北洋漁業の生成と発展
その他のタイトル The Development of Japanese North‑Sea Fishery
著者 柏尾 昌哉
雑誌名 關西大學經済論集
巻 4
号 3
ページ 246‑283
発行年 1954‑07‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15798
246
北洋とは東アジャソ連領とアメリカ領アラスカに囲まれた海域即ちベーリング海︵約七六万平方浬︶オホーック海
( 1 )
︵約
五 0万平方浬︶及び日本海北部︵約八万平方浬︶の総称で面積一三0万平方浬に及ぷ広大な海域である︒従って普
( 2 )
通に北洋漁業と言う時はこのような海域において行われる日本沿岸を除く漁業を指すものである︒併し乍ら北洋漁
業は地理的条件の他に漁業発展の沿革と変遷に応じてその時々において歴史的に掴まれねばならない︒現在の漁業
( 3 )
技術を基準とすれば北洋において漁業に適する海域即ち一
00
尋線内の面積は約五三万平方浬と言われ全北洋の四
割を占めている︒それは世界優良漁場の雙璧と言われる北海と対比されるが︑北洋は面積において北海の約四倍に
当り漁適海域は約三倍に当る︒
生 成 と 発 展
海流は暖寒二流がここで交錯する︒通常黒潮と呼ばれる日本海流は台湾及び日本列島の東岸を北上し犬吠崎附近
より北部太平洋に去り︑その支流は対島海峡より日本海に入り北海道に達する︒寒流は千島海流とリマン海流とが
あり︑千島海流所謂親潮はカムチャッカ半島東岸より千島列島の東側を流れ︑リマン海流はオホーック海に起り樺
太ンペリアの東海岸に沿つて南下する︒かくてこの水域には無限に近い寒帯性及び亜寒帯性の魚類が棲息する︒経
北洋
漁業
の生
成と
発展
︵柏
尾︶
一︑
序
北 洋 漁 業 の
柏
尾
昌
哉
247
類︑海藻︑海獣︑
名称ではなく︑ マス︑タラバガニ︑イワン︑クジラ︑ニッン︑タラ更には力>イ等の底魚
イカ︑貝等であって︑その数量は計り知れないと迄言われている︒
一方︑そのこと自体が巨大な冷蔵庫的存在であり魚類の保存︑処理︑加工に幾多の便宜を与
えているが︑他方︑北洋特有の濃霧と氷雪の襲来は漁期を制限し夏期︵六月︑七月︑八月︶中心の集中的操業を余儀
而して北洋漁場と日本との距離は函館港を基点として沿海区迄約三
00
浬西カムチャッカ迄約五
00
浬アナヂル
湾漁区迄約二000浬あり︑出帆船の平速︵現在︶を基準とすれば一昼夜から八昼夜に亘る航程である︒現在の北
( 4 )
洋漁業は遠洋漁業であり国際漁場において行われる漁業である︒だが︑北洋漁業は最初から何等厳密に規定された
日本漁業の北方海洋発展に伴つてその内容を広帆化し現在に迄生成発展して来たものである︒
以下各時代の漁業を歴史的に把握し乍ら現在の厳密な意味の北洋漁業えの生成と発展とを検討する︒
註
(1 ) 越田徳次郎﹁蓮俗水産常識第一巻ー北洋漁業の話﹂三
0頁
同氏は北洋を次の如く説明する︒﹁北洋とは地理学●の名称ではない︒本邦の水産上︑本土を中心にして環海を南北に両 断し︑日本沿岸を除いた其の北方の海を指すのである﹂
(2 ) 越田氏は同氏が定義した﹁北洋﹂において行われる憔業であるとする︒今田氏も﹁北方公海漁業﹂を日本海︑オホーツ ク海及びベーリング海において行われる漁業としているので内容は越田氏の北洋漁業と同一である︒
今田椅二﹁水産経済地理﹂四六頁 (3 ) 野村太郎﹁海洋漁業の話﹂一〇一頁 越村徳次郎﹁前掲書﹂三
0頁
( 4 )
遠洋漁業と言う用語の意味もさほど明確ではない
e
先づ消岸憔業と沖合淮業の区別として川合角也氏は﹁沖合樵業とは
なくされている︒ 寒気の強い北洋は︑ 済的価値の観点から列記すれば︑サケ︑ 北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
四
248
浩岸漁業に用うる漁船の構造を少しく大にし且つ堅牢とし︑十数里の沖合に出漁し︑数日間海上に於いて漁業を営み得らる る設備あるもの﹂と規定し沖合漁業の中に所謂遠洋漁業の内容をも包含している︒又︑檜山毅夫氏は﹁内地沖合遠洋漁業と
沖岸漁業との区別は︑一見︑名前は地城的に見えるけれども︑その定義は︑総屯数五屯以上の艇舶をもつて︑内地の沖合︑
または遠洋に漁業を鴬むものとなっておるので︑大体︑消岸漁業よりは沖合の漁場で常まれるものを含んではいるが︑沼岸 からの距離で定義されていないから︑確然たる漁業別とはいえない﹂と述ぺ︑桑田透一氏も︑消岸漁業に対する海洋漁業と 言う用語を用いて沖合︑遠洋漁業の意味で使用している︒内地沖合遠洋漁業と言われる理由を村上隆吉氏が﹁明治冊一年に
遠洋漁業奨励法が実施された当時の遠洋と云うのは実は本邦内地附近に過ぎなかったので・・・・・﹂と諒明しているが当を得て
いると思う︒
野村貫一氏は﹁遠洋漁業といい消岸漁業というも︑其の間に劃然たる境界線がある訳でもないが︑一般に遠洋漁業という のはその漁場が陸地より逍く離れて一漁業航海に短くも数日︑長い時は数十日を要する様な漁場で行われる漁業を指すので
ある︒従って通常距岸一︱‑︑四十浬以上︑遠きは数千浬の遠洋に於て行われている漁業を遠洋漁業といつている﹂と規定し︑
最近近藤康男氏は﹁沖合漁業は胆岸一〇浬から五〇浬の範囲であって︑港から毎日往復すれば出来る沖合で操業する﹂もの と規定9︑従つてそれ以上の公海における憔業は遠洋漁業と言うことになり︑かなり慨念は明確にされてきている︒
川合角也﹁漁帯論﹂︱︱一五頁
檜山義夫﹁水産学概論﹂八六ー八七頁 桑田透一﹁概網日本水産史﹂︱二五頁 村上隆吉﹁水産論﹂一六
0頁
野村貰一﹁水産物噌産と漁村対策﹂六四頁 近膝康男編﹁貧しさからの解放﹂︱︱二頁 北
洋 漁 業 は 北 海 道
︑ 樺 太 及 び 千 島 を 基 点 と し て 出 発 し た
︒ そ の 歴 史 と 沿 革 を 辿 ろ う
︒
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
二
︑ 胎 動 の 時 代
五
二‑'‑‑‑‑‑‑‑‑
249
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
往古のことは選として全く不明である︒享徳三年松前家の祖武田信広が蝦夷地を統轄した頃は接岸部落の小数土
﹁往々波塙のためにニシンを海岸に打寄せ魚丘を着民がタモ網等の原始的漁具で自給用魚類を漁獲するに過ぎず︑
( 5 )
築くに至る﹂と言われた敷しいニシンの群来も徒らに放置されていた︒武田氏進出の史実は︑かような比類なき海
産物を求めて秋田︑津軽︑南部諸地方の住民が季節的或は永続的に北進し始めた大勢を前提とすべきである︒爾来
慶長四年松前藩が蝦夷地支配の覇権を掌握して以来︑北海道及び樺太の一部をも領有下に包摂しその開発を計る
( 6 )
と共に福山城を中心に城下町を経営し︑そこを舞台に近世日本の商権を掌握した近江商人の活躍が繰り拡げられた
ので
ある
︒
松前藩産業の希望は漁業資源に託せられていた︒沿岸にはニジン︑サケの大群が来遊し海藻類も繁茂していたが︑
これ等の水産資源は次第に開発され︑加えてニンンが肥料用千ニッンに︑サケが干ザゲ塩引に︑ニツンの子がカズ
ノコに加工されるに及んでこれ等は一層商品化した︒そしてこれ等漁獲物及び加工品は近江商人の手によって江戸︑
大阪︑長崎等と通商され︑その商業資本蓄積を促進し︑蓄積された商業資本は松前藩と密着したこれ等商人の手で
漁民に仕込金として貸与され高利を得ると共に沿岸漁民から直接に全剰余をも収奪したのである︒
( 7 )
松前藩は北海道樺太領有以来︑漁業開発のため最初それ等の地方の調査研究を計る︒宝歴元年に﹁藩臣加藤某が
( 8 )
南樺太に漁場を視察し翌二年にクッュンコタン外ニケ所に官営漁場を開発した﹂とあり︑以後同様の調査が相次い
で施行されたことは想像に難くない︒かくて次第に沿岸漁場は増加し他方商人による調査も活澄となり後には藩営
( 9 )
から商人請負制に中心が移つて来る︒即ち寛政七年︑伊達林右衛門︑楢原小右術門の両豪家が松前藩より漁場を請負 北辺の漁獲が次第に脚光を浴びるに至る︒
六
2~0·
と称
する
も.
の︶
が増
毛︑
その優れた漁獲能力の故に漸次南方に普及した︒更に安政年間 つてトウプツに漁場を開設し︑一方松前藩も寛永二年にはツラヌツに勤番所を︑享保には亜庭湾に四箇所西海岸に三箇所の漁番屋を開設し運上金収奪の組織を強化する︒この漁場請負ほ漁区に運上屋を建て土着漁民に酒︑煙草︑穀物等を付与し彼等の漁獲物と交換し又出稼漁夫を雇つて漁榜指導に当らしめる等してその利潤より運上金を納入したものである︒当時の運上高は漁場請負人から漁民よりの収獲物の十分の一
( i
九とも言う︶或は十分の二
︵二
八と
も言
( 1 0 )
の現物を徴収せしめ之に対する一定の運上金を松前藩に納めさせていたもので年収総額六万両を越えたと言わ
れる︒天明︑寛政頃の蝦夷地の漁場は西四二東四三合計八五ケ所を数えその内直領が二二で別に海鼠突︑
秋味等の特殊の直領をその中に包含していた︒ところで請負制度と言う機構による漁業生産は︑
マス
場︑
商業資本活動の余地を与えたが︑他方では高い運上金及び極度の漁民収奪が漁業生産力を停滞せしめる傾向を生
衛が幕府の請負人として一七百石積の巨船を以つて松前藩と通商を営みつつ千島列島に じ︑遂に寛政︱一年には一部を幕府直轄に移行して直捌制度が採用されるに至る︒即ち同年兵庫の商人高田屋嘉兵
一七ケ所の漁場を開設す
る︒更に彼は幕府直轄の特権商人として﹁蝦夷地御用船造り立蚊東廻し方﹂を勤め独占的通商を行いつつ文化二年
には択捉︑根室︑幌泉の三漁場の請負を命ぜられ函館を根拠として大阪兵庫の支店と呼応しつつ廻漕通商を営んだ
( 1 1 )
ので
ある
︒
(12) 既に宝暦から天明の間に蝦夷地方の海産物は相当の額に上つていたことが明かにされているが︑漁法はアイヌの
タモ網及び剌網漁法等で未だ曳網建網は使用されていなかったらしい︒齋永年間に至り始めて建網︵所謂ィキナリ綱
留萌辺において試みられ︑
には古平野群来村の番屋において木材で枠を組み水面に浮べ之に網を張りこの内に建網を以つて捕獲した魚を起込
北 洋 漁 業 の 生 成 と 発 展
︵ 柏 尾
︶ 三 七
う ︶
方では早くから
'
}
L--~-‑
251
北洋
漁業
の生
成と
発展
︵柏
尾︶
一九世紀初頭即ち文化 み之を酌出す所謂吊袋漁法が始められ︑同年再び木製の枠に網を吊り船に附けて用いる現今の吊袋漁法に改められている︒又︑万延︑文久頃には関東漁夫の間で創始された空釣法も伝来する︒かくて海面を各藩に領有し藩内の者のみが細々と漁獲を許された旧藩時代の極めて小規模な内地沿岸漁業に比すれば︑北海の漁業は同じ沿岸でも規模はかなり大きくなっていた︒即ち地先漁場を操業の場とする沿岸漁法は次第に大規模化し必然的に漁獲をも増大せしめた︒だが︑それはあくまでも沿岸を基軸としたもので沖合えの進出は殆んどなされていない︒即ち漁業技術段階が未だ沖合より沿岸の方により大なる生産力を見出したこと及び土着民よりの略奪漁業が可能であったこと及び一七世紀以降︑帝政ロツアとの紛争が続いたこと等が沖合えの進出を阻止したと言えようか︒
帝政ロツアの東方経略は一七世紀中頃から漸く顕著となりッベリヤ︑黒竜江沿岸より北樺太を経て南樺太より北
海道沿岸え︑カムチャッカより千島えと南下し︑ここに両国の接触衝突の歴史が開かれる︒
年間に帝政ロジアは千島の択捉島及び樺太のクジュンコタンに南下した︒愕いた幕府は直轄地として警備を厳にし
たが崩壊近い徳川封建幕府は何等の策をも持たず未解決のまま明治新政府に承け継がれるのである︒その間少しづ
つ漁法が変化し生産力は向上しているが基本的な性格は変化していない︒
以上の如く旧藩時代の北洋漁業えの黍動期には封建体制に寄生した狡猾な商人が一方では︑封建領主の権力を背
( 1 4 )
景に内地物質を北海道樺太に搬入し詐欺的略奪的交易を営み帰り船にジオサケ︑ニシンカス︑コンプ等を満載して
内地に搬入すると共に︑他方これ等商人は同時に高利貸業を兼ね商業資本の蓄積を強行して︑やがて一部は漁場請
負人となって広大な漁場を占有し︑仕込資本を提供して土着漁民の全剰余価値を直接に収奪する略奪漁業に転化す
るに至ったのである︒かくの如く当時の北洋漁業は高利貸商人によって北海道樺太千島沿岸において領主の沿岸漁
八
252
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
( 1 3 )
山口和雄﹁日本漁業史﹂九ニー九六頁
業権を主体とした沿岸漁業であり︑それ等は明治以後も殆んど変化しない半封建性を内包し乍ら次第に北洋に延び
て行ったのである︒既に北洋漁業の基点は形成されつつあった︒
註
( 5 )
大林雄也﹁大日本産業事蹟︑漁業及水産﹂八九頁 (6 )
当時の近江商人の北海道における商業活動に関しては次の書物に極めて詳細に述ぺられている︒
管野和太郎﹁近江商人の研究﹂.一五四ー一八三頁
.
. (7 ) 松前藩の北方諾常に関しては殆んど見るぺき資料は残っていない︒恐らくは癒川封建制下の厳重な鎖国政策は公然たる
北方開拓を困難にしたからであろう︒
(8 ) 露領水産組合﹁露領漁業の消革と現状﹂三頁 (9 ) 漁揚請負は天正年間松前慶広の時︑東︑亀田から西︑熊石を限つて松前領としその他の地を蝦夷地として君臣が之を分 領した︒併し斜里︑宗谷︑北蝦夷は三場所と称して松前藩の直轄地とし藩常︑或は商人をして請負わしめ︑その他は漁識の
区城を立てて家臣領地に充て︑そこから運上金を牧集した︒そして漁場浩岸には運●屋を建て運●金を確保した︒
(10)
大林雄也﹁前掲書﹂八九頁 山田忠一﹁国防と水産﹂四
OI
四一頁
( 1 1 )
山田忠一﹁前掲書﹂=ニー四八頁 三宅睛輝︑小貫束秋﹁日本の産業と観光﹂二七ーニ八頁
(12)辻善之助「田沼時代」三一三—三一四頁
九
( 1 4 )
松前藩の頃︑アイヌと商人のサケ取引を古老はこう停えている︒.﹁数えはじめに﹃初まり﹄と呼んで一尾︑それから十
進して﹃上リヨー﹄といつてまた一尾追加する︒すなわち十二尾を十尾と計算する習慣であった︒﹂
近藤康男編﹁貧しさからの解放﹂︱二八ー︱二九頁
:i.,3
あっ
た︒
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
三︑布
この期間の日本北方漁業は北海道から更に北上して樺太及び千島︑カムチャッカ等の露領沿岸に延びる︒勿論中
開拓使時代の漁業
明治維新から同八年の樺太千島交換条約成立迄の期間は言わば開拓使時代の漁業で新政府の漁業政策は模索の段
階にあった︒新政府は先づ明治二年開拓使を函館に置いて樺太を管轄し︑翌三年には樺太を切離して樺太開拓使の
管轄とし︑又四年には両者を合して樺太北海道共に開拓長官の管轄とし土地私有権の確認を基礎として農漁業特に
G15) 農業の開発を行った︒
先づ北海道では明治二年開拓使管轄以後︑原則として請負地制は廃止され場所持となり︑又漁場乾場が設置され
一般出漁が極めて容易となった︒従って沿岸漁法の漸進的発達と共に生産力は全般として向上して来る︒
第二に︑千島では従来から択捉島方面で英米の外国船によるラッコの密猟が横行していたため明治二年開拓使は
択捉島に出張所を設けて監視したが防ぎ切れず︑遂に六年にはラッコ猟を官営とし併せて沿岸取締を行う方針を立
てた︒併し治外法権下では充分な取締は行われず︑﹁官営の猟獲は一年三百頭以内なるに拘らず︑当時密猟船の船
C16) 長たりし英人スノーの手記に依ると︑密猟船は七隻乃至十二隻が年々千頭乃至千六百頭を猟獲した﹂と言う状態で
最後に樺太に移る︒開拓使時代の漁業発展の中心は椋太であったC北方旅業の舞台はこの時期には樺太を中心に ︹A︺ 心は沿岸漁業で沖合えの進出はさほど顕著ではない︒
石 の 時 代
四〇
254
樺太方面 ︹B︺ 性の基盤の上に漁業の再編成を行ったのである︒
ところでこの時代の北方漁業は誰によって担当されたであろうか︒
四
( 1 7 )
繰り拡げられる︒先づ明治三年には四ケ所の官設漁場を開き広汎な範囲で出稼漁業者の漁場出願を募った︒この官
( 1 8 )
設漁場は収支相償わず間もなく閉鎖されたが︑所謂民間漁業は旧藩時代そのままの請負制で殷盛を極め︑この間漁
( 1 9 )
船数を見ても五年一九隻︑六年七四隻︑七年三︱︱隻と急テンポで激増している︒漁場についても同様でその数の
丁度このような状況を背景にして突如︑黒田清隆の﹁樺太は碗猜の地︑政費徒に多大にして利益少なし﹂との建
議が採用され樺太千島交換条約が成立したのである︒尤も交換後も帝政ロツアの許可の下に制限漁業が認められた
が当時の沿岸性漁業では樺太の領土喪失の打撃は極めて大きく漸次重点を他に移さざるを得なくなって来た︒
又同八年には新政府により海面官有の案が提出されたが各地漁民に反対され九年には官有の上に徳川封建時代の
原則﹁沖は入会︑磯は根付﹂の慣行を認めると共に従来の雑種税を廃して地方税に捕魚採藻税を設けた︒かく封建
た︒彼等は封建社会の崩壊後も次々と豊富な新漁場で略奪漁業を続け︑又必要以外の漁場を貸付けて貸料を収め早
くも漁場代えの寄生化傾向が看取される︒かかる寄生地主的問屋資本を背景にして次第に本格的北方漁業えと進出
するのである︒
露領進出時代の漁業
樺太千島交換後の北方漁業は樺太方面︑黒竜江下流並に沿海州及びカムチャッカ方面を中心として行われた︒
ー︑
,
北洋
漁業
の生
成と
発展
︵柏
尾︶
増加は勿論︑規模においても著しく大きくなる︒
やはり旧藩時代の高利貸商人が中心であっ
2.5.5
同 同 同 北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
次の如くである︒
明治一六年︑極東露領浩岸の漁業規則制定︑樺太では漁
獲物一プード︵四貫四百匁︶に付き五
0ヵ
ペーク︵当時二五銭︶の輸出税が課せられ
ることとなる︒
一七年︑東部シベリア総督による亜庭湾並にテルペ
ニエ湾及び北部ロモ1
地方の日本人漁業の 禁止︒この方面の漁獲は前年の二万石から
三千石えと急激する︒
一八年︑薩喰噂島及び浩海州漁業に対し仮規則設定
及び陸島浩岸の一部開放︒その結果税李一
プ
1 に付き五カペークに低下して日本人F
漁業は小康を得る︒
二三年︑薩吟喧島漁業仮規則の施行︒日本人漁区一
四の奪取︒
(表1)
日本人樺太露領漁業大勢(明治10‑36年)
~年度I 漁場主漁夫人員漁揚数 1総漁 獲 高 ( 石 )計 1一平漁場均1平一漁均夫
明治10年 13 586 22 10,696 486 18
11 12年 17 944 27 18,343 679 19
II 14年 28 1,155 30 23,419 781 20
II 16年 19 1,546 12 20,432 1,703 13
II 18年 6 470 , 6,693 744 14
II 20年 12 919 24 21,799 908 24
II 22年 16 1,245 44 27,803 632 22
II 24年 17 1,423 51 11,127 218 8 I
I 26年 21 1,572 64 28,807 451 19
II 28年 20 2,156 84 33,992 405 16
II 30年 36 3,858 158 59,476 377 16
II 32年 52 ・s,244 222 77,065 347 15
II 34年 ... ... 117 67,908 580 ...
II 36年 30 3,913 99 109,434 1,105 28 コ)レサコフ帝国領事館報告費料より作製
交換条約締結後︑漁場断念書の提出要求が交換理事官からなされたことより明かなように一時は漁場放棄の方針
( 2 0 )
を立てた︒併し翌九年には太政官布達により引続いて樺太における漁業経営を認める方向え変つて行く︒樺太の日
四
一五年には三本人漁業は明治一五年迄は無税にされていたので︑九年に三千石︵漁場一六︶と減少していたのが︑G衣1)
五千
石︵
漁場
︱︱
1 0 )
と略々交換前の状態に復帰した︒.併し一六年以降は帝政ロシアの課税が相次いで賦され漁業生
0表1)産手段の進歩に伴う日本漁獲高の一般的増加現象にも拘らず樺太の漁獲は大きくは延びない︒当時のロシア課税は
2.56
(表2)
樺太における日露両国漁業大勢(明治10年 36年)
同
北 洋 漁 業の生成と発展(柏尾)
ら 疋l 国 I漁 蝠 数 1漁場主1漁 夫l漁獲高(石)
日 本 22 13 586 10,696
明治10年 コンプ
Bシ ア 5(1使与) 2 650 ?
日 本 84 20 2,156 33,992
II 28年
ロ シ ア 7(1袋与) 3 981 ?
日 本 222 52 5,244 77,065
11 32年
ロ シ ア 44(16費与) 10 1,966 16,035
日 本 99 30 3,931 109,434
II 36年
ロシア 78(25箕与) 23 3,251 117,133 コルサコフ帝国領事館報告資料より作製
四
る︒以後は最も資源豊富な黒竜江を中心に漁業が営まれ︑
ーコ ラ
に漁業を●北上せしめて明治二五年には遂に黒竜江迄進出して来 ば幾分賦税の軽いことや︑水産資源のより豊であること等が次第 税は容易に日本漁業の進展を許さなかったものの︑樺太に比すれ 漁業が未だ沿岸漁場を中心に若千の内地沖合漁場を漁獲の場としていたことを物語っている︒ヽ ` ノI黒竜江下流並に沿海州方面︵ 昔から黒竜江を遡上する紅魚︵サケ︑ご^類︶は極めて豊富であった︒之が日本漁業の対象となったのは明治三年樺太出漁者による対岸沿海州出漁が嘴矢であると言われている︒帝政ロツアの賦 ケ ︑ マス等の沖合遠洋性の漁獲が極めて少ないのは︑当時の樺太 猶︑当時の樺太漁獲の中心は日露共にニシン︵約九割︶で︑サ 日本に学ばねばならなかった︒
さて
︑ 弓一年︑黒龍江沿岸総督による管内海産業仮規則制定︒かくて漁湯の長期借受は不可熊となる︒
ロツアの漁業開始は極めて遅れ明治︱一年以来の西海岸コンプ採取を除いては明治二八年の亜庭湾ニンン
漁場開設迄何もなかった︒その後ロシア漁業は年と共に進出しているが︑漁業生産の実質はやはり日本人漁業によ
︵ 表
2)つて占められていた︒即ちロツアは漁夫のすべてを日本人に頼らねばならなかったし︑従ってすべての漁業技術を
'I ‑‑‑‑ ‑
257
数船漁
本
︶ 日 年
港
3 3 ク 入〜
年
ス
ェ治 2 5
フ明
ラ
) n
3 表
直 カ ム チ ャ ッ カ 方 面
一八
四0年代既にアメリカ資本による資本主義的捕鯨業及び海獣猟業が行われていたし︑
ッカ半島西岸近海でタラ漁業が定期的に行われていたが最も豊富な資源であるサケ︑
( 2 1 )
日本人出漁の最初は普通郡司大尉の一行と言われているがカムチャッカの豊富な旅業資源は夙に早くから熟知さ
れていたo
明治三二年︑黒竜江下流の日本人漁業が禁止され︑又樺太の漁業を次第に圧迫されるに及びロシア漁業
置 さ れ て い た
。
~1 帆船 1 機動船 I 計
明治25年 2
゜ 2
,
, 26年 4 1 . ‑5 ,.
II 27年 6 1 ' 7
II 28年 8
゜ 8
II 29年 18 3 21
II 3Q年 32 13 45
,, 31年 24 , 7 31 ,, 32年 34 8 42
II 33年 64 21 85
農商務省水産局「露領漁業調査書」
換に多量の塩蔵サケ︑ 北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
イフェスク買魚時代を現出した︒ 六年にはサケ︑ で出漁を継続し︑
五0年代にはカムチャ
マス漁業は未だそのままに放 マス六万石が日本に輸出されると言う所謂ニコラ この間アメリカ式サケ罐詰製造が開始され︑明治
を許可せざるを得なかった︒爾来日本漁業者は買魚及び製魚の方法 獲物の八割は日本向け輸出であったため漁獲物製造と輸出業務は之
︵ 表 3)
イフェスクに出入する日本漁船は連年激増して行った︒このようにして開かれた黒竜江漁業の主体は勿論日本人で
あり︑それも商人が中心であった︒彼等は日本漁夫︑用塩︑魚網︑食糧︑
マスを持帰ったのである︒ その他商品類を携行し︑漁榜を通じて交
及び遂に明治三二年には黒竜江下流地方に対して﹁海産業仮規則﹂
と言う特別漁業法規を制定して日本人漁業閉出しを計った︒併し漁
一方ロシアの日本人漁業に対する干渉は樺太から逐次黒竜江にも
四四
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶ マス漁業え進出
上日本人漁場借受は不可能となった︒更に之は三四年に拡大強化され
るのであるが︑漁夫を持たず漁業技術を持たなかったロジアは何等か
の形で日本人漁業者の援助を必要とした︒その結果︑或ほ漁区借受の
( 2 2 )
ロジア漁業者と共同経営を行い︑或は買魚又は製魚を名儀として出漁
し︑或は船員名儀で日本人漁夫が乗込む等︑種々の方策が採用されて
︵ 表
4)実質的にはカムチャッカ漁業も日本人によって操業されていた︒
l V ヽ ノ
政 策
・
︵ 以上で三方面における漁業を観察したが︑その漁法は何れも定置網
漁業が中心を占めている︒之は漁据技術が未だ沿岸性の制約から離脱
出来ず︑従って沿岸中心の漁据を行ったことを意味するが︑日本内地
の封建的漁場と違って大部分は未開のロツア領土沿岸で行ったため日
四五
尤もこの間に沖合及び遠洋え進出すべき準備は着々と進められていた︒明治ニ︱年には全国を五海区に分つて日
本最初の本格的水産物基礎調査が行われ︑翌二二年には日本最初の公立水産教育機関である水産伝習所が開設さ 義的漁業として発展することが出来たのである︒ 本漁業としては漁業主と漁夫との内地の封建的性格を除いては資本主 し始める︒併し同年制定の﹁海産業仮規則﹂はここにも適用され事実 監視の殆んど及んでいなかったカムチャッカのサケ︑
(表4) カムチャッ日本人漁業大勢(明治30年36年)
~ 年度 サ ヶ 及び マ ス 帆 , ' 船 機 動 船漁 船 日本人
漁獲( 高
隻 数I屯 数 隻 数1屯 数 漁 夫
石)
明治30年 16,000 19 1,980 5 2' ,200 1,255
II 31年 23,000 28 3,220 , 5,000 1,461
II 32年 28,000 35 3,830 13 ' 8'‑,554 1,578
11 33年 36,000 31 3,320 15 9,848 1,569
II 34年 26,000 29 ,3,110 14 ,9,920 1,450
11 35年 38,000 29 3,150 17 fa,208 1,411
II 36年 24,000 28 3,200 18 12,808 1,356 農林省「北洋漁業統計」及び農商務省水産局「露領漁業調
査書」より作製 '
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‑
2/59
四
︑ 成 立 の 時 代
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶
れ︑二五年には水産に関する特別調査が行われ︑二六年には地方水産試験場が設けられ︑二七年にはアメリカ式捕
鯨法が試みられ︑更に明治政府の軍事的庇護の下に水産物罐詰製造業が上から強行され︑二九年にはアメリカ式巾
着網漁法が紹介され︑三0年には水産局が復活して漁榜と水産の二課が設置される等︑アジャ海域えの軍事的進出
註
( 1 5 )
北海道﹁北海道農地改革史︑上巻﹂には極めて詳細に記述されてあるから参照され度い︒
(16)
長 瀬 貞 一
︑ 周 東 英 雄
︑ 寺 田 省 一
﹁ 漁 業 政 策
﹂ 四 ー 五 頁 亀 (1 7)
栄浜︵サカエハマ︶︑東白濤︵ヒガシシーマラチロ︶︑西白渥︵ニシシララオロ︶及び鵜城︵ウショロ︶の四ケ所である︒
( 1 8 )
文化七年に楢原角兵衛︑阿部喜右衛門︑伊達林右衛門三氏に預けられた樺太漁場は︑後に阿部氏が返上したので︑楢原︑
伊遮両氏が中心となって漁場を営み北帳場と称し漁場総数五七箇の多きを算し明治八年の樺太千島交換迄続けられた︒
(1 9)
露領水産組合調査統計資料︒
( 2 0 )
布告には﹁樺太島二於テ従来漁業相常居候者ハ旧漁場二於テ引続常業不苦﹂とある︒
(2 1) 明治二七年に郡司成忠一行が千島を根搬としてカムチャッカのオゼルノイに渡航上陸してロシア語の標識を打立ててサ ヶ︑マス漁帯に従事したことは有名である︒猶詳しくは次の書物を参照されたい︒
広涸彦太﹁郡司大尉﹂
寺島柾史﹁我等の北方﹂
( 2 2 )
対ロシア政府交渉一切をロシア漁業者が行い実質上の漁榜は殆んど日本人に委任されていた︒即ちロジア漁業者はロジ ア政府より取得した漁業権を漁場代を得て日本人漁業者に貸与していたのである︒
日本の北方漁業が北海道︑樺太︑千島及び露領沿岸から更に沖合及び遠洋に乗出し所謂本格的北洋漁業を開始す の基礎付けは着々と整えられていたのである︒
四六
260
漁獲物商品の競争市場に介入することを目的とした政策によるのであり︑具体的には漁業法制定と遠洋漁業奨励法
とポーツマス条約における漁業権の確立として現出した︒
漁業法の制定
明治八年に施行された海面官有制︑借区制は︑漁業における秩序維持を基幹とする明治政府の基本的な漁業政策
に沿つて強力な軍事的官僚的支配を背景に︑低い漁業生産力と呼応してその役割を果して来たのであるが︑之は更
( 2 3 )
に明治三四年の漁業法公布によって法文化された︒故にこの漁業法も本質においては漁場の分割と︑総有及び私有
の物権的漁業権による排他的占有を内容とする旧い生産関係の新しい制度化であり承認化であった︒このような内
容を持つ漁業法は当然沿岸漁業を対象とするが︑漁業技術の発達による生産力向上に阻止的役割を演じ︑従って又
多数の零細窮乏漁民を内地沿岸に醸成せしめた︒即ち漁場の分割は新技術の導入を困難にし資本の導入を阻止し問
題を地域的漁場紛争に局限する︒
れ︑そこでは産業資本としての沿岸から沖合えの健全な発展は極めて不充分にしか行われなかった︒ かくて日本漁民の殆んどを占める沿岸漁民の漁業は長期間かかる制約下に置か
併し日本資本主義経済の発展による国内市場の拡大及び技術の進歩は漁業生産力を向上せしめずには止まない︒
ここに漁業の資本主義的発展が進められる訳であるが︑
的制約の少ないところに新しい型をとつて発展して行った︒之が即ち北洋及び韓海である︒北洋及び韓海こそは漁
業法と漁業生産力発展との矛盾の捌け口であり︑同時に明治政府の軍事的進出の路線にも合致するものであった︒ ︹A︺
北洋漁業の生成と発展︵柏尾︶ 日本においては旧い制度的制約を破壊することなしに比較 の整備を基幹として漁船航海能力増大による遠洋えの進出により︑
四七
る挺子となったのは明治政府の軍事的帝国主義的アジャ略奪の方向における漁業政策︑即ち国内における漁業制度
一方では国内市場の要求に応じ他方では国際的
261
〇浬を出るようなことはなかった︒理由は︑従来の日 かに沿岸一〇浬以内に限られ稀に沖合に出るものも の上からの創設を助長する役割を果した︒ 本資本主義の生産手段生産部門︵造船︑
石油
︑造
機等
︶
に答えると共に︑又漸く新興の途に上ったばかりの日 を北洋に求めて北洋商人の寄生地主的問屋資本の要求
スノー、ハラジノ氏調査報告
農 林 省 北 洋 漁 業 統 計 1 より作製
大林雄也「前褐書」 j
そしてかかる海洋えの進出を可能にしたものは漁業技術の進歩特に漁船における動力使用及び綿網の出現であり︑
更には漁獲物加工技術の発展であり︑これ等を強行推進せしめたものは政府の漁業政策であった︒
遠洋漁業奨励法の制定
之は同時に 矛盾を解決する方策としての北洋進出は具体的には遠
( 2 4 )
洋漁業奨励法の制定となって体化した︒
﹁日本漁業は都市人口の増大交通の発達にともなって
国内市場を拡張しつつ軍事的帝国主義的資本に追随
( 2 5 )
し︑ときにはその尖兵的役割もはたした﹂のである︒
かくて同法施行は︑大型機動船により魚価の高い魚群
明治三0
年頃迄の日本漁業の操業区域は平均して僅
(表5)
日本北洋における海獣(‑オットセ,,,フ ッ コ)嶽業状態(明治24年ー44年)
旧 制 度 を 温 存 し つ つ
、発展する漁業生産力との間の
~
年度 日 本
アメリカ イ ,?fJ1ス
隻数合~d計
疇 1猿 獲 頭 数 隻 数1I撒 獲 頭 数 隻 数1I撒 獲 頭 数
明治24年
4,68
*
4, 14 1,687 ? 1,68711 26年 24,320 22 30, 44 54,937
II 28年 6 11,301 22 34,672 ,, 30年 14 4,414 2 1,273 11 7, 27 13,Q08
II 32年 12 6,518 2 1,325 5 8, 19 15,844
II 34年 15 7,044 1 650 4 5, 20 12,793
11 36年 21 10,937 1 829 1 23 12; 158 ,
,
38年 28 10,335 1 1,105
゜ 29 11,440
II 40年 36 10,422
゜ 0 1 1, 37 11,碑068,7 1
II 42年 34 10,346
゜ 0 0 34 10, ―
II 44年 47 12,081
゜ 0 0 47 12,
︹B︺
北洋
漁業
の生
成と
発展
︵柏
尾︶
.,
四八