金融危機まで
著者 小野塚 佳光
雑誌名 經濟學論叢
巻 64
号 1
ページ 49‑101
発行年 2012‑07‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013731
【論 説】
アナーキーの再発見
―ベルリンの壁崩壊から世界金融危機まで―
小 野 塚 佳 光
は じ め に
いわゆるグローバリゼーション1)を,ある局面では加速し,また次の局面で は制約する契機となるものは何か
? さらに,国際秩序の歴史的な転換局面
において,グローバリゼーションが逆転するか,調整によって次の拡大に向 かうか,それを決めるものは何か?
国際秩序がその本質として「アナーキー」な性格を持つことは,リアリス トの国際関係論が残した重要な仮説である2)
.それは,単に,国家が領土的に
限られた範囲でしか秩序を決定できない,という意味ではない.政治秩序の転換が市場を急速に統合し,国境を越えた市場の圧力が強まっ たことで,他国の政治秩序,さらに,国際システム3)は動揺し,不安定化に向
1) いわゆるグローバリゼーションは,貿易,国際投資,国際貨物輸送量や国際航空便数,一物 一価,多国籍企業の雇用や在外資産の増大,国際移民,など,様々な統計で示される.この言 葉の利用は1990年代に急速に普及した.本稿との関連では,特に以下を参照.Gamble (2009) ; Halliday (1994) ; James (2009) ; James (2001) ; Lieven (2002) ; O' Rourke and Williamson (2000) ;
Rachman (2010) ; Skidelsky (1995) ; Yergin and Stanislaw (2002).
2) 国際関係論の展開については,特に,Kahler, Miles (1997) “Inventing International Relations:
International Relations Theory After 1945,” in Doyle, Michael W. and G. John Ikenberry (1997) New Thinking In International Relations Theory, Westview Press.を参照.
3) 国内に確立された政治的権威,正当な権力と比べて,権威や権力の法・制度的根拠を欠いてい るが,それでも一定の合意されたルールの遵守,国家を超えた協力を組織できる力が示される限 り,実質的に存在する,国境を超えて機能するルールや秩序・規範・共通認識を,国際秩序,↗
かう.しかし,経済取引は安定した国際秩序を前提している.経済学は,市 場の拡大過程や不均衡の調整を描き,国際秩序の転換を扱わない.
国家が政治秩序の選択を領土内において独占するのは,経済学において個 人が合理的に利益を判断するのと比較できる.狭義の「経済学」は市場にお ける合理的な反応に関する仮説を立て,数学によるモデルを利用して精緻な 推論を重ねる.それは,すべての市場参加者の費用と便益を比較できると仮 定し,「他の条件が変化しない」ことを前提する.しかし,政治秩序や社会的 合意における歴史的な転換が起きるなら,それらは間違った仮定となり,異 なる条件と移行が問題になる.
本稿は,1989年,ベルリンの壁崩壊を,そのような重大な転換点として考 察する.1991年にソビエト連邦が解体し,冷戦は終わった(そして,人類を滅 ぼす核戦争が回避された)
.世界市場が一つにつながって,自由で民主的な秩序
のもと,誰もが経済的繁栄に参加できる,という楽観が高まった.このグロー バルな市場統合4)は,2001年の9・11
テロを超えて続くように見えた.しか し2008
年,リーマン・ブラザーズ倒産を頂点とする欧米金融市場の機能マヒ が,それまでのグローバリゼーションに関する楽観論(必然論)を否定した5).
この約20
年という歴史は,かつて第一次世界大戦終結時に,戦争の放棄とと定義する.そして,国際秩序が確立されているとき,政治や経済における変動やショックを 安定的に吸収できるような制度・メカニズムを,国際システム,と定義する.国際システムは,
国際機関や定期的な首脳会談,国境を越えた規制や制度・介入手段の共有,相互依存を意識し た慣習や意思決定の変化,などとして実現される.
4) IMF, World Economic Outlook: Spillovers and Cycles in the Global Economy, April 2007, “Chapter 5,
The Globalization of Labor”.数億人の労働者が世界市場に加わった,とゼーリックは強調した.
たとえば,Zoellick, Robert B., “A Challenge of Economic Statecraft,”April 2, 2008.(英文・日本語 訳「現下の世界経済運営における政治的課題」とも,世界銀行のホームページ);「過去20年間 に世界の経済構造は大きく転換しました.ソ連や中・東欧の計画経済の崩壊,中国とインドの 経済改革,東アジアの輸出主導型の成長戦略により,世界の市場経済の人口は10億人から40
~50億人へと飛躍的に増大しました.」; Zoellick, Robert B.,“The World Bank Group Beyond the Crisis,”October 6, 2009, Istanbul, Turkey(同上)
5) 同じ時期を対象に,2011年のイラク撤退完了に注目する議論もある.Bacevich, Andrew J.,“The U.S. withdrawal from Iraq marks the end America’s great expectations,”Washington Post, December 17, 2011参照.
↘
国際社会の繁栄を信じた楽観から,第二次世界大戦の開始まで,わずか
20
年 で平和の回復から戦争へと基本的な見方が根本的に逆転した『危機の20
年』6)を想起させる.
ベルリンの壁崩壊と,9・11テロ,リーマン・ショックは,それぞれ独立し た事件であり,その性質も異なる事件であった.権力を握るエリートの大部 分もそれらを予想していなかった.しかし,国際システムはこうした重大な 事件に一定の影響を及ぼしただろう.そして,事件からの衝撃を吸収する過 程で,重要な地位を占める人物の決定,その思想や歴史的経験が秩序の性格 を変えたのである.その変化は,あらかじめ条件を固定された多数の個人の 選択が均衡を回復するという形ではなく,パニックや危機を生じて,システ ムの在り方そのものを変える形で起きた.
アナーキーとは,こうした変化によってしか生まれない(転換・調整できない)
国際秩序の性格を意味している.
本稿は,1989年から
2008
年のグローバリゼーションの逆転(秩序や制度の 変化)について,思想と歴史の観点から考察する.1 国際秩序の転換
1. 1 なぜ 1989
年から2008
年でグローバリゼーションは逆転したか?
国家を超えて市場の統合化が進み,その社会構造や政治勢力の性格・優劣 を変化させることは,国家の依拠する政治秩序や国家間の国際安全保障とい う枠組みに動揺をもたらす.6) 「ヴェルサイユ条約から12年と3か月しかたたないのに,第二の大戦の中にヨーロッパをま
きこんでしまった,この破壊の教訓こそ,真剣に熟考されなければならないであろう.ドイツ の国家社会主義の支配者たちを打倒しても,国家社会主義の出現を可能ならしめた諸条件には 触れずにそのままにしておくような解決では,1919年のそれと同様に,短命で悲劇的なものに 終わるしかないだろう.二つの大戦の間をおおう『危機の20年』ほど,将来の平和建設者たち によって研究されてよい時期は,歴史上有しないと思われる.」Carr, Edward Hallett (2001) The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939, Perenial, 2001. p. ix. ただし1939年初版,1946年改訂版.E・H・
カー(井上茂訳),(1992)『危機の二十年』岩波書店,vii-viii頁.
革命や二度の世界大戦によるヨーロッパの荒廃,大恐慌と世界貿易や金融 ネットワークの解体は,各地の政府による開発計画や,ナショナリズムの政治 運動を広めた.しかし,政府・官僚機構が経済を大規模に管理すれば,成長 は衰え,財政赤字の貨幣化がインフレーションや債務危機となって爆発する.
むしろ,貿易と外国からの投資に市場を開いて,生産性の上昇や雇用の拡大を 目指し,同時に,グローバルな市場の変調,突然の衝撃にも耐える社会システ ムを築かねばならない7)
.しかし,政治経済の秩序や制度を変える過程は,合
理的でも,調和的でもなく,民主的意思決定で円滑に調整できるわけでもない.1989年,ベルリンの壁崩壊は,東西ドイツの再統一をもたらし,さらに,
東欧とロシアの社会主義体制を終わらせ,冷戦を終わらせた.それは,政治 秩序と経済変化とが連動することを示した.政治秩序の変化は,限定された 要因の均衡としてモデル化することを拒む.グローバリゼーションは,技術 変化や経済法則の実現として理解するより,時代によって変化する思想・政 治運動として扱う方が,その歴史的意味や空間的な拡大と,地域によって異 なる姿を正しく理解できる8)
.
ベルリンの壁崩壊はグローバリゼーションを加速し,特に辺境の小国は,ソ ビエト連邦の解体と国際関係に及ぼした冷戦終結の影響を強く受けた.なぜな ら,米ソの競争的な軍事・経済援助が終わったからであり,また,旧来のイデ オロギー的な対立軸が失われて,世界各地の政治・社会秩序を「自由化」や市 場開放に追い詰め,その支配層が権力の正当性を十分に確立できていない土地 では,市場の拡大・浸透がしばしば既存の政治秩序を不安定化させたからだ9)
.
7) この基本的な視点は,ヤーギン&スタニスローとスキデルスキーとが共有している.Yergin and Stanislaw (2002), Skidelsky (1995).
8) 小野塚(1998).
9) 1989年には,世界で少なくとも三つの重大な事件が起きた.中国の天安門事件,ベルリンの
壁崩壊,そして翌年にかけて日本のバブルが崩壊した.天安門事件はベルリンの壁崩壊と直接 につながっている.また日本のバブル崩壊も,後のリーマン・ショックやユーロ危機によって,
特殊な「日本病」ではなく,金融危機後の停滞を脱出することが困難な,経済学や経済政策の 限界を示す事態として,重要性を再認識された.
長期的に見れば,ベルリンの壁崩壊は,1970年代から始まった10)市場に関 するイデオロギーの転換,国家と市場とのバランスを逆転させる過程で起き た一つの事件であった.ダニエル・ヤーギンとジョゼフ・スタニスロー11)は,
市場と国家の境界線を変える動きに注目した12)
.
「『国家』(つまり中央政府)が 経済を支配し,管理する時代から,競争,市場開放,民営化,規制緩和が世 界の経済思考の主流になる時代に変化したのはなぜ,また,どのようにして なのだろうか.」ヤーギンらは,ベルリンの壁崩壊を描いた後,それが考え方 や知識の世界の壁でもあったと指摘し,その崩壊は工業世界の混合経済に関 する失望から始まったのだ,と考える13).
経済危機や革命,戦争14)が示すように,社会が異なる次元,分野を超えて 再編されるとき,政治秩序と経済変化とは連動する.旧秩序が崩壊し,再編,
再生する過程,新しい秩序が誕生する過程を理解するには,国際システムの 転換を議論しなければならない.歴史的な事件は,その考え方,指導的な人 物の個性を介して,次の政治秩序を形成した.
1989年は,単に,ミルトン・フリードマンに代表されるような自由市場の
10) その変化がいつ,どこで始まったか,特定することは難しい.その候補としては,1971年,
リチャード・ニクソン大統領による金・ドル交換停止(「埋め込まれた自由主義」の廃止);
1976年,毛沢東死去,1978年,鄧小平の権力掌握;1979年,マーガレット・サッチャーのイ ギリス首相就任,ポール・ボルカーのアメリカ連邦準備制度理事会議長就任;1980年,ロナルド・
レーガンが大統領選挙で勝利(1981年,大統領就任);1982年,メキシコ債務危機;1985年,
ミハエル・ゴルバチョフのソ連共産党書記長就任,ボリビアにおけるハイパーインフレーショ ンと「ショック療法」,などを指摘できる.
11) Yergin and Stanislaw (2002).さらにヤーギンらの研究に登場する重要な関係者たちの証言を 集めたアメリカPBSのホームページ http://www.pbs.org/wgbh/commandingheights/も参照.
12) Yergin and Stanislaw (2002), p. xi,訳16頁.他方,スキデルスキーも「国家と市場の関係に ついての根本的な見直し」,「反集産主義」を考える.ただし,スキデルスキーとギャンブルに よれば,戦後の蓄積体制は,資本主義においても社会主義と同様の変化に直面し,政府の統治 システムは危機にあった.資本主義諸国はそれに対応する道を発見したが,社会主義諸国は崩 壊した,と考える.Skidelsky (1995), p. 119,訳150頁.
13) ハロルド・ジェイムズは,より長いタイム・スパンからグローバリゼーションを考察してい る.またロバート・スキデルスキーは,集産主義とリベラリズムとの争いと考える.James (2009);
Skidelsky (1995).
14) ときには自然災害も含まれる.
思想がその正しさを示した事件ではなかった15)
.それは「信認の危機」であり,
政治や思想,「ヘゲモニーの崩壊」
,危機の解釈における「市場自由化」
(さら に「ショック療法」)の勝利であった16).
イギリスで労働党政権が倒れ,マーガレット・サッチャーが政権に就いた のは,単に,「不満の冬」があったからではない17)
.アンドルー・ギャンブル
は,世界システムの文脈で「サッチャー主義」を理解するべきだ,と主張す る.それは,アメリカの衰退と戦後の社会民主主義プロジェクトがヘゲモニー を失ったことに対する,自由主義と保守主義との結合であった18).
ケインズ主義,福祉国家,社会民主主義,コーポラティズムなどに代わっ て,サッチャーとロナルド・レーガンは,新しい保守的イデオロギーを広め る指導者となり,シンボルとなった19)
.サッチャーは,イングランド北部の
小さな町グランサムに生まれ,雑貨店の経営者で,地方政治家でもあった父 親から信念や教訓を学んだ.レーガンは,アイルランドからの移民の血をひき,中西部アメリカの小さな町の出身だった.彼らは,政府が問題を解決するこ とはない,税や政府(介入・補助金)そのものが問題だ,という考えを広めた.
ギデオン・ラックマン20)は,各国がグローバリゼーションに向けて自由化 を選択した理由を,そのときの指導的な政治家,彼らの経験・政治姿勢・思想と,
15) たとえば,ロドリックはこうした政府の役割を否定するフリードマン主義者たちを批判し ている.Rodrik, Dani, "Milton Friedman’s Magical Thinking," Project Syndicate, 2011-10-11. http://
www.project-syndicate.org/commentary/rodrik62/English 16) Yergin and Stanislaw (2002); Gamble (1988), (2009).
17) 1978-79年の冬.ギャンブルによれば,それは「閉鎖された病院,街頭のゴミの山,埋葬さ
れずに腐敗する死体」というイメージであるが,保守党を有利にする選択されたニュース管理,
「神話」であった,という.Gamble (1988), p. 94, 訳132頁.
18) 「各国政府は,比較的開かれた市場をどうしても維持しなければならないが,その開放性が 国内経済に及ぼす影響に対抗する準備が必要である.そうした圧力は,景気後退の時期に先鋭 化する.強い国家を必要とするのは,保護された経済体制だけではない.世界市場の中での地 位を守るためには,繁栄を確保する開放性と競争力を保証する介入へのコミットメントが必要 なのである.」Gamble (1988), p. 37,訳60頁.
19) ヤーギンらはサッチャーの言葉を紹介している.「そうだ.信念を持って始めなければなら
ない.すべては信念から始まるのだ.」Yergin and Stanislaw (2002), p. 106; 訳 上255頁.
20) Rachman (2010).
彼らが置かれていた具体的な政治状況,すなわち政治経済危機とを結びつけ て理解する.自由化の選択は,彼らの問題を解決し,国民に利益をもたらす ものと期待できた.
1978年の中国と,1991年のインドの自由化は,世界的な市場自由化の波の 最初と最後である.どちらのケースでも,権力を握っていた政治集団・政党(共 産党と国民会議派)の正当性の危機が,国際収支危機と重なった.また,思想・
イデオロギーの転換に,外国からの影響(特に,ソ連の崩壊,日本やアジア新興 諸国の成長)が作用していた.海外で成功していた華僑や印僑から情報や知識 を得て,彼らの資本を吸収することも刺激となった.
中国の改革開放を率いた鄧小平は,四川省の出身で,父は裕福な地主から 地方の役人になった.若いころにフランスへ留学し,帝国主義諸国の中国侵 略に反対し,中国のナショナリズムを代表する共産主義の思想・運動に加わっ た.その後,毛沢東や周恩来とともに中国人民共和国の政府を担うが,左派 との政治闘争で何度も失脚し,復権した21)
.1976
年,毛沢東の死後,権力闘 争に勝利し,1978年末に改革開放路線を確立した.しかし1989
年には,北 京を訪問していたゴルバチョフが帰国すると,鄧小平ら中国共産党指導部は 軍に命じて天安門広場の群衆を制圧した.その後,政治支配と高い成長率とが,国民や都市富裕層と共産党政府の間の暗黙の合意になった.
インドの改革を率いたマンモハン・シンは,ラジブ・ガンジーが暗殺された 後,P・V・ナラシマ・ラオ首相に任命されて,蔵相を引き受けた.インド経 済は規制や許認可制の障害によって民間部門が成長できなかった.この時期,
中東の石油市場が,イラクのクウェート侵攻で石油価格を上昇させた.インド 人の出稼ぎ労働者の帰国,送金の減少により,外貨準備が失われた(輸入代金
21) 鄧小平は大躍進政策の失敗後,市場の秩序回復に重要な貢献をしたが,文化大革命が起きる と逆に批判されて失脚した.文化大革命後,その混乱を収拾させたが,再び毛沢東に批判され た.毛沢東の死後,権力闘争に勝利して,改革開放への転換を進めた.1989年,天安門事件で,
その原因となったインフレや不平等の責任を問われた.それでもなお,改革開放を続けるよう,
1992年,深圳経済特区を訪問し,南巡講和を発表した.
の
2
週間分しかなかった).IMF
融資に頼る一方で,厳しい融資条件を守れるよ うに,この危機を市場改革の契機としなければならない,とシンは考えた22).
いずれの国でも,世界市場統合のもたらした市場の圧力は新しい危機の条 件であった.資源価格の上昇に対して周辺における政治秩序が崩壊する国や,経済機会を求めて豊かな国へ向かう移民・難民が増えた.また,資本移動の 自由化が新しい工業地帯を誕生させただけでなく,不動産バブルを生じ,あ るいは,急激な資本流出による通貨危機が新興諸国を襲うこともあった.そ れらの危機は,周辺から始まって,欧米金融市場の中枢にまで及んだ.
グローバリゼーションと政治経済危機は,予測しにくい形で衝撃を伝えた.
1971
年,ニクソンの金・ドル交換停止は,主要通貨の変動レートとインフレ の加速,石油危機の条件となった.そして1982
年,レーガン大統領の軍備拡 大とボルカー連銀議長によるマネタリスト的な金融引締め政策は,高金利と ドル高で,メキシコの債務危機を生じ,さらにポーランド政府にも債務不履 行の不安を高めた23).
ポーランド政府は経済改革のために自主管理労組「連帯」の合法化や自由選挙を認め,それはハンガリーの民主化をも刺激し,ベルリ ンの壁崩壊につながるハンガリー・オーストリア間の国境開放をもたらした.
国際秩序の基本的な性格は今もアナーキーである.領土的に分割された統 治制度により衝突や戦争が繰り返され,それ以上に,分割された政治意識に よって,世界市場がもたらす問題に対して各国は効果的な協調行動がとれな い.政治も経済も,パニックや集団行動が政府の能力を低下させるなら,各 国の政策や規制の効果は十分に予測できない.
1. 2 1989
年「ベルリンの壁」崩壊とは何だったのか?
社会や政治における境界線は歴史的に変化してきた.ベルリンの壁崩壊は,
22) Yergin and Stanislaw (1998), p. 221; 訳 下24頁.
23) ラテンアメリカにおける自由化や民主化は,その後の「ショック療法」,「ワシントン・コン
センサス」,「新興市場」などをもたらした.
東西の対立という一つの大きな境界線を変えたが,それは他の境界にも影響 を及ぼした.特に,グローバリゼーションと呼ばれる国境を越えた市場圧力は,
1989
年の顕著に政治的な変動を,世界に波及させるうえで重要であった.ロナルド・レーガンは,1987年,「ゴルバチョフさん,この壁を倒しなさい」
と挑発した24)
.しかし, 1989
年に壁が崩壊したとき,ジョージ・H
・W
・ブッシュ 大統領は,レーガンのような攻撃的な外交姿勢を取らなかった.むしろソ連 の改革を進め,その一環として軍縮や東欧の民主化を支持していたミハイル・ゴルバチョフの国内政治基盤が弱まることを心配した.ストローブ・タルボッ トとマイケル・R・ベシュロス25)は,冷戦終結にかかわる欧米政府の首脳た ちが何を考え,発言し,行動したかを整理している.
大国間の勢力均衡による外交・安全保障の視点ではなく,市場自由化とグ ローバリゼーションの経済学でもない
1989
年の研究として,マリー・エリー ゼ・サロッティ26)の考察を取り上げる.国際秩序の歴史的転換を理解するに は,秩序が安定的な時期とは異なる問題に答えなければならない.サロッティ の叙述は,ベルリンの壁崩壊に関して,歴史的転換の考察における経済学の 限界を示している.歴史的な転換は,変化をもたらした物的な条件と,それを受容する政治過 程によって理解しなければならない.物的な条件とは,多くの場合,何より も軍事力や財源であるが,ますます,市場の反応や相互依存関係が重要になっ ている.誰が重要な地位を占めても,その人物の思想や歴史的な経験が何で
24) たとえば,その他の事件も含めて,レーガンの発言を含む資料映像“The Wall — A World Divided premiered June 2010”http://www.pbs.org/programs/the-wall/を参照.
25) Beschloss and Talbott (1994).欧米諸国とソビエト連邦の首脳たちにとって,ベルリンの壁崩 壊まで,主要な関心はヨーロッパにおける兵器の削減交渉であった.その後,東西ドイツの再 統一やNATO帰属問題が,ゴルバチョフの国内政治闘争と結びつく.特に,バルト3国の独 立運動とソ連軍介入についての交渉が冷戦の終結を準備した.ゴルバチョフは市場改革におい て経済のコントロールを失い,供給不足の悪化,高まる民族対立・分離独立運動に直面して,
ソ連を維持したまま改革と弾圧のバランスを取ることに失敗した.Skidelsky (1995) Chapter
Six,訳 第6章も参照.
26) Sarotte (2009).
あろうと,また,軍事力や財源がどれほど強力に見えても,市場諸力に逆らっ た改革や政治的決定は成功しない.
その上で,決定にかかわった重要な人物・集団・組織に注目し,その考え やイメージを理解する必要がある27)
.権力を握っていたのは誰で,何を考え
ていたのか? 変化に巻き込まれた彼・彼女たちが求めたものは何か ? 何を
恐れていたのか? 共有した信念や,それを変化させたショック,重大な事
件とは何であったか?
サロッティが示したもう一つの重要な論点は,国際秩序の転換を,競合す る異なるモデルの交代として描いたことだ.ベルリンの壁が崩壊することは 誰も予想していなかった大きな変化であった28)
.崩壊した後のヨーロッパの
秩序がどうなるのか,誰にもわからなかった.新しい秩序が自分たちにとっ て不利にならないよう,自分たちの利益がより強く反映されるように,重要 な主体は競って新しい秩序に向けた変化に関与し始めた.1989年
11
月9
日,東ドイツの記者会見で,突然,ベルリンの壁はなくなった.午後
6
時から,東ドイツのメディア担当であった政治局員(Günter Schabowski)が記者会見の最後の
5
分ほどで新しい通達を紹介し,質問に答えた.すでに チェコとの国境を開放したことが問題になっていたからだ.それは,東ドイ ツ国民もビザを取れば旅行する権利を認められている,という一般的な答え であった(そして,通常,ビザを取れない)が,すべての市民は境界を自由に通 過できる,という内容を含んでいた.記者は,ベルリンの壁も自由に通過で きる,と解釈し,いつからできるのか,と質した.通達書の中にある「ただ ちに」という言葉が伝えられたとき,記者たちは一斉に部屋を飛び出し,こ のニュースを世界に発信し始めた.1989年
11
月に向けて形成されていた次の五つの特徴が,ベルリンの壁の27) Sarotte (2009), p. xiv.
28) Sarotte (2009), pp. 50-51.そのときコール首相はポーランドにいて,「連帯」の指導者である
ワレサや,首相となっていたマゾビエツキと会談していた.ワレサが,もしベルリンの壁が開 放されたら,という質問をしたので,コールは驚いた.
崩壊過程では重要だった29)
.
(1)東ドイツ政府は「チャイナ・オプション」を使えなかった.
(2) アメリカのジョージ・
H
・W
・ブッシュ大統領は積極的に関与しなかった.(3)東ドイツ市民が現状維持を明確に拒んだ.
(4)反政府運動は急速に自信を深めた.
(5)テレビによる情報・映像と市民の政治意識とが相互に強め合った.
ゴルバチョフの北京訪問が一つのきっかけとなって,天安門事件は起きた.
胡耀邦の死去を悼む人々が天安門広場に集まり,学生たちが自由の女神の模 造品を掲げたところで民主化運動はピークに達した.ゴルバチョフが去った 後,1989年
6
月3-4
日,人民解放軍が天安門広場を制圧した.同じ日に,ポーランドでは自主管理労組「連帯」の候補を含む選挙が行われ,
共産党候補を抑えて圧勝した.ゴルバチョフは,ソ連における改革を進めるた めに,ポーランドの民主化に対してソ連軍が介入することを明確に否定した.
東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー共産党書記長・国民会議議長は,中国 政府の取った天安門広場の弾圧を知って,東ドイツでも反政府抗議活動の弾圧 を準備した30)
.秘密警察や軍が動員されて武器を携行し,病院では多数のけ
が人が出ることを予想して待機していた.しかし,この「チャイナ・オプショ ン」は,10月9
日,ライプチッヒの反政府・民主化要求デモに対して,つい に実行されなかった31).ゴルバチョフが,むしろ改革を進めることで市民た
ちの不満を鎮めるように東ドイツ政府に要請し,その後,ソ連政府との交渉に 当たったエゴン・クレンツが,ホーネッカーに代わって,その地位に就いた.しかしサロッティは,ソ連もアメリカも,ベルリンの壁崩壊を決して主導 していなかった,と考える.ゴルバチョフはソ連の体制を内部から改革でき ると信じていたし,ベルリンの壁がなくなることやドイツの東西再統一は考
29) Sarotte (2009), Chapter 1.
30) Sarotte (2009), p. 20.
31) Mandelbaum (2003), p. 57,も参照.
えていなかった.またブッシュは,レーガンがゴルバチョフを厳しく追い詰 めすぎたと考えて,むしろ現状維持と安定化を望んでいた.アメリカ政府は,
ソ連に対する安全保障政策を正式に見直して,ゴルバチョフの改革に協力す る可能性を探り始めたところだった.
この歴史的転換を主導したのは,現状維持を望まない東ドイツ国民であった.
重要な転機において,彼らはより急進的な改革を求める政治的圧力となった.
たとえば,すでにハンガリーの政治的自由化が「鉄のカーテン」の一部,オー ストリアとの国境を開放し,チェコスロバキア,ハンガリー,オーストリア を経て東ドイツから西ドイツへの脱出ルートが開いていた.多数の東ドイツ 国民が国境に集まってキャンプし,通過することに興奮していた.8月
21
日,警備兵が発砲し,ついに一人が死亡する事件が起きた.コール首相とゲン シャー外相は直ちにハンガリー政府を訪れ,東ドイツ国民に国境を開放し続 けてほしい,と要請した.コール首相はその見返りに,ドイチェ・バンクと ドレスナー・バンクに対して,ハンガリー政府が望む融資を行うよう促した.
東ドイツ政府はハンガリーに向かう人々を阻止し始めた.それでも東ドイ ツ国民は,現状にとどまることを望まなかった.彼らは東欧各国の西ドイツ 大使館に押し寄せたのだ.コールとゲンシャーは,プラハとワルシャワの大 使館に集まった人々を国外に出すよう求めた.東ドイツ政府にとって,列車 が東ドイツや東欧を通過することが問題だった.出国を希望する東ドイツ国 民が,乗降できないはずの封印列車を止めて,列車に乗り込もうとしたから だ32)
.東ドイツ領内の最後の駅では,人々が通貨を窓から投げ捨てた.身分
証明証も,アパートの鍵も,捨て去られた33).
他方,コールやブッシュは,こうした東ドイツの不安定化を手助けするつ
32) Sarotte (2009), p. 32.治安警察が停車した列車に近づかないよう配置されていたが,それでも
人々はそれを突破して列車に駆け寄り,乗客たちも手を取って彼らを引き上げた.
33) 通貨が降ってくるのを知って,通行人は驚き,喜んだだろう.しかし次第に,この国は生存で きるのか,という不安を強く感じた.のちにアメリカ国務省でゼーリックと協力して東西ドイツ 再統一に尽力した東ドイツのフランク・エルベが,当時の様子を回想した.Sarotte (2009), p. 33.
もりはない,とゴルバチョフに約束していた.しかし人々は一層の変化を期 待し,次第に自信を深めた.それだけでなく,東ドイツ国民は西ドイツのテ レビを観ていたから,自分たちが起こした変化を映像で観て驚き,さらにそ の影響を強めた.
ベルリンの壁を通過できるようになって西ベルリンへ入った多くの人々は,
西ベルリンを観た後,最初は一部だけが再び東に帰った.彼らは西ドイツの 貨幣を持たなかったから,西ドイツ政府は彼らに歓迎の一時金(100DM)を 手渡した.最初の
3
日間で,西ベルリンあるいは西ドイツに入った東ドイツ 国民は約300
万人,1か月で900
万人に達した34).人々は商店に押し寄せ,
西側の商品に魅せられたが,それは後の統一過程に影響を与えた35)
.
コールは再統一を望んだ.しかし,西ドイツ国内でも,ギュンター・グラ スやユルゲン・ハーバマスは即時の再統一に反対した.東ドイツの反体制派は,自国政府の下で,東ドイツが独自の改革を進める計画を支持した.ヨーロッ パの政治指導者たち,とくにマーガレット・サッチャーが執拗に,巨大なド イツが誕生することに反対し,フランソワ・ミッテランも反対していた.そ のとき,ブッシュ大統領は,最初からコール首相とドイツ国民の考えを支持 し,協力によって外交的優位を得た36)
.他方,ゴルバチョフは最後まで,東
西ドイツの再統一を急ぎ過ぎている,という不満を示し,再統一後のドイツ がNATO
に帰属することを許そうとしなかった.誰も,東西ドイツがどうなるか,確かなことはわからなかった.サロッティは,
東西ドイツの再統一に向けて,四つの異なるモデルがありえた,と考える37)
.
34) Sarotte (2009), pp. 45, 68.
35) 西側の消費生活に魅了された東ドイツ国民は,改革よりも,今すぐに西側の商品を買うこと を願うようになった.ベアテ・ウーゼBeate Uhseのセックス・ショップは,東ドイツ人はお 金がないから何も買えないことを考慮して,無料のカタログを配った.その結果,店には長蛇 の列ができて,その後,ウーゼは新しい顧客を200万人も得た.Sarotte (2009), p. 69.
36) サロッティは,特に12月3日のブッシュとの初めての2者会談で,コールが巧みに情報を
伝えて同意を引き出したことを強調する.Sarotte (2009), pp. 78-79.
37) Sarotte (2009), pp. 7-8, 196-201.
Ⅰ: ソ連が求めた4大国によるヤルタ型ドイツ分割占領モデルの復活.
Ⅱ: 最初にコールが唱えた旧ドイツ連邦制に依拠した分離型統一モデル.
Ⅲ:ゴルバチョフが求めたユートピア的全ヨーロッパ統一モデル.
Ⅳ:西ドイツの法・制度をそのまま東に導入するプレハブ・モデル.
ベルリンの壁崩壊の可能性を,ゴルバチョフは事前に知らされていなかっ た.東ドイツ政府が事態を管理できなかったことを,ソ連内部の権力闘争と結 びつけたくなかった.コールも,再統一がどこまで国際的に受け入れられるか,
自信がなかった.ソ連は東ドイツに軍隊を駐留させていた.再統一後のドイツ が
NATO
に加盟し,NATO軍が東に拡大することを,ソ連は受け入れること ができなかった.また各国とも,ドイツ・ポーランド国境に不安を感じた.コールは
12
月19
日に初めて東ドイツのドレスデンを訪問して,空港に集 まった多数の市民から歓迎を受けた.そして,再統一は避けられない,とい う感情が高まった.しかし,ドイツの民族主義が復活する,という不安をイ スラエルや近隣諸国は示すようになった.フランスのミッテランは,経済通 貨同盟(EMU)に向けて前進することを望んでいた.自国通貨であるマルク を放棄することは,ドイツ国民に支持されない,という不安があったので,コー ルはその決定を選挙後に延期したかった.東ドイツ国内の反体制派は,コールのように,西ドイツの政治家が東で政 治運動を拡大することを望まなかった.彼らは,ポーランドの民主化で重要 な役割を果たしたような,政府との円卓会議を東ドイツでも開き,自由選挙 の実施を共産党と合意した.円卓会議は選挙まで政府の行動を監視する役割 を担った.しかしもう一つの条件として,秘密警察の解体を求めた.すでに 各地で秘密警察は襲撃されていたが,ドレスデンで群衆が秘密警察の建物を 襲ったのは反革命の陰謀であったかもしれない.反体制派は,暴力事件が続 いて旧体制の保守派復活につながることを強く恐れた.実際,ベルリンで秘 密警察がネオナチの暴徒を煽り,体制と秘密警察を正当化する反革命クーデ
タの企てがあった38)
.
東ドイツ国民は根本的な変化を求めていた.暴動を契機に,革命より体制 の安定的な移行を重視した円卓会議は国民の支持を失い,東ドイツ政府は統 治能力を持たない,という不安が内外に生じた.コールは旧ドイツ連邦型の 漸進的な再統一案を捨てた.そして東ドイツ国民は,西ドイツの政治家や政 党に変化を期待するようになった.
コールは,再統一による生活の改善を望む東ドイツ国民と,再統一の経済 コストについて不安を強める西ドイツ国民との間で,政治的なバランスを模 索した.将来に対する不安が高まった結果,現実に西ドイツで機能し,繁栄 をもたらしているモデルを,短期間で東に拡大できる,という主張に支持が 集まった.プレハブ・モデルの典型である
1
対1
の東西マルク通貨統合は,東ドイツ国民の利益を約束したものだった.しかし長期的には,それが東ド イツ産業の競争力を奪い,雇用を破壊して,大規模な労働者の移動と財政移 転が必要になることも次第に理解され始めていた39)
.
キリスト教民主同盟(CDU)が西ドイツの地方選挙で敗北したとき,コー ルは選挙時期を繰り上げ,再統一を加速させた.社会民主党(SPD)は,ヴィ リー・ブラント元首相を中心に,東において大きな支持を集めていた.しかし,
SPD
は緩やかな再統一と連邦制を主張した.民主化を指導した国内の反体制 派は,社会主義の改革と汎ヨーロッパ型の政治・安全保障を主張した.東ドイツ国民は明確な答えを出した.1990年
3
月18
日の選挙におけるCDU
の大勝利がプレハブ型の急速な再統一を決めたのだ40).
38) 円卓会議を無視して,共産党による安定化を演出するのがその目的であった.東ドイツ経済 が西ドイツに売られるのを阻止するためだった,と東ドイツのハンス・モドロウはソ連首相に 説明した.Sarotte (2009), p. 96.
39) 1対1の通貨交換をコールは主張したが,それはドイツ連邦準備銀行の見解やヨーロッパと
の為替レート協力体制への影響を考慮していなかった.カール・オットー・ペール西ドイツ連 銀総裁は,1対1交換が問題になる,と警告していた.Sarotte (2009), p. 144.
40) キリスト教民主同盟とその東ドイツにおける同盟諸勢力が48.0%の票を獲得した.社会民主
党は21.9%に終わった.Sarotte (2009), p. 143.
「嵐が来る前に収穫する」という表現で,コールは,ベルリンの壁崩壊後の この瞬間に,再統一の機会をつかむ必要を強く感じていた41)
.サロッティは,
コール首相の「戦術的な洞察力・抜け目ない姿勢(the tactical savviness)」を,
ベルリンの壁崩壊後,再統一を含めて国際秩序を再編できた最も重要な契機 とみなす.しかし同時に,短期間に行われた不完全な決定は,東ドイツの産 業再編でも,その後のヨーロッパ通貨統合や,NATOとソ連,そしてロシア との関係でも,次第に大きなコストを引き起こした42)
.
ソ連は再統一の過程が加速することに強く反対し,またそれを強制できる 力を持っていた.ポーランドの国境問題に関する不安とともに,それがドイ ツ再統一の障害であった.アメリカの国務長官ジェームズ・A・ベイカーⅢ とその顧問であるロバート・ゼーリックらは,ゴルバチョフとソ連を説得す るために,旧
4
大国の占領モデルを組み込んだ「2+4」の交渉メカニズムを 提案した43).安全保障面で,
コールとブッシュは協力してNATO
改革を唱え,再統一後のドイツ国民が自分たちで
NATO
への帰属を決めることができる,という姿勢をソ連に受け入れさせた44)
.
その後も,改革や新外交に対するゴルバチョフの関与は強かった.しかし,
国営企業による生産システムの管理を独立させ,東欧におけるソ連の「帝国」
を解体した後,生産の低下,国家予算における赤字の増大,抑圧されたイン フレーション,犯罪化した闇経済の発生によって党内強硬派の反発は強まっ
41) それに比べて,ゴルバチョフのあいまいな構想,「ヨーロッパ共通の家」を具体化するには,
もっと多くの時間が必要だった.もしソ連軍が行動を起こして,暴力的な衝突が広がっていた ら,それはドイツがより長期に4か国の介入と管理に従う可能性を意味した.あるいは,ゴル バチョフの失脚がもっと早かった場合,ドイツの再統一は同じようには実現できなかっただろ う.Sarotte (2009), pp. 196-201.
42) Sarotte (2009), pp. 203-209.ドイツ再統一20周年に寄せた,以下の批判的論説も参照.Hummel, Wolfgang, “Twenty Years of Stimulus for East Germany,” Wall Street Journal, November 8, 2009; Motte, Bruni de la, “East Germans lost much in 1989,” The Guardian, November 8, 2009.
43) Sarotte (2009), pp. 104-105,訳 上294-295頁.Zoellick, Robert B., “Guiding Germany’s Unification,”
New York Times, November 6, 2009.
44) ゴルバチョフに対しても,コールはバランスを模索した.再統一を急ぎつつ,それによって ゴルバチョフが権力を失うことを恐れた.Sarotte (2009), p. 151.
た45)
.その後,ソ連でも政治的自由が有権者の期待を高めて,選挙に参加し
た諸政党は社会的支出の増大と減税ばかりを公約した.資源の流れも貨幣も 管理できなくなったことで,1991年12
月に連邦が崩壊する前に,政府の能 力は消え去っていた46).
ベルリンの壁が崩壊したとき,ロバート・カプランはたまたまコソボにいて,
セルビア人とアルバニア人の暴動を取材していた47)
.そして,コソボの将来
はベルリンで決まるのではない,と彼は感じた.むしろ,冷戦の終結は,世 界が異なる境界線によって分割されていることを再認識させた.東西よりも もっと深刻な分断を,安定した,民主的で,市場経済の発達した,豊かな北側・中枢の世界と,そうではない世界,すなわち基本的な社会秩序を維持できな いような,暴力と貧困・疫病に満ちた,人口増加と都市化,北への難民を流 出させる南側・周辺の世界との間に見たのである.
「1989年以来,政治世界は大幅な変化を実現した,とほとんどの人は信じ ている.しかし,これから起きることに比べたら,それは小さな変化であ る.世界地図がバラバラに千切れて,再生する過程は,まだ始まったばか りだ.」48)
2 新しいアナーキー:9・11
テロと破綻国家1989-91年の冷戦終結は,国際秩序を大きく変える事件であった.社会主義 のイデオロギーが後退し,東西の軍事的・政治的な境界は消えて,グローバ
45) Skidelsky (1995), pp. 112-115,訳143-146頁.
46) バルト3国の分離独立を軍事力で抑え込もうとしたが阻止できなかったこと,西側諸国からの
融資に頼るしかなくなったこと,再統一後のドイツがNATOに帰属するのを認めたことで,ゴル バチョフは権力を失った.それは,東ドイツの最後と似た面がある.またサロッティは,ゴルバチョ フの願ったソ連の民主化と経済改革は,ドイツや西側との一層緊密な協力関係と融資を得ていた ら実現できたかもしれない,という問題を検討している.Sarotte (2009), pp. 210-214.
47) Kaplan (2000), p. 57.
48) Kaplan (2000), p. 30.
リゼーションと呼ばれる市場統合が加速した.
1991年の湾岸戦争から
2008
年のリーマン・ショックまでを,ギデオン・ラッ クマンはグローバリゼーションの黄金期,「楽観の時代」としている49).アメ
リカは「砂漠の嵐」作戦50)でイラクに勝利し,ウォール街の金融力でも,情報・通信の技術革新や学術・芸術・娯楽などの分野でも,圧倒的な優位を誇った.
アラン・グリーンスパン連邦準備制度理事会議長の金融政策とクリントン大 統領の支持したハイテク投資や金融自由化は,90年代のインフレなき好景気 によってアメリカ衰退論を完全に拭い去った.2001年の
9・11
テロも,メキ シコやアジアにおける通貨危機と同様に,アメリカの優位性を損なうより,むしろそれを際立たせる例外的な不安と思われた.
確かに,2001年の
9・11
テロは,アメリカ政府やアメリカ人の考え方,心 理に大きな衝撃を与えた.しかし,1989年から現れたアメリカ中心のグロー バリゼーションは,この事件によっても基本的に変わらなかった.2. 1 2001
年「9・11」テロと国際秩序「2001年
9
月11
日の朝,ハイジャックされた2
機の民間航空機が,直接,ニューヨーク市で最も高い建築物であったワールド・トレード・センターの ツイン・タワーに飛び込んだ.2機の飛行機が爆発する熱とそれによって生 じた火災が,110階建てのビルの鉄骨を溶かして建物は崩壊し,2800名以上 が死亡した.」51)
マイケル・マンデルバウムの研究は,冒頭で,このテロ攻撃が新しい世界
49) Rachman (2009)の時代区分によれば,1978-91年:変容の時代,1991-2008年:楽観の時代,
2008年-:不安の時代,である.
50) 湾岸戦争のこと.1990年8月にクウェートに侵攻・征服したイラク軍を,1991年1月,ア
メリカを中心とした国連軍が攻撃した.ラックマンは,日本経済がバブル破裂後に停滞したこ とと合わせて,この戦争をアメリカの一極支配が頂点に達した事件としている.Rachman (2009)
pp. 85-88.アメリカ軍はその後,サウジアラビア防衛のために駐留した.アルカイダの指導者
ウサマ・ビンラディンはこれに反発した.
51) Mandelbaum (2003).
をもたらすことはない,と強調する52)
.むしろテロ事件は,200
年にわたっ て築かれてきた既存の政治経済秩序が壊れることなく,この先も続くことを 意味し,アメリカがそれを世界に広める責任を示したものだ.アメリカの優位・パワーは,リベラルな国際秩序を構成する三つの重要な思想,すなわち,平和,
民主主義,自由市場,が支配する世界を実現するためにある,とマンデルバ ウムは主張した.
主要諸国が参加する大規模な戦争の後には,戦勝国によって国際秩序が再 構築される.冷戦終結後の国際秩序は,グローバリゼーションとアメリカの 一極支配によって特徴づけられる.それはアメリカにとって,リベラルな国 際秩序を構築する
3
度目のチャンスであり,ヨーロッパを中心とした戦後の 平和が国際秩序の基礎となる4
回目の再編であった53).
アメリカが理解するリベラルな国際秩序の理想は,最初,1918-19年のヴェ ルサイユ講和会議でウッドロー・ウィルソンによって示された54)
.ウィルソ
ンの構想は国際連盟だけではなかった.マンデルバウムは,大陸規模の帝国 による支配が国際秩序を安定させる,という思想を,むしろ第一次世界大戦 の原因としてウィルソンは拒んだ,と考える55).それに代わる思想が,
平和(軍 縮と共通安全保障),民主主義,自由市場,であった.
平和(軍縮と共通安全保障)はヨーロッパで始まった.それは,本来,軍 事力を行使できる国家から戦争を取り除くような処置を取るという意味で,
52) 「9・11の事件は,政治・経済組織の普遍的な役割を組織するための支配的方法に対して,
真剣な挑戦者は21世紀にもない,ということを示した.」Mandelbaum (2003), pp.4-5.アメリカ では9・11を真珠湾攻撃にたとえて,アメリカが世界秩序を守るために戦う必要を理解した.
ラギーの序論「世界秩序への3度目の試み」は,1941年の真珠湾攻撃の2日後に行われたフ ランクリン・D・ルーズベルトの演説で始まる.Ruggie (1996), p. 1, 訳11頁.
53) 最初は,フランス革命とヨーロッパにおけるナポレオン戦争の終結を決めたウィーン体制.
次は,ヴィルヘルム2世のドイツ帝国がヨーロッパの覇権を求めてイギリスに敗北した.第3 回目も,ナチス・ドイツによるヨーロッパ支配が英米とソ連によって退けられた.
54) ウィルソンの理想はヨーロッパでもアメリカ議会でも否定されて実現せず,1945年,第二
次世界大戦後のチャンスは冷戦によって阻まれた.1991年のソビエト連邦崩壊と冷戦終結は,
アメリカの3度目のチャンスであった.
55) Mandelbaum (2003), p. 32.
癌の治療に似ている.マンデルバウムによれば,共通の安全保障(common
security)
という思想が,冷戦期のヨーロッパという特殊な条件によって完成された.冷戦下のヨーロッパにおいて,米ソ超大国は核戦争の恐怖を共有し,
軍備を制限するための交渉を積み重ねたのだ56)
.
そこには二つの原則があった.攻撃や占領ではなく,軍備を防衛に向ける.
相手の兵器やその配備状況に関する情報の透明性を高める.マンデルバウム は,ベルリンの壁崩壊やソ連解体よりも,ほとんど注目されていないが,共 通の安全保障がヨーロッパに出現したことを重視する.なぜなら平和が確保 されて初めて,リベラルな国際秩序は,民主主義的な意思決定と自由な市場 による社会の変容を受け入れることが可能になるからだ57)
.
リベラルな国際秩序は,市場による豊かさが歴史的に拡大する過程として 実現する58)
.なぜなら軍縮は,戦争する可能性のある国家間で,相互の積極
的な協力を必要とする.軍縮には,安定した主権国家への権力・軍事力の集 中と,社会の内部における変化が欠かせない.他方,民主主義と自由市場と は他国の繁栄をまねることで平和的に広まる.民主的な主権国家が,経済的 に繁栄するために,共通の価値や規範としてリベラルな国際秩序を受け入れ ることで,積極的な軍縮と平和を実現するのである.だからこそ,中枢諸国 がリベラルな国際秩序を守らねばならない59).
冷戦の終結は,軍事力による敵国の破壊や殺戮・制圧ではなく,文化の変 容が波及する過程,もしくは,信者の「改宗」として実現した60)
.同じように,
リベラルな国際秩序も平和的に(あるいは,平和を維持することで,民主化や経済
56) 1972年の弾道ミサイル迎撃システム制限条約ABM,1987年の中距離核戦力全廃条約INF,
1991年の第一次戦略兵器制限交渉SALTⅠ,1993年のSALTⅡ.さらに,1991年の米ソ間の 単独かつ互恵的な短距離核兵器削減,1990年ヨーロッパ通常戦力条約CFE,を挙げている.
Mandelbaum (2003), p. 108.
57) Mandelbaum (2003), p. 110.
58) Mandelbaum (2003), pp. 44, 230-231, 236-237.
59) Mandelbaum (2003), p. 237.また,次の論説を参照.Boot, Max, “U.S. foreign policy: In praise of nation-building,” Los Angeles Times, July 5, 2011.
60) Mandelbaum (2003), pp. 56-57, 60-68.
的繁栄を求める人々を増やして)拡大するのである.
こうして歴史的な楽観が
21
世紀の初めにも現れた.それは,20世紀初めと 違って,『危機の20
年』にはならないだろう61).マンデルバウムは三つの理
由を挙げた.① 核武装した大国を含む戦争は政治的手段として利用できなく なった.特に,道徳的な意味で受け入れ困難だろう.②20
世紀の大混乱・無 秩序をもたらす主な原因となった革命や独裁体制が少なくなるだろう.③ リ ベラルな政治システムを取る国が増えた.政治的な変化は緩やかなものにな るだろう.政治的な紛争は続くが,その多くが自由市場における勝者と敗者 として表現される.その結果,紛争は国家間の戦争ではなく,各国内の,あ るいは,リベラルな国際システム内の関係の変化になる.しかし,リベラルな国際秩序の平和的拡大が妨げられるケースもある,と マンデルバウムは注意深く指摘した62)
.政治的に見て,中枢の諸国が内外の
貧困や不安定化の問題解決に負担を避けようとすることだ.アメリカは軍事 的に負担する最大能力を持つけれど,日本やドイツの周辺においてまで負担 し続けることは,国内で支持されなくなるだろう.また,ロシアや中国が国 際システムから孤立し,独自の解決策を追求するかもしれない.また経済的 には,一方で,世界恐慌のような経済危機が起きるとき,他方では,経済的 繁栄をつづける結果として,エネルギーや資源の争奪,地球温暖化へのコス ト分担に失敗するとき,国際システムは不安定化する63).
冷戦下において行われた少数の民主主義国家による協力が難しくなる.特 に,テロや核兵器の拡散という問題を除けば,有権者の同意する周辺地域へ の関与は,分野も,財源も,非常に限られたものになるだろう64)
.国際公共
財の供給に関する「フリー・ライダー問題」が抑制できたのは,参加国が少 なく,アメリカの優位が圧倒的であり,安全保障問題の切迫した重要性を各61) Mandelbaum (2003), pp. 382-385.
62) Mandelbaum (2003), pp. 382-385.
63) Mandelbaum (2003), pp. 385-398.
64) Mandelbaum (2003), pp. 89, 94-95.
国が理解していたからである.冷戦後の協力には,既存の国際制度を各分野 で改革しなければならないが,それは難しい.
市場の拡大がすべてを解決するという幻想,アメリカの軍事的優位が秩序 をどこでも決定できるという幻想は否定された.市場統合により,各地で「ベ ルリンの壁」とその崩壊が生じる.ローカルな秩序とグローバルな市場圧力 との関係を調整できる制度が必要だった.
2. 2 破綻国家と国際介入
周辺におけるホッブズ的な世界については,その安定化と貿易や投資の拡 大のために,軍事介入を含む中枢からの関与が必要になる.アメリカが広め るリベラルな国際秩序があっても,その向こうでは秩序が崩壊し,破綻国家 の広がる地域が現れる.そして,その影響は中枢諸国にも還ってくる.
グローバリゼーションは,アメリカの圧倒的なパワーの下で,平和と民主 主義,自由市場を拡大しただけではなかった.実際は,ロバート・クーパー やパラグ・カンナが示したように,国家の崩壊や分離独立運動が各地で起き ている.ロバート・カプランが強調したように,マルサスやホッブズの無政 府状態が境界線の向こうで広がっている.また,モイゼス・ナイムなどが示 したように,犯罪集団が非合法取引による莫大な利益を上げている.移民・
難民や麻薬,武器密輸,テロ,人身売買(ポルノ・売春・臓器)
,伝染病,ギャ
ンブル,贈収賄・資金洗浄とタックスヘイブン,など,周辺から中枢諸国に 問題が広がり,民主主義や市民的秩序を脅かしている65).
9・11テロの後,安全保障についてアルカイダとアフガニスタンとのつな がりが注目された.「破綻国家(failed states)」がアメリカにとっての主要な脅 威である,という認識が広がった.特に,カプランの著書66)が一つの転機となっ
65) Cooper (2004);Freemantle (1996);Khanna (2011);Naim (2005);Strange (1996).
66) 特に,Kaplan (2001).さらに,次の論説を参照.Patrick, Stewart (2011) “The Brutal Truth,”
Foreign Policy, July/August, pp. 55-57.
て,アメリカは安全保障政策を見直し,文明的な世界を守るため,テロだけ でなく破綻国家の脅威に取り組む姿勢を示した.カプランは,バルカン半島,
西アフリカ,中央アジアなど,辺境の地を旅行し,その土地がなぜこれほど 混乱し,暴力に侵され,貧しいのか,「文化,政治,地理,歴史,経済がいか にもつれ合っているか」を理解しようとした67)
.
「ベルリンの壁崩壊のような,時代を画する軍事的・政治的勝利に続く数年 間は,リアリストたちにとって寂しい時期だ.」長く苦しい戦いの後に,勝 利は素晴らしい理想の世界を実現することを約束しているように見えるか ら.しかし,第一次・第二次世界大戦がそうであったように,この勝利も,
「生存を賭けた次の戦いの始まりに過ぎない.悪は新しい仮面を被ってやっ てくる68)
.
」辺境における不安定化をもたらしたものは,1989年の冷戦終結やグローバ リゼーション,アメリカによる軍事介入の失敗であった.マンデルバウムは,
アメリカが安全保障における負担能力から見ても,次第に不安定化する世界 を単独で行動するゴリアテのような巨人ではなくなる,と指摘した69)
.
しかも,中枢の国民は周辺に比べて豊かで,それゆえ野蛮さを嫌う.極端に貧しい地 域に対して,資源以外には利害関心を持たない.国際介入の必要な事例が増 える中で,逆に,中枢の政治的合意はともなわず,不安定な地域が中枢から 分離・放棄されてしまう70)
.
アメリカの非営利調査機関
The Fund for Peace
71)が,2005年以来,破綻国67) Kaplan (1996), p. 9.リアリストとして,カプランの関心は,現実のパワー(もしくはアナー
キー)と社会の諸要素を経験と観察によって結びつけることにある.
68) Kaplan (2001), p. xi.
69) Mandelbaum (2005).
70) Mandelbaum (2003), Chapter Six; pp. 183, 186, 198-199.
71) http://www.fundforpeace.org/global/また,Foreign Policy, July/ August, 2010; Foreign Policy, July/
August, 2011. 特にFSIの基準についてはhttp://www.fundforpeace.org/global/?q=fsi-about
家になる可能性のある国やその要因を分析し,破綻国家指数(FSI)を作成し ている.特に,テロ組織や大量破壊兵器が,こうした破綻国家を経由して拡 散し,アメリカを含む富裕な民主国家にも害を及ぼす超国家的な脅威になり うる,と警告している.
破綻国家指数(FSI)は,破綻国家の特徴として挙げる
12
の基準(①人口爆発,②大量難民,③抑圧・差別された集団,④慢性的な頭脳流出,⑤経済発展の偏り,⑥貧 困・経済状態の急激な悪化,⑦汚職の蔓延などによる政府への不信,⑧公共サービスの 悪化,⑨集団的迫害・人権侵害,⑩治安の悪化,⑪特定エリート集団に偏った政治シス テム,⑫外部からの介入)について,それぞれ
10
段階の破綻度を評価し,合計 する.これらの基準は,国内の独裁や政策失敗による無秩序の拡大という面と,国境を越えた介入や市場変動,紛争の波及という面をとらえている.
冷戦後の暴力や犯罪,国家・社会秩序の崩壊は,もちろん,ベルリンの壁 崩壊の直接的な結果ではない.しかし,国家間の戦争が減っても,周辺にお ける内戦や秩序の崩壊(新しいアナーキー)が進むとき,それを安定化し,市 民的秩序と経済発展に結びつくような国際介入と治安回復,貿易や投資の支 援メカニズムを提供できるなら,問題を解決するうえで重要な前進となる72)
.
世界銀行は,内戦や犯罪によって深刻な影響を受けた地域においては,そ れらが再発する傾向があり,政治・社会秩序も弱体化して,国際的な支援を 受けても開発が成功する見込みは低い,と指摘している.逆に,深刻な暴力 を解決した社会は,しばしば国際社会の支援を得て,著しい発展の利益を実 現した73).
破綻国家指数でも,その他の統計でも,アフリカには深刻な問題を抱えてい る国が多いとわかる.そのアフリカの人口転換は,もし治安が回復し,権力の
72) 特に世界銀行のホームページから次の講演を参照.Zoellick, Robert B. (President World Bank Group), “Beyond Aid,” George Washington University, September 14, 2011.(ロバート・B・ゼーリッ ク世界銀行総裁「援助を超えて」)http://siteresources.worldbank.org/INTKAZAKHSTAN/News%
20and%20Events/23001014/RBZ_GWU_Speech_Beyond_AidFINAL.pdf (2012年1月15日,取得確認)
73) World Bank (2011), p. 51.特に,エチオピア,モザンビーク,ルワンダ,を例に挙げている.