ア ド ル フ ・テ イ エ ー ル の 政 治 軌 跡
︿研究ノートV
アドルフ・ティエールの
政治軌跡(2)
十 十 十 十 十
五 四 三 ニ ー 十 九
国防政府
ボルドー議会
パリ・コミューン
共和国大統領
政治体制の確定
失脚
晩年
九国防政府 高村忠成
}入七〇年九月二日︑皇帝ナポレオン三世はプロイセン軍に
スダンωoロp口に追いこまれ︑捕虜となった︒そのニュースは
53翌三日にパリにとどいたが︑市民は驚愕し衝撃の波紋はたちまーち全市にひろがった︒しかし︑やがて怒りに燃えた民衆は蜂起 し︑共和政を宣言するとともにブルジョア共和派が主体となっ
て臨時政府8σqO⊆<①導①ヨ︒馨冒︒<δo貯①︑いわゆる国防政府
(‑)ぽαq8<⑦毒①ヨ︒馨Oo冨∪仏h︒葛︒葛戯op巴①を成立させた︒一
八七〇年九月四日のことである︒
第二帝政は︑これによって事実上終止符がうたれたが︑その
時フランスは二つの重要な課題に直面することになった︒すな
わち︑ひとつは帝政崩壊後の政府の形態︑政治体制をいかにす
べきかということであり︑もうひとつは︑当面のプロイセンと
の戦争をどう処理したらよいか︑講和かそれとも徹底抗戦か︑
ということである︒成立した国防政府は︑これに対して矛盾し
た態度をとった︒すなわち︑政府は一応は共和政体をとり︑戦
争についても抗戦論を唱えたが︑しかしやがて︑戦争が長びく
と武装した労働者や民衆が混乱に乗じて︑﹁赤い共和国﹂をめ
ざす革命を起すのではないかと恐れるようになり︑内心ではで
きれば早い時期に講和にもっていきたいと考えるようになった
のである︒一方︑パリの革命家や民衆の多くは︑帝政には強い
不満をもっていたし︑しかもその上おろかな皇帝がはじめた戦
争に対しては怒りをいだいていたので︑この⁝戦争には断固とし
て勝利をおさめるとともに︑正式に共和政府を樹立することを
望んでいた︒彼らには︑革命の理想を掲げて敵国と戦かったあ
の一七九二年の大革命当時の思い出が︑赤々とよみがえってい
たのである︒だから今回も︑革命と祖国およびパリ防衛のため
に徹底して戦かおうという意欲にみなぎっていた︒
ただ彼らとしても︑今すぐに新たな革命を起すことは︑政治・
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軍事上の空白を生み︑さしせまったプロイセン軍との戦闘に支
障をきたすので︑それは避け︑とりあえずは臨時政府に妥協し︑
協力することにした︒政治・社会的体制の決定は後回しにする
ことにしたのである︒かくして︑国防政府に結集したこのよう
なブルジョア共和派とパリの民衆との問の妥協︑一時的な協調
は︑しかしやがて︑間隙をうみ︑両者の問には重大な亀裂が生
じ︑対立を招くようになるのである︒
このような状況において︑ティェールはどのように行動した
のであろうか︒開戦には強く反対し︑それによって衷心からの
愛国心を示した彼は︑自分の意見がとり入れられないと知る
や︑ひとたびは︑二度と自国の運命にかかわる仕事には携わる
まい︑政界からは身を引こうと決意した︒だがあまりにも急激
な帝政の崩壊という事態の変化に︑彼は再び政治の舞台にひき
出されることになってしまった︒彼は当時︑皇帝なきあとのフ
ランスの政治体制と戦争の問題について︑その解決方法を思索
し︑立法院に次のような提案をした︒"第一に︑立法院の中に国防委員会を設けること︑第二に︑状
況が許せばすぐにでも憲法制定議会議員の選挙を行なうこと〃︒
彼のこの提案は手続きとしては正当なものであったかもしれな
いが︑しかし現実にはそれは無視され︑土ハ和国が宣言され︑国
防政府が市庁舎一出勲90Φ<崔︒で成立してしまった︒よって
彼の見解ではこの新政府は正規の手続きをとっておらず︑必ず
しも正式なものとはいえなかった︒全フランス国民の意志に立
脚した政府ではなかったのである︒ ティェールは︑セーヌ県選出の代議員ではあったが︑この政
府の創出には少しもかかわっていなかったし︑入閣することな
ども考えていなかった︒彼は九月四目の夕方︑立法院議長の招
集した︑しかし実質的には解散した議会の何人かの議員が集っ
た集会でのべた︒"私は︑我々が今目忍従している暴力に対し
⁝⁝抗議する︒だが我々が遺憾に思っていることを存分にはき
出せるはけ口は今はない︒⁝⁝まもなくパリに入城してくる敵
を前にして我々にはなすべきことをやるしかない︒我々は撤退
する︑威厳をもって⁝⁝"と︒また彼は新任の二名の閣僚に云
った︒"諸君たちの責任は重大である︒我々の義務は︑諸君の
パリ防衛の努力が成功するようにひたすら祈念するだけであ
る'と︒
ティエールの戦争に対する態度は一貫していた︒戦争回避で
ある︒だから︑それが不可能に終り︑戦争に突入し皇帝が捕虜
となってしまった現在では︑当然︑ただちに停戦し講和条約を
結ぶべきであるというのが彼の主張であった︒それゆえ︑国防
政府から︑外交使節としてヨーロッパ列強諸国を歴訪してもら
いたいとの要請があった時︑彼はそれを受諾した︒国防政府
は︑できれば早いうちに有利な条件で講和にもっていきたいと
考えており︑そのためにイギリス・オーストリア・ロシァ・イ
タリアなどの宮廷に︑調停を依頼することにした︒国防政府の
外務大臣ジュール・ファーブル冒一Φω団①<おは︑九月九日︑
この任務をティエールに託したのである︒
ティェールは九月十二日︒バリを出発し︑ロンドン・ウイー
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ン・セントペテルブルグ・フロレーンスに向った︒まず九月十
三日︑彼はロンドンで外務大臣グレンヴィルO鑓口く旨①卿や
グラッドストンO一銭ω8口Φと数回︑会談した︒しかし︑えられ
た回答は︑"イギリスは人類愛の名において︑流血がただちに
止むように祈っております︒英仏両国のひとしく名誉ある和平
によって︑欧州に平和が創出されることを期待します〃という
抽象的なものであった︒ティエールは︑そこからフランス︑北
イタリアを通ってオーストリアに向った︒そこに二日間滞在
し︑帝国帝相ζ.匹①ゆ︒ロω什と交渉した︒だがその返答は︑"オ
ーストリア政府はフランスを援助することは不可能である︒ロ
シアが有効な手助けをしてくれるであろう"というものであっ
た︒さらにセント.ヘテルブルグでは︑ティェールは皇帝アレク
サンドル一.oヨ℃Φ器霞≧o×9︒コ脅oに謁見を許されたが︑皇帝
の返事は︑"私は決して戦争はしない︒交渉においては貴国を
支持し︑貴国が代償として支払うようになる領土と賠償金が最
小限ですむように最善の努力をしましょう"という誠意はこも
っていたが︑儀礼的なものでしかなかった︒
十月十三日︑ティエールはフローレンスで︑エマニュエル
<§自国日ヨ餌壼色に会見した︒そこでは彼ははっきりと︑外
交面ではなく軍事面で調停に協力して欲しいと要求した︒具体
的には十万の援軍を出していただければ︑リヨンにいる四万を
それに合流させて︑協同軍事行動がとれるという計画を説明し
た︒ティェールの熱意に動かされて︑エマニュエルは︑かつて
イタリァ統一の時にはフランスに助けられたことを考慮し︑テ イエールの要請をうけ入れることにした︒しかし立憲君主の彼
は︑議会の承認をえなければならず︑ティェールを議場に案内
した︒そこでティェールはかなりの時間をかけて彼の要求を訴
えた︒その結果︑議会も軍も彼の要請にこたえようとしたが︑
しかし最後になって︑閣僚がそれに反対した︒"イタリアは平
和と厳格な中立を維持すべきである〃と︒かくてティェールが
列強四国からえたものは︑フランスとプロイセンとの休戦を支
持するという無責任な態度だけであり︑何ら具体的︑物理的な
(2)援助をうることはできなかったのである︒
ティエールは十月二十一目︑国防政府の代表団がいるトゥー
ル↓oξωにもどり︑彼の任務のすべての結果を報告した︒そ
して二十八日には︑何ら有効な手立てもなく︑プロイセンとの
交渉のため︑そこを出発してパリを経由し︑三十日にヴェルサ
イユに到着した︒ビスマルクは︑フランスと講和条約を締結す
る場合︑国防政府との問で行なうことには反対であった︒とい
うのは︑その政府はいわばパリの革命によって誕生したもので
あって︑全フランスを代表しているものではないからである︒
よって︑もし条約を結ぶならば選挙でやり直して︑新たな政府
との間で行なうことを彼は望んだ︒これはティェールと似た考
えであり︑ティェールも政府代表団から講和交渉の権限を委任
されたとはいえ︑この権限が果して有効であるかどうかは疑問
に思っていた︒ビスマルクと会見するためには権限主体を完壁
にする必要があると考えていたので︑ティエールは︑できれば
彼とはあわないつもりでいた︒こうした点については︑当然国