著者 塩沢 裕仁
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 62
ページ 1‑40
発行年 2004‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011500
許昌(漢以前には〃許〃、〃許都“ともいう。魏により〃許昌〃と改名され、以後”許昌“が汎用される。以下本稿では特に断わりのない限り〃許昌“を用いる)は後漢王朝末期の国都(一九六~一三○)であったにもかかわらず、先行研究は頗る少なく、都市としての様相はほとんど把握されていない。しかしながら、許昌は漢魏の結節点にあり、屯田制の施行や兵戸制の出現といった後漢より魏晋への移行期における極めて重要な問題を含んでいる。よって本稿では許昌をめぐる議論を喚起すべく、一一○○一年九月、一一○○一一年八月、一一○○三年一一一月の現地踏査を踏まえ、漢魏許昌城(以下許昌城とも略す)単体に止まらず、屯田や屯営の区域などとの関係をも考慮し、許昌を取り巻く地域空間まで含めた地域総体ととも略す)単体に止まらず、幸しての許昌の様相を探究した。なお、本稿では、ある特定の都市を内包し政治・経済・防衛面においてその都市と密接な関係を有する地域空間をもって、〃都市空間“という表現を使用する。この意味において、屯田の開設された〃許下“とはまさに〃許昌の都市空間〃という認識でとらえる地域空間である。
漢魏の都城〃許昌“(塩沢)
漢魏の都城〃許昌〃
はじめに
塩沢裕仁
1「水経注」の記載について漢魏許昌城の所在について最も遡及しうる史料は、北魏末鄭道元によって編纂された「水経注」である。「水経注」は許昌城を考える上で時間軸上比較的近い時期の情報を提供してくれる。「水経注」では許昌城に関する記事が一一一箇所で確認される。以下に同書巻二一一の漢水条(①)および浦水条(②、③)に記載される許昌城関連記事をみていくが、時代によっては頴水が泥水や撰水の河道を流れるなど、頴水をはじめとする黄准平原の河川流路の変移は著しく、「水経注』の記事を考察するにあたっては、流路の変移が前提条件として存在することを認識しておかなくてはならない。 本稿でいう許昌の都城遺跡(許昌故城)について、「河南省志』(文物志、地名志)、「中国文物地図集』(河南分冊)、『二○世紀河南考古発現與研究」では、現許昌市の東南東約二○m、張播鎖東方の瓢店村・盆李村一帯に残存する故城遺趾、(1)通称張播故城に比定している。しかし、その比定に関する論考は、陳有忠氏の「許日日城阯考」と黄留春氏の「許都故城調(2)査記」とを挙げるに止まる。このような研究情況に鑑み、許日已城に関する議論をはじめるにあたっては、張播故城への比定の妥当性からまず検証する必要がある。よって、本章では前掲二者の成果を検証しつつ、諸々の地方志や文献史料の分析を通して許昌一帯の歴史的な変遷を理解するとともに、張播故城への比定の妥当性を確認しておきたいと思う。
に、狼淵②浦水条 ①漢水条 法政史学第六十二号澳水は又た南して、穎陰縣故城の西を暹ぐ。魏明帝、司空の陳華を封じて侯國となす。その水、城の西より分れてことなり、枝津は東南に出で、又た東して許昌城の南を暹ぎ、東して獲破水に流れ入る。澳水は又た東南し、宣梁破水と合す。破水は上に狼破を頴陰城の西南に承く。肢は南北二十里、東西十里なり。春秋左傳に日ふ、楚子の鄭を伐つに、狼淵に師するはここなりと。その水東南して許昌縣に入り、巨陵城の北を蓬ぐ。鄭の地なり。 漢魏許昌城の所在と許昌一帯の歴史的変遷 一一
ところで、②において許昌城が浦水域にあると認識してしまうと、①と②の間で許昌城の所在に関して不整合が生じる。したがって、②における許昌城の記事は、許男国の説明のところに許昌城に関する注釈を挿入したものと理解すべきである。さらにその理解を補うべき内容を示すと、①では〃許昌縣に入る“と述べており、②でも〃許昌縣を逵ぐ“であることから、②のみが許昌縣治の所在を示すものと解釈することはできない。因みに、「水経注疏』巻一七渭水条の”綿諸縣に入る〃に対する脚注で、楊守敬は〃入“を綿諸縣の縣界に入るという意味に解釈している。同様な事例が『水経注』では随所で確認されることから、〃縣に入る〃という「水経注』の表記は、縣界もしくは縣域に入ると解釈すべきであると思う。 城の説明にまで及ぶ。 縣に入っている。②をみると、浦水は長社縣城(北魏の穎川郡治)を蓬ぎたのち分枝し、一枝は東北に流れて沙水に注ぐ。本流は東流して許昌縣を暹ぎたのち、泣倉城内を経てさらに東流する。この許昌縣のところに許男国の説明が挿入され、ひいては許昌 消水は又た東南して桐邸城を蓬ぐ。春秋左傳の荘公二十八年、楚は鄭を伐つ。鄭人のまさに桐邸に奔るは、即ちこの城なり。杜預の春秋鐸地に日ふ、頴川許昌城の東北なりと。京相瑠日ふ、鄭の地なりと。今の圖になし、而して城はいま存す。西南に許昌故城を去ること一一一十五里とすべし。俗にこれに名して隈といふ。その城の南は即ち長陽にして、固より浦水の北防なり□西は桐郎に面す。その城は邪長にして方ならざれば、蓋し瀝邸の穂、即ち城の名ならんや。(3)①をみると、撰水は穎陰縣故城(現許日日市ないしその近郊)の西で分枝する。枝流は東流して許日日城の南を流れ、さらに東流して獲破水に入る。一方、澳水の本流は東南に流れて宣梁破水を合わせるが、その宣梁破水は巨陵城の手前で許昌 なり□浦③浦水条
漢魏の都城〃許昌“(塩沢) 浦水は又た東南し、分れて二水となるなり。その枝水は東北して沙に注す。一水は東して許昌縣を蓬ぐ。故の許男國なり。(中略)漢章帝の建初四年、馬光を封じて侯國となす。春秋佐助期に日ふ、漢は許昌を以て天下を失ふと。魏は漢の歴を承るに及び、遂に許昌と改名するなり。城内に景福殿基あり。魏明帝の太和中に造りしもの、準債八百餘萬なり。浦水は又た東して泣倉城内に入る。
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図一楊守敬『水経注図」
法政史学第六十三号
故に、①および②にみられる”許昌縣〃については、〃縣城”もしくは〃縣治〃という表現ではないことからも、許昌縣域を示す表現であるととらえるべきである。以上、許昌縣をめぐる①と②に対する検証過程で、許昌縣域についても大筋においてその形状が明らかになる。許倒縣は、
北および北西で長社縣(ほぼ現在の長葛縣)に、西で顕陰縣(現 在の許H市および許昌縣の西部)に、南で臨頴脾(ほぼ現在の
臨頴縣)に、東で鄙陵縣(ほぼ現在の都陵縣)に接する。この環境において、北部を浦水がきり、南部を宣梁破水がきるという空間を考えると、許昌縣は南北に長い縣域をもつ牌であったと考えることができるのである。ところで、浦水条では②よりもさらに下流において、桐郎城に関する記事を取り上げる。これが③である。ここでは桐邸城と許昌城との位慨関係が示されている。剛道元は杜預の『春秋鐸地」を引いて、桐郎城は許昌城の東北にあるとする。杜預は西晋の人(二一一二~八四)である。したがって、杜預にとって許昌城は同時代的にとらえている対象であり、的確に許昌城の位置を把握しているといえる。よって、桐邸城が郡陵(現安陵鎮)の東に位置するならば、それはまさに許昌城の東北という(4)}」とになる。現在扶溝縣には桐郎城に比{正される故城阯があり、その西南には現在許例城に比定されている故城遺肚、通称張添Ⅲ’
2張播故城への比定をめぐって『水経注』以外にも許昌城の所在に関する記事は様々な時代の文献の中で確認される。まず、許昌城の所在について方位(5)と里程を記載している主な史料を列挙する。 なお③で注Ⅱすべきは、〃許昌故城〃という表記である。”故城“という表現が使用されていることより、これまで明確にならなかった許R城の情況が、北魏末の段階ですでに〃故城〃という状態にあったことが理解できるのである。これは後述する東魏以降の許閏縣治の許川への移設(復置)を考える上で極めて重要な情報である。そしてそれはM時に、「水経注』編纂時において許昌縣治が許n日城以外の何処に置かれていたかという今後を期すべき課題をも導き出している。 ないかと推測している)。 故城が位置する。『水経注」の内容に沿って整理された楊守敬の「水経注図」(図二を見ても近隣の立地情況が概ね理解できる。しかし、両城の距離を一一一十五里(約一一○m)とする③の里程には実測値(二六m)との間に誤差が認められることから、その数値については注意を要する(『水経注疏」注釈中で熊会貞は頴川に赴任したことのある鄭道元の目測値では 許故城は、許州許昌縣の南三十里にあり。もと漢の許縣、故の許國なり。②「史記」巻四川魏枇家、注引「史記正義」南風は、今の許州許呂縣の南西四十里、許日日故城これなり。この時韓に属す。魏の南にあり。故に開園といふ。③『元和郡縣志」巻九許州、許昌縣故の許昌城は、縣の南四十里、即ち許國故城なり。許昌宮は許昌故城の中にあり。楊修の許昌宮賦を作るは即ちこの宮なり。④「太平壹宇記」巻七河南道、許州、許昌縣魏略に日ふ、後漢の建安元年、魏の太祖、献帝を迎えて許に都すとは、即ちこの邑をいふなり。魏の文帝即位し許縣 ①「括地志」巻六許州
漢魏の都城〃許昌〃(塩沢)
五
を改めて許昌縣といふ。按ずるに、今の縣の南四十里、許昌故城これなり。⑤「輿地廣記」巻九京西北路許田鎮は、もと許國なり。二漢には縣となり、頴川郡に属す。獣帝これに都し、魏の文帝改めて許昌といふ。故城は今の鎮の南三十里にあり。晉は郡治となす。⑥「許州志」(明嘉靖)巻八雑述志、古蹟、許州古城は、(州)城の東三十里にあり。週園は九里一百二十九歩なり。相ひ傳ふるに曹操の築くところなりと。⑦『許州志」(清乾隆本、道光本)巻一方輿沿革(州)城の東三十里にあり。園は九里一百二十九歩、相ひ傳ふるに曹操の築くところなりと□今遺趾あり。⑧「請史方興紀要」巻四七河南二、許州、許昌城州の東三十里にあり。(後略)⑨『河南通志』巻五二古蹟、許州、許州古城州城の東三十里にあり。園は九里一百二十九歩、相ひ傳ふるに曹操の築くところなりと。今遺趾あり。⑩民国方志叢書『許昌縣志」巻一方輿圖考、古城保古城保は、許城の東部に位し、城を距ること四十里、(中略)古城は本保の西部にあり。地勢は雄壮にして、内外二城に分かれ、周園は十五里なり。世に傳ふるに、漢の献帝洛より許に遷りてここに都すと□今宮室は蕩然として存するところなく、僅かに殿基土台(高さ三丈余)及び城垣旧趾を余すのみ。以上、許昌城までの距離と方位について、①~⑤は許昌縣治(⑤の許田鎮は旧許昌縣。後述する)の所在地を基準として、⑥~⑨は許州州治の所在地を基準として示している。⑩では許昌城が古城保に存在することを前提に現許昌市からの距離と方位を示している。ところが、これらすべての記事が同一の城阯を指すと考えると、⑩を除いて①~⑤と⑥~⑨とでは、距離はさることながらその指し示す方位が異なる。すなわち①~⑤では南(里程ではおよそ四十里)、⑥~⑨では東(里程ではおよそ一一一十里)となり、許昌城と許昌縣治、および許州州治とは一一一者偏在していることになる。陳有志氏はこ 法政史学第六十二号一ハ
図二許昌城吐変遷示意図(陳有忠「許昌城吐考」より)
漢魏の都城〃許昌”(塩沢)
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の点について、前期(張播)、中期(許田)、後期(許昌)という都市転移の三(6)期区分を設定して理解している(図一一)。しかし、そこでは一一一者偏在に至る経緯が時空間という立体的な視点から探究されておらず、中期と後期との間に不連
続が生じている。したがって、張播故城をもって許昌城に当てるためには、”許 昌(もしくは許)”という漢魏の許昌と同一の名称を冠する縣治および州治の遷 移(改廃、他縣への移設、復置に伴う転移などの経緯)を時空間の中で立体的
に解析し、もって三者が偏在する経緯から理解するのが至当であると思う。よって本節では、許昌一帯の歴史的変遷を確認しつつ、各史料にみる方位・里程の
基準点となる許昌縣治(①~⑤)が許田鎮に、許州州治(⑥~⑩)が許昌市にそれぞれ当たるという論拠を明確にし、もって本研究の大前提となる許昌城の比定問題を検証したいと思う。⑩頴川郡から許州への推移まず、現許昌市の直接の前身である許州州治の推移について考察する。前に挙げた明嘉靖『許州志」、情乾隆・道光「許州志」、「河南通志』、民国『許昌縣 志』においても明清代までの当地の変遷は示されているが、「文献通考』(巻三 二○輿地六)、「讃史方輿紀要」(巻四七河南二許州)二害の内容から最も詳細な
情報(前者は宋まで、後者は情に至るまで)を読み取ることができる。よってこの二書を整理し、不足するところを右掲の諸志によって補い、許州の推移を示したものが表一である。これをみると、当該地域は、秦漢で頴川郡が置かれ
てから、東魏に頴州や鄭州、北周では許州が置かれるものの、断続的に晴唐までは穎川郡であった。そして宋以降は許州という名称が一貫して用いられる。■一
表一頴川郡から許州への推移
に
ところで、表一の(Ⅵ)をみると、頴川郡治は普代に許 ことを前提とする。 なお本稿の議論では、郡治は特定の縣城内に置かれている る。陽窪縣城は、現禺州市東北の故城趾に比定されている。 (7) てここでは秦漢の頴川郡治を陽窒縣とする解釈を採用す をもって治所の所在地とする解釈には妥当性がある。よっ と、特に〃治所〃と明記されなくとも管轄域所掲の筆頭縣 ように管轄域の筆頭に治所を明記する事例を参考にする ころにある。治所の記載法をめぐっては、『陪書』地理志の 書」巻二○郡剛志顧川郡で陽霞縣を第一に掲げるというと 閻若壕の論拠は、「漢書」巻二八地理志願川郡および『後漢 見解を採用し、秦漢の頴川郡治を陽霞縣城に比定している。 とあり、楊守敬も『水経注疏」同条注記の中で、閻若畷の 郡治なり。 めに此に封ぜられ、夏國となすなり。(中略)故の頴川 頴水は堰より東して陽霞縣故城の北を蓬ぐ。夏禺、始 秦漢代の穎川郡治については『水経注』巻二二願水条に、 川郡治と許州州治の遷移に絞る、| 許州州治の遷移にあると思われる。よって、問題をまず頴 したがって、三者偏在解明の糸口は頴川郡治の遷移および すなわち、頴川郡から許州への流れが理解されるのである。 法政史学第六十二号八
時代 推移
●Ⅱ■且 春秋 許国、戦'五|…韓魏の国境。
11 秦 頴川郡、治所は陽#10螺。
●。■ⅡL
●・■ⅡL●】ⅡⅡ△
漢 韓|可、後に願)||郡。
1V 後漢 願lll郡、後漢末に献帝が許に都す。
V 曹魏 文帝が許で受禅、曹魏では許都という。
VI 晋 願)||郡、治所は当初許昌縣、後に長社縣。
Vll 北魏 願)||郡。
viii 東魏 天平年間に頴州を置く。武定七年に鄭州と改める。治所は顕陰縣。
lX 北周 許州と改める。
X 階 |j育初に願Ill郡を廃す。大業年I1Ijに許州を改めて願lll郡となす。
Xl 唐 許I、ト’(顕)''11M)、元和年間に忠武軍を置く。
Xll 後梁 正国軍(匡[R1軍治所)。
Xlll 後唐 `忠武軍。
X1V 宋 許州(忠武軍許昌郡)、元職三年に穎昌府に昇格。
XV 金 許I、ト|昌武軍。
xvi |兀
許州。
XVu 明清 許州(明代に長社縣を州治に省入)。
昌縣から長社縣に移されている。では遡って考えるに、何時穎川郡治は陽雲縣から許Ⅱ川縣に移されたのであろうか。これについては鑑儀士口の『一二同会要」巻一一一五輿地二魏州郡に、頴川郡は、許呂に治し、縣十を領す。とみえるが、『三国会要」は清代の編纂書であり、かつ上記史料の出所が明確ではない。しかしながら、この記事が曹魏での頴川郡治の所在を語る唯一のものである。よって現状ではこれを採用するとして、魏の頴川郡治は許昌縣に置かれていたと理解する□許昌縣は魏王朝成立後、漢代の許縣を改名したものであり、後漢末献帝を迎えて許縣治(縣城)に国都が営まれる。ところが後漢代の許縣は頴川郡下の一緬縣にすぎなかった(「後漢書」巻二○郡川芯)。したがって、郡治の許昌縣への移設は、後漢未の遷都時、もしくは魏壬朝成立時と考えられよう。陽雲からの移設以後、普代のある時期まで頴川郡治は許閂縣治(許禺城)に置かれていた。汗ではさらに長社縣に郡治が移される。許門縣より長社縣への郡治移設の理川と時期を明確にする史料については現時点では見出しえないが、当時の情況から推測が許されるとすれば、晋末の永嘉の乱に許昌が巻き込まれた時期、すなわち(8)後に後趙を建てることになる石氏との攻防戦によって宮屋が破損した結果ではないかと田心われる。何故ならば、曹操の郭への本拠地移転、魏の洛陽定都、対呉戦線の変化などにより許昌の役割の低下が指摘されるものの、魏では景福殿や武庫が置かれ、晋でも汝南王亮・斉王間・扶風王駿・東海王越・萢陽王晩など宗室諸王が相継いで鎮するなど、八王の乱の後まで許昌は依然として軍事的・政治的な重要性を喪失していないからである。では、郡治の移設された先の長社縣はというに、「漢書」地剛志、「後漢書」郡川志、「秤齊」地理志に掲載されていることから、頴川郡下の一領縣であったことが確認される。元々は長葛縣といわれていた。ところで、長社縣については「讃史方興紀要」巻四七河南二許州長社廃縣に、今の州治なり。漢は願陰縣の地にして、頴川郡に属す。東魏の武定七年、頴州及び顧川郡を移し、頴陰に治し、改めて鄭州といふ。長社縣を復職し州郡の治となし、商齊は顕陰縣を以て沖入す.随の開皇初、縣に改め顧川といふ。仏りて許州の治となす。唐は復た長社といふ・唐より以後、許州皆なここに治すⅡ明初、縣を省きて州に入る。とみえ、清代の許州州治、すなわち現在の許呂市であることが示されている。ところが、その地は漢の顕陰縣であって長
漢魏の都城〃許凸“(塩沢)
九
葛縣ではない。ここに長社縣治そのものの転移が生じている。東魏の武定七年(五四九)には頴州州治および頴川郡治が穎陰縣の地に移され、州はさらに鄭州と改名される。『元和郡縣志」巻九許州にみる〃高澄、古頴陰城に就つり、改めて南鄭州を置く。即ち今の州城是なり“とは、まさにこの内容を示すものである。そして、長社縣も復置され州郡の治所となるが、その際治所は旧縣の所在地ではなく願陰縣の地s水経注疏」注釈中で熊会貞は、射犬城に比定している)に置かれることとなる。北斉では復清された長社縣に願陰縣をあわせている(「晴書」巻三○地理志穎川郡頴川縣)。その後、明代に至って許州に省入される(表一XⅦ)まで長社縣は存続し、許州州治もここに置かれている。階唐代には郡と州の改廃が繰り返されるが、いずれの情況下においても治所は長社縣にあり、階以降の頴川郡から許州への流れは明確である。この一連の経緯をみると、東魏以降頴川郡治と許州州治とは同一地、すなわち現許昌市に置かれてきたことがわかる。よって、郡・州の治所が現許昌市に置かれるに至る問題の所在は、長社縣治の転移にあるといえる。東魏における長社縣治の転移については、「請史方輿紀要」同巻許昌長葛縣に載せる長社故城に、晋の頴川郡は初め許昌に治し、後に治を長社に移す。(中略)東魏の天平初、頴州の治となり、四年頴州は(西)魏に附す。(中略)武定五年、侯景は郡を以て西魏に降る。魏將王思政は鎮守し、東魏攻め園むこと鹸年にして始めて陥つ。城の多く崩頽するを以て、因りて郡治を願陰縣に移す。とみえ、武定五年から六年(五四七~四八)にかけて、頴州および頴川郡の治所である長社縣城は東魏と西魏の攻防のなかで崩壊し、州・郡治が顕陰縣に移されていることから、長社縣城は放棄され、長社縣も一時的に機能を停止していたことがわかる(攻防の経緯は「元和郡縣志」巻九長社故城および「太平簑宇記」巻七長葛縣長社故城に詳しい)。前の長社廃縣の記事では長社縣治も顕陰縣の地に復置され、そこに州郡の治所が戻されていることから、顕陰縣の地に頴陰縣治と長社縣治とが一時的に並存しており、それ故に北斉では前者を後者に併合することになったと思われる。なお、「讃史方輿紀要』では同巻禺州に頴陰城を記載しており、穎陰縣城と願陰縣に復置された長社縣城とが明確に区別されているが、現在(9)のところ頴陰縣城について比定すべき連追跡は確認されていない。また、復置以前の長社縣城についても、同時代史料としての『水経注』巻一三泊水条には明記されているが、比定地の長葛縣近郊で該当する遺跡は確認されていない。 法政史学第六十二号
一
○
許昌縣については、『元和郡縣志』巻九許州許昌縣に、漢に至りて縣となり穎川郡に属す。後漢これに因る。魏の太祖、献帝を迎えて許に都し、文帝受禅するに改めて許昌となす。宋志に許日縣なし。天平元年復置す。今の縣理はこれなり。とみえ、また「太平簑宇記」巻七許州許凸縣には、許州許昌郡の治所を長社縣としたうえで、(許州の)東北五十五里にあり、旧は五郷、今は四郷なり。(中略)宋志に許昌縣なし。天平元年復置す。高齊の文宣帝、鄙陵を省きて許昌に入れ、陪文帝又た部陵縣に浦州を置き、聯を以てここに属せしむ。大業二年浦州を廃し、縣を以て許州に属せしむ。(中略)羽林監頴川の棗祗、屯田をここに建置す。任峻を以て典農中郎將となし、人を募りて許下に屯田するは、即ち今の許昌縣なり。
とある。許昌縣は魏の受禅により漢代の許縣を改名したもので、許縣が都となることから、継続的に許昌城に許昌縣治が
置かれていたといえる。また、魏晋では頴川郡治も許昌城に置かれていた。ところが、晋では頴川郡治が長社縣に移される。その移設の時期と要因については、前項で既に触れているので言及は避ける。問題は頴川郡治が移された後の許昌縣の遷移である。十六国期には前奏によって許昌に東豫州治が置かれているが(「晋書』巻一四地理志)、注意すべきはその後の展開である。それは止掲記事中にみる〃宋志(「宋書」州郡志)に許昌縣なし。(東魏の)天平元年復置す“という経 緯である。劉宋と東魏との間には百年前後の時間差があり、それを埋める史料は現状では見冊せないが、西晋末より十六
国・南北朝にいたる許昌帰属の推移と関連事項を示した表二をみると、十六国とそれに続く南北朝の抗争のなかで黄惟平原の要地にある許昌が常に争奪の対象とされてきたことが分かる。特に北魏と劉宋との許昌をめぐる攻防は激しく、劉宋初期の永初年間には頴川郡許昌縣の名が見えるものの(『宋書』巻三六州郡志)、北魏の将周幾による許昌城の掘壊や(『宋書』巻九五索虜伝)、北魏後期には許昌縣令が綜麻戊主に兼務されていること(「魏書」巻六六李嵩伝)などから考えると、 以上、穎川郡治と許州州治の遷移と所在については明らかになった。しかし、頴川郡下にある許昌縣の晋以降における遷移は未だ明らかではない。よって次項では許昌縣の遷移を考える。町許昌縣の遷移漢魏の都城〃許昌“(塩沢)
表二晋南北朝における許,[],帰属の推移
I
法政史学第六十二号年号は普南朝に統一。
五世紀にあって許昌城の荒廃は相当進んでいたものと思われる。そして鄭道元が「水経注」を編纂した北魏末の段階では”故城〃という状態になっていた。そのような状況を踏まえて、天(、)平一工年(五一二四)の復置がなされたといえる。なお、「魏書」巻一○六地形志(東魏)鄭州許昌郡許昌縣の注に”許昌城に治す“とみえるが、「魏書』地形志の内容には錯誤が多くその扱いは慎重を要する。ましてやこの記事は脚注である。復満以後に縣治が移設・転移したという記事は確認されず、鄭州成立時の許昌縣治を漢魏の許昌城に当ててとらえると、以下に見る陪唐の許昌縣治、すなわち許川への連続性が断たれてしまう。よって許昌縣の復置は、頴川郡治の遷移にみる長社縣(治)の復置が旧縣城の荒廃を機に地を移して行われているという事例を援用して考えるべきで、北魏半ばまでの許昌縣治とは異なった地への転移であるとみるべきであろう。この復置後の新許昌縣城が階・唐の許昌縣治である。前の「魏書』地形志にみる〃許昌城“も新許昌城と解釈すると矛盾は解決する。 一一一
紀年 帰属の椎移
① 永嘉末 石勒許凸に進陥。浦倉で晋室諸王公卿を害す。
② 建武元年(317) 筍組、開封より許,L{に移り、行台を置く。
③ 太興元年(318) 石勒兵を派遣し、筍組南へ逃亡。李炬・郭獣・郭衞111顕111を守る。
④ 大寧3年(325) 石勒詐昌を攻略し、後趙豫州治所を置く。
⑤ 永和6年(350)
永和7年(351)
永和8年(352)
後趙乱れ、再閏の豫州牧張遇許昌に拠る。
張遇東需に帰す。
張遇東Wfに反し前秦に降る。前奏の符雄許昌に進攻し、眺襄と許{」,の誠橋で 会戦。晋軍敗退し、符雄許昌入城、張遇を捕獲。許昌は前奏に帰す。
⑥ 永和11年(355) 眺襄許昌に拠る。
⑦ 升平元年(357) 許目前燕に帰属。
⑧ 升平5年(361) 桓温の弟舗、許昌を''1|復。
⑨ 興寧元年(363)
興寧2年(364)
汝南太守朱斌、前燕の長平進攻に承虚し許昌を襲撃。
前燕許昌を襲撃、願)||太守李福敗死。許昌は前燕に帰属し、豫州治所が置か れる0
⑩ 太和5年(370) 前秦、前燕を滅ぼし、許昌は前秦に帰属。東豫州治所が置かれる。
⑪ 大元9年(384) 東晋許肖を回復。
⑫ 隆安3年(399) 後案により許昌陥落。
⑬ 義煕12年(416) 劉裕北伐、前鋒の檀道濟許昌を陥し、後秦の頴川太守桃垣を捕獲。
⑭ 景平元年(423) 北魏の將笑斤許,型,に進攻し、頑Ill太守李元徳敗走。北魏庚龍を願)||太守とし て許昌に置く。劉宋の豫州刺史劉梓許肖を襲撃し、庚龍を殺害し当地を回復。
顕)||太守李元徳許目に戊す。北魏の將周幾許昌を襲撃し、李元徳逃亡。周幾 は許昌城を掘り崩し封彊を立てる。
復置後の許昌縣については『讃史方輿紀要」巻四七河南二許州許昌城に、東魏の天平初、始めて穎川を分ち許昌郡を置く。北齊は郡廃し、階は許州に属せしめ、唐はこれに因る。五代の唐は諄の昌たるに改めて許田縣といふ。宋の煕寧四年、省きて長社に入れ、許田鎮となす。とあり、五代後唐の太祖李克用(八五六~九○八)の父、李国昌の諌を避けて〃昌”を〃田〃に改め〃許田縣〃となり、末の煕寧四年(一○七二に長社縣に省入されるまで存続する。また「宋史』巻八五地理志願昌府許昌郡長社螺にも、煕寧四年、許田縣を省きて鎖となし、ここに入る。とみえるように、煕寧四年の省縣の際、許田縣は鎖となる。この地が現在の許昌縣陳倉郷許田鎮であると陳有忠氏は捉え(Ⅲ)ている。同一の名称を冠する集落や許田の淵源に触れる地名が当該地域とその周辺では他に確認できないことから、許田鎮に対する陳氏の見解はまさに首肯すべきものといえる□宋代に長社縣に省入されて以降、許昌縣という行政単位が再び登場するのは中華民国の成立を待つことになる。ところで、許昌郡については『陪書」巻三○地理志願川郡郡陵縣にも、東魏は許昌郡を置き、後齊は縣を廃す。開皇初、郡廃し、七年都陵縣を復す。と「讃史方輿紀要』の記事に添った内容がみえ、東魏で頴川郡を分けて許昌郡が設置される。しかしながら、これは一時的なもので陪初(或いは北斉中か)には廃されている。『唐書」の地理志ではその存在は記載されず、許昌郡は東魏・北斉期のみの存在であったと理解される。したがって、『太平簑宇記』所載の許州許昌郡も「宋史』地理志所載の頴昌府許昌郡も、実体は頴川郡からの改称であり、東魏の許昌郡とは全く異なるものである。なお、東魏の許昌郡治の所在については、北斉で郡陵が許昌に省入される点(前掲『太平簑宇記」許州許昌縣)、前掲「魏書』地形志の”許昌城に治す〃を新許日日城と解釈することで階唐への矛盾が解決される点、またその領する郡陵・扶溝・新汲縣との統廃合(『魏書」地形志)および立地情況からみて、鄙陵縣治ではなく復置後の新許昌縣城(許田鎮)にあったと考えられる。
漢魏の都城〃許昌〃(塩沢)
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図三頴川郡治、許昌縣治、長社縣治の遷移
法政史学第六十二号
ご尉氏」
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〔禺州〕
漢鋤11郡I 囮麺露
●⑤
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: 125
〔褒城」
○
や詞Ⅱ郡の遷移 一一一一許昌蝉の転移・省入 -..-.・許昌郡の分極
。-...゜・推定縣城
小結以上、張播故城、許田鎮、許昌市三者偏在の経緯について、許昌に係わる縣・郡・州という行政単位の変遷を理解することによって以下のような結論を導くに至った(図三)。Ⅲ腺という行政単位でとらえると、許昌縣治の遷移は、前期の張播(秦・漢・魏・晋・十六国)と後期の許田(東魏・北斉・階・唐・五代・宋)の二期に分けて理解することができる。なお、許昌縣は最終的に宋代に廃止される。現在の許昌縣は民国に入ってから成立した単位である。⑪郡・州という行政単位でとらえると、頴川郡から許州への流れで理解することができる。郡から州へは断続的に移行するが、その治所の遷移は著しい。許州(現許州市)に定着するまでの頴川郡治の遷移は、陽謹聴(秦・漢)、許昌縣(許昌城、魏・晋)、長社縣I(晋・十六国・北魏)、長社縣Ⅱ(頴陰聯、束魏)の囚期に分けられ、許州への移行は第四期からの改名。改組である(五期)。許州については、若干の名称変更(頴州、鄭州、穎昌府許昌郡など)のみで、治所の移設や転移はな
四
城趾は内城と外城とに分けられる。内城は外城の東南部に位置し、内城南面の城壁は外城南面の城壁と重なる(内城東壁と外城東壁の重なりについては諸報告の見解が異なることから確認調査が必要である)。面積において内城は外城の四分の一にあたる。内城の平面は概ね正 l張播故城の調査報告と現状張播故城に関する詳細な調査報告は公開されていない。一九九三年五月許昌市文化局発行の「関干張播故城城趾文物鈷探情況的匪報」(ボーリング探査情況に関する総括報告)も手元にはあるが、このデータも非公開という制約がある。よって本節では、既刊された「河南省志」(文物志、地名志)、『中国文物地図集」(河南分冊)、「二○世紀河南考古発現輿研究」〈胆)の報告内容に陳有忠・黄留春両氏の踏査報生口を加え、さらに筆者の踏査→アータを交えるという形で、張播故城の現状を述 い。許州州治は現許呂市である。い、伽をみると、許昌を取り巻く地域空間では、許昌縣治の遷移と頴川郡治の遷移、頴川郡から許州への改変とが複雑に交錯している。そして各行政単位の時空間における複雑な推移を理解する上でキーワードとなるのが、頴川郡、長社縣という許(昌)という名称を冠しない行政単位の治所の遷移であることが分かる。ここにおいてい、Ⅲをもって前に提示した①~⑩を考えると、①~⑤は唐末代の史料であることから許昌縣廃止以前、すなわちⅢの許昌縣後期の縣治を基準とした方位・里程、⑥~⑩は明以降の史料であることから伽の許州(頴川郡)五期を基準とした方位・里程として理解することができる。すなわち、許田鎮からみて張播鎖は南、距離は二一m、唐・宋の約四十里に符合する。また、許昌市からみて張播鎖は東南東、距離は一八伽、明清の約一一一十里に符合することになる。したがって、諸々の史料に記載されている許昌城とは張播故城を指すものと断定することができるのである。故に、以下の議論において、許昌城とは張播故城のことを指していう。べておきたいと思う。
漢魏の都城〃許昌〃(塩沢) 二漢魏許昌城とその周辺の関連遺跡
一
五
法政史学第六十二号
内城北壁
膿"j艀露
mH-
2硫秀台(南面)・右手は方形台基3硫秀台(西而)・左手は方形台基
灘
5iJ[i['1,11 4方形土台(内城西北角)
轤鑿 iiiiiliiliiiii1iiiiiillillilliililli
li1ililii1liiiiiiliiliillliliii11
′、6張飛廟右張飛廟基壇壁面紋jliIi
方形(若干東西に長い)を呈し、総面積は一五○万㎡である。内城壁の東・西・南三面は既に破壊されているが、北城壁の保存状態はよく、その残高は二~三mである(写真1)・内城西南隅にある〃銃秀台”という台基(高さ一五m、面積約(蝿)四○○○㎡、写真2.3)は、献帝が天を祭った天壇であるといわれる。また、高さ--,余、局長約一二mにも及ぶ方形土台がある(写真4)。この土台は内城の両半分を占め、その北部では西周から前漢以前にいたる遺物(兵器、礼器、生活用品など)が確認されたことから、黄氏は姜姓許同国君の宮城基趾と考えており、陳氏も内城を許男国の城趾に比定し、周(M)制の小国一二里を上記の数値に合わせている叫一〃疏秀台〃もこの力形土台の上(西南隅)に乗る構造になっている(写真2。3)。許昌市博物館の馬徳新氏の説明によると、内城を四分するように東西、南北に街路がはしり、その西半分は宮殿区、東北部は工房区であるという◎東西にはしる街路の直上を許昌・張播より東に延びる公路がはしり、残存する内城西門(高さ約二m、写真5)をこの公路が通過している□外城壁の長さは、東西二一一一○○m、南北一一一○○○m、周長は約一一一・六(一○・六の誤りか)血である。外城壁は近年の整地により破壊されたが、随所に見られる地面の陥没箇所により確認が叩能である。外城(壁)の築造時期について、陳{応)氏は「冊名魏公九錫文』(「全一二同文』所収)の〃遂に許に遷りて都し、我が京幾を造る“に基づき後漢末と推測している。外城の西北部には張飛廟があり、西南隅には曹操の本営が置かれたとの伝承をもつ営王村がある。張飛廟前門の門道および基壇全面には多様な紋様碑(子母碑)が貼られている(写真6)。採集遺物としては、石離・山神の石柱礎・覆盆式柱礎・虎紋石方板・双龍食魚紋石櫨斗・囚神璽・五銑紋小樽・陶文瓦常(〃万世千秋“〃千秋万歳“記名)・青石量首碑額(“漢故新〃〃尉郭君“記名)・等辺形陶水管・雲紋瓦常・陶文小徳(〃、水元十年(九八、後漢和帝)“記名)・寛治深腹盆陶片ほか、各種の陶器・金属器・玉器などが挙げられている。なお、内城を外城内の中央南寄りに置くという尾形氏が現地で受けた説明(図四11)と、筆者の踏査時に馬徳新氏より受けた説明とは、南城壁の重なりを除いてほぼ同一のものであり、民国『許昌縣志』巻一方輿圖考古城保圖(図四-2)(肥)と陳氏の作図(図一一)では内城を外城の東南隅に置いている。内城がどの位置に配されるかはくう後の調査を待つしかないが、上記の内容に筆者踏査時のGPS測定値を交えて作成したものが図五である。
漢魏の都城〃許昌〃(塩沢)
一
臺七
図四一1 図ⅡⅡ 2
法政史学第六十二号
外城
、lnLIlijL 鍵
上…
皇城?
敏秀合一
「漢魏故城」平面概念図 (尾形勇「中岡雁車紀行』より)
民国『許昌縣志』古城保図(筆者一部修正)
図五許昌城(張播故城)推定図 o城后輩村
I
張飛廟
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114.00,2B”
【外城】
【ロCCC、
3ざ”057”
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北門iI内城】 Tl鍵鵜圖:閏I濡馴鰯、l[親。
OP開。”Dj40w/ 來門114.01,把持 璽合59.露n
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(辿操屯営)
[宮殿区、
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u4・or 2300m
I
※経緯度はGPS測定値(上段g北綿、下段:東経〕
と聰享の礼について触れ、大饗は狭小な許昌城では城外で行われたが、洛陽では本来宮城内で行うべきことが説かれている。先例を参考にすべきところ、先例を述べた何禎・王沈の賦は狭小な許昌城内での内容であるというのである。ここで注意すべきは〃彼の西南に壇す“であり、内城の西南隅に残存する台基との関係が注目される。ところで、許昌城には魏の明帝期に荘厳な景福殿が造営されている。景福殿の様相については「景福殿賦」(「文選」所収)に詳らかにされ、遺趾の規模についても「水経注』や「讃史方輿紀要」などに示されていることから、その荘厳さや規模、配置構造などは概ね理解される。しかしながら、景福殿が宮城内の何処に築かれたかは未だ明らかではなく、今後 時に大いに洛陽宮室を興すに、車駕して便ち許昌に幸す。天下富に許呂に朝正すべし。許昌偏狭なれば、城南において藍を以て殿となし、魚龍を備設すること曼延たりて、民の勢役を罷む。とみえる。この内容は、明帝の許昌行幸にあたり許昌の城内は狭いので、城南(城外)において仮の拝殿を設けたというものである。また「宋書」巻一四礼志には、何禎が許都賦を案ずるに日ふ、元正大饗するに、彼の西南に壇す(中略)と。王沈が正會賦に又た日ふ、華帳は飛雲に映し、朱幕は前庭に張る(中略)と。此れ則ち大饗は悉く城外にありて、宮内に在らざるなり。(中略)何.王が二賦は、本もと洛京に在らず。何が許都賦と云ふは、時に許昌に在るなり。王が賦に又た云ふ、凹國を東巡に朝し、亦 魏書巻一三鍾統伝に、 ところで、明嘉靖「許昌志』雑述志には、周九里一一一九歩とあり、魏値(一里Ⅱ四一一一四・二m)では四○九五m、唐及び明値(|里Ⅱ五五九・八m)では五二一二九mとなる。この数値は面積一五○万㎡(周長概算四九○○m未満)という内城の数値と理解することができよう。周長一○n余という外城壁の数値は、周二○里一九歩(八七二m、魏値)という建康(Ⅳ)の大城、東西七里南北五里(実測値・・東西一一四○○~一一六○○m、南北一七○○m)という鄭北城よりも若干大きい。一方、内城については、これを宮城と認識すると、外城に対する面積比率四分の一は建康や郵北城とほぼ同率といえるが、南北宮を配する後漢の洛陽(誰陽)に比べると面積値・比率ともかなり小さい。許昌(内)城の狭小なことは、「三国志」
漢魏の都城〃許昌“(塩沢) 賦は、本もと洛京に在ら一た許昌の正會を賦せりと。
一
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 ̄穎河.〈F1図六許昌城周辺の後漢末三国期関連遺蹟・墓葬・郷村地名Hosei University Repository
2許呂が有する都市空間の検出都市空間を検出するためには、如何に有益な情報を抽出するかが問題である。ここに筆者は現許呂巾の周辺部に広がる広域な地域に対して検索エリアを設定した。そしてそのエリア内で、後漢末から魏(以下当該期という)にあたる遺蹟・墓葬の検索を行い、その分布情況を確認する一方、さらに地調考証をも並行して行い、その分布怖況についても右とM-の平W空間上に示した(図六)。何故このような手法を採用したかというに、ある地域空間を班解する上に遺蹟と墓葬から得られる情報は不可欠な要素であるが、現状で入手可能な考古資料には限界があり、地名(要考証)という考古資料とは別次元での情報(以下地名情報という)を同一空間上に重層的に組み込むことでその欠落を補い、都市空間の理解に有益な情報を提供するものになると考えたからである。以下検索エリアの設定、遺蹟・墓葬から得られる情報の問題点、並びに当該検索エリアでの地名情報の資料的有用性について一一一一口及する。まず、検索エリアとしては、許凸城を中心に半径四○mのエリアを設定した。何故に検索対象エリアを半径四○mに設定したかというに、このエリアは許昌縣の上級行政単位である頴川郡の管轄域となるからである。そこには現在の許昌市、許昌縣、長葛縣、臨頴縣、鄙陵縣が完全に含まれ、一部は西華縣、鄙城縣、裏城縣、禺州市、尉氏縣、扶溝縣にも及ぶ。次に、遺蹟・墓葬から得られる情報の問題点について触れる。「中脚文物地図集」(河南分冊)の情報を下に、「太平簑宇記」・「讃史刀興紀要」・民川「許凸縣志」「郡陵縣志」「長葛縣志」などに記載される州該期に机当する遺蹟(昨今の整地による所在不明のものも含む)を抽出したものが表三である。ここでまず問題となるのが台基遺構の名称である。すなわち、個々の遺蹟がすべて史実に基づいて比定されたものとは一一一一口い難く、陶器や碑など遺物の散在情況から判断し、当該期における活用の痕跡を確認したにすぎない。また、当該検索エリアの墓葬についても墳丘の名称比定に問題があり、各墓群における伴出資料の時代幅が広いことにも注意が必要である。したがって、踏査の折張播故城(特に張飛廟一帯)や繁城禅譲台(写真7)周辺で多数の個体が確認された菱形花紋陣や有紋子母陣(写真6.8)を伴出する墓葬のみを当該 の調査を待ちたいと思う。
漢魏の都城〃許昌“(塩沢)一一一
表三張播故城周辺遺蹟(縣城illを除く)
ilil
生じる可能性があるからで の資料性そのものに疑義が 活用するにあたっては、そ おく。何故ならば、地名を 的有用性について確認して n↑,i1,縣陳曹郷哀庄村臨斑1螺[~‘’1(現存せアにおける地名情報の資料 もう一点、当該検索エリ る。 参考にのみ留める必要があ 得られる情報も空間理解の り、遺蹟と同様に墓葬から いという資料上の制約があ 掲書のみに頼らざるをえな している。さらに検索も上 にくいため、対象より除外 ことからその時期を特定し 墓葬は、前漢よりみられる 方で空心陣のみを伴出する 検索した(図六)。その一 地図集」(河南分冊)より 期の指標として「中国文物 法政史学第六十二号二
一 一
遺蹟名 所在地 概要
1 受禅台 臨頴縣繁城鎖
|iii積約2500㎡、台高9.31,、形状は正方形(三層、底部外縁は
|リ形か)。
献帝受禅の場所。受禅碑・公卿将軍上尊号奏碑の二碑あり。
2 議台 鄭陵縣馬欄郷 議台村
台高約5m、面積5600㎡。
曹操の築造といわれ、台上で軍国の大事を議論したと伝えら れる0
3 観台 郡陵縣只楽郷 観台村
台高約1.5m、面積約30000ni。
許下屯田の際、士兵の演武観覧のため築造されたと伝えられ る。
4 射鹿台 許昌縣陳曹郷 衰庄村
台高約2m、面積1500㎡、白灰面の房基がある。
後漢末年曹操が献帝とともに鹿を射た地とされる。
5 練兵台 襄城縣萢湖郷 城上村
内外二城構成、城趾平ljiiは長方形。南北500m、東西350m。
古城門、石激、古窯遺阯100余所、古井100余所が確認される。
論台または論城とも称され、曹操の行営といわれる。
6 沃城 臨頴縣沃城郷 沃城村
城hl平面は方形。南北480m、東西400m、面積約19.2㎡。
俗に張遼城という。
7 桐郎城 扶溝縣韮園郷 後鄭村
西城壁の基部のみ現存。版築各層の厚さ10~15cm。
漢の桐邸縣治の遺構。
8 李沙沃漢丼群 長葛縣石象郷 沙沃村
現在32所で発掘される。闇1111径0.87m、高0.31m0 胸リキ圏を用いた構築である。W操許下屯[}1の遺構といわれる。
9 哀堂漢井 邸陵縣只楽郷 衰堂村
井深7m、圏直径0.80m、高0.40m 陶井圏を用いた構築である。
。
10 蘭庄漢井 都陵縣望田郷 蘭庄村
井深6m、圏直径0.80m、高0.40m 陶井圏を用いた構築である。
。
11 煉鉄 都陵縣只楽郷 観台村
観台村の北崗にある。七十二紅炉と称される。
曹操の兵器鋳造所といわれる。
12 灌溝 臨頴縣西20里 (現存せず)
曹操瀧田の所といわれる。
嘗て南(泥河)北(顕il1I)二1-1の碇門があった。
13 浦倉 許昌縣東北(現存せず) 1{j水の邸閣があったといわれる。
許下屯lI1の際の倉城。
漢魏の都城“許昌
8子母碑(禅譲台採取)
塩沢)
7弾誠台
Iilllllllllil1iliiliili1i1lillll1llillililllilllliIilllllil
10議台(台基)9議台(現議台小学校)
13観台村(農民保有当該期文物) 11前営村・後営村
14観台村(農民保有当該期文物) [2観台台基
以上の認識に基づき、図六には遺蹟・墓葬、および地名から抽出される情報を収録している。これをみるとき、ある纏まりをもった区域を確認することができる。その各々の区域の性格をみると、以下のような特色(区域相)が浮かび上がってくる。 ある。この点に関してまず明言できることは、許昌は漢魏という時空間においてのみ国都という位置付けを与えられる都市であり、他の時空間にあっては、それに匹敵するインパクトを座標上に与える都市が営まれてはいないという点である。したがって、都市の推移を時空間という立体座標の上で理解するとき、漢魏という時空間で発生した地名上に別の時空間の名称が重畳する可能性は非常に低い。実際に前章において許日日一帯の歴史的な変遷を探究したことで、漢魏許邑の存在する時空間は非常に限定されたものであることが理解された。すなわち、西晋以後の縣・郡治の遷移によって、許昌城近傍の地域空間には後世において歴史的な痕跡を留めるような聚落(都市)や建築物が営まれず、漢魏晋以外、この地域一帯は歴史的に空白な地域空間であったといえる。よって当該地域に限って考えるならば、この時空間の様態が、都市空間の検出において考古学的な情報に限らず地名より得られる情報(考証は不可欠)も活川できるという方法論的な裏づけとなる。その情報の資料的有川性を前提とし、「中国地名珈典」(河南省)・「河南省志」(地名志)を基礎に、民国「許ⅡⅡ縣志」「郡陵縣志」「長葛縣志」や「中国文物地図集」(河南分冊)などから抽出できる郷村に関する情報を整理したものが表Ⅲである。
Ⅳ、 ⅢⅡI
、、、
法政史学第六十二号
許昌内・外城・・・…許昌縣張播郷盆李村一帯。張播故城。屯営区域……鄙陵縣馬欄郷議台村一帯及びその南辺。屯川区域……〔I区〕鄙陵縣望田村一帯。〔Ⅱ区〕許昌市南郊(南屯里周辺)より許昌縣北部(北屯里周辺)を経て長葛縣東南部(李沙沃周辺)に至る区域。狩猟・禁苑区……許日日縣陳倉郷一帯。
一
lJq
表l1LI郷村地名(後漢から三国に関連した伝承を持つ)
漢魏の都城〃許昌“
3
(塩沢)
-1’ lii ,|
、
Ⅱ IILと
118
1-
一
一
五
注地名訶典(河南省)は地名詞典と、中国文物地図集(河南分冊)は文物地図と略記する。なお 内容に一部(遺跡について)表三と重複あり。
所在地 地名 伝 承
主な出典
1 許昌市 高橋鴬 曹操駐営の所。 河南省志、地名詞典
2 許昌縣 将官池 曹操当地に屯兵、将官達が村西の池で水を汲む。 河南省志、地名詞典 3 許昌縣 許田 後漢の許'11躬耕の地。村西に射鹿台あり。漢献帝が
曹操とともに狩をした所。北魏の許昌縣治。
河南省志、地名詞典
4 許昌縣 張播 村西に漢献帝の二妃、張・播妃の家あり。村北に高 ざ二丈、周囲三十丈の土台あI)、漢献帝陵という。
河南省志、地名訓典
5 許昌縣 古城 春秋の許国都城。後漢の許都遺吐。村雨の硫秀台は 漢献帝祭祀の壇。
地名詞典、文物地図
6 許昌縣 屯型 俗に南屯里という。曹操屯田の地。 地名詞典
7 許昌縣 営王 曹操屯軍の兵営。 許昌城阯考
8 斎|l陵縣 望田 曹操許下屯田の際、当地に望、台を築く。 iijJ南省志、地名詞典 9 都陵縣 観台 曹操許下屯田の際、士兵の演武観覧のため当地に観
兵台を築く。村北崗の煉鉄遺趾は曹操の兵器鋳造所。
地名詞典、郡陵縣志
10 鄙陵縣 馬欄 曹操屯兵養馬の地。 河南省志、地名詞典
11 都陵縣 議台 村西に議事台あり。曹操許下屯田の際、群僚が議事 を行うために築いた台。
地名詞典、文物地図
12 郡陵縣 郭営 曹操の兵営。 地名詞典、鄙陵縣志
13 都陵縣 前営 曹操の兵営。 地名訶典、郁陵縣志
14 都陵縣 後営 曹操の兵営。 地名訶典、都陵縣志
15 郡陵縣 岡ILO 口 曹操の歩哨(見張り台)。 地名詞典、都陵縣志 16 長葛縣 老城鎮 秦漢より東魏の武定年間までの長社縣治。 河南省志、地名詞典 17 長葛縣 王沙沃 曹操屯田の際、掘削した井戸群あり。 地名詞典、文物地図
18 臨頴縣 繁城
回族鎮
漢頴陰縣繁陽亭の地。曹ZIi当地で受禅し、繁昌と改 名○
河南省志、地名詞典
19 臨頴縣 城頂 階以前の臨顧縣治。 地名詞典、文物地図
20 臨穎縣 固廟 陰以前の頴陰縣城の東関。 地名詞典
21 臨頴縣 窩城 村北に三国期の張遼城あり。 地名詞典、文物地図 22 臨頴縣 西陳留 漢献帝禅譲後、許昌城よりの送行者に“臣留歩”と
述べた地。
地名詞典
23 臨頴縣 黄連城 三国魏当地に上城を築く。 地名詞典 24 臨頴縣 皇帝廟 劉備・関羽・張飛駐営休息の地。 地名詞典
25 襄城縣 漕廠 曹操の牧場。 地名訓典
26 嚢城縣 城上 村西に曹操の練兵台あり、論城という。漢代の石激.
古窯100余箇所、古井戸100余基あり。
地名詞典、文物地図
27 禺州市 古城 春秋期の雍城。後漢未司馬謎屯兵の地。 地名詞典、文物地図 28 西華縣 七里倉 魏将都立屯田儲根の地。 地名訶典
29 尉氏縣 南曹 曹操屯兵の地。 地名詞典
上掲の区域について若干補足しておくと、鄙陵縣中央部に展開する小型墓群区域には、屯営に関連した謂れをもつ議台遺趾(写真9.M)と屯田に関連した謂れをもつ観台遣趾(写真、)とがあり、まさに屯営区域及び屯田区域と重なる。
また屯田区域と屯営区域も全域ではないが交錯する空間が存在する。一方、連兵区域は、許昌市南郊の屯田区域に内接し
ている状態である。郊区については送迎の場や物資の集散地としてとらえることもできる。狩猟・禁苑区域については、射鹿台の伝承はもとより、民国『許昌縣志」では多数の肢が確認されることから、地勢的にみて元来低湿地であった可能性があり、耕地というよりも狩猟・漁携地などとして活用されていたと推測される。問題は張播故城の南側と東北の空間である。南側には沃城遺阯や西陳留が、東北には若干の墓葬が認められるものの、生産・居住に関する要素がほとんど認められない。今後に課題を残す区域である。以上、ここに挙げたI~Ⅶの区域は張播故城を中心とした半径二五m圏内で検出される。このことから、半径二五肋と
いう地域空間を許昌の都市空間の目安として理解することができる。そしてその都市空間では、城郭(内・外城)や墓葬区、あるいは郊区といったいずれの都市においても確認される要素のほかに、屯田・屯営といった特異な要素が浮かび上がってきた。周知のごとく許昌における屯田制の実施と兵戸制の展開とは、曹操政権の特徴として認識されている問題で
ある。その問題に関する痕跡がここで検出された地域空間、すなわち許昌の都市空間の中で確認される点は極めて重要である。よって以下、屯田・屯営という要素に関して、文献史料を用いてさらに一歩踏み込んだ考察を行い、以て許昌の都市空間の様相をより一層明確なものにしていきたいと思う。 V、墓葬区・…:〔大型墓群〕許昌縣張播郷一帯(許昌故城西部及び北部)、臨頴縣繁城鎮北部、許昌縣北部。〔小型墓群〕鄙陵縣中部。Ⅵ、連兵区・…:許昌市及びその東南(将官池一帯)。Ⅶ、郊区……〔郊壇・物資集散〕臨頴縣繁城鎮、許昌縣許田村(浦倉)、西華縣七里倉村。〔送迎地〕臨頴縣西陳留村。 法政史学第六十二号一一一ハ曹公、典農中郎将を置く、秩二千石なり。典農都尉は秩六百石、或は四百石なり。典農校尉は秩二千石に比し、主るところ中郎の如し。部分別ちて少きを校尉丞となす。と、典農中郎将・典農都尉・典農校尉・典農校尉丞が挙げられている。この他、典農部民の細身で諸々の屯田官を歴任した都交に触れた「一一一同志」魏書巻二八部交伝及び注引の『仙語」では、典農司馬・典農功戯日・典農鋼紀・上計吏・稲川守叢草吏といった典農部の属僚も確認される。しかるに、止掲の屯川官の中には棗祗の就任した屯田都尉が記載されてはいない。屯田都尉については「後漢書」巻八四董祀妻伝、「三国志」魏書巻一五梁習伝・買逵伝、何呉書巻一三陸遜伝でも事例が確認される。その一方で、「後漢書」巻一一一四梁統伝や「一一一国志」呉書巻二○華駅伝では典農都尉も確認され、「後漢書』や『三国志」といった同一文献の中で両者が混在して用いられていることから、”屯田都尉“と〃典農都尉“とは同一視し 建安元年(一九六)、許昌への遷都の年、許下において屯田制が施行される。その施行の経緯については、『一一一国志」魏書巻一武帝紀建安元年条および注引「魏書』、同魏書巻一六任峻伝及び注引「魏武故事』に詳らかにされている。許下での屯田は、主に辺境において施行されてきた兵員による軍屯田ではなく、一般の民を募った民屯田であった。この点については、西鴫定生氏をはじめとする諸先学の成果が数多く提示されており、近刊では堀敏一氏の「曹操」の中で、より簡潔(旧)に屯田制に関する諸問題が扱われている。屯田制をめぐる問題は多岐にわたるが、本章では紙幅の都〈、上、〃許下“という屯田施行の空間と屯川開設時の情況について論考を試みたいと思う。許下屯田の実施については、「三国志」魏書巻一六任峻伝に、当時羽林監であった棗祗が建満し、任峻を典農中郎将として百姓を募って始められたと記されている。さらに同伝注引の「魏武故事」にはⅢ科をめぐる議論(分田の術の採用)と、棗祗を屯田都尉として田業を施設させたことが述べられている。この任峻伝の本文中には典農中郎将、注引「魏武故事」には屯田都尉という二つの屯田官の名称が登場する。屯田官については、「後漢書』巻二六百官志一一一大司農の注引『魏志」一』、
漢魏の都城〃許昌〃(塩沢) 三許下屯田の施行区域
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