周知のように︑ベトナムは︑法のうえでは中国法文化圏に属し︑
かつ︑その世界のなかで独自の位置を占めてきた︒ベトナムと中国
の最初の本格的な出会いは︑実に二○○○年以上も前にさかのぼる
遙遠の時期であり︑その後ベトナムは︑長期にわたり︑中国統治法
を基調とする他民族支配時代︵﹁北属時代﹂︽︽目ざ﹀一也凰国詳目言胃ご︶
を経験し︑独立後も︑中国の歴代諸王朝が陰に陽に加える重圧に対
し︑不断に闘い︑懸命に耐え抜いてきた︒これは︑なんぴとも否定
し得ないこの民族の厳粛な歴史的事実である︒こうした長期に及ぶ
ベトナムと中国の緊張関係は︑この民族の歴史と文化に巨大な影響
を不可避的に与え︑かかる厳酷な歴史的条件のもとで︑中国法の摂
取・継受が漸次行われてきた︒他民族統治が被抑圧民族の法の体系
や性格に決定的に近い影響を及ぼしたことは︑世界史上に数多の例
証を探し求めることが可能だが︑ベトナムの場合もその一例といえ
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
はじめに
中国支配下のベトナム法試論
し︲季︑可ノO
しかしながら︑ベトナムは︑自己を中国法に埋没させることなく︑
︵1︶自らの固有法や伝統を存続し︑かつこれを発展させてきた︒後世の
﹃国朝刑律﹄︵﹃黎朝刑律﹄︶は︑中国法と国有法の二重の要素を中国
法的体系により整合し︑前近代における本格的成文法として編纂さ
れた基本法典であり︑この国を取り巻く内外の厳しい環境のなかで
纂修された貴重な文化遺産である︑といってもけっして過言では
か︽い・
本稿では︑ベトナム史の展開過程において︑どのよ︑フに法が生成.
発展し︑前近代法の一精華ともいうべき﹃国朝刑律﹄を編修するに
至ったかを探究するため︑まず︑中国支配下のベトナムにおける法
の生成と展開に関する諸問題を取り上げてみた︒もとより︑日本に
おいて︑ベトナム法制史と題する専著は皆無であり︑ましてや︑文
献史料の乏しい北属時代の法の問題を俎上に載せた論考は絶無であ
る︑とい︑フのが偽らぬ現状である︒この意味で︑標題のような拙稿
を草するのも無駄ではあるまい︒以下︑猯摩憶測の連続となること
片倉穰
一五五
を懸念するが︑独立時代の歴史と法の問題点を考察するための前段
作業として︑やはり欠かせない営みではないかと判断し︑あえて匹
夫の勇を振るい︑拙文を認めた次第である︒
一般論として︑人類史上における法の発生過程は︑国家の発生と
ともにきわめて長期にわたるが︑法的なものの成立には二つのモメ
ントが存する︑という見解がある︒第一は︑個別的な私的利害の対
立から生じる紛争の︑自力救済による解決から仲裁機構による仲裁
への漸進的移行︑さらに特殊な公的権力の成立とともに︑紛争の公
的機関による解決とその解決結果の保障という過程で法的な意味の
権利義務関係が形成されてくる︑ということであり︑第二のモメン
トは︑氏族共同体の諸機関が政治権力︑政治的国家への転化過程に
支配者および支配者集団に基づいて法的規範が形成されてくる︑と
︵2︶い︑うことである︒
ベトナムの場合も︑いわゆる未開の中ないし高段階︑すなわち雛
将のごとき者が存在した社会に︑このような法生成への萌芽が存し
たであろうことを憶測するのは不可能ではないが︑前記の二つのモ
メントを文献史料によって立証するのは︑とても不可能なことであ
る︒しかもベトナムは︑古代国家未形成の時代に中国統治法の洗礼
を直接に受けざるを得なかったため︑法の内発的生成・展開の歴史
とい︑フ観点からだけでは︑その歴史の全貌を正確に把握したことに
はならないという︑この点でも︑法の歴史の解明とそれへの理解を 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
一黎明期の法 容易ならざるものにする要素を有していた︒
ところで︑有名な安陽王の金亀伝説のなかに︑南越王の趙佗・仲
始父子の侵略軍に追撃された安陽王が︑海浜で娘の媚珠の裏切りを
︵3︶はじめて知らされ︑娘を斬る場面がある︒この王による斬殺行為は︑
説話・伝説中の一駒という程度以上のなんらかの意味を持っていた
かもしれない︒実は︑ベトナムの史学界では︑この安陽王の行為は︑
王権に対する娘の謀叛ないし反逆への斬殺処分であり︑このことか
ら︑父娘の家族倫理を超越した王法の優越性が読み取れる︑という
︵4︶意見が提示されている︒ベトナムの史家は︑安陽王に先行する雄王
時代に王法の存在を想定し︑成文法のなかったこの時代に︑王法は
詩歌や口頭で流伝され︑集会や祭祀の場で人々に知らされたとも述
︵5︶べている︒もとより︑ベトナムの史学界における所説︑すなわち文
郎国︵文郎は王国名︒文身の男の意︒ベトナム往古における文身習
俗の存在を示唆する︶を最初の古代国家と見倣し︑安陽王に先行す
る時代に文郎国雄王時代を設定する学説には︑衆人を説得するに足
︵6︶る実証的裏付けが伴わず︑それ故︑王法の始原を雄王時代に遡及さ
せる見解には軽々に同調することはできないが︑少なくとも筆者は︑
ベトナムの史家に学び︑安陽王の頃の法について︑次の二点を指摘
しておきたい︒
仙まず︑西紀前三世紀の安陽王およびその直後の頃には︑ある
程度の広がりを有した地域︑たとえば安陽王とか雛将が影響力を行
使する地域において︑当該集団ならびにその所属成員を規制する法
が存在していた︒この法は︑王法とか族長法と措定できるような発
︵7︶展段階の域に達していたものではなかろうが︑おそらく︑一定の集
一五六
団︵﹁原始共同体﹂︶の伝統的慣習法︵原始法︶を基礎にしつつ︑安
陽王をもって代表とするような地域集団内部で自立的に形成されて
きたものであり︑この時期の政治的集団を法的に規制し︑安陽王や
維将の権威と地位を法的側面から支える形でも機能していたと推考
される︒この時期の法は︑いわば慣習法︵不文法︶であり︑そこに
は社会的諸慣習も包蔵されていたである︑フ︒
③次に︑ベトナムの史家の︑王法が詩歌や口頭で流伝され︑集
会や祭祀の場で法を知る者により周知されたという見解は︑この時
期の法の伝達方法を検討するうえで示唆に富むものといえよう︒原
始末期は︑宗教によって裏付けられる社会であり︑いわば聖俗一元
の世界であり︑そこでは法は︑制定するものというよりは︑神聖に
して守護するものとい︑フ意識が強かったである︑フから︑それの人々
への周知徹底に際し︑集会︵﹁会盟﹂︶とか祭祀の場が活用されたと
考えるのは︑きわめて穏当であろう︒察するに︑安陽王の頃は︑神
と法は未分離の段階にあり︑法・道徳・習俗・宗教などを明確に弁
別する意識は充分に発達していなかったであろうから︑神的存在を
媒介して全体の平和維持が図られ︑法は︑タブー的・呪術的観念と
︵8︶深く結びついていたことである︑フ︒それ故︑神祠のよ︑フな祭祀の聖
地が集団の秩序と平和を撹乱した人を裁く場として重視され︑また︑
そのよ︑フな場を通して︑法とい︑フものは︑その効果をよりよく発揮
︵9︶することができたのであろう︒﹁最古の法と呪術的I宗教的諸観念
︵皿︶との密接な連関︑これが古法を理解するための鍵である﹂といわれ
るが︑ベトナム古法も︑法と呪術・祭祀とが密接に関連し︑両者は
未分化の状態にあったのであり︑中国が侵略するまでの諸集団を支
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ えた法も︑神的存在や呪術を媒介して機能するのが一般であったと推測される︒
中国の侵略を被るまでのベトナムでは︑狭小な集団内部に一定の
慣習法が存在していたばかりでなく︑若干の集団の上部に立つ政治
集団とその権力を維持するための法的強制力が形成されつつあり︑
これらは︑集会や祭祀などの公的諸機関と宗教・呪術などの神的存
在とを媒介して機能していたと推考される︒
仙南越王国の法
中国法︑とりわけ中国王朝の制定法たる律令法の南進を考察しよ
うとするとき︑まず︑南越王国における法の問題について一瞥を与
えておかなければならない︒これよりさき︑前三世紀末︑秦朝始皇
帝の派遣した南進軍は越人と戦ったが︑この秦の南進がベトナムの
︵皿︶地にいかなる影響を与えたか︑定かでない︒ついで︑秦漢両朝の交
替期に中国の南境地域で自立した趙佗は︑南越王国︵前二○三l前
二二を創建し︑ベトナム北部に存した安陽王の政権を滅ぼし︵前
︵吃︶二○八︶︑ベトナムへの政治的・軍事的影響力を行使し得る態勢を整
えたよ︑フだが︑﹁越王令二使者︑典主交趾・九眞二郡民﹂︵﹃水経注﹄
巻三七所引﹃交州外域記﹄その他︶︑﹁佗因此以兵威邊︑財物賂遣閏
越・西欧賂役屡焉﹂︵﹃史記﹄巻二三︑南越尉佗列伝︶とある記事
から推測できるよ︑フに︑なんらかの理由で︑ベトナムに対する直接
支配を断行せず︑あるいは断行できず︑間接的関与を目指した︒趙 二中国法の波及とベトナム社会
一五七
佗の南越は︑北方の前漢に対しては自立的姿勢を誇示し︑南方のベ
トナムに対しては在地首長の自治を容認し︑その内部になんら容
曝・干渉しなかったのである︒
一九八三年六月に広州市越州公園の西側・象崗山の中腹で発見さ
れた南越王墓のなかから︑﹁文帝行璽﹂︵文帝は南越王二代目の文王︶
と印された龍紐金印が出土し︑趙佗︵武帝︶についで︑趙胡︵文王︶
も帝号を俗称していたことが証され︑かつ︑この金印が南越で製作
された可能性のきわめて高いことが論じられ︑この研究を通して︑
南越の地で南越尺の使用も仮定されるに至り︑従前にもまして︑南
︵過︶越の前漢に対する自立的態度が明確となってきたが︑このょミフな態
度は︑王国内の法にもその片鱗を窺うことができる︒この王国でど
のよ︑フな法が実施されていたかを知るには︑次の﹃史記﹄巻二三︑
南越尉佗列伝の一文が参考になるである︑フ︒
元鼎四年︵前二三︶︑⁝⁝王︵南越王興︶年少︑太后中國人也︑
嘗與安國少季通︑其使復私焉︑國人頗知之︑多不附太后︑太后
恐凱起︑亦欲掎漢威︑數勧王及群臣求内属?即因使者上書︑請
比内諸侯︑三歳一朝︑除邊關︑於是天子許之︑賜其丞相呂嘉銀
印︑及内史・中尉・太傅印︑餘得自置︑除其故鯨副刑︑用漢法︑
比内諸侯︑使者皆留填撫之︑王・王太后筋治行装重齋︑爲入朝
︵M︶且︿
この史料は︑南越の創始者趙佗以来︑伝統的に継承されてきた︑
いわば自主独立の路線に対し︑五代目の趙興がその母樛氏︵太后︑
中国人︶とともに前漢への内属化を強引に推し進めようとしたとき
の情況を描写したものであるが︑これによると︑この時点まで︑南 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
越では漢法が完全かつ忠実には実施されておらず︑また︑前漢の内
地ではすでに廃止されていた肉刑︵鯨・副・別左右趾︶の二種︑す
なわち鯨刑・副刑が当地では依然︑刑罰として採用・実施されてい
たことが判明する︒太后らによる内属化で︑南越が旧来の法を改め︑
全面的に漢法に従︑うよ︑フになったのは︑﹃漢書﹄巻六四下︑終軍伝に
も︑﹁壹用漢法︑以新改其俗﹂とあることからも明白である︒始祖趙
佗は︑自ら蛮夷の風を率先して行い︑在地の慣習と伝統に理解を示
し︑このよ︑フな行動を通して南越の人心掌握に努めたが︑かかる方
法は︑法の世界においても例外ではなかった︒漢法︑あるいは秦漢
法︵趙佗の王国樹立は秦漢交替期であるので︑この王国に奏法が導
入された可能性もないわけではないが︑その具体的事実を明確にし
得ないので︑以下︑漢法と称する︶を受動的に導入する愚政を避け︑
在地の慣習法を可能な限り容認する態度を貫いたと思われる︒この
態度が彼とその政権に対する在地の人々の好感を獲得する一因と
なったのである︑フ︒だから︑この王国創建者以来の伝統的政策の路
線変更である内属化政策が地域の支援を無条件に得られるはずはな
く︑そのうえ︑この内属化強行が南越の存立基盤を揺るがす結果に
終わったことは︑爾後の南越の歴史的推移が如実に示してくれる︒
しかし︑いうまでもなく南越は︑中国の文物を身に付けた中国人
の趙佗が樹立した王国であり︑彼が南越統治のために漢法を活用し
たのも確かなことである︒わけても︑漢法中の刑罰の導入は︑在地
の抵抗︑拒絶反応を誘発することが比較的少なかったかもしれない︒
一般に︑異なる民族の法を継受する場合︑刑法の分野は比較的継受
し易いとされるから︑この南越に鯨.割などの肉刑を採用しても︑
一五八
さしたる混乱を起こさなかったのではあるまいか︒ただ︑南越で実
施されていた鯨と副が中国から直接導入された刑罰だと断言してよ
いのか否か︑という問題がある︒中国の南境近辺にも刺墨・文身の
伝統的習俗を持つ種族が在住しており︑故に︑当の地域における鯨
刑を直ちに中国王朝法の導入の結果と断じるのはまだ早過ぎる︑と
いう疑義が生じるかもしれない︒しかし︑中国とベトナムの諸文献
をひもといても︑当の地域で南越王国時期の前後に固有の副刑の存
在を確認できない現段階にあっては︑南越の鯨と割の刑は漢法の肉
刑であり︑それがこの地に導入されたと推測せざるを得ないである
このように︑南越は漢法の刑罰を摂取したようであるが︑だが︑
この点に関しても︑漢法と完全に軌を一にしたのではなかった︒﹃漢
書﹄巻二三︑刑法志を読むと︑前漢では︑文帝一三年︵前一六七︶
に肉刑が廃止されたが︑南越の地では︑その後も内属化に踏み切る
︵咽︶まで︑鯨と副の刑が実施されていた︒それ故︑前掲史料に﹁除其故
鯨副刑﹂と記されたよ︑フに︑前漢への内属化を機に肉刑廃止の措置
が必要だったのである︒この史実は︑南越の刑罰が漢法の刑罰を導
入したである︑フにもかかわらず︑ある面では︑独自の道を歩いてい
たことを示す︒前漢の肉刑廃止後も南越が肉刑を依然として存続し
たのは︑情報不足の結果ではなく︑南越側に前漢の法改革に同調し
ない︑あるいはこれに同調するのを潔しとしない事由があったので
あり︑この王国の自立的性格を示す一証左であろう︒
南越は︑その統治において︑漢法の画一的適用を避け︑その存立
基盤の伝統と慣習に理解を示し︑この地域の慣習法を破壊・否定し ︑旬ノ︒
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ なかった︒内属化までの王国支配者のこの態度は︑広義の越族に属するベトナム人の後世の南越王国観に少なくない影響を与え︑彼らが南越に好感を抱く一因となった︒趙佗はいわゆる安陽王国を滅ぼしたが︑南越のベトナム関与は間接的なものであり︑漢法がベトナムの地と人を支配したのではけっしてなかった︒だが︑完全な形ではなかったにせよ︑南越への漢法︑とくに刑罰の波及は︑ベトナムの固有法が中国法に直接出会う前夜を迎えたことを意味し︑このことは︑この民族の法の歴史において記憶しておくべき歴史的事象であるといえよミフ︒
②前漢のベトナム支配
前二一年︑前漢の武帝は︑南越を滅ぼし︑この地域とその近隣
諸地域に九郡を設置した︒九郡の︑うち︑交趾・九真ならびに日南の
三郡は現今のベトナム領域に含まれる︒前漢のベトナム支配の形態
と性格に関しては︑すでに先学諸氏が論じており︑かつて筆者も別
︵略︶稿で少し取り上げたので︑詳細はそれらの論考に譲るが︑いま︑漢
代︵前漢・後漢︶におけるベトナム支配の実態と推移を約言する用
語を文献から選び出すと︑故俗・旧制・﹁法﹂なる諸語を見付けるこ
とができるよ︑フに思︑フ︒
当初︑前漢によるベトナム支配は一種の貢納的支配であったらし
い︒確かに前漢は︑南越によるベトナム関与をさらに一歩進め︑当
地に郡県を設けた︒本国から官僚を派遣してその統治に当たらせた
ことも考えられる︒この種の郡県統治は︑南越のベトナム関与とは
質的に異なる︒だが︑その支配の内実は︑現地の伝統・慣習および
一五九
支配従属関係を容認する︑いわば貢納的支配であった︒換言すれば︑
在地の首長なり有力者なりを通して包括的に収奪・支配する方法を
採用したのであり︑在地における一般の人々にとって︑前漢の官僚
は間接的に関係する存在であったろう︒このことは︑南越討滅後の
支配の有様を要約した︑﹁且以其故俗治︑母賦税﹂︵﹃史記﹄巻三○︑
平準書︶という文言中の故俗なる表現に端的に示されている︒次は
三世紀の記録だが︑現地に赴任した蒔綜とい︑フ人物の上疏文のなか
に︑前漢の支配について︑﹁長吏之設︑雛有若無﹂︵﹃三国志﹄巻五三︑
詳綜伝︶と述べ︑前漢のベトナム支配が郡県行政の形態を採用しな
がら︑その内実は︑通常の郡県統治とはかなり異なっていたことが
知られる︒このよ︑フな支配を︑中国の文献に登場する用語に従って︑
故俗による支配と呼ぶことにする︒
実をいうと︑漢代には︑故俗あるいは俗を尊重する形の一種の支
配方式が存在した︒﹃史記﹄巻二一︑衛将軍驍騎伝にみえる﹁因其
故俗爲屡國﹂の﹃正義﹄に︑﹁正義日︑以降來之民︑徒置五郡︑各依
本國之俗而属於漢︑故言震國也﹂とあり︑故俗により支配するとこ
ろを属国と称することもあった︒考えるに︑故俗とは︑在地あるい
はその種族などの伝統・習俗・慣習の総称であり︑この総称のなか
には︑慣習法とそれに支えられた支配従属関係も当然︑包蔵されて
いた︒前漢は︑ベトナムに郡県統治を開始したが︑法に関しては在
地の慣習法に改変を加えなかった︒前記の故俗をもって治めるとい
う文言は︑これを充分に裏付けると思う︒それ故︑前漢支配下のベ
トナムにおいて︑地域・村落や家族の諸生活で人々の行動を法的に
規制したのは︑伝統的慣習法であって︑外来法たる漢法が人々の現 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
実の日常生活を具体的に規制したのではなかったと推測される︒
故俗尊重による支配方式は︑漢法というものを地域社会やそこに
住む人々の日常生活の段階にまで貫徹させなかったが︑とはいえ︑
このベトナムの地で漢法が無縁の存在だったわけではけっして量
かつた︒第一に︑前漢から派遣されたであろう郡の太守らは︑前漢
の皇帝の命令と漢法に従い︑自己に課せられた郡県行政の職責を果
たさねばならなかったのであり︑彼らの赴任地における言動は︑明
らかに漢法に照らして評定された︒第二に︑雛将と称された地域の
有力者は︑前漢官僚との接触の過程で否応なく漢法を知ったはずで
ある︒第三に︑この時期になると︑前漢から徒遷刑などによる罪人
︵Ⅳ︶の移徒︑少なくない漢人の移住︑そして定着の現象がみられたが︑
これら漢人の移徒と定住が漢法の知識導入のうえで果たした役割も
無視できないである這う︒かなり誇大気味な表現だが︑﹁後頗徒中國罪
人︑使雑居其間︑乃梢知言語︑漸見禮化﹂︵﹃後漢書﹄巻八六︑南蛮
伝︶とあるよ︑フに︑罪人の遷徒は︑風俗を改変させるぐらいの影響
があったといわれ︑ベトナムでは︑前漢からの罪人を一方的に受容
するとい︑フ形でも︑漢法との出会いが始まったのである︒前漢の故
俗尊重の支配体制下に︑ベトナム人はいくつかの方法で漢法に接触
する機会があったのであり︑この時期に︑固有法と中国法との最初
の出会いがあったといえよう︒
西紀後一世紀︑交趾太守錫光と九真太守任延の現地赴任を契機に︑
中国王朝によるベトナム支配は看過し得ない動きをみせるに至っ
た︒一般にこの動きは︑礼を中心とした漢化︵中国化︶政策の実施
ということで把握されている︒﹃後漢書﹄巻七六︑任延伝によると︑
一六○
︵岨︶両太守の漢化政策などは︑次のように伝えられている︒
九眞俗︑以射臘爲業︑不知牛耕︑民常告︑罐交阯︑毎致困乏︑
延乃令鋳作田器︑教之墾關田嶬︑歳歳開廣︑百姓充給︑又路越
之民︑無嫁嬰禮法︑各因淫好︑無這對匹︑不識父子之性・夫婦
之道︑延乃移書罵縣︑各使男年二十至五十︑女年十五至四十︑
皆以年歯相配︑其貧無禮艘︑令長吏以下各省奉緑︑以賑助之︑
同時相婆者︑二千餘人︑是歳︑風雨順節︑穀稼豐桁︑其産子者︑
始知種姓︑威日︑使我有是子者︑任君也︑多名子爲任︑於是傲
外雷夷夜郎等︑慕義保塞︑延遂止罷偵候戌卒︑初平帝時︑漢中
錫光爲交阯太守︑教導民夷︑漸以禮儀化︑聲桙於延︑王葬末︑
閉境拒守︑建武初︑遣使貢献︑封轤水侯︑領南華風始於二守焉
この漢化政策について︑いくらか視点を変えて眺めてみると︑こ
の政策では︑婚姻・夫婦・父子などを中心とした礼的教化が主題と
なっており︑法の導入については︑いささかも触れられていないの
が注目される︒中国支配者側は︑本格的支配を目指すため︑中国的
礼の導入を企図し︑これを実践させているのである︒およそ︑中国
諸王朝の他民族支配においては︑他民族・他種族は礼なき存在であ
るため︑彼らを統治し難い︑とい︑フ論理があった︒まことに︑後漢
の尚書令虞調が︑いにしえより聖王が異俗を臣としなかったのは︑
聖王の徳を及ぼし威を加えることができなかったからではなく︑異
族が獣心貧埜で︑礼をもって率いることがむつかしかったからだ︵後
述﹃後漢書﹄巻八六︑南蛮伝︶と上奏したように︑他民族・他種族
に対する本格的支配のためには礼の教化が必要であった︒この意味
で︑錫光らの礼教政策は︑ベトナムに対する本格的郡県支配への取
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ り組みを告げるものであり︑そして︑このような礼の移植とい︑7作業は︑錫光や任延のごとき循吏の本領とするところでもあった︒はたして︑錫光が交趾太守として赴任していた頃︑ベトナムで戸口調査が行われ︵﹃漢書﹄巻二八︑地理志八下によると︑平帝の元始二年
︵後二︾︶︑郡県支配の徹底が図られていたのであった︒
如上の礼の移植と郡県支配の強化は︑法の導入に連動し易く︑む
しろこれらと並行して法の導入が想定される︒一般に︑中国では法
と礼とは口と舌のごとき相関関係にあり︑両者の関係は常に対等と
はいえず︑互いに強弱の関係が生じ︑時代により消長することはあっ
ても︑二者を結ぶ糸は切れることなく︑政治の面で生かされ続けて
︵岨︶きた︒礼とは︑人間の行動規範であり︑人の放縦な行動を拘束する
ところから︑法的性格を帯びるものと見倣されることもあったし︑
法と礼の緊密性・不可分性という観点に立てば︑一定の法の裏付け
があると︑礼は︑よりいっそ︑フ効果を発揮することができた︒前漢
のベトナム支配における礼の導入は︑漢法による統治のための条件
整備的意義をも有していたと思う︒錫光と任延の︑あるいは彼らに
付せられたところの礼教政策に随伴して︑ある種の漢法ないし漢法
的観念がこの地に導入されたと考えてよかろう︒ただ︑両大守の名
で示された新しい支配への試みは︑礼教主義的性格が濃厚であり︑
漢法による直接支配を申明するような形を採らず︑あとで言及する
ことから判断しても︑漢法と固有法の矛盾を十全に調整した統治法
といえるものではなかったと推測される︒しかし︑故俗による支配
から事態を一歩進めたことは確かであろう︒
この礼教主義の導入を中心とした︑あるいはそれに伴った支配方
一一ハー
法︵なんらかの基準・原則を示した統治法︶などが︑数十年後︑馬
援と越人の間で約束された旧制と称されるものであったのではある
まいか︒この旧制に関しては︑かつて︑後藤均平氏の新説︑すなわ
ち漢律と越律の食い違いが十余条あったところの︑錫光︵らに付せ
られている︶以降の郡県支配体制そのものを指し︑蘇定の強行した
法までを旧制に含める説に部分的に従い︑これは︑錫光の頃から前
漢の施行しつつあった統治法の意であり︑おそらく︑漢法の一方的
強制によって成立したものではなく︑固有法と雛将権力をある程度︑
︵別︶考慮した統治法であったろう︑と解した︒ところが近年︑前後漢四
○○年間の諸反乱に﹁民衆法﹂の存在を論じた奥崎裕司氏は︑後藤
説に拠りながらも︑この旧制は︑昔からの法︑古くからの法︑旧来
の制であり︑錫光・任延のときだけでなく︑蘇定のときまで一貫し
︵皿︶ている漢律である︑と説かれた︒考えてみるに︑ここで使われてい
る旧制は︑前記の故俗のよ︑フな慣習法とか伝統的慣行を指称した語
でないことは確かだが︑だからといって︑漢律そのものと明断して
しま︑フのは危険ではなかろ︑7か︒やはり︑前漢がベトナム支配のた
めに案出した広義の統治法︵支配のための原則を示した取り決め・
法︶とみるほ︑フがより適切な解釈ではなかろ︑フか︒前掲の虞蝿の上
奏を載録した﹃後漢書﹄巻八六︑南蛮伝の永和元年︵一三六︶に︑
武陵太守上書以︑衝夷率服︑可比漢人増其租賦︑議者皆以爲可︑
尚書令虞蝿濁奏日︑自古聖王不臣異俗︑非徳不能及威不能加︑
知其獣心貧埜難率以禮︑是故謁廩増之︑必有怨叛︑計其所得︑
不償所費︑必有後悔︑帝不從︑其冬︑澄中瘻中雷果箏貢布非薑
約︑遂殺郷吏︑翠種反叛 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
とあり︑後漢の瘻中蛮支配において︑旧約と呼ばれるものが存した
が︑武陵太守がこれを無視したため︑瘻中蛮の反乱が起こったと記
載されている︒私見によれば︑ベトナムの場合の旧制も︑この旧約
ないしこれに類する一種の統治法であり︑いわば︑前漢のベトナ女
支配の特徴である故俗尊重の経験のなかから案出された統治法では
あるまいか︒もとよりこの旧制は︑故俗を否定するものではなかっ
たけれども︑ベトナムからの収奪を確保・強化するための法であり︑
郡県当局に接触して事に当たる雛将などの有力者をはじめ︑在地の
人々にとっては︑なにかにつけ負担となり︑重荷となるものであっ
たに相違ない︒ベトナムにおけるこのよ︑フな旧制の成立期を特定す
ることはできないけれども︑少なくとも︑文献の記載の範囲内でい
えば︑任延と錫光の行政が旧制の成立において重要な一時期であっ
たと思量されよ︑7︒前漢のベトナム支配においては︑漢法というも
のがあらわに現われず︑故俗や︑あるいは後世︑旧制と称される統
治法により︑その態様が示されたが︑こうした状況のなかで︑漢礼
の移植を受け︑かつ漢法にもしだいに触れ︑雛将らの特権が侵食さ
れつつあった︑とい︑フのが当時のベトナムの姿である︑フ︒
③徴姉妹の反乱と法
後四○年︑ベトナムで後代の民族運動の原点というべき反乱が勃
発した︒世に知れ渡る徴姉妹の起義である︒﹃後漢書﹄巻八六︑南蛮
伝によると︑
至︵建武︶十六年︑交阯女子徴側及其妹試︑反攻郡︑徴側者︑
蓋冷縣維將之女也︑嫁爲朱散人詩索妻︑甚雄勇へ交阯太守蘇定︑ 一一ハーー
以法繩之︑側盆故反︵後略︶
とあり︑﹃大越史記全書﹄外紀全書︑巻三︑徴紀︑庚子元年︵四○︶
には︑﹁法﹂に関する部分が﹁王︵徴側︶苦太守蘇定繩以法︑及譽定
之殺其夫︑乃與其妹試翠兵﹂と記され︑李済川の﹃輿甸幽霊集録﹄
には︑﹁以法殺詩索﹂と書かれ︑ベトナムでは︑詩索が蘇定に殺され
たとする伝承が一般的である︒いずれにせよ︑誰将の娘で詩索の妻
であった徴側が︑交趾太守蘇定の﹁法を以て之を繩す﹂行為に怨怒
し︑妹の徴弐とともに挙兵したのが︑この反乱の発端だとされる︒
この反乱のベトナム史に有する意義は︑計り知れないほど大きいが︑
法制史研究の観点からこれを注視すると︑この乱の直接的契機と
なった﹁以法繩之﹂の﹁法﹂の意味が問われなければならない︒さ
きの別稿で︑この﹁法﹂は中国の法そのものであったと述べたとこ
ろ︑前記奥崎氏より︑﹁以法繩之﹂の﹁法﹂は︑徳に対応するもので︑
新しい法︑従来とは違う法を意味するものではない○始皇帝のよう
に法のみを重んじて仁恩和義のない行為︑光武帝のように徳を施す
政治に反する行為を意味するにすぎない︒そして︑﹁繩﹂の対象であ
る﹁之﹂も詩索のみを指すとは限らない︑との批判を受けた︒なる
ほど︑奥崎氏が指摘した﹁以法繩之﹂は﹁施之以徳﹂に対応した表
現であり︑蘇定は﹁徳を施す政治に反する行為﹂﹁法のみを重んじて
仁恩和義のない行為﹂を行ったにすぎず︑このとき︑彼は新しい法
をはじめて導入したのではないかもしれない︒だが︑この蘇定は︑
酷吏型の官僚︑﹁以法繩之﹂型の太守として名目的に存在したわけで
はなく︑現実に︑雛将らのなんらかの行為︵抵抗︶を﹁法﹂で裁き︑
これが反乱の主たる動機となったのであり︑詩索が﹁法﹂の対象と
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ なったことも間違いない︒そしてその際︑蘇定が依拠した﹁法﹂は︑ベトナムの固有法・慣習法ではなく︑漢法または漢法的規範であったと筆者は考える︒前掲﹃喜甸幽霊集録﹄や﹃欽定越史通鑑綱目﹄外紀︑巻一によると︑蘇定は﹁貧暴﹂であったと評されているが︑在地の慣習法もしくは旧来の統治法︑すなわち旧制を無視した行動も﹁貧暴﹂と評される要因だったのではなかろうか︵前掲﹃後漢書﹄永和元年の引用文にみえる旧約の無視を想起されたい︶︒また︑このたびの義挙の指導者徴側が王を自称した後︑﹁復交趾・九眞二郡民二歳調賦﹂︵﹃水経注﹄巻三七所引﹃交州外域記﹄︶とあって︑二年間の賦税を免除したことが記載されているが︑このことから︑もはや当時は﹁且以其故俗治︑母賦税﹂の状況にはなかったこと︑蘇定以前になにほどかの収奪が行われていたか︑あるいは蘇定が従来の取り決め︑つまり旧制を超えた収奪を課していたこと︑などを指摘することができる︒ニフした蘇定の政治に抵抗した雛将らが﹁法﹂によって裁かれたのである︑フが︑繰り返すよ︑フに︑この﹁法﹂は︑ベトナムの社会と人々を日常的に律していた慣習法ではなく︑その地に根ざしていた秩序と慣習法に依拠した雑将らにとっては容認しがたい﹁法﹂︑つまり漢法または漢法的規範であったろ︑フと推断する︒反乱弾圧後︑馬援は漢律と越律の合致しない十余事を条奏したが︑この戦後処理は︑﹁法﹂をめぐる問題がこの反乱の動因であり︑雛将らにとって︑この﹁法﹂は︑刑罰の軽重にかかわる量の問題ではなく︑自己の存立にかかわる質の問題として受け止められていたことを暗示する︒
徴姉妹挙兵の直接的原因となった﹁法﹂を以上のように解するこ
一一ハーニ
とが認められるとすると︑この反乱は︑太守の旧制無視と﹁以法繩
之﹂行為に対する不満の爆発が主因であり︑在地の秩序と慣習法に
依拠した雛将らの漢法導入に対する抵抗という史的性格をも帯びて
いたとみられる︒蘇定の﹁法﹂は︑伝統的社会秩序を基盤とした雛
将と難民などに異質のものを感じさせ︑とくに︑雛将らの有力者に
は︑慣習法に支えられた自己の存立基盤を脅かす危険な攻撃として
意識せしめ︑自らの存立をかけた深刻な戦いに立ち上がらせたので
坐︿︾ブ︵〆︑旬ノ◎
側馬援の政治
徴姉妹を指導者とする起義集団を弾圧した直後︑馬援は︑戦後処
理と郡県支配のための諸政策を断行した︒本稿で問題となるのは︑
越律と漢律の矛盾条奏︑旧制の申明ならびに馬将軍故事の三点であ
る︒これら三点を示す典拠は︑次の﹃後漢書﹄巻二四︑馬援伝の一
節である︒嶋南悉平︑援奏言︑西子縣戸有三萬二千︑遠界去庭千餘里︑諸
分爲封溪・望海二縣︑許之︑援所過柳爲郡縣︑治城郭︑穿渠灌
概︑以利其民︑條奏越律與漢律駮者十餘事︑與越人申明奮制︑
以約束之︑自後賂越奉行馬將軍故事
まず︑越律と漢律の駮うもの十余事を条奏した点であるが︑両律
を対置した形式で書かれていることからも分かるように︑この越律
なるものは︑特定の狭小な一地域にのみ通用していた法ではなく︑
ある程度の広がりを持った地域社会で一般的に適用されていた法で
︵泥︶あったと推定される︒馬援の条奏した越律を成文法と見倣すべトナ 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
︵羽︶ム史家がいる︒その可能性が皆無とはいえまいが︑当時のベトナム
に成文法が存したのか否か︑いまは速断を避けておきたい︒そもそ
も︑徴姉妹の反乱の発端が﹁法﹂をめぐる問題であっただけに︑越
漢両律の矛盾点の報告とその決裁が急務とされたのであろう︒両律
の駮うもの十余事とあるから︑統治上の基本に属する諸条項︑とり
わけ︑双方の法において顕著に異なる事柄が上奏されたのであろう︒
これは憶測にすぎないが︑刑罰の種類と適用範囲の違い︑賠償制に
おける相違点︑土地制度・家族制度や男女の地位をめぐる法的取り
扱い上の差異などが報告されたのかもしれない︒洛陽からの決裁に
ついては知る由もないが︑旧制の申明という文言から判断しても︑
後漢がある程度のベトナム法︵越律︶の存続を公認したことは確か
であろう︒しかし︑奥崎氏も述べておられるように︑越律の承認と
引き換えに︑後漢はその裁判権を完全に掌握し︑漢法の厳密な実施
をベトナム人に確約させたであろうし︑後漢による直接支配が可能
となったことも確実である雪フ︒なお︑後漢が直接支配の法的武器を
確実とした反面︑越律によりベトナム人が抵抗の拠点・武器を手に
入れたという奥崎氏の見解は︑検討の価値がある貴重な問題提起と
︵鯉︶して受け止めておきたい︒とにかく︑馬援の条奏に始まる措置は︑
この反乱の発火点となった﹁法﹂をめぐる対立・摩擦を解消し︑ベ
トナム支配のための原則︵統治法︶を従前以上に明確にし︑漢法︑
とくにその刑罰体系をこの地に深く浸透させ︑裁判権を掌握するた
めの体制を確立することを企図したものであったと思う︒
既述のごとく︑馬援が越人と約束した旧制は︑錫光︒任延らの統
治法︑あるいは前漢時期の統治法を指し︑このたび︑蘇定がこれを
一六四
無視した暴政を行い︑越人の反発を買ったため︑彼らと改めて約束
したものであろう︒こう考えると︑馬援による十余事条奏と旧制申
明を︑ベトナム人の固有法を寛大に取り扱い︑尊重するの意とする
のは︑馬援の政治全体からみた場合︑充分に適当な解釈とはいえな
︵妬︶かろ︑フ︒
さらに︑馬将軍の故事であるが︑当時の故事︑ことに晋の故事に
関しては︑①はじめは定法なくして︑官府現場に生じた慣行方式が
法規として認定されたもの︑⑧随時の詔令がそのまま定則化したも
の︑③恒久的な令として発布されたもののなかから︑官府の現場に
備フべき細則規定を抜き出したもの︑とい︑フ見解が提示されていて︑
︵妬︶参考になる︒馬援の故事も︑前の見解のいずれかに該当するのでは
ないかと推測できるが︑彼の︑律に関する条奏の事実︑再確認され
た旧制を含む統治の原則・方針などが故事と称され︑雛越の人々に
奉行されたのである︑フ︒
前漢武帝以来の漢によるベトナム支配は︑郡県体制という支配の
枠組みには変化がなかったが︑その支配方法は︑故俗︑旧制︑そし
て﹁法﹂なる語によって示され︑この時代の全体を概観すれば︑漢
法による支配に向かって動いてきた︒そして︑究極的には馬援の政
治に至って︑ベトナム史は中国法による本格的支配の時代に入るこ
ととなった︒ただし︑早くも馬援の十余事が示すように︑中国諸王
朝は︑越律を完全に否定することができなかったし︑また︑後述の
ように︑各々の法を機械的に導入し︑無条件に適用することに終始
したのではなかった︒一方︑地域社会におけるベトナム人の日常生
活では︑中国法の浸透により︑伝統的な法的慣行あるいは慣習法が
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ その影響を受けたであろうけれども︑それらが完全に破壊されたとはとても考えられず︑むしろ︑中国法による支配を否定しない限度内で︵ときには軋礫が生じたであろうが︶︑それらが命脈を保ち続け︑かつ発展したと思われる︒こうして︑外来の中国法が統治法として全体を覆い︑中国の統治機構が強弱さまざまな形で機能しながら︑地域の人々の日常的生活などにおいては固有の慣習法も存続するという︑いわば重層的に全体を構成する本格的な北属時代へ進んだのである︒
①前期I後漢から魏晋南北朝まで
馬援以後のベトナムは︑全体として中国統治法による支配の対象
地域となった︒後漢代のベトナムでは︑鉄製農耕の導入︑牛耕の使
用︑人口の増加︑南海の珍産を求めて到来する商人の経済活動など
の社会的諸現象が現出したが︑これらの諸現象の背景に︑ある程度
の農業生産力と流通経済の発達を想定することができる︒一二世
紀にかけてこの地に点在する漠式碑墓は︑かなり富裕な階層が出現
していたことを裏付け︑当時︑ベトナムがかかる階層を生存させる
経済的力量を有していたことを知らしめる︒このような発展過程に︑
後漢の官僚が現地に赴任し︑幾多の中国人が移住・定着したのであ
り︑移住定着者のなかには︑前記の漢式碑墓を造営し得るような力
︵︶を持つ者もいた︒中央から派遣された官僚が漢法の枠内で生活し︑
これに規制されて行動したのに対し︑移住定着者は︑その全行動範 三中国歴代諸王朝支配下の法
一六五
囲がなにからなにまですべて漢法で律せられたのではなく︑地域社
会の未知の環境に慣れ︑従来の伝統や慣習を理解し︑それらに順応
して行かなければならなかった︒おそらく︑その地域の伝統とか慣
習を無視した定住は困難であったろ︑フ︒しかし︑見方を変えると︑
中国人の赴任・移住・定着は︑ベトナムに漢法を導入する人的基盤
を形成し︑慣習法自体にも少なくない影響を及ぼす結果となった︒
また︑地域社会においても︑漢法を理解し得る力量を備えた人士が
出現するようになるが︑こうした人士の登場と漸増も︑漢法継受の
︵羽︶一基盤を形成したであろう︒一般に︑北属時代における中国法の導
入は︑統治法の強制的適用という形で行われたが︑それと同時に︑
屯国法を理解する人的基盤の形成がこの導入を容易にする↑素地と
なったことも看過し得ないことであろう︒
ところで︑後漢から南北朝までの時期は︑中国法がベトナム支配
のための基本的統治法であった︒これは︑自明のことのよ︑フにも思
えるが︑念のため確認しておかねばならない︒﹃晋書﹄巻三︑武帝泰
始五年︵二六九︶五月辛卯朔の条に︑﹁曲赦交趾・九眞・日南五歳刑﹂
とあり︑ベトナムにいた五歳刑の徒刑囚に恩赦令を発した事例がみ
える︒これは︑西晋の刑罰がベトナムにも適用されていたことを示
唆する史料である︒よく知られているように︑他民族支配において︑
支配者側の刑罰の果たす役割はすこぶる大きいが︑このベトナムに
も西晋の刑罰が適用されていたと考えられ︑受刑中の徒役囚が存在
した︒
同じ統治法のなかの収取制度をみると︑中国諸王朝は︑国内法の
一律的適用を避け︑現地の実情に即応した︑いわば特別規定を適用 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
した︒たとえば︑西晋支配下においては︑国内と同様に戸調・田租
などの諸収奪を原則として実施したが︑戸調については︑辺郡のベ
トナム︑あるいは夷人の戸に対し︑内郡とは異なる規定を設けてい
た︒ベトナムにおける戸調の適用については︑別稿で蕪雑な推論を
︵羽︶開陳したので︑改めて詳しくは繰り返さないが︑これを要約すると︑
西晋は︑一般人民に適用する収取制度をこのベトナムでも実施した
が︑その適用方法に創意工夫を凝らし︑戸籍に登載された編戸であ
るか否か︑現実の地域的差異などを勘案し︑収奪量や収納方法に差
異を設けた規定を適用した︒この規定は︑西晋の基本的収取制度の
枠内からはみ出たものではなく︑西晋側が郡県民の掌握情況や地域
的差異を配慮した規定であった︒そして︑この格差を前提とした収
取制度は︑中国王朝側が秦漠以来の他民族支配という歴史的経験を
基礎にして創始した産物であったといえよう︒
だが︑このよ︑フな収取規定が全ベトナムで常時︑実施されていた
とはかぎらない︒三世紀の蒔綜の上疏文中に︑﹁然而土廣人衆︑阻瞼
毒害︑易以爲凱︑難使從治︑縣官驫摩︑示令威服﹂︵﹃三国志﹄巻五
三︑蒔綜伝︶とあり︑また︑晴代の嶺外に関する記事ではあるが︑
﹁臨時折課市取︑乃無恒法定令︑列州郡縣︑制其任土所出︑以爲徴
賦﹂︵﹃晴書﹄巻二四︑食貨志︶と述べ︑郡県の治所から隔絶された
地域や山岳地域では︑規定通りの収取はきわめて困難であり︑正規
の収奪が不可能な場合も少なくなかったであろう︒
一方︑ベトナムの在地では︑固有の慣習法・法的諸規範が人々の
日常生活を律していたと想定される︒後藤均平氏が中国支配下にお
けるベトナムの自立過程を活写されたように︑五世紀には﹁土着有 一一ハーハ
る中国法が統治法として君臨したが︑実際には︑現実的統治との関
係上︑その国内法を部分的に修正・改変した形式で適用される場合
があった︒また︑古代イングランドのブリトン人が︑﹁自らの慣習法
がローマ人による統治と矛盾しない限りは︑それを遵守することを
︵犯︶許されていた﹂ように︑中国歴代の統治権力も︑現実の慣習法や行
為規範を全面的に禁止または抹殺する行動には出られなかったと考
える︒中国の法体系自体が公法的規範を主としていて︑私法の分野
は︑大綱を規定するのみで︑その枠を越えない限り︑地域社会に特
︵詔︶有な慣習を容認していたことを想えば︑ベトナム在地の慣習法など
は︑地域や村落のなかで人々の生活を日常的に規制する力として機
能し︑統治法たる中国法と鋭く抵触しない限り︑そこで生き続けて
︵弧︶いたと推測する︒北属時代のベトナム人にとっての法は︑なにも統
治法としての中国法だけに一元的に限定できるものではなく︑とき
にはこれを下部で支え︑ときにはこれと摩擦を起こす慣習法または
その類が存在し︑それが︑ベトナム支配のための基調となった統治
法を頂点とする法の全体構造の基底で有効に生命を保ち続けていた
と思︑フのである︒
②後期I晴から唐へ
唐朝支配下のベトナムについては︑安南都護の支配は︑西暦一世
紀以来︑中国王朝側が指向し︑推し進めてきたところの︑郡県体制
による収奪支配の理念と枠から大きくはずれてしまい︑従来とは
違った統治l驫潔方式を打ち出したことにその特徴があり︑それは︑
在地住民数百年の抵抗のなかで︑ついに直接支配を放棄したところ 中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
の︑中国のベトナムにおける最後の支配形態であった︑とする見解
︵弱︶があり︑その一方︑唐代においては︑中国文化がそれまでより以上
に︑ベトナム人社会に浸透していったのも否めぬ事実︑とする見解
︵妬︶がある︒両者は矛盾した見解ではなく︑一方がベトナム民族の自立
運動の歴史を前進的に把握しよ︑7とするのに対し︑他方は︑仏教な
ど中国文化がベトナムに深く浸透したことを史実を通して明らかに
したものであり︑両者相共に︑この時期の法の歴史を考察するうえ
で示唆するところが多大である︒
晴朝を継承して国家権力を掌握した唐は︑初め︑従来の支配形態
︵晴の交州総管府︶を踏襲し︑ベトナムの地に交州総管府︵六二二︶︑
交州都督府︵六二四︶を置いたが︑やがて︑高宗の調露元年︵六七
九︶になってこれを安南都護府に改めた︒﹃新唐書﹄巻四三上︑地理
志七上︑嶺南道︑安南中都護府︑同書︑巻四三下︑地理志七下︑鶉
摩州の記載に従うと︑安南都護府下には︑いわゆる正州扱いの一二
州︵交州・陸州・峯州・愛州・罐州・長州・福禄州・湯州・芝州・
武表州・演州・武安州︶と驫摩州としての徳化州以下四一の州が設
︵師︶けられた︒唐代の正州と驫摩州とでは支配方法に差異があり︑通常︑
正州は︑唐の官僚の統治参画のもと︑唐法が統治法として君臨する
建て前となっていたのに対し︑唐が懐柔の手段として設けた驫潔州
は︑名目的な州にすぎないものがほとんどで︑そこではその地の自
治が認められ︑固有法が支配していた︒﹃新唐書﹄が数えた安南都護
府下四一の驫潔州は︑固有法の支配する世界であったから︑ここで
格別に云々する必要はあるまい︒
さて︑前掲一二州に対する統治についても︑地域差があったと思
一六八
われるが︑全体としての統治法は唐法であったろ︑フ︒ここでは︑唐
律が実施されることになっており︑また︑節婦に対する侍丁賜与の
事例が示すように︑唐帝の恩徳と儒教的家族原理にかかわる令も適
︵銘︶用されたが︑収取制度の場合には︑租庸調制の︑いわば特別規定が
適用され︑国内の一般的収奪法に若干の改変を加えた規定が設けら
︵釣︶れていた︒さきに別稿で論じたように︑安南都護府下︵正州︶では︑
租税収奪のために戸等差額制の原則が適用され︑夷僚の戸︵怪戸な
どとも称される︶の範嶬に含まれる者は︑武徳二年︵六一九︶の制
文に︑﹁若夷僚之戸︑皆從半輸﹂︵﹃通典﹄巻六︑食貨︑賦税下︶とか︑
﹁︵劉延砿︶轄安南都護︑薑偲戸歳半租︑延帖責全入︑衆始怨謀凱﹂︑
︵﹃新唐書﹄巻二○一︑劉延祐伝︶とあるように︑半租・半輸の額を
納入することになっていた︒日野開三郎氏は︑最近の論考において︑
この半輸は華化過程の原住夷猿に対する税制上の経過措置であつ
︵棚︶た︑と述べておられる︒ベトナムの夷猿に対する収奪が半租・半輸
であったという事実は︑この地域において︑唐法が内地並みに貫徹.
機能することが容易でなかったことを物語る︒
ここで︑別の角度から︑唐代ベトナムの社会情況を瞥見してみよ
︑フ︒近頃︑ベトナムで公表された鵺與の﹁神祠碑記﹂のなかに︑蠕
興の父の橋閻卿が墨漢を退治した逸話が収められている︒それによ
ると︑唐林州︵ソンタイ省︶では︑晴の仁寿癸亥︵六○三︶の頃か
ら一人の墨漢が出没し︑妖怪に化け︑人々を迫害していたが︑これ
に対し︑地方の牧守は為す術を知らず︑なんら有効に対処できなかっ
た︒これを退治した人物が間卿であり︑彼が百姓を救済した︑とい
︵弧︶う︒偲興の祖先に関する記述には︑嶺南の首長として有名な嬬霊の
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶ 事蹟︵﹃旧唐書﹄巻一︑高祖紀︑貞観八年︑同書︑巻一○九︑鵺霊伝︑
﹃新唐書﹄巻二○︑潟器伝︶に仮託した部分があり︑これをすべ
て歴史的事実として安易に認めることはできないが︑この墨漢退治
の逸話は︑当時︑唐の官僚と法による統治が現地で充分には貫徹し
ておらず︑むしろ地域社会の日常的秩序は︑橘氏のごとき有力者の
指導により︑実質的に維持されていたことを坊佛させる︒唐側の立
場と論理によれば︑かかる秩序は︑混乱と無法以外の何物でもなかっ
たである﹄フ︒その頃のベトナムでは︑都護府城︑州の治所およびそ
れらの近辺を除き︑前記の逸話が物語るような社会情況が存在して
いたことであろう︒こう考えて︑前掲﹃新唐書﹄地理志により一二
州の戸口数を数えると︑交州︵戸数二四二三○︑口数九九六五二︶︑
陸州︵戸数四九○︑口数二六七四︶︑峯州︵戸数一九二○︶︑愛州︵戸
数一四七○○︶︑罐州︵戸数九六一九︑口数五○八一八︶︑長州︵戸
数六四八︶︑福禄州︵戸数三一七︶︑湯州︵記載なし︶︑芝州︵戸数一
二○○︑口数五三○○︶︑武莪州︵戸数一八五○︑口数五三二○︶︑
演州︵戸数一四五○︶︑武安州︵戸数四五○︶とあって︑安南都護府
の掌握した戸口数は︑州により差異があり︑また︑これらの州のな
かには︑一般に︑正州に付せられる一字州名以外に︑驫潔州に付せ
られる二字州名の州が三州も含まれるなど︑一口に一二州といって
も︑実際には︑戸口をほとんど掌握し得ない州が存したことも納得
できるのである︒
唐の天宝一二載︵七五三︶︑日本の遣唐大使藤原清河が唐からの帰
途︑罐州︵杉本直治郎氏によると︑徳寿の東方海岸︑現在のヴィン
の東南海辺︶に漂着したが︑そのときの様子が︑﹃古今和歌集目録﹄
一六九
中国支配下のベトナム法試論︵片倉穰︶
ママ所引の﹃国史﹄に︑﹁︵前略︶属緑山構逆︑篁盗蜂起︑而夷僚放横︑
ママ胡殺衆類︑同舟遇害者︑一百七十餘人︑僅遣十餘人︑云々﹂と記さ
れ︑まるで︑罐州が無政府状態の様相を呈していたかのように書か
︵蛇︶れている︒ベトナムに漂着した清河一行の惨憎たる体験は︑ある意
味で安南都護府下の統治情況を我々に教えてくれる︒唐の戸令︵開
元二五年令︶によると︑外国からの渡航者・漂流民に対し︑漂着地
の官吏は︑彼らに衣食を給し︑その実状を上申して処置することに
なっていた︒清河らの体験は︑このよ︑フな令の規定︑ひいては唐法
の諸規定が︑このベトナムの地で充分に機能していなかったことを
︵⑱︶ほのめかす︒まさにこの時期において︑﹁法式備定﹂の唐によるベト
ナム支配は︑点と線の統治であったと形容することができ︑その支
配力を全面域で行使できる状態ではなかつたのであり︑したがって︑
唐法の行き届かぬ世界で︑固有の慣習法が現実の秩序維持のため
に作用していたであろうことを推測するのは許されるである︑フ︒つ
いでに付け加えると︑罐州で清河一行が悲惨な災難に遭ったことを
もって︑理由もなく︑その頃のベトナム人がこのような行為をして
いたと短絡に解釈してはなるまい︒なぜなら︑彼らは︑華夷意識で
武装した日本の古代貴族が考えたよミフな群盗でもなければ︑ほしい
ままに衆類を劫殺する性質の夷僚でもなく︑彼らには︑かかる事件
を惹き起こす理由や状況があったである︑フからである︒これも憶測
の域を出ないが︑彼らのなかには︑外敵の侵略に対する警戒心があ
ったかもしれないし︑また︑古代日本などの沿岸住民の間に存した
ように︑遭難物を寄船・寄物として沿岸地の収益を得分と見倣す自然
発生的慣行︑すなわち︑遭難物占取の慣行が︑ここベトナムの沿岸 .︵︶住民のなかにも存在していたかもしれない︒
墨漢退治の逸話から連想するのであるが︑在地では︑嬬氏のごと
き有力者が法的諸問題をも事実上︑指導または処理していたのでは
ないか︑と筆者は推考する︒前述の通り︑安南都護府の統治能力に
は限界がみられ︑かつ︑ベトナムの多くの人々は︑唐の官僚に全幅
の信頼を寄せてはいなかったから︑日常生活のなかで生じた紛争の
調停・和解などは︑在地の有力者が中心となり︑現実的に解決・処
理していたと思われる︒もとより︑彼らを中心とした法的処理は︑
唐法を唯一の規準として行われたのではなく︑可能な限り︑地域の
慣習法に準拠し︑あるいは︑これを考慮して実施されていたことで
あろう︒そして︑有力者のなかには唐の官吏となった者もおり︑そ
れ故︑地域の有力者であると同時に唐の官吏でもあるという二重の
性格を有する者も現実に存在した︒彼らのなかには︑中国の制度と
文物を学ぶ過程で︑たとえば慣習法のみが最良の法だと固定的に考
えず︑しだいに中国法︑とりわけ唐の律令の体系的内容と普遍的性
格に注目する者も出現していたことであろう︒
ベトナムは︑中国による一○○○年の支配という厳酷な歴史的現
実を克服し︑自らの手で独立を達成することに成功した︒独立以後︑
複雑な階級的矛盾による自己運動を土台とし︑北属時代までの史的
遺産を継承し︑かつ︑北方中国との不断の緊張関係と南方チャンパ
などへの膨脹的対外関係とが交錯するなかで︑ベトナムは独立時代 むすびl中国法の継受についてI