• 検索結果がありません。

Med J Kagoshima Univ, Vol.47, Supplement , August, 1995 A British Medical Doctor, William Willis and Dr. Senzo Kamimura Nobuichi SAMESHIMA, M

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Med J Kagoshima Univ, Vol.47, Supplement , August, 1995 A British Medical Doctor, William Willis and Dr. Senzo Kamimura Nobuichi SAMESHIMA, M"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

英医ウィリアム・ウィリスと上村泉三

Author(s)

鮫島, 信一; 鮫島, 由美子; 野添, 良隆

Citation

鹿児島大学医学雑誌=Medical journal of Kagoshima

University, 47(Suppl. 1): 99-104

Issue Date

1995-08-01

URL

http://hdl.handle.net/10232/18299

(2)

Med J Kagoshima Univ, Vol.47, Supplement 1. 99 — 104, August, 1995

英 医 ウ ィ リア ム ・ウ ィ リス と 上 村 泉 三

鮫 島 信 一 ・鮫 島 由 美 子 ・野 添 良 隆 鮫 島小児科理事長,院 長 同事務長 中央 ビル野添歯科院長

A British

Medical

Doctor,

William

Willis

and Dr. Senzo

Kamimura

Nobuichi SAMESHIMA, M. D.,

Yumiko SAMESHIMA,

Yoshitaka

NOZOE, Ph. D, D. D. Sc.

Director & Chairman, Sameshima Pediatric Clinic, Kagoshima

Chief Manager, Sameshima Pediatric Clinic, Kagoshima

Director, Chuo-Bill. Nozoe Dental Office, Kagoshima

鹿 児 島大 学 医学 部 附属 病 院 の 前庭 に明 治 初 期 鹿 児 島 で 英 国流 の近 代 医 学 教 育 を行 っ た 英 医 ウ ィ リア ム ・ウ ィ リス(以 下 ウ ィ リス と略 す)(1837∼1894年)の頌 徳 記 念 碑 が あ る.こ の碑 は 明 治26年 鹿 児 島 在 住 の ウ ィ リス 門 下 生,上 村 泉 三, 鳥 丸一 郎,永 田利 紀,東 清 輝,森 山 昌 則,山 元 文 宅 の 主 唱 に よ り,各 地 で 活 躍 中 の 門下 生,高 木 兼 寛,黒 木 元 俊,加 賀 美光 賢,池 田謙 斎,岩 佐 純,戸 塚 文 海,実 吉 安純,河 村 豊 洲,三 田村 忠 国(他121名)等 が,照 国 神 社 横 城 山 登 山 道 の 「鶴 嶺 山 下 公 園 」 に 建 立 した 記 念 碑 で あ っ た. 昭和30年3月,県 立 鹿 児 島大 学 医学 部 附 属 病 院 が 山 下 町(現 ・城 山町)に 新 築 され,竣 工 を記 念 して 「鹿 児 島 県 立 大 学 医学 部 附 属 病 院沿 革 史」 の編 纂 と,ウ ィ リス の 「頌徳 記 念 碑 」 を新 病 院 前 庭 に移 転 した. 当時 の学 長 は福 田得 志 先 生,医 学 部 長 町 野碩 夫先 生,医 学 部 附 属 病 院 長 縄 田千 郎 先 生,沿 革 史編 纂 は薬 理 学 の 小 島喜 久男 教 授 が 中心 で あ っ た. そ の後 県立 鹿 児 島大 学 は,昭 和30年7月 ∼33年4月 に か け て,国 立 に移 管 統 合 され,大 学 附 属 病 院 は昭 和49年 宇 宿 町 亀 ケ原 台 地(現 在 の鹿 児 島市 桜 ケ丘8丁 目)に 移 転 し,医 学 部 長 佐 藤 八 郎 先 生 の ご尽 力 で頌 徳 記 念 碑 も同 地 に 移 っ た. 佐 藤 八 郎 先 生 は昭 和43年 に 「英 医 ウ ィ リア ム ・ウ ィ リス略 伝 」 を上 梓 され た. 頌 徳 記 念 碑 建 立 主 唱 者 の一 人,上 村 泉 三 は,1846年(弘 化3年)島 津 斉 興 公 の 侍 医 で あ った 上 村 良 徹 と,島 津 家 の 奥 医 師 上 野 良 淳(篤 姫 が13代 将 軍 徳 川 家 定へ 輿 入 れ の折 りの参 府 御 供 御 付 医)の 娘 益 子 との 間 に,鹿 児 島市 下 竜 尾 町 で 上 村 家 の 長 男 と して 生 ま れ た.同 じ年 に保 存 か撤 去 か で今 話 題 の 多 い 西 田橋 が 肥 後 の名 工 岩 永 三 五 郎 に よ っ て4連 の 石橋 に作 り替 え られ た.私 達 の 父野 添 武 二 は,泉 三 の 長 男上 村 良太 郎(1872∼1957年,加 治 木 町 で 産 婦 人科 開業 医)の 二 男 で,泉 三 の孫 で あ るが,ウ ィ リス か ら頂 い た 遺 品 を保存 して い る.ウ ィ リス に 関 して の 著 述 や 書 物 は沢 山 あ る が,こ こ で は上 村 泉 三 を介 して み た ウ ィ リス の足 跡 を述 べ よ う と思 う. 1.上 村 泉 三 上 村 泉 三 の 父 良 徹 は肥 後 菊 池 の 人 で,来 鹿 の前 は 菊池 良徹 と言 い 長 崎 で 蘭 医 学 を学 ん で い た.江 戸 時 代 日本 は 鎖 国 で あ っ たが,長 崎 出 島 で の オ ラ ン ダや 中 国 との 交 易 は 認 め られ てお り,長 崎 は オ ラ ン ダ医 か ら最 新 西 洋 医学 を 習 得 出 来 る 唯 一 の場 所 で あ っ た の で,雄 藩 か ら藩 医 達 が 派 遣 され て い た.薩 摩 藩 は松 木 雲 徳 を シ ー ボ ル トにつ いて勉 強 させ て いた. とこ ろが シ ー ボ ル トは,日 本 が 国外 持 ち出 しを禁 じて い た 日本 国の 地 図 や 江 戸 城 の絵 図 面 な ど を,ヨ ー ロ ッパ 行 きの 船 に乗 せ て い た こ とが 発 覚 し,ス パ イ容 疑 で 国 外 退去 させ られ,シ ー ボ ル トに学 ん だ 蘭 医 達 は そ れ ぞ れ に罰 せ られ,蘭 学 は弾 圧 を受 け た. そ の 頃,薩 摩 藩 主 島津 斉興 公 は健 康 が す ぐれ ず,長 崎 に い た松 木 雲 徳 に往 診 を 申 しつ け た が,雲 徳 は シ ー ボ ル ト事 件 で動 きが とれ ず,蘭 医仲 間 で息 子 の 師 で あ っ た 「菊 池 良徹 」 に斉 興 公 の 診 察 を依 頼 した.良 徹 は鹿 児 島 に 下 向 し,奥 医 師上 野 良 淳 宅 に逗 留 した. 良徹 の治 療 で 健 康 を 回復 した 斉興 公 は,良 徹 を薩 摩 藩 の侍 医 と し,良 徹 に上 村(か み む ら)の 姓 を与 え た.斉 興 公 の

(3)

〔100〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補 冊1平 成7年8月 日 置 流 弓 道 師 範 家 東 郷 四 郎 左 衛 門 良 節 島 津 家 侍 医 上 野 良 淳 ・ 水 引 郷 士 島 津 家 侍 医 (奥 医 師 ) 益 子 上 村 良 徹 武 辰 谷 山 郷 士 島 津 家 侍 医 (蘭 医 ) (旧 菊 池 ) 野 添 安 心 玄 鶴 郡 山 郷 士 島 津 家 侍 医 (奥 医 師 ) 秋 岡 冬 日 加 江 治 戸 木 の 毓国 英 学 館 者 教 授 妹 (迫 水 久 常 祖 母 ) 文 子 重持 日置 流 弓 道 師 範 家 島 津 家 家 令 文 子 曽 木 文 庫 曽 木 隆 吉 英 医 ウ ィ リ ス 門 弟 医 師 ( 外 科 ) 泉 三 セツ 子 養 子 医 師 ( 外 科 ) 正 壽 研 道 鹿 児 島 県 病 院 宮 崎 支 院 院 長 英 医 ウ ィ リ ス 門 弟 研 道 重 高 シ ン ガ ポ ー ル 南 洋 日 々 新 聞 社 創 設 福 子 辰 三 郎 武 二 良 太 郎 医 師 (産 婦 人 科 ) 医 師 (産 婦 人 科 ) 武 一 金 人 ・ 金 人 養 子 武 二 歯 科 医 師 養 子 宣 昭 歯 科 医 師 ( 日 露 役 戦 死 ) 由 美 子 ミ ユ キ 歯 科 医 師 良 隆 由美 子 医 師 (小 児 科 ) 鮫 島 信 一 野添家の家系図 侍 医 とな っ た 良徹 は 上 野 家 の 娘 益 子 と結 婚 し,泉 三 が 生 まれ た.泉 三 の 父 良徹 は 蘭 医 で あ った が,母 方 の祖 父上 野 良 淳 (奥 医 師)と 良 淳 の 息 子 で泉 三 の伯 父上 野 良節(御 廣 敷醫 師格)は,島 津 家 の 藩 医 で 漢 方 医 で あ っ た. 1854年 日本 が 開 国 した こ と に よ り,蘭 医 学 の ほか に西 洋 医学 の導 入 も盛 ん に な っ た. 泉 三 は蘭 医学 を松 木 弘 安 に,英 国 医 学 を ウ ィ リス に学 ん だ.松 木 弘 安 は薩 摩 藩 医松 木 雲 徳 の 養 子 で,蘭 学 に秀 で,島 津 斉 興 公,島 津 斉 彬 公 に仕 え て い た.幼 名 を徳 太 郎 と云 っ た が松 木 弘 庵 ・松 木 安 右 衛 門 ・出水 泉 蔵 ・寺 島陶 蔵 ・寺 島宗 則 と氏 名 を変 え て渡 欧 の経 験 もあ った.開 国 後 は,外 国 官判 事 や 神 奈 川 知 県 事 と な り,東 京 と横 浜 間 に電 信 線 を架 設 し 日本 電 気 通 信 の 父 と云 わ れ,初 代 駐 英 大 使,外 務卿 を務 め,医 師 と して よ り政 治 家 と して の 名 声 が 高 か っ た . 2.薩 英 戦 争 ウ ィ リス は1837年 ア イ ル ラ ン ド(現 北 ア イル ラ ン ド ・フ ァーマ ナ ー)に 生 まれ,エ ジ ンバ ラ大 学 で 医学 を学 び ロ ン ド ンの ミ ドルセ ック ス病 院勤 務 後,1861年(文 久 元年)英 国公 使 館 付 医 官 兼 書 記 と して24才 で 来 日,江 戸 の東 禅 寺 襲 撃事 件 に遭 遇 し,横 浜 の 外 人居 留 地 へ 移 っ た. 開 港 した の は 神 奈 川 で あ っ たが,平 地 の広 い 隣 の横 浜 に,英 国 人 仏 国 人 な どが 集 ま り,西 洋 人 居 留 地 を形成 して いた .

(4)

文 久2年(1862年)8月,英 国 の 商 人 リチ ャ ー ドソ ン,マ ー シ ャル,ク ラ ー ク,マ ー ガ レ ッ トの4人 は上 海 か ら英 国 へ 帰 国 の途 中,日 本 観 光 の た め 立 ち 寄 り,米 国大使館のある神奈川 まで乗馬 で遠乗 りを楽 しんでいた.乗 馬姿 の英 国人 達 は,横 浜 近 くの生 麦 で,珍 しい 大 名 行 列 を見 つ け 近 づ い た.外 様 大 名 で は あ っ て も,七 十 七 万 石 の薩 摩 藩島津 家 国 父, 島津 久 光 公 の大 行 列 で あ っ た.日 本 で は 大 名 行 列 に 出 会 っ た ら道 を あ け,行 列 が通 り過 ぎ る まで 平 伏 して 頭 を下 げ ,動 い て は い け なか っ た.(行 列 の 通 る道 筋 の 住 民 達 は家 の 中 に身 を隠 した と云 わ れ て い る.)日 本の ルール を知 らない英 国 商 人 達 は,久 光 公 の 行 列 を乗 馬 姿 で横 切 っ て し まっ た.「 無 礼 者!」 と薩 摩 の 武 士 は 怒 り,リ チ ャ ー ドソ ン と マ ー シ ャ ル と ク ラー クは,一 刀 の も と に切 られ て し まっ た.女 性 に は刃 を向 け ない の が 武 士 の仕 来 た りで マ ー ガ レ ッ トは 難 を逃 れ た.彼 女 の 知 らせ を受 けた ウ ィ リス は,薩 摩 憎 し と馬 で救 出 に駆 け つ け た が ,リ チ ャー ドソンは死亡,マ ー シャル と ク ラー クは負 傷 して い た.こ れ が 後 に伝 え られ て い る 「生 麦 事 件 」 で あ った . 英 国側 は加 害 者 の処 刑 と賠 償 金2万5千 ポ ン ドを要 求 した が,薩 摩 は 「無礼 打 ち は武 士 の特 権 で あ り,当 然 で あ る 」 と主張 して謝 罪 しな か っ た.英 国 側 は怒 り,7隻 の 英 国 艦 隊 を派遣,鹿 児 島 の 人 々 を威 圧 し,強 引 に要 求 を通 そ う と し た.江 戸 で は英 艦 隊 の脅 しが 効 い た が,鹿 児 島 の 人 々 は怯 まず,交 渉 は決 裂 し,文 久3年(1863年)6月28日 台 風 の 中 で戦 闘 が 始 ま っ た.(薩 英 戦 争 で あ る) 薩 摩 の 大 砲 は旧 式 の 先 込 め砲 で射 程 距 離 は1㎞ が や っ とで あ っ た.英 国艦 隊 は嵐 で揺 れ る船 上 か らで も撃 て る,新 式 の ア ー ムス トロ ン グ砲 で 飛 距 離 も長 か っ た.薩 摩 の砲 台場 は英 艦 船 か らの 砲 撃 で ほ とん ど吹 き飛 び,薩 摩 が 誇 っ た斉 彬 公 自慢 の 磯 の 近 代 工 場 群 「集 成 館 」 や,市 街 地 の民 家 が ア ー ム ス トロ ング砲 の 直 撃 を受 け,強 風 で燃 え 広 が った. ウ ィ リス は軍 医 と して従 軍 し英 艦 船 に お り,「 町 中が 真 っ赤 に燃 え上 が り,台 風 の 闇 夜 な の に,燃 え る 明 か りで 船 中 を歩 けた.」 と 日記 に書 い て い る.上 村 家 も上 野 家 も この 時類 焼 し,島 津 家 か ら上 村 家 「金 拾 両 」,上 野 家 「金 拾 五 両 」 の 類 焼 見 舞 を頂 い た 書 き付 け が 残 っ て い る(野 添 武 二 蔵).泉 三 は この時18才,上 村 良徹 と父 の 名 を 使 っ て 鹿 児 島 で 従 軍 して い た が,家 は 砲 火 を浴 びて 消 失 し,憎 い憎 い英 国で あ った. 戦 争 は 台風 最 中 に 行 わ れ,風 雨 が 強 く,薩 摩 は神 風 に助 け られ た 格 好 で あ っ た が,英 艦 船 の猛 攻 撃 に合 い,英 国 の 軍 事 力 の 強 さ を認 識 し,攘夷 は 不 可 能 で あ る こ とを悟 っ た. 一 方 英艦 は 戦 争 な どす る 気 は な く 「7隻 も艦 船 を連 ね て 行 け ば 驚 い て 幕 府 と同 じ く英 国側 の要 求 を受 け入 れ るだ ろ う」 と軽 く考 え て の対 戦 で あ っ た.し か も戦 艦 パ ー シ ュ ース 号 は,桜 島横 山砲 台場 か ら至 近 距離 の 奇襲 攻 撃 に合 い,錨 を切 っ て 逃 げ る とい う軍艦 と して あ っ て は な らない 屈 辱 的 な場 面 もあ り,双 方 戦 争 を止 め,薩 摩 と英 国 は 友 好 関係 を結 ん だ. 和 議 の た め ウ ィ リス は 英艦 船 で 再 び鹿 児 島 まで や って 来 た が,薩 摩 の 人 々 の 「み か ん」 に よる歓 待 に も好意 は持 て ず, 桜 島 の 美 し さだ け が心 に残 っ た.船 員 た ち に は甘 み の あ る柔 らか い 「み か ん」 は 「美 味 しい美 味 しい 」 と好 評 で,今 で も タ ンジ ェ リ ン風 の み か ん を 英 国 で は 「サ ツマ 」 と云 って い る と聞 い た こ とが あ る. 3.戊 辰 戦 争 泉 三 と ウ ィ リスが 直 接 出 会 っ た の は,1868年 戊 辰 戦 争 の 鳥 羽伏 見 の戦 い で あ っ た.泉 三 は藩 医 と して 京 都 相 国寺 の 薩 摩 藩 臨時 野 戦 病 院 に従 軍 して い た.鳥 羽 伏 見 の 戦 い は,幕 府 軍1万5千 人 に対 して,朝 廷 側 に つ い た 薩 摩 長 州 連 合 軍 は 4千5百 人 で幕 府 軍 の3分 の1以 下 で あ った が,勇 猛 に戦 い 朝廷 側(新 政 府 側)の 勝 ち戦 で あ っ た.そ れ だ け に負 傷 者 が多 く,傷 が 砲 弾 や 小 銃 弾 に よる 銃 創 で,今 まで の 漢 方 中 心 の 治療 で は 出血 多量 の 死 亡 者 が 続 出 した. 大 山巌 は江 戸 の江 川 塾 で銃 術 を 学 び,銃 創 の 治 療 は 英 医 学 が進 ん で い る事 を知 っ て い た の で,兵 庫 沖 に停 泊 中 の英 艦 隊 の軍 医 に治 療 を頼 み た い と考 え,神 戸 に 走 り新 政 府 の 外 国御 用掛 け に任 じ られ た ば か りの 渡 欧経 験 者,寺 島 陶蔵(松 木弘 安)と 五 代 才 助(友 厚)に 交渉 を依 頼 した. 英 国駐 日公 使 パ ー ク ス は 人道 上 の 立場 か ら,病 気 見 舞 い と言 うこ とで ウ ィ リス と通 訳 官 ア ー ネ ス ト ・サ トウ を派 遣 し た.日 本 で は ま だ外 国 人 を忌 み嫌 い攘夷 が横 行 して い た.泉 三 の 蘭 医 の 師 で あ っ た 寺 島 陶 蔵 は,ウ ィ リス の 治 療 の助 手 と護 衛 を泉 三 に 申 し付 け たが,快 く思 わ ぬ 者 ど う しの 出 会 い で あ っ た. しか しウ ィ リス は京 都 相 国寺 内 の 薩 藩 野 戦 病 院 に2週 間 滞在 し,泉 三 や 石 神 良 策,山 下 弘 平 等 薩 藩 の 医 師 達 を助 手 と して負 傷 者 の 治 療 に 当 っ た.手 術 に 際 して は 痛 み を柔 らげ る た め ク ロ ロ ホ ル ム を適 用 す る な ど西 洋 医学 の 進 ん だ 医術 に よ り,多 くの 負 傷 者 を 回復 させ た.藩 主 島津 忠 義 は 藩 医 達へ,治 療 法 を見 習 うよ う命 じて い る.鎖 国 の 日本 で は,外 国 人 を毛 唐 と い っ て忌 み 嫌 い,天 皇 の住 まわ れ る 京 都 に 入 れ な か っ た.ウ ィ リス とサ トウは,当 時 京 都 に 入 った 最 初 の外 国人 で あ っ た.戊 辰 戦 争 北 上 につ れ て,新 政 府 は横 浜 に 軍 陣病 院(日 本 で 初 め て の外 科 病 院)を 設 立(慶 応4年4月13 日)し,ウ ィ リス を医 官 と して招聘 した.ウ ィ リス は北 越 の激 戦 地 へ 従 軍 す る こ とを 申 し出,助 手 に上 村泉 三 を指 名 し, 高 田,柏 崎,新 潟,新 発 田,会 津 の野 戦病 院 を巡 回 し,敵 味 方 の 区別 な く治 療 した の で,天 朝 病 院 と称 され た.日 本 の

(5)

〔102〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補 冊1平 成7年8月 赤 十 字 活 動 は,明 治10年 の西 南 戦 争 時 と言 わ れ て い る が,そ れ よ りも古 い 赤 十 字 活 動 で あ っ た. 4.医 学 校 兼 大 病 院 明 治2年(1869年)3月 江 戸 は 東 京 と改 名 し,明 治 の新 政府 は幕 府 の 医 学 所 を 「医 学 校 兼 大 病 院 」(後 の 東 京 大 学 医 学 部)と し,院 長 に ウ ィ リス を招聘 した. ウ ィ リス は 明 治2年2月 医 学 校 兼 大 病 院 長 に就 任 し,英 国 医学 に基 づ い て設 備 を整 え,医 学 生 に最 新 の 医 学 を教 え, 同 時 に 一 般患 者 の 診 療 に も当 た った.ま た病 人 の 看 護 業 務 は 当 時 は男 性 で あ っ た が,女 性 の ほ うが 適 して い る と東 京 大 病 院 に は 女 子 の 看 護 人 即 ち看 護 婦 をお い た.我 が 国 にお け る 看護 婦 の始 ま りで あ っ た.医 学 校 は 順 調 に軌 道 に乗 り9ケ 月た った 時,佐 賀 鍋 島 藩 の 蘭 医 相 良 知 安 が,医 学 取 調 御 用 掛 に な り,蘭 書 に は ドイツ 医学 の 訳 書 が 多 か っ た の で 「ドイ ツ 医 学 が 勝 れ て い る.日 本 の医 学 の範 は ドイ ツ 医学 にす べ きで あ る.」 と主 張 し,同 藩 の 副 島種 臣,大 隈 重 信 を説 得 し, つ い に政 府 は 「ドイツ 医 学 を範 にす る」 と軌 道 変 更 を決 め,英 国 医 学 の ウ ィ リス は 首 に な った. 5.鹿 児 島 医 学 校 兼 病 院 長 驚 い た薩 摩 藩 の西 郷 と大 山 は,戦 地 で 多 くの負 傷 者 を救 った 優 秀 な医 師 ウ ィ リス を,鹿 児 島 の 医学 校 に 「医 学 校 長 兼 病 院長 」 と して,900弗(当 時1弗1円)の 日本 一 高 い 月 給 で招 く こ と と した(そ の 頃 の 総 理 大 臣 並 み の 実 力 者 大 久 保 利 通 の 月給500円,泉 三 の 月給15円 で あ っ た). しか し鹿 児 島 で は 「皇 漢 医 道 復 興 運 動 」 が お き,古 来 の 「皇 朝 ・漢 方 医 学 」 に戻 そ う とす る者 もい た.石 神 良 策 らは, 西 洋 医学 の 良 さ を説 き,認 識 不 足 を正 し,ウ ィ リス を良 く知 る者 達 を近 くに置 くこ とに し,横 浜 に い た 泉 三 に も帰 鹿 要 請 を した.「 こ れ か らは 中央 の 時代 だ,東 京 に残 れ,鹿 児 島 に は帰 るな」 と恩 師寺 島 は忠 告 して くれ た が,ウ ィ リス の こ とや歳 老 い た 母 を思 う心 が 強 く鹿 児 島へ 帰 っ た.ウ ィ リス の鹿 児 島着 任 は 明治2年12月 で あ った.鹿 児 島 医学 校 は, 明 治3年4月 小 川 町 に赤 レ ン ガの 「赤 倉 病 院 」 が 建 て られ,医 学 関係 の授 業 は ウ ィ リス の補 佐 を三 田村 一(肇,忠 国), 高 木藤 四郎(兼 寛),加 賀 美 庄 司(光 寛)ら が した.病 院職 員 配 置 表 の 中 に上 村 泉 蔵(泉 三)と 秋 岡研 道(野 添 正 壽) の 名 が あ る. ウ ィ リス は 蒸 し暑 い 鹿 児 島 に は なか な か馴 染 め なか った が,泉 三 も立 ち合 い 明治4年,江 夏 八 重 子 と結 婚 し,明 治6 年 ア ル バ ー トが 生 まれ,次 第 に鹿 児 島 に も慣 れ て楽 しい 生 活 が は じ まっ た.鹿 児 島 医学 校 在 職7年 の 間 に,英 国流 の 近 代 医学 教 育 を行 い,臨 床 医 学 ばか りで な く,公 衆 衛 生 学 や予 防 医学 な ど と幅 広 く教 授 した.鹿 児 島 は西 日本 に お け る 医 学 の 中 心 と な り,他 県 か ら も生 徒 が 集 ま り,600人 に 達 して い た とい う.門 下 生 に高 木 兼 寛 が い た が,ウ ィ リ ス の 勧 め で 英 国 に留 学 し,帰 国 後 海 軍 病 院長 に,後 に現 在 の 東 京 慈 恵 会 医科 大 学 を創 設 した.日 本 で は唯 一 つ の英 国式 の 医 学 教 育 機 関 で あ った.明 治21年 日本 初 の 医学 博 士 の学 位 記 を授 か っ た. 6.宮 崎 県 仮 病 院 の 野 添 と 上 村 明 治7年 宮 崎 県 は仮 病 院 を 開設 し,ウ ィ リスの 門下 生2名 を招聘 した. 「鹿 児 島 県病 院 之 医 局 員,1等 副 教 長 秋 岡研 道,3等 同上 村 泉 三 を聘 し,権 参 事 官 舎 を以 て仮 病 院 と し,来 た る 明 治7年8月8日 開 業 」 と宮 崎 県 の 古 文 書 に記 され て い る. 秋 岡研 道(野 添)と 上 村 泉 三 の 鹿 児 島県 病 院 で の 配 置 は,秋 岡研 道 「明治4年12月24日 薬 品 部 門 加 賀 美 氏 の助 手,明 治5年2月8日 医 学 文 献 邦 訳,明 治5年7月28日 薬 局 長 次 席(15両),明 治6年2月10日 薬 剤 師」.上 村 泉 三 「明 治4年 7月27日 外 診,明 治4年12月24日 外 診 医,明 治5年5月14日 外 診 医(25両),明 治6年2月10日 住 み 込 み 外 科 医 次 席, 明 治7年12月25日 外 診 医(15円)」 で あ っ た.日 向 の 国 は 明治4年(1871年)7月 の 廃 藩 置 県 に よ り,延 岡 県,高 鍋 県, 佐土 原 県,飫肥 県 と な り,明 治4年11月 に は美 々津 県 と都城 県 に,そ して 明治6年1月 に宮 崎 県 と区 画 変 更 され,更 に 明 治9年8月21日 鹿 児 島 県 に併 合 さ れ,現 在 の 宮 崎 県 の 誕生 は 明治16年5月 で あ っ た. 明 治7年8月8日 院 長 秋 岡研 道(野 添 正 壽),副 院長 上 村 泉 三 で 開 業 した 宮 崎 県 仮 病 院 の 名 称 も,「 假 病 院 」 「宮 嵜 縣 假 病 院 」 「宮 崎 縣 病 院」 「旧宮 崎 縣 假 病 院」 「鹿 児 島 縣病 院宮 崎 支 院 」 「宮 崎 仮 病 院」 「鹿 児 島醫 院分 局 」 と文 書 記 載 名 も 次 々 と変 わ って い る. 研 道 は宮 崎 県 仮 病 院 長 の 時,野 添 正 壽 と改 名 し,上 村 泉 三 の姉 を妻 に むか え たが 実 子 に恵 まれ ず,泉 三 の 孫 武 二 が 家 督 を継 承 した. 明 治4年 英 国 公 使 官 員 ア ダ ム ズが 「ウ ィ リス医 師 は鹿 児 島 に来 て以 来,種 痘 を強 制 的 に行 っ て い る.」 と記 録 し,宮 崎 県 医 史 に は 「ウ ィ リ スの 門下 生 医 師 の い る仮 病 院(宮 崎 県)が 種 痘 医 師 の 免 許 を与 え た.」 と書 か れ て い る.ウ ィ リ

(6)

ス は 種 痘技 術 を伝授 し,疱 瘡 の 流 行 は激 減 した.全 世 界 に猛 威 をふ る っ た疱 瘡 は 現 在 は そ の 流 行 は な くな り,WHOの 勧 告 で 子 供 た ち は種 痘接 種 か ら開 放 され て い る.ウ ィ リス と鹿 児 島 署 院 院 長 三 田 村 一 は,明 治10年1月27日 鹿 児 島 を発 ち宮 崎仮 病 院 に視 察 と指 導 の た め に出 張 し,1月31日 よ り2月6日 まで の予 定 で 診 察 して い た.4日 夜,鹿 児 島 で の事 件 勃 発 の 知 らせ を受 け急 ぎ帰 鹿(2月8EI)す る と,英 艦 で ア ー ネ ス ト ・サ トウ が ウ ィ リス を迎 え に 来 鹿 し て い た. 「西 南 戦 争 勃 発 」 で あ っ た. 7.西 南 戦 争 後 ウ ィ リス の 門 下生 は 西 郷 に 従 っ て 皆 従 軍 した.政 府 か らは 外 人 退去 命 令 が 出 され,ウ ィ リス は鹿 児 島 を離 れ ざ る を得 な か っ た.ウ ィ リス は 鹿 児 島 を離 れ る時,門 下 生 に記 念 の 品 を残 した.そ の 後,西 南 戦 争,第2次 世 界 大 戦 と戦 災が 鹿 児 島 を襲 い,更 に,ゆ か りの あ っ た 県 病 院 や 大 学 附 属 病 院 も,戦 災,火 災 と二 度 も全焼 した の で,ウ ィ リ スの 残 した記 念 の 品 は ほ とん ど消 失 して しまっ た,野 添 武 二 家 に保 存 して あ る 「医療 器 具 」,「楕 円 形 の 西 洋 皿 」 と 「コー ヒ ー豆 煎 り 器 」 が現 存 して い る 数 少 な い 貴 重 な 記 念 品 で あ ろ う. ウ ィ リス は そ の 後 シ ャム 国 バ ン コ ク駐 在 の 英 国 公 使 館 医 官 を勤 め,1892年(明 治25年)英 国 に帰 り,1894年2月15日 ア イ ル ラ ン ド(現 北 ア イル ラ ン ド ・フ ァー マ ナー ・エ ニ ス キ レ ン)の 兄宅 で57才 の 生 涯 を と じた. 父 と共 に英 国 に 渡 っ た ア ル バ ー トは 成 人 して オー ス トラ リア に い た が,明 治39年 日本 に帰 り(33才),昭 和16年 に 帰 化 し宇 利 有平 と名乗 っ た が,昭 和18年70才 で 他 界 した. 西南 戦争 は 明 治10年9月24日 終 結 し,西 郷 隆 盛 軍 の 敗 戦 で あ っ た.従 軍 した 医 師 達 は そ れ ぞ れ 故 郷 に 帰 った り,知 人 をた よっ た り して 全 国 各 地 に 離 散 して い った.野 添 正 壽 は,鹿 児 島 県姶 良郡 加 治 木 町 で 「正 寿 院」(外 科)を 開 業 し た が,明 治16年2月18日 没 した.上 村 泉 三 は,山 ケ野 金 山 勤 務 の 後,野 添 正 壽 亡 き後 地 元 民 に こ わ れ て,加 治 木 町 で 「岳 陽堂醫 院」(外 科)を 開 業 し,大 正7年(1918年)3月25日73才 で 没 した. 8.ウ ィ リ ス の 残 し た 医 療 器 具 ウ ィ リスが 使 っ た 医療 器 具 の 中 に,大 きな 木 枠 に,医 療 用 の鋸 や メ ス な どが 入 っ た 四肢 切 断 術 に使 わ れ た 医療 器 具 が あ っ たが,伯 父 上 村 武 一(産 婦 人科 開 業)が 満 洲 ・奉 天(瀋陽)に 残 し引 揚 げ た.父 野 添 武 二 も小 外 科 セ ッ トを譲 り受 け,満 洲 ・吉 林 で は歯 科 治 療 に使 用 して い た.昭 和12年,加 治 木 町で 開業 の 歯 科 医 師 中 摩 秀 清 先 生 か ら 「鹿 児 島 県 歯 科 医師 会30周 年 誌 を編 集 す る に際 し,ウ ィ リス か ら頂 い た歯 科 医療 器 具 を紹 介 した い の で,貸 して 欲 しい.」 と の 要 望 が あ り,小 外 科 セ ッ トの一 部 を送 っ た.そ の 後,大 東亜 戦争 が 起 こ って 満 洲 に は送 り返 され ず,終 戦 後 加 治 木 に 帰 って か ら返 して頂 い た.抜 歯 鉗 子,ピ ンセ ッ ト ・メス ・鋏 ・尿 道 カ テ ー テ ル ・穿 刺 針 な ど26点 の 器 具 で あ っ た. メ ス は柄 が 亀 甲で 装 飾 さ れ てお り,ジ ャ ッ クナ イフ の よ うに な って い る.ピ ン セ ッ トの鋼 は 非 常 に軟 らか く,先 もず れ る こ と は ない.こ の よ う な鋼 の弾 力 性 は現 代 の技 術 で も再 現 で き ない そ うで あ る.穿 刺 針 は 針 先 以 外 は 象牙 で で きて お り,ね じ状 の キ ャ ッ プ を被 せ る型 で,そ の他 の もの もキ ャ ップ をす る よ う に な っ て い る こ とか ら,携 帯 用 を考 え て 作 られ た の で は ない か と思 われ る. 西 洋 式 歯 科 医 療 器 械 で 伝 わ っ て い る もの に は,シ ー ボ ル トの歯 科 器 械 と ウ ィ リ スの もの が 挙 げ られ る.シ ー ボ ル トが 持 参 した 抜 歯 鉗 子 は近 代 的 な もの で あ っ た が,直 門 の本 間玄 調 が そ の 仕 用 方 を知 らず,木 槌 と槽 柄 に よ る抜 歯 を推 奨 し た.抜 歯 鉗 子 の 術 式 が 伝 わ って い る の は ウ ィ リス の系 統 だ けで,上 村 泉 三 は 日本 にお け る西 洋 式 歯 科 手 術 を初 め て 行 っ た先駆 者 とい え る. 歯 科 外 科 で 万 能 的 に用 い られ て い た の は,歯 齪 刀 と思 わ れ る.メ ス は柄 が 亀 甲製 で あ る た め,煮 沸 消 毒 は で きな か っ た の で ヨー ドや 酒 精 に よ った もの と思 わ れ る.歯 科 手 術 器 の 中 にヘ ー ベ ル(て こ)が 無 い こ とは 注 目 を引 く.ク ロ ロホ ル ム に よ る全 身 麻 酔 法 は行 われ て い たが,局 所 麻 酔 法 は知 られ て い ず,歯齦 刀 で 歯 ぐ きを切 り開 き,鉗 子 で 挟 ん で 「エ イ ・ヤ ッ」 と掛 け 声 も ろ と も一 気 に腕 力 で 引 き抜 い た の であ ろ う.歯 槽 骨 破 折 や 裂 傷 も伴 っ た だ ろ う し,そ れ 以上 に患 者 の 苦 痛 は 想 像 を絶 す る.し か も歯 を抜 い た後 は そ の ま ま放 置 した とい うか らい っそ う残 酷 で あ る.抜 歯 鉗 子 の杷 に は (Coking Co)と 記 され て お り,鋏 や 抜 歯 鉗 子 な どは,現 在 使 用 され て い る もの とほ と ん ど同 じで,こ れ が 一 世 紀 も前 の もの か と,そ の 精 巧 さ に感 嘆 させ ら れ る. お わ りに 1994年(平 成6年)は ウ ィ リス 没 後100年 で あ り,そ の記 念 顕 彰 事 業 は,1.献 花 ・追悼 式 が 平 成6年2月14日,頌 徳 碑 前 にて.2.記 念 式 典 及 び 記 念 講 演 会 が 平 成6年4月9日,鹿 児 島 県 医 師 会館 にて 盛 大 に行 わ れ た.3.百 年 忌 墓

(7)

〔104〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補冊1平 成7年8月 参 も9月3日 よ り9日 間 の 日程 で企 画 実 行 さ れ,福 田健 夫 前 医学 部 長 が 団長 とな り,佐 藤 榮 一 医 学 部 長,宮 田晃 一 郎 教 授,松 下敏 夫 教授,鮫 島 信 一 等15名 が 参 加 して,ウ ィ リス縁 りの 地,ロ ン ドン,エ ジ ンバ ラ,ダ ブ リン(ア イ ルラ ン ド), フ ァー マ ナ ー ・エ ニ ス キ レ ン(北 ア イ ル ラ ン ド)を 訪 問 した.(鹿 児 島県 医 師 会 報523号1995年1月 号 「ウ ィ リア ム ・ ウ ィ リス縁 りの 地 を訪 ね て」 鮫 島信 一 著) 更 に記 念 出版 物 を発 行 す る の で参 考 に な る資 料 や 原 稿 も頂 きた い との要 望 もあ り,手 元 の 資 料 を基 に,ウ ィ リス の 足 跡 を書 い た 次 第 で あ る.ご 叱 咤 ご意 見 を頂 け れ ば幸 甚 で あ る.

参照

関連したドキュメント

Shahzad, “Strong convergence theorems for a common zero for a finite family of m- accretive mappings,” Nonlinear Analysis: Theory, Methods & Applications, vol.. Kang, “Zeros

The construction of homogeneous statistical solutions in [VF1], [VF2] is based on Galerkin approximations of measures that are supported by divergence free periodic vector fields

Also, extended F-expansion method showed that soliton solutions and triangular periodic solutions can be established as the limits of Jacobi doubly periodic wave solutions.. When m →

3-dimensional loally symmetri ontat metri manifold is of onstant urvature +1. or

In the chamber filled with an ionized plasma that is given as a porous medium, the gaseous transport involves several phases: mobile gas phase streams, and both immobile and

対応者: Vikas Jha 役職 Director, Governance and Policy Advocacy Sam Kapoor 役職 Manager, Partnerships and External Relations 概要. スタッフは

With a diverse portfolio of products and services, talented engineering staff with system expertise, a deep understanding of the quality, reliability and longevity requirements

引火性液体 : 区分4 眼に対する重篤な損傷性/ : 区分2B 眼刺激性 警告 眼刺激 可燃性液体