デュルケムの契約理論
杉山由紀男
はじめに
デ ュル ケ ムの契 約理 論
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筆者は以前︑幾多のデュルケム研究のなかにあってほとんど論及されることのなかった彼の所有権に関する理論につい
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て拙論を試みた︒そこでは︑デュルケムの所有権論を彼の宗教概念の発展と個人主義思想との関連で論じ︑彼の社会学の体系におけるその方法論的及び実践的意義について考察した︒おもに﹃社会学講義﹄(卜袋§的§89ミミN回㊤αO・以下
﹃講義﹄と略する)において展開される所有権についての講義のなかで︑デュルケムは集合的所有から個人的所有への形
態変化を歴史の必然の流れとみており︑とりわけ個人的所有こそは︑彼の主張する道徳的個人主義の物質的基盤をなすも
のとみなしている︒彼は所有権の発生を宗教的信仰のなかに探ることによって︑所有権のもつ道徳性の聖なる根源を解明
し︑道徳的個人主義とその物質的基盤としての個人的所有とに聖なる基底を与えて︑これを確保し︑社会の統合を回復し
ようとする実践的意図をそこに示したのである︒
しかし︑デュルケムは現状の私的所有制度をそのまま肯定したのではなかった︒彼はこれに厳しい批判の眼を向けてい
る︒彼の批判点は︑個人にはじまり個人に終わるという意味での個人的所有そのものにあるのではなく︑今日的所有の取
得の源泉に対して向けられており︑そこから今日の私的所有制度の不公正が糾弾されている︒そして彼はこの源泉とし
て︑契約による交換と相続を挙げ︑特に契約については契約法の史的考察を行なっている︒筆者は︑彼の契約理論につい
て︑拙論では論の展開の都合上︑ごく簡単に触れることにとどめておいたのであるが︑デュルケムの思想の全体像に接近
するためには︑この契約理論についての詳細な検討を欠くことはできない︒それは︑この理論が︑所有権論との関連にお
いてばかりでなく︑彼の社会学の体系のなかで︑極めてユニークな意義を内包するものと考えられるからである︒本稿は
前稿の続編というかたちでこれを主題として拙論を試みることにしたい︒
デュルヶムの契約理論について論及した研究はそれほど多くはないが︑所有権論についてのものに比べれば︑諸研究者
がこれに触れ論稿をかまえている︒たとえば︑T・パーソンズは既にその著﹃社会的行為の構造﹄(↓ミ⑦融§ミ越ミ
⑦09ミ缶ら識§℃一㊤︒︒刈)において︑デュルヶムの契約理論を取り上げている︒これは﹃講義﹄が刊行される以前のものであ
るため︑専ら﹃分業論﹄(b恥ミミミ鴇§§壁蟄§農8寓鼻一︒︒㊤G︒)で展開される契約の理論が考察の対象になっている︒
また︑ごく最近ではJ・ハーバーマスが︑﹃講義﹄における契約理論もふまえて︑﹁聖なるものの言語化の合理的構造﹂と
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いう主題に即して︑デュルケムの契約法の史的分析に独自の意義を見出している︒一方︑我が国においても︑佐々木交賢( 3 ) ( 4 )
氏や宮島喬氏をはじめ︑幾人かがこれに論及している︒そして︑それらにみられるのは︑デュルヶムが契約の﹁非契約的基礎﹂ともいうべき︑契約の前提となる社会的規制体系の存在を強調することによって︑方法論的個人主義を批判しつ
つ︑社会的分業に基づく有機的連帯主張の論拠を確固たるものにしようとしたといった点に︑また︑現今の﹁自由な﹂契
約の﹁不正﹂を暴くことによって︑功利主義的な経済理論を批判し︑さらにそれと関連して階級的不平等の問題をも射程
におさめて︑人間にとっての真の自由と平等を問うたという点に︑彼の契約理論の意義を見出していることである︒
しかし︑筆者は諸研究者の指摘するこうした点を認めつつも︑これらとは少々異なる視角からデュルヶムの契約理論に
接近してみたい︒まず彼の所有権論が彼の宗教概念の発展と個人主義思想との関連でその方法論的︑実践的な意義をもつ
デ ュル ケム の契 約理 論
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ように︑所有権論とワンセットで展開される契約理論にも同様の意義が見出されることを明らかにしたい︒第二に︑彼の
契約理論が︑その結論的な部分において︑所有権論のなかで否定的に退けられた︿労働﹀理論︑︿意志﹀理論(所有の源
泉を︑それぞれ︑人間の労働︑人間の意志の行為に求める理論)を総合する契機をもつこと︑そしてこれをかれの社会主
義についての研究との関連で考察してみたい︒
さてデュルケムは︑その著作の随所で契約について言及し︑これに対する彼の関心の深さを示している︒ところで︑彼
がまとまった形で契約の問題に言及しているのは﹃分業論﹄と﹃講義﹄においてである︒﹃分業論﹄では︑スペンサーの
功利主義的な経済理論の批判という文脈で契約の問題が扱われているが︑彼が契約に関心を向けるのは﹁契約が個人主義
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のそして特に功利主義の社会理論において重要な役割を果しているから﹂というよりも︑むしろ︑そうであるほどに︑ま( 6 )
た﹁契約は近代法理論では法関係一般のパラダイムにまで高められている﹂といわれるほどに︑契約という事実が︑近代における人間と人間との関係を良くも悪くも象徴的に表現する事実であるという認識が彼にあったからであるというべき
であろう︒彼は︑後に﹃講義﹄において契約の問題自体を主題として再び取り上げるのである︒本稿では︑この﹃講義﹄
における彼の理論を中心に論を進め︑必要に応じて﹃分業論﹄その他にも目を向けながら︑彼の理論の発展という点をも
考慮していきたい︒
二所有権と契約
﹃講義﹄の訳者の一人である宮島喬氏は︑その﹁訳者あとがき﹂のなかで︑﹁所有権法から契約法への考察の移行に︑デ
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ユルヶムのいう意味での必然性をみとめうるかどうかについても異論は生じよう﹂と指摘している︒この点は︑所有権との関係においてデュルヶムが契約というものをどう認識していたのかに関わるだけに︑彼の契約観を正しく捉える意味か
ら︑まず彼におけるこの﹁必然性﹂について検討する必要があろう︒そうすることによって︑彼における所有権と契約と
の関係が正しく理解されるように思う︒
デュルケムが契約法の分析に筆を進めるのは︑所有の発生という問題から今日における所有の問題へと目を転ずるとき
である︒彼は契約による交換を︑相続︑贈与︑時効などとともに︑今日的所有の取得の源泉とみなしている︒これは既に
彼が︑所有の源泉を人間の労働に求める︿労働﹀理論を批判した際に︑自らの論拠を確たるものにすべく引き合いに出し
た︑フラソス民法典の所有権の規定を︑﹁民法七一一および七一二条は︑所有権は︑相続‑贈与‑従物取得〜時効︑
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または債務の結果として獲得される︑と述ぺている﹂と紹介した部分にも対応している︒彼はここで︑これらの規定がいずれも労働の観念を含んでいないことを強調する︒そこで︑デュルケムが今日の所有における取得の源泉として何故契約
をことさら重視するのかを彼が労働と契約の関係をどう捉えていたかということのうちに探ってみなければならない︒
この点に関するデュルケムの基本的見地は﹁労働は︑交換を通じてしか所有を生み出すことはできないし︑あらゆる
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交換は︑明示的あるいは黙示的な契約である﹂という点にある︒この点は前稿でも触れたので詳細に論ずることはさけるが︑デュルケムの考えの骨格は︑労働はそれが適用される素材までも生産するものではなく︑そのうえ素材のもつ潜在価
値と労働の有用性は人間の主観的評価︑世論により左右される︒ここからあらゆる所有には労働以外の部分︑その素材に
由来する部分と社会に由来する部分が加わっているというものである︒すなわち彼は︑ある素材に労働が適用される場
合︑その素材はあらかじめ所有されていなければならず︑したがって︑事物はもっぱら労働の報酬︑価格であるととも︑
労働の条件をもなしているとみなしており︑労働が︑それが加えられた事物の全体を必然的に当人の手にもたらすのでは
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なく︑所有は労働の報酬として交換によって媒介されて成立すると考えているのである︒こうしてデュルケムは︑とりわけ今日的所有の文脈においては︑労働そのものよりも︑労働を現実的に所有へと結びつける交換としての契約のほうを基
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本的な事実として重視している︒この点に関連して︑彼が︑労働の観念が所有権にあまり影響を及ぼしえなかったことを示すために︑所有権は労働にもとつくときに正当なものとなるという理論が登場したのがやっとロックとともにであると