はじめに
これまで,Th・ホッブズ(15881679)からJ・ロック(16321704)を 経てJ−J.・ルソー(17121778)に至るまで,社会理論の構成に応じて,ま さに機軸的な意義をもって<私人>概念が使われていることを見てきた。使 用法は二種類あった。まずホッブズとロックの場合,<私人>こそが社会を 契約的に形成する場合の根底的主体であり,それが国民主権の帰属する民間 領域とよぶべきものを構成する人間の最小単位となっていることを論じた。
これに対してルソーの場合,<私人>概念は一貫して否定的に使われてお り,一般意志としての民意は<私人>を,いわば自己否定して得られるので あった。なぜならばルソーによれば<私人>の個別意志は一般意志を弱める ものとみなされるからである。国家をつくる意志としての一般意志は,この 意味で公民(シトワイアン)の意志である。一般意志の中に個別意志が侵入 してきてはならない,という考え方にこそルソーのルソーたるゆえんがあっ た。
しかるにルソーの場合の一般意志は,もともとの成り立ちから言えば個別 意志の担い手である<私人>(個別者)を前提にしていた。ただその意志の ありかたが変化するという形で,実体としての個別利害は関係としての個別 意志へシフトされた。このような利害論から意志論への理論処理の位相の置 き換えによって,個別意志から一般意志が形成可能となっていたのである。
しかし,一般意志を導き出す場合に個別意志の加減乗除によって導出できる
スミスにおける<私人>概念の完成
キーワード:アダム・スミス,私人,民間人,軍人,市民社会
竹 内 真 澄
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という議論をめぐって,様々な反論がでるのは当然であった。たとえば後に なってG・W・F・ヘーゲル(17701831)が正当に指摘したように,公民 の一般意志を成り立たせるためにルソーはたとえ否定的にであったにせよ
<私人>という存在を前提として温存しているのではないか,という批判が 現れた。
ここに至って,ルソーは公と私の関係をホッブズやロックのように簡単に 調和させうるものとは考えない。逆に言えば両者をいかにして媒介しうるか について,他の社会契約論者には見られない,彼ならではの工夫を持ち込ん でいる。それは「それぞれの個人はいわば自分自身と契約を結ぶのである」
という内容である。
ルソーは<私人>としてはプチ・ブルジョアをイメージしながら,各自の 所有そのものがいわば公的所有であることを要請した。こうしておけば,一 般意志はこの工夫によって人間オムを前提としながら,しかもオムがじかに 公民である自分自身と契約することにならざるをえない。この限りにおいて 人間オムは公民シトワイアンに相即すると考えられるからであった。
ルソーの社会契約論のこうした特徴が発生した社会史的理由は,イギリス と比べて市民革命が100年以上遅れ,引き延ばされ,しかも切羽詰まったか らであった。フランス革命は,革命の熱気の頂点で<私人>のフェーズにお いてではなく,情熱的な政治的公民のフェーズで結集されねばならなかっ た。三部会を国民公会に置き換える政治的力はフランス革命が内在していた 独特の歴史構造から非妥協的なかたちで出てくるのである。そして多様に分 裂する階級階層的な偏差を象徴的に接着させたのは,ルソーの所属するプ チ・ブルジョアジーだったのである。
このように見てくると,ホッブズとロックに対してルソーは,<私人>的 社会契約論に対するシトワイアン的社会契約論というべき理論類型に属す る。すなわち,ルソーの社会契約論を反<私人>的と呼ぶのはこのことを指
1)竹内真澄2021,「ルソーの反<私人>的社会契約論」『桃山学院大学総合研究所 紀要』第47巻第1号。
126 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
しているのである1)。
ホッブズとロックは<私人>が近代をつくる主体であると論じており,ル ソーは反<私人>によって近代が誕生すると論じている。ここに大きな違い があると言うことができるのである。そうであるとすれば前者が近代と結び つくことを理解することはそれほど困難ではない。しかしルソーの反<私 人>のスタンスはなぜ,いかにして近代と結びつくのであろうか。
この問題を解くカギはルソーの反<私人>というスタンスがけっして<私 人>の根絶を意味するものではなかった点を理解することにある。彼はプ チ・ブルジョアの階級的立場から旧体制(貴族と大ブルジョアジーの癒着)
を否定したのであって,第三身分が反<私人>たる公民シトワイアンの次元 で,いわば政治的に結集することを際立たせたのであった。そして一般意志 の構成に当たってルソーは第三身分の中核を小市民に求めたのである。した がって革命期が終われば,ルソーの理論は資本家としてのブルジョアジーに よって早晩切り捨てられていく運命にあった。この意味で,ホッブズから ロックをへてルソーに至る社会契約論は,その理論類型の対照性にもかかわ らず,<私人>概念を肯定的もしくは否定的に扱いながら,しかしその違い にもかかわらず結局のところ近代を立ち上げようと努力した点では違いはな かったのである。
しかし,<私人>概念をさらに歴史的に考察すると,それは近代を立ち上 げるというところで終わったわけではない。<私人>概念は,近代の経済的 メカニズムを解明したA・スミスの著作に一層豊かで一層現実的に,した がって新しい科学としての経済学に受け継がれて,ある意味では完成される のである。本稿の結論をあらかじめ述べるならば,この文脈において,スミ スが『道徳感情論』1759および『国富論』1776において圧倒的に新しく切 り開いた<私人>概念は,コモンウェルスとは区別される経済社会を構成す る民間人private peopleという頂点へ上り詰めるのである。スミスにおける
<私人>概念の生成経過とその意味とを明らかにするのが本稿の課題であ る。
スミスにおける<私人>概念の完成 127
1.『道徳感情論』における<私人>概念
スミスの『道徳感情論』は,タイトルが示すように,ある道徳的=社会的 な感情を主題化している。スミスは,理性よりももっと日常的であるととも に,ある意味では非合理的とも見えなくはない感情的な次元に,人と人の間 の紐帯が形成されることを主題的に取り上げた。そのことは有徳な人だけで なく,犯罪者にさえ同感の情動があるというくだりに強い普遍性をもって表 されている。だからこの著作は,イギリスにおける市民社会の基盤の力強さ が,たんに理性的な側面のみならず,ついにその感情的側面にまで及んだと いう意味で彼の時代の道徳的な自信の現れなのである。
スミスは,『感情論』冒頭で論じているように,人間manがもつ本性nature のなかにすくなくとも二つの原理があると言う2)。一つは利己心selfishness self-interestであり,他方は同感sympathyである。同感は憐れみpityと同情 compassionとに分けることができる。哀れみと同情は,いずれも悲哀にた いして感じられるものである。しかしスミスによれば,同感はいまでは,悲 哀に対するものだけでなく,幸福を含めて想像上の立場交換で感じられる同 胞感情すべてに対して使われるとされる3)。
こうして,同感という感情をもつ人間がスミスの観察眼によって喜怒哀楽 全般にわたって論じられるのである。しかし,ここで人間manとはいったい 何者であろうか。利己心selfishnessは,自分の利益=関心を他人の利益=関 心事よりも優越的に追求する心の動きである。そしてこれが暴力と不正をも たらしうることをスミスは否定しない。しかしスミスによれば,すべての利 己心が暴力と不正の源泉だとは必ずしも言えないのであって,同感と両立す るような利己心があるのではないかと考えられるという。もしそうでなけれ ば,市民社会は,自己の感情的な基盤から支えられることが不可能となり,
長続きすることはありえないであろう。
2)Smith, A, 2011,The Theory of Moral Sentiments, Gunterberg Publishers, p.3,
水田洋訳2003,『道徳感情論 上』岩波文庫,23頁。
3)Ibid., p.4〜5,訳上28〜29頁。
128 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
だから同感が同胞感情fellow feelingをもたらすという場合,地縁や血縁で つながった狭い関係のなかの人間でなく,まことにさまざまな人間──私,
当事者,友人,知人,同席者,他人,観察者,見知らぬ人,女性,文明化さ れた諸国民,働く貧民,職人,庶民,召使い,黒人,奴隷,ランクの高いあ るいは低い人々,弁護士,医師,学者,芸術家,指導者,市参事会員,国 民,人類,死者など──が考察対象となっている。すなわちどのような社会 領域の人間であろうと人々は,すすんで仲間からの同感を得ようと努める広 範な人々との交わりのなかで生きており,これらのつきあいの中から胸中に
「公平な観察者」を抱くようになるのである。
このように考えてくるならば,スミスのいう道徳とは,ホッブズとロック が肯定してきた<私人>を自己保存や私的所有の保存という,堅実ではある が機械的でハードな基盤においてばかりでなく,社会全領域の有機的でソフ トな感情的基盤にまで掘り下げ,広げて分析してみせたもの,ということが 言えるであろう。すなわち『道徳感情論』は「近代市民社会の感情的基盤の 分析」である。
このように見てくるならば,スミス独自の道徳感情の世界において利己心 と同感を併せ持つ人間が<私人>である。
ところでそもそも利己心と同感が一般化するということはいかなる事情で 可能となったのだろうか。スミスの『道徳感情論』で扱われる市民社会は,
よく言われるように等価交換を旨とする立場の交換がおこなわれる「ひらの 市民社会」であるだけではない。それはすでにある程度のランクと権力の違 いを含む,いわばピラミッド的な社会でもある。たとえばスミスはこう言 う。
「それぞれの独立国家は,おおくのちがった階層と社会に分割されていて,その おのおのは,それ自身の個別の諸権力,諸特権,諸免除をもつ。各個人は当然,
かれ自身の個別の階層または社会にたいして,他のどんな階層や社会にたいして スミスにおける<私人>概念の完成 129
よりも,おおく愛着をもつ。かれ自身の利害関心,かれ自身の虚栄,かれの友人 たちと仲間たちのおおくのものの利害関心と虚栄は,おおいにそれと結合してい るのがふつうである。かれは,その諸特権と諸免除を拡大しようという野心をも つ。かれは,それらのものを,他のすべての階層または社会による侵害から,防 衛しようという熱意をもつ」4)
もっと要約してずばりこうも言っている。
「さまざまな身分の区別,社会の平和や秩序というものは,大きな程度において,
富者と権力者に対し我々が自然に抱く敬意の上に築かれる。」5)
しかも,スミスはルソーのように人間が私的所有の結果不平等が生じるこ とそれ自体を否定的に見ているわけではない。むしろ,金を持ち,それなり に権力的であるような偉い人々の支配は,そうでない人びとの感情的な協力 によってモデレートに成立すると考えている。
『道 徳 感 情 論』で,回 数 は き わ め て 少 な く,た っ た 一 度 だ け,私 人 private manという言葉が出てくる。それは,地位ある人々と劣った人々と を比べて観察する文脈においてである。スミスは,まず,地位ある人々のな かでの道徳感情の適宜性を考察していう。
「富裕な人々および有力な人びとのあらゆる情念についていくという,人類のこ の性向のうえに,社会のランクと秩序が築かれるのである」6)
ここで水平的,垂直的な社会関係について分析的に考えるとすれば,スミ スは「同感」とか「ついて行く」ということを同一ランク内部の水平的関係
4)Ibid., p.227,訳下137頁。
5)Ibid., p.232,訳下126頁。ただし訳文は変えた。
6)Ibid., p.50,訳上134頁。
130 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
においてばかりでなく,異なるランク間の垂直的関係においてもみている。
むしろ,貧乏で権力のない人々さえ我知らず,偉い人々の気持ちになって,
自己の階級的利害の本来の固執を逸脱して,ついうっかりついて行ってしま う。スミスは,決して水平的関係だけでなく,同感のもつ垂直的な人間関係 をも重視しているのである。
「低い身分の人が,自己をきわ立たせようと願うのは,この種の身だしなみに よってであってはならない。丁寧さは地位ある人びとの徳であって,それはかれ ら自身のほかのだれにたいしても,ほとんど名誉をあたえないだろう。気どり屋 が,かれらの態度をまね,かれの通常のふるまいのすぐれた適宜性によって傑出 しているように気どるならば,かれの愚かさと思い上がりにたいして,二重の軽 蔑をもってむくいられる。」7)
低い身分の人には人びとが「ついていける」ような特別の振る舞いが必要 とされるのである,すなわち
「もっと完全な謙虚さとかざりのなさが,その同席者にたいしてはらうべき尊敬 と矛盾しないかぎりの無頓着と結びついたものが,一私人a private manのふる まいの主要な特徴であるべきである。もしかりにもかれが,自己をめだたせよう と希望するならば,それは,もっと重要な諸特性によってでなければならない。
かれは,地位ある人びとの従属者たちに対抗するだけの従属者を獲得しなければ ならないし,そしてかれは,かれらにたいして支払うのに,自分の肉体の労働と 精神の活動のほかには資金をもたない。したがってかれは,これらを涵養しなけ ればならない。すなわち,かれは,自分の専門職において優越した知識を,そし てそれを行使するにあたっての優越した勤勉を,獲得しなければならない」8)
7)Ibid., p.52,訳上140〜141頁。
8)Ibid., p.53,訳上141頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 131
このように,スミスは,低いランクの者が偉い人々と同じことをやっても 一種の猿真似としてかえって見下されるだけであることを指摘する。その上 で,低ランクの者は「自分の肉体の労働と精神の活動のほかには資金を持た ない」のであるから「専門職で優越した知識を,そしてそれを行使するにあ たっての優越した勤勉を,獲得しなければならない」と諭しているのであ る。
ここで扱われている<私人>が身分の低い人を指すからと言って,<私 人>一般がすべてランクの低い人だけを指すのではない。スミスは,私人と は様々なランクの人を包含する市井の人々であるという理解を前提にして,
ランクの高い人々と低い人々に分類して,彼らの間の振る舞いbehaviourが 一種の日常生活の中での演技的行為(ゴッフマンの注目したような)である ことに注意しているのである。
一般に同感はランクの高い人にとって有利に作用する。それは,たとえば 現代でも,金持ちや首相がゴルフをやったり,赤ちゃんを抱いたりすると,
それだけで人々が自然に同感する傾向があるのによく似ており,下のランク の人が同一行動をとっても同感は少ないであろうことを思い起こさせる。ス ミスが言うように,下のランクの者はなにかハッとさせるだけの特別の勤勉 を付加しない限りランクの高い人と同一行動をとるだけではありがたみを与 えることが少なく,同感してもらえない,というわけである。
『道徳感情論』には,ここにあげた一例以外には<私人>についての記述 はない。けれども,これはスミスがホッブズとロックに比べて<私人>を重 視していないとか,興味を失いつつあることを意味するものではない。裏返 すと,いったい誰の道徳感情なのか,という本質的な問いが全編に滔々と流 れているというべきである。それは,自由で平等な<私人>と従来言われて きた人間,すなわち商業社会の商人と呼び変えることもできるところの<私 人>の内部の差異を,水平的かつ垂直的な感情の動きとともに詳細に扱って いくスミスの筆遣いに現れている。
132 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
だから『道徳感情論』の人間とは,幅広くとればひらの人間には違いない が,内部に非対称性を含んでいるのである。スミスはホッブズやロックから
<私人>概念を引き継いでいるのだが,ホッブズとロックが<私人>の自由 や平等に力点を置いて,均質な<私人>像を描いていたのと比べて,より一 層拡大した現実のランク差(階級差,階層差)や振舞の競い合いや演技の交 換を読み取っている。こうした<私人>の生きたリアルさは『道徳感情論』
に比して『国富論』1776になると,一層明確になってくるであろう。
2 .道徳感情による国際的秩序形成
ここで『国富論』の考察に移る前に,<私人>が織りなす社会の国際的な 秩序について『道徳感情論』がいかなる展望を提起しているかみておこう。
なぜなら,同感論のめざすところは,さしあたりは,国民社会内での「公平 な観察者」の析出に向けられていたのであるが,実ははるかに国民国家を超 えて国際社会にまで届いているからである。われわれは,すでに近代世界シ ステム論という理論的な視座をえており,スミスを見る場合に,彼がいかな る意味で近代世界システムを見ていたか,その本質に迫ることが必要であ る。
まず,スミスが社会を複数形で示すことに注目しておこう。すなわち,世 界社会は独立した社会の集まり,すなわち諸社会societiesなのである。社会 が複数存在するということは,国民国家ごとに世界経済が分断的に編成され ていることを物語っている。『国富論』の刊行の際,彼がイギリスからのア メリカの独立を支持したことはよく知られている9)。当時の植民地は,アメ リカの独立運動に刺激されていた。「良質な土地が豊富にあることと,自分 たちの諸問題を自分たちなりの方法で処理する自由とが,すべての新植民地
9)アメリカの独立宣言は1776年7月4日に採択されたのにたいして,『国富論』は 同年3月9日に刊行された。もちろん,独立運動がすでに数年前から闘われてい た時期にそれをぎりぎりまで横目でみながらスミスは植民地論(『国富論』第4 編第7章)でこの問題をとりあげたのである。この点については野沢敏治1991
『社会形成と諸国民の富』岩波書店,第1章第4節を参照。
スミスにおける<私人>概念の完成 133
の繁栄の二大原因であるように思われる」10)とスミスは『国富論』で論じた が,すでに『道徳感情論』においてもより抽象的なかたちで世界が独立した 諸社会からなることを自明視していたということは言えそうである。すなわ ちひとつの社会のなかで個人=<私人>が独立しているのと同じように,社 会もそれぞれ世界経済内の諸社会(複数の国民国家)として独立していくの が自然なことであるとスミスは考えていた。
この限りでスミスは,国民社会を自明の社会のありかたと考えており,
(国境なき,また世界政府に立脚した)世界共和国(I・カント)が存立する 余地があるとはまったく考えていなかった。
しかし,それにもかかわらず,スミスは,一つの社会が同感の原理によっ て支えられるのと同じように,独立した諸社会間の秩序もまた同感で支えら れうること,あるいは国民的偏見で普遍的同感が遮られないことの可能性を 考察している。
たとえばスミスはこう述べる。
「われわれがそのなかで生まれ,教育され,そしてその保護のもとでわれわれが 生活をつづけている,国家stateあるいは主権sovereignは,通常の場合には,わ れわれの善悪の行動がそれの幸福または悲惨に大きな影響を与えうる,最大の社 会である」11)
スミスの見ている国民国家とは,その現実の姿においては階級国家であ る。もちろん,<私人>はひとつの抽象であって具体的には階級(または階 層)に割れており,国家もこの序列に制約されていることをスミスは認めて いた。だから,おなじことは国家同士の関係についても言える。ある国家が 別の国家に向かって国際関係を取り結ぶとき,支配階級の意志が国民社会 10)Smith, A, 1937, An Inquiry into The Nature and Causes of the Wealth of Nations, the Modern Library New York, p.572,大内兵衛,松川七郎訳1969
『諸国民の富 Ⅱ』岩波書店,850頁。
11)Smith, A, 2011,op.cit., p.229,訳下130頁。
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を,いわば内に向かって総括しているのである。ある社会の支配階級は,国 際関係の中でも己の私的利益を維持しようとすることを自然とするだろう が,それでも,自己利益を得るために相手国側の抱く同感に訴え,外側の国 家からの信頼をかちえなくてはならない。こういうことを独立した国民が互 いに学びあい,配慮できるようになるのであれば,「普遍的仁愛universal benevolence」が出てくるとスミスは言う。その内容は次のようである。
「われわれの効果ある任務officeが,われわれ自身の国という社会よりもひろいど こかの社会へ,拡大されうることはまったくまれだとはいえ,われわれの善意は どんな境界によっても限定されることなく,宇宙の無限性を包括しうる。」12)
「まったくまれだとはいえ」─とスミスは言うのであるが─国民社会の任 務は,善意と同義の普遍的仁愛をつうじて,国境を超える普遍性を形成する ところにあるのである。
これらの点を踏まえて『道徳感情論』は,どういう性格の書であったか要 約しておこう。承知のように,この書は,「社会は・・・さまざまな商人の 間でのように・・世話good officeを,ある一致した評価に基づいて損得勘定 で交換することによって・・・維持されうる」13)ということ,商業社会の商 品交換的な存立構造を積極的に論証するための試みであった。しかし,同時 に,今度は社会を一個の人間(<私人>)とみなすならば,互いの同感から 発する「普遍的仁愛」によって独立した国民社会が相互に平和共存しうると いう人類的道徳の可能性,国際平和の樹立に挑戦したものであったと言える であろう。
すなわち,<私人>のあいだの「中立の観察者」の形成が社会を愛情や依 存心から自由な社会として形成可能なことを論証するものだとすれば,同じ
12)Ibid., p.236,訳下146頁。
13)Ibid., p.86,訳上222223頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 135
く,個別社会の間にも「普遍的仁愛」が形成されうることによって,国境を 越えた国際平和が建設されうるということが,すくなくとも可能であること を物語るのである。
ただし,スミスは慎重に,愛国心は国民社会のサイズを超えることはめっ たにないのだから,「普遍的仁愛」による一種の人類愛が国際社会をただち につくることは難しいと付け加えることを忘れなかったのである。スミスは テーマからして『道徳感情論』の視座から可能性を追いかけているのではあ るが,人間を理想化し過ぎる議論を許容しないリアリストでもある。そこ で,国際平和の現実的な可能性は『国富論』において異なった視角から追求 される。
3 .『国富論』における<私人>概念
さて『国富論』に分析をすすめよう。あらかじめ結論めいたものを述べる ならば,スミスはホッブズやロックから私/公の枠組みを継承している。そ れは,私人private manと国家state(共同社会commonwealth)という対概 念が多用されるゆえんである。言うまでもなく,ホッブズでは「万人の万人 に対する闘争」とみなされた<私人>領域は,ロックになると自然状態のま ま一定の秩序をとりうる領域になり,市民政府は私的所有を攪乱(泥棒な ど)から念のために保護する役割を果たす機関となる。さらにスミスになる と,<私人>は一つの経済的なメカニズムによって自律的な秩序をもち,動 態的な均衡を実現しうる領域となる。すると<私人>概念は自然法則の論証 に裏打ちされた完成度を持つにいたる。
具体的な用例から見ると『国富論』のprivate manは全巻をとおして7件 あり,複数形のprivate menを加えると10件ある。さらに本稿がそれ以上に 注目するprivate peopleは25件あるから,総計で35件に及ぶ。また,全体/
部分に起源をもつであろうpartから派生したparticularを使ったparticular personという用語もあるが,これは独立した<私人>とほぼ同義であり,全 体に服従する部分的なものではなく私的な自律性をもつべき人間のことを指
136 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
している。これも<私人>の類概念と言ってよいなら14件存在する。
有名な「見えざる手」がわずか1件の用例しかないにもかかわらず,この 用語の持つ理論的思想的な意味の重大さによって『国富論』の最重要カテゴ リーと評されるのであれば,<私人>概念は,数の上で上回っているのみな らず,「見えざる手」のメカニズムが作用する主体的根拠にあたるものであ る。この意味で『国富論』の人間概念の中核にある<私人>は「見えざる手」
と少なくとも同等の位置価を占めていると考えてはならないであろうか。
もちろん,スミスにおける<私人>概念は,私的所有private property(8 件)と密接不可分のつながりをもち,用語の分布構造からすれば,私的所有
─私人を中核とし,その周辺を形容詞privateなるものが161件取り巻いて いるということができる。まさに私的所有─私人─私的なるものがちょうど 本丸と外郭を構成するように,同心円状に組み立てられているのが『国富 論』の概念世界なのである。
それでは,このことを念頭において,『国富論』における<私人>の用例 をいくつか見ておこう。
「私人private manの資本は,たとえどんな事業で手に入れたものであっても,そ の事業で使用されうる限度を越えて増大しうるものであり,しかもまたその事業 はひきつづき増大する。ひとつの大国民(a great nation)の資本も,ちょうど そのように増大しうるものなのである」14)
「一人の私人a private manが,おおよそ数人または十数人の債務者に自分の金を 貸し出すのであれば,自分自身なり,その代理人なりで,貸出先の経営や状況を 常時詳しく観察し,調査することができるだろう。」15)
14)Smith, A, 1937, op.cit., p.92,玉野井芳郎,田添京二,大河内暁男訳1968『国富 論』中央公論社,166頁。
15)Ibid., p.290,訳267268頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 137
「司法権が,行政権と一体化されているときには,裁判権がしばしば,俗にいわ ゆる『政治』politicsの犠牲に供されることを免れない。国家の大きな利害にゆ だねられている人たちは,なにも不純な考え方からでなくてさえ,ときには国家 の利害の前には私人private manの権利を犠牲にする必要があると思うこともと きどきはあるだろう。しかしながら,各個人individualの自由,すなわち自分は 安全なんだという感じは,裁判の公平無私な運営に依存する。各個人individual をして,かれに属するすべての権利をにぎっているという点で,自分はまったく 安全なんだと感じさせるためには,司法権を行政権からわけておくというだけで はなしに,できるだけ行政権から独立させることが必要である。」16)
以上を見てくると,事はたんに経済上の利益や損失にかかわるだけではな い。<私人>の裁判上の権利が他の<私人>のそれとともに行政権力の恣意 的な発動によって脅かされるとき,全体として民主主義の危機が発生する。
この場合,スミスは,国家からの<私人>の自由のためには,行政権からの 司法権の独立を確保しなくてはならないと説くのである。ここに,経済的自 由主義者スミスがラディカル・デモクラッツとなる面をありありと我々は読 み取る。
「さてすべてのヨーロッパの大国を苦しめており,はては破滅させるとも思われ る膨大な国債が累積していく経過は,どこの国でもよく似ていた。最初国家は,
私人private manがやるように,個人信用で借り始めた。それがすぐにゆきづま ると,短期の期限を決め,公共収入のある部門を抵当に入れて借金をした。・・
借金の尻ぬぐいは子孫に心配させよというわけである。」17)
ス ミ ス が<私 人>private manと い う 概 念 を 使 う 場 合,複 数 はprivate menである。いずれもホッブズ以来のイギリス自由主義の伝統を受け継いで
16)Ibid., p.681,訳510頁。
17)Ibid., p.863,訳565頁。
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おり,私人/共同社会(コモンウェルス)という対概念を機軸としているこ とは言うまでもない。そして,ロックが私的所有を守ることを以って国家の 最大目的に掲げたことを受けて,その私的所有のインタレストを追求するこ とがいかにして社会全体の利益の増進に寄与するかという因果関連を論証す ることがスミスの経済学の課題となったのである。
4 .<私人>の完成形としての民間人
ここで<私人>の類概念としてもう一歩踏み込んで考えたいのは,<私 人>の複数形と内容的には同じ意味と思われる民間人private peopleという 概念である。たとえば次のようにこの概念は使われる。
「最近の戦争が終結してからしばらくの間,最高の信用をもつ民間人private peopleだけでなく,ロンドンにある最大の会社の一部も等しく五パーセントで借 り入れたが,それ以前の時期,彼らは四パーセントあるいは四・五パーセント以 上を支払うことはなかった。社会に存在する資本元本の減少などまったく想定し なくても,北アメリカと西インド諸島獲得によって生じた我が国の領土と交易の 一大増加が,このような事態を十分に説明するであろう。」18)
「このような用心をした場合でもまた,数年という期間が経過するまで返済され ないという意味で借用する貨幣は,銀行から借り入れられるべきではなく,自ら それを資本として利用する手数をかけずに,所有する貨幣の利子で生活しようと 目論むような民間人private peopleから,つまり,その理由から,保有する資本 を数年間預けられそうな,十分信頼に値する人々に進んで貸し付けようとする 人々から,債務証書または抵当証書で借り入れるべきである。」19)
「こういった商人やその他の企業家は,銀行や銀行業会社からこれほど多くの援
18)Ibid., p.93,訳167頁。
19)Ibid., p.292,訳270頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 139
助を受けていながら,なお一層多くの援助をえたいと望んだ。銀行というものは 数連の紙以外にはべつになんの経費もかけないで,要望される額の信用をいくら でも拡大することができるとでも彼らは考えていたらしい。かれらは,銀行の重 役たちの考えがせまく,精神が卑劣だ,と不平を鳴らし,この国の事業の拡大に 比してかれらの信用が拡大しないのはこのためだ,といった。かれらがここで事 業の拡大といっているその意味は,いうまでもなく,自分たちの資本であろう と,借用証書や抵当証書という通例の方法で民間人private peopleから信用借り したものであろうと,そのどちらかで運営のできる限度を越えて,かれらの事業 計画を拡大することなのである。」20)
「それゆえ,特恵あるいは制限を行ういっさいの制度がこうして完全に撤廃され れば,簡明な自然的自由の制度がおのずからできあがってくる。そうなれば,各 人は正義の法を侵さない限りは,完全に自由に自分がやりたいようにして自分の 利益を追求し,自分の勤労と資本とをもって,他の誰とでも,どの階級とでも,
競争することができる。そうなれば,国の主権者は,私人private peopleの勤労 を監督して社会の利益に最も適合する事業に向かわせるという義務から,完全に まぬかれることになる」21)
以上,引用が長くなったが,見てきたように,民間人private peopleとは,
互いに独立して各自の利害を追求する<私人>private manが集合化し,ひ とつ領域を形成し,全体としてコモンウェルスとの緊張関係(国家主権から の自由)の中に位置づけられた人々の総体を意味している。すなわち,アダ ム・スミスにとって「私的な人々」private peopleとは自然的自由を分かち 持つところの民間人のことなのである。
もちろんこの概念は,ホッブズとロックにはまだ現れていなかった。だが スミスは,二人のいう<私人>の自由主義的伝統を経済学的な運動法則の光
20)Ibid., p.292,訳271頁。
21)Ibid., p.651,訳478頁。
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に照らして照射した。このときにはじめて,人々はたんに自然権をもつ人間 の集まりとしてではなく,自然的自由の領域を一つの価格メカニズムとして 構成する<民間人>とみなされるようになったのである。
<民間人>は,まさに,国家(政府)による諸制御から解き放たれてこ そ,自ずから展開する自然的自由の制度を育てていく主体的根拠なのであ る。だから,ここでスミスのブルジョア的な立場は,自由主義的な視座を介 して,<民間人>という独自のカテゴリーにまで昇華されたということがで きるであろう。
有名な「見えざる手」についての記述が出てくる箇所でスミスはこう述べ ている。
「もちろん彼ら(各個人individual)はふつう,社会一般の利益を増進しようなど と考えているわけではないし,また自分が社会の利益をどれだけ増進させている かも知らない。・・・だがこうすることによって,かれらは,他の多くの場合と 同じく,この場合にも,見えざる手に導かれて,自らは意図してもいなかった一 目的を促進することになる。・・・自分の資本をどういう種類の国内産業に用い ればよいか,そして,生産物が最大の価値をもちそうなのはどういう国内産業で あるかを,すべての個人は自分自身の立場におうじて,どんな政治家や立法者が やるよりも,はるかに的確に判断することができる,ということは明らかであ る。民間人に向かって,かれらの資本をどう使ったらよいかを指示しようとする ような政治家がいるとすれば,彼は,およそ不必要な世話をみずから背負うばか りでなく,・・・一個人はおろか枢密院や議会に対してさえ安んじて委託はでき ないような権限を,また,われこそそれを行使できる適任者だと思っているよう な人物の手中にある場合に最も危険な権限を,愚かにも,そして僭越にも,自分 で引き受けることになるのである」22)
22)Ibid., p.423,訳388389頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 141
ここまでの議論はいくつかの特徴を表している。
第一に,ホッブズとロックにおいてもそうであったように,スミスにおい ては個人individualは私人private manとともに現れたのであって,両者は同 一視されているということである。したがってこれはイギリス自由主義を貫 通する共通の特徴であって,現代にまでこの影響は長く影を落としている。
すなわち近代ブルジョア思想の下で,個人と<私人>との概念的な混同がつ ねに起こっているのである。この混同は偶然のものではなく,きわめて原理 的な,したがってこの混同にこそ彼らの階級的アイデンティティはかかって いるというべきである。
第二に,私利をめざす資本投資は,<民間人>の私的な自由,すなわち,
政府から指図されてはならない聖域,あるいは自然的自由の領域であるとい うことである。
このようにして,<私人>=個人,<民間人>固有領域論が語られ,政府 による制御は一般的に有害であるといわれるのである23)。
5 .民間人と軍人の相互依存関係
もともと,<私人>とはホッブズから開始されたと私は論じてきた。すな わち,<私人>とは,それまでの旧共同態を全域的に解体する主体であり,
ある時期にはブルジョア・デモクラシーの権利拠点でもあったのである。だ
23)ただし,スミスは慎重にもこう論じている。「民間人たちprivate peopleが,銀行 業者の約束手形で支払いを受け取ること,つまり,額が大きかろうと小さかろう と,彼らが自らそれを受け取りたいと思っている時に,その受け取りを抑制する こと,あるいは,すべての隣人が,銀行の約束手形を受け取ろうと望んでいると いうのに,銀行家によるそのような銀行券の発行を抑制すること,これは,自然 的自由の明白な侵害──法のあるべき任務は,その侵害ではなく,その支援にあ る──であると,言うことができるだろう。そのような制御は,間違いなく,あ る意味で自然的自由の侵害である。だが,このような少数の個人の自然的自由の 行使は,社会全体の安全を脅かす可能性がある場合には,あらゆる政府──もっ とも自由な政府だけでなく,もっとも専制的な政府も含む──の法律によって抑 制されているし,また,抑制されなければならない。」(Ibid., p.308,訳291頁,
訳文は変えた)。スミスは民間人の自然的自由を基本的に推し進める立場ではあ る。しかしそれを絶対視していたかというと必ずしもそうではなかった。スミス 142 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
から,こうした独立不羈の個人が現れたということ,共同態からの個人の独 立は,同時に<私人>の国家からの独立を伴ってのみ達成されたわけであ る。
<私人>という概念は,それゆえ,私的なものと公的なもの,市場と国家 への二元的な社会構成(私/公の枠組み)を前提にして初めて成立するので あって,スミスの場合も,これは常に国家(主権とかコモンウェルス)との 緊張の中で運動する主体であった。
このように,<私人>の存在は主権ないしコモンウェルスの成立を前提に している。だからたとえば「狩猟民族」にあっては「こういう最低の社会状 態では,正式には主権者とか国家とかいうべきものがない」24)とされる。こ の場合,<私人>もまだ十分な意味では存在しないと言ってよいであろう。
スミスの文明史観では,狩猟社会→遊牧社会→農耕社会→製造業社会→商 業社会というルートが想定されている(第5編)。このうち農耕社会以降の 3者が文明社会と呼ばれる段階であった。
ところで,文明社会ではひとつの大きな逆説が発生するとスミスは論じ る。それは,「社会が進歩するにつれて戦争技術が高度化するのに,人々は 非好戦的になり,しかもその富裕は,隣国の侵略を誘発する」という逆説で ある25)。スミスによれば,遊牧民族の場合はあまり目立たないが,とりわけ 製造業という職種には暇がなく,軍事訓練をする余裕が,狩猟社会や遊牧社 会に比べて相対的に少ない。すると,文明社会のもとで製造業と商業は著し
は自然的自由を絶対視しないのである。慎重にスミスは社会全体の利益と<民間 人>の自然的自由とが矛盾する場合のことを考察していた。そして,そうした場 合には自然的自由よりも社会全体の安全を優先するのであった。スミスは,社会 全体の利益をあげるうえで<民間人>からなる市場の自然的自由を最大限に尊重 する人であったが同時に全体利益にとって不可欠と見る場合には,政府の制御を 認める立場をとっている。たとえば都市はただ市場メカニズムによって自由につ くられるのであってはならない。火災を免れるためにあらかじめ都市に隔壁を 作っておくような,現代でいえば都市計画にあたるような制御regulationが必要 とされる。スミスによればそれがたとえ自然的自由の侵害であると認められると しても,このような制御は積極的に必要である。
24)Ibid., p.652,訳480頁。
25)Ibid., p.656,訳486頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 143
く発展するのだから,製造業者や商人自身が同時に軍人となることはますま す困難になる。このことは,文明社会の富が発達してそれだけますます襲わ れるリスクを高めるという逆説を生むとスミスは言う。そしてこの問題を解 決するために国家は軍隊を整えることを迫られるというのである。
ところで<私人>は,文明社会の職業から見た場合,農民,製造業者,商 人である。彼らは軍人と区別された<民間人>である。そして彼らが富を増 やせば増やすほど襲われるリスクは高まるから,独自に軍人を訓練するため には,徴兵制を整えるか,職業軍人を雇うか選ばねばならない。
このように,スミスは市場と国家の関係を,分業論的な視点から民と軍の 対比でみており,しかも,この場合国防のために常備軍を組織することなし には,国民社会はその富を守りえないという原則をよく承知していた。だか ら,単純に軍縮すれば民の国富形成能力を拡大できる,というふうには考え ていない。
ここで,『道徳感情論』と『国富論』から国家論を引き出すとすれば,わ れわれは前者における国際平和の同感論的な立論が後者の国民社会ごとの経 済再生産論の深まりにしたがって論理的に限定されてくるとの印象を受け る。たとえば瞠目卓生氏は,『道徳感情論』においてスミスは社会と社会の 間には個人と個人との間と同じように,公平な観察者の判断基準が生まれ て,国際秩序が形成されることを基本的見解としていたと論じている。たし かに『道徳感情論』はその主題からして,社会の中での「公平な観察者」が 社会内在的に生まれることを立論していた。国際平和の邪魔になるのは外国 の国民にたいする偏見だけであるかのようにスミスが語る場面さえあった。
しかし,このことは公平な観察者が『国富論』の眼で見た場合にもその公平 さを発揮できることを必ずしも意味しない。
『国富論』の眼を介して考えると事情はまったく異なって見えてくる。国 際社会の平和は,あくまでも独立した社会independent societies相互の関係 に依存する。しかし,いまやスミスは分業論の眼で各文明諸社会を把握して おり,国民社会の投資の順序からすると安全性の高い国内産業から始めて外
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国貿易や植民地経営を後回しにすべきだとしていた。だが,それでも外国貿 易や植民地の富はまったく本国の不利益ばかりだというわけではなく,いわ ばケースバイケースなのであって,利益をもたらす場合もありうると考察さ れていた。
こうしていわば富の再生産構造を見る経済学の眼を介してみると,国家主 権は各国の富の力をそれぞれ守ろうとするために不可欠のものであり,自国 の武装は必ず近隣諸国の軍事化の競争を招き,独立した諸社会の安定は非武 装によってではなく,武装によらねばならないことになろう。「どんな国の 文明も,常備軍という手段によらないでは,永続することはできないし,あ るいは,相当の期間保持することさえできない」26)。これがスミスのリアル な軍事論的観点であった。
おわりに
以上考察してきたことを要約してみよう。最大の問題は『道徳感情論』と
『国富論』の関係である。なかでも両者の国際平和観は相互に矛盾するとま ではいわないとしても視角が違っていると言わざるをえない。前者で肯定さ れた「公平な観察者」の可能性はどこまでも道徳感情論的で,コスモポリタ ン的である,だが後者では富の再生産の構造の中でこの公平さは富のナショ ナルな差異を踏まえた軍事論と結びついている。
だから,のちにI・カント(17241804)が『永遠平和のために』1795で 論じたような国民主権ごとの軍縮による世界平和の保証という思想はスミス の『道徳感情論』とはある程度親和的であるといってよいかもしれない。し かしそれは,『国富論』とは相容れないもののように見える。いわんやカン トの世界共和国論はスミスにとってはユートピアに過ぎないであろう。スミ スはカントよりも早く亡くなったから『永久平和のために』の平和思想を知 ることはできなかったし,むしろ常備軍のもとでのほうが市民国家の自由は 26)Ibid., p.659,訳493頁。
スミスにおける<私人>概念の完成 145
有利に防衛されると述べていた27)。
さらに文明と軍事の関係をめぐって,こう述べる。
「近代の戦争では,火器に要する経費が大であるから,この経費を最もよくまか なえる国民が明らかに優位に立つ。また,したがって,富裕な文明国民は,貧乏 な野蛮国民より明らかに優位に立つ。古代には,富裕な文明国民は,貧乏な野蛮 国民にたいしてみずからを防衛することのむずかしさを思い知った。近代では,
貧乏な野蛮国民が,富裕な文明国民にたいしてみずからを防衛することの難しさ を思い知る。火器の発明は,一見はなはだ有害のように見える発明だが,これは 文明の永続と拡大の両方にとってたしかに好ましい」28)
もちろん火器(銃)の発明による常備軍の設置を近代国家の最重要な義務 とスミスは考えた。そしてスミスは富裕なヨーロッパ諸国民が貧乏な野蛮人 である,新大陸及び東インド諸国(地域)への侵略と攻撃とに突入したこ と,そして互いに競って植民地建設に進んだことを述べているのである。
このように考察してくるとスミスによる民間人private people概念の完成 の意味が見えてくる。端的に言えば,スミスは私人─国民国家─普遍的仁愛 の三層で世界社会をみたのだといえそうである。それは18世紀に私人の完 成にともなって出現した一種の近代世界システム論であった。だがそのかぎ りでは彼の眼は第二次大戦,およびその後における現代世界秩序にまで届い ていないであろうか。たとえば火器はいまや核兵器に達したが,しかも核保 有国家の大方が相対的に富裕な国民国家であって,相対的に富裕とは言えな い非核保有国を支配している現実を論じているかのように読めるのである。
スミスは,<民間人private people>のもつ力は次のような共時的な展開
27)Ibid., p.667,訳495頁。
28)Ibid., p.669,訳496頁。
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を辿ると考えていた。まず,富の発展は<民間人>の発展とともにあると考 えた。そして,<民間人>が生み出す富を国家が常備軍をもって守らねばな らないと考えた。ただし,国富の大きさは,常備軍を可能とさせるのだが,
それは生産的労働に対する非生産的労働の比率を上げすぎるものであっては ならないから,一定の上限を持ち,隣国からの侵略に備える点で一定比率以 下に下がってはならないという下限をもつであろう。この微妙な国内的(生 産的労働と非生産的労働の比率)および国際的(隣国の侵略を抑える最小限 の武力)バランスの中で,<民間人>の活動領域たる商業社会=市民社会は 展開する。これが基底的な民間社会a private societyの運動法則である。し かし,民間人は商業活動をつうじて世界に市場をひろげており,想像上の立 場の交換によって「普遍的な仁愛」という同感の抽象的なヒューマニズムを 近代の制約を受けながらはぐくむことはできるのである。
現代の眼でみつめるとき,スミスにはこのように一種の近代世界システム 論,つまり世界経済の中に複数の主権国家が存立するという見方を思わせる 理論的な視界がある。しかもいま,21世紀の5分の1が経過するときに,
世界的な広がりで見るならばスミスの近代世界システム論は基本的に有効に 生きており,様々な領域にこのエネルギーは及んでいると言えそうである。
しかし,そうであるからこそ,スミスの近代世界システム論は,本稿が着 目してきたように<民間人>概念の上に立脚するものだったことが改めて確 認されねばならない。当然ながら,ホッブズからロックをへてスミスに至る まで,イギリス自由主義の伝統の下においては,個人的なものと私的なもの は根源的に混同されている。すなわち<私人>と個人の同一視(認識上の混 同)は,まさに近代世界システムが派生させる概念的な混同であるというこ とを見逃すことはできない。近代社会は,個人と<私人>の同一性を強固に 制度化するような認識論的システムであり,個人が<私人>と矛盾したり,
それを超越することを許容しない,そうした体系(スミスの言う自然的自由 のシステム)なのである。
スミスは,<民間人>のなかに地主,雇用者,労働者という3階級を分類 スミスにおける<私人>概念の完成 147
しているが,これらの中に植民地の領地を所有し,国民から信頼される地位 や儲けをともなう地位をほしいままにする一握りの権力所有者たちが存在す ると見ている。この権力所有者のことをスミスは「ネーションの支配階 級」29)とよび,国民的利益から区別される特殊な「私益private interest」を もつとみなしている。
スミスによれば,<民間人>はそもそも独立した主権国家を,たとえそれ が重商主義を清算したとしても,いよいよ垂直的なピラミッド型の国家に変 えてゆく傾向を持つ。このことは,近代政治の中で宿命づけられた傾向で あった。ホッブズにおいて利己心と名声を追求する人間の私人的本性は社会 理論上大胆に肯定され,これなしには古代から中世までの旧共同態的な殻を 市民社会が打破することはできなかった。しかし私人の均等な平等性はいつ までも続きはしない。ロックは,この均等性を所有と労働の面から打ち破 り,アメリカの植民地化を合法とみなした。スミスは,イギリス自由主義の 国家論を正当に継承する位置にある。その際,ルソー的な小共和国の伝統は 否定されており,イギリス的な自由貿易の伝統は強化された。なぜという に,ルソーはあくまでも政治的シトワイアンとして連帯することなしに共和 国を維持することはできないと考えたのだが,スミスの見るところでは,そ うではないのである。分業の発展によって,<民間人>は土地所有者,雇用 者,労働者へと階級的に分かれていくが,同時に彼らは物質的にも道徳的に も共存しており,「一大社会a great society」はルソー的共感によって支え られる最小規模の社会とは異なって,階級間をわずかな同感で垂直的に結び 付け,自らの胎内から一定割合の軍人を輩出すれば富を増加させる自由にあ ずかるのである。これがスミスの見た文明国家の姿であった。
こうしてスミスによれば国家というパブリックなものの位置は,もはやシ トワイアンの次元にはなく,民間人が組織する経済的な次元,あるいはそう いってよければ階級的な次元に存在するのである。このことが,ルソーのシ トワイアン論をスミスが退けた国家論的な根拠であった。
29)Ibid., p.582,訳451頁。
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このように見ることができるならば,けっきょく次のことが問われるべき 根本問題とならざるをえない。すなわち,『道徳感情論』では公平な観察者 の存立可能性が追求された。『国富論』ではネーションにおける富の構造が 分析された。前者では万民の平和可能性が追求され,後者では,ネーション の富を防衛しあう諸国民の相克があらわとなった。では両者はけっきょく,
いかなる関係に置かれるのかと。
私の見るところ,スミスは『道徳感情論』において人類社会の形成可能性 を<私人>の内なる「普遍的仁愛」(「公平な観察者」の発展したヴァージョ ン)に求めた。しかし,これは,道徳感情がただ感情の次元で追究された限 りでの結論にすぎない。相手の置かれた立場を自分の立場に置き換えて他者 に同感するという理論だけで人類社会の共生を手繰り寄せることは本当のリ アリティをもちえないのである。
そこには「普遍的仁愛」を支える強力な経済的基盤が欠けている。『国富 論』は,どこまでもスミスの市民社会論のリアリティの追求の姿勢から平和 と戦争の問題を富の再生産の理論で再定義する。すると,富を互いに防衛し あう独立した国民社会の存在がいかに越えがたい限界となっているかが浮き ぼりとなって,世界経済の相互依存関係の中に複数の国家主権が埋め込まれ ているという構図,すなわちスミスなりの近代世界システム論が出てくるこ とになるであろう。「普遍的仁愛」はその外側でわずかに脈打つだけである。
スミスは,こうして,グロティウス(15831645)の『戦争と平和の法』
を,成長してきた<私人>をベースにした『道徳感情論』と富の再生産の理 論である『国富論』の総合において,つかみなおした人物であったことにな るであろう。もしこのように『道徳感情論』と『国富論』の関係をつかみう るとすれば,スミスからわれわれが受け継ぐ理論的課題はどこにあることに なるだろうか。
それは,『道徳感情論』における「普遍的仁愛」の積極的可能性が『国富 論』の近代世界システム論によってナショナルに遮断される事態をいかにし て積極的に乗り越えうるのか,という理論的な課題である。あえて言えば,
スミスにおける<私人>概念の完成 149
国際平和に対する積極的志向性を持つ『道徳感情論』によって『国富論』を 包摂し返すことは果たして可能かということ,ここに現代の真剣な理論的課 題があろう。もちろんそれはスミスの議論をふまえてのことでなくてはなら ない。しかし,スミス自身はこの課題を潜在的に暗示したまでのことであっ て,明示的に問うことはなかった。18世紀に諸国民ネーションズの富が問 われる時代は近代世界システムを形成する途上であったからだ。この意味で スミスにとって,諸国民の富が研究課題となることは避けがたかった。
裏から見れば,スミスによる<民間人>概念の完成は,<民間人>が近代 世界システムとともにあるということを論証するものであった。このシステ ムの枠内にある限りスミスは,われわれの近代的同時代人である。スミスが 現代に向かって理論的に提起し,そしてまた実践的に促してもいるのは,近 代世界システムと<民間人>の同一性という事態そのものの是非である。<
民間人>の超克は,スミスの提起した近代世界システムを超克することなし には実現されえないのである。
(たけうち・ますみ/社会学部教授/2021年5月26日受理)
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A. Smithʼs Completion of the Concept of “Private Man
TAKEUCHI Masumi
A. Smith (17241790) developed the concept of “private man” and completed it in the form of “private people.” The term private man is used in The Theory of Moral Sentiments (1759) and contains not only lateral relations but also vertical ones. Social order can be founded upon the respect which the poor naturally conceive for the rich. Smith pointed out that the “state or sovereignty in which we have been born and educated, is, in ordinary cases, the greatest society upon whose happiness or misery our conduct can have much influence.” But he also referred to the possibility of the extension of universal benevolence, which can serve as a concept for international peace derived from sympathy.
In Wealth of Nations (1776), he further developed the concept wherein the “private man” takes actions related to economic production and reproduction, and relations among private men are joined together by the invisible hand. This leads to the concept of private people, which provides for the autonomy of the economic sphere.
Adding to this, I examine the relation between private people and soldiers. To protect the wealth of the nation, private people depend on soldiers, but maintaining too many soldiers burdens the development of wealth. As seen from this perspective, Smith may be identified as an early thinker in the field of modern world-systems theory. The challenging subject remains as how to reconcile the principle of universal benevolence for international peace with national defense for the preservation of the wealth of nations.
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