族の過去と現在 と将来に対して抱く愛情と理想とにかか っている。」11)

平和憲法を倫理的支柱に

戦後日本の新しい出発理念に統合の支柱を 見る方向にも、多くの支持者があった。勝田 は『教育』創刊号(1951年)に「教育の倫理 的支柱」と題する論稿を載せて、教育は「人 間をある理想に向かって形成する仕事」であ るとし、こう述べていた。

われわれを敗戦の焦土から立ち上がらせ た「倫理的支柱」は、憲法の戦争放棄の 宣言であり、教師は「国民大衆に先がけ て、戦争放棄の宣言をついに自己の希望 とし得た」のであり、「日本民族が、戦 争放棄の道以外に生き得るすべを見出し えない」のであり、平和のための教育は 教育のすべてであり、「個人の自由と日 本民族の独立と人類の幸福をめざす教育 のすべてである。」12)

新しい国家と国民を支える精神的・倫理的 価値として平和憲法をあげる論は50年代に入 ると多くなった。勝田の論はその一つである。

天皇制秩序の保守と維持

軍国主義ファシズム国家を否定した後に、

なお、日本民族の精神的支柱として天皇を欠 くことができないものとし、教育勅語の道徳 規範はいつの時代においても変わらない真実 であるという考えを、戦後あらためて主張す る人たちもいた。軍国主義と戦争の惨禍は、

天皇制や教育勅語にあるのではなく、それを 一部の支配層(軍部など)が誤った方向で利 用したことにあるとして、戦後においても、

天皇を中心とした愛国心教育によって、道徳 教育を復興しようとした(阿部能成、天野貞 祐など)。彼らの、天皇への敬愛を基盤とし、

愛国心教育を中心とする道徳教育論は、その 結果としての実際的な政治的役割の危険性に ついて、きびしく判断されなければならない が、同時に、新しい戦後国家・国民の道徳的 規範の基盤あるいは支柱を求めた一つの論と して、ここに挙げておくべきであろう。

国家・国民という共同体の歴史性

以上の言論は、道徳的規範維持の共同性と して、国家・国民という共同体の枠を前提に している。そしてその共同性を形成すること ができる中身について論じている。

しかし道徳的規範維持に必要な共同性は、

国家・国民という枠だけしかないのだろうか。

そこには二つの問題がある。一つは、日本と いう国家・国民の枠の中に入ることができな い在日外国人、とくに生まれたときから死ぬ まで、日本という土地に生活基盤をもって生 涯をすごす可能性のあるような在日外国人、

たとえば在日韓国・朝鮮人や在日中国人の道 徳的規範の形成問題は、日本の伝統や愛国心 という枠組みで論ずることはできそうにもな い。二つには、道徳性形成の基盤として国

(7)

家・国民という共同体の枠を前提にするとい う思考方法の問題である。国家・国民という 共同体は、近代という時代の歴史的枠組みで ある。身分、職業集団、村落などの、中世社 会以来の狭い共同体から解放された部分を統 合するために用意された近代的枠組みである。

道徳性形成の近代的支柱としての国家・国民 共同体の枠を相対化し、現実社会に生きて機 能している多様な共同体の形を検討すること もできたはずである。したがって道徳性の基 盤を、国家・国民という共同体のみを唯一の 前提にして論ずるのではなくて、所属成員の 道徳性を維持している現実の諸共同体を、分 析する必要がある。日本の子どもと大人の道 徳性とその共同性の基盤が、子どもたちの実 際の生活の中で、過去どのように形成されて きたのか、現在されているのか、将来される ことになるのか、という現実状態の分析がど こまで重視されたか、という問題である。

道徳的規範を規定する共同体として、国家 や国民が登場するのは、どんなに遡ってみて も、ヨーロッパでも16世紀以降であり、もう 少し厳格に見れば、18世紀末のフランス市民 革命以後のことである。日本では、自分たち は日本人であると広範に意識されるようにな ったのは明治になってから、とくに1890年代 の日清戦争、日露戦争以後であろう。

そこに至る以前においては、国家への所属 意識をもっていたのは、ほんの一部の支配階 層の人たちだけだった。一般の住人・民衆が 所属意識をもっていた共同体は、国家ではな くて、自分の身分、職業、都市、村落などで あった。それらの共同体はそれぞれ、明文化 された、あるいは暗黙の掟・作法・慣習・精 神などをもっていた。所属するメンバーはそ れに従って生活した。そのような共同体での

生活過程をとおして、そのメンバーは道徳的 規範意識の基礎を形成した。その特殊共同体 的道徳規範の意識化・内面化、そして体系 化・普遍化、さらに個人的・人間的要求や欲 望との葛藤などの処理を担当したのが、知恵 者の説教や宗教などであった。それが、洋の 東西を問わず、道徳性形成と維持の歴史的社 会的形であった。

2──道徳性形成生活基盤模索

国家・国民の共同体への帰属意識を道徳性 形成の基盤とする論は、上のような限界をも っている。しかし戦後道徳教育論の一般的な 傾向は、国家への所属感のもつ道徳的意味に ついて、慎重な検討への意志を欠いていたか ら、共同体への帰属意識と道徳性との関連を 問題にする論は、大事な意味をもっていた。

第二次世界大戦の敗戦によって、天皇制軍 国主義国家体制のもとでの忠君愛国の道徳教 育は破綻した。戦後において、国家共同体へ の帰属意識や愛を中核とする道徳教育につい て、根本的な見直しが行なわれた。愛国心教 育一般への警戒心が、民主的道徳教育の実践 と理論に強力に働いていたのも当然のことで はあったが、そのために、国家・国民への所 属感や愛国心が現代の人間の存在と道徳性に とってもつ意味について、十分に検討された とはいえない。ときには、愛国心教育と、天 皇制ファシズム国家主義愛国心教育への悔恨 と反省とを一緒くたにして、安易な国際主 義・世界主義への乗り換えで、済ませてしま う場合もあった。

しかし1950年代の道徳教育の実践と理論の 中には、国家・国民の共同性という枠を道徳 教育の既定の前提にするのでもなく、また、

(8)

そうした共同性が道徳性形成に対してもつ意 味を無視するのでもなく、日本の道徳的規範 意識形成の状態を明らかにし、その現実を踏 まえて、道徳教育の理論と実践を構成しよう とするいくつかの試みがあった。

そのような探究的分析や実践の報告は多く はなかった。しかしそれらの少数の探究的理 論と実践的試みは、萌芽的ではあったが、道 徳教育についての豊かな考察と実践への可能 性をはらんでいた。

封建的服従道徳の生活基盤

子ども・若者たちを、絶対従属の道徳的抑 圧から解放し、個人の意志・信条・主張の主 体とし、民主的道徳の担い手に育てることは、

多くの教師たちにとっては、理論的には疑う 余地のない当然の教育課題であった。絶対従 属の道徳は、軍隊生活や家父長的な家族生活 においてもっとも支配的であった。理不尽な 命令にも絶対服従を強いる軍隊生活を経験し た者にとっては、個人尊重の民主的関係の形 成は、誰でも賛成できる課題であると見えた。

しかし浪江虔は雑誌『教育』55年1月号の

「道徳教育」特集において、封建服従道徳の 根強い生活基盤を指摘した。浪江は、『岩手 の保健』の編集者である大牟羅良が農村僻地 をまわりながら、膝を交えて聞きとった農民 の声を引用して、農民にとっての軍隊はなん であったかを示して見せ、道徳教育はそこか ら始まらなければならないと書いた13)

軍隊では「明るくなるまで寝がせでくれ て、暗ぐなれば寝ろって寝がせでくれた

……」

米のメシ、洋服、革靴が支給され、「民 主的」で、大学出も同じに殴られた。

「軍隊のおかげで字っこ覚え」ることが できた。

「あそこのおんじァ(二、三男)は軍隊 にいく前は、人前でろぐに話もできなが っだども、軍隊に行ってがらすっかり変 わったなァ」

「多くの青年たちにとっては、軍隊生活 だけが広い社会を知らせてくれるもので あった。集団社会の生活訓練の、ただ一 つの場所であった。……日本の農村にと って、軍隊生活の訓練というものは、ま さに申分のないものであった。」

大牟羅も浪江も、軍隊賛美者ではない。日 本の民衆の現実を知ることからしか、道徳教 育は始めることができないということを、岩 手の農民の生活的道徳的実感を例示して、論 じたのである。

また、従属の道徳は、農村の家族労働に対 応するものであり、農山村労働の苦役に耐え るためには、親子は使役・被使役の関係にあ り、親の命令を子どもは黙って実行する必要 があるのだと、浪江は述べた14)

「こういう事情のために、親子の関係は つねに『使役』の関係によって濁らされ る。親が子に物を言う場合、仕事をいい つけたり、こごとを言ったりするのが圧 倒的に多くて、愛情の言葉、教育の言葉 がはるかに少ない。」「働く欲などまだ出 るはずのない少年少女の時代から、相当 に烈しい仕事をやらせなければならない 今の農家では、……どうしても断乎とし て命令し、従順に実行させることがのぞ ましい」

(9)

同じ論文では、民衆が自由になる〈なり方〉

についても、重要な見解を示している。従属 の道徳から子どもたちを自由にすることは重 要なことだが、ただその自由が与えられるだ けでは、自由は権力者によって利用される。

自由を獲得し、拡充しようと努力する力をも つようになるかどうかが、問われている。自 らは動こうとしないで、口先だけで不平をい い、他人の力・権力をたよりにして、悪を根 絶しようとする状態は、ファッショ的支配へ の導火線になる、と。

支配層に「おさえつけられているものた ちの大部分が、古い道徳教育に反対して 自由と民主主義を獲得し拡充するために 動こうとしているかどうか」。

他人(教師、警察、消防団など)の権力 的取締りにだけたよる状態は危険である。

「社会悪を根絶やししてゆく力を、根気 よく自分たちのなかに育ててゆこうとし ないで、手っとりばやく権力的取締りに たよっていこうとするこうした気持ちは、

いろいろの方面にあらわれている。」

「言論の自由の機会が、不平不満のハケ 口として利用されているという傾向は非 常に強いのではあるまいか。……その場 では黙っていて、その仇(?)を、言論 の自由を活用してうとうとしているよう である。……たたかいをともなわないこ ういう『言論の自由』は、民主主義のと りでとはなりにくい。……まさに自力で やるべきことを、他の力によってやって もらおうという、きわめてひろくのこっ ているこれらの卑怯な態度は、支配を強 化していこうとねらっているものにとっ ては、まことにありがたい条件である。」

浪江の新道徳形成の困難論は、二つである。

一つには、命令服従道徳を受け入れる基盤と しての生活・労働の現実である。二つには、

他人の力による道徳的取締りという危険な傾 向である。後者は非公共的利己的な個人主義 の道徳への傾向である。前者の生活現実は、

浪江の書いたすぐ後にはじまった急速な経済 成長によって、たちまち変化して、大部分の 子どもたちは、地域や家庭で労働にともなう 従属の秩序から解放された。しかしまさに棚 ぼた式にやってきた解放であったために、後 者の傾向、つまり、みずからは手を下さず、

自分たちの社会をつくり道徳をつくっていく ことを、他人まかせにする傾向は、その後も 続くことになった。

親孝行の道徳への要求

保守支配勢力の愛国心・徳目道徳教育の復 活論は、子どもの親たちの、学校でもっと道 徳教育を、という要求にも依拠していた。松 原治郎らは、新潟県において親たちの道徳的 規範意識の調査を実施し、共同研究(松原治 郎・大橋幸)「教育における旧意識の社会的根 拠―修身科復活要求の内容と実態―」という レポートを発表した15)

その調査で親たちの高い選択を得た規範は、

「孝の倫理」「孝の倫理+立身出世主義」「同 朋意識」であった。戦後10年を経て、農村で も、共同体関係や身分階層構造は、現実には きわめて弱くなり、行政的には役場、経済的 には専売公社(この地域では煙草葉栽培が盛ん だった)や都市市場との結びつきが強くなっ ていた。しかし意識の上では、共同体的体系 と階層的上下関係は強固に残っていた。そし てもっとも高い選択のあった「孝の倫理」に ついては、こう考察されている。

(10)

孝の倫理は「たんなる観念としてでは なく、現実の生産関係と密接に関連する 意識形態となっているところにその根強 さ」がある。面接調査で、親たちは次の ように語っている。

「忙しい時など、なるべく親のいうこと..........

をきいてもらいたい.........

からだ」(男・世帯主)

「自由自由といっても、子どもは親のいい つけを良くきかねば親がいろいろ困るこ ともあり、仕事がはかどらない.........

(女・

主婦)

「こういうことをしっかり教えないと、親 子離反のもとになるし、農業では大人の.......

やれない仕事を子どもにうけもってもら..................

うことがぜひ必要........

だから、教育勅語どお りになるのがなんといっても都合がよ....

(男・世帯主)

したがって、こうした現実からすれば、

学校教師の指導においても、親孝行を前 向きに発展させることが重要なのに、

「案外その努力が怠られているのでは」な いか。

この説明は適切であり、指摘は重要である。

当時の道徳教育要求、教育勅語肯定要求がそ のように生産関係に規定され、そこに根拠を 持つものであった。この調査による重要な指 摘および視点は、親たちの道徳要求が住民の 生活必要に基づいていること、それゆえに、

生活必要からの道徳教育要求を発展させる形 で対応しなければならない、という点である。

父母の道徳教育要求と具体的生活必要との関 係を明らかにするとともに、父母においては、

その必要を古い形(伝統的・定型的形)でし か表現(要求)することができない場合が多 かったから、教育実践と理論の課題は、その

必要に新しい形の表現を与えることであった。

地域の共同的基盤に接続して

日本の子ども・若者の道徳的規範形成にと って、家族とともに、地域共同体による規範 形成・教育は、重要な役割をはたしてきた。

とくに民衆においては、地域共同体は、家 族・家庭以上の作用力をもっていた。しかし 1950年代においては、地域共同体とその若者 組織(若衆組、若者宿など)の教育力の積極 性は、学校教師や教育研究者によってほとん ど認められていなかった。地域共同体はむし ろ、保守支配層の拠点であり、自由と民主主 義の広がりを妨げる反教育的障害物とみなさ れ、消滅が期待されていた。地域共同体から の解放こそが、教育の課題だと考えられてい たのである。もっとも、地域共同組織からの 解放論は、戦後に特有のものではなく、明治 の「文明開化」以来のものであった。伝統的 地域若者組織は、戦時期の総力戦体制の中で の青年組織の一翼として利用されたことはあ ったが、教育実践・理論においては、反学校 教育的遺物・異物として、位置づけられてき たのである16)

たとえば、すでに別稿で言及したことであ 17)が、1952年、教育科学研究会の代表的メ ンバーであった山田清人、大田堯、勝田守一 の3人が、伊豆東海岸の城ヶ崎近くの払部落 をおとずれた。そこには当時まだ、若衆組が

「きわめて強固なかたちで」存続していた。

その地域若者組織の現状を詳述して、「ここ では、文化性と知性を排除した、旧日本軍隊 的階級的秩序による生活態度と生活感情がも のをいうのである。非知性的な『意地』が強 要される」18)と評価し、伝統的な地域若者組 織のなかに存在したかもしれない積極的な契

(11)

機には、まったく注意を向けていなかった。

しかしその払部落で教師であった斉藤は、

地域社会のもっと具体的な人間関係の中に、

新しい人間関係へと発展していく可能性のあ る面を見つけ出そうとしていた。

「農漁村の人間関係は、いろいろなゆが みを持っています。そのゆがみのために 大人たちも、青年たちも、子どもたちも、

自由にものが言えない抑圧をうけていま す。そしてこのような人間関係の抑圧は、

どこかで、不合理な処理の仕方をしてい ます。それが、井戸端会議であり、いろ り端会議であるわけです。」

組合総会、青年団会合、婦人会の集会 ではほとんど口を開かないのに、井戸端、

いろり端会議は非常に人気がある。「せ まい人間関係のなかでは自由にものが言 えても共通の広場に出て話しあうという 人間関係が生まれてこないのです。正し い人間関係をつくり出すために、井戸端 や、いろり端の会議を、もっと広い場所 に拡げてゆくことは重要な意味を持って います。」19)

斎藤は村の人間関係の機能を具体的に知っ ていたのである。だから、井戸端、いろり端 会議を、不合理ではあるが日常的な問題処理 方式として重要な機能をもっていると認めた。

そしてそれを基礎にして「広い場所に拡げて ゆく」という構想をもつことができたのであ る。しかし、斉藤は、多分、54年度末で教師 を辞めたから、それを実践に移すことはなか った。

村の学校教師ではなかったけれども、大学 教師の大田堯は、埼玉県の見沼用水沿いの村

の青年たちの自然発生的集いを、学びの集団 に発展させた。「ロハ台」──それは青年た ちが夜遊びの場所として、自分たちの手でつ くったものであった。そのロハ台を起点とす る実践を大田は次のように報告した20)

2年前(1953年)、古川村の青年たち が、「夜遊びに都合のよいばしょを見つ け出そうと考えたあげく」見沼用水沿い に、「ロハ台の建設」を思いたった。

「夜のとばりが、木立ちをつつみ、夕食 もおわると、」ロハ台に集まる。「ここで 彼等はよみがえったように口を開き、眼 を輝かせます。」

「ロハ台は、不良とぼんくら、反逆児た ち、しいたげられた村にいのこる若い世 代が自由をもとめて獲得した貴重な場所 なのです。」

そのロハ台に集まる青年たちを中心にして、

その延長として、大田が講師になっての青年 学級が開かれたのである。毎週火曜日の晩、

村の青年学級に15、6人が集まった。大田は、

ロハ台を「学級」のための単なるきっかけや 方便として利用しようとしたのではない。青 年の夜遊びにも、彼らの哲学がある、とみた のである。

「青年たちの夜遊びにしても、その背後 に農民の哲学がちゃんとひそんで」いる。

そこには「話しことばの中だけに封じこ められている日本の地肌の文化」がある。

青年学級では「あちらに三人、こちらに 五人と、寝そべったり、こそこそ話をや ったりして」、『平凡』『講談クラブ』を 読みふけるものもいる。

(12)

「何でも話し合え、ほんねやよわねのは けるようななかま関係をつくることが、

学習意欲をほりおこす、まずさしあたっ てのあり方だと思っていた」

第1回の話し合いのときから、大田が記録 をとって、プリントし、次のときはみんなで これを読み合うことから始める。

記録は「なるべく具体的に、各人のいい あらわし方のくせなどもそのままに、む ろん土地のことばで、平生つかうままの し方で文にし、しゃべったときの表情や、

みんなの反応まで書くようにしました。

しゃべれない人の短い発言や、うなづい たり、否定したりする動作まで気をつか って記録するのでした。そのことによっ て、一言も言わないなかまがあっても、

なかまの話し合いの中に位置づけるどり ょくをするのです。」

記録プリントの余白に、中学生の詩や綴 り方などを載せる―「呼び水のような役 目」―「しかしそういう教材にしたとこ ろで、話し合いの記録を中心とする集団 の発展がなくては、呼び水としてのねう ちすらもち得なかったのではないかと思 います。」

自分たちでつくった夜のたまり場である

「ロハ台」には、自然発生的な仲間集団があ った。その仲間集団を土台として、青年学級 の集団ができる。そこでの話しあいの一つひ とつが、大田の手によって記録され、プリン トされる。その記録をもとにした話し合いに よって、村の若者たちは、自分たちの仲間と 一人ひとりが、具体的かつ客観的に、自分た

ちの前に見えるようになって、集団の発展が ある。そこで大田が言い、念頭に描いていた

「集団の発展」とは、なにを指していたのか。

また、「集団の発展」によって、学習意欲を 生みだすことができるし、支えることができ るとは、どういうことだったのか。それらの 点が、十分な観察によって、展開できていた わけではない。しかし、外から啓蒙的に、民 主的関係や科学的合理的判断を持ち込むので はなく、変化しつつあった農村のなかの、素 朴な若者たちの興味と振舞いと仲間関係を尊 重し、根拠にして、そこから生まれてくる仲 間集団と一人ひとりの成長を支援することこ そ必要なのだと見定めたところに、大田のこ の実践と報告の価値がある。

しかし大田の思いを実践の形として実現し ていくことは、簡単なことではなかった。

「ぼくはさぶちゃんたちの素朴で、テンポの のろい農民的な感覚のうえにわれわれの集り がすすめられていかなくてはならないと固く 信じていたのですが、それをどう形のうえに 表現していったらよいかわかりませんでした し、いまでもわからないのです。」と、正直 に述べている。

そのような視点をもつ実践であったにもか かわらず、青年学級は伝統的な村の支配的関 係を揺さぶるものになり、村の上層部の青年 たちは学級に疎遠になっていく。「義ちゃん」

ら比較的経営規模が大きい農家の青年があつ まって「公正会」をつくるが、そこからも、

青年学級からも村の若者たちは離れていく。

それは大田が言うように、村の「古くて大き な生活の動脈」をとらえることができなかっ たからか、あるいは東京という大都市から押 しよせてくる生活と労働の変貌に対応するこ とができなかったからか、明らかではない。

(13)

また、ここでいう「古くて大きな生活の動脈」

とはなにか。大田にも十分に説明できるよう なものではなかったであろう。あきらかに、

地域若者集団は消滅に向ったのである。

ロハ台は村の「若い世代のもつ進歩的 で、抵抗的な一面」、もう一方では「逃 ひの場」「自己防衛的な集団」。「このロ ハ台のもつ二つの矛盾した面のうち、ま えの方の人間らしい面がなかまの中で確 かめられ、強められていくようにつれて、

矛盾はますますはげしくなり、ついにい ままでの義ちゃんを中心とする人間関係 が束縛として考えられるようになるので した。」

「村の中を貫徹している古く大きな生活 の動脈をシッカリととらえない『仲間づ くり』の甘さや、農民と労働者の微妙な 感覚のずれなど、うんとこまかく検討し ていかなくてはならないのです。一軒の

『家』の中で肉身ママ同志ママでさえ、労働者と 農民とのミゾは深いのです。」

村落にのこる因襲とたたかうことが民主主 義と戦後教育の課題であると考えられていた

時代においても、部落の伝統的な会合に参加 し、その中から部落の生活と子どもたちの将 来を、住民と一緒に考えようとした教師もい た。

神奈川県の秦野地区の丹沢分校の教師とな った水野茂一は、「おひまち」という部落の 戸主の月例会に入れてもらった(1952年4月) そこは男たちが、山の神様と労働の無事に感 謝する集まりであったが、お神酒を飲み、大 騒ぎし、うさばらしをし、会の後はバクチを する場所になっていた。水野は「おひまち」

を部落の相談会も兼ねてやってはどうかと提 案し(54年1月)、部落の課題を相談し、提 案する力をもつ会にしていった。肺炎の手遅 れで亡くなった子どもがでたことを契機にし て、薬の共同購入(部落共有常備薬一揃い)

が決定された(54年11月)。さらに55年1月に は、空き教室を使って部落託児所を開設しよ うという水野の提案が支持された21)。水野は 学校教育を通じて民主的生活と行動を山村に 持ち込もうとしただけではなく、みずから山 村部落の伝統的会合に参加して、数年をかけ て、その伝統的会合が部落の生活必要を前進 的に処理できる機関へと発展するように、内 側から働きかけていたのである。

1)無着成恭編『山びこ学校』(増補改訂版)百合 出版、1956年、257頁。

2)古川原『家庭生活と道徳教育』(牧書店 1955 年)復刻・戦後家庭教育文献叢書、クレス出版、

1996年、102頁。

3)同上書、7-8頁。

4)綿引まさ「〈小学校の生活指導〉仲間意識をそ だてるために」『教育』1957年8月臨時増刊号、

112頁以下。

5)「座談会・日本人の道徳」『教育』1952年3月号 53−55頁。

6)同上書、45頁。

7)同上書、48頁。

8)岡田京子「ばさまのうた」『教育』1957年12月 号。

9)土田茂範『村の一年生』。この点については、

奥平康照「戦後生活綴方教育全盛の時代─1950 年代前半の子どもの生活と戦後教育実践─」和 光大学『現代人間学部紀要』第1号、2008年3月、

で言及した。

10)この点については、前掲「戦後生活綴方教育全 盛の時代」を参照。

《注》

(14)

11)勝田守一「社会科をどうするか」『教育』1952 年1月号。

12)勝田守一「教育の倫理的支柱」『教育』創刊号 1951年11月号。

13)浪江虔「生きている旧道徳─新しい道徳教育を おしすすめるために─」『教育』No.42,1955年 1月号。また、大牟羅良「配給された民主主義」

『教育』No.42,1955年1月号参照。

14)浪江、同上論文。

15)共同研究(松原治郎・大橋幸)「教育における 旧意識の社会的根拠─修身科復活要求の内容と 実態─」『教育』No.60、1956年6月号。

16)この点については本紀要の論文、OKUDAIRA Yasuteru; Where We can Find the Reconstruction

Possibilities of New Communities of Children and Young People Today, Replacing Old Communities that Collapsed During the Rapid Economic Growth Period in Japan. を参照。

17)前掲、「戦後生活綴方教育全盛の時代」。

18)山田清人・大田堯・勝田守一「抑圧された部落 社会」『教育』No.6、1952年4月号。

19)斎藤健一「学級のなかの人間関係─文集「自分 のこと」について─」『教育』No.49、1955年8 月号。

20)大田堯「農村の学習運動─ロハ台のなかまのこ と─」『教育』No.49・50、1955年8月号・9月号。

21)水野茂一「おひまち」『教育』No.47、1955年6 月号。

───────────────────[おくだいら やすてる・和光大学現代人間学部心理教育学科教授]

参照

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