弘
法
大
師
入
唐
時
代
に
於
げ
る
唐
朝
文
化
眞 木 勝 序 、 唐 朝 文 化 の 概 觀 唐 の 文 化 は 一 大 融 合 文 化 で あ る 、 吾 人 は 是 を 便 誼 上 、 初 唐 (唐 朝 の 建 設 よ り 高 宗 に 至 る 、 即 西 暦 六 一 入 年 よ り 六 入 三 年 に 至 る 約 六 〇 餘 年 間 )、 盛 唐 .( 中 宗 よ り 玄 宗 に 至 る 、 即 西 暦 六 八 四 年 よ り 七 五 五 年 に 至 る 約 七 〇 餘 年 間 ) 、 唐 (粛 宗 よ り 唐 朝 の 滅 亡 に 至 る 、 即 西 暦 七 五 六 年 よ り 九 〇 七 年 に 至 る 約 一 五 〇 餘 血 間 ) の 三 期 に 分 け て 考 察 す る 事 が で き る 。 勿 論 此 の 區 劃 は 唐 朝 の 盛 衰 、 文 化 の 變 遷 を 標 準 に し て な さ れ た も の で あ つ て 詩 賦 の 變 遷 を 標 準 に し て 初 唐 (唐 初 よ り 容 宗 に 至 る 、 即 西 暦 六 桶 入 年 よ り 七 一 二 年 に 至 る 約 一 〇 〇 年 間 ) 、 盛 唐 (玄 宗 よ り 粛 宗 に 至 る 、 即 西 暦 七 二 二 年 よ り 七 六 二 年 に 至 る 約 五 〇 年 間 ) 、 中 唐 (代 宗 よ り 敬 宗 に 至 る 、 即 西 暦 七 六 三 年 よ り 入 二 六 年 に 至 る 約 六 〇 年 間 ) 、 晩 唐 (文 宗 よ り 唐 朝 の 滅 亡 に 至 る 、 即 西 暦 入 二 七 年 よ り 九 〇 七 年 に 至 る 約 入 0 年 間 ) の 四 期 に 分 け る の と は 聊 か 異 る も の で あ る 。 初 唐 六 〇 餘 年 は 所 謂 守 成 時 代 に し て 專 ら 國 内 の 統 一 と 國 力 の 充 實 と に 努 力 せ し 時 代 で あ つ た 、 其 の 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 四 一弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 交 化 二 四 二 結 果 健 全 な る 平 和 が 建 設 せ ら れ 、 其 の 平 和 の 建 設 に 伴 う て 南 北 朝 時 代 の 文 化 が 整 頓 せ ら れ 、 是 に 外 國 即 西 域 印 度 の 文 化 が 加 味 せ ら れ た の で 、 五 胡 の 侵 入 以 來 兎 角 不 振 を 傳 へ ら れ て 居 た 支 那 の 學 藝 文 教 は こ ゝ に 一 陽 來 福 の 春 に あ つ て 春 光 麗 か に 千 紫 萬 紅 の 研 を 競 ふ 事 と な つ た が 、 然 し 初 唐 の 文 化 は 尚 形 式 に と ら は れ 、 聊 か 實 生 活 と 懸 絶 せ る も の が あ つ た 。 太 宗 と 臣 下 と の 問 答 を 記 し た 貞 觀 政 要 (太 宗 の 政 治 思 想 を 窺 ふ べ き 好 個 の 資 料 を な す も の で あ る ) を 見 る に 太 宗 も 亦 文 を 以 て 治 め る と 言 ふ 支 那 古 來 の 政 治 的 理 想 に 憧 憬 し て 制 度 の 整 備 に 意 を 用 ゐ 、 以 て 強 固 な る 統 一 と 建 全 な る 平 和 の 建 設 と に 努 力 せ ら れ て を る が 、 支 那 の 如 き 體 裁 を 重 ん す る 國 に 於 て は 制 度 の 整 備 は 往 々 に し て 實 生 活 と 一 致 せ ざ る 事 が あ る 。 唐 の 制 度 が 高 宗 の 晩 年 に 至 つ て く づ れ 官 吏 の 任 用 が 粗 略 と な り 、 戸 籍 が 亂 雑 と な り (官 吏 の 迫 害 を 受 け て 人 民 の 逃 亡 す る も の が 多 か つ た た め で あ る ) 、 徴 兵 が 困 難 に な つ た (兵 制 は 唐 の 制 度 中 最 も 整 つ た も の で あ つ た ) 如 き は 正 に 此 の 間 の 消 息 を 物 語 る も の で あ つ て 、 多 分 是 は 統 一 と 平 和 の 建 設 と に 急 に し て 深 く 社 會 の 實 歌 を 察 せ す 、 前 時 代 の 制 度 の 可 否 を 論 じ て 徒 に 形 式 を 整 ふ る に 腐 心 し た 結 果 で あ ら う と 思 ふ 。 此 の 制 度 の 上 に あ ら は れ た 缺 陥 は 自 ら 他 の 文 化 の 上 に も あ ら は れ 、 初 唐 の 文 化 は 是 が た め に 形 式 に と ら は れ 、 徒 に 南 北 朝 時 代 の 文 化 の 統 一 と 外 國 文 化 の 攝 取 と に 急 に し て 實 生 活 に 溶 け 込 む 事 を 得 な か つ た 。 盛 唐 の 文 化 は 是 に 反 し て 太 宗 (在 位 二 三 年 ) 高 宗 (在 位 三 四 年 ) 二 帝 の 努 力 に よ つ て 固 成 せ ら れ た 唐
帝 図 の 強 固 な る 統 一 と 健 全 な る 平 和 と を 背 景 に し て よ く 整 頓 せ ら れ 、 明 く 華 か に 且 實 生 活 に 溶 け 込 ん で 居 た 。 其 の 最 も 華 か な り し は 玄 宗 の 開 元 天 賓 時 代 に し て 、 開 元 二 九 年 天 賓 一 四 年 合 せ て 四 三 年 の 久 し き に 亙 る 玄 宗 の 治 世 は 初 唐 以 來 培 は れ た 文 化 の 若 木 が 泰 平 の 暖 か き 微 風 に 誘 は れ て 満 朶 の 花 を 険 せ た 時 代 で あ つ て 、 實 に 唐 朝 文 化 の 黄 金 詩 代 を 現 出 し た 時 代 で あ つ た 。 開 元 天 賓 の 世 が 如 何 に 華 か な り し か は 玄 宗 が 年 々 花 鳥 使 と 稱 す る 使 者 を 國 内 に 派 遣 し て 美 女 を 求 め し め 宮 中 禁 苑 内 に 梨 園 を 設 け て 親 ら 宮 中 の 若 人 に 舞 曲 を 教 へ た (其 の 弟 子 は 梨 園 弟 子 と 呼 ば れ 、 帝 は 自 作 の 霓 裳 羽 衣 の 曲 を 得 意 と せ ら れ て 居 た ) 事 實 に 徴 し て 明 で あ る が 、 更 に 唐 の 王 仁 裕 の 開 元 天 賓 遺 事 に よ れ ば 、 當 時 國 都 長 安 の 繁 榮 前 古 無 比 に し て 士 人 の 風 流 を 爭 ひ 、 華 者 を 競 ふ 標 さ な が ら 泰 平 の 縮 圖 の 觀 を 呈 し て 居 た も の ゝ 如 く で あ る 。 此 の 晴 か な 風 潮 は 獨 り 長 安 に と ど ま ら す 、 國 内 一 般 に 及 び 、 其 の 餘 裕 あ る 生 活 と 徹 底 せ る 歡 樂 と は 開 元 天 寳 時 代 を し て 唐 朝 三 〇 〇 年 間 中 の 最 も 恵 ま れ た 幸 福 な 時 代 た ら し め 、 唐 代 人 を し て 其 の 幸 福 感 に 陶 酔 せ し め 、 其 の 大 様 な 優 し み の あ る 氣 持 を 盛 唐 の 文 化 特 に 文 學 美 術 の 上 に 表 現 せ し め 、 送 に 文 學 を し て 唐 朝 文 化 を 代 表 せ し む る に 至 つ た の で あ つ た 。 此 の 盛 唐 の 陶 酔 的 平 和 は 安 史 の 亂 の た め に 一 朝 に し て 崩 壊 し 、 爾 後 唐 朝 の 滅 亡 に 至 る 約 一 五 〇 年 間 即 晩 唐 の 世 は 唐 朝 文 化 が 次 の 宋 代 文 化 へ の 推 移 を 前 に し て の 頽 壌 期 を な す も の で あ つ た 。 安 史 の 亂 と は 平 盧 范 陽 河 東 の 三 節 度 使 を 兼 任 し て 居 た 安 禄 山 と 其 の 僚 友 史 思 明 と の 起 し た 玄 宗 の 天 賓 一 四 年 (西 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 四 三
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 四 四 暦 七 五 五 年 ) よ り 代 宗 の 廣 徳 元 年 (西 暦 七 六 三 年 ) に 至 る 前 後 九 年 の 内 亂 を 言 ふ の で あ つ て 、 亂 後 唐 は 節 度 使 の 践 扈 と 宙 官 の 專 横 と に 苦 し め ら れ て 次 第 に 衰 微 す る に 至 つ た 。 而 し て 節 度 使 の 践 扈 に 伴 ふ 地 方 の 政 治 的 秩 序 の 動 揺 と 宙 官 の 專 横 に 基 づ く 中 央 の 政 治 的 棄 亂 と は 盛 唐 時 代 の 晴 か な 落 着 よ り 不 安 焦 燥 の 雰 園 氣 内 に 一 般 民 衆 を 誘 導 し 、 彼 等 を し て ト 占 、 凶 兆 、 符 呪 、 妖 怪 、 仙 術 な ど に 關 す る 無 稽 の 物 語 を 歡 迎 せ し め 、 途 に 道 教 を 興 隆 せ し む る に 至 つ た 。 道 教 の 興 隆 は 唐 朝 の 尊 崇 を か ち 得 た た め で あ る 事 は 言 ふ ま で も な い 事 で あ る が 、 然 し 佛 教 と 對 抗 し て 一 般 民 衆 の 信 仰 を 得 た と 言 ふ 事 は 其 の 延 命 息 災 を 説 く 教 理 が 當 時 の 人 心 に 投 合 し た 結 果 に 他 な ら な い 、 佛 教 は 道 教 の 興 隆 と 會 昌 の 法 難 (武 宗 の 迫 害 ) に 遭 遇 し て 一 大 打 撃 を 受 け て 以 來 教 理 上 の 研 究 は 殆 ど 閑 却 せ ら れ 、 道 教 と 同 様 卑 近 な 因 縁 談 乃 至 感 應 譚 に よ つ て 民 衆 の 信 仰 を つ な い で 居 た が 、 是 は 晩 唐 の 如 き 不 安 な 時 代 に あ つ て は 止 を 得 ざ る 事 で あ つ て 、 人 々 が 現 世 の 禍 福 を 因 縁 談 を 以 て 説 明 し つ ゝ あ き ら め を つ け 、 或 は 經 文 の 功 徳 即 感 應 に す が つ て 一 身 の 保 全 を 求 め ん と す る 傾 向 は 道 佛 教 れ に 對 し て も 同 様 認 め ら れ て 居 た 。 さ れ ば 晩 唐 の 文 化 は 詩 賦 の 變 遷 を 標 準 と し て 區 劃 せ ら れ た 中 唐 時 代 の 文 學 の 活 況 を 除 い て は 一 般 に 頽 廢 的 で あ つ た 。 以 上 は 唐 朝 文 化 の 概 觀 で あ る 、 以 下 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 時 代 の 唐 朝 文 化 を 一 制 度 、 二 儒 學 と 史 學 、 三 文 學 、 四 美 術 と 音 樂 、 五 宗 教 の 五 部 門 に 分 け て 考 察 し て み た い と 思 ふ が 、 さ て 大 師 の 入 唐 せ ら れ た
の は 上 記 の 三 時 代 の 中 孰 れ の 時 代 に 相 當 す る か と 言 ふ に 、 大 師 の 入 唐 せ ら れ た の は 桓 武 天 皇 の 延 暦 二 三 年 即 徳 宗 の 貞 元 二 〇 年 (西 暦 八 〇 四 年 ) の 事 で あ る か ら 、 晩 唐 の 初 期 に 當 り 、 安 史 の 亂 後 四 〇 年 を 經 過 し て 文 化 漸 く 頽 廢 を 傳 へ ら れ つ ゝ あ つ た け れ ど も 、 詩 文 は 却 つ て 開 元 天 賓 時 代 を 凌 ぐ も の あ り 、 大 師 入 唐 の 前 年 即 徳 宗 の 貞 元 一 九 年 に は 韓 愈 (退 之 ) 陽 山 の 令 に 肥 せ ら れ 、 大 師 歸 朝 の 翌 年 即 憲 宗 の 元 和 二 年 に は 白 居 易 (樂 天 ) 翰 林 學 士 に 任 せ ら れ て を る 。 一 、 制 度 唐 の 制 度 は 晴 の 制 度 に 基 づ い て 概 ね 太 宗 高 宗 二 朝 の 間 に 定 め ら れ た も の で あ つ て 、 後 世 支 那 歴 代 の 王 朝 の 模 範 と な つ た 許 り で な く 朝 鮮 日 本 に 傳 は り 、 日 本 に 於 て は 大 化 の 改 新 、 大 寳 律 命 の 撰 定 に 大 に 貢 献 し て を る 。 イ 、 中 央 官 制 、 中 央 政 府 は 三 師 、 三 全 、 三 省 、 六 部 、 五 監 、 九 寺 、 一 臺 等 よ り な り 、 三 師 (太 師 、 太 傅 、 太 保 ) は 贈 官 に 用 ゐ ら れ 、 三 公 (大 尉 、 司 徒 、 司 空 ) は 天 子 の 顧 問 に 任 じ 、 二 者 共 に 國 家 最 高 の 名 譽 官 を な し 、 三 省 (尚 書 、 中 書 、 門 下 ) は 政 務 の 實 權 を 握 り 、 三 省 中 中 書 省 (長 官 中 書 令 ) は 詔 勅 を 奉 宣 し 、 門 下 省 (長 官 侍 中 ) は 詔 勅 を 審 査 し 、 尚 書 省 (長 官 尚 書 令 ) は 中 書 門 下 二 省 に よ つ て 確 定 せ ら れ た 詔 勅 を 天 下 に 施 行 し て 居 た 〇 六 部 は 兩 書 省 に 隷 屬 し て 政 務 を 分 擔 し 、 六 部 中 吏 部 (官 吏 の 進 退 を 司 る ) 、 戸 部 ( 賦 税 を 司 る ) 、 禮 部 (禮 儀 を 司 る ) は 左 司 に 屬 し て 左 僕 射 (左 亟 ) に 統 轄 せ ら れ 、 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 げ る 唐 朝 文 化 二 四 五
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 げ る 唐 朝 文 化 二 四 六 兵 部 (兵 備 を 司 る )、 刑 部 (刑 罰 を 司 る ) 、 工 部 (土 木 工 藝 を 司 る ) は 右 司 に 屬 し て 右 僕 射 (古 亟 ) に 管 理 せ ら れ て 居 た 。 五 監 は 國 子 監 (學 校 教 育 を 司 る ) 、 少 府 監 (百 工 巧 技 を 司 る )、 將 作 監 (土 木 工 匠 を 司 る ) 、 軍 需 監 (甲 胃 弓 弩 互 市 を 司 る ) 、 都 水 監 (川 澤 津 梁 河 渠 舟 揖 を 司 る ) 、 九 寺 は 太 常 寺 (禮 樂 郊 廟 社 稜 祭 祀 を 司 る ) 、光 林 寺 (洒 醗 膳 羞 を 司 る ) 、 衛 尉 寺 (武 器 武 庫 を 管 理 す ) 、 宗 正 寺 (皇 族 外 戚 の 事 を 司 る ) 、 太 僕 寺 (厩 牧 輿 馬 の 事 を 司 る ) 、 大 理 寺 (折 獄 詳 刑 を 司 る ) 、 鴻 臚 寺 (賓 客 凶 儀 を 司 る ) 、 司 農 寺 (倉 庫 儲 積 を 司 る ) 、 太 府 寺 (財 貨 貿 易 を 司 る ) 、 一 臺 は 御 史 臺 (百 官 の 監 察 粛 正 弾 劾 を 司 る ) を 言 ふ の で あ る 。 以 上 の 他 東 宮 官 に 太 子 太 師 、 太 傅 、 太 保 、 少 師 、 少 傅 、 少 保 、 太 子 膚 事 、 門 下 省 に 諌 議 大 夫 、 弘 文 館 學 士 、 中 書 省 に 翰 林 院 學 士 、 史 官 等 の 大 官 あ り 、 又 武 官 と し て 左 右 衛 、 左 右 驍 騎 衛 、 左 右 武 衙 、 左 右 威 衛 、 左 右 領 軍 街 、 左 右 金 吾 衛 、 左 右 監 門 衙 、 左 右 千 牛 衛 (以 上 の 各 衛 は 上 將 軍 、 大 將 軍 各 一 人 の 統 率 を 受 く ) 、 左 右 羽 林 軍 、 左 右 龍 武 軍 、 左 右 神 武 軍 、 左 右 神 策 軍 (以 上 の 各 軍 は 大 將 軍 一 人 の 統 率 を 受 く ) の 十 六 衛 、 入 軍 が あ つ た 。 ロ 、 地 方 官 制 、 唐 は 貞 觀 二 年 天 下 を 十 道 (關 内 、 河 南 、 河 東 、 河 北 、 山 南 、 隴 右 、 淮 南 、 江 南 、 劍 南 、 嶺 南 ) に 分 ち 、 道 の 下 に 州 、 州 の 下 に 縣 を お き 、 道 に 巡 察 使 、 州 に 刺 史 、 縣 に 令 を 派 遣 し て 夫 々 其 の 管 内 を 治 め し め た 、 又 十 節 度 使 (平 盧 、 范 陽 、 河 東 、 朔 方 、 河 西 、 隴 右 、 安 西 、 北 庭 、 劍 南 、 嶺 南 ) を 任 命 し て 邊 境 を 防 備 せ し め 、 六 都 護 府 (安 東 、 安 北 、 單 于 、 北 庭 、 安 西 、 安 南 ) を 設 置 し て
蕃 図 を 統 御 せ し め た が 、 節 度 使 は 河 西 (高 宗 の 時 設 け ら る ) 以 外 は 悉 く 玄 宗 の 時 設 け ら れ た も の で あ る 。 以 上 の 官 制 は 時 に 多 少 の 變 改 は あ つ た が 、 大 體 に 於 て 唐 一 代 を 通 じ て 行 は れ た も の で あ る か ら 、 大 師 の 入 唐 時 代 即 徳 宗 時 代 の 官 制 も 是 と 大 差 な き も の と 見 て 差 支 な い 。 八 、 學 制 、 學 校 は 京 師 に 國 子 學 (大 官 貴 族 の 子 弟 を 入 學 せ し め て 居 た ) 、 大 學 (文 武 官 五 品 以 上 の 子 弟 を 入 學 せ し め て 居 た ) 、 四 門 學 (文 武 官 七 品 以 上 の 子 弟 を 入 學 せ し め て 居 た ) 、 律 學 、 書 學 、 算 學 (以 上 は 文 武 官 八 品 以 下 及 び 庶 民 の 子 弟 を 入 學 せ し め て 居 た ) 、 地 方 に 府 學 、 州 學 、 縣 學 (以 上 に は 博 士 あ り て 州 縣 の 官 吏 の 子 弟 及 び 庶 民 の 子 弟 の 俊 秀 な る も の を 入 學 教 育 し て 居 た ) 等 が あ つ た 。 此 等 の 他 尚 門 下 省 内 に 弘 文 館 、 東 宮 内 に 崇 文 館 等 が あ つ た が 、 玄 宗 以 後 唐 政 紊 亂 し 、 學 制 ま た 次 第 に 振 は す 、 代 宗 の 時 宣 者 魚 朝 恩 國 子 監 の 清 職 を 汚 す に 及 ん で 塗 に 荒 廢 す る に 至 つ た 。 魚 朝 恩 は 間 も な く 誅 戮 せ ら れ た が 、 代 宗 の 子 徳 宗 の 時 賓 文 場 帝 の 信 任 を 得 て よ り 、 宣 者 再 び 專 横 と な り 唐 政 一 層 紊 亂 し 、 た め に 大 師 入 唐 時 代 の 唐 の 學 制 は 愈 々 益 々 荒 廢 を 傳 へ ら れ つ ゝ あ つ た 。 學 制 に 附 言 し て お き た い 事 は 官 吏 登 用 試 驗 制 度 で あ る 。 試 驗 は 京 師 及 び 地 方 の 學 校 の 出 身 者 即 生 徒 と 州 縣 の 槍 定 試 驗 の 合 格 者 郷 貢 と を 毎 年 禮 部 に 於 て 考 試 す る 選 擧 (是 は 秀 才 、 明 經 、 進 士 、 明 法 、 明 字 、 明 算 等 の 科 目 に よ つ て 考 試 す る も の で あ る ) と 天 子 親 ら 擧 人 を 試 み ら る ゝ 制 擧 (是 は 非 常 の 人 才 を ま つ 制 度 で あ る ) と の 二 種 に 分 れ て を る 。 選 擧 中 秀 才 の 考 試 は 最 難 澁 の 故 を 以 て 早 く 塵 絶 し 、 明 法 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け ろ 唐 朝 文 化 二 四 七
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 四 八 以 下 の 三 科 は 仕 官 榮 進 せ ざ る の 故 を 以 て 盛 な ら す 、 明 經 ま た 盛 唐 以 後 進 士 に 應 じ て 巧 に 詩 賦 を 作 れ ば 名 聲 を 早 く 顯 は し 、 仕 官 榮 進 し 易 き 傾 向 を 生 す る に 及 ん で 衰 へ 、 進 士 の み 獨 り 盛 で あ つ た 。 此 の 官 吏 登 用 試 驗 は 科 目 を た て ゝ 選 擧 す る よ り 科 擧 と も 稱 し 、 清 末 迄 行 は れ て 居 た 。 大 師 の 入 唐 時 代 は 詩 賦 の 中 唐 時 代 に し て 詩 文 の 隆 盛 を 極 め た 時 代 で あ る か ら 、 進 士 科 の 考 試 最 盛 に し て 韓 愈 、 柳 宗 元 、 白 居 易 等 の 天 才 は 孰 れ も 進 士 科 の 出 身 で あ つ た 。 二 、 兵 制 、 太 宗 は 階 の 兵 制 に 模 倣 し て 十 道 に 折 衝 府 六 三 四 を お き 、 府 を 三 等 に 分 ち 、 上 府 を 一 二 ○ ○ 人 、 中 府 を 一 〇 〇 〇 人 、 下 府 を 入 ○ ○ 人 と な し 、 折 衝 都 尉 、 果 毅 都 尉 を し て 各 府 を 統 轄 せ し め た 。 軍 の 編 成 は 三 〇 〇 人 を 團 と し 、 團 に 校 尉 を お き 、 五 〇 人 を 隊 と し 、 隊 に 正 を お き 、 一 〇 入 を 火 と し 、 火 に 長 を を き 、 天 下 の 丁 男 二 一 歳 よ り 六 〇 歳 迄 を 丁 年 期 間 と し て 皆 就 役 の 義 務 を 課 し 、 大 抵 三 丁 毎 に 一 丁 を 府 兵 に あ て 、 府 兵 は 租 庸 調 を 免 せ ら れ て 居 た が 、 刀 劍 弓 矢 は 自 辮 し 、 毎 歳 季 冬 農 閑 期 に 折 衝 都 尉 の 教 練 を 受 け て 居 た 。 又 此 等 の 府 兵 は 邊 境 の 守 備 並 び に 交 番 上 京 衛 士 と し て 皇 城 の 守 護 に 當 つ て 居 た 。 此 の 府 兵 の 制 は 初 兵 を 農 に 寓 す る の 良 法 と 推 稱 せ ら れ て 居 た が 、 高 宗 の 晩 年 早 く も 壊 れ 、 玄 宗 の 時 に は 張 騎 と 稱 す る 募 兵 を 府 兵 に か へ て 居 た 、 然 る に 此 の 彊 騎 の 法 も 間 も な く 行 は れ な く な り 、 安 史 の 亂 後 は 節 度 使 各 大 兵 を 擁 し て 列 國 諸 侯 の 如 く 地 方 に 割 據 す る に 至 つ た 。 從 つ て 大 師 入 唐 時 代 の 唐 の 兵 制 は 全 然 荒 廢 に 歸 し て 居 た 。
ホ 、 刑 制 、 唐 の 刑 書 即 、 成 文 律 は 律 、 令 、 格 、 式 の 四 種 に 分 れ 、 律 は 晴 に 模 倣 し て 名 例 、 衛 禁 、 職 制 、 戸 婚 、 厩 庫 、 檀 興 、 賊 盗 、 闘 訟 、 詐 僞 、 雑 律 、 捕 亡 、 斷 獄 の 十 二 律 と し 、 其 の 刑 を 行 ふ に 管 。 杖 ・ 徒 ・ 流 ・死 の 五 種 及 び 入 議 十 悪 を 定 め 、 笞 杖 徒 は 五 等 、 流 は 三 等 、 死 は 二 等 に 分 れ 、 入 議 は 議 親 、 議 故 、 議 賢 、 議 能 、 議 功 、 議 貴 、 議 勤 、 議 賓 の 八 議 を 言 ひ 、 此 等 の 一 に 該 當 す る も の は 罪 あ る も 格 別 の 寛 典 を 受 け 、 十 悪 は 謀 反 、 謀 大 道 、 謀 叛 、 悪 逆 、 不 道 、 喪 不 敬 、 不 孝 、 不 睦 、 不 義 、 内 剛 の 十 悪 を 言 ひ 、 此 等 の 一 に 該 當 す る も の は た と へ 入 議 に 當 る も 恩 典 に 預 り 得 ざ る 事 に な つ て を る 〇 是 等 の 刑 法 は 我 大 賓 律 令 に と り 入 れ ら れ た も の で あ つ て 、 大 師 の 入 唐 時 代 は 室 者 の 權 を 弄 し つ ゝ あ つ た 時 の 事 で あ る か ら 、 峻 烈 苛 酷 に 行 使 せ ら れ て 居 た も の ゝ 様 に 思 は れ る 。 へ 、 田 制 ・ 税 制 、 田 制 は 均 田 法 に し て 丁 中 の (丁 二 一 歳 中 一 六 歳 以 上 ) 民 に 田 一 頃 即 百 畝 、 篤 疾 者 に 四 十 畝 、 妻 妾 に 三 十 畝 を 給 し 孰 れ も 其 の 十 分 の 二 を 世 襲 と し 、 十 分 の 入 を 口 分 田 と し て 其 の 所 有 を 一 代 限 と し 、 死 す れ ば 是 を 官 に 收 め し め 、 貼 賃 及 び 入 質 を 禁 じ て 居 た 、 税 制 は 租 、 庸 、 調 の 三 法 を 用 ゐ 、 租 は 田 賦 と 稱 し て 毎 丁 歳 に 粟 二 石 以 上 を 上 納 せ し む る 法 に し て 、 庸 は 歳 役 二 十 日 を 課 し 、 役 せ ざ れ ば 其 の 傭 を 牧 め し む る 法 に し て 、 調 は 土 地 の 宜 し き に 随 ひ 綾 絹 施 布 を 收 め し む る 法 で あ る 、 此 等 の 法 は 人 口 戸 數 の 剣 然 た る 時 に 於 て の み 行 は れ る も の で あ る か ら 、 初 唐 盛 唐 時 代 は 兎 に 角 と し て 安 史 の 亂 後 は 人 口 戸 數 不 正 確 と な つ た た め 次 第 に 行 は れ な く な り 、 送 に 徳 宗 は 宰 相 楊 炎 の 説 に よ つ て 各 州 縣 の 戸 口 を 主 客 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け ろ 唐 朝 文 化 二 四 九
弘 法 犬 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 〇 を 問 は す 、 現 住 者 を 悉 く 登 録 し て 作 つ た 戸 籍 を 以 て 數 へ 、 且 貧 富 に 應 じ て 等 級 を た て 州 縣 の 費 用 と 朝 廷 に 上 納 す る 額 と を 豫 算 し て 配 當 し 。 夏 (六 月 ) 秋 (十 一 月 ) の 二 期 に 收 税 す る 事 に し た 、 此 を 兩 税 法 と 稱 し て を る 。 徳 宗 は 又 間 架 銭 ( 一 種 の 家 屋 税 ) 、 除 附 銭 ( 一 種 の 交 易 税 ) 、 茶 税 を 課 し 、 酒 の 專 賣 を 行 使 し た 。 此 等 の 他 徳 宗 時 代 に は 監 税 (粛 宗 是 を 定 む ) も 行 は れ 、 廣 東 地 方 の 外 國 貿 易 港 に 於 て は 一 種 の 海 關 税 又 は 輸 入 税 が 課 せ ら れ て 居 た 。 さ れ ば 大 師 入 唐 時 代 の 唐 の 田 制 ・ 税 制 、 特 に 税 制 は 初 唐 に 比 し て 大 變 化 を 來 し て 居 た 。 二 、 儒 學 と 史 學 唐 の 儒 學 は 訓 話 の 學 に し て 文 學 の 盛 な る に 比 し て 更 に 振 は な か つ た 、 訓 話 の 學 は 經 典 の 字 句 の 解 釋 を 重 親 す る も の に し て 漢 代 勃 興 せ る も の で あ る 。 漢 代 訓 話 の 學 の 勃 興 せ る は 秦 の 始 皇 帝 の 焚 書 坑 儒 に 基 づ く 儒 學 の 衰 微 に 原 因 す る も の に し て 漢 代 學 者 は 是 が た め に 先 秦 時 代 の 古 書 の 文 義 の 勘 考 以 外 一 歩 も 出 つ る 事 能 は す 、 塗 に 訓 話 の 學 を な す に 至 つ た が 、 東 晋 南 北 朝 時 代 此 の 學 風 は 南 北 の 二 派 に 分 れ て 居 た 、 晴 は 天 下 一 統 と 共 に 此 等 兩 派 の 學 説 を 一 旦 綜 合 し た が 、 久 し か ら す し て 階 六] び 唐 興 る や 、 南 北 兩 派 の 論 爭 再 発 し 、 學 者 は 各 其 の 奉 す る と こ ろ の 學 説 を 唱 導 し 、 門 流 學 派 を た て ゝ 相 爭 ひ 、 學 徒 は 其 の 適 從 す る と こ ろ に 苦 し む に 至 つ た 。 於 是 太 宗 は 孔 頴 達 、 顔 師 古 等 を し て 五 經 正 義 を 撰 定 せ し め 、 學 校 数 育 は 勿 論 官 吏 の 登 用 試 験 も 皆 是 に よ ら し め
學 者 悉 く 是 に 從 ひ 、 經 典 の 學 説 茲 に 統 一 せ ら れ た が 、 學 者 の 自 由 研 究 は 是 が た め に 甚 し く 阻 害 せ ら る る に 至 つ た 。 是 れ 文 學 其 の 他 唐 朝 文 化 の 発 達 前 古 無 比 な る に 獨 り 經 學 の 研 究 の み 漢 宋 兩 時 代 に 比 し て 振 は ざ る 所 以 で あ る 。 然 し な が ら 唐 代 經 學 の 衰 微 は 必 す し も 學 説 の 統 一 、 五 經 正 義 の 撰 定 に の み 歸 す べ き も の で な く 、 他 に 今 一 つ の 原 因 が あ つ た 、 其 は 官 吏 登 用 試 驗 の 科 目 の 中 學 問 の 自 由 研 究 を 阻 害 せ ら れ て 居 た 明 經 の 經 義 試 驗 よ り も 、 自 由 に 天 才 を 発 揮 す る 事 を 得 た 進 士 の 詩 賦 文 學 試 驗 の 名 を 著 し 、 仕 進 榮 達 速 か な り し 關 係 上 、 明 經 科 よ り 進 士 科 の 方 歡 迎 せ ら れ た 事 で あ つ た 。 か ゝ る 經 學 衰 微 の 時 代 に あ つ て 李 鼎 祚 の 周 易 集 解 、 啖 助 、 陸 浮 師 弟 の 春 秋 集 解 纂 例 及 び 辮 疑 の 如 き は 異 色 と 言 ふ べ く 、 又 韓 愈 が 原 道 、 原 性 、 原 人 な ど に 儒 學 の 大 精 神 を 論 じ 、 哲 學 的 研 究 の 一 端 を あ ち は し て を る の は 特 筆 す べ き も の で あ る 。 吏 學 も 儒 學 と 同 様 振 は す 、 太 宗 が 宋 の 謝 靈 雲 の 撰 定 し た 晋 書 の 未 だ 全 か ら ざ る を 見 て 諸 遂 良 、 許 敬 宗 、 房 玄 齢 等 に 命 じ て 之 を 重 修 せ し め 、 次 い で 長 孫 無 忌 、 魏 徴 等 に 詔 し て 隋 書 を 撰 定 せ し め し よ り 、 一 朝 一 代 の 歴 史 多 く 奉 勅 官 撰 と な り 、 爾 後 史 家 に し て 獨 力 一 朝 の 歴 史 を 物 す る も の な く 、 又 一 家 の 見 を 立 て る も の 殆 ど 其 の 跡 を 絶 つ に 至 つ た た め撥 溂 た る 生 氣 を 缺 い で 居 た 。 然 し な が ら 隋 書 と 同 時 に 撰 定 せ ら れ た 周 書 、 北 齊 書 、 梁 書 、 陳 書 , 南 北 朝 史 (梁 陳 二 書 は 魏 徴 、 姚 思 廉 、 北 齊 書 は 命 孤 徳 葉 、 岑 文 本 、 崔 仁 師 、 南 北 朝 史 は 李 延 壽 の 撰 定 し た も の で あ る ) 等 は 孰 れ も 一 家 の 論 定 を な し 、 史 論 に は 劉 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 一
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 二 知 幾 の 史 通 (支 那 の 史 學 原 論 と し て 有 名 で あ る ) 、 雑 史 に は 呉 兢 の 貞 觀 政 要 、 裴 庭 裕 の 東 觀 秦 記 (宜 宗 一 代 記 ) が あ る 。 劉 知 幾 、 呉 競 は 共 に 玄 宗 時 代 の 人 に し て 其 の 著 書 の 後 世 に 及 せ し 影 響 相 當 大 な る も の あ れ ば 、 徳 宗 、 順 宗 、 憲 宗 時 代 即 大 師 入 唐 時 代 の 史 學 の 大 勢 も 自 ら 是 を 知 る 事 が で き る と 思 ふ 。 三 、 文 學 儒 學 の 不 振 に 反 し て 文 學 は 前 古 未 曾 有 の 発 達 を と げ 、 唐 代 文 化 の 華 と 謡 は れ て を る 。 元 來 支 那 の 文 學 は 昔 は 學 者 に 屬 し 、 學 者 即 文 士 に し て 學 者 以 外 文 士 の 存 在 を 認 め な か つ た の で 文 章 は 孔 子 の 所 謂 辭 達 而 巳 矣 即 達 意 の 文 を 主 と し 外 形 の 修 飾 に と ら は れ て 居 な か つ た 。 然 る に 戦 國 末 賦 と 稱 す る 一 種 の 美 文 起 り て よ り 、 漸 く 字 句 の 修 飾 を 重 ん す る 風 盛 と な り 、 漢 代 に は 四 六 文 又 は 四 六 駢 儷 體 の 文 章 流 行 し 、 遂 に 學 者 文 士 の 分 離 を 見 る に 至 っ た 。 此 の 新 文 體 は 四 字 句 、 六 字 句 の 對 句 を 配 列 す る も の に し て 外 形 の 美 に 比 し て 内 容 は 比 較 的 繊 弱 な る も の が あ る が 、 爾 後 三 國 晋 南 北 朝 隋 を 經 て 唐 の 初 期 迄 傳 承 せ ら れ て 居 た 。 是 唐 初 の 四 大 文 豪 王 勃 、 楊 燗 、 盧 照 隣 、 駱 賓 王 等 の 文 章 が 尚 六 朝 文 學 の 繊 弱 を 帯 ぶ る 所 以 で あ つ て 唐 の 文 學 が 數 百 年 來 の 積 弊 を 一 掃 し て 清 新 澄 溂 た る 新 様 式 を な す に 至 つ た の は 盛 唐 以 後 の 事 で あ る 。 而 し て 詩 が 南 北 朝 以 來 の 風 を 脱 し た の は 則 天 武 后 時 代 の 事 に 屬 し 、 其 の 盛 況 を 謡 は る ゝ に 至 つ た の は 玄 宗 時 代 の 事 で あ り 、 文 章 が 四 六 の 對 句 よ り 達 意 の 古 文 に 復 古 し た の は 代 宗 徳 宗 時 代 の 事 で あ る 。 さ れ ば 唐 の 文 學 は 盛 唐 よ り 晩 唐 に か け て 其 の 黄 金 時 代 を 現 出 し た 次 第 で あ る か ら 、 大 師 の 入 唐 せ
ら れ た 時 代 は 其 の 爛 熟 時 代 で あ つ た と 言 つ て よ い 。 此 の 爛 熟 期 に 入 唐 せ ら れ た 大 師 が 唐 の 文 學 よ り 受 け た で あ ら う 刺 激 は 其 の 在 留 僅 か に 一 年 を 出 衣 と 雖 も 入 唐 前 、 唐 の 文 化 に 對 し て 相 當 の 造 詣 を も つ て を ら れ た 事 を 思 へ ば 必 す し も 是 を 捕 捉 し 得 ら れ な い で も な い 。 今 盛 唐 以 後 の 詩 人 文 章 家 の 重 な る も の を あ げ る な ら ば 、 先 づ 詩 人 と し て 則 天 武 后 時 代 の 陳 子 昂 を あ げ ね ば な ら ぬ 。 陳 子 昂 は 南 北 朝 時 代 の 詩 風 を 排 撃 し て 唐 詩 に 革 新 の 一 石 を 投 じ た 人 で あ つ て 、 此 の 一 石 の 起 し た 波 紋 は 其 の 後 次 第 に 獲 大 し て 、 遂 に 玄 宗 時 代 李 白 (太 自 ) 、 杜 甫 (子 美 ) を し て 唐 詩 に 一 新 時 期 を 劃 せ し め た の で あ つ た 。 即 是 等 兩 人 が 外 形 の 修 飾 に と ら は れ す 、 天 才 に 任 せ て 自 由 に 自 己 の 感 情 思 想 の 歌 謡 を 試 み た 時 天 下 爭 う て 是 に 模 倣 し た た め 、 南 北 朝 時 代 の 繊 弱 な る 詩 風 茲 に 全 く 一 變 し て 自 由 清 新 の 氣 躍 如 た る 唐 詩 の 黄 金 時 代 を 現 出 す る に 至 っ た の で あ る が 、 是 遍 に 陳 子 昂 の 投 じ た 一 石 の 波 紋 の 損 大 し た 結 果 に 外 な ら な い の で あ る 。 李 杜 の 他 玄 宋 時 代 に は 孟 浩 然 、 王 昌 齢 、 王 維 、 岑 参 等 の 大 家 輩 出 し て 活 氣 旺 溢 せ る も の が あ つ た が 、 次 の 中 唐 時 代 (詩 賦 の 中 唐 ) に 入 る と 氣 勢 稍 減 退 し (白 居 易 、 劉 禹 錫 等 は 中 唐 時 代 の 大 家 で あ る ) 、 更 に 晩 唐 (詩 賦 の 晩 唐 ) に 入 る と 衰 微 の 兆 歴 然 た る も の が あ つ た ( 李 商 隠 、 杜 牧 等 は 晩 唐 時 代 の 大 家 で あ る ) 。 次 に 文 章 家 と し て は 晩 唐 (詩 賦 の 中 唐 ) の 韓 愈 (退 之 ) 、 柳 宗 元 (子 厚 ) の 二 者 最 も 有 名 で あ る 。 唐 の 文 章 は 是 等 兩 人 の 出 現 に よ つ て 始 め て 駢 儷 體 よ り 脱 し て 達 意 の 古 文 に 復 し た の で あ る が 、 兩 人 は 晩 唐 の 初 期 の 人 で あ る か ら 、 文 章 は 詩 の 盛 時 過 ぎ た る 頃 漸 く 盛 況 に 達 し た も の で あ る 。 然 し な が 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 三
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 四 ら 兩 人 以 後 宋 の 勃 興 迄 大 文 章 家 の 出 現 を 見 な か つ た の で 一 時 の 盛 を 謡 は れ た 丈 で 直 ち に 詩 と 共 に 沈 滞 す る に 至 つ た 。 從 つ て 大 師 入 唐 時 代 の 文 學 は 詩 に 於 て は 自 居 易 の 如 き 大 家 を 出 し た に も 拘 ら す 、 稍 沈 滞 の 氣 味 が あ つ た が 、 文 章 に 於 て は 韓 柳 兩 大 家 の 出 現 を 見 た の で 活 氣 旺 溢 せ る も の あ り 、 大 師 も 必 す や 是 等 兩 大 家 に 學 ぶ と こ ろ あ つ た に 相 違 な い 。 四 、 美 術 と 言 樂 一 、 美 術 、 唐 代 の 美 術 は 佛 教 に 關 す る も の に 其 の 特 徴 が 多 く 認 め ら れ る と 思 ふ 。 イ 、 彫 刻 に 就 い て は 唐 代 彫 刻 の 特 色 を な す 豊 満 優 美 な 形 體 美 は 南 北 兩 朝 の 文 化 の 融 合 の 結 果 で あ る 事 は 言 ふ 迄 も な い 事 で あ る が 、 然 し 又 一 面 佛 教 の 影 響 を 受 け た 上 に 初 唐 の 頃 渡 天 し た 玄 奘 、 義 淨 等 が 印 度 西 域 よ り 持 ち 歸 つ た で あ ら う 佛 像 に 刺 激 せ ら れ た 結 果 で あ る と も 言 ふ 事 が で き る 。 佛 像 に 次 い で 唐 代 彫 刻 の 一 部 に 装 飾 模 様 が あ る 。 是 は 草 花 を 模 様 化 し た も の で あ つ て 佛 像 と 同 様 優 美 な 特 色 が 認 め ら れ る 。 ロ 、 給 書 に 就 い て は 初 唐 の 頃 凹 凸 盡 と 稱 す る も の が 行 は れ て 居 た 。 是 は 陰 影 法 を 用 ゐ た 印 度 の 手 法 で あ つ て 、 南 北 朝 時 代 既 に 南 方 に 知 ら れ (南 朝 の 梁 の 國 郡 建 康 の 東 方 丹 陽 縣 の 一 乗 寺 の 凹 凸 書 に 關 す る 話 は 凹 凸 盡 傳 來 當 時 の ナ ン セ ン ス を 傳 ふ る も の で あ る ) 、 我 國 に も 傳 來 し て 法 隆 寺 金 堂 の 壁 書 に 影 響 を 及 し て を る 。 壁 書 は 唐 代 廣 く 行 は れ た も の で あ る 。 然 し な が ら 唐 代 給 書 の 特 色 は 佛 書 と 山 水 畫 と じ
是 を 認 め る 事 が で き る 。 佛 畫 は 佛 像 彫 刻 と 相 侯 つ て 唐 代 佛 教 藝 術 の 殿 堂 を 形 成 せ る も の に し て 張 孝 師 、 呉 道 玄 、 周 肪 等 は 其 の 巨 匠 で あ る 、 周 肪 は 大 師 入 唐 當 時 の 人 に し て 張 信 縣 、 曹 仲 達 、 呉 道 玄 と 相 互 し て 佛 畫 家 の 四 典 型 の 一 に あ げ ら れ て を る 。 山 水 畫 は 南 北 朝 時 代 に 萌 芽 し て 唐 代 に 発 育 し た も の で 其 の 手 法 山 水 の 實 形 を 寫 す に 重 を お き 、 緻 密 に し て 力 強 き 筆 法 を 用 ゐ る も の を 北 宗 畫 、 山 水 の 美 感 の 表 現 に 重 を お き 、 柔 味 あ る 自 由 な る 筆 法 を 用 ゐ る も の を 南 宗 畫 と 稱 し て を る 。 北 宗 畫 は 玄 宗 の 時 の 李 思 訓 、 南 宗 畫 は 同 じ く 玄 宗 の 時 の 詩 人 王 維 を 夫 々 組 と し 、 前 者 は 著 色 山 水 を 主 と し 、 後 者 は 淡 墨 山 水 を 主 と し て 居 た が 、 實 際 兩 者 の 筆 法 が 判 然 區 別 せ ら れ る 様 に な つ た の は 宋 代 に 入 つ て か ら の 事 で あ る 。 ハ 、 建 築 に 就 い て は 高 祖 の 詩 の 披 香 殿 、 玄 宗 の 時 の 清 華 殿 な ど の 宮 殿 及 び 道 教 の 道 觀 、 長 安 の 太 清 宮 、 洛 陽 の 太 徴 宮 な ど は 孰 れ も 輪 奠 の 美 を 極 め た も の で あ る が 、 此 等 の 他 佛 教 、 回 教 、 景 教 、 沃 教 、 摩 尼 教 な ど の 寺 院 會 堂 教 會 な ど も 多 く 建 築 せ ら れ 、 國 都 長 安 は 此 等 の 支 那 式 、 印 度 式 、 ア ラ ビ ヤ 式 、 ギ リ シ ヤ 式 、 ペ ル シ ャ 式 等 の 状 麗 宏 大 な 建 築 物 に よ つ て 外 觀 の 美 を 誇 つ て 居 た 〇 大 師 が 歴 訪 せ ら れ た と 言 ふ 長 安 の 西 明 寺 、 青 龍 寺 、 大 慈 恩 寺 な ど は 佛 教 建 築 と し て 他 の 建 築 物 と 其 の 外 觀 を 競 つ て 居 た 事 で あ ら う と 思 ふ 。 二 、 工 藝 に 就 い て は 樂 器 の 装 飾 、 佛 像 の 光 背 、 鏡 鑑 、 花 瓶 (唐 代 の 陶 器 に 三 彩 と 稱 す る 著 色 絢 爛 た る も の が あ る ) 、 織 物 な ど も 唐 代 大 に 発 達 し 、 孰 れ も 優 美 を 特 色 と し て 居 た が 、 不 幸 此 等 に 關 す る 遺 物 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 五
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 六 の 支 那 に 残 存 す る も の 少 き た め 外 國 (我 奈 良 、 平 安 兩 時 代 の 美 術 品 に 僅 か に 其 の 面 影 を と ど め て を る ) に 其 の 研 究 資 料 を 仰 が ね ば な ら ぬ 状 態 に お か れ て る の は 聊 が 皮 肉 で あ る 。 ホ 、 書 道 は 支 那 で は 後 漢 以 來 藝 術 的 趣 昧 を 以 て 鑑 賞 せ ら れ 、 批 評 せ ら れ て 居 た が 唐 代 太 宗 が 官 吏 登 用 試 驗 に 明 字 を 課 し て 書 道 を 重 覗 せ し よ り 、 此 の 風 一 層 盛 と な り 、 虞 世 南 、 欧 陽 詢 、 諸 遂 良 、 張 旭 、 顔 眞 卿 、 柳 公 權 等 の 能 書 家 の 輩 出 を 見 た 。 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 時 代 に は 右 の 柳 公 權 の 外 に 除 疇 、 韓 方 明 、 呉 通 玄 、 柳 宗 元 . 劉 禹 錫 等 の 大 家 が 居 た か ら 、 大 師 は 此 等 の 人 に 學 ぶ と こ ろ 相 當 大 な る も の が あ つ た ら う と 思 ふ 。 参 考 、 書 法 傳 授 表 (横 井 時 冬 本 朝 入 木 道 に よ る ) へ 、 紙 、 唐 代 書 道 の 興 隆 に 附 随 し て 一 言 し て お き た い 事 は 製 紙 法 の 発 達 で あ る 、 紙 の 製 法 は 支 那 で
は 後 漢 時 代 既 に 発 明 せ ら れ て 居 た が 、 唐 代 に は 其 の 法 大 に 進 み 今 日 と 何 等 異 る と こ ろ な き 生 紙 熟 紙 の 製 造 が 行 は れ て 居 た 。 此 の 製 紙 法 の 発 達 に 件 う て 隋 唐 の 間 に 印 刷 術 (木 版 印 刷 ) が 発 明 せ ら れ た 。 二 、 書 樂 、 音 樂 は 南 北 朝 時 代 支 那 固 有 の も の を 傳 ふ る 南 朝 系 と 西 域 の 要 素 を 加 味 せ る 北 朝 系 と の 二 派 に 分 れ て 居 た が 、 隋 の 統 一 と 同 時 に 昔 樂 も 亦 統 一 せ ら れ 、其 の ま ゝ 唐 に 傳 へ ら れ た 。 建 國 當 初 唐 は 國 内 の 統 一 と 平 和 の 建 設 と に 忙 し く し て 音 樂 を 顧 み る 餘 裕 な く 、 隋 の 奮 を 繼 承 し て 居 た が 、 海 内 平 穏 に 歸 し 、 唐 朝 三 〇 〇 年 の 國 基 定 る や 、 高 祖 は 始 め て 音 樂 に 留 意 し 、 太 常 寺 少 卿 祖 孝 孫 に 命 じ て 雅 樂 を 正 さ し め 、 祖 孝 孫 は 隋 の 奮 に 更 に 西 城 其 の 他 の 音 樂 的 要 素 を 加 味 し て 十 二 和 樂 を 作 り て 太 宗 に 上 り 、 茲 に 状 大 な る 大 唐 雅 樂 の 出 現 を 見 た。 我 奈 良 朝 平 安 朝 時 代 の 雅 樂 は 當 時 轍 入 せ ら れ た 唐 代 の 雅 樂 に よ り た る も の に し て 其 の 面 影 は 今 日 尚 我 國 の 雅 樂 に 是 を 認 め る 事 が で き る 。 唐 代 の 雅 樂 は 樂 器 . 音 階 、 作 曲 等 凡 て 唐 代 文 化 一 般 の 特 徴 を な す 形 式 的 美 觀 を 誇 り 得 る も の で あ る 。 前 記 の 十 二 和 樂 は 後 玄 宗 の 時 三 和 樂 を 加 へ て 十 五 和 樂 と な つ た 。 次 に 舞 樂 は 七 徳 の 舞 、九 功 の 舞 、 上 元 の 舞 の 三 大 舞 に 分 れ 、 此 の 中 七 徳 の 舞 は 武 の 舞 、 九 功 の 舞 は 文 の 舞 で あ る 、 唐 代 昔 樂 の 発 達 は 高 祖 、 太 宗 の 雅 樂 、 舞 樂 の 制 定 に あ る 事 は 勿 論 で あ る が 、 然 し 玄 宗 が 音 樂 を 好 み 、 親 ら 樂 人 の 養 成 に 努 力 せ ら れ た 事 程 左 様 に 唐 代 昔 樂 の 発 達 を 助 け た も の は な い 。 玄 宗 は 既 に 一 言 し て お い た 通 り 梨 園 に 於 て 親 ら 音 樂 を 教 授 せ ら れ た の で あ る が 、 當 時 長 安 に は 官 設 の 音 樂 歌 舞 者 を 養 成 す る 教 坊 と 稱 す る も の あ り 、 他 方 で は 是 を 樂 戸 と 稱 し 、 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 七
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け ろ 唐 朝 文 化 二 五 八 又 伶 人 を 立 部 と 坐 部 と に 分 ち 、 坐 部 は 堂 上 に 坐 し 、 立 部 は 堂 下 に 立 ち 、 坐 部 は 笙 歌 を な し 、 立 部 は 笛 鼓 を な ら し た も の で あ る 〇 玄 宗 が 梨 園 に 於 て 教 授 し た の は 坐 部 に 屬 す る も の で あ つ て 、 是 を 皇 帝 梨 園 弟 子 と 稱 し て 居 た 〇 か ゝ る 次 第 で あ つ た か ら 玄 宗 時 代 に は 教 坊 の 生 員 二 〇 〇 〇 を 算 し 、 太 常 寺 附 屬 の 樂 工 萬 戸 を 越 え て 居 た 。 此 の 盛 況 は 安 史 の 亂 後 稍 衰 へ た け れ ど も 、 玄 宗 よ り 一 〇 〇 年 後 の 宣 宗 時 代 即 晩 唐 の 終 り 頃 尚 太 常 寺 附 屬 の 樂 工 五 〇 〇 〇 餘 、 俗 樂 一 五 〇 〇 餘 を 數 へ て 居 た か ら 、 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 時 代 は 昔 樂 は 尚 相 當 の 榮 を み せ て 居 た 筈 で あ る 。 五 、 宗 教 唐 は 大 體 宗 教 に 樹 し て 自 由 政 策 を と つ た 上 に 其 の 領 土 廣 大 に し て 盛 に 諸 國 と 交 通 せ し た め 、 在 來 の 宗 教 は 勿 論 新 來 の 宗 教 も 孰 れ も 皆 大 に 流 行 し 、 佛 教 の 如 き は 其 の 教 理 の 発 達 の 上 か ら 見 れ ば 黄 金 時 代 に 達 し て 居 た 。 イ 、 佛 教 、 從 つ て 佛 教 は 唐 代 最 も 盛 に 行 は れ た も の で あ る が 、 高 祖 が 太 史 令 傅 亦 の 上 奏 に よ つ て 僧 尼 、 道 士 、 女 冠 の 監 督 を 嚴 に し 、寺 院 の 數 を 限 定 し 、太 宗 が 公 認 以 外 僧 侶 道 士 と な る を 禁 じ た 時 代 は 佛 激 の 前 途 頗 る 憂 慮 す べ き も の が あ つ た 、 此 の 時 偶 , 玄 奘 出 で 太 宗 、 高 宗 の 尊 崇 を 得 た と 言 ふ 事 は 唐 代 佛 教 の た め に 慶 賀 す べ き 事 で あ つ た 。 玄 奘 は 貞 觀 三 年 支 那 を 発 し 、 陸 路 天 山 北 路 を 經 て 七 年 印 度 に 入 り 歴 遊 百 餘 國 貞 觀 十 九 年 梵 本 佛 教 經 論 六 五 七 部 を 齎 し て 歸 國 し 、 大 唐 西 域 記 を 著 す と 同 時 に 沙 門 道 宣 等
と 勅 を 受 け て 新 譯 七 五 部 一 三 三 五 卷 を 翻 譯 し 、 且 法 相 宗 を 開 い た 。 太 宗 是 を 信 仰 し て 三 藏 聖 数 序 を 作 り 、 高 宗 又 信 仰 し て 、 述 聖 記 を 撰 し た 。 玄 奘 の 渡 天 に 逞 る ゝ 事 約 四 〇 年 高 宗 の 咸 享 二 年 義 淨 と 言 ふ も の ま た 海 路 よ り 印 度 に 行 き 、 二 五 年 を 費 し て 三 〇 餘 國 を 歴 遊 し 、 四 〇 〇 餘 部 の 佛 典 を 得 て 則 天 武 后 の 時 長 安 に 歸 り 、 五 六 部 を 魏 譯 し 、 別 に 太 唐 西 域 求 法 高 信 傳 及 び 南 海 寄 歸 内 法 傳 を 著 し た 。 玄 奘 義 淨 の 渡 天 譯 經 に 加 ふ る に 印 度 西 域 信 の 支 那 に 來 り て 譯 經 す る も の 次 第 に 多 ぐ 、 且 帝 室 の 尊 崇 日 に 厚 き を 加 へ 、 則 天 武 后 の 如 き は 尊 崇 の 餘 b 寺 を 作 り 、僧 を 度 し て 財 政 の 窮 迫 す る を 顧 み ざ る 有 様 で あ つ た か ら 、 佛 教 の 隆 興 驚 く 可 く 、 南 北 朝 以 來 行 は れ て 居 た 十 宗 派 に 更 に 唐 代 分 派 し た 華 嚴 、 法 相 、 眞 言 の 三 宗 派 を 加 へ て 十 三 宗 派 の 流 行 を 見 る に 至 つ た 。 右 の 中 眞 言 宗 は 印 度 に 於 て は 義 淨 の 渡 天 當 時 漸 く 唱 へ ら れ て 居 た も の ゝ 標 で あ る が 、 支 那 に 傳 へ ら れ た の は 玄 宗 の 時 の 事 で あ る 、 即 玄 宗 の 時 開 元 の 三 大 士 と 稱 せ ら れ て を る 印 度 僧 善 無 畏 、 金 剛 智 三 藏 、 不 空 三 藏 の 三 者 相 次 い で 來 唐 し て 眞 言 宗 を 傳 へ た も の で あ つ て 、 不 塞 は 後 一 度 印 度 に 歸 り 、 更 に 秘 密 眞 言 を 受 け て 再 び 來 唐 し て 譯 經 に カ め た た め 眞 言 宗 漸 く 盛 と な り 、 不 空 は 玄 宗 、 粛 宗 、 代 宗 三 帝 の 尊 信 を 受 け 、 不 空 の 衣 鉢 を 傳 へ た 恵 果 は 、 代 宗 徳 宗 順 宗 三 帝 の 灌 頂 の 師 と 仰 が れ 、 朝 野 の 尊 崇 他 に 比 肩 す べ き も の が な か つ た 。 か く の 如 き は 玄 宗 時 代 玄 宗 を 始 め 顔 眞 卿 、 王 維 等 の 諸 名 士 の 深 き 信 仰 を か ち 得 た た め で あ つ て 、 玄 宗 の 如 き は 開 元 十 七 年 三 年 毎 に 僧 尼 の 籍 を 作 り 、 祠 部 の 官 よ り 度 牒 を 給 し て 僧 尼 の 地 税 徭 役 を 免 除 し た も の で あ る か ら 、 度 僧 建 寺 年 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 五 九
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け ろ 唐 朝 文 化 二 六〇 と 共 に 多 く な り 、 文 宗 時 代 に は 寺 院 の 數 四 萬 餘 に 達 し 僧 尼 の 數 七 十 萬 餘 を 算 す る の 盛 況 を 呈 し て 居 た 。 此 等 の 點 か ら 考 へ る と 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 時 代 の 佛 教 は 文 章 と 共 に 黄 金 時 代 を 謡 歌 し て 居 た と 認 め る 事 が で き る が 、 同 時 に ま た 朝 延 の 尊 崇 に 原 因 す る 度 僧 建 寺 の 多 き と 佛 教 に よ り て 福 利 を 求 め ん と す る 僥 倖 的 迷 信 的 傾 向 と は 唐 人 を 廢 頽 的 な ら し め 、 其 の 弊 風 漸 く 顯 著 な る も の が あ つ た 事 を も 認 め ざ る を 得 な い 。 韓 愈 が 原 道 に 佛 道 二 數 を 攻 撃 し て 人 其 人 、 火 其 書 、 底 其 居 と 叫 び 、 憲 宗 が 佛 骨 を 奉 迎 す る や 、 佛 骨 表 を 上 奏 し て 佛 は 夷 秋 の 一 法 の み と 言 へ る が 如 き は 正 に 此 の 問 の 消 息 を 物 語 る も の で あ つ て 、 彼 の 排 佛 は 單 な る 偏 見 (儒 道 精 神 に 基 づ く ) と し 一 笑 に 附 す べ き も の で な く 、 佛 教 の 流 行 に 基 づ く 社 會 の 弊 風 改 善 を 目 的 と し た 諫 爭 と 見 る べ く 、 其 の 憲 宗 の 逆 鱗 に ふ れ て 潮 州 の 刺 史 に 貶 せ ら れ て 赴 任 す る 時 詠 め る 詩 は 彼 の 當 時 の 心 情 を 表 し 得 て あ ま り あ る も の が あ る 。 ロ 、 道 教 、 は 不 老 長 生 を 標 榜 す る 神 仙 術 、 卜 占 、 符 呪 な ど の 支 那 古 來 の 原 始 的 信 仰 、 災 を さ け 幸 福 富 貴 を 求 め ん が た め に 道 徳 を 行 ひ 、 鬼 神 を 祭 る 一 種 の 現 世 的 功 利 的 數 な ど を 其 の 特 徴 と せ し よ り 秦 漢 以 來 次 第 に 行 は れ 魏 晋 時 代 に は 佛 教 を 壓 倒 す る の 慨 が あ つ た 。 而 し て 唐 興 る や 唐 の 國 姓 李 が 道 教 の 教 祖 老 子 の 李 と 同 じ き よ り 道 士 等 は 老 子 を 以 て 唐 の 遠 祖 と な し て 唐 朝 の 歡 心 を 求 め し に 高 祖 是 を 信 じ て 老 子 を 廟 祀 し 、 高 宗 は 老 子 に 太 上 玄 元 皇 帝 の 尊 號 を 贈 り 、 玄 宗 は 家 毎 に 道 徳 經 一 本 を 識 せ し め 、 且 崇
玄 學 (玄 學 即 老 荘 を 學 ぶ 所 ) を お き 、 道 家 の 古 書 を 學 習 し て 科 擧 に 應 せ し め た も の で あ る か ら 道 教 大 に 隆 興 し 、 武 宗 の 時 に は 道 教 を 尊 崇 す る 餘 り 他 の 宗 教 を 嚴 禁 し た も の で あ つ た 。 然 し な が ら 道 教 の 教 理 、 經 文 は 多 く 佛 教 に 模 倣 し て 作 ら れ て を る の で 佛 教 徒 の 輕 侮 を 受 け 、 武 宗 の 彈 壓 前 即 粛 宗 よ り 憲 宗 に 至 る 時 代 即 大 師 の 入 唐 時 代 は 術 佛 教 に 一 歩 を 譲 つ て 居 た 様 で あ る 。 ハ 、 景 教 、 は シ ソ ヤ の 、矛 ス ト リ ウ ス の 創 め た キ リ ス ト 教 の 一 派 に し て ネ ス ト リ ウ ス は 三 位 一 體 を 排 撃 し て 新 説 を 唱 へ た た め コ ン ス タ ン チ ノ プ ル の 大 長 老 の 職 を 追 は れ て ア ル メ ニ ヤ に 客 死 し た が 、 其 の 説 は ア ジ ヤ の キ リ ス ト 教 徒 の 奉 す る と こ ろ と な り 、 小 ア ジ ヤ よ り 、 波 斯 、 中 央 ア ジ ヤ に 傳 へ ら れ 、 其 の 東 傳 の 勢 の 速 か な る 驚 く 可 き も の が あ つ た 。 而 し て 唐 に 傳 へ ら れ た の は 太 宗 の 貞 觀 入 年 の 事 で あ つ て シ リ ャ の 人 阿 羅 本 來 り て 太 宗 に 謁 見 し て 其 の 教 を 説 き 、 太 宗 其 の 教 を 嘉 と し て 天 下 に 行 ふ べ し と 詔 せ ら れ 長 安 に 大 秦 寺 を 建 立 せ ら れ た 。 支 那 で は 是 を 景 教 と 稱 し て を る 。 蓋 し 光 明 遍 照 暗 黒 世 界 の 義 で あ る 。 太 宗 以 後 の 諸 帝 孰 れ も 是 を 信 じ た の で 次 第 に 唐 に 流 行 し 、 徳 宗 の 建 中 二 年 に は 教 徒 同 教 の 流 行 を 記 念 せ ん が た め に 長 安 に 大 秦 景 教 流 行 中 國 碑 と 稱 す る 一 石 碑 を 建 立 し た も の で あ る が 、 其 の 後 遂 に 振 は す 、 漸 く 行 は れ な く な つ た 。 其 の 原 因 は 主 と し て 武 宗 の 彈 壓 に あ つ た が 、 ま た 一 面 景 教 の 信 徒 の 上 流 に 限 ら れ て 居 た 事 、 回 教 勃 興 し て 景 教 の 本 國 と の 聯 絡 を 絶 た れ た 事 な ど に も あ つ た も の ゝ 様 で あ る 。 景 教 の 信 徒 が 上 流 に 限 ら れ て 居 た に 就 い て は 玄 宗 の 時 の 名 將 郭 子 儀 が 熱 心 な 信 者 で あ つ た 事 實 が 傳 へ 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 六 一
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 げ る 唐 朝 文 化 二 六 二 ら れ て を る 。 大 秦 景 教 流 行 中 國 碑 の 碑 文 は 景 數 僧 景 淨 (支 那 人 ) の 撰 し た も の で 漢 字 と シ リ ヤ 文 字 と を 以 て 景 教 信 六 〇 餘 人 の 名 が 記 さ れ て を る 。 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 徳 宗 の 貞 元 二 〇 年 は 石 碑 の 建 で ら れ た 建 中 二 年 よ り 二 四 年 目 に 當 つ て を る 點 か ら 考 へ る と 大 師 の 入 唐 當 時 は 景 教 は 尚 大 に 流 行 し て 居 た も の と 解 す べ く 、 從 つ て 大 師 は 景 教 に 就 い て 見 聞 せ ら れ た 事 で あ ら う と 思 は れ る 。 高 野 山 奥 の 院 入 口 の 大 秦 景 教 流 行 中 國 碑 の 模 造 は 此 の 因 縁 に 感 じ て 英 國 の ゴ ル ド ン 婦 人 の 建 立 せ ら れ た も の で あ る 。 二 、 回 教 、 は ア ラ ピ ヤ 人 マ ホ メ ツ ト の 創 め し 宗 教 に し て マ ホ メ ッ ト 教 或 は イ ス ラ ム 歡 と 言 ひ 、 其 の 教 徒 を マ ホ メ ダ ン 、 或 は ム ズ ル マ ン と 稱 し て を る 。 支 那 で は 是 を 回 數 と 呼 び 、 別 に 天 方 教 、 清 眞 教 、 石 室 教 な ど の 異 名 が あ る 。 回 教 の 稱 は 回 紘 人 が 是 を 信 奉 せ し よ り 由 來 し た も の で あ る 。 回 教 が 公 然 唐 に 入 つ た の は 高 宗 の 永 徽 二 年 (西 暦 六 五 一 年 ) の 事 で あ る 、 此 の 年 は ア ラ ビ ヤ 人 が 波 斯 帝 國 を 六し し て 其 の 教 を 中 央 ア ジ ヤ に 傳 播 せ し め た 年 で あ る か ら 、 更 に 勢 に 乗 じ て 支 那 に 傳 へ ら れ た で あ ら う 事 は 容 易 に 是 を 想 像 す る 事 が で き る が 、 然 し 唐 初 既 に 南 海 を 經 由 し て 南 支 那 の 諸 港 に ア ラ ビ ヤ 人 が 來 航 し て 居 た 事 實 か ら 考 へ る と 回 教 が 陸 路 支 那 に 入 つ た の は 高 宗 時 代 と し て も 海 路 か ら は 今 少 し 早 く 入 つ て 居 た と 見 る 事 が で き る と 思 ふ 。 唐 代 ア ラ ビ ヤ 人 の 最 も 多 く 在 住 し て 居 た 廣 東 (廣 府 ) の 回 教 寺 懐 聖 寺 の 看 月 縷 の 額 記 に よ れ ば 同 寺 は 太 宗 の 貞 觀 元 年 の 創 建 と な つ て を る が 、 貞 觀 元 年 は 西 暦 六 二 七 年 に 當 り 、 マ ホ メ ソ ト の メ ジ ナ 逃 走 (西 暦 六 二 二 年 ) 後 僅 か に 五 年 を 經 過 せ る に 過 ぎ な い の で あ る か ら 、 此 の 年
回 教 が 支 那 に 傳 へ ら れ た と は 信 せ ら れ な い 。 さ れ ば 同 寺 創 建 の 年 代 は 後 人 の 捏 造 と し て 是 を 排 除 す る と し て も 初 唐 以 後 回 教 が 廣 東 地 方 に 贋 く 行 は れ て 居 た 事 丈 は 疑 な い 。 而 し て 其 の 盛 に 流 行 す る に 至 つ た の は 玄 宗 以 後 の 事 で あ つ て 安 史 の 亂 に 數 千 人 の ア ラ ビ ヤ 兵 入 援 し 、 亂 平 ぎ し 後 其 の ま ま 唐 に 歸 化 し て 回 教 を 信 仰 せ し よ り 次 第 に 北 支 那 に 傳 播 せ ら れ 、 武 宗 の 彈 壓 後 も 依 然 行 は れ て 今 日 に 及 び 、 其 の 數 二 千 萬 と 稱 せ ら れ て を る 。 回 教 は 戒 律 を 嚴 守 し 、 豚 肉 を 食 ふ を 禁 じ て を る が 、 此 と 略 時 を 同 う し て 同 様 戒 律 を 嚴 守 す る 眞 言 宗 が 唐 に 傳 は り 、 大 師 の 入 唐 せ ら れ た 時 代 大 に 流 行 し て 居 た と 言 ふ 事 は 一 奇 と 言 ふ べ く 、 多 分 此 等 の 兩 宗 教 は 互 に 相 當 の 影 響 を 及 し 合 う た 事 で あ ら う し 、 又 景 教 と 同 様 回 教 に 就 い て も 大 師 は 何 等 か 見 聞 せ ら れ た 事 で あ ら う 。 ホ 、 秩 教 、 は 西 暦 紀 元 前 千 年 頃 波 斯 の ゾ ロ ア ス タ ー の 創 め し 宗 数 に し て 明 暗 二 神 を 宇 宙 の 支 配 者 と な し 、 明 を 善 、 暗 を 悪 と し て 火 を 崇 拜 す る よ り 拜 火 教 の 名 が あ る 。 南 北 朝 の 頃 よ り 支 那 に 傳 へ ら れ 、 太 宗 の 貞 觀 五 年 何 禄 と 言 ふ も の 來 り て 布 教 を 始 む る や 、 唐 は 長 安 に 秩 寺 を た て ? 正 、 秩 祝 等 の 官 を お き て 之 を 管 理 せ し め た 。 其 の 後 次 第 に 流 行 し 、 武 宗 の 彈 壓 に 遭 つ た 頃 に は 秩 教 景 教 の 僧 侶 に し て 支 那 に 布 教 せ し も の 合 せ て 二 千 餘 人 に 及 ん で 居 た と の 事 で あ る 。 へ 、 摩 尼 教 、 は 西 暦 三 世 紀 の 頃 波 斯 僧 マ ニ の 創 め し も の に し て 其 の 教 に は ゾ ロ ア ス タ ー 、 佛 教 、 景 教 な ど の 教 義 が 加 味 せ ら れ て 居 る 。 則 天 武 后 の 頃 彿 多 誕 な る も の 始 め て 是 を 唐 に 傳 へ た が 、 其 の 教 徒 弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け ろ 唐 朝 文 化 二 六 三
弘 法 大 師 入 唐 時 代 に 於 け る 唐 朝 文 化 二 六 四 極 端 な 禁 慾 主 義 を 行 ひ し た め 、 玄 宗 の 時 一 時 嚴 禁 せ ら れ た が 、 安 史 の 亂 起 る に 及 び . 回 ? 人 の 是 を 信 す る も の 少 か ら す 、 粛 宗 其 の 信 仰 を 許 し 、 代 宗 其 の 教 徒 に 摩 尼 寺 の 建 立 を 許 し 、 且 大 雲 光 明 の 額 を 下 賜 せ ら れ し よ り 、 次 第 に 行 は れ 、 憲 宗 時 代 稍 盛 な る も の あ り 、 大 秦 寺 、 秩 寺 と 共 に 摩 尼 寺 は 三 夷 寺 と 呼 ば れ て 居 た が 、 武 宗 の 彈 壓 後 俄 か に 衰 微 し 、 僅 か に 西 北 部 回 ? 人 の 間 に 其 の 餘 藁 を 有 す る に 過 ぎ な い 。