• 検索結果がありません。

(1)W.A.Lee,ThirtyYearsinCoal1917−1947−A Review of/the Coal Mining IndustryunderPrivate Enterprise,1954.pp.9−10.炭鉱業は,いうまでもなく,主要原

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "(1)W.A.Lee,ThirtyYearsinCoal1917−1947−A Review of/the Coal Mining IndustryunderPrivate Enterprise,1954.pp.9−10.炭鉱業は,いうまでもなく,主要原"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

・−79−  

79  

イギリス炭鉱業の基礎構準  

山 本 筒 一   1. は じ め かこ  

第1次世界大戦勃発までイギリス炭鉱業は,「真に偉大な歴史」をもち,「世界  

(1)  

を指導する」産業の1つに数えられていた。19世紀初頭にほ約1,000万トンと   推定される年間出炭高ほ,1855年に 6,400万トン,1880年に.1億4,700方ト  

ン,1900年に2億2,500万トン卑増加の−一億をたどり,1913年には,史上最高   の2億8,700万トンを記録する。この急速に発展した出炭高は,初期にほ産業   革命にともなって主として国内で消費されたが,19世紀後半期には一・連の工棄   諸国が出現し,交通手段の巨大な拡張をみるにいたって,石炭輸出貿易が飛躍   的に増大した。石炭輸出高底1855年には約500万トンでイギリス総出炭高の   7.7%に.すぎなかったが,1913年にほ9,800万トン,つまりイギリス総出炭高の  

(2)  

34%に達した。世界石炭総輸出高にしめるイギリス石炭輸出高(バンカー・炭を   ふくむ)をみれば,1912年に47%弱で,なおドイツの約公.7%,合衆国の約  

(B〉  

14.7%を圧倒していた。   

しかし,他方においてイギリス炭鉱業ほ多くの構造的矛盾をもっていた。炭   田の地域的分散性,鉱区の私的所有,多数の零細炭坑,零細企業の存在,械機  

(1)W.A.Lee,ThirtyYearsinCoal1917−1947−A Review of/the Coal Mining  

IndustryunderPrivate Enterprise,1954.pp.9−10.炭鉱業は,いうまでもなく,主要原    料生産部門としてご,イギリス産業とその植民地支配の強固な燃料的基礎であった。この   

点に.ついで,例えば,A・マーーレヤル(A・Ma工Shall)は,つぎのように述べている。「石炭    と鉄払 イギリスの覇権の本源的原因ではなかったが,世界史紅おける覇権を無比なら    しめたすべては,部分的にそれらに.依存する。それらがなけれはイギリスは,せいぜい   

オランダのそれくらいの慶題を少し大規模紅達成しえたにすぎないだろう」(A・MaISball・  

IndustryandTrade,1919,p.60)。  

(2)J.E。Williams,TheDerbyshireMiners,1962,P・173・  

(3)相沢与−・「独占形成期のイギリス炭鉱業における石炭流通・市場と資本間競争につ    いて−イギリス炭鉱業の経済構造(2卜」佐賀大学『法経論集』第14巻第1号;137−8ぺ−   

㌔。   

(2)

第43巻 寛1・2・3号  

l一 β0 一一   80  

化の立遅れ,劣悪な労使関鱒などイギリス産業体制のもつ矛盾を集中的に表現   していた。その結果,炭鉱労働者1人当り年間出炭高ほ低下しつつあり,1879  

−83年紅平均1人当り319トン,1889−93年に・282トン,さらに1909⊥13年紅257   トンへと低下した。世界総出炭高にしめるイギリス出炭高の比率も,1875年に  

(4)  

約47%であったが,1900年ほ約30%,1913年には約22%へと後退し,国際比較   に・おいても20世紀に入るとアメリカに抜かれ,1917年に・はドイツにも劣る結束  

となった。   

本稿ほ.,このように・矛盾を内包しながら発展をとげたイギリス炭鉱業におい   て−,資本主義的蓄積の叫・般的法則がその特殊性に媒介されながらどのような形   態、で実現されるかを明らかにしたものである。今後予定しているイギリス炭鉱   労働運動の研究のためにほ,炭鉱業における資本および労働力の存在形態の分   析が基盤となり,出発点となるからであるニイギリス炭鉱業についてほ.,すで   に多くの文献があるにもかかわらず,私の利用できたのは.そのごく一部にかぎ   られており,本稿ほきわめて不充分な覚書であることをあらかじめおことわり   しておきたい。  

2.主要炭田の自然的,市場的特質  

イギリス炭鉱業の主要な特質の1つは,炭田が全国に分散し,しかも各炭田   の自然的条件に著しい差異があることである。炭鉱業において−は,地下に埋蔵   された炭層の条件が,生産された商品=石炭の量.および質,生産力の発展段   階,労働条件さらに市場条件をも規定するために,各炭田の生産条件を検討し   ておくことはきわめて重要である。J.W.F.ロク(J・W・F・Rowe)ほ,イ   ギリス炭鉱業を単一・産業とみなすことに疑問を投じ,少くとも第1次大戦前に  

(5)  (6)  

は各炭田を個別的に研究するととが最善であろうと述「ている。欝1表は,  

1889−1913年の期間のイギリス主要炭田の生産高および就業者とそれらがイギ  

(4),.E.Williams,OpL.Cit,p.173.  

(5)J.W.F.R6we,WagesirltheCoalIndustry,1923,p.6.  

(6)ibidけ,p.14.以下,各地区の叙述私 ことわりないかぎり夜とんど本署第2章第2節   

匡依拠している。   

(3)

イギリス炭鉱業の基礎構造  

81    −βJ−  

リス全体にしめる比率を表示したものである。おれわれは,このように著しい   不均等発展を示す各炭田を6グルーープに.概括し,それぞれの特質を素描するこ  

とから始めたい。  

〔1〕東 北 地 区   

炭層の威存状況をみれば,ノーサンバランド(Northumberland)とグラム  

(DuIbam)の2つの州にまたがる大炭田があり,当時約25の炭層が採掘中で   第1表 主要炭田の生産および雇用数の割合  

雇用数増  

地   区  捏墓乏霊譜蛋讐 き (%)   生産増加 割合(%)   加の割合 (%)  

1弼年い913年   1889− 1913年  1889− 1913年    ノ−・サンバランド    5.3  5.7    69  119    グラム    18.3  15.9    37  104    カンパ−ランド    1u5  0…9    33   

6   

ランカレアとチーエレァ    13.5  9.4    10    45   

ノース・クーエ−ルズ    1.7  1.3    46   

ヨ−クレア    13  99  13   

4。0  4.7   

21      −血3  16.7  

ノチ∴/ガムレァ   88  11   

ダービレァ    6.1  6.9    80   89  

ノー.ス・スタフか−ドンァ    2.9  \ l   

5●5  

3  

57   サウス・スタフォ・−ドレァ    5.6  ノ 

クォ−ウィクシァ    1.0  i.9  198  270   

ライセスタレァ    0.8  1.2  137  125    サマセットレア    0..5  0.5    43    30    フォレスト・オブ・ディ−・ン    0.8  0.7    26    24    サウス・クェ−ルズ    17.0  21.8  102  133   

ラナ・−クレア   

8.0  6.7    33    53   

雇用数は,「炭鉱規制法」(The Coalmines Regul?tion Acts)の対象とす  

る者を示す。   

(4)

第43巻 第1・2・3胃  

ーβ2 −   82  

あった。炭層は,断層で切断されることが少なく,厚さが均等で傾斜が少なく   水平に戚存レて・いた。炭質は,ノーサツバランドにおいては硬炭(baIdcoal)  

が多いとはいえ,かなりの巌の軟炭(softcoal)も生産されたのに対し,ダラ   みでははとんど硬炭又はスチ十ム炭が生産された0ノ・−サンバランド炭鉱の全   販売高の8割は海外又はイングランド南部に供給され,他の2割は主として有   煙炭であり,地方市場で消費された。他方グラムではその石炭生産高のはとん   どを輸出市場に依存していた。したがって,一・般に東北地区ほ輸出貿易に依存   し,外国貿易に.よって高度に変動的であった。この市場条件の特殊性が,この   地区の労働条件や労働運動を他の地区からわかつ基本的要因となって∵いた。   

東北地区.は,古い歴史をも?て∴おり,すでに1354年に開坑が記録されてい   る。スウィーi>p・(P.Sweezy)も「19世紀にいたるまでイギリス人にとって  

『炭鉱業』とは,とくにグラムおよびノーサンバランド両州の採炭事業を意味し  

(7)  

た」と述べている。1889年においても東北炭田の優位は続き,サウス・ク.エー   ルズ(South Wales)よりも年間1,100万トン多く,ヨークVア(Yorkshire)の  

2倍を生産した。1914年まで両州の生産は着実に増加し,とくにグラムよりも   ノーL−−サンバランドの方がより急速に発展したが,その年までにサウス・クェー  ルズに首位をうばわれヨL−・クレアもダラムよりも多く生産していた。その相対   的停滞の原因は,サウス・スタフォrドンア(South Staffordshire)のよう   に炭層が渦渇しつつあったためではなく,新竪坑の開坑が少なく,旧い鱒坑の   拡張に」練ったためである。  

〔2〕東中部地区   

北ミッドランド大炭田ほ,ぺニン山脈(the Pemines)の東に横たわり,  

主としてヨーークレア(Yorkshire),ダービレア(Derbyshire)およびノッチ   yガムVア(Nottinghamshire)をおおう,それほ,900平方マイルに‥およぶ   西部の「露頭炭田」′ と岩石中の約2,000平方マイルにわたる「かくれた炭田」  

とから成っている。この地域には第1級のエ業用および家庭用石炭が豊富であ  

(7)P.M.Sweezy,Monopoly and CompetitionintheEnglishCoalTrade1550−1850,  

1938,p.3   

(5)

イギリス炭鉱業の基礎構造  

83    −ββ−  

(8)   

るが,すべての層が低灰分と燐含有量をもち,コークスには不適である。  

まず,ヨークレアほ,西部地力と南部地方との2つに区分でき,西部地方が    最初に発達した。西部炭田は,北較的薄かったが浅く戚存していたため,当時    さえ露頭掘りが可能であったが,東部でほ炭層ほ厚かったが地下深く厳存して    おり,ドンカスター・(Doncaster)周辺でほイギi)ス最深の1,000ヤ.,ドの炭坑   

もあった。ヨークシア炭鉱業の発展は,ランカレアよりも遅れて−,クエスト・   

ライダィグ(West Riding)金属工業の産業革命とともにはじまった。凍南部    炭田ほ,炭坑械機科学の発展に.より採掘が可能となり,新炭坑のはとんどが大    規模企業であり,分業,近代的設備および採炭の機械化が進んでいた。前掲欝  

1表においてヨークシア出炭高が1889年以来2倍紅増大したのほ,主として新    しい大規模企業をもつ南部の生産増大によるものであった。労働条件の近代化    も急速で,作業方牲の変化も激しく,2交替制がいちほやく採用され,賃金も南    部でほかなり高い水準にあった。生産の大部分は,周辺地帯およびミッドラン    ズ工業地帯で消費されたが,後にはハソパ一諸捲からの輸出貿易も発展するよ   

うになった。   

ダービレア炭鉱業は,19世紀初期,鉄工業の急速な発展の、つくりだす地方市場    と後に鉄道の出現に.よる.ロンドンおよびその他の市場の開放によって大きく発   展した。,ダービVア「プライツ」(Derbyshire Brights )とよばれる光沢炭  

(brightcoal)ほ,イギリスに・おける最長の家庭用炭の1つとしての名声を   確立しており,80年代初めには,なお主として家庭用およびガス用炭を生産し   ていた。他方,ノッチ・ンガムレアでは,軟炭およびボイラー炭が生産された   が,もっぱら需要の大きくない地方市場に∵供結したため急速には発展しなかっ   た。したがってこの両州の取引は,季節紅よって変動し夏期た.ほ不振であっ   た。しかし,1876年阻良質のスチ−ム炭である「極上硬」炭(Top王IaId)の   炭層が,ノッチLンガムVアのり〜・ン谷(the Leen Valley)で開発されたのに   続いて,1883にV十ブブリッL>会社(the Sheepbridge Company)がグラッ   プクェ)L/(Glapwell)開坑で同一・の炭層に達した。しかし,極上硬炭がダービ  

(8=.E.Williams,Op.Cit。,p.23   

(6)

ー ふ≠ −−   第43巻 寛1・2・3号   84   Vアおよぴノッチツガムシアの州境,とくに.マンスフイ・−−ルド(Mansfield)地力  

(9)  

で広汎に開発されはじめたのは,90年代初期のことであった。新炭坑ほ有利な   自然的生産条件に・もとづいて大規模経営と近代的設備を採用したため生産およ   び市場も増大した。1913年まで軋ダービシア炭の約25%,ノッチンガムシア炭   の50%以上が,極上硬炭であった。榛上硬炭の開発は,これら諸州の取引を以   前より季節性の少ないものに.した。  

〔3〕西中部地方   

西中部地方にほ,ランカレア(Lancashire)から南部ミッドランドにいたる   炭田がふく′まれる。まず,ランカレア炭田は,各地区で炭層の厚さおよび数を   異にし,断層があり,炭層の傾斜も急で,深さもきわめて多様であった。旧炭   坑の上層炭層の多くが滴渇しつつあるので生産コストは不可避的紅上昇しつつ   あるが,若干の炭坑でほ同じ竪坑からいくつかの炭層で作業することができ   た。ラッカシア炭田の発展ほ,産業革命の展開と平行して−おり,綿業の拡大は   械機への需・要,したがっで又石炭紀たいする需要をつくりだした。事実,ラン   カレア炭は,ランカレア産業の必要のために生産されており,わずかなアイル   ランド向移出を除き,ほとんど輸出されなかった。一・方においてランカレア産   業発展が相対的に緩か紅なってからほ,地方市場の拡張がとまり,他方に・おい   て上層炭層が渦渇し,生産条件が悪化したため,はとんど石炭生産ほ増大し額   かった。   

ランカVア炭田の接続しセノース・スタフォ・−ドレア(NorthStaffordshire)  

炭田があり,それほ東部と西部と 

層ほきわめて歪曲し,若干炭層ほはとんど垂直翼で戚存しており,房柱式のみ   が可能であるのにたいし,宋部炭田では自然条件に・めぐまれ,長壁式が一・般的   である。この地方の出炭高があまり上昇しなかったのほ,断層,不規則性および   炭層傾斜のため生産費がかさみ,ランカレア又ほカノック・チェイス(Cannock   Cbase)と競争できないこと,およびこの地方に陶業以外に膚接的市場がなか  

9  

︑  

(7)

イギリス炭鉱菜の基礎構造  

85    − β5 −  

ったためである。  

(10)   

南部ミッドランド炭田は,カノック・チェイス,サウス・スタフノォーードンア  

・クォークィクVア(Warwickshire)およびライセスター・レア(Leicester−  

ShiI■e)をふくみ,1グループに統一・されるが,特に賃金に.かんして大きな差異   がある。生産される石炭の−・般的品質ほ同質であり,その大部分は軟炭又はス   チー・ム炭のより軟かな品質のものであり,満場も主として家庭用,ガスおよび   製造業用のものである。カノック。チェイスおよびライセスターレアの生産条   件ほ,大体普通であったが,サウス・スタブォードンアとウォーウィクレアで   は断層と不規則性によって特徴づけられた。サウス・.スタブォ−ドンア炭田で   は,従来の生産方法が炭坑を掘進み,断層に出合うと放棄し,断層の他の側に   薪炭坑を開坑したのに.対し,クォークイクシアでの慣行は,断層をくり抜いて   同一・の堅坑から作業を継続した。かくして,サウス・スタフォ・−・ドンアの特徴   は,小炭坑の多数の集まりであるのに対し,クォ 

炭坑への傾向をもつ。事実,クォ−・ウィクレアでは,約25の炭坑があるが,こ   の申1890年以降閑坑された7炭坑がとびぬけで大規模である。ウか−ウィクレ   アでは比較的新しく大規模な炭坑が発展し,復数の交替制をもったが,他の地   区では単一・交替制が一・般的であった。  

〔4〕サクス・ウェールズ地区   

サウス・ク.ェーールズ(South Wales)では地表が起伏に富み,炭坑は都市周  

辺でほなく多く辺地に.あり森谷に.よってへだてられていたが,鉄道の発達によ   りサウス・クエー・ルズ諸港と結ばれていた。炭層は複雑で傾斜が多く,断層が   ひんばんで炭層はしばしば何の予告もなしに尽きる。しかし良質のスチー・ム炭   と癖育炭を生産し,さらに独占的無煙炭を生産した。1エプグエ・−ル(Ebwvale),  

トレディガL−(Tredegar)およびメルチル(Merthyr)のような古い地区は,国内   ユ業の需要に応ずるために開発されたが,その後輸出用スチ−・ム炭が主として   生産されるようになり,この地方の炭田の運命ほますます輸出貿易に依存する   

(1O)とくにブラック・カントリ一炭田については,G.C Allen,TheIndustrialDevelop・   

ment of B壇ningham and the Black Country1860−1927,1966,,にくわしい。   

(8)

第43巻 策1・2・3号  

ー β6 −   86  

ようになった。とくにロング(the Rhondda)の鹿賀スヂpム炭は,1860年以   後世界中に供給され,イギリスの帝国主義的進出に大きな役割を演じた。西部   の黒煙炭の開発は1880年代まで緩慢であったが,その後上昇した。出炭高ほ,  

1889年と1913年の間に2倍となり,輸出も1880年の920万トンから1913年紅は   3,870万トンに増大した。石炭ほ,サウス・ウェールズ諸港の全輸出量の92.5  

(11)  

%,全貨物豊の82.5%をしめた。輸出貿易はもとより高度な変動的で,雇用も   あまり規則的でなかった。労働力ほ,他地方から吸収せねばならなかったが,  

住宅不足とあいまってつねにきびしい労働力不足になやまされた。賃金ほ.,他   地区よ.りも低水準にとどまった。   

前述のように,糸谷の炭坑とサウス・クェ−ルズ諸港とは鉄道によって結ば   れた。1850年代にいくつかの鉄道が鉛谷をぬって設けられ,石炭が圧倒的紅重   要な輸送商品であった。最大の石炭運搬をするタッフ・ヴエール鉄道(theTaff−  

vale Rai1way)ほ,もっとも利潤の多い企業であり,1868年には354万トンを   輸送し,そ・の他大西部鉄道(G.W.R)225万トン,リムネイ鉄道(地e  

(19)  

R血ymneyRailway)約66万トンがこれに続いた。炭坑のはとんどは,サウス・  

クエールズの大鉄鋼主が所有し,最初ほ鉄鋼業経営に.たいする副業としてい   となまれたが,60年代の鉄価格不況以来,利潤源として石炭販売が畢祝される   ようになった。比較的集中が進載,1896年に.は同地方出炭高の90%以上を30会  

(13)  

杜が支配し,80%を支配するにほ20会社で足りるといわれた。  

〔5〕スコットランド地区   

スコットランド南部のはとんどすぺての州で石炭が採掘されているが,ラナ 

−クVア(Lanarkshirel),ファイフVア(Fifeshire)およびエアレア(Ayr−  

Sbi工 e)の3州が主琴な地区である○ファイフレアは歴史が古く,13世紀にほす   でに採炭の記録があり,16世紀にはすでに大陸への輸出貿易が確立されていた   にもかかわらず,その後比較的授かに.しか発展しなかった。炭層ほ深く戚存   

(11)W.,E.Mincllinton, IndustrialSouth Wales,1750p1914,,in:W。E.Minchinton  

(ed.),IndustialSouth Wales,]750仙1914,1969,p.XX 

(ユ2)ibid,p.Xix 

し13)R.GregoIy,The Miners and British Politics1906−1914,1968,p.59   

(9)

イギリス炭鉱業の基礎構造  

・一一一 ぶ7 −−一  

87  

し,作業に費用がかかり立地条件に.もめぐまれなかった。1889年にファイフジ   アほ,ラナ・−・クレアの1,300万トン以上にたいしてわずか2.75百万トンを、生   産したにすぜなかったが,そ・の後急に・発展し,1913年に・はファイフレアはラナ 

−クレアの生産の半分以上の1,750万トンを供給した。ラナL−クレア炭田は,  

3地区中最新であり,18世紀にん、たるまで開発されなかった。その後の急速な   優越の原因としてロク(J,W.F.Rowe)は,つぎの3点をあげ{:いる。第1   に,炭層が比較的浅く戚存し,容易かつ安価に作業できること,第2に,有名   な「ブラックパン 

紅石炭が必要であったこと,第3に・,海運および工業中心地としてのクライド  

(Clyde)地区の拾頭が,直接使用ならび牢熔鉱のための石炭の巨大な地方需   要をつくりだしたのみでなく,輸出貿易のためのすぐれた施設と機会とを提供   したことである。したがってラナ−・クレアは,19世紀の第1四半世紀の間に優   位にたち,減退しつつあるとはいえなお,主導権を維持して1、る。土アシア地   方の発展は,17世紀にはじまったが,炭層に・もあまりめぐまれず,品質もよ.く   なく,採炭は岩石断層のため高コストである。1889年にエアシアの出炭高は   300万トンを少し上廻り,1913年には400万トンを少し越えたに・とどまった。   

したがって−,ラナ−クレアがこの期間中スコットランド炭鉱業で支配的地位   にたっていた。き・わめて多種多様な石炭が生産され,主としで工業,鉄道およ   び家庭用のため消費される。生産のはとんどは地方的に消費され,輸出ほ.時と   して非常に.増大したが,むしろ補助的で,エアレアおよびファイフレアの方が  

(14) むしろ輸出貿易に大きく依存した。ラナ・−・クレアは,労働観合遊動や労働条件  

の面でもこの地方で指導的役割を果した。  

〔6〕その他の地区   

上記の他,イギリスにはカンパ−ランド(Cumberland),ノ−ス・クェ]−ル   ズ(North Wales),サマセットVア(Somersetshire),フォレスト・オブ・デ   ィ−ン(Forestof Deam)にも炭田がある。まず,カンパ−・ランド炭田は炭  

(旭 ファイフレアは,1912−13年に生産の60−70%を船鼓した。   

(10)

第43巻 第1・2・3号   88  

− gβ 一即  

層の不規則性,ひんばんな断層,高い派含有率をもっており,炭層は海底まで   延びていた。その出炭高の半分ほ,アイルランドに移出され,残り半分は地方   諸産業や家庭で消費された。ホワイトヘヴン(Whitehaven)炭鉱は,この地   方最大のグループで卒った。ノーース・クェー・ルズ炭は,約65%のスチ−ム炭と   約35%の軟炭から成り,後者のはとんどほ/地方的に消費されたが,他方スチ−  

ム炭の主要持場ほ,バL−ケンへ・ツド(Birkenhead)であった,炭層も断層と  

不規則性が支配的であり,最盛期ほすぎていた。サマセットシア炭田は,クリ  

ストル(Bristol),ニューペリ(Newbury)およびラドストック(Radstock)  

周辺にあるが,そ・の申ラドストックが中心であった。 

いわれ,周囲が農村地帯であるために賃金水準は低かった。フオレストオブ・  

ディーン炭田は,地理的にはサマセットシアと同様にサウス・クエールズ牢   関連して.いるが,この地域はまったく他地域から隔離され独立しており,もし   何か直接的関係があるとすれば,むしろミッドランズと関係をもったム フォレ  

スト炭田は,幅9マイル,長さ8マイルの典型的な盆地である。その生産は象   庭用炭その他地方市場で消費されるか又はアイルランドおよびイングランド南   西部に移出された。作業中の炭坑の半分ほ,主として−スチーム炭を生産する。  

フォレスト炭田の大きな困難は,資本不足である。炭坑ほ主として.一家族企業で   あり,所有者ほ原則としで地方人で,開発と合理化ほかなり遅れていた。   

以上,われわれは,イギリス主要炭田の特質を素描した。それぞれの炭田ほ,炭   田の年令,地質学的条件および市場の性格などによって著しい差異があり不均   等発展を示すことが明らかになった。最後にとれらの地区を大まかに類型化し   ておこう。まず生産力視点あゝら,発展地区として,東中部地区,サウス・クエ   ールズ地区,停滞地区として−,東北地区,西中部地区,スコットランド地区の  

●●●●  

2類型紅わかちうる。さらに市場視点から輸出地区として,東北地区,サウス・  

クエールズ地区,スコットランド地区,国内市場地区として一束中部地区,西  

中部地区があげられよう。これらの諸条件の差異ほ,それぞれの炭田の資本お  

よび労働力の存在形態を規定することは後に見るとおりである。   

(11)

イギリス炭鉱業の基虚構造    3.イギリス炭鉱実の発展段階  

−β.クー・   

89  

前節でわれわれは,イギリス炭鉱業を地域構造の観点から述べたので,本節   では,発展段階の観点からそれを検討しておこう,炭鉱業の生産力の発展段階  

(16) は,一・方において自然的条件に依存し,他方において技術革新に依存する。自  

然条件ついてみれば,比較的めぐまれた石炭資源をもつイギリスにおいても   1913年に.はイギリス石炭の44.3%は,厚さ4フィート又ほ.それ以下の炭層から   えられたものであり,石炭の19.15%ほ1,500フィート又略それ以上の深さから  

(1の  

捲揚げられており,生産条件は急速に悪化しつつあると考えられていた。1883   年まで上昇傾向にあった労働生産性も,それ以降着実に下降した。   

そこでまず,1850年代から1880年代における労働生産性上昇の原因を検討し  

(17)  

てみょう。この時期に防羽における作業方法が残柱式から長壁式に.漸次移行し  

つつあった。しかし19世紀の第3四半期における坑内生産性の主要な増加は,  

採炭過程でほなく運搬過程において一生じた。1847年に炭坑生活に入ったトマス  

・パート(Thomas BuI・t)ほ,その事情をつぎのように記録している。「私の炭   坑生活は過渡期の間に始め 

炭坑作業遂行方法でなされつつあった。.」坑内主要坑道で義気機関が馬に.とっ   てかわり.切羽附近では小鳥が小年にとってかわった。これらの革新は,運搬労   働者を相対的に低下せしめた。この発展に.は地域的にかなり差異があり,東北炭   田でほ運搬問題が差迫った問題であったので,この革新運動の先頭に立ってお  

り,1830年代および1840年代にタインおよびウェア河(TheTyneand Wear)  

(15)石炭産業分析の方法については,隅谷三番即日本石炭塵菜分析肌968年,籍2部およ    び大野英ニ『ドイツ資本主義論』1965年,籍2部参照。  

(16)Aこ,.Taylor, Labour Productivity and Technological王nnovationin the BIitish    CoalIndustry,1850−1914,,The Economic History Review,Second SeIies,Vol.   

Xiv,No小1,1961,p.50 

(17)炭鉱業における労働過程は,基本的には採炭と運搬(拷揚をふくむ)の両過程から成   

るが,その他補完過程として掘進と選炭があり,さら紅基本過程を可能ならしめる補助   

過程として排水,通気および支保が存在し,これらが一体とな。て石炭生産過程を構成   

する。この点にbいては,隅谷三喜男,前掲書,寛2部第1茸舞1節参應。   

(12)

第43巻 第1・2・3葛    90   ー9♂−−−  

流域で採用された。他方,坑内機械使用への刺戦があまり強くないブラック●  

カントリ−(TheBlackCou11try)で,蒸気力が最初に使用されたのは,よ   うやく1859年のことであった。−・般的に,1880年代までに零細炭坑をのぞくほ   とんどの炭坑で蒸気機関が坑内外で使用されており,すべての炭坑はその恩恵  

(1り に浴していた。このように自由主義段階にイギリス炭鉱業は,炭鉱機械化の第  

1段階を終え,産業資本の完成をみていた○   

したがって,帝国主義段階におけるイギリス炭鉱業の機械化ほ,坑内運搬の  

機械化からつぎの段階である採炭の機械化へ移行することであった0ところが  

1880年と1914年の間の時期に・イギグス炭鉱業は,技術的実績の面では見るべき   ものがあまりなかった。技術改良は,依然として竪坑および坑内運搬でおこな   われ,未気機関が次第に電力によって代替されつつあったが,これらほその性   質又裾効果に.おいて革命的性格のものではなかった◇圧搾空気を動力とするコ  

ール・カッター・による採炭機械化は,1860年代にイギリスが先鞭をつけたにも   かかわらず,その後の普及は停滞して小た。1900年頃から採炭機械が採用され   はじめたが,1913年に.おいてもイギリス総出炭高のうち,ただ飢,609958ト  

算3表 主要国の機械採炭   の割合(%)  

第2表 各検査地区の機械採炭塁およ びその総生産における比率(1913年)  

地   区  磯城採炭畳 (千トン)  各地区の総 生産に.おけ る割合(%)   

スコットランド    9,335    22●   

北   部    3,545   

6   

ヨ−・クシァおよびノ−   

ス・ミッドランド    7,609    10   ランクシァ、チェレァ   

およびノL−・スークよ.」−  2,168   

8   

ルス   

サウス・ク.主.−・ルズ    640   

1  

ミッドランドおよび南    1,313   

4   

部   

年  イギリ ス  ベルギ  ドイシ  合衆国   

1913  8  10  2  51   

1926   22  71  66  74  

仏8)A仙J.Taylor,Op.Cit,pp・57N8・  

(13)

イギリス炭鉱実の基礎構造   一9J−  

91  

(19)     (20) ンすなわち8.5%が機械採炭されたに.とどまった。第2およぴ3表は,炭鉱検  

査地区のおのおのにおけ・る機械採炭患およびその割合とそ・の国際比較を示すも   のである。本表の示すように.1913年に機械生産がかなりの普及を示したのは,  

ラナ−クレアおよびより少ない程度でヨークレアにおいてであった0 このよう   な採炭機械化の遅れほ,ドイツにも見られたが,アメリカでは機械化が急速に   進展した。1913年までに.アメリカの械機採炭塁はイギリスのはとんど9倍に達  

し,アメリカの出炭高の5分の2以下を占めた。このようなアメリカにおける   新生産方法の括瀞な採用によって1890年と1914年の間の労働生産性は50%とい  

ぅ驚くべき増大を示したのであ     

このような採炭機械化の遅れをもたらした要因濾何であろうか。第1にあげ   られる′のは,機械化に不利な自然条件である。たしかに地質学的条件ほイギリ   スにおいてはアメリカにおけるより不利であり,炭層が薄く,断層がはるかに   ひんばんであり,上盤と下盤の条件が悪かった。しかし,スコットランド炭田   のようなより薄い炭層をもつ洞渇した炭田で,もっとも機械化が進んだことか   らもわかるように自然的条件ほ,機械化の遅れを規定する要因として不充分と   いわねばならない。第2の採炭機械化の遅れの要因として,坑夫の機械化に・た   いする偏見や反感があげられる。機械化の初期にほ坑夫の態度はあいまいであ   るか,あるいは最意の場合には.公然と敵意をもった。新機械の採業ほ.,新技   能,作業スケデュ小・・・・・ルおよび作業条件のひんばんかつ大規模な再組織を必要と  

したが,らの再組織匿蘭犠牲がともなった。すなわち再調整の過程で,紛争,  

作業停止および競争企業への熟練炭坑夫の移動をもたらしがちであった。した   がって炭坑主ほ,長期的にほ機械化に.よる利潤の見込がついても,短期的損失   の可・能性を考慮せざるをえなかった。ともかくこの時代には,炭坑社会内部お   よび農村地域から低廉な労働力を調達しえたこ、とが,機械化を妨げた大きな要   因であろう。炭坑主又は炭坑経営者は,切羽で労働節約的な実験をおこなうよ  

(19)J。W.F.Rowe,Op・Cit,p・9  

位0)A.L.Levine,TndustrialRetardationinBritain1880.1914,1967,p・33 

(21)A.J.Taylo工,Op.Cit,p 58.   

(14)

籍43巻 発1・2・3号   92  

・−92−  

りは,確実で強力な運搬機械を採用して,切羽へより多くの労働者を移すとい  

(22)  

う方を選んだのである。   

したがって炭鉱機械化の遅れの要因として−は,やはり,イギリス炭坑主又は   企業家の保守主義があげられねばならない。炭坑主の観点からすれば,機械の   使用に.ほ,4つの可能な正当化の根拠があった。すなわち,コスト灯下け\出   炭量増大,石炭の質の改善およびつるほしのととかない薄い炭層の採炭を可能   に.すること,がこれである。機械力ッター・の初期の実験がなされた炭坑に・おい  

て−経験はしばしば失望的であった。必要な企業ベー.スと採算が授得できたとこ   ろでさえ,炭坑主はなお多くの技術的諸困難に直面した。砂利が機械の耐用年   数と能率を下げ;潤闊池がたえず必要とされたのみならず,充分な照明が機械   の修理のために.必要とされたが欠けていた。さらに動力供給の基本問題があっ   た。1905年まで圧搾空気が坑内で採用されたもっとも−・般的な動力の形態であ  

ったが,伝導が困難で圧力がしばしば望ましい水準以下であった。電気ほ,  

1904年内務省委員会(theHomeOffice DepartmentalCommittee of1914)  

まで多くの炭坑検査によって不信の眼でみられていた。ドイツおよぴベルギー   の炭田ですでに電気が広く使用されていたのと対照的である。電機企業もイギ  

リスでは炭坑作業に注目せず,他の分野に.眼を向けていた。このような諸困難   に直面して炭坑主が新機械の使用をきらったのは驚くにあたらない。ミッドラ  

ンド地区の炭鉱検査官A.H.ストークス(A.H.Stokes)は,「かかる(っま   り採炭)機械の使用の経済は現在小さく,そしてつ−ル・カッターの使用の急   激な変化に訴える誘因ははとんどない」と断じ,さらに・「芋掘りから機械掘り   への転喚の実際的コストほ,浪費の問題を別として,恐らくかかる機械の使用   のより−・般的増大紅反対する強力な理由の1つである」と述べた。機械化への  

より熱心な擁護者の間においてさえ,機械採炭の経済ほ炭層の薄さに反比例す   るという−・般的議論があり,さらに機械化の利益ほ,コスト切下げや出炭高増   大カラらでほなく,塊炭の供給比率の増大から生ずると広く信じられていた。  

但2)ibid.,p.63.   

(15)

イギリス炭鉱業の基礎構造  

−−9β −−・  

93  

1925年においてさえ.,炭鉱主の公式スポークスマンは,サミ..耳エル委員会でつ  

ぎのように宣言した。「−・般的にん、って,切羽に.おける労働コストの節約ほ,機   械の資本コストおよびその運転コストに.よって相殺されるが,採炭機械の採用   によるより集約的な炭鉱制度に主としてもとづく他の方向に・おける付随的利益   がある。たとえば,機械採炭の採用(その目的紅適した炭層に.おいて)にともなう   多くの場合の結果は.,塊炭のより大きな比率であるというのが安倉である」と○  

しかしこの利点も,1914年以前の20年間には塊炭と粉炭の間の価格差が着実紅   縮小したしたため,あまり魅力をもたなかった。したがって採炭機械化へのもっ  

とも強い動因ほ,急速に渦渇しつつあるより薄い炭層の採炭を可能に・する点に   求められた。事実,機械化の方向で最大の前進がなされたのは,よ.り薄い炭層を  

もつ,より滑渇した炭田においてであった。1913年までにスコットランド石炭   の21.7%,クエスト・ヨL−クレア石炭の17.8%が機械に.よって採炭されたの  

(23)  

は,主としてこの理由によるものであった。このような機械化の立遅れに・もか   かわらず,1900−14年の間の炭鉱ほ先例のない繁栄の時期を享受した◇ かか  

る有利な条件の下でほ, 

う。しかし,両大戦間にはその報いとして炭鉱業は厳しい試練に立たされるこ  とになるのである。  

4.炭鉱資本の存在形腰  

前述のように・イギリス炭鉱業ほ,全国に分散し地域的集中を欠\、ているため   に農産と資本も又地区ごとに分断される傾向が強かった。きらに同一・地区内で   も,鉱区が地表地主紅より分散的かつ不均等に私的に・所有され,しかも多数の   零細企業が地区内外で「のどをかみ合う競争」をくりかえしていた0 しかし,  

イギリス炭鉱業においても生産の集積は,除々にではあっても進行しつつあっ   たので,本館ではこの点について∴素描して∴おこう。   

イギリス炭鉱業ほ,その起源たおいて個人企業によって発展し,数世紀の問  

C23)ibid.,ppu60−62.   

(16)

ー一 夕イ−   簡43巻 第1・2・3号   94  

(銅)  

個人又ほ同族企業の手中にとどまって.いた。「炭坑主」という言葉の使用ほ,  

その時代の名残をとどめているとい.え.よう。しかし19世紀前半に新しい過程が   発展しぼ.じめ,多数の仲間(PartneI・s)が漸次参入しほじめ,究極的にイギリ   ス炭鉱業における株式会社の始頭へと導いた。炭鉱経営が規模および重要性を   増大し,より多くの資本が必要とされるにしたがって炭鉱主は融資をあおぐ仲   間を拡大せざるをえなかった,のである。1856年の会社法(the Companies Act  

(25)  

Of1856)の通過後,株式会社の発展は急速であった(第4表参照)。このよう   に.して,大多数の近代的大規模炭鉱ほ,株式会社に組織替えされた。株式会社   ほ.,炭鉱業の構造における最低の単位となり,かくして合同町必要な前提条件   がととのえられるのである。そこでつぎに炭鉱業における集中運動の叙述に移   ろう。   

生産の集積は,イギリス炭鉱業においても絶えず進行し,平均単位規模が増   大し,生産がより小数の単位の支配下におかれるようになった。1875年に・炭   坑数は,4,933で,全部で1億3100万トンの石炭を生産したが,1913年には   3,289の炭鉱が2億8,740万、トンの石炭を生産した。一・般的に.いって1炭坑あた  

りの平均生産高ほ,この39年間に3倍強に.上昇したわけである。このような生産   単位の物質的拡張とならんで新規投資も巨大な発展を示すとともに.,他産業と  

くに.鉄鋼業の炭鉱業への関心を深めることになった。かくして1864から1873年   にかけて各地区であいついで巨大炭鉱会社の成立をみた。こ.の時期は物価が一  般に上昇しちっあり,とくに石炭価格が上昇しつつあったため,プロモ一夕〃・・−・の   利潤見込があり,新会社の設立および現存会社の合同が容易だったのであ  

C24)炭鉱主の起源紅ついては,T.S.Ashton&,.Sykes,The CoalIndustry of the    Eighteenth Century,1964,pp.1−6.参照。  

C25)A.M.Neuman,Economic Organizationof the British Coalrndustry,1934,   

p.144.公募会社(Public compaTly)は.,東スコットランド,サウス・ウェールズ,サウ    ス・ヨ−・クレアおよび東ミツドランズで急速に優位に立ちつうあったが,1925年におい   

てもイギリス石炭のほとんど半分ほ,通常′ト規模な私会社(private campany)によって   

採掘された(A.J.Taylar, The CoalIndustry,,in:DけH;Aldcroft(ed.),The   

Development of BritishIndustryarld Foreign Competition1875−1914,1968,p.65   

(17)

イギリス炭鉱業の基礎構造   一95 −  

(26)  

る。  

新会社ほ,水平的ならびに   垂直的に.合同して成立し  

(27)  

た。以下,それぞれについ   て若干の例をあげよう0 ま   ず垂直的コンビネーション   によって成立した新会社と  

しては,1864年に・設立され   たサウス・ウェー・ルズ最大   め歴育炭企業The Ebbw  

Vale Steel,Iron,and   Coal,Co.があげられる。そ  

95   

寛4表 登録された石炭および鉄鉱山会社,1856−1880年   効」  「破  産」   

t  

寧  

64  

l  

90  

0  

14   39※   

1856−1859    1860−1862    1863 −1865    1866 −1868    1869 −1871    1872 −1874    1875−1877    1878 −1880  

※ 公的に設立され有効であった114会社に加えて,  

55の私会社が有効紅設立された。  

れは,銑鉄,完成鉄,鋼お・よび石炭の生産をおこなう混合企業であり,有名な   Coalbrookdale一贋のメンバ〜・の資産を購入した。TheTredegaIIron and   CoalCo,Ltdほ,モンマウスレア(Monmouthshire)で1873年に段立され,  

よく発展した垂直的企業をつくりだした。ランカレアにおける石炭,鉄および   鋼企業の初期の垂直的コンビネーションの例として1872年に設立されたLlynui  

(急8)  

Tond11and Ogmo土eCoalandIronCo.をあげることができる。  

C26)A.M.N占uman,Op.Cit‖,pp.144−146.企業数も1900年と1913年の間に1,787から   1,589に.低下した。なお,アメリカ炭鉱業では硬膏炭部門のみで,12,122企業が存在   

し,競争的であったが,ルール炭鉱業は20世紀初めに・数ダー・スの企業によってこ支配さ    れ,さらにライン・グェストファーレン石炭レンジケ−・トは,ルール炭の7分の6の生    産および販売を支配した(ibid,pp.64−65および大野英二『ドイツ金融資本成立史論』昭    和31年,64−70ページ参照)。  

即 炭鉱業に.おける集中運動のうち,水平的コンビネ−・ジョンを重視するか,垂直的コンビ    ネ、−ションを遠視するかについては意見の対立があるが,いずれが藍要かは地域的に異   

なる。この点紅ついては,ibid.,p.146参照。A.M.1=lユ.−1マンは,炭鉱業における集中    運動を,1864−73年を寛1波,19世紀末から20世紀にかけてを寛2波として:いる0しか   

し両者軋発展段階を異にしており,前者惟新会社の成立期,後者を本来の集中運動と    規定すべきであろう。  

㈹ibid,pp.146−8.石炭=鉄のコンビネL−ジョンについて:は,高橋哲雄『イギリス鉄鋼   

独占の研究』,1967年,37−41ぺ−ジ参照。   

(18)

第43巻 祭1・2・3号   96   

ー96 −  

つぎに水平的コンビネーーションの例としては,1872年設立のThe Fife Coal  

Co.Ltd of Scotlandおよび1864年創業のThe PowellDuffIyn SteamCoal   Co.of South Walesをあげることができよう。後者ほ,イギリえ最大の炭鉱企  

業の1つごあり,その後The Welsh Associated CollieIies,Ltd,The   Amalgamated Anthracite Collieries,Ltd,The Ocean CoalCo,Ltdおよ   びTheEbbwVale Steel,Iron,and CoalCo。とともにサウス・クェ−ルズ  

の「ビッグ・ファイブ」の1つである。東北海岸では重要な水平的コンバイン   がJoicey−L族(それは,1886年にJames,Joicey&Co,Ltdの名の下に株式   会社へ組織変更された。)に.よって支配された。これらの新会社の設立は,高度に   インフレートされた資産をもとに.しておこなわれたので,そ・′の後の大不況の開  

(29)  

始とともに10数年にわたって合併運動は停止したのである。   

そ・の後19世紀末から却世紀初頭にかけて集中の新たな大波が生じ,いくつか   の大合同がおこなわれた。この集中運動に.おいて,若干の場合に企業の利害は  

1地区の境介をこえたけれども,これらはむしろ例外であり,原則として同一  地区内の企業合同への強い傾向があった。以下,地翠・ごとの主要企業合同の例  

をあげよう。まず,グラムでほ,SirJamesJoicey&Co,Ltdが1896年に企   業合同をおこない,400−500万トンの生産能力をもつにいたったのをほじめ,  

1900年に,はHorden Collieries,Ltdが多数の炭鉱を開発した。ヨ−クVアでほ 

Henry Briggs,Son&Co,Ltdに.よる企業合同や新坑開′発,Pease&Partners,  

Ltdによるいくつかの大炭鉱の買収がおこなわれた。スコットランドでほ,  

The Fife CoalCompanyが数魔の合併をかさねた後1909年にほ年産400万ト   ン弱にI達し,さらにUnitedCo11ieries,Ltdも企業合同をおこなった。もっと   も集中が進んだサウス・ク.=l−ルズでの最大の例は,TheCambrianCohlb阜ne   である。それほ,The Cambrian Combine Colliery Companyの取締役D   A.トーマスのイニシアチブで設立されたカルテルで,年産350万トンの4大会  

社によって構成され,1913年に・は4大連結会社の株が統合されて,株式資本  

脚ibidけ,.pp.148−8.   

(19)

イギリス炭鉱業の基礎構造   ・一.97 −  

97  

200万ポンドのThe Consolidated{Cabrianとして再編成された。それは,特   許燃料製造会社,フランスの会社をふくむ2つの船舶所有会社,坑木輸入会社   の株式を所有した。会長D.A.トマスは他の2大炭鉱会社の会長を兼ね,炭鉄混   合大企業Ebbw ValeIron and SteelCo.の重役会に参加した。サウス・ウェ   ールズにおけるその他の集中の例として,年産400万トン弱のMessrs・D・Davis  

&Son,、Ltd,年産350万トンのPowellDuffrynSteamCoalCo,OceanCoal   Co.,RhymneyIron and CoalCo.,Tr・edegarIron and Coal Co.などが  

(30)  

あげられる。世紀の交に.すべてのクェ.−・ルズ。スチーム炭の80%ほ,ただ20会   社に・よって生産された。   

上述のように,各地区に数百の炭坑があり,相互間で激しい競争がおこなわ   れていたとは.いえ,それぞれの地区で小数の大企業が次第に集観・集中によっ   ていちじるしく勢力をましていたことほ疑いない。このような集積㍉を基礎にし   て生産と価格の規制をともなうカルテル規制が試みられた。地区レベルおよび   全国レベルでカルテやトラスト創設の試みが提案されたが,いずれも短命にお   わるかヌ.ほ不成功であった。しかしわれわれはここで地区連合(DistrictAsso−  

Ciation)に.注目しなければならない。これは,各地区の炭坑主がすべての共   通の問題について協力したり,地区ペー・スで急速に組織化されつつあった労働   者の要求に.対抗するために組織されたものである。その数ほ25に達し,「イギリ  

ス右炭協会」(TheMining Associationof Gr・eat Britain)に統合されてい   る。大多数の地区に.おいてこれらの組織ほ,前世紀の70年代に設立された。地   区協会の設立ほ,地区の炭坑主間の相互協力の一層の発展を容易紅し,ある種  

の団体精神をつくり出す−のをたすけた。それ時又,しばしば技術問題および商  

($1)  

業問題を論じ,価格協定をおこなう機会をその加盟者に与え.たといわれる。  

5.イギリス炭鉱業の市場構造  

上述のようにイギリス炭鉱業に.おいては独占形成がおくれ,生産力もむしろ   鋤相沢与一・,前掲論文,142−3ぺ・−ジ。  

81)A.M.Neuman,Op.Cit,pp.150−1.   

(20)

第43巻 算1・2・3弓  

ーー9β−  

後退したのであるが,こ.れほ内外の市場にどのような影響をおよぼしたであろ  

(32)  

うか。もっとも第5表に・示したように,4大西ヨー・ロツパ石炭生産諸国ほすべ   てが1890年以降4半世紀の間に労働生産性の低下を経験した。  

籍5表 坑内外の坑夫の1人当り年間出炭高,1874T1913年(トン)  

国    −78年   

1畠74   1879 −83年  1884 −88年  t1889 −−93年  18941899−−1904 −98年1903年−08年    1908 −13年   

ベ ル ギ ー・  135  163  173  1(う8  174  169  162  159    フ ラ ン ス  154※  187十  196  201  208  198  194  195   

ド  イ  ツ  209  257  269  257  262  247  251  265≒ (258)   

イ ギ リ 不  270  319  319  282  28ケ  289  283  257    合衆国(無煙炭)  323  374  340  349  336  370  423  449    合衆国(礎育炭)  341  505  449  503   511 H  616  617  698  

※1876一78年のみ,+1882−83年のみ,キ前年の統計基準で調整    しかし産炭諸国中イギリスのみが1875年と1913年の間に1人年間生産高で   低下をしめしており,生産性ほユ880年代に最高の1人当り平均319トンを記録  

して以来著しく低下した。これにたいし,フランスおよぴベルギーは世紀の交   まで衰退を示さず,ドイツほ・1890年前に・生産性のピーク紅蓮したが,その後も   はぼ横ばい状況を維持し,1884−88年と1909−13年の間に労働生産性の低下   は,ただ6%にとどまった。それでもなお,1914年前の40年間にイギリスは,  

世のヨーロッパ諸国よ、りも労働生産性で優越を示すことができた。1909−13年   のイギリス紅おける坑夫1人当り生産高ほ,フランスおよびオー・ストリアより   30%高く,ベルギーおよぴロシアよりも60%高かった0ドイツにたいしても   1880年代紅イギリスほ1人当り生産高で20%だけ優越していたが,その後1世  祇経つ間に.この有利さは次第に失われ,1914年・までにドイツはイギリスとはば  

く33)  

比肩するにいたった◇  

(32)A.J.Taylor,The CoalIndustry,p・46・  

C!3)ibid,pp.45−47.地区では,東北炭田とサウス・ウ声−)Vズ炭田が傑出t,/ており,両    地区でイギリス石炭輸出の約4分の3をしめた。東北炭田はヨーロッパ中心に輸出し1    サウス・ク.ェ−ルズ炭田はフランス,地中海沿岸諸国を中心紅世界各地に輸出した0  

●   

(21)

イギリス炭鉱業の基礎構造   − 99・−ワ   

99  

したがって1914年前にイギリス石炭は,ヨーロッパの他の諸国よりも安い山   元価格を示した。主要産炭諸国の1909−13年平均のトン当り平均価格をみれ  

ば,ベルギー12.8シ′リング,フランス12.7シ′リング,ドイツ10・5シリングにた   いしてイギリス8.74シリングであった。さらにイギリスの卓越した海運力ほノ,  

イギ.リス炭の国際競争力を一層強化せしめた。1914年前半世紀間の汽船の発達   によって海上運賃ほ著しく低下した。か−・ジフ(Cardiff)からボルドー(Bor−  

deaux),リスボン(Lisbon),i7ェノア(Genoa)およびクロンスタット(Kron−  

stadt)への運賃は半分以下になり,他方遠隔地なかんずく ポ岬・トサイド  

(PortSaid),シンガポール(Singapore),およびプ3=.ノス・アイレス(Buenos   AiI・eS)への運賃引下げほ一層大きかった。ドイツならびにアメリカ石炭生産   者は,その外国顧客への輸送を大きく鉄道輸送に依存しており,きわめて不利   な立場に.おかれた。ドイツが有利に.,又は対等にイギリスと競争できたのは,  

海上輸送の不可能な近接地域市場のみであり,又南アメリカ市場に・おいてもア   メリカ内陸炭田から鉄道および海運で運ぶよりも,カージフからブユノスアイ  

(34)  

レスまで海上輸送する方がより安価であった。   

っぎにイギリス石炭輸出の市場別構成を検討しよう。イギリス石炭輸出の大   部分は,大陸ヨーロッパに向けられた。1875年にイギリス最大の顧客は,フラ  

ンスとドイツであった。こ.の両国ほ∴おのおの年間却0万トン以上をしめ,そ  

れらに、つづいてイタリア,スカンジナビア諸国,ロシアおよびネぺインがおの  

おの50万トン以上を消費していた。ヨーロッパ以外では需要は小さかったが,  

エジプト,東インド,カリブ海およびラテン・アメリカが成長を示した01913   年までに.ほとんどすべて−の方向で需要が増大しねが,市場の型ほ蘭とんど変化  

しなかった。フランスほ今や1,300万トンで首位をしめたが,ドイツは900万ト   ンで,1,000万トンの輸入をもつイタリアに追越された0ロシアは600万トン,  

スカンジナビア諸国があわせて1,000プチトン,スぺインがお0万トンを消費し   た。帝国主義段階に.おいて石炭輸出はとくに急速に延び,1898年から1913年ま  

朗)ibid,p.41.   

(22)

第43巻 寛1・2・3号   100  

ーJ∂クー  

での15年間にイギリスのロンアへの石炭輸出は3倍となり,フランスおよびイ   タリアへのそれは2倍となった。イギリスの石炭輸出におけるヨーロッパ最大   の競争国ドイツでさえ,1913年にほ15年前のはば2倍qイギリス炭を輸入して   

(3の  

いた。  

ドイツ炭鉱業の前進は,その急速に成長する出炭高とともに,輸出実績の増   大一にも明白に表われた。1913年までにドイツは,オランダ,ベルギー・およびオ  

ーストリア,ハンガリアへの主要輸出国となった。しかし,フランスとロシア   ほ,おのおのドイツ炭の3倍をイギリスから輸入していた。イギリスの優位,  

したがってドイツの劣位は,ドイツが不安な足場しかもっていなカニったスカン   ジナビア藷国およびイずリスからの輸入炭がドイツのそれの10倍であったイタ  

リアで一層顕著であった。かくしてA.J.テイラー(A.J.Taylor)が述べ   乞いるように,「戦時政治同盟の型ほ,すでに石炭の国際経済庭投影されてい  

(86)  

た」のである。   

ヨーー・ロツパ以外では,エジプト(300万トン)アルゼンチン(公0万トン)お  

(釘)  

よびブラジル(200万トン)が主要な消費国であった。その他帝国主義列強の軍   事的経済的進出にともなって石炭需要ほ増大し,「世界のあらゆる地方にある数   にして約40もある海軍根拠地に,イギリスほ.大貯炭所を設け」,その「貯炭高は  

(38)  

何百万トンにのぽっている。」この貯炭所は,いわば「イギリス海洋支配の信号  

(39) 機」であり,イギリスの世界戦略体系の燃料的基礎を互えた。ヨー・ロツパ外の  

イギリスの重要な競争国は合衆国であったが,ラテン・アメ′リカの重要市場に   おいてもイギリスは,1913年に合衆国の15倍の石炭を輸出した。カプリ海およ   び東アジアにおいてのみイギリス炭は,より有利な位置にある競争国の進出に  

(35)ib軋,pp.39−40.「イギリス資本主義論争」の帝国主義版ともいうべき「自由帝国主    義」と「保護帝国主義」との対立する路線において炭鉱業は,労資ともに前者の強固な    璧塁をなしていた。  

(36).も.ibid.,p.40.  

即 

侍8)レーニン「P.デー・ソ『ドイツの植民政策についで』抜粋」,『帝国主義論ノ−ト』,レー  エソ全集邦訳,大月苔店刊,貨39巻,633ぺ−・ジ。  

脚レ−エソ,上掲論文,633ぺ一一汐。   

(23)

イギリス炭鉱業の基礎構造  

101   

一−JりJ一一−  

(40)  

より後退を余儀なくされた。   

かくして第1次大戦前にイギリス石炭輸出貿易ほ,この産業の歴史に.かって 

ない繁栄を示した。1釦0年に.輸出ほノミンカー・炭をふくめ・てニイギリス出炭高の10   分の1,その総輸出価額の40分の1にすぎなかったが,・その後イギリス帝国主  

義膨脹とともに急増し,1913年にバンカ−炭をふくめた輸出は,年間出炭高の3  

(41)  

分の1以上,イギリス総輸出価額の10分の1以上をしめた。かかる繁栄は,炭  

(42)  

鉱関係者一鉱区頑有者,株主および坑夫一に利益を与えたのみでなく,イギリ   ス国際収支の順調に実質的に・貢献した。繊維産業と異なって石炭は.輸入原材料   に依存しでおらず,その海外からもたらす所得は,はとんど純粋な利得であっ   た。さらに石炭輸出は,返り荷として輸入原村料を輸送できたので,輸入品の   運賃コストを大きく引下げるのに寄与したのである。   

このようにイギリス炭鉱共における生産性停滞にもとづく相対コストの上昇   は,その摘場の増大又は利潤の大きさにほはとんど影響を与えなかった。それに  

もかかわらず,採炭コストの上昇は,国民経済軋作用せざるをえない。イギリ   ス国内市場ほ,国産炭のみで充足され,大戦前に・総出炭高の約3分の2を吸収  

(43)   (41)  

した。その用途別消費高は第6表のとおりであり,各方面の需要ほ急速に増大   した。したがって採炭生産性低下にともない高価な石炭ほ,石炭需要の活撥な  

(45) 鉄鋼をほ.じめとする−・般工業コストを上昇せしめ,又すべてのイギリス家庭の  

生計費上昇をもたらした。さらに・炭鉱共においてほ生産性の低下を雇用増大に  

(40)J.P…Taylor,Op.Cit.,pp.40−41.極東市場化おけるイギリス炭と日本炭との角逐に  っいてほ,隅谷三尊男,前掲書,貨1部寛3萱第2節参照。  

(41).J.P.Taylor,Op…Cit.,p・39・  

舶1914年に.3,800人の鉱区所有者,約13万人の投資家そしで111万8千人の炭鉱労働省が    いた。鉱区所有者は,年間約600万ポンドの地代(1人当り1,579ポンド)を得,投資家    は1,300万ポンド(1人当り100ポンド)の利潤を得た(ibid,p.37) 

(4劫 ロンドン市場に.ウェストファーレン炭が予期せず庭あらわれて議会で取上げられた   

り,いくつかのロンドン・ガス会社が100万トンの大口注文をドイツにおこなっ七話題    をまいたが,これらは例外セあった(R.J.S。Hoffman,GreatBritainandtheGerman   

Trade Rivalry1875−1914,1964,p,252&p.264.  

(44)J.PりTaylor,Op..Cit,p.39.  

(嫡 イギリス鉄鋼業の原料基盤に.ついては,高橋哲雄,前掲蓄9−21ぺ一汐参児。   

(24)

貨43巻 貨1・2・3弓   102  

−Jク2−  

よってカバーしたのであるが,生   産能率の低下しつつある産米庭.労   動力資源をちぎこんだことほ,新   産業の発展に/たいして阻害要因を   およほす点で問題が残るであろ  

(46)  

う。アルフレツト・マーシャルが   述べたように石炭輸出は現在のた   めに将来を犠牲にするものだとい   うことが言い過ぎだとしても,石   炭輸出増大ほ産業国家イギリスが   寄生的=植民地的特賀を強める1  

第も表 イギリス国内石炭消費高(100万トン:  

用   途   ガ  ス  炉   発  電  所  

鉄  道  

沿 海 汽 船    炭鉱(機関燃料)  

鉄 鋼工 場   家   庭   一・般製造業  

9.5【 18.0  

く47)  

つのテコとなったことは否定できない。  

6 炭鉱労働者の労働条件  

これまで述べてきたような生産力発展段階とそれに.対応する資本関係お、よぴ   市場構造の下で,労働者階級ほどのような労働条件の下におかれたでちろう   か。労働力の存在形態にふくまれた矛眉は炭鉱労動運動の組織=闘争形態を規  

(48)  

定するのでこ.の点の研究ほ.,とくに・重要である。   

−・般に炭坑夫は,「大いに他の社会から切離された.階級」であり,彼らのはと  

(姻 拙稿「第1次大戦前のイギリス産業構造−『エ業独占』崩壊の国内的要因について−」   

香川大学経済論叢第37巻籍6号参照。  

値ⅥA.MaIShall,IndustryandTrade,19i9,p。628.および拙稿「『寄生的=植民地的』   

帝国主義の範疇=段階規定」香川大学経済論叢第42巻第1・2号参照。  

㈹ 炭鉱労働運動の分析方法に・ついては,大野英ニ『ドイツ資本主義論』1965年,発2部参    照。そこでは,「ドイツ資本主義の発展と『賃労働』の存在形態」という主題の分析視角と   

してニ,つぎの3つが提示されていると思われる。第1に.,ドイツ資本主義の再生産軌道    の特質,とくに凰工ルべ諸州からの移動労働者の決定的役乱算2に,炭鉱労働運動の    発生経過,規模ならび紅形憩を規定する19bo−03年の恐慌の社会的=政治的作用の重要    性,そして欝3に.,生産力発展段階によって規定される「資本類型」ほそれに相関的な   

負労働の型をつくりだすこと,の3点がこれである。特殊資本主義の再生産構造→石炭   

鉱業の生産機構→炭鉱労働力の存在形態→炭鉱労働運動の組織・闘争形態という分析手   

法は,イギリス炭鉱労働遊動分析のためにも示唆に・とむ。   

参照

関連したドキュメント

地震による自動停止等 福島第一原発の原子炉においては、地震発生時点で、1 号機から 3 号機まで は稼働中であり、4 号機から

 医療的ケアが必要な子どもやそのきょうだいたちは、いろんな

体長は大きくなっても 1cm くらいで、ワラジム シに似た形で上下にやや平たくなっている。足 は 5

神戸・原田村から西宮 上ケ原キャンパスへ移 設してきた当時は大学 予科校舎として使用さ れていた現 在の中学 部本館。キャンパスの

黒い、太く示しているところが敷地の区域という形になります。区域としては、中央のほう に A、B 街区、そして北側のほうに C、D、E

○鈴木部会長

にちなんでいる。夢の中で考えたことが続いていて、眠気がいつまでも続く。早朝に出かけ

そうした開拓財源の中枢をになう地租の扱いをどうするかが重要になって