九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
生子信敎に關するケルン諍論
長, 壽吉
https://doi.org/10.15017/2344417
出版情報:史淵. 9, pp.35-64, 1934-05-31. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
自然境界説に對する凹災的興悲の厳一八四○年は︑杵閏史家の多くに從へぱ︑國民統一の歴史の推
移の上に顯著なる一時期を制したものである︒然しながら︑この意が吾等に於て特に注意されるとこ
ろは︑唯その統一の筑迦の發展の上にのみではない︒むしろそれはその以後に於ける諸般の伽向が︑
幹しくその以前に於けるものに比して混乱の欣態に存在し︑雁に浪漫的思想の横溢に曲る凡る政治的
希柴と企剖との︑失敗に曲って起った朧弧の風潮に傾いたものに︑参一照され得ることである︒そして
各掩の思想の伽向に於ける焦胆の状態が︑事を急ぎ軌を逸するが如き極だの事件を生し︑派生して紛
乱し︑對抗し或は合流して︑四八年赦命の戯から五○年崩淡の歳に至る︑郷換の期となった︒
この間に在って川○年以後に噸る顯苓に槻察さるるものは︑以前に峨して枇紀初以来の立悲主義が
その思想とその通勤とを益廷大きくし︑里門年ドイツ﹂文學迩伽に呼唯して︑スウィス亡命者等の不
生子信教に棚するケルン祁諭三五 生子信教に關するケルン謬論
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生子信教に開するケルン締諭三六
職なる企荊が棚りに起り︑南柵自川思想或は却って佛附西自川思想を背餓とする︑政談壌禽が盛んに
行はれたことである︒然るにこれら近仙的激動の縦ってゐたライン地方に於て︑三堂五堂或は数十人
の巡澱薪が︐祁悪を砿ふろ歌を咄へ︐聖衣の辿物の州帳さるるの彩拝せんとして︑山野をトリェル寺
院に向って族してゐたことは︑特異な事蹄であった︒時は一八川四年秋十H︑トリェル巡概の那件か
これである︒このことは前に記した如き川○年以後の仙態を収映する︐顯苓な一例として知られるも
のである︒
川訓﹁維はれざる聖なる狩衣﹂てふ迩物は︑古へからトリエル寺院に城せられてゐた︒この聖衣に
對する百繭の巡澱薪を動かすことは︑併朧等が信敦の擁誰のために︑また﹁阿内布教﹂の体導のため
に︑殊に仙俗政治の無智を排斥するために︑更に新識的伽向の教育施設に對抗するために︑M年七月
に於て計謎し︑聖衣開帳の同通牒を以てライン地方一帯に立体したものに曲るのである︒その川通牒
の天衣無縫と詔ふべき文に曰く︑﹁トリエル術正価の柴営价職︑及び全信識粁に對して︑今と上に期
待されたる通告を行ふととの謀を有す︒价正貌下は術正価民より凪凌表明されたる篤信の要請に脳へ
総ひて︑彼等が柑寺院内に收瓶さるL蛍亜比獅なき珍蛮︑吾等の主にして救肌主の縫はれざる聖衣を
拝し︑且つ崇むるやう︑今年の中に許可することを決定し給へり︒この聖なる迩物は︑八月十八︑よ
り六週Ⅱ州の期間に州帳されるものとすへ︶かくて細ての鯆信なる志を立てたる人だが︑トリェルに旅
して︑この祁聖救仙主の聖なる浴衣を世ちに眼前に染め拝するを得︑H法皇レオ十肌が一五一四年一
−
川二十六日に許し下し給へる︑完さ岻罪沸一僻るに至るべし︒川法呈がその免罪の激祥の聖文の中に期
待し給へろは︑トリエル寺院が救批主の縫はれざる聖衣とその他多くの聖なる迩物とを保作せる尊厳
に通雁して︑偉大なる伽聴と彩腿輪典とを以て瓢はれん事︑及び位久にあらゆる細ての信考にして聖
衣の秤槻の際に巡澱して︑眞正にその罪を悔ひⅢ倣悔を行ひ︑或は之を行ふ確聞たる志を立て︑猫又
トリエル寺院の敏き没世の前川紀水よりの猫未術はらざるものに︑寄進政戯するものには︑完き弛罪
D
を許し給ふ躯とれなり云燕﹂と︒トリエル巡澱は八川末に始まり︑十州に至って終ったが︑一時ライン地方に巡職行族の術勅が異術
なる光景を生じた︒M川通牒に中古の法泉の教行を禍げ︑宗教改革の脈Ⅲたる免罪の許容を明らかに
したのは︑その意が雌ろ深遥であって︑故らにこれを以て新識的宗教政策に對する一征の反抗の意を
弧訓するものであると老へられる︒トリェル巡繊の術勤の紡果は︑その後ライン地方及び速くポーゼ
ン地方に於ける町村什地の﹁カトリック組合﹂の設立となり︑地方自治行政上に於ける一部の有力な
る脈動となるとともに︑新救徒に反映してその川に︑等しく糸教叫冊の設立を見るに至ったが︑川迦
牒に弧訓された懲錐は庇に生子信救に州する姉論︑詳しく言へぱ雑蟠の認知と盗鋒とに州する︑ケル
ン僻正の主張と杵鰐四政府との榊諭に際して︑政晦のとった弧制の方錐が︑蚊る新教的伽向であった
ことに對する稗敢を御の反抗の意義である︒
︑ノ叩一トライチヶがその柵迎史に洲ふところを見れば︑﹁抑ぴ弧勢となりたる法皇椛﹂に對して山家の岡
生子信孜に閲するケルン祁論三七
吟
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﹁限界識評﹂︵圏男屋冒訟百頁ご一号昌⑦︶の中︑殊に普蕗西に州する一八一二年の識害﹁心螺の安泰﹂
りくと︑一八三五年識神にしてヘルメス測粟識否定とをとりて︑前粁が部分的に法約的意義を有して併
せて大价正価の設定を命じたる︑仙硲的椛鍬の擴張を明らかにするものであるが故に︑後者を以て画
ちにその意義の延長としての正教的主張であるとすることは︑正拙を失って勝る︒どの見解は一般に
生子僑致に側するケルン縦諭三八
が︑﹁全然昨代通れの求識政焚﹂を以て行はれ︑然し﹁その間家の雁史の粘艸を以て︑且つ新哲川派
同椛の主斤のもとに﹂行はれたものである︒然しこの生子信戦に州するケルン手術か︑果してそのま
Lに所謂枇裕的樅諦に對する山家の統治樅の必然的抵価であると籾るべきか否か︒ケルン術正の雑辨
認知叢鋒に附す乃主張が︑この抵燗を招來した服囚であるか否か句何か故に文教行がその宗教雛の上
に事の解決を急いで︑称しくも叫民徳戦の指導たる併正を弧川染州し︑之に曲って南方柵逸の膜杵剛
碓を祇荏大にし︑隣邦白斗雄の念怒を求め︑延墜L全幟洲の疑川となるものをも竹みず︑更に灸澗逸
ことに杵叫内の信教的二砿主義の尖鈍を拙き︑更に叉その方策の紬果か立恋主義の思想の上に影郷す
る虚ある老宥みるに歪らなかったかは︑吾等が間はんと欲するところである︒これら総ての事件の發
展の上に槻るときは畢党するにケルン手術の泰作は︑近肌柵逃史の發腱に於ける迩命的なる脈絡の一
端を鏡はしむるものである︒
一 一
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年﹁批判的基将傳﹂を幹して︑川が人格化したのは至人熱の上に於てのみで︑一佃人の韮督でないと 説いて︑率直なる科粟的批判を以て異端を行ふぞ敢てした︒ルドウーヒ・フォイエル等ハハはその一八四
り
一年群﹁基将教本庇論﹂に於て︑帥の認識とは人川の幻恕︑しかも既に前以て希求されたる幻想に出づるものであるとして︑悉く川騏を否定して腹逆を公にするを恥ぢなかった︒これ等の反韮将駁反戦
命組織の諸説の外︑更にゲオルグ・ヘルメスはボン犬単に在って青年に教ふるに︑理念論禰躍に搾る
の
川學批判を以てし︑その一八三四年群﹁信條論﹂に於ては︑寧ろ自川蕪教的教義解説及び認識論的解説を明らかにしたので︑瓢群なる術伽を残にライン地方弥年に典へた︒彼の疵冊論的正教説は他の反
生子信教に閲するケルン縦論・三九
普國の史家によりて論述される︒然し前考と後群との川の時日には︑法皇教愈椛の消長に關係する瓢蒋な事賛がその思想關係に於ても︑叉新教的政治的關係に於ても生じてゐる︒概してこの關係に於ては︑佛剛西獅逸ともに思訓的影騨の状態を等しくし︑二○年代に於ける仙俗樅の状態は七月革命及共の影禅を中間にして︑三○年代に於ては推しく鍵化して居る︒二○年代に於ける佛附西の教命禽能が三一年憲法に﹁固民多欺の信教﹂と記されたことと同様な猟態は︑柵逸に於ても槻察し得ないのではない︒ヘルメシア一ズムス否定は擁は戸一の鍵進した亦態に對雌した方策の一端であると槻て︑はじめてそれが歴史的に了解されうるものである︒リヒアルド・ローテは一八三七年﹁識愈起原論﹂を幹して︑仙裕椎を非難しその皮相外形の勢力を
笑って︑菰刺して﹁華柊は裁御を設定したものでない﹂と言ったcダヴイッド・シトラウスは一八三五
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生子信敦に剛するケルン祁諭︲四○
識會反米杵教或改革説の如くに識禽の問題とはならなかったが︑その鍵義批判の思想の感化が愁し
く︑姓に彼の祁蕊税に從ふものi多蝋が背英救濟諦般の醜業に從邪するに及んで︑彼の死一八三一年
以後その説を否定した法皇識評が發せられ︑又彼のボン大畢椰躍誰座の後任宥の問題を生じ︑普阿政
府との鞭術となり︑終に法皇の推蝶群の排斥通勤をも強起した︒これはケルン詐術の前二年一八三五
年のことである︒
﹁心鯉の安泰﹂に於ては︑信教の状態が以前の一八一川年のイェズイット数側復活数寄に示した如く︑
噸ろ変ふ可きものであることを切庇に説いて︑各大僻脹仙の設立の迩韮と︑その﹁限界﹂とを記し︑
普剛王治下の価怖の安泰の希紫を︑極めて赤和なろ絞述を以て記してある︒ヘルメス艸學説奔走に
は︑それを﹁雌も終しく心蹄を怒らしむる﹂ところの教義解読であるとして痂烈に之を非難しつi︑
幾度か繰返して仙附の頽朧を非難してあるが︑しかもこれには雌唯を以て且危倶の念を以て︐M魂の
没洲を防止せんとする老のあることが明らかに窺はれる︒・かくてこの剛殺害を比較すれば︑それら渡
表の叩時代の冊に於ける川累諾伽の伽向か参照され︑Ⅱ一般思想の降稗の壯態が参照されて︑仙裕椛
勢の鍵進に加ふるに︑燕識布教の許剛に於けるものk状態が︑雌に危帆作脳に価するものであった蕊
が知られるのである︒悲教彼典の初期二○年代に至る︑ライン地方に於ける信教群の琳加と︑之に對
する術正価の設定の状態を反映するところの﹁心鯉の安泰﹂が三○年代に於ける上記の如き洲學關係
の諸説︑それは新教思想の所産に存するものを含むと雌も︑多くの消極的影騨あるものL︑動揺の時
以上の主張とし︑械極的なる争論の根擦と棚ることは︑消極的なる信戦擁謹の意義を閑却し︑何時に
ケルン争論の歴史の山來を明にし得ざるものである︒之に加ふるに︑脊觜は新教的政治的關係に於け
る鍵進と︑殊に似民統一無迩の状態に於ける普剛の位世︑及その希裟の存するところを参照しなけれ
ばならない︒
復衝保守の時期に於て︑革命時代に抑峨されたろ雑賜識向勢力の復興か︑乃ち古代法皇の椛勢に向
っての努力となったことを碗いてランプレヒトは︑羅馬政錐の燕瑚想が法皇に川って偏に保持され︑
精川的支配否庇に結川は不可謬の性翫に韮する粘川的導制が︑地上のあらゆる燕新叩派を包括する細
刀ての人だの上を誰ふことの椛利が主張されたものであると言ひ︒又川別法約の機命を利川すること巧
にして法皇臓は︑十五枇紀前牛に於けるか如く︑凋逃に對する︒冒烏①ごg胃冒政策を行ふもので
幼あると言ひ︒かくてその雌も不幸なる事態を惹起せるはおのづから新敏的杵図の上に於て蝉あるとい
ふ説明を典へ︑以て前後三十除年間の聯態の進展︑延いてケルン手術の如きを惹起せる事態は︑この
椛勢伸張の必然の結果であるかの如き説明をなして居る︒然しこの史家を以一L代表しうべきかくの如
栄子信教に閲するケルン祁諭四一
この信教狄態の上の理巾は︑生子信教に關・するケルン併正の主張延いてケルン争論の曲來に必ず老泄されねばならぬ鹿である︒故にヘルメス説否定を以て唯躯に限界教書の延長の意に於ける仙裕樅の 期を經過したことが︑おのづから他の信教朕態の上の理由浄一生み川すに至ることは︑自然の勢であ
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所訓ウ一オンは一八一七年普叫王の主咄に山って成立し︑宗激改革ぞ記念して新識信仰の弧間を日
的とした︒これに於ては必ずしも自川旭剋との連關孝明にしたものでないが︑しかも自由思想迩励の
方面に對しては祁常に多くの感動を典ふるものであった︒ウ一オン成立の發表に先だち︐シュライェル
マヘルを主席として新教僻職及川學者等の集會は︑杵閏図民の信教の統一を脱禰した︒この一砿の立
体はライン地方及びウゞストフγレン地方に風朧し︑信教的統一が杵脚剛災的仰典に伴って︑珊川せら 宗激改革の三面年記念の意が︑自川︑王韮思想の興隆の意と結合して存してゐたことは︑雌る飯要なる史的發展の脈絡と老へられる︒この躯は殊に愛に洲はんとするところの堺件に参照されるところである︒トリエル巡測に開する川通牒が︑故らに宗教改革の直接の脈囚たる免罪の許容を明記し︑これに開する中古の法皇の聖文を呵惣して︑進んで寄進貢職と免罪とを勧誘して居たことが︑宗教改雅記念と自山主義思如興降との紡合の上に附して老へらる可きは蚊も明らかである庭であって︑更に近仙の新識的興隆がこの﹁結合﹂に關聯しつ叉現はれ來つた事の上にも開して老へられねばならぬところである○ ところである︒
生子僑致に閲するケルン縦諭阿二
き見解が︑た蝉そのまょに吾觜に對してケルン争論の眞意を示し誰しうべきか否かは︑頗る疑はしき
三
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るべき必然蕊であるかの如き恐想の伽向を明らかにした︒これらウ一オン關係の事態は柵ふまでもな
く森教信教の上に陪彩を投じた︒保守自山川側向の旭惣は︑桃楜としてこの信教統一と叫民的仰典と
9に關係を生ずるかの如くに範はれた︒︽
ウ一オンはその後祇礁諜及び雌典に開する争論︑及びそれらの信奉の自曲と弧制との争論を以て滅
裂の状態に陥った︒而して叉その後一八三○年アウグスプルグ信條記念の帆乢の際に仰興した︒しか
るにこの時に於てもウ一オン分離派は︑激烈に隣典職制の意に反對したので︑一八三四年救令は之を
雌伏せしめむとして發せられた︒これらの事海は今鼓には間ふところの外として符略し︑唯吾等が知
るところは︑雌典鞭術の事件はウ一オンの内容が信仰の力に於て苅弱であり︑逝義的にその設立の意
が噸ろ不硴疵であったことを示すことである︒又一八三○年の呼興は新教振典の上に機禽を捉へたる
人鮪の所康であったことか知られ︑分離派の抗争は弧いて統一を求むる方莱の存在を詳にするもので
あったことが知られる︒要するにこれらの邪斑は︑信識上の統一政策にあるものがその目的むしろ︑
政治的統一を欲する窓より川てたるもの︐並は意識するところなくしておのづから之に合致するもの
に存したことを示すものである︒
二○年代三○年代に於て蒋剛が自叫的統一を急ぐことは︑その志一つにはその聯邦間に於ける優
越を︑全猫逸統一の鰔述の中に保持することである︒郷て見るに卿山と統一との川を栃椹した思想人
が︑自由に未練を布しながら猫杵剛的脚叫主韮の弧化を以て棚迎統一の冊子とせんと老へたのは︑一
生子信敦に閲するケルン祁諭四三
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生子信敦に閲するケルン諦論川四
八三○年前後であった︒パウル・フィッアの﹁二雛の凋逸人の文通﹂の如きはこの雌好き例である︒
然るに反杵剛思想は南方柵逃に存在し︐.一元主義﹂の旭想も亦脈絡を絶って居ない︒前者は雌好く
ハンバハ錐禽の束要人物たりしヤゴ↓フ・ベネディの.八三九年蝿神﹂に槻るべく︑後背は雌好く夙
にウュルテンペルグのエル・リンドナアが︑一八二○年に於て聯邦の安岡と自立と猫立との上に和解
し難き杵塊勢力を眠し︑﹁祁叫の通風に於て純然として保存されるところの郷剛的特性﹂が︑北柵逸
1に失はれたことを就いたものに槻られる︒
この川に在って危帆を布しつLしかも自怖の状態をなしてゐた蒋剛が︑地方識禽問題を中心とする
立欺通勤に對する統制の上に於ても︑對塊均衡の上に於ても︑︑亦南獅諸閏の反抗制御の上に於ても︐
所謂普剛的自閏主義統一を黍統一の核心たらしめむとし︑墨叩叫は前進す﹂をこの意義に於て淀現せ
んとし︑そのための王朝信教の背餓を弧岡にして︑却って自らの主張に之れなかるくからざりし保守
維持の蕪教勢力に︑おのづから乖離する迩命の途に川でたことは︑一の脚総事であった︒この事は必
ず叫王のウニオン政策と文教符の方策とが︐事を急ぎたる解決策をケルン乎諭の上に加へたことのそ
の源流の上に︑参照されねばならぬところである︒ケルン价正禁釧の際に︑杵國の羅馬使節プンゼン
の 一
が︑﹁秤悶の鷺が︑絲川はその鼓翼を粋かすに至ったことの︑蒋悦の感怖か一般に通かつた﹂と言っ
たことは︑この事を物語って餘りがある︒
蒋教凌称殊にウルトラの場合に於ては︑新教的興隆が政治に擦りて立ち︐杵剛國民的押興の鍼迩と
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1
介致し︑或は災にそれが自國主義的統一の遂行に作ふか如きものあるを見るや︑之に對する消極的な
る焦慮の信教擁謎が︑先づその端緒を信教者の数の維持の上に老へ及ぼされたことは︑自然なる發露
であると詔ひ得るのである︒一は川総の杣路に乗じたる他動的な推移の現川であった︒一は消極的な
ろ擁謹の方策に立ったおのづからなる主張であった︒この歴史の發展は︑國家統治と識御仙俗との椛
勢の抵燗のみに於ては︑解樺し推されない︒
聯邦規約第十六條に︑﹁韮仔教的宗教流派の随分は︑聯邦内諸叫諸地方に於ける︑市災的竝に政治
的椛益の享有の上に於ける何等の差別の韮礎とならず﹂とあるのは︑襟識邦新教邦及び新齊咽派邦の
各盈に於て︑信戦の上に剛家と識念とのいづれもの何等の孤制をも認めざる︑仙人の信仰向山を迩味
し︑延いて法皇と諦邦との邦別法約の上にも︑これが韮準を典ふくきものであることを意味したが︐
これはその執れの方而に於ても迩雅されない場合を生じて勝た・然るにこの聯邦規約に州係する問題
が︑多くの場合に於てヱフンクフルトの諭識に上らなかったやうに見ゆることは注意されるところで
ある︒同時にこの規約無税が寛容される事態は︑ケルン栽術の發生を容易ならしむるものであったこ
とも老へ得る︒一八一七年バイエルン法約には︑明らかに︒昌閨⑩冒昌.言︒三畠①銅の裁判椎を一般信
3教事項に於けるものに加て价正に任じ︑翌年の同閏邦悲法には︑完全なる信仰の自山と信教の選探の
喉孑信敬に閲するケルン諦論四五
四
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生子信敦に開するヶも一縦論四六
︑川とを明記し︑Ⅲ靴僻の場合の生子の儒教に開しては︑夫姉川の惚約なき場合には叫子は父の宗派
に︑女子は雌のに從ふ事を記した︒この法約は既に雌脹に聯邦規約のなに雌擁するものでなく︑父懸
法は法約と剛蹄する鮎がないのではなかったが︑ゞハィェルンの如き耕教邦に於ては︑事澄上は生子信
教の問題が起ることは比較的小かつた︒
一般哲識の復興と並行した近仙杵撚間の弧朧に於ける︑新附の地域が︑両方に於て弧碓な奮識信教
災居住地であったことは︑新教王帆の統治下の一の皮肉な現娘として呵刷される︒杵叫か叫際上に於
て︑史に柵迎聯邦關係に於て︑政治的弧勢のNとなったものは︑内に剛・門に於ける儒敦上の不統一の
卿ともなった︒この新教二派を混じ︑限界識番が法約の意を有し︑その法約的意義を亜もにこの新附
奮裁信仰の地域化雌の間に︑しかもそれに從って一脾厳正に維持されるべく溌想された邦州にあって
は︑事怖が全く別趣であることは柑然であって︑ゞハィェルン法約に云ふところの9房息冒島冒︺o員P︲
肩の純阿と︑聯邦規約の解説との交緋が︑生子信教の川魎を複雑ならしむるに至るものが多かった︒
一八二五年八月十七日杵叫收令は︑ライン雌ぴウニストファレン地方に於ても同様に︑王叫の東部に
一八○三年以来翫施されつ上ある佃習を従施すべしと命じ︑凡ての正淵なる雑蟠川ち承認されるべき
新稗湘派夫妻の生子は︑父の信鐡米派に従ふくしとし︑Ⅲつ叩派外女の紡僻に際し︑恋教術職は將來
の生子の信教に開して夫妻の執れかの悲教信粁に對し︑その生子の奮教信教の奔約を要求す可からず
とした︒一八○三年の東部地方制度に於ては︑叩親の川に特に秤約・めらざる映り生子は父の信教に從 ■44日
−
ふことを規定したが︑襟教信粁少き脚地方に於ては多くの問題とならず︑靴辮の溌鋒は僻職に山りて
易逹に行はれて居た︒この悩稗を今西部窪教信者多き地方︑一八一二年限界教書に山ろ僧服伽設定地
方に適川せんとするのである︒この一八二五年救令に於ては︑.ろの内的に異質の要素が杵叫宵縦
階級に山って代表されたものと見える︒一は剛家を以て市災的兵櫛を作上げんと欲する唯理︑王韮であ
り︐一は新教︑王韮を剛家の家内繩邦唯にせんと志す体逝者的敬仰主焚である︒そして剛粁は︑然し悲
一︐識識禽に對する嫌悪の排除しかたき感怖を以て︑合致されて鵬たものと見える︒﹂
燕教傳統に山って術職の意見が︑生子につきての奮教的信教雌ぴ桝教的激育の奔約あらざる災り︑
蚕錐を行はざる邪にあったことは自然である︒況んや前述の如き一mに於て炊淌極的なる附議擁継の
必要を有し︑他に於ては雑癖の關係が東部将叫の如くに簡堆でなく︑生子の信教をして襟教的多数なら
しむろ考慮を有したことに於てをや︒一八二五年救令は剛家と教向との關係を徐廷疎迷して︑所訓﹁
時代後れの宗救政策﹂となるのみである︒しかも﹁ライン左峠に於ては︑既にナポレオン法を以て技
務的に民法紬僻か疵施されてゐた故に︑この従例は他の地方に於ても椣範として探川さ肛榔たでもあ
らう︒然るに剛王とその凧間術等は︑雌命的非来杯識的制度は悉くこれを悪み︑雌法結辨施行の範剛を
搬雛すると云ふ如き老並からは灸然速ざかつて︑却って寧ろ地方制座の更新に州し︑それを除去する
ことを企てた︒そして又彼等は雑辮の契約に附し功鍼を振って躯を成就するために︑叫家の爲には悩
智の停止と︐同時に鯆信な蕪識信仰の夫の洲足を得ることとの上に︑蠅制をせねばならぬものと信じ
生子信孜に閲するケルン祁論川七
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羅賜に於て杵剛使節ブンゼンは︑法皇脆の懲見ぞ動かして︑杵叫赦令承認の教示を一フイン地方識命
に對して發せしめむと試みたが悉く無效であった︒微時の法皇レオ十二川は徒らに事を柵ふることを
好まずして︑やkプンゼンの意に從はんとする傾向を示したが︑承認を明示するに至らず︑法皇臓術
職は断然として反對した︒次の法皇ピウス八価に至り︑法皇も諾職の意見に從って公然としてプンゼ
ンの進議を拒否し︑プンゼンが筌しく蹄叫せんとするや.普國政府は途に羅賜に通告して六佃月以内
に承認を求め︑果してそのこと無くぱ︑法皇臓の承認如何に拘はらす︑迩立の塵理をなすべしと云
ひ︑ケルン︑トリエル等僧正を弧制して︑無琴約雑僻則ち生子儒教の哲数たるべき誓約が存せざる叩
派信者結僻の凡てを承認せしめ︑H生子が父の宗派に從ふべきこと普岡救令の如くなるべしと云ふこ
とを承認せしめむとした︒この六個月期限の將に終らむとする時︑一八三○年三月二十五日︑法果信
念の表明が︑ケルン︑トリエル︑ミュンスター︑パデルポルン各術正に送られ︐之に開し枢機向アル
雷ハニの教示が發表された︒
この信念の表明及教示によれば︑從來問題となれる雑婚及び改革禽議カテキズムに從はざる今後の
ものi︑細て諾寛容承認し︑﹁追加條頂﹂として︑价職の糊告が途に無效なる場合︑生子信教は非齊 6くてゐ︲た︒﹂
五 生子偏赦に閲するケルン締論四八
教未定の生子の呪肺を禁じ︑その結辨の惟澱を典ふることをさぐることし︑表面辨剛の要求に從ふ
が如くにして︑その滋は結局︑生子信数の奔約なき靴僻の承認を拒否するに等しきものであった︒翌
81廷年ゞハイエルン雑辨に開する教替に於ては︑生子蒋教の識育が明示された︒クリスチアン・プンゼン
は一一Iプアの門下生で︑||Iプアが杵剛羅賜使節たりし醜の評記何であった︒﹁羅馬が嘗て倣洲の歴
史的戦術室であった過古︐その過古が仰ぴ現在とならうとは︑何人と雌も老へ及ばなかった︒殊に蚊
9も一一−ブア及びランヶの如き新教徒に於て﹂老へ及ばなかったかは疑はしいとは言へ︐﹁雑脂史﹂の蒋
考の門下生が︑この教書の發布を以て普叫政策と自己の使命の成功であると信じたほど︑問題の佛庇
が齊識教街に於ける収要であることを知らなかったその不明は了解し難い︒
プンゼンの意見及それと等しき杵剛政府の見解は︑次縮にその全く反對のものであったことが明ら
かとなった︒この亦態に對して杵幽は髄は施すべき策の何ものをも右して居なかった︒然るに一八三
鋤宇川年六月十九日に至り︑ケルン併正スピーゲルとプンゼンとの川に協和的契約が成立した︒之に曲れ
ば︑紛飢の状態を蕊班して﹁戦向の一般的利益﹂のために︑一八三○年法皇信念の表明に於て特に明
文を以て禁止されあらざる鮎を党容し︑剛王赦令の趣斤を容れ︑紬嫉の際の生子信教奔約を必要とせ
ざる承認を可とし︐唯呪朏依秘の拒否は雑辨者の執れか癖教防粁が︑生子の非燕教信寂を認存する場
堆子信政に閲するケルン締諭Ⅶ九
教信仰の父の意に任す可からずして︑術職は不在席の形に於て結締の正規的俄卿を避く可しといふことである︒則ち雑婚の登録に附しては僻正等が謎歩するが如くに見えて︑その灘は非醤教信仰及び信口
司
│
抄
喉子信孜に開するケルン祁諭五○
合に於てのみ行ふとと上した︒スピーゲル術正は蹴る自由寛奔なる態度を布する進歩的な价職であっ
た︒彼がヘルメス祁蹴説に對する態度は︑却って同祁學読をしてボン大學に盛んならしむるが如きも
のであつた︒然しスピーゲル・プンゼン契約は︑この价正の斯くの如き卿山寛容の確問たる信念に韮
く改革的意見に川でたものでなく︑唯杵脚政策との帆礫をさけんとする一時の方便に川でたものであ
ったことは︑不幸なる川縁となった︒﹁余の應理は︑内狂に於ては︑教示に在る意見と規定とに迩雌
⑪一し符ぺし﹂と彼が言ったことは︑スピーゲル僻正もまた乖態を光分に明らかにすること雌く︑使江の
虚抑以て邪を経るべしと老へたものに似て居る︒しかも何か故にこの契約が内秘に附せられて鵬たか
は︑羅馬法皇臓が到底この庭理に從って減足するものでなかったことが︑知り悉されて居たことをボ
すものである︒
スピーゲル・プンゼン契約は秘約とされ︑識智価の价職に對して之が迩奉を指示したが︑一般竹職
がこれか快しとしなかったことは︑スピーゲル羅後直ちに︑反對の意見がトリェルその他价正に對し
て价職より發せられたことに於て知られる︒叉スピーゲル〃後その後任に開する決定が︑殆んど半旗
を斐したのは︑後任僻正とこの秘約との關係が顔る胴難なる欣態に存したりしとと︑換言せぱ.同契
約が明らかに一時糊塗の策であって︑却って教會に對しても叫家に對しても︑更に疑問孝坤すもので
あったことに曲るのである︒碓川たる慨智として雑辨生子の齊鐡信教の評約を必要とする教抑が︑既
にこれを一屑明確に︑王張せんとするに伽くのに對して同契約は生子信教奔約を必要とせざる結婚の水
教の認容が父か母か何れかにある場介を老へて︑呪細俄典の拒否を定むるが如き不明瞭なものであっ
た︒その上スピーゲル︒プンゼン契約は戸一れらの疑問ある條件を以て︑民法結嬬制度不究施の條件と
した︒この契約は唯舩に﹁スピーゲルに於てのみ可能である︒﹂他に何等の意義をなさず︑却って徳
統と政策との尖鋭したろ側呵の上に︑新なる疑川を世くに等しかった︒
・との二つの疑問の解決の途は︑傅統の維持か政筑の途行かの執れかに川って︑一が他を制御するこ
とであった︒次のケルン僻正クレメンス︒フ術ン・ドロステーフィシェリングに曲る前考の方法の解決
に對し︑許剛政府の後粁の方錐がケルン謡術である︒スピーゲル術正は一八三五年八月に残した︒仰
○統の維持は前述の如く信澱擁謹の消極的迩韮を布して・鐡称にと〃て名義と班山とを有し︑正餅とされ
るところの利益を有して居た︒政策の遂行は新教的師同政策とウ一オン弘布策と國民的再興の希望と
に立ち︑﹁アタナ︑ンウス﹂則ちヨゼフ︒ゲレスが後︑政旅の方策ぞ非難し信識を擁謎して叫雌の良心
に訴ふるとして弾いたものにある如く︑﹁この際背後に樅はれるものは︲柵逸に於ける杵剛優越の概
念である︒從って乃ちその政治的を宗識的に山って︑史に叉宗寂的を政治的に曲って支持し︑且弧力
○ 一
にせんと欲することである︒﹂前考則ち体統の維持は必しも教称枇硲椛の披張を志すことのみに山る
のでなぐ︑後群則ち政策の途行も悉く岡家統治の拙充のみに川でたものでも無い︒この關係はケルン
干生信散に閲するケルン祁諭五一
認を寛容したものであ″︑又替剛政府が父の信教に從ふとと淀主張して従質的に奮教信仰の弘布を制限し︑更にこの時民法紡辨の狂施に曲る他の制限を企てiゐたことに對して︑同奨約は生子非奮教信FL■■︲Lb■■■■■■■■■■■■■■■■
「
臺 I l 1 l l 1 日
ケルン新价正の意見は︑前僻正の協定を以て一八三○年法皇信念の表明の趣迩に反するものとし︑
確川たる仲統の維持を主張するものである︒价正と蒋剛政府との煙き交渉︑杵剛使節と法皇脳との交
渉の後︑杵叫政府はドロステ价正に對し︑杵叫法律に從はざる限り職を退く可きことを勧告し︑僻正
ゴ
.
は之に答へて︑凡ての枇裕的事唖に於ては剛王の忠誠なる極下たるを忘ることなけれども︑教称仰
統に開する義務に開しては︑これを以一﹂退職の理曲となし得ざる斤を以てし︑政府は﹁無拘束なる剛
家椛威の燕來の︑紺謄從って︑半靜と秩序との維持の目的のためには︑露骨なる力の邇川も敢て可な
○ 至
り﹂と若く︑遂に一八三七年十一月二十日︑伶正を蕊鋼するに至った︒これより先きに︑一八一三年
同術正はヘルメス祁騏説を弄定するの意を明らかにし︑この鮎に於て前价正の意見に反對し︑又法皇
のヘルメス説否定識将は一八三五年九Ⅲ二十六日に發せられ︑Ⅱヘルメス後係者に開する識會の迩肋
があった︒法皇臓はケルン俄正禁釧の解吐と復職とを要求し︑︵一八三七年士一月十日法皇抗議︶杵
國は之に答へて禁釧の抑山を︑同備正が一三の或る秘特結就と關係あるためなりとして遁僻を述べ︑
nつ紮釧はこの秘特絲耽關係を明らかにするまでの少時なりとした︒斯くて仰統の維持は碓岡分明で
生子信牧に側するケルン祁論五二
争論に開して吾等の能く槻る可を庭である︒之を彼の後年一八七○年代の文化押一証に比較し見れば︑
彼は噸ろ政治的であるに對し︑之は航ろ文學的である︒
一 ハ
−
’
一−あ・り︑政策の遂行は支離滅裂の状態に見られる︒
然しドロステ桝正の就任に開する許剛政府の承認の理由は︑彼の就任後の雑婚及び生子信教に開す
ろ意見に曲って覆されたのであった︒この蕊は杵剛政府によって報復的な意を包含する弧川の手段と
なったものである︒政府が彼の就任海承認したのは︑スピーゲル・プンゼン契約の保持の望みある
酌に曲るもので︑之に州する佃正の意勉が可及的に協洲を欲するものであったが鰯であった︒价正は嘗
一﹄教向の自山則ち仙併化の催祥に反對する迩見を公表した人で︑そのケルン併正就任には疑問があっ
たが︑王子則ち後のフリィドリヒ・ウィルヘルム凹仙も推繭し︑プンゼンも饗意を表し︑Ⅲその協調の
意ある老見るに至って承認が典へられたのである︒この經緋を以て就庄した彼が︑就係の後に至って
スピーゲル・プンゼン契約反對の議論の朧なろを兇︑協洲の前説を繩して法皇のヘルメス魂奔定に從
ひ︑進んで頑弧に仰統の維持を主狭するに至った皿川は︑洋にし柵ない︒然し︑法皇臓の意見はスピ
ーゲル・プンゼン契約の前後を髄いて錘化するところ無く︑各併正に教示して傅統の維持を命じてゐ
た上に︑信教の淌似的擁准の必要が明かなるに茶って︑僻碓が之に從って行動すろはおのづから事前
に明かなる吃であ・け︑人爲の一時揃縫が保ちがたきことも︑政府の知らざる可からざるところであつ
︾
︶ 0 0 丁
政府と教向との各共に於て餅然と考へらるLこの唯刈は︑通命的に怖に解決し難き關係を布して︑ ﹄
遅く残るものである︒﹁疑も無く倒王は班にその善き椛利を行使した︒古来普叫の政治的過失に對す
生子信散に閥するケルン綿論五三
C
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− 1
』
生子信教に閲するケルン締諭流四
ろ規朧はライン地方にも施行されて肘た故に︑剛王は川稚に規稗に反する怖正を焚釧命令を以てⅢI
することにしたのである︒然し畔勢は鍵進した︒この剛王の絶對の椛利は︑既に剛雌の法規的自兇か
ら淌去︒Lゐた︒却ってそれが専挑なりとされた︒而して史に忌むべきは︑仙評が叫家は森教僻正に
對し︑識向が唯専らそのnuの老雌に川2L保持し或は拒涛しうるところの紬僻の聖餐授與に附し︑
︽︑
⑥二弧仙命今を以て将促を川へんと欲したりとすることである︒﹂と政府は汚へつ上ある︒政府は又︑法
里脳がこの好機を利川し︑外交的機押を動かし︐何塒に巳み難き州.恐の感怖を慰せんとするのである
と考へつLある︒叉川人か杵剛を以てマルチン︒ルッターのⅢ剛の核心を捉へて︑仙併化的宗識状態
の叫家に荊臨し︑法皇椛に對し仇敵たるものであるとすると︑老へつLあるのである︒
と土に援川した評の幹粁の如き意見を以て代表されるところの政府は︑川訓﹁政治的過失﹂を敢て
し﹁規漉に反する﹂ケルン併服に弧制を加へ︑直接断行の方策を採・り︑而して後︑仙諭の大に起るや
遁僻を以てその蕃後策を識ぜんとし・た︒それはたとへ町制﹁棚迎に於ける杵剛俊越の思烈﹂に川づる
ものではなかったとしても︑亦杵剛凹乢的興降の鍼迩に采ぜんとし︐Ⅲ之に来ずべき機御に遡遇し︑
この一舐の地域的剛災統一しかも之を通じて全柵逸に澗たらんとする希梁を有し︑肌つ叉との希離
を布せしむべき全砒逃の思想峨向の仔在に動かされたものであったことは明らかである︒然るに﹁
フリィドリヒ大王の総未﹂を歌った如き叫雌統一の希紫を杵剛の完成の將來に世いた思想︑川ち南方
の収抗を脱して辨叫の︑剛主義に川ろ獅逸統二﹂ふととに川でた思想の人奄換言せぱ普閏をして湖
夕 Ⅱ11ヨー
,
椎を忠はしめた思想の人埼は︑普剛が之を制雌せんとし蒋教識禽かその﹁略川なる城塞﹂であったと
ころの保守復蒋の思想に反對する思想の入港であった︒
それ自らに於て自己ぞ排・今︽が如き途にあるととろのこの典無は︑シュライエルマへ渡が叫家存立の
鰊
共礎として説いたところの志操︑それは必しも新識信仰の上ではなくとも︑叫王にとりては一脈これと溶和するところのものi上に立って︑潅洩たる剛比的統一の幻影を布するものである︒若し誇張に
類することを敢てして直接にこれを洲ふならば︑叫比的統一p狐迩の陸に於て︑ケルン争術の事從は
解繰される︒とLにその史的観察の趣意が存在するものと見られる︒﹁志操﹂の確立と云ふことは︑
前記の川訓﹁宗教的に川ろ政治的の弧勢﹂を恩はしめ︑xこの爲の王棚的弧勢が︑一八七○年代文化
●郡証に際して﹁除〃に新教的なる価向﹂と云ふ非難をうけた叫王信教の弘布に作ふことをも忠はしめ
る︒斯くて﹁文化識・江史﹂の群粁キスリングは﹁剛王が眞伽目に齊救救命の力を抑えて︑新教︑王韮を
興すに努力した戸︸とは︑特に雑嬬に開する手術に於て明白に表はれた︒哲識信軒の改宗制度に對し有
效なろ制限を作る企川の下に︑一八○三年十一川に既に靴辨粁の生子かその米数数青をうくることに
就いて︑識め剛税の川に秤約なき場合には︑父の兼派に從ふ可しと命じた﹂と云ひ︑又州王が撫教勢
力の擦頭に作ふところの︑新教改求群の坤加に頭を悩ましたことを述べて︐﹁この新規定は術逢の人
登に山つては︑剛王が之を以て新教信仰保挫の目的を逹せんとして案出した︑巧妙な方錐であると老
へられたc洗際上阿雌の大部分が新教信粁であるこの剛に於ては︑新教の塊が暫教の女と紬僻するこ
生子信教に剛するケルン諦論五五
I
今
」
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堕廿■■■!
ケルン价正の主張にⅨ封して政府の方策を処としたろプレスラウ僻正ゼドリニヅッを除きて︑他の
佃職は悉くその非を帆へ︑殊に政肘が弧制を加へたことを難じた︒この一价正は法皇臓より除名の虎
分をうけて︑退職しⅡ新教に改宗してしまった︒ケルン仙正と川搬の主張をしたポーゼン併正ド一ン
は等しく禁釧された︒かくの如く叩者對抗の状態は奔易に解きがたきものとなってしまったがい政府
が小塒の紫釧を行ふとしたケルン僻正は猫未だ征に蹄ることを許されず︑法皇臓はその復位を要求
し︑政府は後任を老へ︑Ⅱ僻正脚身は断じて呼びその任に就かずと言ひ︑徒掩紛糺した︒批諭は多く
は政晦を非難し︑白耳義衝教徒はスピーゲル・プンゼン契約の問題を捉へて論評し︑叉政府が豫沁期
してゐた新教徒の援助は一向に動かず︑彼等は却って信教に干渉する政論の問題を雌ずろに至り︑紬
局仰統の維持の加川は認められて︐政策の逢行の弧雌が蕃定さる1に至っては︑許剛の初の目的は剛
るその到逹の難きことが明らかとなり︑争術は仰統の維持に布利に展開し︑政府の對策は進退に川し
むものとなった︒かくて一八四○年に及んだ︒
一八四○年新剛王プリ瑠ドリヒ・ウィルヘルムの沿仙は︑新しき時期として多くの希望を以て迎へら
生干信放に開するケルン祁論五六
とが︑その反對の關係の結辨よりは多数であるのが俄然であると知られて居たからである﹂とし︑父
g値更に﹁事征上︑この蝿定の洗施は新数の方に所期の利益を断したものである﹂としてゐる︒
七
ざ
−
れたが︑その多くの希望は消滅するに至ったとは言へ︑この﹁王坐の浪漫主義者﹂の文謹及思想對策
は︑明らかに前代の窮屈陰醗なものに比して快澗な傾向が多かった︒從ってケルン僻正は繩放され︑
後任の問題は安協に進み︑一八四一年九月ケルン争論の解決方法としての協定が︑普剛と法皇臓との
間に定められ︑後任に開する條項︑普図内諾併正と法皇臓との交渉に政府が干渉せざることの條項︑
ヘルメス説に對し政府が保謹を與へざることの條項︑雑僻淵件の虚理に開しては︐総じて専ら价正の
四決定に委し︑政府は之に干渉することを兼搾ゆることの條攻が定められた︒かくて政策の遂行は全く
仰統の維持の前に屈伏したのである︒
蛾も歴史的に興味がある事態︑則ち︑近古初期新撚叩派の争飢の間に生じた諸侯Ⅲ信教自川寛容︑
換言せぱ伽土を統治するものは宗教を統治するとの事のもとに︑飛主信教の弘布弧制の行はれたもの
の近枇初期に存した邪態は︑佃人の信教の白山寛容と云ふ近仙州唯の状態に群論した︒そして更に敏
界支配の完全に近き状態への途が︑ウルトラモンタネンに川って近古初期の事態の一つに棚られむと
した︒吾等は未件て柵逃史家も柵逃以外の史家も︑この一八四一年ケルン争論條約を説くに淵り︑或
は一八五○年オルミュヅッ締約を鋤くに術って︑前後照合して︑その杵剛史測逸史延いては倣洲史に於
ける意義を考究したものを見たことか無い︒この二躯件が︑一は宗教的ウ一オン︑一は政流的ウニオ
ンとの︑類似の調榊と類似の内容とに州聯して鵬附したことの奇縁は︑訓ふべき虚のものでないとは
云ひなから︑等しく凹雌統一の歴史の上の大きな階段であることは疑無い︒そして汗等は今こ上にオ
生子信教に閲するケルン祁論五七
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︲
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少
生子信敷に棚するケルン縦諭五八
ルミュッッ締約は︐果して川内迩碓にケルン舗諭條約よりはその意雄大なるか秀かを間はんとするので
ある︒換言せぱ︑剛雌主義的叩想の中から湧き川した向阿主義的理従の︑排阿へゲモ一イの腱州の上
に︑この宗教的二砿︑王義に對する朏伏と︐政論的二服主推に對する川伏とのいづれが︑影響するとこ
ろ多かったかを間はんとするのである︒
評等は少くもオルミュッッの川辱は︑ケルンや論川辱を以て川意されたと言ふことか川来る︒果して
﹁新昨期﹂に對する失紫群騰の雛の中に在って︑聯邦孵椛の︑王張も︐三元主義の主張も仰ぴ鑿尚くな
った︒﹁ラインは柵逸の河川なり﹂の感激が次鋪に消え行く川に︑自剛分離の姿が更に次飾に明白と
なり︑蒋剛王が﹁評等の帥とこの剛士との州に於て︑一の神き記されたろ紙叶が︑恰かも節二の帥の
掘瑚の如く︑詳等を仙條を以て支剛する老認容せず﹂として立恋主義に一矢を報ゆるや︑許剛の迩法
政治は卿雌統一の先決條件となって︑杵閏的自剛主義による柵逸剛民統一に理想を世いた自川術者
は︑仰ぴ﹁汗等は自川なき統一よりは︑統一なき自山を欲す﹂と言ふ語を純返した︒
このⅢにあって政鏥逢行のための﹁佃士統治は宗教統治﹂に從ふところの︑所謂時代後れの糸敦政
策の反動は奮識的興隆を謝した︒﹁クレメンス・アウグスト協禽﹂の設立は︑その目的を全智岡蒋教
徒の川結によって新教的価向政治の干渉排除を行ふことであった︒その他の諏栓の馴総は等しく蘇教
伽
的志操の振興に努力し︑複雑なる松岡の川に各盈弘布立仰の機關を布し一Lゐた︒この形勢は新教的叫慨︑たとへぱ﹁光輝宙﹂の如きものを生み川して︑剛粁肝瀦裡に對抗するところの欣態は︑近古初期
’
に似たものがある︒一面に於ては政治的二飯︑モ義を明らかにし︑一面に於ては宗教的二砿主義を明ら
かにして︑許阿諦地方御談に於ける識禽の裁判樅の問題の術議を生ずるに至っては︑と上に於て剛家
統治の樅と教會の枇裕樅との抵鯛が.はじめてその鰐什卒直の状態を以て史上に通された︒この時一
八四四年秋︑トリェル巡澱群は中古的感激に於て︑聖衣の前に集まって寄進貢献による弛罪の認許を
信じて居た︒
lノ
ー常時杵剛首都にある塊岡使節に宛てたメッテル一との神棚は︑杵塊叩川の關係に参照し︑自山主義
に對する保守復森の政轆の維持に参照し︑肌杵叫か︑等しくこの後考に依鑛しながら︐しかもその堅
問なる城砦たるべきものとの離反を生ずる迩命にあったことに毒照される︒﹁弧川を以て价正をその
駁価より逹ざけるか如きは︑庇にナポレオンの批制支剛以來︑幟洲に未だ襟て見ざるところである︒
称しくも何等かの法規を以て進歩せる政府には︑決して詐されざりしところである︒﹂﹁恐らく知ら
ず知らずに︑しがも益廷腓礎に︑撒布されたる悪稚子は生育するであらう︒悲識的ライン地方に於て
は︑弧制的な︑無感知な︑そして人川の妓川聖なる信識自山を岻辿するところの政府てふ棚念は︑銘
記され︑Ⅲ他の杵風癬識徒の川に︑岡溌に明確に銘記されるであらう︒そして他日西境に於て戦の響
が起る時には︑この紬果の何たるかが示される﹂と川ひ︑Ⅲつ杵塊刑叫の友怖と︑川岡の元来のよく
栄子信赦に剛するケルン祁諭五九
』
D 可
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Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ 1 1
−
■
■
Ⅲ 剛 堅
︲
I
甲
喉子信教に開するケルン祁論六○
抑解されたろ利韓開係に従って︑填岡はこの宗識的糺援に開し︑新たにそゆ義務を途行し︑その援助
溌僻しまざる庵珈に進まんことを税いてある︒
鯉この評翰に附して見るべきは︑メヅテル一上が礁都に在る填剛使節フークルモンに致せる書翰に︑﹁
鰯一位の排識的内閣の汁塒として︑同時に一の明硴なる保守的内側のそれとして︑余は公の逃しく困
難なる位世を感ず﹂と詔つたことである︒則ちケルン諦諭は︑塊岡が齊識識命に對しⅡ保守政莱の上
に對して探る可き態度を︑杵叫との淵係の上に︑Ⅱつ又杢拙逃聯邦との糊係の上に︑頗る例難なる欣
柵態に世かしめたものであった︒之を杵剛使節マルッァンがウィンより發したる柑時の報告に見れば︑
メヅテルニヒに反對しつ上あった填悶の愛称派並びに向山派は︑塊悶及び今ハイエルンをして許阿關税
同照︑則ち率従的に剛雌的統一の方策となったところのその關税川州に反對せしめむとし︐ケルン争
論の事件を好機として︑更にその勢を盛んならしめむとしたのであった︒今と上には填岡がその對露
紫の上に神岡の親和ぞ必要とした事︑雌ぴ自川迩動に對抗する東幟三脚提携の必要の存した事を識く
を叙ひない︒塊阿のケルン手術に開する困難なる位世は︑蒋教教會を唯辿して杵剛を援助せぱ︑おの
づから保守政策に反して鰐岡を離収し︑Ⅲつ全獅逸に於けるその仲統的位世を失ふ︒悲教教御を支持
して杵剛に反對せぱ︑露叫を弧朧にし︑岡内統淌の馳綏に憂ふくきものを生し來ろ事に在る︒
填岡にとりては︑後者を探って而して前者の幾分を成就することが雌も望ましきことであった︒三
月革命の經過の如何にか比はらず︑この方策はおのづから填岡の行く可き途であった︒杵國にとって
1
は︑この大勢を察すべき畳明があるべかりしにかLはらず︑宗教的ウニオンに次ぐに︑政治的ウニオ
ンを以てし︑西方撚教地域を離反せしめたのに次いで︑南方殊に醤教的南方洲逃をしておのづから喚
岡と等しき途の上に行かしむるに至った︒一八五○年のオルミュッッはかくて︑前記の塊剛の困難の前
粁の一端を鰐しつ上現川したのである︒翻って一而に於ては︑決して枇裕椛勢の抵臓にのみ曲來する
と槻るべからざるケルン争論事件の意義は︑﹁法皇椛が妄想的にして却って自らを危からしむる如き
3
く
4J商位に逹したる︑その逆程は測って︑これをケルン手術の日に見るべし﹂といふことにある︒國民統
一の氣迩とその叩に存する許悶的自倒主義的統一の思想︑﹁許剛は前進す﹂の思想︑自由立志の運動
とそれに對する保守維持の方策︑川ふるに聯邦と杵塊叩剛との關係等を以てして紡細に棚察し來れ
ぱ︑ケルン手術の事件は︐唯信教の川越に州する一端の史狂としては老へられ得ない︒
乃
﹈・︶○自一冨一︻胃︶p宮①馬﹈︺祷員の①︑こ︺・号︑勺皇︶覺戸BmE己号吻日①昌醒こ︺呂門鼻言冒冒ご扇.軍︶.
い︶国.く.罠H①旨旦時巾﹀己⑦具.○めいの三の三句.︑国.今つの︑い
い︶︒.シ胃胃︾p巨昌g・詞畠﹈塁︶.堂﹈・
少︶国.ぐ.め︺馬一︾貝⑦﹈苛唱屋⑦﹈己頤負号員.殉国の言︑︑蜀具︼一︶.$・罵冒官①の言︾己の具.①①め9.国且
凸
二︶﹈.己.農1日.亨患.
印︶・屍g言﹀ど︺画①﹈侭①pg員豊.嗣一﹃号①︒﹀皀︼①○さ中国一︼房︵扇説︶・ロ.鱒︻P巨協﹀日gg﹈①呂・・
生子信救に閲するケルン諦論六一 心﹄い−公と.
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11 ‐
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Christl.GIaubenslehre(1840)1,.Feuerbach,DasWesend.Christentums.
6、)G.Hermes,DieinnereWahrheitd.Christentums.,Philos.EinleitgindieChrist‑kathol.
Theologie.,Christl.Dogmatik.etc.
7.)K.Lamprecht,Deut.Gesch.Bd.11,1.p.16.
8.)ibid.I).27.
9.)videR.Seeberg>Diekirchl.Deutschldim19.Jallrhdrt.
10.)videJ.B.Kissiing,Derdeut.Protest''ntismus.Bd.1.
11.)P.Pfizer,BriefivechselzweierDeutschen.JBenedey,Denkwuerdigkeiten.L.Lindnercit.
'1,h.Flathe,DasZeitalterderRestaumtionu.Revolution.I)・183.
12.)A.Stern,Gesch.EUropas,1830‑1848.Bd、2.1).155.
13.)Mirbt,Quellen.1).428etseq.
14.)Kissling,Gesch.(1.deut.Katholikentage.Bd.1.1).128etsPq.
15.)ibid.p.131.
16.)A・Stern,a.a.W.I).148.
17.)Mirbt,Quellen.1).437
18.)ibid.1).438.Enzyklica,27/5.1832:utl)rolesutrisquesexusinsanctitatereligioniscatholi‑
caeomninoeducaretur, etc.
19.)Lamprecht, a.a.W. I). 15.
20.)Mirbt,Quellenp. 440.
21.)Stern, a.
a.W、l)、150.22.)ibid.p.151.
23.)J.Goerres,Athanasius.cit.J.B.Kisslillg,Gesch.d・deut.Katholikentage.Bd.1.P.132.
24.)Stern,a.a.W.P.155.
25.)Mirbt,Quellen.1).441:BriefCiemensFrh.Drostez.Vischering.5/10.1835.betr.diege‑
mischtenEhen.
26.)TreitsChke,a.a.W・P.698etseq.
27.)Saemtl・Werke.Abt.Predigten.AmGeburtstaged.Koenigs,2/8.1806.
28.)J.B.Kissling,Gesch.d.Kulturkaml)fEsimdeut.Reiche.Bb.1.p.188etseq.
29)MirbtQuellen,p.441. Uebereinkommen,Rom. d. 24. SePt. 1841.betr.dieBeileggdes
KoelnerStreites.7:Lamani&redetmiterlesmariagesmixtesdepcI]drauniquementdela
decisiondes6v6(lues,etlegouvernements'abstiendrad'yintervenir.
30.)Kissling,Katholikentage.p.140etseq.
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生子信敬に閲するケルン識論
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