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春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考 察

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著者 遠城 悦子

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 48

ページ 79‑104

発行年 1996‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011216

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春華門院昇子内親王は、建久六年(二九五)八月に、後鳥羽天皇と中宮宜秋門院任子の間に生まれた皇女である。任子は関白九条兼実の娘であり、したがって、昇子は兼実の外孫にあたる。そして、昇子は誕生してから数ヵ月後の建久六年十二月に、八条院の猶子となっている。春華門院昇子への八条院領の伝領については、中村直勝氏が次のような見解を示されている。建久七年(二九六)正月に、八条院領の大部分が、以仁王の遺児で、八条院の猶子となっていた以仁王の姫宮に処分された。そして姫宮の死後、伝領されていた所領が八条院に戻され、昇子(1)に譲られたとされている。その背皇皐として、中村氏は、源 はじめに

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城)

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察

平争乱の発端となった以仁王の挙兵は、八条院の了解の下(2)に行なわれ、八条院領がその財源となったとされている。この中村氏の説を、石井進氏は、荘園史研究における伝領派の代表とされる中村氏の学風をよく示した好論文と評さ(3)れている。さ》bに、近年、女院領の伝領について述べられている野村育世氏・伴瀬明美氏も、八条院領が以仁王の姫宮を経て昇子に譲られたとされたうえで、次のように述べられている。まず野村氏は、八条院は以仁王と近い関係にあり、八条院が以仁王の挙兵に関係がないとはいえない動きをしていても、一連の乱に連座することなく以仁王の姫宮を養育して所領の相続人に指定できたのは、八条院の存在が、王権中枢部から超越した位置にあり、それゆえ王権が崩壊する

遠城悦子

七九

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法政史学第四十八号

(4)のを防ぐことができたとされている。また、伴瀬氏は、八条院は、以仁王の姫宮を相続人として決めていたが、建久七年(’’九六)正月の八条院の病による女院領処分の際、昇子の父後鳥羽天皇が昇子への伝領を主張したものの、八条院は聞き入れず、安楽寿院領をはじめとする八条院領は以仁王の姫宮に伝領されて、姫宮の死後、昇子に処分されることとなったとされ、女院が治天の君の意向に対抗しうるだけの強い処分権を持っていたことの証左とされ(5)ている。ところが、橋本義彦氏は、建久七年正月に、八条院が以仁王の姫宮に所領を譲ろうとしたもののそれが許されず、(6)女院の没後、昇子に譲られたとされている。また、中野栄夫氏は、九条家文書の中の八条院から昇子への所領譲状目録から、建久七年正月に、八条院から昇子に所領が譲られ(7)たとされている。このように、春華門院昇子への八条院領処分については、二通りの解釈が成されているのである。したがって、所領の伝領の過程を再検討する必要があろう。そして、伝領過程が後者であれば、前者の伝領過程にもとづく八条院の位置づけについて、考察し直す必要があろう。また、私は以前、旧稿において、建久七年の政変につい ての私見を述べたが、その中で、兼実は、少なくとも建久七年(二九六)正月の時点で、関白を辞職する意向を固めていたこと、昇子が、天皇の外戚を狙う兼実にとって期(8)侍していた外孫ではなかったことを一水した。仮に、建久七年正月の時点で、八条院から昇子に所領が譲られていたのであれば、昇子が、誕生してから数ヵ月の問に八条院の猶子となり、外祖父兼実が進退問題を懸案している時期に、八条院から所領を伝領されていることは、兼実の進退が関わっているものと考えられはしないであろうか。本稿は、このような観点から、春華門院昇子内親王の八条院領伝領の経緯と九条家との関わり、さらに、春華門院没後の八条院領の変遷について、考察を試みようとするものである。

(1)中村直勝「安楽寿院領」四○九頁(『中村直勝著作集』四荘園の研究、淡交社、’九七八)。(2)同「以仁王の挙兵と八条女院領」(『歴史と地理』七’五、’九二一)。(3)石井進「源平争乱期の八条院周辺」六頁(同編『中世の人と政治』、吉川弘文館、’九八八)。(4)野村育世「王権の中の女性」一一一七~三八頁(峰岸純夫編「中世を考える家族と女性』吉川弘文館、一九九二)。 八○

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八条院から春華門院昇子に所領が譲られたことは、九条家文書に収められている、次の史料によって確認できる。この史料を、便宜上、史料〔1〕とする。|結銘云、八条院被し奉レ譲二姫宮状、加二女房消息一一通八条院被し献二宜秋門院一御書元久元年五月廿三日(A二通八条院被し譲二中宮姫宮一状建久七年正月十四日(B)一通歓喜光院御讓文建久七年十二月廿四日

(C二通八条院御教書敵鵬庄鮒鍬之云々建久七年正月十四日

一通法皇御惣処分状正文在二内裏一十通女房状等已上

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) (5)伴瀬明美「院政期~鎌倉期における女院領についてl中世前期の王家の在り方とその変化l」五三頁(『日本史研究』一一一七四、’九九三)。(6)『国史大辞典』「八条院」(橋本義彦氏執筆)。(7)中野栄夫「九条家領播磨国田原荘・蔭山荘の成立」’三一一一頁(『法政大学文学部紀要』一一一九、一九九四)。(8)遠城悦子「建久七年の九条兼実『関白辞職』」(『法政史学』四六、一九九四)。八条院から春華門院への伝領 一結銘云、八条女院の春花門への御文とも十三(D二通智恵光院御讓文建久七年正月

(E)|通御庄個御譲文議兆露繩零蝿紙磐灌静蕊一

(F二通蓮花心院御讓文建久二年十月(G)一通安楽寿院井歓喜光院御譲文建仁二年十月(H)|通山上住院御讓文元久元年五月(1)|通高野伝法院・覚王院印・菩提心院御譲文元久元年五月

(J)一通御領一一一ヶ所御譲文事鰯吐罐銀町鐡艸舐疏薊際す

-通西御方間事一通三位殿等事一通高倉殿事一通中納言中将事一通女房達事已上これらの譲状は、建長八年(一二五六)八月に作成され(l)た「九冬奎家重書目録」に収められているものである。本論にはいる前に、(F)の年月について検討したい。(F)は、蓮花心院領の八条院から春華門院昇子への譲状である。(F)の年月は、建久二年(二九一)正月となっているが、昇子が生まれるのは、建久六年(二九五)八月である。よって、(F)の建久二年正月というのは、目録

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が作成された際に、書き誤ったものと見られる。(G)の年月が建仁二年(一二○二)十月とあり、或いは、(F)は、建仁二年十月を、建久二年十月と誤ったのではないかと推察される。史料〔1〕の譲状の中で、建久七年(二九六)正月十四日の日付のものは、『玉葉』同日条の内容と照合する。『玉葉』同日条には、次のように記されている。この史料を、便宜上、史料〔2〕とする。八条院御悩、為二危急「暫不レ可レ及二其沙汰一歎、明日参二彼院一随二御有様「可一一左右一之由仰了、入し夜参内、自一一八条院一以二長経朝臣一為二御迎『被し献二御跡一事「被し奉レ処.分姻宮司之状所し被し進也、即奏二事由「申二御返事一了、安楽寿院、歓喜光院等所し被し奉也、又庁分御庄々等、分.賜中将良輔一之外、併可レ有二姻宮御分一也、但故三条宮御娘先年可し被レ相1承女院御跡一之由、御処分了、佃被二一勘一之問、不し可レ有二相違{其後、此姻宮一向可レ為二御沙汰一之由、所し被二申置一也、八条院領が「姫宮」に譲られたことが記されている。では、この「姫宮」とは誰のことであろうか。まず、傍線部①②の「姫宮」と、傍線部③の「姫宮」を検討してみる 法政史学第四十八号

と、「故三条宮御娘」の前に「但」がきているから、傍線部①②の「姫宮」と「故三条御宮娘」とは別人とみなさなければならない。傍線部③の「姫宮」とは、「此」がきているから、文脈上、直前の「故三条宮御娘」を指している。この「故三条宮御娘」とは、以仁王の遺児の姫宮である。では、傍線部①②の「姫宮」とは誰を指しているのであろうか。八条院から所領分与の書状をこの「姫宮」(実際は、兼実)にもたらした使者は、「長経朝臣」という人物である。この長径は、先に掲げた史料〔l〕の(C)にもその名が見えている。|方、『玉葉』の他の条でこの長経を捜してみると、建久七年(’二九六)正月十日条に、「参二八条院{謁二仁和寺宮(被し示二女院御後事等一大略無二其愚一御座云々、可二奉行一之院司也、凡無二其人一云々、年預長経朝臣、兼姫宮年預、然而、去二其職一可二奉行一之由、余申し之、依レ有二先例一也」とみえ、八条院領の処分に際し、それを司る適当な人物がいないため、「姫宮」の年預である長経にそれを命じている。また、正治二(’二○(2)○)年一一月一一一日に、長経は中宮任子の奉幣の陪膳を務め、同年六月二十八日の任子の院号宣下に伴う院司の選定にお(3)いては任子の年預になっている。これらのことか三b、「長経朝臣」は九条家に近い人物であり、傍線部①②の「姫

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宮」とは、任子の娘、すなわち昇子内親王(春華門院)とみなされよう。したがって、史料〔2〕は、「安楽寿院領・歓喜光院領は、昇子に譲る。その他の八条院領については、良輔と分け合うこと。以仁王の姫宮については、先年すでに所領を分与しているから、その所領を領知すること」と解釈されよう。そのことを示すのが、史料〔l〕の(A)であろう。安楽寿院領・歓喜光院領は、春華門院昇子に譲られ、以仁王の遺児の姫宮には伝領されなかったのである。確かに、八条院領が以仁王の姫宮を経て昇子に譲られたとする見方からすれば、「但故三条宮御娘先年可し被レ相.承女院御跡一之由、御処分了、佃被二一勘一之間、不し可レ有二相違「其後、此姫宮一向可レ為二御沙汰一之由、所し被二申置一也」は、「先年、以仁王の姫宮との間で、八条院領を譲る約束をしていて、既に譲ってしまいました。だから、以仁王の姫宮の死後に、八条院領を昇子に譲ることとする」と解釈され、史料〔l〕(A)は、八条院から昇子への所領の譲状ではなく、いずれ八条院領を譲ることを約束した置文と見なされよう。しかし、ここで八条院領庁分である、相模国二宮河勾庄と和泉国字多勅使田に関する史料をみてみたい。

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) まず、河勾庄については、嘉禎四年(一二一一一八)四月の安嘉門院庁政所下文(『鎌倉遺文』五一一三五号)に、「寄。進八条院一(中略)、其後春花門院御伝領之時、子細同前、次佐渡院御相伝之後、如二二代之先例一無二一方之違乱一然間承久乱逆之後、被し進二安嘉門院御領一之時」とあり、また、『昭慶門院御領目録』(『鎌倉遺文』二二六六一号)の、正安四年(乾元元年)(’一一一○二)に、大宮中納言から後宇多院に進献されたものとして含まれている。ちなみに、史料〔l〕(E)の加賀国熊坂荘、(J)の播磨国田原庄、駿河国服織庄、安芸国安摩庄も、後宇多院に進献された庁分のなかにみえる。河勾庄が、以仁王の姫宮を経ずに、八条院↓春華門院(昇子)↓順徳院↓安嘉門院から後宇多院へと伝えられたことがわかる。|方、宇多勅使田については、藤原定家が著わした『後鳥羽院熊野御幸記」の

建仁元年(’二○|)十月六日条に「宇多庄楠綴鵬飾」と

あり、また、河勾庄と同様に、『昭慶門院御領目録』後宇多院に進献された庁分に見いだせる。管見の限りでは、宇多勅使田の、八条院以降の所有者に関する史料はこの二点である。宇多勅使田は、八条院↓八条院姫宮↓後宇多院へと伝えられたと考えられる。さて、ここで注目したいのは、『後鳥羽院熊野御幸記』

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で、字多庄の所有者が、「八条院姫宮」と記されていることである。この「八条院姫宮」とは誰のことであろうか。八条院領を譲られた姫宮には、昇子と以仁王の姫宮が挙げられる。当該期に、定家は『明月記』において、昇子は「|品宮」(建仁二年正月一日、五月六日、十日、十九日、廿八日、八月廿二日条)と記している。|方、以仁王の姫宮は、「彼姫宮」(建仁二年八月廿二日条)と記されており、姫宮が没したことを述べた元久元年二月廿七日条には、「八条院号二姫宮一人」と表記されている。このことから、「八条院姫宮」が、一品の昇子内親王を指しているとは考え難い。「八条院姫宮」は、八条院の猶子となっていた以仁王の姫宮と見なされ、宇多勅使田は、以仁王の姫宮に譲られていたということになる。そうなると、八条院領が後宇多院へ伝えられるまでに、個々の庄によって、二通りのルートを経ていることになる。二通りのルートとは、ある庄は、八条院↓春華門院(昇子)に伝領したルートと、それとは別の庄は、八条院↓以仁王の姫宮に渡ったルートである。このように、八条院領の中の個々の庄の伝領過程をたどってみると、八条院↓昇子と、八条院↓以仁王の姫宮の二つの伝領ルートが存在することが明らかになった。ここ 法政史学第四十八号

で、史料〔2〕の『玉葉』の記事の解釈に、目を転じたい。この記事を、八条院領が、八条院↓以仁王の姫宮↓昇子へと伝領されたと解釈する、つまり傍線部①②③の「姫宮」を昇子とみなすと、実際の伝領過程と矛盾が生じるのである。一方、傍線部①②の「姫宮」を昇子と、傍線部③の「姫宮」を以仁王の姫宮とすると、史料〔2〕は、八条院領は、建久七年の時点で、昇子と(良輔と)以仁王の姫宮に分与されたと解釈され、実際の伝領ルートが二通りあることと一致するのである。さらに、史料〔2〕の中の、昇子に八条院領を譲ることを記した「被し奉レ処。分姫宮一之状所レ被し進也」「安楽寿院、歓喜光院等所し被し奉也」には、動作の対象を敬う謙譲語の意味を持つ「奉」が用いられている。これに対して、「此姫宮一向可レ為二御沙汰一之由」には、尊敬を表わす品詞が使われていない(この場合、「沙汰をする」は自動詞だから、他動詞につく「奉」は使われない。尊敬の品詞がくるとしたら、「被二御沙汰一給」であろうか)。このことからも、傍線部③の姫宮は、内親王である昇子を指しているのではなく、皇族ではあっても内親王ではなく、後で詳しく述べるが、謀反人の子と見なされていた以仁王の姫宮を指していると考えられる。したがって、「但故三条宮御娘先年可し被レ相.承女院御 八四

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跡一之由、御処分了、価被二一勘一之間、不し可レ有二相違「其後、此姫宮一向可レ為二御沙汰一之由、所し被二申置一也」は、次のように解釈されよう。すなわち、「(八条院領を昇子に譲られることを、八条院がしたためられた書状が届いたので、すぐに奏上しますと返事を申し上げた。その讓状には、安楽寿院領・歓喜光院領等を昇子に献上されると書いてあった)但し、以仁王の姫宮にも、先年既に八条院領の一部を譲ってあります。一寸調べて(「勘」Ⅱよく調べる)みたところ、間違いありません(との内容だった)。そのあと、(再度八条院から)以仁王の姫宮には、先年譲った所領をもっぱら領知するようにします、と申された」と。「其後」は、死後の意ではなく、単に時間の経過を示したものとみられ、「申置」は、置文を作成するという意ではなく、「言い置く」を丁寧に使うときの表現方法である。よって史料〔2〕は、八条院領が、建久七年正月に、昇子と良輔と以仁王の姫宮の三人に、それぞれ分け与えられたことが記されているといえるのである。安楽寿院領と歓喜光院領が昇子に譲渡されたことを示すのが、史料〔1〕にある(B)(G)の譲状であろう。しかし、ここで問題となるのは、(B)(G)の年月日が、『玉葉』の記事と一致しないこと、歓喜光院領の譲状が二

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) 通あることである。このことはどのようにとらえればよいのであろうか。所領の伝領が、双方の間で約諾が交わされているのに、伝領がすんなりと行なわれなかった例として、九条良通の皇嘉門院領伝領がある。良通は兼実の子であるが、皇嘉門院の猶子となり、皇嘉門院領の一部を伝領することとなっていた。しかし、兼実の異母兄の松殿基一房がこの伝領に異議を唱え、皇嘉門院は基一房の主張を一時受け入れ、良通に譲ることになっていた所領を、基房に譲ったのである。しかし、最終的には、当初の約束通り、良通が伝領すること(4)となった。所領譲渡の約束があっても、第三者の異議申し立てにより、伝領が滞る場合もあり得るのである。安楽寿院・歓喜光院領の昇子への譲状が、『玉葉』の記事と一致しないことを明確に示す記述は、管見の限りでは記録類にみられない。しかし、良通の皇嘉門院領伝領についての経緯を念頭に置いてみると、『明月記』建仁二年(一二○一一)八月一一十二日条の次の記事に目をとめたい。一品宮御目病此間忽御平減、自二広隆寺一直可レ御二院御所一云々、此事皆有し故歎、末代人口只如レ狂、彼姫宮於二日吉一奉レ呪。誼人々一之由、権門辺人々謁歌披露云々、近代生老病死、只有二悉呪誼之間『非二呪誼一

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者、無二病死之狂一之由人存歎、是皆業報耳、(中略)又一品宮、一一一位中將殿、井其妻近日連々病悩、是又彼姫宮呪狙云々、|事以上無し益、可レ悲世也、二品宮」とは、春華門院昇子のことである。建仁二年五月、昇子は目を煩い、その病状は重かったらしく、昇子は(5)八条院と日士口社に参詣したり、八条院女房で昇子に仕えて(6)いた健寿御一別と参篭したりしている。さて、この昇子の眼病について、定家は「彼姫宮」の呪誼によるものだと述べている。そして、この「彼姫宮」は、兼実の息の良輔とその妻も呪調したと記されている。この「彼姫宮」とは、以仁王の遺児の姫宮であるという。ここで思い起こされるのは、史料〔2〕に記された、安楽寿院・歓喜光院領をはじめとする、八条院領の処分の内容である。この時、安楽寿院・歓喜光院領は昇子に、他の女院領については、良輔と分け合うこととされ、以仁王の姫宮には、以前与えられたもの以外に所領は与えられなかった。つまり、姫宮にとっては、不満の残る処分内容だったのである。およそ「呪誼」の噂というものは、支障を来す相手を不利な状況にするために、l「栄華物語」にみえる、藤原伊周が、花山院に弓を引いたり、臣下が行なうことを禁じられていた大元帥法を行なったという噂で配流となり、か 法政史学第四十八号

わって道長が繁栄したのは、道長側がこの噂の発信源とみ(7)られるようにIその直後に栄進する側が流したとみなされることが多い。そこで、九条家の昇進についてみてみると、この呪誼の噂の三ヵ月後の建仁一一年(’’’○一|)十月(8)二十一日に、兼実の政敵であった源通親が「頓死」し、同年十一月二十七日に、氏長者が近衛基通から兼実の息良経に替わり、同年十二月二十五日には、摂政も基通から良経(9)に替わっている。建久七年(’’九六)に兼実が関白を辞職して以来六年の間、九条家にとっては「冬の時代」であったが、ここにようやく、九条家に「春」が到来しているのである。また、『明月記』の著者藤原定家の同腹の姉で、昇子に仕えた健寿御前が記した『健寿御前日記』には、以仁王の姫宮が昇子を呪誼したという記述はみられない。姫宮と昇子は共に八条院の猶子で、八条院御所に居住していた。さらに、この健寿御前は、八条院に仕える以前、以仁王の同腹の姉の亮子内親王(般富門院)に仕えており、「参二斎(い)宮一訪。申健御前{奉レ抱二姫宮こと、以仁王の姫宮を養育(Ⅱ)していた。『健寿御一別日記』には、八条院に仕える女一房・侍達についてや、平氏に奉じられて西走した安徳天皇に替わる新天皇の人選に関する八条院と後白河院との対話が記 八六

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されており、八条院御所内の様子が詳細に書き残されてい(皿)る。姫宮の昇子呪誼が事実であれば、健寿御前は、呪調事件そのものでなくとも、間接的表現で書き留めたのではないであろうか。『明月記』に、以仁王の姫宮が昇子と良輔を呪誼したという記述がなされているということは、この姫宮が二人に対して何らかの障害を与えていて、九条家側としては、それが支障となっていたからではないであろうか。その原因が、建久七年二一九六)正月の八条院領処分ではないかと考えられる。中村直勝氏は、安楽寿院領が以仁王の姫宮に伝領されたとみなされたのだが、その背景として、以仁王の平家打倒の挙兵の際に、八条院が挙兵を了承し、女院領がその財源(旧)となったとされている。八条院と以仁王の間に、そのような深いつながりがあったのであれば、以仁王の姫宮としては、いわば戦争孤児であるわが身に、八条院は援助の手を差し伸べてくれると期待していたであろう。しかし、建久七年(二九六)正月、八条院領の大方は、以仁王の姫宮にではなく、昇子と姫宮にとっては異父弟の良輔(二人の母は、八条院女房三位局)に渡ることとなった。この時、八条院は、以仁王の姫宮に内親王宣旨が下されるよう働きかけたのだが、父親が親王ではなく、しかも犯罪人である

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) ことを理由に、兼実をはじめ他の公卿達から反対され、内(M)親王になれなかった。以仁王の姫宮は、このような処遇に不満を募らせ、昇子の安楽寿院・歓喜光院領の伝領に異議を申し立てていたのではないであろうか。元久元年(’一一○四)二月一一十七日に、以仁王の姫宮は没するのであるが、姫宮の死について、『明月記』には、「日来依二此病気一女院一品宮御二他所((中略)病又殊無二重間事一卒爾之問人成し疑歎、此三ヶ夜有二赤気一云々、母(旧)儀近日参。篭賀茂「不し被し知二重病由一云々」「一口、宮御少年之間、邪気護身有し偉由披露、渡二御破壊御願寺一先々此人邪気叫喚狂乱錐連日事、不し被し去二其所一之故、人頻奇思云々、貞命法眼凪夜近習云々、世称二難産「其本性極不(垢)直、虚誕議一一一一口之他無也」と記されている。姫宮の死が突然のことで、lしかも、姫宮の母八条院三条局は参篭中で、参篭から出てきてから、姫宮の死を知らされたI人々が首を傾げたこと、姫宮が「狂人」で、その邪気から逃れるために、昇子は八条殿から避難していた。なぜ、昇子は避難しなければならなかったのか。それは、八条院領の伝領について、姫宮と九条家との対立が背景となっていたと思われる。昇子呪誼の噂を九条家側から流され、姫宮は九条家に対して恨みを募らせていたであろう。さらに、

八七

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姫宮の不自然な死から穿った見方をすれば、九条家が刺客を放った可能性もありうる。それゆえ、姫宮の死に際し、怨霊の存在を信じ、恐れていた当時にあって、九条家は、昇子を物怪に取り懸かれないよう、避難させる必要があったのであろう。元久元年(’一一○四)四月一一十三日、兼実は、自らの所領を娘の宜秋門院任子に譲り、任子の死後は道家に伝える(Ⅳ)旨の譲状を作成している。その中に、「就二姫君領「不し勤二年貢{不し従二庁役「然而入一一目録「被し下二官符一了、佃注。入之一」とあり、いくつかの所領をこの「姫君」に譲っている。では、この「姫君」とは誰を指すのであろうか。『玉葉』において「姫君」と記されているのは、任子すな(旧)わち宜秋門院であるが、それは入内一別に関してであり、入(旧)内後は「女御」と、文治六年四月の立后後は「中宮」と記(別)されている。また、この時の譲状では、任子を「宜秋門院」と記しており、「姫君」とは記していない。この時期に姫君と記されるくらいの年齢の女子というと、任子の娘で兼実の外孫の昇子内親王が挙げられる。しかし、昇子は皇族であるから、「姫君」ではなく「姫宮」と記されるはずである。けれども、他に該当する女子は見当たらず、この譲状の他の箇所で「宜秋門院」と記されている任子のこ 法政史学第四十八号

とを指しているとは考え難い。兼実がこの「姫君」に与える所領に対して、「不し勤二年貢「不し従二庁役一」と特別な配慮をしていることから、この「姫君」は、兼実の外孫の昇子を指すものと考えられる。さて、元久元年に、兼実が所領を処分するきっかけとなったのは、自らの健康問題を憂慮してのことであろう。『明月記』元久元年(一二○四)同年四月十日条には、「宰相中将殿参二法性寺殿一絵、女院自二昨日一渡御云々」と記され、良経・良輔と「女院」が法性寺殿に集まっている。兼実の譲状は四月一一十一一一日に書かれているから、三人が法住寺殿に集まったのは、兼実の所領処分についての相談とみられよう。ところで、この「女院」とは誰を指すのであろうか。当該期の『明月記』において、「女院」と記されて(別)いる条、例えば、「参二八条殿一夜前女院一品宮御二西殿一」「故斎院御二八条殿一之問、依レ思二御附属事一奉レ呪1狙此姫(犯)宮井女院こなどをみてみると、「女院」と記される場ムロは、八条院を指している。また、「女院」と書いて八条院(、)以外の女院を指す場〈口は、「女院、宜秋」と記している。したがって、兼実の所領処分の相談に、法性寺殿に来た「女院」は、八条院とみるべきであろう。兼実の所領処分の相談時に、八条院も加わっているということは、この時

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の兼実の所領処分に際して、八条院も幾らかの所領を、猶子である昇子に与えるからではないであろうか。それが、史料〔l〕(H)(1)の譲状とみられる。さらに注目したいのは、史料〔1〕(E)の割注の「可レ為二御進退一之趣被レ載し之」である。「御進退」することがこの譲状に記されているというのである。では、この「御進退」とは、どのようなことを指しているのであろうか。この譲状が書かれたのは、建久七年(一一九六)正月であり、史料〔2〕の『玉葉』建久七年正月十四日条に記されている経緯から出されたものであろう。そして、その三日後の『玉葉』建久七年正月十七日条に、「大相国被し来、可二上表一事、被二示合一也、不し可し被二早了一由答了」と記されているのである。「御進退」とは、この兼実の「可二上表一事」を指しているとみられよう。つまり、八条院は、兼実の関白辞職の意向を耳に入れていて、それに伴い、所領を昇子に譲ったと考えられる。このように、八条院は、自身に関わる理由からではなく、兼実の進退や健康問題に関わることで、兼実の外孫の昇子に所領を与えている。このことは、八条院が兼実にとってどのような存在であったかを示しているといえよう。かって兼実は皇嘉門院の猶子とされ、その所領を相続

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) し、皇嘉門院領は九条家領の核となった。野村育世氏によれば、皇嘉門院は、摂関家の「氏后」としての立場よりも、九条家という「家」の独立を推進する立場を採ったの(別)だという。また、五味文彦氏によれば、兼実が八条院に頻繁に出入りするようになるのは、皇嘉門院の死後であり、庇護者を失った兼実は八条院を頼りにする存在として接近(妬)していったとされている。実際、八条院は建久七年(一一九六)正月、自身の健康問題から昇子に安楽寿院・歓喜光院領をはじめとする所領を与えた。のみならず、兼実の進退・健康問題に関わっても昇子に所領を与えている。五味氏は、兼実の春日詣の関係文書が八条院に関わる文書群の中にあることから、八条院と九条家が密接な関係にあり、(妬)八条院は九条家を後援していたとされている。八条院が昇子に、兼実の進退に関わって所領を与えたことは、兼実との密接な関係が前提となろう。八条院は、兼実が期待していた以上に九条家一族の庇護者であったといえよう。このようにして、九条家の外孫昇子内親王は、八条院の所領を伝領した。兼実が昇子の母の任子を、後鳥羽天皇の後宮に入内させたのは、皇子を儲けて東宮に立て、ゆくゆくは天皇の外戚の地位を得るためであった。しかし、任子に生まれたのは皇女であった。それでも、兼実は任子の第

八九

(13)

二子に期待をかけていたのだが、後鳥羽天皇の女房として仕えていた僧侶能円の娘が皇子を出産した。この能円の娘の母は、兼実の政敵である源通親に再嫁しており、通親は、義理の娘が皇子を出産したことで、妻の連れ子を養女(”)として迎え、皇子を目、bの外孫としたのである。昇子が八(油)(羽)条院の猶子となるのは、通親の「外孫」が誕生してか『b(卯)|ヵ月後、兼実が辞職の決意を固める一ヵ月一別のことである。おそらくは、兼実は、後鳥羽天皇の女房が皇子を出産し、その皇子が通親の手元に引き取られた経緯を耳にしたのではないであろうか。僧侶の外孫ならば、天皇の外戚競争に障りはないが、村上源氏の外孫としてなら、東宮に立つことも可能である。窮地に追い込まれた兼実は、最後の善後策として、自らの関白辞職により、有力な後見人を失う外孫の昇子を、九条家の後援者である、八条院の猶子としたのではないであろうか。確かに、兼実や良通が皇嘉門院と猶子関係を結び、皇嘉門院領を相続したことに鑑みれば、兼実が昇子を八条院の猶子にしたことは、八条院領を相続させるための下準備と見なすこともできよう。しかし、ここで当時の女性が生きていく基盤を考慮したい。『今昔物語集』には、「六の宮の(別)姫君の夫出家の雪四「中務大輔の娘、近江の郡司の稗とな 法政史学第四十八号九○

〈犯)りし語」等の、貴女零落の説話が多くみ》られる。いずれも、両親のなくなった娘が、身分相応の暮らしが出来ずに落ちぶれていったという話である。これらの説話について、脇田晴子氏は、婚姻形態が、妻問婚や婿取婚であった当時の女性達が身分に相応した生活を維持していくには、富や権力を持ち後楯となる親の存在が必要であったことを(羽)指摘されている。このことをふまえると、兼実が、関{ロ辞職の直前に、昇ヱ上と八条院の猶子としたことは、自らの代(弧)わりとなる後楯を必要とI)たからであるといえよう。いわば、昇子は、兼実の権力への野望からその生を受け、そして、兼実の失脚によって、不遇な内親王として生きなければならないのである。信心深い兼実は、自身の勝手によって、昇子を不幸な目に遭わせてしまうことに罪の意識を持ったに相違ない。このように、兼実が所領伝領のためではなく、後見を依頼するために、子上メを女院の猶子とした例として、兼実の息良輔についてみてみたい。文治元年(’’八五)九月二十日、良輔は兼実と八条院の有力な女一房三位局との間に生まれる。兼実は、「落胤女子甚異様事也、而生二男子一弱)可し悦々々、即遣二護剣一腰二と、男子誕生を喜んでいる。そして、文治一一年(’’八六)二月四日には、八条院

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の猶子となっている。このことに関して、『玉葉』には、「件児、彼院女房三位殿腹、件参上儀、最密儀、以二女院八(郷)葉御車一被二迎取一也一云々」と、大蔵卿宗親の妻が乳母として参上したことが、「最密儀」のことと記されている。また、良輔の八条院御所での五十日百日の儀が、「依二密議一(師)無二陪膳人一」と記されている。さらに、文治三年(’一八七)十月一一十一一一日の真菜の儀では、「余参一一八条院一依二小(胡)児真菜事一也、依二密々儀一不し引二移馬{網代車也」と、兼実は、「密儀」により、馬ではなく車で出向いている。また、建久元年(’一九○)十二月十七日の着袴の儀でも、

「余小童、姓縛於二八条院「有二着袴事一価余参入、大将

(洲)相伴、子細有し別、密儀也」と、この時も「密儀」と記されている。また、建久二年(二九一)正月に、兼実と良経等が法成寺に出向いた際に、良輔は、父兼実の車にでは(川)なく、良経の車に同乗させ》られている。そして、建久五年(二九四)四月十九日には、良経が良輔を養うために引(⑪)き取りに来たことが記されている。良輔の通過儀礼に際して、兼実が「密々儀」としたり、実の父親でありながら、息良経に父親のような振る舞いをさせるのはなぜであろうか。この点については、小川寿子氏の指摘に注目したい。氏は、鳥羽天皇と待賢門院璋子と

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) の間に生まれた目君(通仁親王)について、次のような見解を示されている。目君誕生の際に、宮中から御剣が母子に送られたことについて、「御剣内々従し院被レ奉レ内」(『中右記』元永二年五月廿八日条)と記され、命名に際しても、「若宮御名可二撰申一之由内々自レ院被し仰云々」(『永昌記』天治元年六月十日条)と記されており、白川院が「内々」に取り行なっていること、御名文が勅筆ではないこと(『永昌記』天治元年六月廿二日条)、また、御産祈願の祈祷については、「錐し為二本院沙汰一新院為二中宮御産御祈一被し行也」(『永昌記』天治元年一一一月廿七日条)と、産養

の九夜については、「皇后宮被レ設二御産養儀一脈脳肺峨 レ鵬雌鞭也」(『永昌記』天治元年六月七日条)と、ここで

も、実際は白川院が行なっていることを明かすような記述になっていることを挙げられ、鳥羽天皇の次男目君も、長男顕仁親王(後の崇徳天皇)と同様に、鳥羽天皇の子ではなく、白川上皇の子である可能性が高いことを指摘されて(枢)いる。目君が白川上白三の子であることが、表沙汰にはできないものの、それが周知のことであったので、「内々」と記されたり、上皇が裏で指図していることが書かれたりしているというのである。このことを、良輔に関する『玉葉』の記述になぞらえる

(15)

と、兼実が「密々」と記しているのは、良輔を自分の子と

して公にはできない事情があったのであろう。ではその事

情とは何であろうか。良輔は、兼実と八条院女房三位局と の間に生まれた。この三位局という人は、以前は以仁王の 妻であり、皇子(道尊)と皇女を儲けている(〔関係系 図〕参照)。先にふれたように、八条院が、この以仁王の 遺児の姫宮に内親王の宣旨が下されるよう働きかけた時、 兼実は、犯罪人の子であることを理由に反対している。つ まり、以仁王は犯罪人として認識されていたのである。良

輔の生まれた文治元年頃は、源平争乱の記憶がまだ人々の

記憶に新しく、争乱のきっかけを作った以仁王は、犯罪人

と見なされていたであろう。その犯罪人の妻との間に子を

成したということは、兼実にとって体裁が悪く、自分の子

として公にすることはできなかったのであろう。そのため、「玉葉』に「密々」と記せざるを得なかったと考えられる。このことをふまえると、良輔が八条院の猶子となったのは、兼実が八条院との絆を堅固なものにするためとの見方(旧)がされているが、それは疑問である。兼実が、八条院の有

力な女房三位局と親しい関係になったのは、八条院に保護

を求めようとするためであったが、子どもができたことは 法政史学第四十八号

|||

;11

育姻関関 養実婚 係孑係

予想外のことだったのであろう。そのような状況のもとに 生まれた良輔を、兼実は公に認知できなかったため、八条

〔関係系図〕

藤原俊成lHⅡⅡⅡ趣寿御荊I‐‐L‐I「「「し 一一

以仁王(八条院猶子)

一「「「「「[HⅡ曄雫(八条院湘子)一

中階盛章女(八条院女房三位局) 良輔(八条院猶子)一 良経 任子

T昇子(八条院猶子)

後鳥羽

(16)

院にその後見を託して猶子としたとみられる。昇子、良輔が八条院の猶子となったのは、後見者である兼実が、後見できない状態になったため、後見を託すために、八条院の(M)猶子となったとい》えよう。

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) (1)『九条家文書』一四九九号(『図書寮叢刊』)。(2)『玉葉』正治二年二月一一一日条。(3)『玉葉』正治二年六月廿八日条。(4)『平安遺文』三九一一一一号。(5)「明月記』建仁二年五月六日、十日条。(6)『明月記』建仁一一年五月十三日条。(7)『栄華物語』巻第四、第五。(8)『猪熊関白記』建仁二年十月廿一日条。(9)『公卿補任』建仁二年。(皿)『明月記』治承四年五月一日条。(Ⅱ)『健寿御前日記』解説二四~一一七頁(玉井幸助校註『健寿御前日記』〔日本古典全書〕朝日新聞社、’九五四)。段富門院は、以仁王の皇子で中階盛章女(八条院女一房三位局)所生の道尊を猶子としているから、『明月記』治承四年五月一日条にみえる、健御前が段富門院のもとで養育していた「姫宮」とは、道尊と兄妹(姉弟)の姫宮、すなわち、三位局所生の以仁王の姫宮とみられる。当初は、般富門院に養育されていたが、後に八 条院の猶子となったのであろう。(皿)『健寿御前日記』五一一「八条院の女房」、五三「八条院のさぶらひ」、六二「うつりかはる世」。(旧)中村直勝「以仁王の挙兵と八条女院領」(前掲)。(u)『玉葉』建久七年正月十二日、十一一一日、十五日、十六日条。(旧)『明月記』元久元年二月廿七日条。(旧)『大日本史料』四’八、元久元年二月廿七日条。(Ⅳ)『鎌倉遺文』’四四八号。(旧)『玉葉』文治四年五月十四日、六月舟日、八月四日、同五年正月十二日条等。(旧)『玉葉』文治六年一一一月十二日、十三日、十七日、十九日、廿三日、廿七日、四月一一一日、廿日、廿一一日、廿六日条等。(別)『玉葉』文治六年五月三日、八日、九月十日、十月一日、十一月十四日、十六日、十九日、十二月廿一日条等。(Ⅲ)『明月記』建仁二年五月十九日条。(皿)『明月記』建仁二年八月廿二日条。(閉)『明月記』建仁三年二月廿一日条。当該期以外の例として天福元年九月六日条の「女院宜秋川」が挙げられる。(別)野村育世「家領の相続に見る九条家」二六頁(『日本歴史』四八一、’九八八)。(閉)五味文彦「八条院をめぐる諸権門」五一一~五三頁(『小川信先生古稀記念諭集日本中世政治社会の研究』続群書類従完成会、一九九一)。

(17)

法政史学第四十八号

(別)同右、一一一六~三八頁。(汀)遠城悦子、前掲論文六六~七一頁。(昭)『三長記』建久六年十一一月五日条。(羽)『歴代編年集成』『皇代記』では、建久六年十一月一日、『伏見宮御記録』『皇代暦」『本朝皇胤紹運録』では、建久六年十二月二日。(帥)『玉葉』建久七年正月十七日条。(別)『今昔物語集」(角川文庫)本朝仏法部下巻、’九’五。(皿)『今昔物語集』本朝世俗部下巻、三○’四。(冊)脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、’九九五)一四~一五頁。(弧)秋山喜代子「養君にみる子どもの養育と後見」(『史学雑誌』一○一一’一、’九九三)。氏によれば、天皇家において、強力な外戚を持たない皇子女を、祖母(女院)が引き取ることが実に多いことが指摘されている。この秋山氏の見解をふまえると、昇子が八条院の猶子となるのが、兼実が関白辞職の意向を固める時期の直前であることから、昇子を八条院の猶子としたのは、所領獲得が主たる目的ではなく、昇子の後見を託したものと考えられる。(妬)『玉葉』文治元年九月廿日条。(胡)『玉葉』文治二年二月四日条。(師)『玉葉』文治二年二月十日条。(羽)『玉葉』文治三年十月廿一一一日条。(胡)『玉葉』建久元年十二月十七日条。 建暦元年(一二一一)に、春華門院昇子は一七歳で没する。では、兼実と八条院から春華門院に譲られた所領は、その死後、どうなったであろうか。春華門院没後の八条院領については、中野栄夫氏が、八条院領播磨国田原・加賀国熊坂庄が春華門院の死後、宜秋門院を経て九条通家に伝わり、九条家と皇室の双方が領有していたことを示されて(1)いる。一つの荘園の本所が二重になっているということは、特異な例といえよう。そこで本章では、春華門院没後の八条院領の伝領の仕方についてみていきたい。八条院領については、史料T〕に記されている智恵光院・蓮花心院・歓喜光院・安楽寿院・高野伝法院・覚王院。 二春華門院没後の伝領 (川)『玉葉』建久二年正月十二日条。(u)「玉葉』建久五年四月十九日条。(岨)小川寿子「白川院と〃目君“通仁親王」一一二~二五頁(『学芸国語国文学』一一五、’九九三)。(岨)小池桃子『玉葉』にみたる九条兼実の後室構造に関する一考察」一一四~一一五頁(『政治経済史学』二二一一、’九八五)(u)秋山喜代子前掲論文七四頁。氏によれば、父親の死により保護者を失った子が養君に出されることが多いという。 九四

(18)

(2)笠ロ提心院領が、「昭慶門院御領ロロ録」の中の、安嘉門院が作成した所領略目録である「皇后宮職御管領目六」にみえている。山常住院については、その名が見えないが、同目録に、「叡山常住金剛院」があり、このことではないかと思われる。これらの所領は、皇室に戻されたが、他のいくつかの所領は、九条家領となっている。そこで、これらの所領の伝領過程について見ていきたい。元久元年(’二○四)四月に、兼実から春華門院に譲られた所領は、山城国東九条圧、河内国黙野庄、和泉国大泉圧、伊勢国和田庄、同国山郷庄、同国富田御厨、尾張国杜(3)圧、参河国士ロ良庄、遠江国小奈御厨である。このうち、山城国東九条庄、河内国黙野庄、和泉国大泉庄、伊勢国和田庄、同国山郷庄、同国富田御厨が、「九条道家初度惣処分状」(以下、「道家惣処分状」と記す)にみえる。まず、和泉国大泉庄と伊勢国和田庄は、八条院領加賀国熊坂庄(史料〔1〕に見られるように、建久七年正月に、八条院から春華門院に伝領された)と共に、道家から九条禅尼(道家息教実室)に譲られている。そして、和泉国大泉庄については、「件所年貢、被し充二宜秋門院高野護摩供料(於二領家(4)職一者、依二故女院仰一譲し之」1と、また、伊勢国和田庄と加賀国熊坂庄については、「已上和田庄以下六箇所、宜秋門

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) (5)院御領譲レ干し予其内也」と記され、ニーヵ庄が宜秋門院から道家に譲られたことがわかる。伊勢国山郷庄と富田御厨は、道家から息一条実経に、(6)「家領女院方」として譲壱われている。「道家惣処分状」において「女院」と記されるのは、宜秋門院であるから、このニヵ圧も、宜秋門院から道家に譲られたものといえる。山城国東九条庄は、八条院領である安楽寿院領備中国駅里庄と共に、道家から教実息(道家孫)九条忠家に、「家(7)領女院方」1として譲られている。このニヵ庄も、宜秋門院から道家に譲られたものであることがわかる。このように、兼実から春華門院に譲られた所領は、宜秋門院を経て道家に譲られている。そして、その中には春華門院に譲られた八条院領も含まれている。したがって、兼実と八条院から春華門院が伝領した所領は、春華門院の死後、皇室に戻された八条院領を除いて、昇子の母宜秋門院に渡ったのである。従来、九条家領の伝領については、兼実↓宜秋門院↓道家のラインとみられていたが、春華門院昇子もこのラインに加えられるべき相続人であるといえよう。昇子を加えた九条家領の伝領過程は、次のようになる。この図に示したように、春華門院の遺領は、皇室と宜秋

九五

(19)

門院任子に渡り、宜秋門院に渡ったものは道家に伝わった。皇室に戻された安楽寿院領のうち、駅里庄については、建武三年(一一一一三六)の「左大将(九条道教)家政所(9)注進当知行地目録案」によれば、九条家は駅里庄の領家職をもっていたことが確認できる。なぜ駅里庄の領家職が九

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口1

法政史学第四十八号

九条家領の大部分

兼実↓春華門院に譲られた九条家領

安楽寿院領等八条院領の大部分

八条院領熊坂庄・田原庄等及び安楽寿院領駅里庄(領家職)

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条家に渡ったのかは不明である。ところで、摂関家が忠通によって近衛家と九条家に分けられ、それぞれの祖である近衛基実と九条兼実が、摂関家出身の高陽院泰子(忠実の娘)と皇嘉門院聖子(忠通の娘)と猶子関係を結び、その(川)女院領が家領の核となったことは既に指摘されている。この猶子関係について、高群逸枝氏は、摂関家出身の女院の所領が皇室領化するのを防ぐために、同族と猶子関係を結(Ⅱ)んだとの見方をされている。任子も甥の道家と猶子関係を結び、九条家領は、兼実↓任子↓道家へと渡り、皇室領とはならなかった。しかし、春華門院と八条院の場合はどうであろうか。春華門院が猶子関係を結んだ八条院から伝領した八条院領のうち、熊坂庄・田原庄が九条家領となっている。つまり、皇室領が九条家領化しているのである。八条院と春華門院との猶子関係は、高陽院と基実や皇嘉門院と兼実の場合とは逆の利益を九条家にもたらした。九条家の外孫である春華門院が八条院の猶子となったことで、九条家は八条院領の一部を獲得したのである。では、これら以外の、春華門院が八条院から伝領した所領はどうなったであろうか。史料〔1〕(J)の「するかのハとりの庄、あきのあまの庄(駿河国服織庄・安芸国安(皿)摩庄)」である。服織庄は、「昭慶門院御領目録」に見い出 九六

(20)

(旧)せ、安摩庄は、久我家文書に、「安嘉門院御領」として記されており、「道家惣処分状」にはこのニヵ庄は見られないから、皇室に戻されたとみなされよう。ところが、奇妙なことに、九条家に渡ったはずの田原庄が、「昭慶門院御(川)領ロロ録」に「安嘉門院御跡」として入っているのである。また、熊坂庄について、『経俊記』に、「依レ召参二安嘉門院一熊坂・小豆鴫、可レ為二法華堂領一之由被レ下二院宣一為一一被(旧)見一也云々」と記され、安嘉門院領となっていたこし」が分かる。これらのことはどのようにとらえればよいのであろうか。このことを検討するのに、「道家惣処分状」に記された次の史料に注目したい。筑後国三毛山門庄件所、頼行朝臣以二相伝文書一藻壁門院御時寄進、被し下二御下文「又被し成二宣旨一畢、而以レ謂レ被し載二八条院古文書一安嘉門院令二押領一給畢、未曾有(胴)事也、筑後国三毛山門庄は、宜秋門院に仕えていた女房丹後の(Ⅳ)父源頼行か》bの所領で、道家の娘の藻壁門院博子に寄進され、九条家領として安堵された所領にもかかわらず、安嘉門院が八条院領であるとして押領したというのである。この三毛山門庄や、田原・熊坂庄のように、九条家領と安嘉

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) 門院領の双方の所領となっている圧に、美濃国古橋庄があ(旧)る。この古橋庄は「昭慶門院御領目録」には八条院領庁分とされ、『勘仲記』によれば、弘安六年(一一一八三)十月(旧)に、安嘉門院の五七日法要を営む用途領としてみ一え、安嘉門院領となっていた。しかし一方、古橋庄は「道家惣処分(別)状」にも見いだせ、「佐々木女房譲進所々」として、摂津国富嶋庄・越前国和田新庄・同国東郷庄と共に、一条実経に譲られている。このうち、富嶋庄は、「昭慶門院御領目録」に、「歓喜光院領摂津国富嶋庄中納言中将由緒州伝之問、

被莚。座一」と記され、八条院領の中の歓喜光院領であっ

たことがわかる。ところが、この富嶋庄は、「道家惣処分(皿)状」には、「佐々木領」と記されており、九条家は一邑嶋圧を、歓喜光院領として認識していなかったことがうかがえる。また、「昭慶門院御領目録」にも、「中納言中将由緒相(”)伝」と記されているから、一畠嶋庄を九条家から譲り受けた一条家も、歓喜光院領とは認識していなかったと考えられる。にもかかわらず、九条家から富嶋庄を譲り受けた実経から数えて四代目の内経は、この富嶋庄を皇室に返付している。このことは、外部からの要請があったからではないであろうか。ここで思い起こしたいのが、「道家惣処分状」に記された、安嘉門院が、九条家領の筑後国三毛山門

九七

(21)

荘を八条院領であるといって、押領したことである。安嘉門院は、承元三年(’一一○九)に、後高倉院と北白河院陳子との間に生まれた。貞応二年(一一一一一三)五月、(別)後高倉院か》b八条院領を含む所領を譲り受けている。そのためか比較的裕福であったらしく、所有する御所を貸した(渦)り、調度品の修繕を自一bの所領で賄い、儀式の際に内裏に(妬)貸し出したり、馬長(神事などの際に、宮中から引かれる馬に乗る騎手)を内裏からとは別に安嘉門院個人から提供(”)している。また、『経俊卿記』には、安嘉門院に関して「参院、安嘉門院被し申、尊恵僧正訴申近江国耳浦庄事、衆徒訴申者、女院御領之儀無二相違「僧正知行可し宜之由、(油)可二申沙汰一之旨内々被二仰下一」と記され、所領に関する訴えについて、その決裁を院に求める際に、内々に院に働きかけている。このことは、他の女院たちが、例えば「嘉陽門院被し申、河内国東馬伏庄事仰止レ寄.進浄金剛院一子(四)細先可レ問二尊恵僧正二と、天皇や院の指示を単に仰いでいることとは対象的である。さらに、「又参二安嘉門院之(犯)次一多気庄事可し申、其次条々有二□被し申之旨一」「此次奏二(別)条々-又多気圧事、申一一安嘉門院御返事之趣二との記事も見いだせ、多気庄の件について、安嘉門院と天皇との間で、意見の交換があったことがわかる。これらのことか 法政史学第四十八号

ら、安嘉門院は、自己の所領について関心を持ち、所領の略目録を作成するなど、所領経営に積極的に携わっていたと思われる。安嘉門院が、自ら所有する所領に関して、どのくらい関心を持っていたかが、『明月記』の「去比或槐門、依二世途之険難一御領一所可レ給之由、懇「一望安嘉門院一依二家領之隣(被し申二安楽寿院領一依レ有二鳥羽院御遺誠等一不し許、念(犯)怨事更無二道理由緒『鳴呼之由有二沙汰一一云々」からうかがえる。ある槐門Ⅱ大臣が、経済的に苦しいので、安嘉門院に所領のなかの一カ所を譲ってほしいと願ったところ、安嘉門院は大変怒り、とんでもないことと許さなかった。安嘉門院が伝領した八条院領は、膨大な所領である。ある大臣も、そのことをふまえてねだったのであろうが、一所たりとも譲らないという安嘉門院は、八条院の、『健寿御前日記』に記された「例ならぬ御事のたびたびに、をりにつけたる御後見達の、御蔵なりける物は、とりはらはれたろとて、後にぞ、所々の請文などいひて見えしかど、その折りは、かずかずに申すことだになし、又、きこえあるほどのものは、二条院、後白河院、申させ給ひけるとて、御蔵には、塵よりほかに、のこりたるものはなしと聞きしか(羽)ど、なにともおぽしめさず」という鷹揚さは、およそ持ち 九八

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合わせていない。所領に関しては締まり屋であったことがうかがえる。このことをふまえると、安嘉門院は、父後高倉院から譲り受けた八条院領について、文書上伝領しているはずのいくつかの所領が九条家に渡っていることを発見し、その返還を九条家に求めたのではないであろうか。この返還要求が、「道家処分状」にみられる、三毛山門庄の安嘉門院の(思い違いによる)押領や、後の一条内経の富嶋庄返付と考えられる。そして、熊坂庄についても、安嘉門院と九条家との間に確執がみられる。このことについて、『経俊卿記』には次のように記されている。A一条前摂政被し申、加賀国熊坂庄事仰、以一一女院御返(狐)事之趣一可し申、(建長八年九月十六日条ヵ)

之証文非し無二子細一価先被レ止二当時之沙汰一之由、自二女院一被し申之由有二勅定一之旨申し之、畏申之由被申御教書し之、其間条々有二御問答事{此子細次退出大切之由被し仰し之、然而当時無二其沙汰一之上、不し可レ及二別御教書一之由、女院有し仰之旨申し之、次退出、(建長八年九月十七日条)C依レ召参二安嘉門院{熊坂・小豆鴫、可レ為二法華堂領一 事之趣一可し申、B予参二一条殿一

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) 之問、被し申二関東一寄一「附法華堂領一了、然而今所し被し進 熊坂庄事、為二後高倉院御譲状内御領一 之由被レ下二院宣一為二被見一也云々、(正嘉元年九月七日条)Aでは、道家の息一条実経が奏上してきた熊坂庄のことについて、「女院」の返事をもって答えるという。その「女院」の返事が、Bの傍線部である。それによると、熊坂庄は、後高倉院から譲られた所領で、(承久の乱後、後鳥羽上皇から鎌倉幕府に没収され)幕府からの命で、後高倉院の法華堂に寄進したので、今行なわれている知行をやめるようにという。そして、熊坂庄が法華堂領であることを安堵した院宣が下されたことがCで確認できる。この院宣を披見するために、経俊が召しにより参上した所は、安嘉門院である。さて、ここで問題となるのが、A・Bに記された「女院」とは誰かということである。熊坂庄は、「道家惣処分(羽)状」では、道家から息教実の室九条禅尼に譲られ、禅尼の

死後は教実の娘宣仁門院彦子に譲り、その後は、彦子と猶

子関係を結んでいる忠家の息に譲るように定めている。ところが、Bの傍線部の中に、「為二後高倉院御譲状内御領一之間」とあり、この「女院」も、後高倉院から熊坂庄を譲り受けている。承久の乱後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇から没収した八条院領を含む所領を後高倉院に与えた。そして、

九九

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後高倉院が、貞応二年(一二一一一一一)五月一一一日に、崩御に先(記)立ちその所領を与えたのは、娘の安嘉門院である。ということは、Bに記されている「女院」とは、安嘉門院ということになる。このことは、Cで、経俊が、Bの経緯で出された熊坂庄の法華堂領安堵の院宣を、安嘉門院に召されて披見していることと符合する。Bの「女院」が安嘉門院ということになると、Aの「女院御返事」がBの傍線部であるから、Aの「女院」も安嘉門院ということになる。そして、Bの傍線部は次のように解釈できよう。すなわち、「熊坂庄は、私(安嘉門院)が、父後高倉院から譲り受けた所領で、(承久の乱後、|時鎌倉幕府が管轄していたので)幕府と相談して、後高倉院を弔う法華堂に寄進しています。今ここにそのことを証明する文書はありませんが、まずは九条家の知行を停止して下さい」と。つまり、安嘉門院は、熊坂庄は自分の有する所領であって、九条家領ではないと言っていることになる(なお、Cの小豆嶋庄は、本家が安嘉門院で、九条家は領家職を所有している)。したがって、A・B.Cは、熊坂庄の本所が安嘉門院と九条家の二重になっていることを九条家が糾したが、安嘉門院の主張が通り、安嘉門院領となったことを示す史料である。或いは、安嘉門院が八条院領関係の文書をもとに、九 法政史学第四十八号

条家に熊坂庄の返還を求めたことから、一条実経がことの是非を奏上したのかもしれない。ともあれ、熊坂庄は、九条家の正応六年の忠教文書目録・建武三年の九条家当知行(師)地目録案・応永一二年の経教遺戒等にはみられない。一方、嘉元四年(一三○一一一)六月、後宇多上皇が熊坂庄等の所領(犯)を昭慶門院領とする院宣を出している。安嘉門院領は、室町院・亀山上皇・後宇多上皇を経て昭慶門院領となっているから、熊坂庄は、この一件をもって安嘉門院領となったことがわかる。では、熊坂庄と同じように、九条家と安嘉門院の双方が本所となっている田原圧はどうであろうか。田原庄は、「道家惣処分状」にはみられず、正和五年(一三一一一)の一音院所領目録に見られ、道家が建立した一音院に、道家が「御祈料所」として公文職を寄進していることから、田(羽)原庄は道家の所有するところとなっていたとされている。また、建武三年(一三一一一六)の「左大将(九条道教)家政(㈹)所中心当知行地目録案」に、「播磨国田原庄一円」と記されているから、田原庄は九条家領となっていたことがわかる。|方、「昭慶門院御領目録」にも、田原圧は「安嘉門(机)院御跡」として入っており、安嘉門院領にもなっている。安嘉門院の、熊坂庄や三毛山門庄の奪回をふまえると、安 ’○○

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嘉門院は、田原圧についても返還を要求したと推察される。返還を要求されても道家が応じなかったのか、あるいは、本所が二重になっていることに双方が気づかずに、自身の所領として処理していたのであろうか。このように、安嘉門院は九条家に対して、春華門院から渡った八条院領を返還するように求めた。安嘉門院の三毛(化)山門庄押領の暴挙を、「未曾有之事」と憤慨した道家は、安嘉門院をどのように受けとめていたのであろうか。道家の日記『玉蘂』には、管見の限りでは、これに関することは記されていないが、「経俊卿記』に、「北白川院去夕崩御云々、(中略)去亥時許俄以崩御、安嘉門院之外不一|令し候レ逢給一(中略)先是参二安嘉門院{謁二備中局一了、次向一一内府許一即被二出逢一安嘉門院中事可二何様一乎、其問事禅門(い)且被二不審一之故也」と記されている。北白河院の崩御に際し、娘である安嘉門院だけが臨終を看取ったことに対し、道家は、二人の問で何が成されたのか不審がっている。道家は、徹底した所領管理をする安嘉門院に対して警戒感を持っていたことがうかがわれる。安嘉門院と道家との間には、双方が伝領した伝領した八条院領をめぐって、諄いがあったに相違ない。これまでみてきたように、安嘉門院が九条家に八条院領

春華門院昇子内親王の八条院領伝領についての一考察(遠城) の返還を求めていることから、春華門院が伝領した八条院領は、春華門院の没後はすべて皇室に戻されるものであったと考えられる。ところが、いくつかの庄が九条家に入ってしまった。これらの庄の八条院領の中の領分を見てみると、歓喜光院領富嶋庄以外の、熊坂・田原・古橋庄は庁分である。では、庁分の所領が九条家に渡ったのかというと、そうではない。服織庄・安摩圧は庁分であるが、春華門院の没後皇室に戻されている。また、八条院領庁分の相模国二宮河勾庄は、史料T〕の春華門院への譲状目録にはみられないが、「安嘉門院庁政所下文」に、「寄。進八条院「(中略)其後春花門院御伝領之時、子細同前、次佐渡院御相承之後、(中略)承久乱逆之後、被し進二安嘉門院御(“)領一之時」と記され、八条院から春華門院に譲一bれ、春華門院の没後は皇室に戻され、安嘉門院領となっている。これらのことから、九条家に入った八条院領に明確な区分があったとは考え難い。春華門院は八条院領の他に、外祖父の九条兼実から九条家領の一部を譲られていた。このことから憶測すると、春華門院の没後の所領整理の過程で、八条院領の一部が、あやまって九条家領と混同されて九条家に入ったものと思われる。九条家に入った八条院領のうち、道家から一条実経に譲られた、庁分の古橋庄と歓喜光

参照

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