• 検索結果がありません。

艾蕪覚え書V 附著作年譜

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "艾蕪覚え書V 附著作年譜"

Copied!
45
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

艾蕪覚え書V

附著作年譜 中田喜勝 A Note on "AI Wu" (V)

With his Publications Yoshikatsu NAKATA

まえがき

青春時代には理想・情熱そして夢がある。艾蕪も例外ではない1925年(大 正14)夏、二十一歳の時、家郷を離れ、大志を胸に、雲南の山野を踏破して、秋 に昆明に到着した。この街で"人生哲学の一課"を学んだのである。留まるこ と一年半、更に徒歩で、国境を越えてビルマのバモーに出たO戦乱の逃避行で はなく、自らの意志による長い苦しい旅であった。この体験が以後の文学作品 に大きな影響を与えている。雲南を抜きにして、艾蕪の文学を考えることはで きない。

そこで、艾蕪と雲南との関係を追究してみる。目次は次の通り。

[罰艾蕪と雲南 控]艾蕪の雲南述懐

l‑1 L

③真紅を嬰粟の花 回艾蕪著作年譜 [□艾蕪と雲南

艾蕪が家郷を離れてビルマに至るまでの経過を年譜にして示すと次の通りで ある。

1925年(民国14・大正14) 21歳

働きながらフランスで勉学という大きな風潮が彼を外国へ行く気にさせ、

"工読互助団"(勤労学生の援助団体)も大きな魅力があった。更に又、親同士

(2)

38

中田書勝

の取決めた結婚にも反対で、何とかして婚約を破棄したかった。そこで、

彼は一生、小学校教師という安全な地位を地棄し、また彼を支持してくれ る立派な社会的なつながりをも塊棄し'て、卒業も待たずに遠い異国へと旅 立った。

"いづくにか双翼を挙げ、激昂して太空を舞ふを得む。萄山に奇処無け れば、吾去りて長風に乗らむ。"という思いであった。彼は孫縛章へ手紙を

4

出し、南洋群島へ行って働きながら勉強したいと伝えた。孫は自分が経営 し、発行している出版物にこの手紙を載せた。その後、同級生の陳厚安と 九組の蘇玉成の二名が彼と同行する約束をしたが、事故のため実現できな

かった。

夏休みになって九組の黄という同じ学年の生徒が故郷へ帰るのに、四川 と雲南の省境まで同道してもよいというので、遂に黄と同行することにし、

成都の九眼橋から乗船し昆明へ向けて出発した。人生の大海に身を投げ、

自分と祖国との出路を尋し求めたのである。これが彼の最初の南への旅で

wmm

彼らは成都から船で楽山を経て確為に到着し、船を捨て、歩いて宜賓・

瑛県へ行った。そこからは独りで箔連を経由して歩きつづけ、雲南の大観

・昭通・東川を通過して、秋に入ってやっと昆明に到着した。

昆明では生活の目途が無くて街頭を流浪した。彼は自薦の推薦状を雲南 省図書館へ出して仕事にありつく場所を手に入れたいと望んだ。雑役でも よかった。仕事の余暇に蔵書を利用して自学自修ができればと思った。し かし、図書館長の遵蒲から拒絶された。彼は言った。 "夫れ青衿の学子を以

しづしか^.えさな

て、量に冷みて席巻の役を為すぺけむや。"と。その後、明善書店の王老先 生の紹介で赤十字社(翠湖の湖畔の館美居の巷内に在った。)に行って、やっと雑 役夫となった。

彼は自分の境遇を嫌悪し、憤慨もしたが決して悲観はしたかった。暇が あれば熱心に読書をした。初めは哲学の研究に従事する準備をしていたが、

書物を購入する資金が無いので、文学へ転向して書くことを練習するより 仕方がなかった。原稿を書き終ると、当時、昆明で唯一の文芸出版物であ る"雲波" (半月刊)へ投稿した。唯美的色彩を帯びた早期の詩"流星"はこ の出版物に発表された。投稿の関係から"雲波社"のヂ澗浦・夏鐘萩・周 泳先らと知り合った。英語の夜学校で英語の補習を受けた時に、陸万美(ペ

ンネームは陸緑噂、女流作家隆昌活の弟)とも知り合ったO

(3)

〔内外の出来事〕

三月十二日、孫中山先生が北京で病気のため逝去。五月三十日、全国を 震願させた"五冊惨案"が発生。全国の人々は激怒した。上海では十万人 のゼネストがあり、北京・漢口などの地もこれに呼応して起ち上がり、反 帝愛国の激しい潮を捲き起こした。

1926年(民国15・大正15) 22歳

香港大学が昆明で学生募集をしたが、彼は雲商人ではないので、受験で きなかった。その上、赤十字社の仕事にも全く嫌気がさしていて、お先兵 略のように見えた。そんな時に、偶然にも、《現代評論≫の誌上に旧友の劉 作賓が劉弄潮というペンネームで発表していた哲学論文《西洋文化と唯物 史観≫ (内容は胡適の文化へ対する意見を批判したもの)を見つけた。友人の学業

が旭日昇天の勢であるのを目の前にして、自分の前途が.I妙正としているこ とを益々感じた。更に希望の無い恋は彼を異常に苦しめて、自己嫌悪、自 己卑下に陥り、次第に自暴自棄の思いが芽生えた。自己との苦しい闘争を 経て、今後は奮闘し続けて、世界と自己とを克服しようと決意した。

冬休みに赤十字社を辞め、王乗心(雲南、易門県の人、抗戟期間は昆明で劇団 を作り、王旦東の名で監督をして有名。解放後は昆明の花燈劇団の団長をし、文革中は 故郷へ追放され、恨みをのんで世を去った。)、黄二瞳(雲南、鶴慶県の人、後に出版業 を営み、読書出版社の支配人となり、黄洛峰と改名した。)と一緒に易門県へ行って 義務教育を担当した。

〔内外の出来事〕

一月、毛沢東が広州に農民運動講習所を開設。更に三月、 《中国社全階 級分析≫を発表。十八日、段祥瑞政府は反帝愛国の群衆を残酷にも鎮圧し て、二百名近くの死傷者が出た。"三・一八"惨案である。二十日には蒋介 石が"中山艦事件"を起こして、国共分裂を計った。七月一日、広東政府 は北伐宣言を発表。九日、国民革命軍は出陣に当たり、北伐の完遂を誓っ た。雨湖方面の先遣隊は共産党員を中心とした菓挺の独立軍団であった。

八月、魯迅の第二番目の小説集《紡檀≫が北新書局から出版された。九月、

棄挺の北伐軍は武昌を攻略した。

1927年(民国16・昭和2) 23歳

春、易門から昆明へ還ったO昆明では雲恵の軍規唐継嚢が失脚する上上土

(4)

I

中田善勝

う政変が発生した。彼は極めて大きな期待を懐いて、その新しい局面に接 したが、政変の結果は単に一つの軍閥が倒れて、別の軍閥が生じたに過ぎ ないことが次第に分かって来た。彼は群衆の大会に参加したが、赤十字社 の雑役夫の作業服を着ていたので人々から軽視された。時局へ対する意見 書を起草し、社団を作る準備をしたが、それは政治上の圧力によって漬さ れた。生きるに拠りどころなく、といっても赤十字社へはもはや行きたく なかったので、立去るべきだと彼は感じ、昆明から、雲南からそして中国 から遠ざかり、更に広くて遥かな天地へ飛び去りたいと考えた。

三月、親友の王乗心・陸万美・周泳先に別れを告げ、昆明を離れて独り でビルマへと旅立った。禄豊・合資・祥雲・弥渡・雲州・順寧・永昌・騰 越・干崖を経由して、ビルマの克欽山(カチン山)に入り、最後はイラワヂ 河の河畔の大商都バモーに到着した。

しかし、依然として生活の目途が立たないので、二名の苦力の案内で、

またカチン山中の茅草地と呼ぶ山谷に引返し、漢族が営む一軒の小さな旅 龍で馬糞を掃除するひどい仕事をすることになった。その外、旅龍の息子 や娘の家庭教師をも兼ねた。この時期の生活で、彼は多くの下層階級の人

々と接触した。

九月にバモーに還り、苦力ばかりが住むあばら屋に泊り、昼間はあちこ ち歩き廻り、夜間は書きものの練習をした。 《イラワヂ河畔にて≫と題する 詩はこの時に書かれた。九月二十五日、バモーを離れて船でシェグー経由 でカサーに到着し、そこから汽車でビルマの旧都マンダレ一に到着した。

十月にはビルマの首都ラングーンに到着し、五十唄路四号(Moung Khine Street)に在る騰越旅館に宿泊した。

〔内外の出来事〕

三月、毛沢東は《湖南農民運動考察報告≫を発表。二十一日、上海の労 働者は第一次起義を起こして上海を解放した。二十三日、北伐軍が南京を 取戻した。四月六日、李大別ら二十名が北京で張作霧に逮捕され殺害され た。十二日、蒋介石は上海で"四・一二"反革命政変を起こした。七月十 五日、迂精衛が"分共会議"を主催した。八月一日、周恩釆、未徳らが南 昌起義を指導した。七日、中国共産党中央委員会は緊急会議を召集して、

陳独秀の右傾投降主義路線を清算すると共に、陳の党総書記の職務を解い

た。九月、毛沢東は秋収起義を指導した。十月、起義部隊を率いて井南山

に到着し,最初の農村革命根拠地を建設した。十二月、南京政府はソ鞍と

(5)

の絶交を宣言した。

(「四川作家研究」一四川大学学報叢刊第十二韓に基づいて作成。)

上記の年譜に基づいて、成都からラングーンまでの途中で、通過または滞在 した地名を列挙すると次の通りである。

成都(九眼橋)‑楽山‑健為‑宜賓‑瑛県‑環連‑大観‑昭 過‑東川‑昆明‑易門‑昆明‑禄豊‑合資‑祥雲‑弥渡

‑雲州‑順寧‑永昌‑騰越‑干崖‑カチン山‑バモー‑

シェグー‑カサ‑‑マンダレ‑‑ラングーン

上記の地名の中に所在不明のものがあったので、艾蕪先生へ書信でお尋ね したら、ご多忙中にもかかわらず、早速、自筆のご返事を戴いた。何時ものこ とながら先生のご人格には頭が下がる想いである。次のことが判明した。

1.楽山は昔は嘉定と称し、成都と牲為の問に在る。

2.大関は葛連と昭通の中間にある。

3.合資は街で、禄豊と楚雄の問にある。

4.今では雲州は雲県、順事は鳳慶、永昌は保山と称している。

5.千崖は今は盈江と称する。

要図にして示すと次の通りである。

艾蕪足跡要図

(6)

42

中田書勝

[到艾蕪の雫南述懐

"雲南は私の心に美しい種子を播いた"

歩いて行くという方法で一番長い旅をしたのは雲南と言える。雲南の東部と 西部を通ってビルマとの国境に入ったが、馬に乗ったことも射ナれば、自動車 などなおさら乗ったことがなかった。途中の深山高嶺や大河の激流は珍らしく て美しい眺めを満喫させてくれた。同時に祖国の大地や大空に対する大きな深 い愛情を持つように鼓舞された。

私は一・二篤の散文と旅行雑記とを四川の出版物に書いたことがあるが、文 芸作品を正式に発表したのは昆明に居た時であった。雲南の文芸半月刊の"雲 波日に私の新詩《湖畔≫が載ったことを記憶している。翠湖の畔で、夜に看た り感じたりした景色を描写したものであった。その後、ビルマのラングーンの 華僑紙(ラングーン日報)に新詩をいくつか披露したことがあったが、いずれも思 い出すことができない。しかし、この《湖畔≫の詩は今でもなお記憶している。

翠湖の美しい眺めが私に与えた印象は極めて深いものであったと言うことがで きる。今、憶えている詩文を再び次に記しておく。

低個在湖浜, 天空的星晶登, 水里的星棲清, 都締着我眼波盈盈。

忽地一閃涜晶, 天空的星向我飛奔, 水素的星朝我湧進。

聯口阿,我要擁着双星, 光燦地飛騰。

湖畔をさまよえば 夜空のキラメク星も 水面の淋しき星も 涙ぐむ我に光そそぐ。

ふと流れ星の一閃すれば 天の星は我へと馳せ下り 水の星は我へと湧きあがる。

あ,,吾れ二つの星をいだき 燦然といざ飛期せむ。

(筆者訳)

この詩が読者の眼に触れたのは今から五十年あまり前である。私が今午,

"五四運動"六十周年を記念して書いた短篇小説《真紅な嬰粟の花≫には《南

行記続篇之‑≫という副題をつけて,重慶の大きな出版社"紅岩'つ二発表する

ことにしている。やはり雲南・ビルマの国境地帯に取材したものである。この

ことは私が雲南の自然の風景や働く人々へ深い想いを懐いていることを表わし

ている。確かに雲南は私の若い心の土壌に限りなく尽きることのない思い出の

種子を播いてくれたのであった。

(7)

ここまで書いて釆ると、昔のある出来事が追憶というスクリーンの上に突然、

現われて、私は黙っていることができない。翠湖の湖畔の"館美居巷"内の赤 十字社で雑役を一年半ほどしたことを私は記憶している。そこでは患者の受付 は半日だけで、午後はガランとして人気がなかった。住込みの医者と会計係は よく外出して、私一人だけが残り、あの二つの中庭の見張りをしていた。実に 静かな場所であった。

私は通りで、ある青年に出違った。彼は学生服を着ていて、成徳中学の徽章 のついた帽子をかぶっていた。彼は私に馴々しく挨拶をした。戎日、彼が言っ た、 "大観楼ヘボート遊びに行こう。娘が二人来る。楽しいぞ。''実は私たちは日 頃から話をしたこともなければ、お互の名前も知らなかった。急にそんなに親 しげに振舞うので、私は驚き、不思議に思った。私はすぐに断わった。その後 は彼とは二度と会わなくなってしまった。

このことは私の生活の道程で大して重要なことではない。しかし、青年の犯 罪の恐るべき様相を目にすると、思い出さざるを得ない。私は考えてみたこと がある。もしもあの時、私が彼らに偏されて、そのグループに無理やりに入れ られていたらどうなっていただろうかと。彼らは私というこの人間を尊敬して 仲間にしようとしたのではなくて、赤十字社の場所が気に入っていて、盗品を 隠匿したり、互いの連絡に便利な交通上の要所であったからである。

正直なところ、私は当時、学校を出たばかりで、人情や世間のことに通ぜずこ 上に述べたようなことにも気付かなかった。私はあの"学生"は悪い奴だと考 え、ただ私が知った人生への考え方に照らして拒絶しただけであった。この件 については、 "五四運動"に感謝せざるを得ない。人々に国や世界の重要なこと に関心を持つことを教えたからである。若い人々を発憤して有為なことをする ように鼓舞し、遠大な志を持たせたのである。更に又、文芸を心から愛して、

日常看たこと感じたことや境遇を拝情的な美しい詩にして、心を更に高い処へ 昇華させることをも教えたのである。

私が雲南で受けた教育は非常に豊富で、人生哲学の第一課は昆明の街で受け た。今日の若者はこの一課に出るはずもないし、彼らが再びこのような授業に 出席することを私は希望してはいない。彼らが《人生哲学的一課≫を読んで、

今日の社会主義の性の中にいる幸福を感じ取り、大いに頑張り、 "四つの近代 化"のために大いに力を発揮することを私は希望しているだけである。或いは、

筆を握って、都市にいても田舎にいても、見聞したことや感じたことを人々を 感動させる美しい詩や文に書きあげれば、心は安ら割翻央になるに違いない。

(8)

44

中田喜勝

しかも環境の汚染を受けるはずもないのだ。

1979年9月13日干成都

以上の述懐は"艾蕪近作"偶川人民出版社1981)に収められている。 "雲南は 私の心に美しい種子を播いた。"という題目でも分かるように、艾蕪は雲南で青 春時代に貴重な体験をしているのである。

四川省の成都からビルマのバモーまで、その距離約1,400km、糎為まで船を 利用しただけで、後はあの雲南の山野を徒歩で踏破している。 21歳という若さ のせいばかりではない。 "五四運動"に啓発された青年の強い意志がその長い道 程に燦然と光っているのだ。

"あの雲南の山野"と書いたのにはそれなりの理由がある。筆者も青春時代 の一時期を雲南省の西南部及び北ビルマで過ごしたことがあるからだ。雲南に はほんの僅かの足跡しか無いが、その深山幽谷は理解できる。脳裏に高梁東山 が替え、眼前に怒江の賛流が流れる。あれから三十七年の歳月も箭の如く流れ 去ったのだ。

姑且不論、艾蕪先生は雲南漂泊の貴重な体馬釦こ基づいて、多くの短篇小説や 散文を書いておられる。 《山中牧歌≫ ・ 《南行記≫ ・ 《漂泊雑記》などにその作品が 収められている。

"五四運動"六十周年を記念して書かれた"真紅な群粟の花"も雲南を題材 にした短篇小説である。この短篇は人物の個性が鮮やかに描き分けられ、心理 描写も微妙ですばらしい。

訳出しながら、筆者は雲南や北ビルマの山野を思い出す。特異な服装をした カチン族の娘たち、顔が日本人によく似たシャン族の娘たち、強い地酒を煽る カチン族の女たち。彼女たちで賑う市場。格樹の下の露店で、芭蕉の葉に小さ

く包んで売られていた黒い膏薬のような阿片。山深く踏み入れば、牛の頭蓋骨

を柱にのせ、村の入口に把っていたカチン族の部落。思い出せぼきりが無い。

(9)

まっかけし

131責紅な常葉の花・一南行記続篤の (五四運動六十周年を記念して)

道を下りて山の登り口を抜け出ると、小さな平地が見え始めた。その真申に は数本の"黄桶樹(注1)が枝の薬をひろげて炎熱の陽光を遮ぎり、大きな濃い 蔭をつくっていた。樹の下では大勢の人が商いをしていた。丁度、昼下がりで あった。私は人跡稀れな山の道を歩いて、喉が乾き、腹が減りそれにひどく疲 れていた。市場のそんな人だかりを見て、ほんとうに嬉しかった。食事をする 露店を急いで捜し、何か腹の足しになる物を買うつもりだった。

市場にはどこにも腰掛けは見当らず、竹で編んだ背負託ばかりで、その中に は出来合いの食べものがそっくり入れてあった。うどん・粉条(注2)・餌塊(注 3)・掠粉(注4)などが入れてある。その外、石を三つ並べて作った"かまど' には鍋が置かれ、食べものを焚いて温めたのに酢醤油や唐辛子を添えて出すの

OTV

である。背負寵には酒瓶も入っていて、碗に入れて搾り売りをしている。私は

ひとけ

空腹で、何でもよかった。人気の少ないある露店に近づいて地面に腰を下ろし た。売っているのは女で、四十歳あまり、商買上手の働き者らしく、客の顔色 をすぐ読みとった。私にていねいに尋ねた。 "お客さん、お酒ですか。「つまみ」

もありますよ。落花生や卯が。"そう言って彼女は下の別の背負龍を指差した。

背負龍の後には娘が一人立っていて、年の頃、十七・八歳ぐらい、ほんのり紅

‑> V

い顔には珠玉のような光沢があって、実に天真欄浸、市場の人々を眺めまわす のが面白いようであった。市場には黒い額当てで頭を包み、赤い下げ袋を肩か

ノヽ

ら斜めに吊し、長い刀をさげた景頗族の青年がいる。短かい黒い上衣で、銀貨 をボタンにしたのを着、露わな膝頭には黒い藤の蔓をグルグル捲きにした短 かいスカートの景頗族の娘もいる。もっと多いのはやはり赤や緑の長いスカー

トに白い上衣を軽やかに身につけたシャン族の女たちであった。

母と娘の二人は露店を開いてはいるが、身なりから看ても明らかに漠族の女 性であった。母親は娘に商売にもっと身を入れ、テキパキせよと注意した。"早

く卵を出して.′キョロキョロしたら駄目.!"私は慌てて、 "酒は飲みません。つ まみも要りません。"と言った。

娘は背負龍から卵をもう取出していたが、私が要らないと言うのを聞いて、

少し不平らしく母親へ言った。 "お客さんは要らないってよ。"明らかに母親の 小言が不満らしかった。そう言って恥ずかしそうに顔をさっと赦めた。

私は気の毒に思い、弁解して言ったo"暑いから飲まないのじあなくて、もと

(10)

46

中田書勝

もと酒はやらないのです。"

母親は感心した顔付きになり、私を視つめて親しげに言った。

"若い人はさ、酒を飲まないのが一番いいよOそれじあ何か食べたら。掠面 (冷しうどん)と掠粉はもう売切れたけど、餌塊ならまだありますよ。"

私は言った。 "餌塊を少し煩って下さい。"

餌塊とは焚きあがった"ごほん"をまるめて平たく描いて、厚目に切り、それ をあぶって、上に胡槻味噌をまぶしたもので、非常にうまい。

私が食べていると、母親は私の二本の脚に興味を懐いて言った。

"遠くから釆たのでしょう。何処へ行くんですか。当ててみましょうか。ビ ルマへでしょう。''

t^m.i

私は答えないで、食べながら微笑んだ。何処へ行くのか言いたくなかったし、

特に見知らぬ人の前ではそうであった。当時、私はビルマへ行こうとしていて、

しかも二三日も歩けば到着するはずであった。

答えなくても、彼女は一目で見抜いて、また話し始めた。

"ビルマは銭になるってみんな知ってるよ。銀の工場・ルビー工場、玉の工場 があってね。でも今の時期に行っては駄目、もうすぐ雨季だから。マラリヤ が方々に流行って、それに揮ったら、二三日でおしまい.どんな薬も治せな いんだよ。秋に行って春帰って来る人が多いのはその雨季を避けるためさ。"

私には初耳だったので、じっとしておれないで、尋ねた。 "雨季はいつです か。"

私が彼女の言葉をそのように気に留めたので、彼女はすぐに真顔になって親 切に言った。"よく知ってますよ。あちらはもうすぐ「水祭り」で、二ケ月あま

りしたら雨季。毎日雨でね。聞いたことありませんか。"

私はただ頭を垂れて言った。"そんなことにかまってはおれません。仕事があ ったら、何処へでも行くんです。"

彼女は一寸、溜息をついてから、娘へ言った。 "卵を二つ出しておくれ。"

娘は丁度、景頗族の女二人へ‑碗ずっ酒を酌んでやっていたが、彼女らの上 衣の襟に外国銀貨のボタンがあるのを、興味深く些細に看てから母親へ言った。

"お母さん、見て、あのボタンには人の顔が彫ってあるよ。"

母親は"あれはビルマの貨幣です。"と私へ言った。彼女は娘が手渡した"ゆ で卵"を受取って私に渡してから言った。"卵をお食べ。餌塊だけじあ腹の足し にはなりませんよ。"

私は持ち合せの銭が少ないので、腹半分食べられるだけだし、その上、卵を

(11)

ど食べられはしなかった。私には全くの蟹澤品であった。私は断わって、私の 餌塊だけを食べた。

彼女は微笑しながら続けて言った。 "この辺では、卵は廉いのよ。"彼女は私 が受取らないのを知って、手から卵を放なし、私をしばらく視てから尋ねた。

"ねえ、ずっと歩いて行くんですか。誰かの荷物運び?寵や天秤棒をかつぐ とか。"

私は笑って言った。"そんなことは毎日しています。外でありついた仕事は何 でもします。"

彼女はうなづき感心したようであったが、また笑いながら尋ねた。"畑仕事に 備われたことがある?"

"ありますよ。大抵、手伝いで、一・二日すれば終ったけど。"

彼女はこの言葉を耳にすると、黙りこんで、頭の上から爪先までじっと私を 視つめた。私が餌塊を食べ終るのを見て、彼女は親しみをこめて尋ねた。 "も

っと食べたら。"私は首を振った。実は腹一杯にはなっていなかったが、懐工合 からやはり節約する方がよかった。普段は路上に人家が無く、市場にも行き当 らないので、昼にはすぐ空腹になり、夜に足を休める場所に到着してから食べ ることにしていた。だから、今日は牌半分にしておいてもいいのだ。

彼女は私が腹一杯ではないのを知っているらしく、炉で焼いていた餌塊を一 枚取り上げ胡轍味噌を塗りつけて私に渡し、真心溢れる,顔付になって言った。

"もう一つお食べをさい。若い人がそれくらいでどうしますか."

食べたら銭が要るのに、どうして受聯れようか。ただ頭を振って言った。"食 べません。"彼女は笑って言った。 "お食べよ。わたしのオゴリよ。銭は要らな いよ。"私は驚き、不思議に思って、彼女の方へ目をやり、冗談でも言っている のではないかと思った。彼女は真顔になって小さな声で言った。"話があるんだ けど、私の手伝いをしてくれないかね。私がいるあの山には畑があってさ、丁.

度、二三日忙しくて人手が要るんだよ。来てくれる?近いのよ。一里あまり 歩いたらすぐ着きます。"

私にとってはいい話であった。二三日仕事をすれば生活費がまた稼げるし、

全くこちらの方が頼みたいくらいだったので、二つ返事で承知をした。彼女は 満足そうに笑い、私にその"餌塊"を手渡しながら言った。"お食べ。銭は要ら

ないよ。"

黄果樹(注5)の下の露天市場は商いが終り、私は彼女たちの背負龍を背負い、

売って空になった酒瓶を入れ,母と娘に扱いて山の鼠の道を登っfz,山地

(12)

m

中田書勝

多く、樹の葉が茂っていた。ある樹は項きが小さな花をつけた藤ですっかり蔽 われていて、まるで女の頭にのせた珠飾りのようであった。またある樹は樹全 体が格樹で包まれていて、生命を失くし朽ちた状態を呈していた。山の道を歩 いていると、時には平たい広い平地が現われ、そこには真紅な"畢菜の花"が燃

えさかる火のようにならんでいることもあった。曲った山道が高い所に出ると、

時には山の下の方に平野が小さく見下されたが、そこはもう夕暮れ近くの白い 霧が蔽っていた。

母親が私に教えた。"今ごろは霧が少ないけど、もうしばらくしたら多くなるん さ。それがね、ほれよく言うマラリヤの毒気で、ひどいもんよ。毒気にあたっ たらどんな薬も効目無し。その時期には街へ下りて行っても誰もが下では泊ら ないで、きつくても山を登って帰って来るのさ。"

私は言った。 "そんな所にも人が住んでいるんですか。"と私は質問をした。

確かに山の下の方の平野には竹の緑がこんもりとした村落が点在していた。

母親はすぐに言った。 "あれは掘夷ですよ。不思議ですね、あの人たちはマラ リヤの毒気を怖わがらないんです。"揮夷とはシャン族のことである。しばらく歩 いてから彼女はまた言った。"山頭(注6)や栗東(注7)や崩龍(注8)や私たち漢 族は皆、怖わがって、山の上に来て住んでいるのに。"

私は雲商人の言い方にならって彼女を"大場"と呼んだ。"大場、このあたり はそんsこひどいのに、なぜここに住んでいるのですか。漠族のいる所へは帰 らないのですか。"彼女は笑いながら問い返えした。"あなたはなぜここに来たの。"

私も笑って答えた。"僕ら若いでしょう。何時も外へ出たがっているんですよ。

ここが居り辛いところと前もって分かっていたら、僕も来なかったのに。"彼女

くに

は一寸、笑って言った。"郷里に居れなくなって出て来たのでしょう。"私は嘆い て言った。 "そうも言えます。居れなくならたんです。"私は昔のことを話した

くなかった。

彼女はすぐに尋ねた。 "金持ちめが編したのですか。"私が返事をしないのを 見て、また尋ねた。"税金がひどいのですか。畑を取りあげられて畑仕事ができ なくなったの?あなたたち一家を着のみ着のままで家から追い出したのです か。"

私は黙って歩き、答えなかった。彼女はそれ以上は追求せず、ただ同情して 言った。"全くだね。こんな所に来る人は故郷のことを話す人なぞ一人も居ない のだから。"彼女はそう言って私の質問に答え、彼女らの疑問にも答えた。私は 今更質問する必要は無くなってしまったのだ。

(13)

しばらく歩いてから彼女は私の年齢を尋ねた。私は言った。"まだ二十二歳に なりませんO"彼女は7‑と溜息をついた。彼女が口を開いた。 "もし長男がい たら、丁度、そのくらいの年齢だね。山の下であなたに逢った時、あの子のこ とを思い出したよ。あの子は‑・‑"彼女は言葉が続けられなくて、声をつまら せているようであった。しばらく歩くと、平静に戻ったらしく、また話し出し たが、その声は悲しげであった。"あの子は山の麓に二三日いたが、マラリヤの 毒気にすっかりやられて死んでねえ。"続いてまた言った。 "私たちがいる山の 上は何の心配もない。長い間、住んでるけど病気にかかったことも無い。ねえ ー、平地はよくありませんよ。山の上はそれあとてもいい所だよ。故郷へ帰え ろうなんて考えたこともありませんよ。若いあなたはやはりいい土地に釆まし たよ。"

彼女の娘は一言も話さず、背負龍を背にして前の方を歩いていた。私たちの 話には全く興味が無いらしく無関心に見えた。道端で休憩する時には、彼女は いつも少し離れて腰を下ろし、群をなして飛ぶ鳥を面白そうに眺めていた。珍 らしい花を摘むこともあった。私は道端の草花はよく見かけていたので、興味 が湧かなかった。帽子よりも大きな葉を伸ばしている野生の植物が珍らしいと 思った。またあちこちに"ねむり草"があって、手でさっと払うと薬が全部下 へ垂れ下がるので珍らしかった。実は彼女は話し好きで、彼女たちが住んでい る山の上は暮らしやすく、牛や羊や鶏や家鴨が群をなしており、あちこちに果 樹があって、食べ物は食べ切れないほどだと語った。また、山の谷間や竹林に 民を仕掛けて野生の獣を捕え、山の下へ売りに持って行くのだとも語った。彼 女たちの村に近づくと、広く開けた場所があって、真紅な"嬰菜の花"が現わ れた。どうやら彼女たちの主な農作物らしく、阿片を作っているのだった。外 省人が讃美する雲南の阿片は大体このような山地で作られているのだ。

村はこんもり茂った竹林の峰の間にあった。竹造りの多くの人家が果樹の花 をつけた枝や竹垣で囲まれた庭と一緒に見えて来て、楽しい景色であった。シ ャン語で"マーサンボ"という果樹が高々と奪え、分れ枝が無く長い葉柄の葉で、

樹にはお碗大の実がいっぱいについていた。芭蕉は大きな葉を展げ、豚の肝に 似た紅い大きな花をぶら下げている。いずれも目を見はらせ、いかにも所変わ れば品変わるという風景を呈している。彼女の家は竹が欝蒼と茂った斜面に在 って、家の二階から手を伸ばすと竹の枝が手にとれた。階下はシャン族の家と同

じように、牛・羊・鶏・家鴨を飼っている。私たちが家に上がると、一人の娘 が出迎えて背負った荷物を下ろすのを手伝った。その娘は私を不思議そiLJ二見̲

(14)

50

中田喜勝

て、すぐに座を外した。

い/,r>

家の床の中央には炉があって、鍋にはごはんがもう炊けていて、壷をかけて お湯を沸かしていた。大場は私を炉のそばに坐らせてからお茶を入れてくれた。

(よか

私と向かい合って坐り、静かに言った。"娘が二人いるだけで、外の人はいませ ん。"彼女は自分でお茶を入れ、口先で吹いて冷ましながらゆっくりと飲み始め た。

二人の娘は断えず出入りして、時には水桶を提げて水汲みに家から下りたり した。(荏:高床式の家だから)私は彼女ら二人は似ていないと思った。山の下で見 たのはまるい顔で、白い顔にはほんのり赤味があって、天真欄浬とした感じで ある。山に来て知ったばかりのその娘は痩せていて、顔が少し黒く、眼の動き が機敏でかしこそうに見えた。大絹はしばらく茶を飲んでいたが、痩せた方の 娘を指差して言った。 "これは私の長女です。"ところが、二人は年齢は同じぐ らいで、どちらが年上か年下か分からなかった。ただ痩せた方の娘は眼光がき つく、人を見る目が冷たく、詰問するような感じである。探るような様子はし

リtササl

たたか者のようにも見えた。次女はいつも微笑んでいて、人見知りせず、楽し そうに仕事に精出しているようであった。夕食の時には彼女も承知して自分の を食べたが姉の方は、私をチラッと見てすぐに座を外した。その夜は夕食に膳 肉(塩漬けして乾した肉)が出た。母親が私に酒を飲むかと尋ねたので、飲まない と辞退すると、彼女はもう盃を手にして酒を注ぎ、飲みながら言った。"酒飲み の男は多いのに、あんたも見習ったらいいがね。前に出て行った小羅は煙草も 酒ものんだよ。"

姉娘は食事しながら言った。 "あの人は阿片は吸わなかったよ。"讃美の声色 であった。

母親は私へ言った。 "ここじあ、阿片をやらないと駄目なんです。あんたはや れますか。"

姉娘はさっと私の方を見て、まるで彼女が私に尋ねているかのようである。

私は返事をしないで、ただ尋ねた。 "なぜ阿片を吸わないと駄目ですか。"

母親は嘆息して言った。"マラリヤの毒気はひどいのよ。阿片吸うとマラリヤ に罷らないからさ。"

私は不安になって尋ねた。 "ここは毒気がありますか。"

姉娘が笑いころげて言った。 "ここにはありませんよ、そんなものは。"

母親はぐっと一口飲んで、慰めて言った。"安心しなさい。ここにはマラリヤ はありません。明日の朝、起きたら分かりますよ。ここの山の上は、日が出る

(15)

と、すっかり晴れわたっているのに、山の下はね、なんと霧だらけですよ。ま るで部厚い綿を敷きつめたようにね。"彼女はまた一口飲み、 7‑ツと溜息をつ いてから言葉を続けた。"ここはいいよ。でも阿片を植えても、家にじっとして いては駄目。担いで売りに行かなくては。果物が熟れたら、食べ切れないけど、

腐らせても駄目。鶏の卵や家鴨の卵は下ではいい値になるんです。マラリヤの 毒気にはどうしても二三度はやられるけど、阿片を少し吸ったらいいよ。それ でも駄目なら、薬飲んでもいい。若い人はそんなこと知っておかなくてはね。"

姉娘はまた私の方をチラリと見て、私が聴いて分かったのか気にしていた。

私は食事しながら笑って言った。"あ,、それは大変、僕は煙草はおろか阿片 はなおさら,駄目です。"

母親は笑って言った。"やってみなくては。だんだん吸えるようになりますよ。"

姉娘は私をチラッと見たが、母の意見にはあまり賛成でないようだった。彼 女たちが妙った若い筒がうまいので、私はしきりにつまんだ。姉娘は目ざとく それを見付けて、その筒の椀を私の方へさっと近づけた。が、別に私の方を見 るでもなく、うつむいて食事をしている。

夕食が済むと、もうすっかり暗くなっていた。母親は私に阿片を一服吸わせ ようとした。自分は手慰めに吸っているが、少しも中毒にはなっていない。平 地から上って来て、少しぐらいなら邪気を避け、マラリヤの毒気を迫っ放らう のだとそう言った。母親は更に言った。"この阿片は自分で植えたもので、お客 は勝手に吸うんです。捌くと銀貨がどっさりというようなビルマあたりの高い のじあありませんよ。あの小羅はビルマのことを口にすると、眼を血走らせた もんだ。阿片を売りに持っていけば、金が儲かりはするがね。あの子は今ごろ はきっとバモーの牢屋に入っていると思うよ。ビルマのあのあたりは検査がき びしいからね。人間はやっぱり真面目なのがいいと思うよ。"彼女は姉娘に命じ て私をつれて下の方へ脚を洗いに行かせた。"お前、唐兄さんに木のサンダルを 持って行っておあげ。"彼女は路上で私の姓は何、名は何ともう尋ねていたので、

私のことを中庸とたびたびそう呼んだ。

姉娘が小玉と呼ばれていることを私はもう知っていた。彼女は私を連れて竹 の梯子を下り、家の背後にある山の斜面へ行った。そこには山の泉が流れて来

はし

ていて、サラサラと音を立てている。月が山の端に出て来た。空には明るい星 もあって、あちこちにキラめき、輝いている。一面に竹林を抱えこんだ峰が黒 々と不気味に奪えている。流れには樹の枝の影がぼんやりと入り乱れていた。

蚤が次々に飛んで来て、す‑す‑と樹影の中を遠ざかって行くOそのようを美‑

(16)

52

中田喜勝

しい眺めに私はすっかり見惚れていた。小玉はニコニコして言った。 "洗って、

そこで。"

私は讃嘆して言った。 "君たちのところは実にすばらしい。"それから流れの 水際で脚を洗い始めた。

小玉は冷やかに言った。 "ここが何ですばらしいもんですか。"彼女は木のサ ンダルを私のそばに置いて、さっさと立去ってしまった。人は同じ場所に長い 間、住んでいるとどうしても退屈して釆るのだと私は思った。また私は母親の

ことを思った。彼女はここにもっと長く住むつもりではないのか。しきりに口 酸ぱくここを褒めているではないかと。若い人と齢をとった人とは考え方が違 うのだろうかとただそう思った。脚を洗い続けながら、月下の山峰・樹林・銀 色に光る樹棄そして流れ飛ぶ食を眺めた。私は旅の途中でこれまでにこんぞ自こ すばらしい脚を休ませる場所には出遇ったことがなかった。しかも安心して二 三日留まることができ、流れの水際でのんびりと脚が洗えるのだ。母親が家か

ら私を呼んでいるのが聞えたので、やっと木のサンダルを履いて竹の家へ戻り 上がった。彼女は二階の左の方の部屋に休むように準備してくれた。ベッドは 無く床に寝るのである。月の光が射しこんで来て、とても涼しくて気特がよか った。一日の疲れですぐに深い眠りに陥った。翌日、朝食後、私は彼女たちと 畑へ出て、"嬰粟の花"の除草や追肥をしたが、仕事は相当に忙しかった。二三 日、働いているうちにだんだん様子が判然として来た。山村は全部が漢族の人 家で、このような山村が近くに多くあった。山頭族・崩龍族・葉栗族の部落と は大体一里あまり離れていた。山村には女性が多く、男性は少なくて、半分以 上が老人であった。壮年の人も居たがそれほど多くなかった。若い男はめった に見られなかった。私は畑で草とりをしながら彼女たちに尋ねた。"若い連中は どこへ行ったのですか。"

彼女たちはこの質問には答えないで、黙々と仕事を続けた。仕事中には話を しないというそんな習慣があるのかも知れないと思った。それでも、休憩で木 蔭に涼んだ時に、また同じ質問をした。こんどは母親が答えて言った。 "若い人 はねえ、どうしても街へ下りて行きたがる。全く不注意でね、災難に遇い、病

気にかかって、マラリヤから殺られてしまうのさ。こんなことは言いたくない。

言えば飯も喉を通らなくなるけどね。"彼女たちの家には三人いるだけだし、き っと何か悲しい事があったに違いなかった。興味に駆られてこのようなことを 私が口にしてはいけないのだ。ただ彼女たちは小羅と呼ぶ者に言及したことがあ

ったが、一体誰なのだろうか。私は心の中にそう問いかけたが、それだけでよ

(17)

いのだ。他人のことに関心を持って何になるというのだ、二三日もしないうち に生きるための仕事を仕終えて、また自分の道を歩くのだから。しかし、母親 はしばしば私に話をした。話しはビルマのことである。行く人は多いが、なかな か暮らしの道が見付からない。中には生きて行けない人たちが牢屋に入れられ るようなことを仕出かす。阿片の密売をする。彼女は話しがここまで来ると、

また小羅を罵り始めた。 "あの若い子は人の言うことも聴かんで、今ごろは外 人の牢屋にぶちこまれていないとしたら、その方がきっと不思議だよ。"罵った 後で、私の身の上に話題を変えて言った。"唐さん、あなたほんとに行くんだっ たら、雨季が過ぎてからにしなさいよ。私たちのような者はこの歳まで生きて いるから、いろんなことを見たり聞いたりしてるよ。生きたま,人を断崖から突 き落とすようなことはできません。よく言うでしょう、人の言うことを聴いた ら、半分はもううまく行ってるってね。"

私は我慢し切れずに尋ねた。 "雨季はどのくらい続くのですか。"私はビルマ のことについては確かに何一つ知らず、ただ地理の書物を通じて知っているだ けであった。イギリス帝国主義の統治下にある植民地ということだけを知って いた。

私の真面目な質問に母親は嬉しそうに言った。"四月から八月まで、五ヶ月近 くだね。毎日、大雨で、どこも空はまっくら、毒気が立ちこめているよ。"

彼女の話は言い過ぎで、しかもあまり信用されないと私はいつもそう感じる のだが、私はすぐ言った。"途中で聞いたんですが、今ごろでもビルマの方へ行 く人がいるそうですよ。"私はほんとのことを言ったのだ。

母親は笑って言った。"行くって、行く人もいますよ。その人たちはビルマで

"腹水"を飲んだことがあるのです。"続いてまた鄭重に言った。 "あなたは腹 水を飲むって何のことかまだ分からないだろうね。ビルマに行くには、ビルマ で陰暦十二月の間の水を飲んだことがあったら、また行っていいということです。

八月か九月になってから行って、ビルマで一年過ごすと何も怖いことはなくな ってしまうよ。今は、あなたは腹水を飲んだことがない。雨季めがけて行った ら無駄死じあありませんか。小羅は去年八月に行って腹水を飲んだことがある ので、今年の雨季も生きながらえているのです。でも空き腹かかえているさ。

きっと。ビルマは行きさえすれば、銀貨が拾いあげるほど一杯じあか、のです。"

若い時には勇気が溢れ、どこへでも行くものだ。母親の話は、半信半疑で、

納得もできなかった。

毎E上虹で除草と晟建巴をしたが、気候が暑いので、午後になると母親は家へ

(18)

54

中田書勝

戻って休み、もう仕事をしなかった。二人の娘と私は暗くなるまでずっと働い た。小玉という娘は母親が帰ったと知ると早速、私のそばに近づいて来て仕事 をし、あれこれ楽しそうに話をした。話の半分以上は軍隊が戦争しているかと か、村が焼かれたかとか、群をなして避難する人がいるかとか、街に息子や娘

を売った人がいるかとかいうことであった。山村のこの若い娘はずっと山ぐら しで、森林や花草木竹の間に暮らしているのに、内地の中国人が経験した苦難 をどうして知っているのか私には不思議だった。私は我慢できずに不思議そう に尋ねた。 "誰が教えたのですか。"

小玉は話をしている時には、顔に機敏な動きが走り、可愛いい瞳を輝かせ、

実に魅力的であった。彼女と話すのは楽しかった。しかし、私の質問を耳にす ると、さっと顔を曇らせて低い声で言った。 "小羅が言ったのを聞いたのです。"

それ以上は口を閉ぢ、ただますます手早く草をとり始めた。

私は好奇心に駆られて尋ねた。 "小羅はあなたたちの村の人ですか。"

"いいえ"彼女はうつむいて言った。 "あの人はあなたと同じようにお母さん が山に連れて来た人です。丁度、去年の今頃だったね。"

私は興味に駆られて尋ねた。 =ぉ母さんが山に連れて来て、畑仕事を手伝わせ たのですか。"

"そうよ"彼女はすぐに答えた。しばらくしてまた言った。 "あの人を養子に しようと考えていたのよ。"彼女はそう言ってから私をチラリと視た。眼の光が 生々としていて、彼女の言外の別の気特を私が汲み取ったかどうかをまるで探 っているようであった。

私は雲南西部を放浪した道中で、あるところは男が少ないので、娘に婿をと り家族にすることが流行っているという人の話を早くも聞き知っていた。山村 のこの二人の娘は似ていなくてもそれぞれの美しさがあって、男心を動かすも のをそれぞれ持っていると私は思った。小珠は天真欄漣で、山中の野花に似て おり、愉快で開放的であった。一方、小玉は親切で、あのゆれる瞳、恰好のよ い鼻は男心を動かす婚びがあり、男をそばに引き寄せ、離れ難い思いにさせる のだ。彼女の一撃一笑は男を迷わせると言ってもよいほどであった。私は思わ ず尋ねた。 "小羅はなぜ立去ったのですか。家族になるのを嫌ったのですか。"

小玉は細っそりして美しい眉の上に雛を寄せ7‑ツと溜息をついた。そして 腰を伸ばしてあたりを見廻わし、嘆いて言った。 "私たちの母さんのせいだわ。"

私は彼女が言葉を続けたくないのを知って、言った。"あなたたちのお母さん

は良い人ですよ。何でも見通しが利くし、仕事も出来るし、あんな良い人は見

(19)

たことがありませんよ。"わざとお世辞を使っているのではなく、ほんとに良い 人であった。彼女の家の手伝いになってもお客をもてなすように、毎日、胎内 や乾した牛肉を出してくれた。食事の時にも私を平等に扱ってくれた。

小玉はうつむいて言った。 "母さんは依惜最層です。小羅を小珠と一緒にさ せようとしたんです。"

私は妙だと思って尋ねた。 "あなたにが当然でしょう、お姉さんだから。"

小玉は淋しそうに言った。 "私のせいよ。腹を痛めた子じあないんだもの。"

私はびっくりして彼女を眺めた。彼女はポッリポッリ話した。"父が私を連れて 避難したんです。あの頃はまだ小さかったけど、まだ憶えているわ。家が焼か れ、鉄砲の弾が頭の上をヒュ‑ンヒュ‑ン飛んだの。何時の間にかこのあたり に来たんです。両親は道端に行き倒れになりました。今、思うと恐らくきっと マラリヤにやられたのです。それから私は乞食になりました。そうです。あの 母さんが私を拾いあげて、自分の娘にしたのです。私は恩返えLに母のおもわ く通り、′ト珠に嫁の口を譲りました。あ,、それが問題だったのです。"彼女は口 を閉ぢ、憂哲そうな、悲しげな様子を顔一面に見せた。

彼女が言葉を続けて欲しかったので、私は催がすように尋ねた。 "どんなこと になったのですか。"

彼女は噴いて言った。"あ,、あの人は小珠を好きじあなかったのです。どう しようも無いわ。牛が水を飲みたがらないのに、無理やり首玉をつかまえて飲 ませますか。"

私は吊りこまれるように尋ねた。"あの人って誰なんです。彼女を嫌らった人 は。"

HiK!

彼女は微笑んですぐに言った。 "小尾よ。"そして憂哲そうに頭を垂れて草を

せっせと除り始め、もう話したくない様子であった。

ひは

その日、仕事が終った時には、陽はすでに山の端に落ちていて、樹木の茂っ̲

た周囲の山々は次第に濃い闇の中に消えて行った。濃い藍色の空には星が一つ また一つと燦めき始めた。鳥たちが群をなして次々に頭上を飛び去って行った。

仕事を終り、鋤を肩にして、このような道を歩くと誰もが安らぎと喜びを感じ る。私は旅の途中で、黄昏れて、村の人家が見えなくなるよう射寺には、心中、

苛立って来て、慌てて道を急いだものだった。今は十日あまりも、夜になって も帰るねぐらがあり、泊る場所がないと心配しなくてもよく、気持ちは当然、

ゆったりし、しかも周囲の景色には、ずっと新鮮な感じを失なわず、いつもす

ぐに簡貰する‑気分になった。山の鞍部からは下の平地が眺められた赴、」露

(20)

56

中田書勝

ちこめていて、うっすらと白く見えた。

私は大縛の言葉を思い出した。あれこそマラリアの毒気だろうと思って、我 慢できずに一言、言った。 "やっぱり山の上はいいね。"

ところが小玉は少し恨めしそうに言った。 "何がいいもんですか。"

私はこの言葉をもう二度耳にしていた。最初は竹造りの家の後にある流れの 処であった。その時は彼女の気拝が分からなかったが、今度ははっきり分かっ たので、私は何となく気が重くなった。私は慰めて言った。"あなたたちの家は、

人と比べてごらん、衣食の心配がありませんよ。あなたのお母さんはとても良 い人だと思っていますよ。私は道中、あんf‖こ良い人にまだ出逢ったことがあ

りません。"

小玉は声を出さないで、しばらく歩いてから、やっと言った。"ほんとに後悔 してます。あの人は一緒に行こうと言ってくれたのですが、私の方が断わった のです。ほんとに残念です。"そしてプンプンして言った。 "これからは、誰だ っていいわ。私を連れて行ってくれたら。''彼女は言葉もそこそこに先へさっさ

と走り去ってしまった。

振返って小珠の方を見ると、ずっと後れていたので、彼女が来るのを待った。

彼女は私に追いつくとニッコリ笑い、私が待ってやったのが嬉しそうであった。

彼女は仕事好きで、畑で革除りしている時でも手をとめて休むことは少なかっ

S^K牀

た。体も丈夫で元気そうだし、丸々した顔には赤く潤んだ光沢があり、天真欄 浬で汚れを知らないようで、確かに真盛りの花のようであった。私は気楽に尋 ねた。 "お姉さんはよくしてくれますか。"

小珠は嬉しそうに言った。"それはよくしてくれるわ。あなたは知らないでし ょうが、お姉さんは口笛で鳥の暗き真似ができますよ。鳥そっくりよ。畑仕事 も、お姉さんと一緒にいると喜ぶ人が多いのです。うぐいすのいろんな暗き声 をして聴かせるのです。時には鳴き真似をしていると鳥が飛んで来て一緒に暗 くんですよ。お話しも上手よ。空には河があって、片方では織女が布を織り、

片方では牛郎が牛を飼っていて、一年のうち七月七日に一回会えるのだとか話 しました。天の河は今はあまりはっきりは見えませんが、後で見えるようにな ります。"しばらく歩いて、彼女はまた私に尋ねた。"平地には河があって、お姉 さんが言ったんだけど、河に沿って歩いて行くと空にとどくって。お尋ねした いけど、空まで歩いて行けるのですか。"

空に河は無い。物語りに過ぎないのだ。ほんとは無いのだと教えてやった。

彼女は別に何も言わないで、少し冴るような表情をしたけれども、それもすぐに

(21)

消えて平静に戻り、すべてに満足そうな表情になった。

私はしばらく歩いて、小羅のことを尋ねた。彼女は静かに言った。"あの人は 不誠実で身の程知らずって、お母さんが言ったわ。"

私はまた尋ねた。 ′ト羅の仕事ぶりはどうだったか、傾けはしなかったかと。

彼女は少し興奮して言った。 "その点は大丈夫、やる気で働いたとお母さんが言 っていました。それにあんなに真面目で、きびきびした若者は始めてだとも言 ってました。"

私は小羅がなぜ立去ったのかと尋ねた。小珠は言った。 "お母さんが言ったけ ど、あの人は身の程知らずで、大金儲けをしたかったんですって。"

私はまた尋ねた。"あなたたちの家からその働き者の若者が出て行ったら、困 ると思わなかったのですか。"

"困ることなんかありませんよ。"小珠は口を尖らせて、 "お母さんが言ったわ。

あの人がいなくても、私たちはやって行けるって。"

私はまた尋ねた。 "お母さんはなぜ不誠実などと彼の悪口を言うんですか。"

小珠は言った。"あの人は人を編ましたとお母さんは言っています。母を編ま したのです。山の上にずっと住んでもらいたかったのに、平地へ下り、ビルマ の方へ行こうとそっと考えていたのです。ほんとに行ってしまったわ。人を編

ましたことになりませんか。"

私は笑って尋ねた。 "あなたたちの家の人は皆あの人が嫌いなんですか。"

"当然、みんな好きじあないわ。お母さんが言ったわ、不誠実な人を誰が好き になれますかって。"

この娘はほんとに幸せな人だと私は思った。彼女は今なお彼女の黄金時代を 過ごしていて、心の中にはわだかまりも不満もなく、少しも心配ごとが無いの だと思った。

母親は竹垣のある門前で、私が小珠と一緒に歩き、話をしているのを看て、

非常に喜び、顔に奇妙な笑いを浮かべた。その日の夕食は品数が多く、ソ‑セ イジがあり、塩漬けの家鴨の卵があった。その上、家で醸した甘酒を出してく れたので、私は少し飲んだ。

その夜は安眠できなかった。あたり一面、賛粟の花のこの山村を立去るべき だと私は考えた。私は五四運動の洗礼を受けていて、 "若者よ、身を偉大な流れ になげ出し、力強く飛び立て.!"と時代の精神が私にそう呼びかけているのを いつも感じていた。

二三日もしないうちに、母親は私に小珠と一緒に平地の市場へ行かせた。酒

(22)

58

中田喜勝

瓶を背負い、鍋・碗・箸その他、餌塊やうどんのようなものを持って行った。

その日は集って来た人が多く千人近くもいた。市場には竹龍を担いだ数名の人 と逢ったが、その言葉が四川耽りだったので、話しがはずみ、お互いに"老郷"

と呼び合った。彼らはビルマの方へ行こうとしていて、私にも一緒に行こうと 勧めた。私が雨季のマラリヤのことを尋ねると、彼らが言うには、一・二ケ月 稼いで帰って来てもいいじあないかということである。なるほどと思い、得難 いチャンスだと私は思ったので、この機に乗じて行ってみることに決めた。私 は私の考えを母親に告げた。彼女はさっと顔色を変えて、なかなか承知しなか った。かえって、小珠の方がそばから勧めてくれた。 "マラリヤの時期はまだ来 てないし、稼ぎに出掛けるのがいいわ。"

母親は娘へ言った。 "帰って来ないのじあないかね。'' 小珠はすぐ私に尋ねた。 "あなたは帰って釆ますか。"

私は言った。 "マラリヤはやはり怖いですよ。きっと帰って来ますよ。"この 言葉はそう言ってその善良な人を慰めるだけのもので、どうして私に帰って来 る気痔があろうか。母親を説得するために私はなお言った。 "大場.′私の賃金 はあなたのところに置いておきますから、私が帰って来てから私に支払って下 さいよ。"この言葉は確かに母親を安心させたのである.0

彼女はしばらくして、受取った小銭をかき集めて一・二元のビルマ紙幣に換え、

私に手渡して、また言った。"早く言っていたら、全部あなたにあげられたのに。

銭無しでは、外国への旅は大変だよ。それとも、売り終るまで待ったら、もっ と多くあげられるけど。"

私は言った。 "大場.!ありがとうございます。これで充分ですよ。"彼女は外 に餌快をくれた。

私は数名の同郷の人たちと出かけ、夕方になって足を休ませる旅龍に着いた 時、山村のあの家族のことを思い出さないわけにはいかなかった。実に私の流 浪の生活の中で、私が出逢った一番いい人たちであり、忘れられない人たちで あった。とりわけ、朝に私たちが竹垣の門を出た時、ぽつんと一人残って、悲 しげな顔に今にも涙がこぼれそうにしていた小玉の様子や、小珠の無邪気さ、

母親の人のよさ、そして到る処に咲いていた真紅な"畢粟の花"は私の記憶の

とわ

底に深く深く残って、永遠に消え去ることがないのだ。

1978年12月24日干成都

参照

関連したドキュメント

長期ビジョンの策定にあたっては、民間シンクタンクなどでは、2050 年(令和 32

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

なお、保育所についてはもう一つの視点として、横軸を「園児一人あたりの芝生

・沢山いいたい。まず情報アクセス。医者は私の言葉がわからなくても大丈夫だが、私の言

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

この素晴らしい DNA

では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです

したがいまして、私の主たる仕事させていただいているときのお客様というのは、ここの足