研究論文
戦前期日本のニューギニアへの進出と日本人移民の歴史
―小嶺磯吉と細谷十太郎を中心として
丹 野 勲
はじめに
本稿は、明治から戦前昭和期までのニューギ ニアへの日本の進出と日本人移民の歴史につい て、小嶺磯吉と細谷十太郎を中心として論じる。
戦前期の日本人のニューギニアへの移民につ いては、ほとんど知られていない。明治の初期 からニューギニアへ、人数は少ないが日本人が 移民していた。本稿では、ニューギニア日本人 移民の先駆者であり、その後の日本人移民に大 きな影響を与えた小嶺磯吉と細谷十太郎という 2人の人物を取り上げる。その2人を通して戦 前期日本のニューギニアへの進出について考え ていきたい。両名については、日本において数 は少ないが、史料や文書が当時の外務省文書と して、また政府機関報告書、著書、雑誌、新聞 などにもニューギニアでの活躍についての記録 が残っている。特に、小嶺磯吉については、オー ストラリアの重要な歴史的出来事に関与したこ とから、オーストラリアにおいても外交文書に その記録が残っている。このようなことから、
本稿では、可能な限り、歴史史料、外務省史料、
本人が記していた文書などを収集して分析する。
歴史的にみると、戦前期のニューギニア は、主要列国の主要な拠点の一つであった。ま た、地政学的にも重要な地域であった。戦前の ニューギニアの政治状況は、当時の植民地覇権 争いの中で、オランダ領、ドイツ領、イギリス 領という、3大国により分割され統治されてい た。戦前まで、オランダ領ニューギニア(現在 のインドネシアのイリアンジャヤ州)は、オラ ンダによる統治がされていた。第1次大戦でド
イツが敗れると、ドイツ領はオーストラリア委 任統治領となり、後にイギリス領はオーストラ リア領(オーストラリア委任統治領とオースト ラリア領は現在のパプアニューギニア国)と なった。このように、ニューギニアは大国の覇 権争いに翻弄された歴史を持つ。
戦前期においてニューギニアは南洋日本人移 民の1つの拠点であった。ニューギニアは日本 が統治していた南洋群島とオーストラリアの間 に位置することから、地理的・戦略的にも重要 な地域であった。当時、オーストラリアの木曜 島などのアラフラ海地域で、真珠貝採取など の水産業への日本人移民が多かったことから、
ニューギニアへの関心も高かった。
戦前期のニューギニア日本人移民は、オース トラリア領ではニューブリテン島のラバウルが、
オランダ領では西部ではマノクワリ地方が中心 であった。日本人移民は、栽培、農園、水産、
造船、小売、貿易などを行っていた。
著者は、本年パプアニューギニア国の首都 ポートモレスビーを訪れた。ポートモレスビー は、近代化されつつあるが、伝統的なパプア社 会の姿がまだ色濃く残っているという印象で あった。
本稿では、主に小嶺磯吉と細谷十太郎という 2人の人物を通して、戦前期の日本のニューギ ニアへ進出について考察する。
1.明治維新後の日本のニューギニアへの 関心と先駆者
(1)榎本武揚と南洋群島、ニューギニアへの 進出
日本がニューギニアに関心を持ち始めたのは、
明治10年前後のようである。幕末明治に活躍 し、日本の海外移民推進の先駆者であった榎本 武揚は、明治26年2月号の「植民協会報告」第 1号で、以下のような述懐談を述べている(1)。 『今を去る十六七年前、我が小笠原島の島続 きとも称すべき西班牙(スペイン)領の、マリ アナ群島及びカロライン島を買上げ、尚進んで ニューギニヤの一部に植民を試みんとする意見 を建議する人がありましたが行はれなかった 由、その後ボルネオの北海岸にして、我九州地 方と伯仲すべきサバ―(サワラク)と称す土領 を1百50万円にて、その領主たるウエルネー 及びスルーの酋長より譲り受け得べき機会があ りまして、時の内閣に謀りました人があったが、
不幸にして其の言は用ひられなんだと申しま す。』
入江寅次(1942)は、「マリアナ、カロライ ン両群島買上げを決議した者があるということ は、この群島が売り物に出たか、売物の程でな くても、少なくとも買収の出来る状況にあった ことを証拠立てる。(中略)しかし当時は、こ のような話はそう珍しいことではなかったらし い(2)。」と述べている。明治10年前後といえば 維新直後のことで、明治政府は国内に重点を置 き、海外へ進出するという余裕もなく、また南 洋に関する知識を有する者もなく、この建議は 取上げられなかったのであらう。ともかく、明 治維新後に南洋群島の島を買収しようとか、植 民しようかとかいう考え方があったということ は極めて興味深い。実は、この建議する人は、
榎本武揚自身だという説もある(3)。
(2)ニューギニア日本人移民の先駆者―小嶺 磯吉と細谷十太郎
日本人のニューギニアへの移民は、1883(明 治16)年、日本がオーストラリアに初めて移 民を送り出した以後のことで、1895(明治28)
年にはすでに2名の日本人が在住していたとの 記録がある(4)。その後、西部(当時の蘭領ニュー ギニア)ではマノクワリ地方、東部(独領ニュー ギニア、後の豪州委任統治領ニューギニア)で はニューブリテン島のラバウルに少数の日本人 移民が在住し各種事業を行なった。日本人の ニューギニア移民の先覚者として、豪州領では 小嶺磯吉、蘭領では細谷十太郎、海老名庄五郎、
大崎権七等がいた。
図表1は、戦前期のニューギニアの地図である。
2.豪領ニューギニア日本人移民の先駆者
―小嶺磯吉(5)
(1)小嶺磯吉の生い立ちとオーストラリア木 曜島への移民
小嶺磯吉は、イギリス領(後のオーストラリ ア委任統治領)ニューギニアのニューブリテン 島ラバウルで、採貝、造船、ココ椰子栽培等の 事業を行なった日本人移民の先覚者である。小 嶺磯吉は、1866(慶応2)年、肥前島原の堂前 村(現在の長崎県南高来郡有家村)に生まれ た。1881(明治14)年、16歳で単身朝鮮に渡り、
海軍御用達商の福島屋に丁稚奉公となった。そ の後、1890(明治23)年9月香港からオース トラリアの木曜島(Thursday Island)に移住 し、イギリス人に雇われ採貝船に乗り込み、潜 水夫として真珠貝採取に従事した。小嶺は、優 秀な潜水夫であったという。小嶺は、1892(明 治25)年頃、この木曜島からニューギニア北 部まで帆船で遠征し、ニューギニアが有望なる ことを確信した。そこで彼は、松岡好一、岡村 百槌と共にニューギニア北部を根拠地として水 産会社を設立する計画を立てて有識者に呼びか けたが、機会が熟せず、その成立を見るに至ら なかった。
また、1894(明治27)年、辻謙之助とい う人物が単身採貝船に乗込んで、木曜島から
ニューギニア方面まで遠征した。その辻が乗り 込んだ採貝船が小嶺の船であった。辻が殖民協 会の榎本武揚に宛てた手紙に、「小生の乗り込 み居る採貝船シシー号の持主は長崎の人にして 潜水師中屈指の人物、小嶺磯吉と申す人なり。
此の人は国家的思想ある人物にして、海産及び 農業にも心を委ね、将来望みある人物に有之候」
と記している(6)。
小嶺と辻は、意気投合してニューギニアにお いて殖民事業を積極的に進めようという計画を 立てた。1895(明治27)年2月、辻はニュー ギニアのポートモーレスビー(パプア)に赴き、
殖民担当の高位官憲と会談して土地払下げに関 する諸般の事情を打診した。話は有望に展開 し、小嶺と共に日豪貿易、ニューギニア移民及 び水産業に関する有力な会社を設立しようとい うことになった。1896(明治29)年8月両者 とも日本に帰国し、辻は植民協会の榎本武揚と も連絡をとり、榎本もこの計画を援助するつも りであったらしいが、1897(明治30)年以降 オーストラリア政府は日本人の移民に圧迫を加 へ、また木曜島の真珠貝などの採取業を日本人 の自己経営にて行うことを禁止した。こうした 事情もあり、小嶺と辻のニューギニア進出計画 は頓挫した(7)。
(2)独領ニューギニアへの移住とニューギニ ア殖民政庁での大任
その後、小嶺磯吉は、1901(明治34)年、
生きて再び日本の土を踏まぬ堅い決意のもとに、
ニューギニアへの再渡航を行った。そのきっ かけとして、日本で川上操六大将の知遇を得 て、「南洋には未だに属領の確定せぬ島もあら う、わが日本帝国のために君はそれ等の島にこ の日章旗を立て給へ」と一振りの日の丸の旗と 共に激励されたためとしている(8)。
小嶺は、ニューギニア到着後まず西洋型帆船 ザプラ号とハフラ号の2隻を購入し、ニューギ ニア本島や蘭領諸島を探検し、1901(明治34)
年10月にニューブリテン島のラバウルに落ち 着いた。この自己の所有する帆船と共に、小嶺
はドイツのニューギニア殖民政庁に雇用される こととなった。この頃はドイツ統治の創始時代 で、未開現地人の統治に手を焼いていたドイツ 総督ドクター・ハールは、日本青年小嶺の存在 に目をつけ、地方現地人の鎮ちん撫ぶ討伐の大任を彼 に依嘱し、小嶺はその任を引き受けたのである。
小嶺はその大任に対して、ドイツ政庁より大い に効ありと認められ、信用を博すようになった。
原住民の敬慕甚だ深く、獰猛なる食人種の部落 さえ、彼の下に帰順したとされる。「約一ケ年 の後には、この地方で最も獰猛なる食人種パプ ア族も悉く彼の下に帰順し、途に食人の習性ま でも改めさせるに至ったのである」、とされて いる(9)。また、ニューギニアのナマタナイと いう所に支庁を設けるため総督と同行した際、
総統が現地人に襲われる事件が起き、小嶺が総 統を助けたことから、総督の小嶺に対する信任 は益々高まったとされている。
(3)ラバウルでの椰子栽培事業および造船事 業と日本人移民の招致
しかし、1904(明治37)年に勃発した日露 戦争により、ドイツ人の対日感情が悪化してき たので、それを機会に小嶺磯吉はその職を辞し、
アドミラルティ諸島内に500町歩(1町歩は約1 万平方メートル)の土地租借権を得てこれを開 墾の上、椰子の栽培事業を始めたのである。椰 子は「コプラ」とし、油にして食料や石鹸の原 材料として使用された。1910(明治43)年には、
マヌス諸島のピテル、サウ、カリーパ、ピテラ イ、ランブショの5か所で椰子栽培事業を行な うために約1,000町歩の土地を租借し、使役現 地人監督者として10数名の日本人を呼び寄せ た。1912(明治45、大正元)年には、現地人 約450名を使役するまでとなった。同年の椰子 栽培の収穫量は、年間約80トンであった。
さらに1911(明治44)年には、ラバウル市 の好立地の場所に1町歩の土地の借地権を獲 得し、小嶺造船所を設立した。小嶺造船所で は、その後十数名の日本人大工を呼び寄せ雇用 した。小嶺は、これらのニューギニアの事業を
図表1 ニューギニア全図
(出所:日本拓殖協会(1943)『ニューギニア』越後屋書房、付録。)
中心に日本人の発展を計るため神戸にドイツ・
ニューギニア小嶺商会を設立して造船資材及び 日本人労働者の召喚等に着手した。1912(明 治45)年5月に第1回移民として熊本県人5名 が渡航し、翌1913(大正2)年4月までの間に 合計150名の日本人移民がニューギニアに送ら れた。この際、上村彦之丞海軍大将から「ニュー ギニアは太平洋上の枢要なる地点である。この 処に邦人の根拠を築く事は、日本の国防上最も 重要な事である。これは単なる営利的事業で はない、国家的事業である(10)」と勧められて、
小嶺の片腕として、兵庫の鮫島三之助(11)が支 配人として協力することとなった。小嶺造船所 は、業務を拡張し、当時、3か月に概ね大帆船 2隻及び付属品一切を竣成進水させ、年額5万 円以上の売り上げがあった。これに対応するた めに、さらに100余名の日本人大工を呼び寄せ、
雇用した。
(4)第1次世界大戦の勃発とコメット号事件 このように、小嶺磯吉の造船所の事業や椰子 栽培も順調に進み、小嶺はさらにもう一段の事 業の拡張を計画し、1913(大正2)年日本に一 時帰国した。小嶺は、ニューギニアと日本との 貿易を盛んにして、椰子栽培には気候、風土に 適し、人体にも的順なこの地に日本人の移住を 促進して、労働者を漸次現地人から日本人に代 え、新日本村を組織することを目指したのであ る。その際、日本の財界で著名な辻新次、松方 幸次郎、志村源太郎、大倉喜八郎、村井吉兵衛、
福島浪蔵の6氏と会見し、小嶺の事業経営の状 況を述べ、共同して会社組織を作りことに賛成 した。さっそく辻新次男爵の令息である辻息太 郎と大倉組の高松義郎がニューギニアの事業地 を視察し、詳細踏査を行った。
しかし、その後1914(大正3)年に第1次世 界大戦が勃発し、ニューギニアも混乱に巻き込 まれ、この小嶺の南洋開発の計画も頓挫してし まった。すなわち、日本は、この戦争で日独宣 戦の布告となり、この計画は空しく消え、この 地では敵国と化し、これまで好意をもって迎え
ていた現地の官憲は、所有帆船を抑留し、工場 は閉鎖、店舗は休業せざるを得なくなった。同 年の9月中旬には、オーストラリア軍が襲来し、
この地は戦場と化した(12)。
オーストラリア軍がニューギニアを占領した 際、ドイツ艦コメット号が逃隠したが、小嶺は その艦の場所を偵知し、オーストラリア官憲 に通報し、自ら水先案内人となり機関銃を持 ち、数名の英国軍人と共にこのドイツ艦の襲撃 を試み、挺身艦内に入りドイツ軍艦長を捕獲し た(13)。この功績により、小嶺は英国より、在 誉海軍少佐(Honorary Captain)の称号が与 えれた。
小嶺のこのような行動により、ドイツ人から の信用もたちまち地に落ち、憎悪の対象となっ た。小嶺の事業では、ドイツ人経営のニューギ ニアの会社との取引が中止され、造船事業は第 一の顧客たる椰子栽培業者が戦乱のため将来に 展望を持てないため新造船を躊躇し、僅に造船 の修理にのみ留まるような状況で、大変厳しい 経営状況となった。戦乱前多大な注文を見込ん で仕入れた造船用材料は倉庫に堆積し、高給で 雇い入れた職人は契約を履行しなければならな い等のため、運転資金は欠乏し、悲惨なありさ まとなった。椰子栽培の約1千町歩の栽培地は 多少の収穫はあったが、約450名の現地人の食 料や定期支給品や日本人の監督者への支払い給 料は巨額で、かなりの欠損状況となった。豪軍 総督イー・エス・ヘゼブリッチ少将は、小嶺の 当地での奮闘とコメット号拿捕の殊勲により多 少の援助を与えることで存続できているとして いる。小嶺は、このような厳しい状況に対して、
1916(大正5)年に日本政府に「保護請願の願 い」を出している(14)。
(5)第1次世界大戦後の小嶺の事業の発展 その後、ドイツ領ニューギニアはオーストラ リア委任統治領となったが、小嶺磯吉は事業を 継続した。大戦後、オーストラリア当局は、日 本人移民を制限したが、特に小嶺に対しては、
従来使用していた日本人60人に限り移民を認
め、雇用することを許した。小嶺は、椰子園の 拡張を計画し、隣接する500町歩の租借権を得 て、1921(大正10)年迄に全部で1,000町歩 の植付を完了した。また造船水産の事業も並行 して行ったが、1933(昭和8)年以降の不況の 波に押され、打ち続く欠損に事業縮少の止むな きに至り、その整理途上、1934(昭和9)年3 月に69歳の高齢で、ラバウル開拓40年の波乱 の生涯を終えたのである。
ラバウル郊外の小嶺の墓地には、次のような 記念碑には以下のような文が記されている(15)。
「小嶺磯吉翁は慶應2年肥前島原に生る、夙 に志を南方に抱き、朝鮮事変後豪州に渡り後予 等一行と共に木曜島を根拠地となして真珠貝探 取の傍ら近海の富源を調査し1901年自ら帆艇 を艤して蘭領及旧独逸領ニューギニアを周航し ラバウルに到り、此地を永住の地と定め爾来 三十幾星霜挺身蕃地を探検し土民の馴化を佐け 地方開発の爲めに心血を濺げり、殊に世界大戦 中敵艦コメット号の鹵獲に偉勲を奏し、日英豪 政府の賞揚を受く、後マヌス島に椰子栽培業ラ バウルに造船所を経営する画策怠らざりしが不 幸偶々蝦毒に中せられ、途に1934年10月3日 を以て溘焉長逝せらる。日豪両国親善の爲洵に 惜むべしとす。
昭和11年4月
朋友 龍江 義信誌」
(6)小嶺事業のその後と日本人事業
小嶺磯吉の農園を継承したのは長濱太市、造 船事業を継承したのは長濱太市と和泉栄吉であ る。
長濱太市は熊本出身で1887(明治20)年生 れ、小嶺の招きで1912(明治45)年にニュー ギニアに移住し、小嶺の事業を助け、後には自 ら採貝業、農業等を営んだ。1930(昭和5)年、
小嶺の諸事業経営が困難となり、その農園を中 国人アタムと共同で買収し経営した。アタムが 死亡すると、買収した農園は長濱が単独で経営 することとなった。小嶺が最初に持ち長濱が
継承した農園は、以下の5つであった。すべて、
アドミラルティ(Admiralty)群島にあった(16)。
① ランブチョ(Rambutyo)・プランテーショ ン(Rambutyo Island)
総面積:175ヘクター(植付面積:175ヘク ター)
栽培物:古々椰子
② パピタラリ(Papitalai)・プランテーショ ン(Papitalai Mamis Island)
総面積:275 ヘクター(植付面積:125ヘク ター)
栽培物:古々椰子
③ ピィテル(Pitel)・プランテーション(Pitel Island)
総面積:125 ヘクター(植付面積:125ヘク ター)
栽培物:古々椰子
④ サ ウ(Sau)・ プ ラ ン テ ー シ ョ ン(Sau Manus Island)
総面積:75 ヘクター(植付面積:75ヘクター)
栽培物:古々椰子
⑤ カリブ(kalib)・プランテーション(kalib Manus Island)
総面積:350 ヘクター(植付面積:350ヘク ター)
栽培物:古々椰子
小嶺磯吉の造船事業は、土地建物及その他の 施設所有は長濱太市、営業主は和泉栄吉で長濱 太市造船所として継承された。1930(昭和5)年、
小嶺造船所を長濱太市が買収し、営業主を和泉 栄吉として賃貸し事業を行なった。当時、造船 所の規模は100トン程度の木造船2隻を建造し 得る程度で、従業員は日本人3名、中国人4人、
現地人20名程度であった(17)。
長濱太市は、上記の農園、造船事業の外に、
採取貝の販売も行っていた。
3.蘭領ニューギニア日本人移民の先駆者
―細谷十太郎
(1)細谷十太郎の生い立ちと南洋開拓への決意
細谷十太郎は、仙台藩の大番士であった細谷 十太夫眞英の長男として1863(文久3)年頃(18)
生まれた。細谷は、駒場の農林学校(東京大学 農学部の前身)に入学した。農林学校を卒業す ると、北海道開拓庁に奉職し、北地開拓に専念 した。日清戦争に日本が勝利し台湾が日本の領 土となると、妻子を伴って台湾に渡り、軍嘱託 となった。細谷は、南方・南洋に深い関心を示 した。その後、軍嘱託の職を辞し、妻子と共に 中国の厦門に渡った。しばらく滞在していたが、
深く感ずるところがあり、1894(明治27)年 前後、「1寸2週間程旅行して来る」との一言 を夫人に残し、突然家を出て、シンガポールに 赴き、遂に再び帰らなかった。夫人は、この時 次子を懐妊中であったが、異郷に止って夫君の 帰りを待った。しかし消息は途絶え、一時の音 信さえなかった。1904(明治37)年日露戦争 が勃発したこともあり、夫人は日本に帰国し た。細谷は、この時から38年間に日本に帰らず、
夫人にも再会できなかった。
(2)シンガポールでのゴム園経営の企て 一方、細谷十太郎は1894(明治27)年前 後、シンガポールに赴いて、各所を観察した結 果、ゴム園経営が有望であることに着眼し、イ ギリス政庁に土地租借を出願した。しかし、当 時、イギリスは、日本人名義の土地租借の申請 には、許可を与えていなかった。そこで、細谷 は、通常の手段では許可が下りないことを悟り、
強硬な行動に出た。イギリス政庁に坐り込み戦 術を行い、3日間寝食を廃して、頑張り通した。
イギリス政庁もこれには、ほとほと持てあまし、
特別の計らいで、細谷の土地租借の申請を許可 した。これは、実は日本人の英領マレーに於け る土地租借の嚆矢だったのである(20)。英領マ レーのジョホールで、日本人として最初のゴム 栽培園を共同で始めた。ゴム園栽培には相当な 資本がいるため、細谷は砂取引をやったり雑貨 業をしてみたりして、苦心してゴム園経営の経 費を捻出した(21)。しかし、細谷のこのゴム園 事業の計画は、共同者に欺かれ、負債のみ負わ
されることとなったことなどもあり、租借した ゴム園を友人(遠藤忠雄)に提供して、英領マ レーを離れた。
細谷は、遠藤忠雄に英領マレーを去ることに ついて、以下のようなことを述べたという(22)。 「ジャワを視察したい、セレベスにも渡航し たい、それらの為の知識を得てから、ニウギニ アに渡りたい、シンガポール、ジョホールばか りにいては今後日本の進出する先鞭を打てない し、日本に報告するものもないから、広範囲に 亘って視察したい。」
(3)南洋探検とニューギニアへの移住 細谷十太郎は、南洋での日本人発展の最適地 を踏査するため、先ずスマトラ、ボルネオに行っ た。次にセレベスのマカッサルに渡った。細谷 はその時資金に窮したため、セレベス南部では 当時オランダ人が金の探掘を行っていたことも あり、細谷は一時その南洋踏査を中止して、金 山の書記として雇われている時もあった(23)。 また、約1年間ばかりセレベスのマカッサル近 郊のスマラダで金鉱会社相手の小さな店を経営 していたこともあった(24)。
その後、細谷はセレベスのマカッサルよりメ ナドに赴き、次いでタルナテを経て、1907(明 治40)年前後、オランダ船でニューギニアに 渡った。セレベスよりの船中で一人の中国人と 知り合い、共にニューギニアに渡った。この中 国人は、マノクワリに留まって、商店を営むこ ととなり、細谷は更に奥地に入り、モミに居を 構えて、ニューギニア生活が開始されたのであ る。この中国人とは、その後長い交流が続いた。
ニューギニアは人口が少なく、しかもその気 候は日本人の発展に好適である。細谷はこの地 を日本人の南方発展の基地にしようとした。細 谷は、1932(昭和7)年、日本に帰国した際、
当時の東京日日新聞の記事に、
「わしは三十年前台湾を出奔し同伴した妻を 厦門で因果を含めて日本にかえし一意報国の念 に燃えて植民開拓の大望達成のためニュウギニ アに渡った、家族の顔を見るなどはこの次じゃ
よ、」
と述べている(25)。細谷は、家族を捨ててまで、
日本の植民大望達成のため海外に渡ったのであ る。
現地人の中に投ずるに当たり、細谷は、先ず 従来の慣習を一切放棄し、現地人と全く同じ生 活を始めた。もちろん、それは原始的な生活で、
粗末な掘立小屋に、赤 褌ふんどし1つで暮らし、珍奇 なる極楽鳥(ニューギニアで国旗にもデザイン されているオオフクチョウなどの鳥)狩りと、
野生蘭の採集などに明け暮れた。現地人と親密 になるにつれて、専門的知識で現地人農業を指 導し、栽培を改良し、さらに病人があればその 治療にもあたった。現地人は、細谷の徳に懐き、
その命に服するに至った。赤褌に大刀を横たえ、
現地人の担ぐ竹製の輿に乗り、数十人を従えて 往来する様は、王侯の風があったと、現地人が 語ったそうである(26)。
(4)ニューギニアでの開拓事業
細谷十太郎の志すところはニューギニアでの 日本人の開拓事業にあった。細谷は、前述した 後に日本帰国した際の東京日日新聞の記事に、
「最初ニュウギニアに渡ったときは先ず美し い極楽鳥に目をつけそれを欧州に輸出していた が、オランダ政府によって禁鳥となったのでそ れからは綿の栽培に着眼しドイツより脱油機な どを取り寄せ研究しているうち最近やっと確信 を得たというわけじゃ」
と述べている。細谷の最初のニューギニアの事 業は、当時高い値段で売れた、特産ともいうべ き極楽鳥の輸出であったのである(27)。 極楽鳥の欧米への輸出が止まったこともあ り、細谷は椰子園での栽培事業をすることにし た。まず細谷は、農園の許可をマノクワリの官 庁に申請して許可を得た。農園の場所は、マノ クワリから南方50マイル程度離れたワレンに 土地を得て、椰子の栽培を始めた。また、細谷 は棉作も企て各種の品種を試みたが風土に適せ ず、ようやく野生棉のカラポニカに着眼して改 良を加へ、相当の成績を上げるに至った。
1912(明治45)年には、日本人移民20名を 招致することができた。細谷の耕地はモミ海岸 の砂地一帯に拡張され、他方開墾をも続行した。
モミの開拓での大問題は、港町マノクワリへの 収穫物の運搬方法であった。距離としては100 キロメートル弱であったが、欝蒼たる密林中に は道路はまったくない状態であり、唯一の方法 として、海に筏を浮べて搬出する以外になかっ た。細谷は、現地人のパプア族や山地のマネキョ ン族の間において大いに信望を博した(28)。 外務省文書の「バタビア領事館報告書」には、
1911(明治44)年当時、南洋の主なる日本商 店の中においてニューギニアで唯一、細谷十太 郎の名前が営業主として記録され、所在地とし て「北部ニューギニアワレン」、営業科目とし て「栽培、雑業」との記載がある(29)。 船中で知り合った中国人がマノクワリで経営 していたトコ・マカッサル(マカッサル商会)は、
その後経営不振に陥り、細谷に援助を求めた。
細谷は、当時、棉花の搬出に難航し、すこぶる 窮していたが、支援を快諾した。細谷は、多年 苦心開拓した棉作地300町歩を、南洋貿易株式 会社に300万円で売却し、細谷はその耕作地の 南洋貿易株式会社土地管理人となった。この日 本人最初の租借地は、後に南洋興発合名会社に 継承された。
(5)日本への帰国と逝去
細谷十太郎は、1932(昭和7)年5月、日本 へ一時帰国した。夫人と厦門に別れてより実に 38年、ニューウギニアに在ること25年にして、
故国の土を踏んだ。夫人は帰らぬ夫君を待って、
日本において産婆の資格をとり、二児を守り育 てたが、7年前に逝った。厦門を出るときに懐 妊中の次男も、39歳の壮齢に達していた。細 谷帰国の消息を知って、横浜入港の客船上に親 戚や知己が出迎え、相擁して涙にむせぶ姿は、
実に劇的な情景であったという。その当時「今 浦鳥の翁帰る」という新聞記事(30)に掲載され、
社会で大きな話題となった。
日本に帰国後、細谷は、日本の関心が北方大
陸にのみに心を奪われ、南方問題に何等関心を 有していないことに深く憤慨し、あちこちに奔 走してその重要性を力説した。細谷は、再度 ニューギニアに帰り大いに活躍しようとしてい たが、惜しむべく1933(昭和8)年1月に、病 気により70歳で逝去した。
(6)細谷の事業のその後―南洋興発合名会社 への継承
細谷十太郎のモミでの棉花栽培事業は、南洋 貿易株式会社(細谷は自ら土地管理人となる)、
南洋興発合名会社に継承された。
南 洋 興 発 合 名 会 社(NKK) は、 南 洋 群 島 開発の国策企業たる南洋興発株式会社により ニューギニア開拓を目的として設立された会社 である(31)。南洋興発株式会社は、1931(昭和6)
年、ニユーギニア(ニユーギニア島の西部)で のドイツ・フェニックス会社の事業権利一切を 買収し、首都マノクワリにオランダ商法による 南洋興発合名会社(投資額約300万円)を設立 した。買収した権利は、へールウインク湾沿岸 のナピレ奥地に在る31,500町歩のグマル樹脂 林およびヌシ島ならびにビヤック島にある永租 借権等である。翌1932(昭和)7年、ダマル樹 脂探取事業を開始した。1933(昭和8)年には 南洋貿易株式会社からモミに棉花栽培用として、
約350町歩の永租借権の譲渡を得た。このモミ の土地は、前述したように、南洋貿易株式会社 が細谷十太郎から永租借権の譲渡を受けたもの である。さらに1935(昭和10)年にはオラン ダ政府よりモミに2,000町歩、サルミに3,500 町歩の永租借地留保許可を得た。南洋興発合名 会社は、樹脂採取事業ならびに棉花栽培事業を 経営する他、黄麻の栽培、雑作の栽培、牧畜経 営、さらに船舶運航、等の事業を行った。
ダマル樹脂は、楠に似た亘木で、この木から 滲出した樹脂を探取するのである。これを原料 とする製品は飛行機の塗料、船底塗料、その他 一切の塗料原料および蓄音機のレコード、電気 の絶縁材料、靴クリーム、凝革剤、絆創膏等の 広汎な用途を持つ。南洋興発合名会社は、300
名近いパプアニューギニアの現地人を使用して ダマル樹脂採集に当たり、年産額3,300担(ピ クル:1坦は約60キログラム)を産出した。
南洋興発合名会社は、1933(昭和8)年、ワー レン(モミ)において、約350町歩の永租借地 の譲渡を受け、翌1934(昭和9)年の初頭から 棉花の試作に着手した。1940(昭和15)年には、
綿作租借面積はモミ、サルミの両地を合わせて 1,560町歩(他に租借許可保留地4,300百町歩 あり)で、この中で開墾を終えたのは1,100町 歩、作付面積は700町歩に及んだ。常用のパプ アニューギニアの現地人は、モミ、サルミの両 地で2,800名に及んだ。
さらに、南洋興発合名会社は、雑作栽培、牧畜、
船舶運航等を行った。モミ棉作地の一部及びナ ピレ海岸地方で租借した約50町歩の農場にお いて、陸稲、タマネギ、タピオカ、青豆、カポ ツク、カカオ、胡麻等の食糧作物の栽培を行う ほか、牧場を設けて牛や羊の飼育を行った。
船舶事業については、ニューギニア各事業地 間、ならびにパラオ、マノクワリ間連絡のため に社船三隻を運航し、蘭印各地ならびに日本内 地との連絡に当たらしていた。
1940(昭和15)年当時の日本人従業員の 数は、オランダ政府の入国制限のため僅かに 40名に過ぎす、労力は主として本島のパプア ニューギニアの現地人であった。南洋興発合名 会社は、当時、ナミレ、モミ、サルミの3地を 合わせて、約3,200名のパプアニューギニアの 現地人を使役していた。この現地人のための社 会施設として、オランダ人医師を置く病院、学 校、教会、倶楽部、運動場等を設置した。
4.ニューギニアのその他の先駆的日本人 開拓者と日本人移民の事業
(1)遠藤繁太郎
豪州領ニューギニア日本人事業家として、遠 藤繁太郎がいた。遠藤は、徳島の出身で1891
(明治24)年生れである。豪州領ニューブリテ ン島のラバウルにて造船業を営んでいたがうま
くいかず、アンビトル鳥(アニル島)にて、小 さな古々椰子園を経営し、傍ら島民の要求によ り小ボートを製造していた(32)。
(2)海老名庄次郎
海老名庄次郎は、細谷十太郎とともに蘭領 ニューギニア開拓者の先駆者である。海老名は、
南洋群島やオーストラリア移民を多く輩出した 和歌山出身である。17歳の頃、英語修得の目 的で、一イギリス船に乗込み、十年ほど船員と して海外諸地方を巡歴した。その後、1916(大 正5)年前後にニューギニアに渡った(33)。 海老名は蘭領ニューギニア東部北岸のサルミ に移住し、単身で現地人の群に投じて椰子園の 開拓を始めた。椰子園栽培の事業経営は苦労の 連続で、商業にも従事したこともあった。ニュー ギニア東部地方唯一の日本人として、農園経営 も成功した。海老名の経営する古々椰子園は
「サルミ」部落の南方約3キロ「オレ」河口近 く「サルミ」海岸に面した場所にあり、租借面 積19ヘクタールの全面積に栽培され、現地人 12,13人を使役し、自らその経営に当たり相 当の収穫を挙げていた(34)。
その後、南洋興発がサルミ地方の開墾に着目 し、蘭印政庁より許可されるに及び、協力を懇 望されて入社した。海老名は、サルミ農場開拓 のため、多年の経験を活用して、栽培事業を継 続し、政庁より永住権を付与され市民と同等の 待遇を受けた。
(3)金城徳栄
金城徳栄は、ニューギニアの水産業の開拓者 の一人である。金城は、南洋での水産業の日本 人移民を多く輩出した沖縄出身である。金城 は、1921(大正10)年前後に、メナド、タル ナテ等を経て蘭領ニューギニアに渡り、漁業に 従事した。特に鼈甲亀の名人として有名であっ た。金城は、敬虔なキリスト教徒で、宣教師の 資格も有していた。現地人における人望は絶大 であったという(35)。
(4)大崎権七
大崎権七が経営する古々椰子園は、蘭領 ニューギニアの「モミ」の東南約50余マイル の海上にある小島のMeosaoeri Islandにあっ た。栽培面積約10へクタール、現在現地人に その経営を委託していた(36)。
(5)日本人移民の水産業
ニューギニアでは、日本人移民による高瀬貝、
鼈甲、真珠母貝などの採取を中心とする水産業 が行われていた。蘭領ニューギニアでは、アルー 群島付近がパラオを根拠地とする日本人漁業家 の真珠母採取地として知られていた(37)。豪州領 ニューギニアでは、高瀬貝採取が中心であった。
1937(昭和12)年当時、以下のような日本 人所有の船が漁業を行っていた(38)。
船主:鶴島惣吉・石橋馬吉、船名「朝風」、
20トン、ラバウル。
船主:眞野喜三郎・辻井繁、船名「イデス」、
20トン、ラバウル。
船主:木村秀一郎、船名「暁」、15トン、ラ バウル。
船主:菊池一作、船名「タカセ」、5トン、
ラバウル。
船主:中村庄一、船名(不明)、帆船(長さ 二六尺)、ラバウル。
船主:田代恒助、船名(不明 2隻)、各5トン、
ブカ。
船主:山下七之助、船名(ぺテル)、8トン、
マヌス島。
おわりに
小嶺磯吉と細谷十太郎という2人の人物は、
日本人の南洋移民史の中でも興味深い人物であ る。
第1に、両名は明治期に移住したニューギ ニアでの日本人殖民の先駆者たる人物である。
ニューギニアという未開で厳しい環境に中にあ りながらもたった一人で開拓に励んだ、フロン
ティア精神、独立心の強い、不屈の精神力を持 つ日本人開拓者であった。
第2に、両名とも日本人移民をニューギニア に誘致することを意図し、ニューギニアを日本 人の殖民地域たらしめ、日本人移民地を開拓す る、いわば日本人の殖民開拓という大望を持っ ていた。小嶺磯吉と細谷十太郎は、南方開拓者 であるとともに、日本人殖民推進者であったの である。しかし、現実には、豪州領、蘭領ニュー ギニアとも統治政府の日本人移民の制限政策の ため日本人移民はきわめて少なかった。
第3は、両名とも現地語を修得し、語学に堪 能であったことである。ニューギニアの気候、
風土、民族、奇怪な風習、未開地という過酷な 環境に中で、現地人の生活に溶け込んで生活し た。そのためには、現地語に堪能であることが 必要であったのである。さらに、現地人の社会 に積極的に飛び込み、現地の文化・社会を深く 理解しようと努めた日本人移民であった。
第4は、両名とも現地に骨をうずめる覚悟で、
長い期間現地に住んだ。現地に長く居ついた日 本人であった。戦前期の南洋での日本人移住者 は、海外に出稼ぎをするという意識を持った人 もかなりいたが、両名ともニューギニアへの真 の移民者であつたのである。
本稿で取り上げた小嶺磯吉についてまず考察 してみよう。小嶺磯吉は、ニューギニア開拓の 先駆者として、当時日本での多く取り上げられ、
紹介された人物である。オーストラリアの木曜 島で活躍した後に、ニューギニアのラバウルに 渡った。木曜島では真珠貝採取の潜水夫に従事 し、紀州和歌山出身の日本人が多かった木曜島 でも目立った人物であった。フィリピンのべン ケットへの日本人移民の中心的推進者として著 名な太田慕三郎をはじめとして、オーストラリ アの木曜島(Thursday Island)出身の日本人 が南洋でかなり活躍したことから、日本人南洋 移民での木曜島の重要性が伺われる。
小嶺磯吉は、日本外務省の外交文書、豪州政 府外交文書等から、コメット号の件など、多大 な貢献をしたことは歴史的事実であるようであ
る。小嶺は、第1次大戦でのドイツ領への豪州 軍進出に対して大きな役割を果たしたのである。
コメット号の出来事は、日本でも取り上げられ、
外務省においても小嶺磯吉に関する文書が残っ ている(39)。特に、小嶺磯吉は外務省に出した 本人が書いた請願書がそのまま残っており、小 嶺磯吉を知るうえの歴史史料として貴重なもの である。小嶺磯吉は、ラバウルで造船業、農園 栽培事業などを行い、ニューギニアへの日本人 移民の先駆者として大きな貢献をした人物であ ると言えるであろう。
もう一人の人物である細谷十太郎は、特異な 人生を送った人である。妻子、子供といった家 族を捨てて、ニューギニア西部のマノクワリへ 移住した経歴を持つ。最初は、ニューギニアで 極楽鳥の商売を行い、後に農園栽培事業を営ん だ。30年以上経った後に日本に帰国し、妻子 は亡くなったが、子供と感動的な再会をしたと いう。著者には、細谷の行動はまったく理解で きないが、彼なりの信念、生き方があったので あろう。まさに細谷の人生は波乱で数奇な人生 であったと言えるであろう。
戦前期の日本人ニューギニア移民は、激変す る国際環境に翻弄された歴史である。第1次大 戦と第2次大戦という大きな歴史の波の中に生 きた。統治国政府の日本人移民の制限やニュー ギニアの厳しい環境などもあり、戦前期日本人 移民は極めて少なかった(40)。戦前期の国際政 治、ドイツ、オランダ、イギリス、オーストラ リアといった大国の覇権争いの中で、日本への 警戒心も強かった。昭和初期には、南洋興発社 長の松江春次の蘭領ニューギニア買収案(41)な どもあり、日本はニューギニア買収や租借案も 検討された歴史もあるようである。松江は、日 本の過剰人口を解決するための移住地として、
①面積が広く人口が希薄であること、②気候風 土が日本人の居住に適していること、③日本 から距離の近いこと、④土地が肥沃であるこ と、⑤農産物、鉱物等が豊富にあること、⑥先 住民を日本化し得ること、⑦日本政府の威権が 行える土地であること、が必要な要素であると
し、蘭領ニューギニアが適しているとした。松 江は、詳細な蘭領ニューギニア買収案を作成し、
政府などに働きかけた、しかし、松江の買収案 は、オランダに知れることとなり、諸大国の日 本への警戒心の高まりなどから、その買収案は 頓挫してしまった。
小嶺磯吉と細谷十太郎という2人のニューギ ニア開拓の拠点が、後に日本人移民の拠点地と なり、結果として日本にとって重要な地域と なったという歴史的事実も大きい。小嶺磯吉が 開拓したラバウルは、日本軍の拠点となり、第 2次大戦の激戦地となった。細谷十太郎が開拓 したモミの耕地は南洋開拓の国策企業たる南洋 興発会社の開拓拠点となった。
小嶺磯吉と細谷十太郎という2人の南洋日本 人移民は、日本の南洋発展の歴史において極め て興味深い人物であるといえるであろう。
(注)
(1)入江寅次(1942)32-33頁、による。
(2)入江寅次(1942)33頁。
(3)飯本信之・佐藤弘(1942)、341頁。
(4)拓務省拓務局(1938)83頁、および白石 譽夫(1942)207頁。
(5)小峰磯吉については、以下のような文献、
史料がある。
外務省(1916)「小峰磯吉ニ関スル件(外 務省外交史料館), 外務省(1916)「在ラボー ル小嶺磯吉保護方請願ノ件(外務省外交史料 館)、 白石譽夫(1942)、上条深志(1941)、
平間洋一(1997)。
(6)入江寅次(1942)402頁。
(7)入江寅次(1942)402‐403頁、および飯 本信之・佐藤弘(1942)341‐342頁。
(8)白石譽夫(1942)208頁。澤田謙(1942)
の272頁では、細谷十太郎の生年を1862(文 久2)年と記している。
(9)白石譽夫(1942)209頁、および上条深 志(1941)183頁。
(10)白石譽夫(1942)210頁。
(11)外務省(1916)「小峰磯吉ニ関スル件」(外
務省外交史料館)に、作成者が大省海軍省副 官、臨南防司令官である「小峰磯吉ニ関スル 件」という文書の中に、鮫島三之助の記した 書類がある。
(12)上条深志(1941)185頁には、当時の小 嶺の行動として以下のような興味深い記述が ある。
「大戦とともに政庁の所在地ラバウル市をは じめ、旧ドイツ領一帯は、経済界はもちろん、
社会的にも混沌たる状況を呈し、全く無警察 状態といっていい有様に陥った。ここに小嶺 氏は敢然として立ち、自ら邦人二百名、土人 千五百余人を率いて、日本人自警団を組織 し、ラバウル市内ならびに近郊の治安維持に あたり、在留各国民の生命、財産の保護に任 じ、正義を尚ふ日本人のために万丈の気を叶 いた。」
(13)南洋拓殖社員であった白石譽夫(1942)
212‐215頁には、当時の小嶺のドイツ艦コ メット号に対する功績に関して以下のような 興味深い記述がある。
「やがて大正3年9月13日豪州艦隊は大挙し て独領ニュギニアを襲ひ、これを占領したの でラバウルの市街も漸く平静に帰したが、こ の豪州鑑隊が最も遺憾とし又怖れていたのは ドイツ警備艦コメット号(977噸)の遁走で あった。いつ何時不意に姿を現してラバウル を砲撃し、太平洋及びこの附近の通商破壊戦 を開始するやも知れずといふ見えざる脅威で あった。
この新参の豪州艦隊が手を妬いて思案に 余っている様を、もどかしと見た彼は、50 噸の小汽船ヌサ号に土人兵50名を乗せて、
コメット号の捜査に向ったのである。
永年の間船長として、又探検家として、
ニューギニア地方の地理や水路に明るい彼は コメット号がニウブリテン島ラバウル西方北 岸にあるタラシア湾に潜伏しているものと目 星をつけ、10月13日の未明、風雨に乗じて クラシア湾深く突入して行った。果せる哉そ こには索めるコメット号の秘かに碇泊してい
る姿が見られたのである。
嵐は愈々募り、激浪はコメットの舷側を噛 んでいた。夜來の豪雨は依然として止まず、
空は墨をこめた如く暗かった。然し彼にと つてこの荒天は絶好の機会となった。
彼はコメット号乗組員の油断を見すまし日 本刀を小脇に単身艦上に乗り移ったのである。
やがて彼は警戒の眼をかすめて、艦長室に迫 り、難なく室内に侵入して、未だ眠りについ ていた艦長エルマン大佐をおもむろに揺り起 した。驚いたエルマン大佐は突嵯に武器を手 にせんとしたが、間髪を入れず、その手を座 へて、彼は言った。
「豪州艦隊はニウギニアを占領、各地の政 庁を接収し、いま全艦隊は大挙して海外に押 し寄せコメット号の捜査に移らんとしつつあ る。大勢は既に決ったのだ。潔よく降って部 下の生命を全うし給へ。生還後改めて租国独 逸に報ゆる道も又自らあらうではないか」と 理論整然と説く彼の勧説に、さすが独逸魂を 誇るエルマン大佐も、血涙と共に「コメット 号の艦長として敵と一戦も交へず退くのは如 何にも残念だ。だが日本人である君の剛勇に めでてこのコメット号は潔く君に贈らう」
と、かくしてエルマン大佐から錠を手渡さ れた彼は、先づ武器類を船傖に収め、士官全 員を一室に収容して外部から錠を下し、率い て来た土民兵を指揮して彼等の警戒に当らし め下級支那兵を叱咤しつつ、抜錨、自らブリッ ヂに立ち意気揚々とラバウルに凱旋したので あった。
この有様を見て、英国豪州艦隊は勿論、在 留諸国人の驚倒と賞讃は筆舌の外であった。
かくして凱旋したその日の午後、一日本人 小嶺磯吉氏から英国豪州艦隊司令長官に対し て、歴史的なコメット号贈与式が盛大に挙行 された。豪州艦隊からは記念としてコメット 号の測時計を外して彼に贈り、またこの比類 なき勲功に酬るため英国名誉海軍大佐の称号 と感状を彼に授与したのである。
その後コメット号は艦名を改められ、英国
豪州の艦籍に編入されて居たが、第1次大戦 欧洲大戦中に於ける豪州艦隊唯一の戦利記念 品として現在シドニー港外に停留保存せられ 日本人小嶺磯吉氏の武勲を永還に伝へている のである。
また一方当時の陸上に於ける彼の不休の活 躍に対しても英国陸軍大尉の資格を付与せら れて居たといふ。
さて一方不運にも英国の捕虜となったエル マン艦長以下独逸海軍士官等は、彼の八方手 を尽せる尽力に依って軍法会議を経ずして一 般在留者と同様の寛大なる待遇を受け、大戦 終了後独逸本国に帰還の事となった。
捕虜となって以来のエルマン大佐は彼と周 知の間柄であっただけに、彼の尽力少なしと して彼を恨んでいたといふが、彼はその間人 知れず、当時その日の生計にも事快く窮状に あった大佐夫人に対して、小嶺一家を挙げて 親身も及ばぬほどの援助を惜まず、心から夫 人の悲嘆を慰めていた事が、その後になって 漸くエルマン大佐の耳に入り「日本人の偉さ と美しい心が始めて解った」と悔悟の涙と共 に側近のものに語ったといふことである。」
(14)外務省(1916)「在ラボール小嶺磯吉保 護方請願ノ件」外務省外交史料館。
(15)拓務省拓務局(1938)84‐85頁。
(16)拓務省拓務局(1938)86‐91頁。
(17)拓務省拓務局(1938)92‐93頁。
(18)生年については正確な記録がないので、
東京日日新聞、1932(昭和7)年6月8日号、
等から推測した。
(19)小杉方也述(1942)4頁。
(20)小杉方也述(1942)4‐5頁。
(21)南洋経済研究所(1943)2頁。
(22)南洋経済研究所(1943)2頁。
(23)小杉方也述(1942)5頁。
(24)セレベスのマカッサル近郊のスマラダで の細谷の事情について、池田実蔵による以下 のような貴重な記録がある(南洋経済研究所
(1943)3頁)。
「細谷老人もニウギニに渡ったらならは極樂
鳥をやりつつ、土地の事情を視察研究したい という考えでありました。しかしニウギニア に行き、極樂鳥をやるべき資本がありません。
旅費しかないので、視察する費用を得るため に何とかしなければならぬというので、セレ ベスでその費用の捻出を考へなければならな かった。
そこでトラジャから北に当たるところにス マラダという所があり、そこに金鉱があって 盛に蘭人が金を掘っていました。それに細谷 老人は眼をつけまして、マカッサルで懇意に なった華僑がスマラダで雑貨商を営んでいて、
食料品等を金鉱会社に納めていました。当時 華僑は儲け出していたが、その華僑が細谷老 人に対して、あなたはセレベメに来ても何も 仕事がないようだから私が後楯になって後援 しましょうというのでありまして、細谷老人 はその華僑に連れられてスマラダに参りまし た。
その華僑はなかなか奇骨ある男で、マカッ サルから沢山の洋酒、雑貨、食料品殊に罐詰 等を方々の金鉱会社に納める卸をしていたの で、細谷老人はその下請をしてスマラダで小 さい店を開くことになりました。
約一ケ年ばかり店を経営しまして、目的の 資本も少しばかり出来たのであります。そこ で金鉱にいるのが目的ではなく、ニウギニア ヘ行く、或る程度の自分の予算だけの金が出 来たから、ニウギニアに渡りたいという事情 その華僑に話しました。」
(25)東京日日新聞、1932(昭和7)年6月8日号。
(26)小杉方也述(1942)、6頁。
(27)その時の細谷の極楽鳥ビジネスについて、
池田実蔵による以下のような貴重な記録があ る(南洋経済研究所(1943)4-5頁)。
「ニウギニアに渡り、最初マノタワリに行 きました。そこで初めから考へていた極楽鳥 に手をつけることにしました。極楽鳥のやり 方は土着民が極楽鳥を捕って、それを土着民 から買って華僑が儲けていたわけでありまし て、その商売は和蘭官憲の許可が必要であり
ました。日本人としては一人も足を止めたも のがなかったので、細谷老人は自分が日本人 として初めてきた、自分も極楽鳥の商売をし たいと官憲に願い出しましたところ、当時和 蘭も日本に好意をもっていた時代であったの で許可しました。許可というは毎年一人に対 し、鉄砲を五挺なら五挺と、その人員の程度 によって下渡しするのであります。その貰っ た鉄砲と弾丸を土着民に与えるのであります。
その土着民ーアリボエ人が多いーは借りた 鉄砲で山に入り極楽鳥を捕るのであります。
捕る時期も決っています。日本でも狩期の許 可があるように極楽鳥にも猟期の許可があっ て半ヶ年であります。半ヶ年が終ると、アリ ボエ人は鉄砲と捕った極楽鳥とを海岸に持っ てきます。そこで物々交換が行われるのであ ります。
彼ら土着民は物質観念が少なく、よい着物 を着たいとか、うまい物を食いたいなどとい う考えはない、唯一自分のほしいものと交換 すればよいのであります。例えば日本から行 く雑貨、それもマニマニというガラスで出来 た顎飾り、腕環、耳飾り、大きな耳をしていて、
それに穴をあけて下げる環が耳飾りであって、
それらのものと、高価な極楽鳥を交換するの であります。土人は金よも物であって、殊に その当時は自分のほしいものさえ手に入れば よいので、物質上の考えはないから、いくら 極楽鳥が高価であるといっても何も知らない。
当時一梱の極楽鳥、一梱というのは二十羽で あります。二十羽が三千四百ギルダー位しま した、一羽が百七十ギルダーであります。現 在では考えつかぬようなよい値段でありまし た。頸飾などは最高五銭から六銭、大抵のも のが一銭五厘位のもので、それらの安いもの と、百七十ギルダーもする極楽鳥を交換する のであります。しかも飾り物一個と極楽鳥一 羽でありますから、余り儲かり過ぎてどうも 嘘のような話でありました。
土着民のほしがる物に、それらのガラスの 飾り物のほか煙草があります。煙草は非常に
好んでいまして、我々のような巻煙草の吸う 煙草でなく、噛む煙草であります。その煙草 はセレベスのボギズから大分出まして、水に 浸して固めて竹の筒に一つ宛叩き込むであり ます。一つの竹筒に約二百二三十個入りま す。それがニウギニアに渡ります。その煙草 はシリーという木の葉と、カッポーと呼ばれ る石炭と、ガンべルと呼ばれるスマトラから 出る小さな四角なものと、その煙草、シリー、
カッポー、ガンベルを寄せて噛むのでありま す。シリーという葉は到る所にあり、ガンベ ルは日本へも来て丸薬のような薬に入ってい ます。何故それを噛むかと申しますと、それ を噛むと歯が丈夫になり、又口中が清涼にな ります。シリーという葉は刺激的でさっぱり した感じがあって、薄荷のような感じがしま す。そういうことから嗜好するのであります。
しかし現在では極楽鳥も三ギルダー出せば 買える、その位低下している。円、ギルダー は現今パーということになっているから三円 で極楽鳥が買えるわけです。東京辺では相当 な値段でありますが、マカッサル辺ですら三 ギルダー五十仙位で買えます。その値段の下 がったのは第一次欧州戦直後からであります。
戦後欧米方面でその羽を婦人の帽子に飾る流 行がなくなって、輸出がぱったり駄目になっ たからであります。しかし華僑は下っても又 上る時期が来るだろうと大分極楽鳥を手持ち にしいたものもありまして、中には下った値 段で更に買入れたものもあり、大きな箱に極 楽鳥を入れ羽の傷まぬようにしてナフタリン を入れて保存したのでありますが、値段は遂 に上がることなく下がる一方で現在に及んで いる次第でありまして大分損をしたものもあ るわけであります。」
(28)島崎新太郎(1942)18頁。
(29)外務省(1911)「バタビア領事館報告 書」外務省外交史料館(レファレンスコード B16080789800)。
(30)東京日日新聞、1932(昭和7)年6月8日 号に掲載された細谷帰国の記事の全文は以下
である。
「わしは三十年前台湾を出奔し同伴した妻を 厦門で因果を含めて日本にかえし一意報国の 念に燃えて植民開拓の大望達成のためニュウ ギニアに渡った、その時はただ広いニュウギ ニアの土地に驚いたが最近ではやっと方寸も 立ったので資本と人力を求めて二十七年ぶり に故国の土地を踏んだのじゃ、家族の顔を見 るなどはこの次じゃよ、最初ニュウギニアに 渡ったときは先ず美しい極楽鳥に目を付けそ れを欧州に輸出していたが、オランダ政府に よって禁鳥となったのでそれからは綿の栽培 に著眼しドイツより脱油機などを取り寄せ研 究しているうち最近やっと確信を得たという わけじゃ、同島の面積は40万キロ平方、人 口密度1平方マイル0.5で木材なども四百種 に上り日本人口の大はけ口となっている、わ しは日本語をすっかり忘れ土人語ばかりなの で文書にして発表したいと思っている」。
(31)南洋興発株式会社については、著者の丹 野勲(2017)の研究がある。
(32)拓務省拓務局(1938)91頁。
(33)井上義男(1942)258‐259頁。
(34)拓務省拓務局(1936)59頁。
(35)井上義男(1942)259‐260頁。
(36)拓務省拓務局(1936)59頁。
(37)外務省欧亜局第3課(1939)40頁。
(38)拓務省拓務局(1936)91‐92頁。
(39)外務省(1916)「在ラボール小嶺磯吉保 護方請願ノ件」外務省外交史料館(レファレ ンスコードB11090756500)。
(40)拓務省拓務局(1936)『蘭領ニューギニ ア事情』によると、昭和11年5月末現在の蘭 領ニューギニアにおける在留邦人数は34名
(男性24名、女性8名)であった。また、拓 務省拓務局(1938)『豪州委任統治領ニュー ギニア事情』によると、昭和12年8月現在の 豪州領ニューギニアにおける在留邦人数は 23名であった。
(41)松江春次(1934)『蘭領ニューギニア買 収案』。
参考文献
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チャンピオン著(1942)(三吉朋十訳)『南洋 開拓秘史 ニューギニア探検記』旺文社。
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