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九州に於ける銅鐸

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

九州に於ける銅鐸

中山, 平次郎

https://doi.org/10.15017/2344466

出版情報:史淵. 1, pp.41-50, 1929-11-28. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

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銅鐸は從來安誕︵安佐郡祁木村祁田木ノ宗山及び石見︵邑智郡中野村假屋及び那変

郡上府村城山鍛冶床︶以西からは未だ發見されたこごが無いさいは伽︑随って九州は

その分布圃外ご着徹され︑この方面にはその所有者さへ無いやうに思はれて居たが

最近私は二口の銅鐸を賓兄するの幸を得たから︑弦にこれを紹介して考古學上疑問

の餘地多大なる此種迩物・研究の参考に供したいと考へる︒久しい以前に肥後國鹿

本郡内村字平田に於て銅鐸を發見した由を報じた人があって︑このことは吉田東伍

博士の大日本地名僻番にも記載されてあるが︑これは愛は銅鐸の如何なるものであ

るかを知らぬ人の間逹った報告であった︒故若林勝邦氏が九州出張の際にその貧

物を見られるざ︑案外これが鋼鐸で無くして鰐口であったといふこごでゐる︒爾来

九州に於ける銅鐸四一 九州に於ける銅鐸

昭和川年五月汁六円九大史躍御夜禽に於て油述

筈學椰士

山平次

(3)

・九州に於ける銅鐸四二

九州から銅鐸を發掘した報に接したことが無く︑叉その所砿宕にも出辿はなんだが

最近柊にその二口を見ると得たのである︒斯の如く從前學界に知られて居らなん

だ銅鐸が二つも近く相次で現はれて来たのを以て考へるご九州方面には尚他にも

︽これがありはせぬかと思は血場合によるご九州も亦將來銅鐸の分布悶内さ看倣さ

る固日が來らぬさも限らぬやうに推察さる畠のである︒近時私の見た二口の銅鐸

ほ未だ以てその来歴が明瞭で無いから︑このものに徴して直ちに分布圏を九州にま

で砿めることは出来ぬにしても︑その望が全然無い課では無いやうに恩はい︑更に進

んで十分に捜索して見る必要を認めるので今のる︒術最近疫見の銅鐸に閥して顔る

有益に戚じたのは︑その一口のものが陽鋳の銘丈を有することでゐる︒銅鐸に有銘

のものが無いとは從來一般考古學蒋の承認し氷ったところであるが︑今回愈々有銘

のものが出現して来たのであって︑笹だ稀には銘文を右するものあるこごむ認めね

ばならなくなったのである︒この事箕は銅鐸問題研究上に影群するところ進だ大

であって︑この有銘銅鐸に徴してこの蓮物に關係ある古代民族が古くn本に渡來し

た支那民族であったことの事蛮的證肌が塞げられたやうに思ふのである︒私は遇

091■9a■84■則■︑■■4剛

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股各方面の學毒にこの有銘銅鐸の爲冥を御透して置いたが︑本月︵五月開催の考古學

會大含に際して︑喜田貞吉博士懲是等を参考されて銅鐸に開する最新説を發表せら

る易さころがあり︑これに對して諸學者よりも討論せらるぁどころがあったやうに

承って居ろ︒軌れ是等の詳細は近き將來に於て雑誌上に公表せらる画ことであら

うから︑一應諸學務の高見を評讃した上私も亦この銅鐸問題に就て熟考して見やう

と樂んで居るのである︒随って今夕はこの問題に就ては別に患見を開陳しやうと

思はい︒唯近時見た二口の銅鐸を御紹介するに止めて置かうさ思ふのであ・る︒︒

︐深見卒次郎氏藏有銘銅鐸

この銅鐸は︑本年四月上旬祁岡市川端町の新保喜三氏が佐蛮の骨董商から朧入さ

れたものであって︑後に至って深見氏の有に蹄し︑今柳町稻荷橘岼の同氏控宅に置か

れてある︒手戸から出て長崎へ行って居たもの︻とのことである︒若しこ伽が手戸

出土のものであったならば︑愈々九州からも鋼鐸が出たことになり︑分布圏を擴めて

可いことになるのであるから︑一度この間の事怖を十分に調査して置きたく希望し

て居るが︑まだその運びに至らぬのである︒新保氏の談話に徴すると︑朧入當時は英

九州に於ける鋼鐸四三

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る︒元来九ヶ所︵鉦に三ケ所︑左右の

鰭に各三ヶ所宛肩飾耳を有した痕跡を存して居るが︑今一ヶ所咄完存せるものが無

九州に於ける鯏鐸四四

黒に汚帥︑發掘後二面年位は世に僻った様子でめったといふから︑發見は随分久しい以前にめったらしく︑出土状態杯は今Ⅱより之を肌にし難いかも知れぬが︑切めて何時頃何庭から出土したか位のことは︑之を碓めて涯きたく恩ふ︒現在の状態としては︑この汚れも巧に洗ひ去ら伽︑杢僻に亘って鮮維色の錆を現はし︑部分に依っては︑黒

味↓ど帯びた光澤ある面を示して居深兄平次郎氏賊銅鐸る︒表面の庭々に雲母の細片が固

着して居ることから察すると︑或は

元来砂地の如き部位に埋没して居

たものでは無いかと思はれる︒

銅鐸は篤丘を以て圖示する如き

流水紋式に厨する中型の品であっ

て︑現存部の総長は一尺八寸除で拳の

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11?総ことに儲りに限しいから︑その寅状は篤冥に就て一見を乞人こと勘して蛙には符略・しようと恩ふ︒各部の性状及び紋様等

から槻察して︑この銅鐸には少しも疑はしき箇條を認めぬのである︒

この鋼鐸に於て特に注意を喚起するのは・これが銘丈︾ど一価することである︒銘は

錐身一側の内面正中線のところにあって︑文字は子々孫々賛﹂と訓まれる︒最下の文

九州に於ける銅蝉阿迩

く︑或は何ヶ所かに存して居た飾耳残物を取挑同上銅鐸銘文︵内面にあり︶

って現状のものにしたので無いかと恩はれる︒

肩部には前後に位した二個の類圓形の孔があ

り︑其他錘身上部の双孔及び底部の凹入等を見

ることは例に依って例の如くである︒内面に

は底部より桁上方に一條の辨状突出を周らせ

ること亦他の銅鐸に於けると同様である︒各

部の紋様は南面︐こもに大同小異であって特記

する程の相逹を示して居らぬ︒その一々を説

明することば除︐に頬しいから︑その磁伏咲鳶

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1

九州に於ける銅鐸同大

字は鋳出不完全︑碓塁堂とも稲し難いが︑字形から推察すると︑左丈になっ迄運と解す

るのが餐當のやうであ↓︒︒上出の圃中︑右側のものは有銘部︵内面にあって底ちに撮

影し難きに因り鋸像を撮影したる後更に之を反聴せり︶の篤兵又左側のものはその

拓本である︒︲若しこの銘丈が陰刻のものであるならば︑後世から追加可能のものと

して︑果して鋳造の時からあったものであるや疑川を生ずべきであるが︑以上の銘文

は拓本からも知らる画如く陽鋳であって後世から追加不可能の状態にあるから︑そ

の心配は少しも無いのである︒雌初からあった事は明白︑銅鐸そのものに疑はしぃ

鮎が無いと↓いふならば︑この銘丈も疑はしき鮎が無いと認定せねばならぬ︒喜田博

士からの私信に依ると︑この銘文を以て漆で書いたものといはれた人がめったとい

ふが︑決して然るもので無いのは特にいふ迄も無きことである︒折角有銘の銅鐸を

見出したとしても︑これが刻銘でめったならば︑定めし異論百出したであらうと推察

されるが︑以上の銘丈が陽鋳でゐったことは研究上賦る好都合でめったといはねば

ならぬ︒この有銘銅鐸が發見されて以来︑從前發見の銅鐸に就てその内面が検査さ

れるやうになったが︑他にはまだ斯る有銘銅鐸の見出された事を聞かぬのでゐる︒

1

(8)

崇幅寺蔵銅篝同寺の所謂誕鐸香艫︶

以上の有銘銅鐸が一時知人配N氏の手許にあったことがあり︑或る日私はその一

部の拓本を取らんが鱈に同氏を訪問し︑此際氏の口から岡らず崇一噸寺に術一口の銅

鐸が↑のることを聞出した︒氏はこれを同寺の茶席に於て見られたといふことであ

って︑先住の渡邊玄外老師にその来歴を尋ねられたところ︑我醤學部の位置蔭時崇一職

寺の地所︶から病院建築の際に發掘したと答へられた由である︒これを正確とする

と明治二十六年頃の發掘と忠はれ︑その賞物さへ確め得れば愈々九州からも銅鐸が

出て居る達信じて可いことになるのであるから早速同寺を尋ねて見ると︑何人も斯

る鐸を知らぬといはれるのに困ったのである︒価て篤眞に就て種々説明するとこ

ろがあり父茶事に關係した人々を煩はして諸方を尋ねて貰ったが︑今以て病院の位

掻から出た銅鐸なるもの3所在は不明︑TN氏以外には斯る鐸↓ど見たさいふ人にさ

へ出辿はぬのである︒渡遜玄外老師さへ健在ならば︑斯かる銅鐸の有無を容易く確

め能ふが︑何分老師は昨年物故司ゞれた鰯に︑これを確めんさする途が無く︑この方の捜索は今尚行き患んで居るのである︒

九州に於ける銅鐸四七

I

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九州に於ける銅鐸四八

以上の銅鐸は念にこれを兄出すことが斑束無いやうであったから︑捜索を一時見

合す波bで同寺に挨拶に行ったところ︑此際寺儒から淵山忌専用の喪鐸香艫なるも

のがあることを聞いた︒故に念の爲にこの呑艫を喪砿から出して蟹ふと︑︸︸れは疑

も無く鋼鐸を利用したも行であり︑鉦部を除き去って孔や凹入を塞ぎ器↓ぜ倒にして

次を盛って香艫としたものであった︒この香艫を見出したどき︑私はこれを以て醤

學部の位置から出たものと考へたから︑早速その篤冥を焼き附けてこれを皿N氏に

示して尋ねる.ざ︑氏は言下にこれでは無いといはれるのに驚いたのである︒その言

ふ琶ころに随ふと民の見られた銅鐸はこの香艫より少しく小形であり︑鉦部に破損

があったがその一部はまだ残存し︑身部の紋様も一﹂の香鱸のもの程に明瞭で無く︑尚

底部にも多少の破損があって他物を以一﹄支持せぬと直立せぬ品であり韮日通の銅鐸

の如くに底部を下にして立て剴あり倒にして荻を盛ったものでは無かったと〃いふ︒

多くの黙に就て寅鐸香艫はTN氏の記瀝に存する鋼鐸と符合せぬのであって︑雨者

が別物であるらしく思はれて来たのである︒価て更に同寺を訪問して喪鐸香艫の

来歴を零れて見るざ何時代から同寺にあるや不明でゐるが︑久しく開山忌に使用し

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來った品であってこの香艫には特に製した鋳物の墓があるとい毬るぁのである.

そこで︑この臺を見せて黄ふさ︑その刻銘及び紺書に徴してこれが安政年間熊谷叉七

なる人によって寄進されて居る一﹄とが知れて来た︒随って賛鐸香艫は砿に少くと︲

詞も巽政年間から同寺にあったことが明白であって︑決して明治廿六年頃の發掘物で

︲楽一川寺砿銅鐸︵所謂寳伽香雄︶あるべき道理無きここになって来た︒

Fに至らぬ垣.これによって固らず崇禰寺に一口の銅鐸・か香艫として利用されて居る

九州に於ける銅鐸阿九

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L百

九州に於ける銅鐸五○

を知ったから︑その来歴を知ることあらんも塁の寄進者たる熊谷叉七氏の子孫を捜

索し︑その子息に當ろ才吉氏なる老人が幸に健在であることを聞出したから︑訪問し

て尋ねて見ると︑恰も安政頃の崇一服寺住職に藍陵なる人があり︑熊谷氏の親類であっ

たから叉七氏の寄進も恐らく斯かる縁故に依ったものであらうといふ外︑別に賓鋳

香艫に開しては知るごこるが無かった︒斯くして病院の位置から發掘された銅鐸

なるもの当行衞も亦賓鐸香艫の来歴も︑ともに調査不成功に終った疋崇祁寺に學界

未知の一口の銅鐸が傅存して居るこさのみは確實である︒

この香艫の銅鐸は圃示する如き袈裟裸式に馬する中型の品であつてへ長さ一尺許

なる鐸身部のみ完存し︑鉦部は全然除去されて居る︒岡に白く見える部は美麗なる

鮮緑色の錆を排ぴたる部分︑又黒く見える部は無味↑ぜ有して光澤↓笹放てる部分であ る︒裏面の方にも同様の袈裟裸紋様を有するが甚だ不鮮明である︒底部に近き内 面に︐一條の帯状突出︾ど有するここは他の銅鐸に於けると同様であって︑この方には

銘丈坏ゞど見ぬ︒今後も術九州方面に銅鐸の有無を捜索して見ようと思ふが︑幸にこ

れを發見し得たならば再び本會に提示すること封しよう︒

参照

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