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二豊のユウジャク : 現地調査の方法による中世村落 史研究への試み

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

二豊のユウジャク : 現地調査の方法による中世村落 史研究への試み

服部, 英雄

九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授 : 日本史

http://hdl.handle.net/2324/17769

出版情報:大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館研究紀要. 5, pp.11-107, 1988-03-31. 大分県立宇佐 風土記の丘歴史民俗資料館

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権利関係:

(2)

一現地調査の方法による中世村落史研究への試み一

服 部  英 雄 はじめに

 5年間に亘る田副官調査は多大な成果を収め、既に学界でも高い評価を受けている。田 面荘調査における最大の特色は中世村落の景観復原に地名や耕地・用水路の調査が大きな 役割をはたしたことである。そこで私もこの田染荘の調査にならい、たとえ田染荘ほどの 中世古文書群には恵まれていなくとも、中世的な遺制を手がかりとして、各地域における 中世耕地景観を復原することはできないものかと考えた。

 多数刊行されている地方史(市町村史)、特にその中世部分を拓いてみると、一部には 中央史、即ち源平内乱にはじまり鎌倉や京都でおきた事件の記述に終始しているものも 少 なからずある。しかしそれぞれめ地域地域が確実に中世を体験してきた以上、地方史はそ の地域に密着した中世史をまず記述すべきだと考える。確かに地域における中世の文献は 少なく、時には皆無の場合もあるだろうが、それぞれの地域に中世が存在した以上は、必 ず何らかの遺制や遺物が残存しているはずである。

 そこで本稿では中世的遺制としての中世地名を素材とする。中世に城や館があったとこ ろは、のち城や館がなくなっても城山とか堀の内と呼ばれつづけた。中世地名、つまりこ のように中世のみに本来の語義に即して使われて、その後は本来の意味を失ないつつも無 意識に踏襲されて今日に残存した地名を、歴史資料として採用するのである。

 田染荘調査においては相原地区における聞取の結果、本谷の小字沖台の内の小地名とし て「ユウジャク」が検出された。ユウジャクとは即ち用作であり、中世における領主の直 営田を意味するといわれている。数多くある中世地名のうち、とりわけ本稿ではこの「用 作」地名に着目したい。用作は地名としては普通「ユウジャク」あるいは「ヨウジャク」

と発音される。「ヨウ」が「ユウ」となることは関東地方で要害を「ユウガイ」と呼び、

沖縄で「ユードレ」「ヨードレ」(墳墓)を混用し、豊前地方で「ヨウサ」(夜・晩方)を

「ユウサ」といい、古文書に用水を「ゆ水」と表記するように、全国でしばしばみられる が、ユ音とヨ音の中間音があったように思われる。また「ザク」と「ジャク」の混用も朱 雀(スザク、スジャク)、短冊・短尺(タンザク、タンジャク)のようにしばしばみられ

ll

(3)

る。

 用作は中世の領主クラスのものの直営田で、領主等が自分の下人を使って耕作させた手 作地である。つまり一般農民の耕作する水田ではなく、領主自身の特別な水田であり、従 って一般の水田よりは優良田であったと考えられる。

       ヨウジャク

 大分県の場合、現在知り得る限り、小字としての用作地名が41ヶ所に存在し、他にも田 染荘のように小字内地名としての素直地名が存在する。また福岡県のうち豊前には29ヶ 所の小字用作があり、山口県の場合は防長併せて38ヶ所で用作地名が確認できる。

 ※ 大分県の小字名検出はA『角川大分県地名辞典』巻末小字一覧、B染矢多喜男『地   名覚書』によった。両者を比較すると、表1一⑯中尾・遊心はAにあるがBになく、

  逆に下毛郡・宇佐郡の大半はBにあるがAにはない。またBが臼杵市戸室の友石をユ   ウジャクとするのはトモイシの誤りである。またr前津江村史』にはA、B以外の用   作地名が記されている。次に福岡県については『福岡県史資料』所収明治15年小字名   調により、また山口県については山口県地名研究所・高橋文雄氏の御教示によった。

 このように北九州一帯、周防灘周辺にはユウジャク地名がきわめて多いのであるが、し かし全国、平均的に一県あたり30ヶ所以上のユウジャク地名があるという訳ではない。

関東地方にはユウジャク地名は殆どなく、代わりに「御正作」、即ちミショウサク、ミソ サク、ミソザクと発音する地名がみられる。そして逆に九州には御正作地名は殆ど聞かな い。また佃という地名も東国には多いが、大分県には比較的少なく、代わりに門田(モン デン、カドタ)という地名はかなり多いように思う。畿内では正作と思われる「ショウジ ャク」地名や、佃地名が多いが、ユウジャク地名はあまり聞かない。従って周防灘に面し て山口県、福岡県、大分県にユウジャク地名が多いことは一つの地域的特色ともいえそう である。『鎌倉遺文』等を読んでみても「用作」の語は比較的九州で多く使用されていた

という印象をうけるが、地名の分布もこうした事情に対応するといえよう。

 さて私がはじめてこのユウジャクという地名を知ったのはいつの事か、はっきりした記 憶はないが、多分角川新書・鏡味完二『日本の地名』巻末にあった日本地名小辞典で知っ たのが最初と思う。この本は昭和39年忌刊行されているが、その2年前、昭和37年に 刊行されたのが染矢多喜男『地名覚書』(いずみ書房)である(角川の『日本の地名』巻 末辞典は引用地名等をみると染矢氏著書の成果を活用したものと思われる)。

 大分県ではきわめて古くから「ユウジャク」地名が中世の用作を意味していることが知 られていたようである。私も10年近く前、大野荘故地を訪問した折、渡辺澄夫先生の大野 荘史料解説を読んで朝地・用作公園に行った記憶はあるが、但し当時の下作への関心は究 めて漠然としたものであった。

 私自身の用作地名への関心が強まったのは山口県山口市仁保村を調査した時からである。

12一

(4)

仁保村は仁保荘という荘園の故地で、三浦文書(r大日本古文書』)によって地頭平子氏の 惣領制や領主制の様子がかなり詳しくわかるが、ここには用作(養着)という地名がちょ

うど地頭の惣領館や、庶子の地頭のいた村に残在し、あたかも系図にみえる一族の各村へ の配置に対応するように分布していた(「地名を中心とした荘園景観の復原」〈『月刊歴史 教育』1981 一6>)。

 それ以来私はこうした用作地名がまさしく中世地名であり、歴史資料として有効に使え るのではないかと考えた。以下はこのような考え方に立ち豊前、豊後、即ち二豊のユウジ ャクについて調査を行なった結果の報告である。なお大分県分の用作地名調査は大半が宇 佐風土記の丘歴史民俗資料館・海老澤衷氏の御案内で共同で踏査したものである。

 さて表1〜2(102〜103頁)は二豊のユウジャクを大分県分、福岡県分毎にそれぞれ分 類してみたものである。分類にあたってはまず④中世的形態をよくとどめているものと、

逆に⑧近世以降の大規模井路開発等によって近世的景観の中に埋没してしまったものとに 大別した。前者の場合は近世以降の大規模開発はなかっだことになり、中世的耕地景観の イメージを作りやすい。後者の場合は近世に付加された要素(大規模用水〈井路〉等)を 消去していくことによって、中世的景観に遡及することができる。

 次に水田を乾田、即ち麦作も可能な水田と、湿田、即ち二毛作が不可能な一毛作田とに 分類した。他に水田としての復原は困難で、むしろ用事畠に由来する地名の可能性のある

ものも別途分類してみた。

 勿論こうした分類はきわめて便宜的なものであるが、以下この分類により、各部毎にヨ ウジャク、ユウジャクをみていくことにしたい。

(調査箇所は50ケ所に及び膨大なレポート量となるが、調査記録下意味あいもあるので 敢えて調査済箇所は全て報告する。各地域、各タイプの歴史的特色をよく示しているもの

は、大分③、⑧、⑭、⑯、⑰、福岡①、③、⑩、⑭、⑮、⑳等であろう)。

第1部 大 分 県

   その1  豊 前 国

(1) 下毛郡

        やまうつり しもうたに    ゆうじゃく

  ①耶馬渓町山移(下底谷)の真作

 名勝耶馬渓の景観を特色づける岩壁耶馬の間の急斜面をぬう道を登りきると、そこには       ももたに

高原状の小平原がひろがっている。そしてその小平原を流れる小渓流・百谷川に沿って谷

       しもうたに       ゆうじゅく      のうそい

水田が開ける。下百谷のうち百谷川の下流部右岸を用作、左岸を野添と呼ぶ。用作内には

一13 一・

(5)

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〈耶馬渓町山移(下四谷)の用作〉

一14 ・一

(6)

       さこ だ

さらに谷水田(迫田)が発達し、南側は所田代 という字名に隣接する(柳田国男『地名の研究』

は田代を開拓予定地の意としている)。野作は 迫田の部分は天水田、百谷川沿いの部分は百谷 川に設けられた用作井堰のかかりとなっている。

井手がかりは約5反である。下百谷全体の水田 自身は百谷川上流右岸の庁内に独自の溜池を有 しているが、その水は用作にまではかからず、

その手前までを灌概している。溜池建設時に用

       〈山移・下百谷の用作〉

作井堰の水が比較的豊富であったことを示すものであろう。

 用作井堰のわずか上流には用作全体を保護iするように幅約3メートル、長さ約15メー トルほどに亘って小堤防(土手)が築かれている。こうした堤防は周辺にはみられないが、

用作のみが特別に保護されていたことを示すのであろうか。用作の反当収量は昔でも約7 俵、実質的には良田であった。(聞取調査・塩田朝太郎氏〈大2生〉より)

       かくら   ゆうじゃく

  ②耶馬渓町山移(鹿倉)の用作

      ゆうじゃく

 大字山移には①下百谷の用作の他、今一・ヶ所鹿倉にも用作がある。現地は①同様、耶馬 渓々谷を刻む山国川からははるかに高く標高400メートル、川からの堵高250メート

      か くらルの準高原である。このような高地における鹿倉地名はおそらく中世文書にしばしばみえ

 かりくら

る狩倉に由来するものと思われる。(柳田国男「後狩詞記」〈『定体柳田国男全集』27>に よれば日向椎葉ではカクラとは猪の潜伏する区域をいい、カクラ山には御神が祭られた。

柳田は「カクラ」は狩倉と同義なるべしとしている)。用作は行政上は大字山下にあって

       かぐま    ごうしき  はいたに

山回鹿倉の農民が耕作するが、実は大字下郷の鹿熊、同引敷、灰谷の人家からも等距離に あって、それぞれの家の農民も耕作している。

 現在は猪等の獣害や過疎化により耕作放棄され山林となっているが、鹿熊からいえば前 田から堂の先、峠と順次のぼっていく谷水田の、さらに峠の先の下りかけたところがユウ ジャクで、さらに谷水田が続いて鹿倉に到っているのである。これらの水田にあって、ユ ウジャクは比較的広い水田で、小字峠にあった用作専用の溜池のかかりとなっていた。こ の池は一度水を出してもなお一定して水が出るところで、山つきだから水が不足すること        せはなかった。反収をみると鹿熊の前田が反収6・7俵、20年に一度は「匿うち」(反当 10俵)となる上田であったのに対し、用作はそれより落ちて反当5・6俵だったという。

 鹿熊一帯は「かんの」即ち山焼をして植林し、その間に1年目はそば、2年目は小豆、

3年目は里芋を植える焼畑の形態が遅くまで残存する地域であったが、昭和40年代以降

一15 一.

(7)

過疎化のため「かんの」をするのに十分なだけの加勢を確保できなくなっただめ、現在は 行なっていないという。焼畑地帯における僅少な水田のうち、水源が安定し、かつ山間部 にしては広い面積をもつ田が用作として選ばれたものであろう。

  (聞取調査・倉本角蔵氏〈鹿倉〉、後藤しげ子氏〈合敷〉、藤野善則暴く鹿熊〉より)

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〈山移・鹿倉の用作〉

一16一

(8)

        つたみ       ユウジャク

  ③耶馬渓町津民・大野(浦山)の直作

 津民心に沿って水田が広がるが、大野の浦山はそうした水田がもっとも開けた平坦地で        ユウジャクある。水がかりは1キロ上流落合に取水口のある大野井手である。用作は日あたりがよい 上に土地が深く、一帯では反当収量の最も多い最上田(乾田)で、昭和59年で反収10 俵ほど、隣…接する小字前田の場合は良田ではあるが、土地がやや浅いため用作よりは落ち       しんちて反収8俵ほどである。大野井手の開墾年時は未詳だが、この用作の少し上で新地方面を 灌面する井手(上方の井手)と大野方面を灌面する本井手(下方の井手)とに分岐し、本 井手は1キロ下流まで底豆する。

 用作は早霜知らずというが、大野井手の原形が中世にも存在したことは疑いあるまい。

のちになって用水堰の取水技術が向上した段階に新地(大野の上方)方面にも水を供給で きるよう、新田用水が開発されたものであろう。

 なお大野の一帯は中世には山国郷に属し、宇都宮系図(r大宰管内志』)は宇都宮重房が 津田見(津民)を領したとする。実際、中世の文献に、

 山国相内本名得光内名田一丁二反井代(到津文書、『鎌倉遺文』1−512>

 豊前国下毛郡山前郷得永名井堀村(野仲文書、『南北朝遺文』九州編3−2591)

 山国江渕村井覇王唐名(新田盛祥氏所蔵文書、『南北朝遺文』同3−2976)

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等とみえているが、得光は耶馬渓町城井平田に字得道が、井堀は同じ平田に1ヶ所、また 下郷宮園にも1ヶ所字井堀が、江渕は同じ宮園に江渕及び字句ブチノ上が、また得雪丸は 津南の川原口、両立に字トクオ及びトクオの上があり、山国川及び支流自民川沿いに山国 郷関係の中世地名が残存する。

 また宇都宮重房(野仲氏)が勧請したと伝える神社は本名白光名のあった前掲平田に建 久9(1198)年鎌倉よりの勧請という鶴岡八幡宮があり、山国町中摩の亀岡八幡宮も 建久3(1192>年鎌倉よりの勧請という。

そして自民川に沿ってこの用作のある大野にも 応永元(1394>年長岩屋城主野仲能登守弘 道の勧請という鶴岡八幡宮(大野八幡宮)があ り、勧請時の行事に由来するやんさ餅神事で知 られている。また宇都宮・野仲氏が藤原姓であ ったことから、大野の対岸、中畑には藤原神社、

さらに奥の川原口、両午には春日神社が勧請さ れている。両午は得白丸名推定地でもあったが、

天正16(1588)年黒田長政に攻められ、 〈津民・大野の用作〉

一17 ・一

(9)

〈津民・大野の用作〉

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(10)

野中鎮兼ら一族が滅亡することになった長岩屋城はこの両午のうち、南の総見山に城跡が 残っている。

 なお大野には字堀の内があり、領主と推定される野仲氏の一流の館跡の有力推定地であ る。用作とも近く、堀の内の人が浦山・用作周辺の田を耕作することもあるという。

 用作・前田に隣接して宮の本、宮添の小字がある。あるいはかって古社が存在したもの だろうか。(聞取調査・浦山好文氏、浦山なつよさんく明44生〉より)

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      〈耶馬渓町の中世地名と野仲氏関連遺跡〉

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(11)

お し が た わ ゅうじゃく

④  山田町長尾野(大石峠)の遊雀

お や ま

三尾山(ー尺八寸山)からの豊富な水を集め て流れる上志川に沿って大石峠の集落がある

o

遊雀は集落の下方、右岸の耕地と山林であるO

一帯は標高約

450

メートル、分水嶺にも近く 傾斜がきつく、石垣によって棚田が形成される 近世的景観が顕著である

o

井堰は上志川の水を 石で堰いており、遊雀

5

反程にかかる

O

反当は 戦前で

7

俵程、このあたりでは平均的な水田と

いう

O

中世的な迫田を近世に棚田として改造し 〈大石峠の遊雀〉

耕地拡大をはかったものであろうか。(聞取調査・長尾吉丸氏 〈明

4 3

生〉より)

もりざね

⑤  山国町上守実・上志川のユウジャク

④大石峠遊雀の

2

キロ程下流に上志川のユウジヤクがある

O

標高約

300

メートル弱で あり、狭隆だった大石峠に較べれば平坦地水田も多し、。しかし山腹にかけて、やはりこの 地にも近世的棚田景観がかなり高い所にまで広がっている。ユウジャクはこの

2

種の水田 のうち上志川沿いの平坦地にあって前者に属し、田積3反ほどの字名となっているO

上志)1

1

からの用水は上流から右岸・竹の下井手が字清水川約 1町に、つづいてユウジャ ク井手が右岸、字ユウジャク、クロジ、辻の下等約

1

5

6

反に、つづいて水天宮井手 が左岸・字善定寺約

1

2

反にかかり それぞれ河川沿いの平坦地ならびに棚田の両方を 濯概しているO 一帯で良固とされるのは善定寺とユウジャク井手のかかり、悪いとされる

(

切)

のは上流清水川、秋桐、きたのへら等である。

ユウジャクはユウジャク井手の取入口に最も近接した水田で、あった。思うにユウジャク 井手が等高線とほぼ平行に流れて棚田をも濯 慨するようになる以前には ユウジャク井手

〈上守実ユウジャク〉

は今少し自然、流に近い形で流下する原始的な 井手で、かかりも上志川に沿った平坦部のみ だったのではなかろうか。そうした景観が中 世的耕地景観であって 一方棚田が形成され るようになるのは、他の大分県内の棚田同様、

石垣築造技術や濯概用水の掘削・管理技術、

井堰における取水技術が向上した近世以降の ことのように思われた。

(聞取調査・横山富三氏〈明

3 1

生〉より)

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〈大石峠の遊雀・.上守実のユウジャク〉

一21一

(13)

      つきのき       ジャク

  ⑥山国町槻木・苅屋のユウ若

 山国川の一支流藤原川の藤原・苅屋の中間左岸山林中にユウ若があった。小字集成図に よると藤原川の右岸水田は三原、左岸は三三、惰若(ユフジャク)、そして山林部のユウ

      ア セ  リ

若が入って続いて水田部・阿世理と連続している。現在の水田は阿世理のみで、人々の意 識でもユウ若は山林と考えられている。

 ユウ若は広く、まん中あたりに屋敷跡がある。亡くなった苅屋氏のおじいさんの話では 三軒家があって、林業のかたがた粟、きび、稗を作っていたが、おち人の末派といわれ、

おじいさんは「在におる人じゃない」といっておられたという。いわゆる木地師の集落だ ったのだろう。槻木一帯には木地師の活動の場が多く、「近江国愛知郡…」「小椋…」と記 される墓碑もあるとのことだが、「あまり長くおったんではなかろう」とのことで、ユウ ジャクの屋敷の場合は短期間の居住場所と考えられる。

 ユウジャクは上の方になるとナリコがよく(でいら、平地がある)、ナリコのよいとこ ろで5反ほどあり、ダンダンがあったから水田か畑があったはずである(水の便もあった)。

       せい

但し昭和35年に45年生の杉を伐採したというから、大正期には既に杉林であった。

 一方阿世理はかなり後まで水田であった。谷水利用で旱魅知らず、苅屋の衆が耕作して いた。焼畑は昭和25年頃まで行なったというが、伐採後植林までの短期間であった。

 従ってユウジャクについては次のように二通りに考えられる。まず阿世理に続くかつて

   ユウジャク

の水田三二が地名の起源であり、谷水田がその本来の形態であると考えることが第一、第 二には逆にユウジャクの起源を山林内の旧田畑と考えることで、この場合の用作は用作畠 の可能性もある。(聞取調査・苅屋次生氏〈大6回目より)

(皿) 宇佐郡

       かみもとしげ ゆうじゃく

  ⑦宇佐市四日市町上元重の下作

 元重には中世文書・丁重文書(『大分県史料』所収)が残り、特に文明元(1469)

年元重清親譲状や永禄10(1567)年元重鎮清譲状に記された耕地々名によって中世後       (後)

期の耕地景観が復原できる。即ちこれらの史料に記された耕地々名のうち、江子、竹の下、

(栗)      (貞政)    (打上)      (間安)  (馬場)

クリカ坪、行末、中ノ坪、神田、カチヤ(屋号)、サタマサ、ウチアカリ、マヤス、ハハ、

    く ラ

大鳥井、マカリ、柳ノ下、貴船など多数が小字名ほかとして現存しているからである。元 重の水田は伊呂波川の左岸内田と、右岸外田(うわで)に分かれるが、これら文明・永禄 の譲状に記される耕地はそれらの全般に及んでおり、分布のみみれば圃場整備直前まであ った耕地と大差はない。

      おぐらのいけ

 但し慶長12(1607)年細川忠興によって作られた郡内第一の小倉池は元重村の水

一22一

(14)

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空ケ平

押場

野田

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轟前

貝盛    段久保

高内

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    上ノ平

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係    一木鶴

古畑

官林

上惣見 下原

〈槻木のユウ若〉

一23一

(15)

利状況安定化に大きな影響を与えたものと推測される。

         うわで

 さて元宮の試作は外田にあり、鎮守若八幡の南東にある。小倉池のまわし溝がめぐって

   みずくるま

おり、水車でしゃくって入れることができたが、用作の正規の水利権は末村井堰にあった。

       みずきゅうこの井堰は末村木内橋の下流でとり入れ、2キロ程を流下してくるが、水吐(水利費)が 普通の2〜3倍と高い上に、虚心は末村の水下になるため引水に苦労し、自賠もしばしば 実施した。用作はこの井堰の末にあたり、小倉池のまわし溝の上を長い石製の樋を渡して 引水し、さらにその余り水が栗ヶ坪に落ちた。

      うち で       うわで

 元重の田は内田がよく、とくまい(小作料)も外田より1俵ほど高かったが、外田にあ る出作も水の回りが悪いという他は米もよく出来、戦前で8俵程、乾田で中くらいの田だ

     かん がいけ

った。また鐘ヶ池という黒田時代(天正15〜慶長5〈1587〜1600>年)に作ら

       とおりやまれたという池があり(『宇佐市史』)、末村井堰がかりの岱山、竹ん下等の灌概を補助した

(現在は埋立)。

 用土は小倉池が出来る以前の良田といえよう。なお用作に近接して字竹の下や鎮守若八 幡があることから、周辺に領主館が存在したことが考えられよう。また元重の村名自身

「宇佐郡横山浦・白重名」に由来するものであるが、貞政・行末等も名地名といえよう。

       せきぐち

  (聞取調査・川谷省吾氏〈明42生〉、面白敏幸氏〈大10生〉、橋詰邦利氏〈昭4生〉より)

       かみたか  ようじゃく

  ⑧宇佐市四日市町上高の用尺

『宇佐大鏡』は、

  宇佐郡高家・辛嶋両郷前平田別符

   件別符者本荒野也、而大宮司公通宿祢開発之私領也

と記している。この公通開発の平田別符内に吉松名があり、また吉松を苗字とする宇佐大 宮司家の一流があった(北面蔵文書・『鎌倉遺文』26−20002ほか広崎文書等)。

       ようじゃく吉松の地名は宇佐市四日市町に現存するが、それに隣接して大字上高(中村)の用尺があ

った。

       やっかん

 上高・用尺は駅館川より取水する平田井堰の灌概によっている。その平田井堰は保元元

(1156)年宇佐大宮司公通によって開墾されたとの伝承をもつ。即ち鷹栖観音堂に参 籠した公通が夢想によって白木の筥の流れついた土地に井堰を設け、その筥より這い出し        き いた12匹の白蛇のあとを水路とした。蛇は2筋が吉松、2筋が城井、8筋が森山・公通館の 北で止まり、それぞれ有瀬神社、成吉神社、蛇田神社に祭って平田井堰鎮護神としたとい うのである(『大宇佐郡史論』、 『大分県土地改良史』)。この伝承はかなり現実の用水管 理と密着しており、旧平田井堰水利組合では33ヶ如水年貢から蛇田神社、有瀬神社等に祭 祀料を奉納し、公通公の墓所のある安楽院にも線香料を出すほか、鷹栖観音堂の住侶が観

一24一

(16)

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〈上元重の用作〉

一25一

(17)

音経をあげて井堰がかりの村々をまわると、耕 作者は米を出し、その礼に箸をもらう慣例があ

るとし、う。

また白蛇伝説については測量技術がない時代 の水路の決め方の方法として また平田水路が

「えご状

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(曲折していること)になっている ことの理由として説明されており、一方公通公 館(安楽院)の化粧水としてヲ│かれたという伝

承もある

O

〈上高の用尺〉

平田井堰は近世の用水のように台地の最高部や斜面地(急崖地)を通過することは少な く、比較的低地形を通過しており、部分的には駅館川旧河道や中小河川を利用しつつ、そやっかん

れらを接合させているように思われる

O

測量技術の未熟な時代における大規模用水の特色 はいくつかの小規模河川の接合にあるが 洪水時における溢水流下等からの経験的判断も 大いに寄与したものであろうO そのことが白蛇伝説につながったものと考えるO

してみると、森山・城井・吉松を流れる水路が当初の平田井堰であったということにな る。 8匹、 2匹、 2匹という蛇の数は、あるいはその取水量に対応するものであろうか。

ところで『大分県土地改良史』、 『宇佐市史』によると平田井堰の濯概水域は当初

1 4 0

町、 渠長

3

里であったものが、慶長年間には

6 5 4

町に拡がり、明治

1 0

年も同じ面積であったが、

圃場整備直前(宇佐土地改良区統合以前)では 1

200

町、渠長

7

里 1

5

丁だったという

O

当初の瀧減水域は近代の

10

分の

1

であり、近代の平田井堰がかりの中には当初からの古 受益地と、慶長における新受益地と、明治以降の新々受益地が

1

3

5

の割合で存在し ていたことになる。

平田井堰には主な幹線が八幡幹線(森山を経て乙女池へ)、下高幹線(上高家へ)、糸口 幹線を経由しての高家幹線(下高家へ)、天津幹線(宮熊へ)の

5

線あるが、森山・蛇田 神社を通過しているのは八幡幹線であるO 現在は蛇田神社よりもさらに北方に延びてはし、

るが、公通館跡と伝承され、また公通墓所もある安楽院横を通過するこの水路は、まさに 公通開撃水路にふさわしし、。また有瀬神社・成吉神社の前で終わる用水はないが、下高幹 線の分岐する三郎丸分水口 及び城井・吉村を濯慨する宮の鼻線が分岐する宮の鼻分水口 は、それぞれ有瀬神社・成吉神社の境内にきわめて近接している

o

平田井堰は伝承によっても 『宇佐大鏡』の記述によっても宇佐大宮司公通によってそ の原形が作られた可能性が濃厚だが それは現在の

5

幹線のうち、八幡幹線と下高幹線の 一部、及び前者八幡幹線より分流する宮の鼻幹線の一部だったものと考えたい。

‑26‑

(18)

 ところで有瀬神社、成吉神社。位置については今一点その地形的特色にも注目したい。

      おおつきわけ即ち有瀬神社の南方500メートルに八幡幹線と糸口幹線を分ける三二別がある。実はこ の大突別より自然地形は東に低くなっているのだが、八幡幹線は北方に、糸口幹線は北西 に向かうのである。即ち大回別はその横の道路の位置で標高15.4メートル、それより 東200メートルには標高14メートルの等高線があるが、両幹線はいずれも標高16メ ートル、部分的には17メートルの微高地を掘り割って進んでいるのである(八幡幹線の 両側は水田ではなく畑となっている)。

       さかみぞ

 この大二二の北方、台地上の小字を阪溝というが、まさしく逆溝、即ち高い方に進む水 路の意であろう。500メートルに及ぶこの堀り割水路、逆溝が終わり、再び低地形に入 る位置にあるのが有瀬神社で、その北東400メートルに成吉神社がある。私はこの両神 社を、逆溝の難工事に関連するものと考えている。

 ところで嘉暦…2(1327)年3月日の辛島二二三島上貫妻藤原氏女解状(辛島文書・

      たけい『大分県史料』2)に、神官証判を請うた宇佐郡高家・葛原二郷内高村の田畠屋敷荒野中、

荒野3ヶ所として「糸口・行助保多手垣・逆溝」がみえている。高村(上高・下高)にあ った二二とは、まさしくこの吉松字三二に相違ない。

 平田井堰の草創に関しては伝承史料と『宇佐大鏡』の間接記事以外には史料はなかった が、少なくとも鎌倉末期・嘉暦年間には逆溝を経由する八幡幹線が存在していたことを、

この文献史料は語ってくれよう。

 さてこのように伝承等を素材として考えると、大乱別より西に分流する糸口幹線は当初 からのものではなく、二次的開墾によるものではないかと考えられるのだが、実は下高・

中村の用尺はこの糸口幹線の最初の分水口、本田山(掘太山)分水口からの枝流、柳ヶ坪 線のかかりとなっているのである。つまり保元の井堰開通後も中村用尺については平田井 堰のかかりではなかった可能性も生じてくるのである。

 ところで宇佐辛島文書(『大分県史料』2)には高村(上高・下高)周辺の中世の状況 を知り得る史料がいくつかあるので検討してみよう。上高・用尺に隣…接して吉松字中園が ある。現在(圃場整i備前)は全て水田であるが、正応5(1292)年の藤原基山寄進状 によれば「高村土器給免有次名内字中園屋敷一所」が持仏堂地に寄進されている。今日の 水田地に屋敷があったことが考えられよう。

 嘉暦2(1327)年の藤i原三女・辛島社司三二並貫寄進状では辛島・葛原三郷内田畠 屋敷として「田中内外一所屋敷」「スミカキー所三段旧地」が二三寺に寄進されている。

田中は上高の、スミカキは城井の小字として残存するが、いずれも全て水田で屋敷地、畠 地はない。今日の水田地3ケ所いずれも鎌倉末期には水田化されていなかったことが明ら

一27一

参照

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