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雌鳥よ、夜明けを告げるな : 佐々城豊寿と初期廃 娼運動が直面した困難

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(1)

雌鳥よ、夜明けを告げるな : 佐々城豊寿と初期廃 娼運動が直面した困難

著者 関口 すみ子

出版者 法学志林協会

雑誌名 法学志林

巻 113

号 1

ページ 81‑126

発行年 2015‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00013575

(2)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)八一

雌鳥よ、夜明けを告げるな

──佐々城豊寿と初期廃娼運動が直面した困難──

関   口   すみ子

はじめに1

  馬に乗る女

  「東京婦人矯風会」の旗揚げ2

 3真の文明化と「娼妾の全廃」──豊寿の主張

   4全』刊『東と『婦誌』創

(内村鑑三)  5「財産中分権」(佐々城豊寿)と「クリスチャン・ホーム」

  「婦人白標倶楽部」と集会及政社法、衆議院傍聴禁止6

  「女大学主義」7

終わりに  8豊寿、その後──「或る女」

はじめに

  近代日本で成立した公娼制度の著しい特徴は、江戸時代から続く事実上の人身売買と身柄の拘束であり、しかも、

このような仕組みの後ろ盾に「公」がなったことである。言い換えれば、公娼制度とは、徳川家支配下(江戸時代)

で行われていた慣行・制度を──廃止するのではなく──核心において継続したまま、検黴制、法制・呼称等の点で

(3)

法学志林 第一一三巻 第一号八二近代化・合理化をはかったものに他ならない。

  その核心とは、「身売り」という言葉で表現される、社会の各行為者による一連の行為である。すなわち、娘の

「身売り」(ないしは、娘を「借金のカタに取る」)、「売られた」女がある場所で「身を売る」、男達が「女を買う」と

いう──売買や抵当の用語で表される──行為群である。また別の言い方をすれば、核心とは、「前借金」、つまり、

「前借りしている」(金を受け取っている)ことを理由にした女の身心の束縛と、ある空間で「業者」が強いる(「客」

との)性行為である。この性行為は、女にとっては「働いて返す」ためのものなのであるが、働いても、働いても、「借金」が減らない(それどころか増える)ことがよくある。言い換えれば、その性行為は、仕事(「稼業」「営業」)

として国家から認められたものなのであるが、実態は人身売買(「売られた」)と大差ない

  「御

一新」(明治維新)で人身売買はあらためて厳禁され、「娼妓芸妓等年季奉公人」は「解放」されたはずである

(太政官達第二九五号。一八七二年一〇月)。ところが、その上で、本人の意志に基づいて「娼妓稼業」を許すという

新たな体制、より具体的には、警視庁・地方官庁が「娼妓」を一人一人管理して、検黴を課し、鑑札料を徴収すると

いう体制が整えられたのである。

  こうして、御一新後の新体制で、法的には自由な意志をもった営業者と位置づけられ、実態としては、鑑札を交付

する地元警察の管理下におかれて、「貸座敷」(遊廓の新たな名)で「娼妓稼業」をする、つまり、「身を売る」──

そこに行けば男達が「買う」ことができる──「娼妓」(「公娼」)という存在が誕生した。

  当然のことながら、その後も、「身売り」という言葉が消えることはなかった。経済状態が悪化すれば、娘たちが

引き続き「売られた(買われた)」、ないしは、「借金のカタに取られた」、あるいはまた、「娼妓稼業によって」(すな

わち「身を売って」)借金を返す義務を自ら引き受けたからである。

(4)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)八三   同時に、見落としてはならないのは、こうした公娼制度は抗争なしに成立したわけでも、その後抗争を伴わなかったわけでもないということである。前者に関して言えば、「文明開化」を機にキリスト教徒や女性の一部が、大勢に

抗って批判の声をあげ、その廃止を要求した

。この先頭に立ったのが、「娼妾の全廃」を掲げて、「東京婦人矯風会」

の発足と『東京婦人矯風雑誌』の創刊に尽力した佐々城豊 とよ寿 じゆ(一八五三─一九〇一。星豊寿)である。

  このように女性達による廃娼の旗をはじめて高く掲げた人物でありながら、佐々城豊寿に関する研究は今日に至る

までわずかしか存在しない。阿部玲子「佐々城豊寿覚え書──忘れられた婦人解放運動の一先駆者」(『日本史研究』

第一七一号、一九七六年一一月)を皮切りに光が当てられたが、その後の年月を経ても単行本はなく、基本的な文献

としては、豊寿の姪・相馬黒光(星良)に関する宇津恭子の労作『才藻より、より深き魂に──相馬黒光・若き日の遍歴』(日本YMCA同盟出版部、一九八三年)の第二章、第三章があるに留まる(以下、同書を「宇津」と略記す

る)

  本稿は、「東京婦人矯風会」書記、『東京婦人矯風雑誌』編輯委員としての佐々城豊寿の活動を明確にし、同時に、

「娼妾の全廃」を掲げた豊寿の登場に対する反動や余波のあり様を探ることを目的とする。

  なお、“雌鳥よ、夜明けを告げるな”とは、儒学の経典『書経』(牧誓)にある警告である。雌鳥が夜明けを告げる、

つまり、女が家(集団)を率いると、その家は亡びるというものである(「牝鷄無晨。牝鷄之晨、惟家之索也(牝鷄

は晨する無し。牝鷄の晨するは、惟家の索 くるなり)

」)。この格言は、長い徳川家支配(江戸時代)を通じて、人々

──男達、そして、女達──の心に染み通っていた。一方、明治になって禁圧を解かれたキリスト教にも、“Let

(5)

法学志林 第一一三巻 第一号八四

Your Women Keep Silence in the Churches”(教会で女性に話をさせてはいけない)という、『新約聖書』のパウ

ロの言葉(コリント第一書一四節)があったのである。

  ( 馬に乗る女

  公娼制度の廃止(廃娼)を訴える運動は、一八八〇年前後、伊香保温泉を擁する群馬県で起こった。新島襄(アメリカン・ボード宣教師)創立の安中教会を核に遊廓公許反対運動が起こり、廃娼の建議が県会に提出され、激しい攻

防が始まった。

  一八八二年には県会が娼妓廃絶を建議し、それを受けた県令が、まず伊香保村の、さらに全県下での廃娼令を発す

るにいたる。ただし、これは、県会を舞台とした男性中心の運動であり、女性が前面に立って行う廃娼運動は、「東

京婦人矯風会」の結成(一八八六年一二月)をもって画期をなす

。この過程で「娼妾の全廃」の旗を高く掲げたのが

佐々城豊寿である。やがて、『東京婦人矯風雑誌』の創刊(一八八八年四月)にいたる。

  豊寿は、伊達藩の儒者・星雄記の娘に生まれた。雄記は、代々儒者として伊達藩に仕えた星家の一〇代目で、若い

頃(一八三六年)長崎に赴いて蘭学者を訪ねたことがある。評定役、勘定奉行等の要職に就いた後、安政年間には函

館松前奉行を務めた。戊辰戦争で支藩の亘 わた藩が困窮すると、伊達藩から派遣されて、蝦夷地開拓を主軸とする改革案を立てた(宇津一一頁)。その結果、同藩は、藩主を先頭に全藩の紋鼈(紋別)移住に成功する。こうした経緯に

より、雄記の娘・豊寿は、旧亘理藩家老・田村顕允の援助を後々まで受けることができた(同八三頁)。田村家には、

「三台女史書」と記され、「星豊壽印」と押された漢詩の半切が遺されている(武井前掲論文。宇津三八頁)。

(6)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)八五   仙台で学問をした豊寿は、男装で母と中 ちゆうげん間に付き添われて、徒歩で上京した。一八七二年、横浜にあるアメリカ人 女性宣教師メアリ・キダー(Mary Kidder)の学校(フェリス女学校の前身)に入学する。そこで英語を身につけ、

翌一八七三年には、中村正直の塾・同人社(東京・小石川)に入学し、翌年秋、同人社に女学校が開かれるとそこで

学んだ。

  さらに、「いまの女子高等師範の前身であった学校──名を思い出せません──で漢学の先生をしてい」た(豊寿

の姪・相馬黒光の言葉

)。その際には、「中村正直先生について学び、その学んだところをすぐに教えていたのだ」と

言う。この学校とは竹橋にあった東京女学校(官立)であるとみられる。つまり、同人社で中村から漢文を学びなが

ら、それをすぐ教えていたと考えられる。

  とすると、豊寿は、官立では初めての女子の中高等教育機関への、次のような囂々たる非難の渦中に入っていった

ことになる。

  すなわち、一八七二〔明治五〕年二月、前年末の文部省布達「女学校入門之心得」に則って官立の「女学校」が開

校する

と、翌月の『新聞雑誌

』で、「洋学」「洋書」と服装・動作を一まとめにした、「洋学女生」に対する非難が巻

き起こる(『新聞雑誌』第三五号、一八七二年三月)のである。しかも、その前には、まず、「女子ノ断髪スル者」に

対する非難もあった。

○近頃府下ニテ往々女子ノ断髪スル者アリ。固ヨリ我古俗ニモ非ズ又西洋文化ノ諸国ニモ未タ曽テ見ザルコトニ

テ其醜体陋 ろうふう見ルニ忍ビス。女子ハ柔順温和ヲ以テ主トスル者ナレハ、髪ヲ長クシ飾リヲ用ユルコソ万国ノ通俗

(7)

法学志林 第一一三巻 第一号八六ナルヲ、イカナル主意ニヤアタラ黒髪ヲ切捨テ開化ノ姿トカ色気ヲ離ル丶トカ思ヒテスマシ顔ナルハ実ニ片腹イ

タキ業 わざナリ。此説既ニ府下諸新聞ニ掲載シテ言フ待ザルコトナレド(句読点、改行、引用者)

又別ニ洋学女生ト見エ大帯ノ上ニ男子ノ用ユル袴ヲ着シ足 あしヲハキ腕マクリナトシテ洋書ヲ提 ケ往来スルアリ。

ニ女学生トテ猥 みだりニ男子ノ服ヲ着シテ活気ガマシキ風俗ヲナスコト既ニ学問ノ他道ニ馳 セテ女学ノ本意ヲ失ヒ

タル一端ナリ。是等ハ孰レモ文明開化ノ弊ニシテ当人ハ論ナク父兄タル者教ヘサルノ罪ト謂フベキナリ。(同)

  四月には、東京府が女子断髪禁止令を出した。なお、これは従来、女子一般の風俗への規制とみられているが、直

接には東京女学校の風俗への非難に応えて出されたものだと考えられる

  五月、京都博覧会の折に学校制度を視察した福沢諭吉(一八三五─一九〇一)は、「京都学校の記」で、同年四月

京都府が開校した「英学女工場」の生徒を激賞し、返す刀で、「彼の東京の女子」を「断髪素顔まちだかの袴をはき

て人を驚かす者」と評した。

中学校の内、英学女工場と唱るものあり。英国の教師夫婦を雇ひ、夫は男子を集て英語を授け、婦人は兒女を預

かりて、英語の外に兼て又縫針の芸を教へり。〔中略〕この席に出でゝ英語を学び女工を稽古する兒女百三十人

余、七、八歳より十三、四歳、華士族の子もあり、商工平民の娘もあり。各貧富に従て、紅粉を装ひ、衣装を着け、其装潔くして華ならず、粗にして汚れず、言語嬌艶、容貌温和、ものいはざる者も臆する気なく、笑はざる

も悦ぶ色あり。花の如く、玉の如く、愛すべく、貴むべく、真に兒女子の風を備へて、彼の東京の女子が断髪素

顔まちだかの袴をはきて人を驚かす者と同日の論にあらざるなり。(福沢⑳

(() ((

(8)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)八七   京都の英学女工場の生徒を「彼の東京の女子」に対置した福沢は、女子教育の対案を提示したわけである ((

  以上のように、女子への公(官)による中高等教育の開始である東京女学校に対しては、激しい反動が巻き起こっ

た。なかでも、目の敵にされたのが「まちだかの袴」である。襠 まちだかばかまとは、襠を高く取って馬に乗れるようになって

おり、武士が正装に用いてきたものである。男性、しかも、他ならぬ「武士」(士族)の領域への越境・侵犯である。

  続く女子師範(「お茶の水」)の開校式(一八七五年十一月)では、「マチをずっと低くしてあっただけで、あとは

男物と同じ」したての袴が官給されたという ((

。マチがずっと低ければ、馬には乗れない。つまり、女子師範開校にあ

たっては、賢母良妻教育、すなわち、女子への(男子同様の)中高等教育という東京女学校をもって始まった方向 ((

維持しつつも、官給されたのはこうした袴であったのである。その意味で、皇后(美 はる子)を先頭に立てた女子師範の開校は、早くも、「東京女学校」とは微妙に異なる方向に女子教育を振り向けたのである。

  女が馬に乗ることは江戸時代には御法度であった。ところが、豊寿は、すでに、男装して袴を穿き、馬に乗って仙

台の街を疾走していた ((

。しかも、横浜では、西洋の女性が馬に乗ることは珍しいことではない。横浜絵(浮世絵)に

は、馬に乗る女性が描かれている。もし豊寿が女子師範の開校式に居合わせていれば、「まちだかの袴」と、「マチを

ずっと低くしてあっただけで、あとは男物と同じ」袴の違いとその意味するところがわかったはずである。

  「東京婦人矯風会」の旗揚げ (

  一八七六年一一月一三日、女子師範で開催された「婦人集会」で、豊寿は、「宮城県の星豊寿さんと云ふ妙年の婦

(9)

法学志林 第一一三巻 第一号八八人」として聴衆の中から登場して演説(「一家経済の心得」)をした(『東京日日新聞』一一月一五日)。翌年には、女

子師範に招聘されて、英学を教えることになる ((

  次に豊寿の名が現れるのは、その数年後、佐々城豊寿としてである。豊寿は、同郷で同時期に学んできた佐々城本 もと

(一八四三─一九〇一。伊東友賢)と恋愛関係に入った。ただし、本支は妻・千代との間に子どもが三人いる既婚

者であり、しかも、伊達藩の藩医・佐々城家の四男である友賢は、同じく藩医であった伊東家の婿養子となっていた

のであるから、この縁組の解消は容易なことではなかった。豊寿と本支の同居が戸籍上表示されるのが一八七七年、本支の離婚が一八八〇年である。同時に、本支は、勤務していた陸軍を辞職し、市井の医者として開業した。その上

で、豊寿の入籍は一八八六年一二月になる(宇津四七頁を参照)。また、この間、はじめての子を失った豊寿は、長

老派宣教師タムソン(D. Thompson)から受洗し、日本橋教会に所属した ((

  「婦

人矯風会」結成のきっかけは、アメリカ合衆国で結成されたWCTU(Woman’s Christian Temperance

Union, 婦人基督教禁酒会)が、世界WCTU(the World WCTU)を名乗って国境を越えた運動に乗りだしたこと である。その書記メアリ・レビット(Mary Leavitt)が、一八八六年六月一日に横浜に上陸し、日本での遊説を開

始した。この影響下、キダーをはじめとする女性宣教師等から英語で教育を受けた人々(佐々城豊寿、島田かし、海

老名みや等)が動き出した。「日本人プロテスタント女性キリスト者の第一世代」(安武一三六頁)である。

  レビットは演説会(七月一七日)で、WCTUの支部を東京に設立することを呼びかけた ((

。ここから、木村鐙 とう

(夫・熊二とともに明治女学校を創設)を中心に、「婦人矯風会」の結成に向かう動きが始まる。鐙子がコレラで急死

すると、巌本善治(一八六三─一九四二。『女学雑誌』の編輯・発行人)がその任を引き継いだ(宇津五〇頁)。

(10)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)八九   一八八六年一二月六日、日本橋教会で、「東京婦人矯風会」の発会式が挙行された。会頭には矢島楫 かじ(一八三三

─一九二五)、書記には佐々城豊寿が選出された。矢島は、マリア・ツルー(Maria True)率いる長老派の桜井女学

校の担い手である。「東京婦人矯風会」とは、様々な色合いの女性達の寄り合い所帯であった。

  (

()「娼妾の全廃」を掲げる「東京婦人矯風会主意書」

  この過程で、「娼妾の全廃」を柱にすべく、巌本と連携して精力的に動いたのが、佐々城豊寿である。

  まず、『女学雑誌』(第四一号、一八八六年一一月一五日)が、社説「婦人矯風会」を掲げた。巌本は、「婦人会」

結成の効用を説き、改良すべき六つの課題(娼妓全廃、女権拡張、女子が財産を相続できる制度、女子に不利でない

離婚・結婚の法律、女子教育の策、婦人授産)を提起し、その冒頭に娼妓の全廃を掲げたのである。同時に、「婦人禁酒会」に代わる「婦人矯風会」という名称を紹介した。

  さらに、『女学雑誌』第六五号(一八八七年五月二一日)では、背表紙の裏に、「特別広告」として、「東京婦人矯

風会主意書」が「書記」(豊寿)名で掲載された ((

  「主意書」は、

「吾等婦人国家の弊風を矯正せんことを希ひて玆に東京婦人矯風会を設くる者は、当今の時勢甚だ之

を必要することを信ずるがゆえなり」(読点、引用者)と始まる。すなわち、「時勢」に応えた、「国家の弊風」の

「矯正」を高らかに宣言する。その際、「我国一般に流行して特に吾等女性を苦むる所の諸の弊風」は言うまでもなく、

「男子諸君の間に行はるゝ数多の弊風」も、「矯正」の対象となると述べる。具体的には、「男尊女卑の風俗及び法律

を除き、一夫一婦の制を主張し、娼妾を全廃し、家制交際の風を改め、飲酒喫煙放蕩遊惰の悪習を刈る」を挙げた上

で、なかでも第一の課題として「娼妾の全廃」を掲げたのである。

(11)

法学志林 第一一三巻 第一号九〇

  (

()「治安を妨害する」『女学雑誌』第六五号

  じつは、この号の社説「姦淫の空気」は、内閣総理大臣・伊藤博文(一八四一─一九〇九)に対する非難を含んだ

ものであった。

  事の次第はこうである。一八八七年四月二〇日、伊藤が、鹿鳴館の名花と謳われた戸田伯爵夫人極 きわ子を、こともあ

ろうに首相官邸での仮装舞踏会の際に襲ったという噂が流れ、騒然となった。巌本は社説「姦淫の空気」で、「驚くべき風説」──「某所の宴会に某 それ、某 それ侯の妻に迫りて之を追ふ」、「此時女遂に害せらる某之が為に其夫に金を贈りて

あがないを為す」──をとりあげたのである。この問題を見過ごしてはならないと中島俊子(一八六一─一九〇一。岸田

俊子、湘煙)が奔走し、俊子に応えて巌本が社説を書いたと言われる ((

  言い換えれば、『女学雑誌』第六五号は、社説に「姦淫の空気」、論説に「婦人文明の働 はたらき」(佐々木豊寿子述)及び

「婦人嘆 たん」(中島俊子)、特別広告に「東京婦人矯風会主意書」という布陣で、日本を覆う「姦淫の空気」を一掃せん

とする画期的な号なのである。同時に、それは、時の権力者の性に関する行状の糾弾をはらむものであった。しかも、

「婦人矯風会の演説」と題して、東京婦人矯風会主催の二日間の演説(会)、ことに五月一三日夜の厚生館での集会を、

「聴衆男女打 うちまぜぜ凡そ一千二三百名あり」と報道していた。

  巌本が「女学雑誌持主」として五月二四日に警視庁に召喚され、警視総監(三島通庸)より、「第六十五号は治安を妨害するもの」と認めるとして、『女学雑誌』の発行停止が申し渡された。そこで、休刊して命を待っていると、

結局、六月三〇日に再召喚されて、七月一日よりの停止解除を申し渡された(『女学雑誌』第六六号、七月九日)の

である。

(12)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)九一   問題は、他でもないこの号に、「東京婦人矯風会主意書」が掲載されているということである。そもそも、第六五

号のうちの、いったいどの部分が「治安を妨害するもの」と認められたのかは明らかではない。弾圧に巻き込まれる

という恐怖が広がり、非難の鉾先が豊寿に向けられたことであろう。

  やがて、「東京婦人矯風会主意書」が、「会頭  矢島かぢ子」名で、『女学雑誌』第七〇号(八月六日)にあらため

て掲載された。それは、皇帝と皇后の恩徳を称え、その恩に「陛下の臣 民」として応えて、「吾等女性の身に着きた

る悪習の尚ほ去り難きは、一日も早う之を去り、尚ほ世に陛下の御 みこころ志に反 そむきて女性を卑むるの弊風あらんには、寸刻

も早う之を除かん」と呼びかけるものであった。そして、この主意書が、「婦人矯風会勧告文」として、会頭と書記

の連名で全国に配布されるのである。

  その間の経緯は明らかではないが、矢島が掲げた路線、すなわち、皇室への忠誠という錦の御旗を掲げて、東京婦人矯風会は、(「廃娼」を目標の一つに掲げて)出航することになったのである。

  ( 真の文明化と「娼妾の全廃」──豊寿の主張

  豊寿は、演説や文筆で、真の文明化として「娼妾の全廃」を訴えた。

  (

()「積年の習慣を破るべし」

  「東

京婦人矯風会」の発会式で演説するつもりだったという論稿「積年の習慣を破るべし」(『女学雑誌』第四八、

五二、五四号、一八八七年一月二二日より三回)では、「積年の習慣」「百年の習慣」により、日本婦人は、五感を喪

(13)

法学志林 第一一三巻 第一号九二失し、「土雛か張抜人形」に等しいところにまで陥っていると断定する。それゆえ、まず、己 おのれの周囲を取り巻く積年

の習慣を打ち破らなければならないと力説する(第一編)。

  こうした積年の習慣が如何に判断力を奪っているかの例として、源 みなもとわたるの妻袈 女をあげる。袈裟女は、自分を与

えよと力づくで母に迫る男を前に、母のこと・夫のことを慮って、我が身を殺す外ないと判断した。そして、そのこ

とをもって貞婦の鏡の如く賞賛されている。が、今日他にも様々な方法があるのであるから、むしろ、「最も不 ふとどき届至

極の女なり」と言うべきであるとする。

  また、「下等社会の婦女中に行るゝ習慣」に、「父母兄弟に疾病あるか又は年貢租税の不納ありて之を救ふ術なき時

は、速かに身を娼妓に落して其窮厄を救ふ」事があるが、その身の不幸を嘆くならまだしも、「一代の手柄と心得父

母を救済する良策と思ふに至れる」のは、述べるのも汚らわしい程である。にもかかわらず、「世間に文学を以て任

ずる諸先生が、此の醜業を営む者を筆誅することを為さずして、却つて其楼の何々は其の娘にして孝心ものなり孝女

なりなどゝ賞賛」するとは、全く合点が行かないことだと言う(第二編)。

  さらに、「誰も皆自分の国ほど尊き国は無と思ひ、又自分の風俗ほど相当の風俗は無きものと思ふ」が、外国人か

ら見れば笑止の習慣がある。その「野蛮の風俗」とは、「眉毛を剃落とす事と歯を黒く染る事」である。こうしたも

のは早く打ち破って一日も早く外国人の軽蔑を退けたい(第三編)というものである。

  豊寿の主張は、自分達を取り囲む「積年の習慣」に対して、客観的、批判的な目を向けようと呼びかけるものである。そして、自分を殺すことによって解決を図ろうとする「貞婦の鏡」袈裟御前の愚かさや、「身を娼妓に落して」、

「一代の手柄と心得父母を救済する良策と思ふに至れる」女達、しかも、それを賞賛する「諸先生」の馬鹿馬鹿しさ

を指摘し、さらに、眉毛を剃ることやお歯黒も、外国人に恥ずかしい「野蛮の風俗」にすぎないと批判したのである。

(14)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)九三

  (

()「婦人文明の働」

  豊寿は、「第二回女学演説」(会)での演説(「婦人文明の働」、『女学雑誌』第六五号)では、「日本の婦人は労力の

働きで文明の働きではありません」、「是では詰り自活の途を立ることは覚束ない」、「畢竟文明の働とは前と違ひ知識

の働きで御座います」と力説した。すなわち、いま現に演説したケルセー嬢は米国医学博士であり、「勿論彼国には

電信の技術や新聞記者職工教育家などをば皆以て婦人の働と致します、且つ〔中略〕随分男子の右に出で生計を立て

居ります」と言う。他方で、「西洋の服を纏 まとひ」、「外貌のみを文明と気取り其真を失ふ者」を批判した。

  そして、「京城の周囲は〔中略〕吉原品川板橋新宿と至る所妓楼遊廓ならざるはなし」、しかも、その中心は「新橋

日本橋柳橋等渾 すべて芸妓を以て堅めてあります」と指摘して、これでは「開化」「文明」と言うことはできないと言う。また、先ほど生糸の輸出について述べたが、「其生糸の足りぬ為めか、淫を鬻 ひさぐ売女となん謂へる者を輸出」してい

る、「此一事にて西洋の辱を受けぬか受くるか篤 とくと考て御覧遊ばせ」と問う。さらには、「妾を廃する」ことを主張す

る。そして、「元来亜米利加英吉利抔 などにては淫売者の無きにしもあらねど日本の如く公然と設けあるにはあらねば詰

り禁酒を主とするなれども、我国に取りては寧ろ矯風会の必要なるを感じます」と述べる。総じて、婦人矯風会を設

けてこれら三つのものを取り除くことに尽力するから、同感の方は、入会して、「共に日本の同胞姉妹をお愛し下さ

る様に祈ります」と訴える。以上のように、芸娼妓の廃止、売女の「輸出」の中止、妾の廃止という三つの課題を掲

げて、聴衆に婦人矯風会への入会を訴えたのである。

 

(15)

法学志林 第一一三巻 第一号九四

  (

()福沢諭吉との異同

  こうした豊寿の言葉・論法には、めざす理想として「文明」(社会)を掲げ、人々に呼びかけた福沢諭吉を想起さ

せるものがある。

  そもそも、眉毛を剃る習慣やお歯黒への批判を先導したのは福沢である(「かたわ娘」、一八七二年、福沢③)。豊

寿の呼びかけ方──まずは各人の見方の転換を誘う──も、また、福沢を思わせる。

  とはいえ、福沢自身は、やがて、「コンヂショナルグード」(福沢⑦

673) ((

という言葉の下に、「西洋にて細君の跋扈するは西洋の天理人道なり」とし、他方で、「日本の婦人の所帯持は西洋婦人の及ばざる所なり」(同

667)という、西

洋とは異なる日本婦人独自のあり方という考えに踏み切る(「覚書」)。これに対して、豊寿は、西洋(米国)を標準

とする文明/野蛮図式を家の中まで持ち込み、「日本の婦人は労力の働きで文明の働きではありません」、「畢竟文明

の働きとは前と違ひ知識の働きで御座います」と言い切ったのである。

  また、「積年の習慣を破るべし」にある論法──「世間に文学を以て任ずる諸先生が、此の醜業を営む者を筆誅す

ることを為さずして、却つて其楼の何々は其の娘にして孝心ものなり孝女なりなどゝ称賛」する──は、『時事新報』

の「婦女孝行論」(一八八三年一〇月八日)にある論法──「身體髪膚受之父母不敢毀傷孝之始也」(『孝経』)という

ように娼妓になることは孝行などではない(福沢⑨

207狂きてしと談美をれこが言居)、と芝や説小史稗来古がろこた、

今日もなお新聞記者がその口調を学んで娼妓を孝女だなどと賞賛し、幣風を助長している(⑨

207)──を思わせる。

  とはいえ、『時事新報』は続く「婦女孝行余論」(一〇月一八日)で、「青楼遊廓」は「多忙繁劇なる士商等が会合

する所の都会には、殆んど欠くべからざる一種の要具」(同

219)であるとして、「今一時に之を除去すれば必ず他に一

害を生ずるに至るべければ、先づ青楼遊廓は到底都会抔には免かるべからざるものなりとして暫く之を論ぜず」(同

(16)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)九五

220)と断っている。さらに、福沢自身、「品行論」(『時事新報』一八八五年一一~一二月)で、「唯一線の血路は窮策

にも醜策にも娼妓に依頼して社会の安寧を保つの外あるべからざるなり」(福沢⑤

565)と娼妓・遊廓必要論を明言し

た上で、「銭を以て情を売るの芸娼妓たるが如きは、人類の最下等にして人間社会以外の業」として、「プロスチチュ

ート(Prostitute)」「売婬婦人」「売婬婦」(同

562)と呼んで差別・排斥するように呼びかけた ((

  ちなみに、妾・芸者に関しては、福沢は、「男女同数論」(『明六雑誌』第三一号、一八七五年三月)で、もし時期

尚早というならば「妾を養ふことも芸者を買ふことも黙して許さん。唯これを内証にして人に隠す可し」(福沢⑲

552)

とし、その上で、「品行論」でも、「不品行を犯すも之を秘密にして隠すべし」(福沢⑤

555)とした。

  これらに対して、豊寿は、「文明」の名の下に、端的に「廃娼妓」「娼妾の全廃」を掲げたのである。

  なお、豊寿のこうした発想・言論活動に対しては、「売られて」「身を売る」女性達への同情・共感に欠ける(蔑視を煽るものである)、さらに、海外で身を売る日本人女性を国家主義的観点から断罪するものであるという批判が可

能である。後に矯風会の欠点として指摘されるこうした傾向は、初期の理論的指導者である佐々城豊寿にその淵源を

たどれるものである。

  同時に、見過ごしてはならないのは、初期婦人矯風会、なかでも、豊寿が掲げたものが、国家像・社会像の修正

(豊寿のいう「国家の弊風を矯正」)であったということである。同様に、福沢と『時事新報』が、妾の許容、娼妓・

遊廓の承認、さらに、後のことであるが、移住先への「賤業婦の外出」を(「経世上の必要」を挙げて)「公然許可」

するように提唱した ((

のに対し、豊寿は、「娼妾の全廃」・海外日本人娼婦の中止を提唱したのである。その意味で、東

京婦人矯風会の活動、なかでも巌本ら『女学雑誌』と連携した豊寿らの動きは、薩長のヘゲモニーで国家形成を急ぐ

政府にとって見過ごせない挑戦であった。

(17)

法学志林 第一一三巻 第一号九六

  『東京婦人矯風雑誌』創刊と『婦人 (

  言論の自由   全』刊行

  一八八八(明治二一)年四月一四日、『東京婦人矯風雑誌』が創刊された。編輯人は巌本善治、印刷兼発行人は福

原祐四郎であるが、実際の主体は女性である。新聞紙条例により女子が「持主社主編輯人印刷人」となることが禁じ

られているため、形式上、男子を編輯、印刷・発行人に立てたのである。

  もっとも、前年末には保安条例に続いて出版条例が出されており、出版条例には女性に対する禁止事項はないから、

なぜ出版条例に依らなかったのかという議論はある ((

  これは、『東京婦人矯風雑誌』が、他でもなくそういうものとして、すなわち、(「学術技芸」などという)制限付

きではないものとして準備されたためではないかと考えられる。

  というのも、同誌の創刊と歩調を合わせて、『婦人  言論の自由  全 ((

』(米国婦人矯風会印刷会社原著、日本東京婦人矯風雑誌編輯委員佐々城豊寿女訳)の刊行が準備されているからである。つまり、『東京婦人矯風雑誌』創刊にあたって、敢然と

高額の保証金を用意し、巌本ら男性を表に立てながら、同時に、『婦人言論の自由』で女性の言論の抑圧に抗議する

姿勢をとったのではないかと考えられるのである。

  (

  ()『婦人言論の自由全』

  『婦

人言論の自由』は、直接には、教会で女性が話をしてよいかという問題に関わるものである。安武留美によれ

ば、原文(WCTU機関紙The Union Signalに一八八六年七月に掲載)は、新約聖書にあるパウロの言葉“Let

(18)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)九七 Your Women Keep Silence in the Churches”(「女性は教会で黙っていなさい」〔コリントⅠ

((・

((〕 ((

)を題名にし

たエッセイである。WCTUは女性が説教・演説をしてよいという姿勢を打ちだし、論議を呼んでいた。豊寿は、女

性が公衆に向かって演説することの可否をWCTUに直接問い合わせて、その返答として送られてきたリーフレット

を翻訳したのである(安武一四五頁)。

  同書は、徳富猪一郎(蘇峰)による巻頭言「婦人言論の自由に題す」(一八八八年六月七日付)、巌本善治による

「序」(七月仲五付)を持つ。

  豊寿は、「自序」(一八八七年一〇月付。翻訳完成時)を次のように始める。

文明の中心たる欧米耶 教国に在りては古来婦人は男子の前に立て談論するは、基督の許し給はぬ所なりとする習慣久しきに渉り、遂に婦人の集会にも一人の男子入来れは忽ち其談論を止むるに至れり、況んや婦人か公衆の

前に立て演説を為すが如きは固より世の許さゞる所なりし

  そしてこう続ける。これは、「新約全書に在る警戒」に基づくものであるが、「智識の進むと共に彼の新約書中に戒

めたる語は別種の事にして、漫 みだりに婦人の社会、道徳、慈善、教育等の為に働く事までをも戒めたる言 ことばに非ざるを発

見せり」。そして、最後はこう結ぶ。

ここに至りて年久しく教会に戒め来りし誤謬も、氷雪の春風に融くるか如く、豁然として消散し、婦人言論の区域、

積年の束縛を免かれ始めて自由の天地に伸張するを得たり、婦人が基督の下に真の光明を放つの自由即ち婦人文

(19)

法学志林 第一一三巻 第一号九八明言論の自由、昔しより許されありしを発見したるは専ら智識発達の徳にして其功績鮮少ならずと謂ふべし

  これは、智識の発達によって、婦人が言論の自由をついに手にした喜びに溢れている。だが、半年後に書かれた

「緒言」(一八八八年四月付)は、趣が異なる。

  「緒

言」では、「曩 さきに婦人の公衆の前に立つて、演説する可否如何を問合せたる時」この原書を入手したという翻

訳・出版事情を述べた後、次のようにある。

婦人公衆の前に立て演説するは、何れの婦人も固より好む所にあらず、又世 よのなか人の擯斥する所なり、況んや我か矯

風会の演説の如きは世人の最も好む所の肉欲を制止する言葉に於てをや。聞く人見る人反対の意 想を抱き、罵詈

誹謗或は冤 罪を以て難ずるに至る故に、時勢に敏き才子姉妹に在ては無言は是徳と云へる、謙遜の徳を守り他人

の演説すら大ひに忌み嫌らふに至る。然 されとも〔中略〕濛 もうもう暗黒の間に堕落する人々を救ふは、仁 愛尤も深き神理

を奉戴する婦人の気力にあらざれば成し能はざるなり。然れば婦人公衆の前に演説するは今日の必用にあらずや。

今已に眼前衆多の敗亡せんとする人あり、何ぞ謙遜を守りて之を救ふ方法を告げずして可ならんや。(句読点、

引用者)

  このように、「自序」と「緒言」のトーンは異なる。前者は、「年久しく教会に戒め来りし誤謬」が智識の発達によ

り氷解した喜び、後者は、「婦人公衆の前に立て演説する」ことの必要性と、その厳しさである(「時勢に敏き才子姉

妹」からの非難すらある)。

(20)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)九九

  「緒 言」には、また、「キープ、サイレンス(Keep Silence )」の訳は、和訳新約全書では「黙」の一字のみである

が、漢訳では「緘 しんもく」であり、「口を緘 しんし縫ひて開く勿れ」の意味であるから、「頗ぶる適当の訳字」なのでこれを用

いるとある。そして、婦人が自ら己を称する時は「妾 しよう」というのが古今一般の慣用だが、この文字は「甚だ婦人の躰

面を汚すへき意味なれば己れは断へて妾の字を用いたる事なし」、それ故「己れと云ふへき所に吾 儕の文字を用」い

るので、「世の学 がくしや」よ、至当の文字があれば示して欲しいとことわっている。本文では、パウロの言葉が、「汝 なんじら曹の

婦人も教会の中 うちに緘黙すべし」と訳されている。

  表紙には、「明治二十一年七月第一版」とある。他方、『東京婦人矯風雑誌』創刊号の背表紙には、すでに、「婦人

言論の自由近日印刷一冊」という広告が出ている。第二号(一八八八年五月一九日刊)の背表紙には、「右は本月中に出

版」とある。つまり、五月中、すなわち、同誌創刊の翌月には『婦人言論の自由』を出版する計画であったのである。刊行が遅れた理由は不明だが、奥付には七月二八日印刷・八月一日出版とある。

  「翻

訳者兼発行者」は佐々城豊寿である。売捌所として女学雑誌社、民友社等が掲載されている。ちなみに、豊寿

はさらに、女学校の設立も準備していた。『東京婦人矯風雑誌』第

 (号以降の裏表紙には、「修身職業英和女学校」

の広告が掲載されており、そこには、「当今に適切なる婦人一身の職業及風俗の矯正を専ら大意として教授す」とあ

る。つまり、豊寿は雑誌(『東京婦人矯風雑誌』)の創刊、冊子(『婦人言論の自由』)の出版、学校(「修身職業  英

和女学校」)の設立という、三つの試みを発進させていたのである。

  (

()新聞紙条例・出版条例と『東京婦人矯風雑誌』

  『東

京婦人矯風雑誌』がなぜ出版条例に依らなかったのかという問いに関連して、女性を名指した言論統制につい

(21)

法学志林 第一一三巻 第一号一〇〇て、三鬼浩子の研究 ((

を基に整理しておこう。

  まず、一八七五年(明治八年)新聞紙条例・讒謗律には、女性に対する禁止事項はない。少なくとも明示的には、

女性であることを理由に禁止されてはいなかったのである。

  だが、一八八三年四月、新聞紙条例が改正されて、女性が「持主社主編輯人印刷人」となることが禁じられる(新

聞紙条例第七条「内国人ニシテ満二十歳以上ノ男子ニ非サレハ持主社主編輯人印刷人トナルコトヲ得ス」)。

  そして、一八八七年一二月末には、保安条例が公布・施行され、その二日後、新聞紙条例・出版条例の全面改正が公布された。新聞紙条例による女性への禁止条項はそのまま引き継がれた(改正後は第六条)。同時に、出版条例改

正により、「学術技芸ニ関スル事項」を掲載する雑誌(「雑誌ニシテ専ラ学術技芸ニ関スル事項ヲ記載スルモノ」)は、

出版条例に依るものとされた。

  以上のように、女性が主体となって雑誌を発行する場合は、出版条例に依ることになり、「学術技芸」に関するこ

としか載せられない。つまり、女性達は、雑誌の編集・発行を禁じられているわけではないが、「時事」に触れない

という条件付きなのである。しかも、何が「時事」にあたるのかという基準は示されない ((

から、常に予防的に自分で

規制しなければならない。

  言い換えれば、「時事」に触れたことを理由とする発行停止に怯えることなく刊行するためには、出版条例ではな

く、新聞紙条例に依る必要があった。こうした志とその成果を表わすのが、一八八八年一月植木枝盛らが高知県会で「娼妓公許廃止」の県知事への建議を可決させたのをうけて、「東京婦人矯風会  会頭  矢島楫  書記  佐佐城豊寿」

名で植木に送った書簡と、これに応える植木の書簡が創刊号に掲載されていることである。

(22)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)一〇一

  (

()女性の演説をめぐる巌本との対立

  以上のように、東京婦人矯風会設立と『東京婦人矯風雑誌』創刊において、佐々城豊寿は巌本善治と連携している。

他方、意見を異にする場面もある。豊寿は、集会で女性が演説をする──しかも、男性も交えた聴衆に対して演説す

る──という実践の先頭に立っていたが、巌本は、これに否定的であったからである。

  そもそも巌本らは、元来「世の所 謂る男女同権論なるものに甚はだ不同意」(『女学雑誌』第九四号、社説「吾人の

意見を明かにす」)という立場から、『女学雑誌』を創刊(一八八五年)したのであり、当初、「女子の演説」に、「大

いに不快」(同第二三号。新報「女子の演説」)との意見を表明していた。「其同性中の演説すら未だ行れず、然るに

突然として男子公衆に対 むかひて演説あ ママること、かの温雅の貞を失ふは固 もとより先づ事の順序を誤るものと云ふべし」(読

点、引用者)、と。

  その後、一八八六年六月に世界WCTUから派遣されてきたレビットは、女性が男女を含めた公衆に対して説教・

演説することを正当だとすでに考えていたが、他方、婦人伝道局から派遣されていた女性宣教師(及び、日本人男性

キリスト教徒ら)は、女性は(女性の前で演説しても)男性の前では演説しないという立場をとっていた(安武一三

八頁)。

  巌本は、「レビツト夫人」を招聘して木挽町の厚生館で開催した「女学演説」(会)の予告(『女学雑誌』第二九号、

七月一五日)で、「但し傍聴は女子に限る」とした(安武、同頁)。それでも、聴衆は「六百余名にて館内殆ど充満し

たり」(同誌三〇号)という。翌年の第二回女学演説会(五月二日)の予告にも、「同日は別段に傍聴券を発せざれど

も傍聴は惣 すべて女子に限るべき定 さだめ」(『女学雑誌』第六二号「新報」欄「第二回女学演説」)とある。これに対して、婦

人矯風会の演説会は、女性だけに限らず、男女混じるものであった。『女学雑誌』第六五号には、「婦人矯風会の演

(23)

法学志林 第一一三巻 第一号一〇二説」と題して、十三日夜の厚生館での集会は、「聴衆男女打凡そ一千二三百名あり」とある ((

  ただし、豊寿と巌本の対立は、女性が男性を前にして演説してよいのかをめぐるものであり、大局的には、巌本は、

やはり、豊寿の貴重な盟友なのである ((

  とはいえ、むろん、男女混じった千人余りの聴衆に対する女性(なかでも豊寿)の演説こそ、ゆゆしき問題であっ

た。それは、薩長のヘゲモニーで国家建設を急ぐ政府の足下で、新たな国家・社会像を掲げて、いわば「新しい男」

たちに呼びかけていたからである ((

  (

()浅井柞

  さて、豊寿らにとり、新聞紙条例・出版条例という薩長藩閥政府の課したハードルを越えたとしても、言論の自由

は必ずしも保証されたものではなかった。

  というのも、編輯委員は浅井柞 さくと佐々城豊寿の二人とされており、しかも、「水戸の学者の家に生れて和漢の学問

に通じ ((

」、長栄女塾総督にして、豊寿より十歳年長の浅井柞が、時に、隠然かつ断乎として豊寿を妨害したからであ

る。

  それは、誌上に、奇妙なほど明確に表現されている。豊寿は、同誌で、論説「自 己の志 想」(創刊号)、「日本同胞

諸兄に望む」(第二号)、さらに、「自己の志想即ち婦人の志想は男子と異なる説」(第三号)を発表し、自分、即ち、婦人の志想は男子と異なるのであるから、婦人は、男子を頼んでいるのではなく自ら進んで自分の志想を述べなけれ

ばならないと力説した ((

。だが、早くも第三号(一八八八年六月一六日)で、「論説」欄に掲載された「矯風会員に勧

告す」(浅井さく女)の次に置かれた「自己の志想即ち婦人の志想は男子と異なる説」に、目次、本文とも、書き手

(24)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)一〇三 の名前がない。第四号(同年七月二一日)では、同じく「論説」欄に掲載された「婦人改良を論ず」(浅井さく女)

の次の一文「同胞諸兄に望む  第二」に、(豊寿のものであるにも関わらず)目次、本文とも、書き手の名前がない

のである。

  そればかりではない。「『同胞諸兄に望む  第二』の書き出しと同じページには、国の慣習を考慮せず自らの身分も

省みない急進的な婦人改良論を諷刺的に警告する一文が掲載された」(宇津六七頁)。この「一文」とは、論説「婦人

改良を論ず」中の、「教友某 なにがし氏が懇親会の席に於て婦人改良の急進を諷刺したるの勧話」を指す。その「勧話」と

はこうである。

〔前略〕中にも小 慧利に見ゆる蛙 かわず一つの動議を起して曰けるは、人間の無状なるは今に始めぬ事ながらさればとて我々も卑屈に匍 ふくし居るが故に人間にも踏付にせらるゝならん、若し彼と同一に直立して歩行したらんには、

やはか踏付らるゝ事はあるまじと得意面 がおして述べたりける。玆 は名案なり良法なりけり、然らは是よりは蛙の歩

行を改良して直行するものとす可 しとて、先づ試みに其列を整へ、総大将とも見ゆる蟇 ひきがえる蛙は真 まつさき前に進み出で一勢

に直立の号令を発し小隊進めと云 いうや否 いな、列の内にて止めよ々々と云 いう者あり〔後略〕(句読点、引用者)

  つまり、女性達は、懇親会の席で自分達を「蛙」と揶揄する「勧話」を聞かされた上、さらに『東京婦人矯風雑

誌』誌上で、それを読ませられたのである。

  言い換えれば、豊寿らが手にしたのは、“お目付役”付きの、常に妨害が入る「言論の自由」でしかなかったので

ある。こうした采配は矢島の関与なしにはあり得ないであろう。さらに、その背後には、様々な政治的思惑が働いて

(25)

法学志林 第一一三巻 第一号一〇四いたと言っても過言ではないであろう。

  この後、「蛙」たち、なかでも、「大将とも見ゆる蟇 ひきがえる蛙」佐々城豊寿に対する執拗な攻撃が始まる。潮 うしおだ田千勢子(一

八四四─一九〇三)は、後年次のように振り返る(「回顧と希望」、『婦人新報』第五七号、一九〇二年一二月二五日) ((

反対の声は男子の中より起り来れり、而も最も親善ならざるべからざる牧師教師の中より起れり。曰く「婦人の

天職は家政を整へ夫を補佐すべきものなるに之を外にして公の事業に従事するが如きは実に以ての外のことなり」曰く「婦人の働は〔中略〕夫の内助者たるにあるに、生意気にも紙筆口舌を弄して社会の事業に容嘴せんと

は〔中略〕矯風会なる名称はこれ誤にして必ず狂風会なるべし〔後略〕」(内村鑑三氏の如きは京都より極力攻撃

の一人なりき)

  「財産中分権」 (

(佐々城豊寿)と「クリスチャン・ホーム」 (内村鑑三)

  潮田らが聞いた反対の声とは、「夫を補佐すべき」、「夫の内助者たる」べき婦人が何事か、「以ての外」だというも

のである。

  じつは、豊寿は、「同胞諸兄に望む  第二」で、論じるのは「尤も難事中の難事」と認めつつ、婦人の「財産中分権」、すなわち、婦人が良 人と並んで「業務分担」をすることを理由に、「財産」の「中分」を権利として提唱したの

である。

(26)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)一〇五

  (

()「財産中分権」

  豊寿にとって、それは、正当な、当然のことであった。一家では男女が「業務分担」をし、婦人は、様々な仕事を

一手に引き受け、「家中の掃除或は台所を司どる事無給金の下 じよの如し」。「一家は男女合して成 なりたつ立ものなるに何故に

財産に至りては専ぱら男子の有にして婦人の物ならずや。前に述 のべし処の分担役割あれば婦人も中ば所有すべきは当然

の事なりと信ず」、「道理上財産中分の所有あるは決して不当のことにあらざるなり」と。そして、「此財産中分権の

判然と定らさる中は一家の和合も親愛も真実行はれざるを知 しる故に吾 儕は世人の憎 にくみも譏 そしりも憚からず。況や文字の不揃い

なるを事を恐れんや。生のあらん限りは主張して止まさる覚悟なり」(句読点、引用者)と結んだのである。

  これに対して猛然たる反発が巻き起こった。つまり、『東京婦人矯風雑誌』第四号をめぐって、「婦人」観、男/女

の定義、つまり、ジェンダーをめぐる抗争が勃発したのである。

  そもそも、「啻 ただに家の荷物を半分持つのみならず、日本国の半分は婦人のものと心得」(「日本婦人論  後編」、『時

事新報』一八八五年七月、福沢⑤

499)という福沢諭吉の提唱を言葉どおりにとれば、そう非難されることではなかっ

たはずである。だが、「内を治む」を「職分」として引き受けることは称揚されても、その当然の権利として「財産

中分の所有」を要求することは容認されることではなかったのである。それは、冊子『婦人言論の自由』──『東京

婦人矯風雑誌』第四号に少し遅れて刊行される──を掻き消してしまう勢いであった。

  (

()「クリスチャン・ホーム」

  その急先鋒が、内村鑑三(一八六一─一九三〇)である。一八八八年八月七日、西部婦人矯風会(東京婦人矯風会

西部部会)主催の集会(番町教会)で、内村は「クリスチャン・ホーム ((

」と題する演説をした。

(27)

法学志林 第一一三巻 第一号一〇六

  内村は、ホームを賛美する演説の途中から、「私は今迄婦人にして会堂の働きに於ては誠に感心の様に見へても、

其人の家は実に悪魔の家かと思ふ程のものを見ました」(読点、引用者)と話し始める。そして、「朝は一番に早く起

き夜は遅く寝 ね家の掃除や洗濯に従事して居る」女性、「ホームを支配してホームに由て小児を教育し夫を慰め家を

守りて行くべき細君」を称えて、これを、「数千人の衆を集めて或は禁酒の効を説き男女の同権を唱へ或は女子も投

票権を有する所以を論じ或は神の救の道を講じて居る」(内村①

415) ((

女性に対比したのである。

  そして、ついには、次のように非難した。

信者たる婦人の中に少しく誤つた考が出て来たと思ひます、それと云ふものは一家を治めることを思ふよりは公

衆の前に立ちて立派な演説でもするがエライ様に思はれて居る、左れば女学校に通学して英文の手紙は書けるが

家の小使帳を記 るすことが出来ない、又甚だしきに至ては基督信者の婦人にして公けの会を主 つかさどりて世の中に立て

ば演説も出来万事様子もよいが其人の家に帰りて見れば家は乱れて朋友親戚にも不義理の借金を拵 こしらへた婦人を私

は存じて居ります(内村①

417)

  つまり、内村は、廃娼や女性参政権等の主張内容そのものを批判・検討するのではなく、「公けの会を主 つかさどりて世の

中に立てば演説も出来」る人が、自分の家も治められないではないかと弾劾したのである。

  さらに、信者が「汽笛とのみなりたがつて笛を吹き太鼓を叩きたがり」という傾向を批判し、「家の中に在て精神

を養ふ所の石炭となる」人をよしとした。つまり、傲慢、驕りを捨て、犠牲を進んで引き受けよと説教したのである。

  これが、豊寿に向けられた非難・人身攻撃であることは明白である。演説はできても、家を治めることができない、

(28)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)一〇七 傲慢だ・奢っているという非難である。さらに、家を治められない人が営む「悪魔の家」という表現には、他

の家人

を壊したではないかという憎悪の声が隠されているとみても大過ないであろう。

  (

()書記更迭

  『東京婦人矯風雑誌』第五号(八月一八日)には、冒頭に「特報」として、

「東京矯風会仮事務所移転広告」、「書記

及会計更迭広告」、「雑誌編輯所移転広告」の三つが高く掲げられた。書記の更迭とは、「今般佐々木 ママ豊寿退職致 いたし候に

付〔後略〕」と始まるものである。また、雑誌編輯所は浅井の長栄女塾に移された ((

  内村の演説筆記は、『女学雑誌』第一二五号(九月一日)、第一二六号(九月八日)、第一二七号(九月一五日)に、

続いて、『東京婦人矯風雑誌』第六号(九月一五日)、第七号(一〇月二〇日)に連載された。

  こうして、佐々城豊寿は、あたかも罪 つみびと・失格者でもあるかのように、東京婦人矯風会の中枢から追放されたので

ある。「修身職業  英和女学校」も、同年秋には廃校となった。豊寿は、「諸種の障妨ありて廃止するに至れり今尚遺

憾に堪へざるなり ((

」と述懐している(宇津五九頁)。

  さらに、翌年の『東京婦人矯風雑誌』第一一号(一八八九〔明治二二〕年二月一六日)には、「矯風雑誌編輯委員

佐々木 ママ豊寿は病気につき編輯委員を辞したれは本会はこれを許可し後任選定まで浅井さく専ら其任に当れり」という

発表がある。同時に、「東京」の二字を削除して「婦人矯風会」とすることを含む、「婦人矯風会改正規則」が掲載さ

れている。

  さらには、会頭矢島の負傷を受けて矢島の辞職と、後任会頭の選挙を告知するにあたり、同誌一三号(同年四月二

〇日)冒頭の論説「会頭の辞職及後撰」(無署名)は、矢島を「信向に富」み「着実謙遜」であると称えるとともに、

(29)

法学志林 第一一三巻 第一号一〇八「博学多才なる者」「活発果敢なる者」「交際の巧 たくみなる者」「演説の上手なる者」にのみ頼るのではなく、「信向に富た

る者」を撰ぶようにと訴え、同時に、「汝先 まず汝の傲慢 00を矯風せよ、汝が好名 00を矯風せよ、汝か執 まけおしみかたよりこころ拗適莫を矯風せ

よ」という非難の言葉を並べたのである ((

  「文

体は編輯者浅井柞のそれに似ている」(宇津七三頁)。この時期、編輯委員は浅井一人であるから、無署名のこ

の論説は浅井によるものとみるのが妥当であろう。

  「婦人白標倶楽部」と集会及政社法、衆議院傍聴禁止 (

  豊寿は、最終的には、「婦人白標倶楽部」の結成に向かう。年配者からは、「修身職業  英和女学校」に教員として

加わっていた潮田千勢子が合流した。

  豊寿は、まず、新島襄の同志社建設募金運動のために、潮田と二人で発起人になり、『女学雑誌』を通じて広く呼

びかけ、音楽慈善会の開催(一八八九年三月)のために奔走した。ところが、それに対しても非難が起こり、「諸氏

が目的は家事を投げ棄て、〔中略〕世間を駆け廻りて、有力者若しくは慈善家らしき名声を博さんにとするにはあら

ざるべし」という匿名の中傷文が『経済雑誌』に投稿され、そして、それが『女学雑誌』(第一六二号、一八八九年

五月一八日)に転載された。これに対して豊寿は、同誌(第一六四・一六五号、六月一日・八日)「開書」欄に、長い弁明文を寄せた(宇津七二─七三頁)。

  そこでは、自分は生来無智であるとして、その例として、第一に、世人が娼妾を賤視しないことを批判して、「却

つて世の嘲笑を蒙」ったこと、第二に、「是より先き演説としては娼妾の賤しむへき醜業たるを演べたる男子一人も

(30)

雌鳥よ、夜明けを告げるな(関口)一〇九 無く」、「某牧師ですら娼妾は世に害なしと迄も公言」されていた、こうした「有害無益の男子の演説」を聞くよりは

と、自ら演壇に立って演説を始めたために、「娼妾全廃論の婦人の唇より出ると、婦人か男子衆人の前に立て演説す

るとは未曾有の出来事」であったので、攻撃の最焦点に立たされたこと、第三に、「賤民子女の一家を養なふ技術な

く醜業に陥ちいるを傷たみ」職業学校を創立しようとしたが、「諸種の障妨ありて廃止するに至」ったこと ((

等をあげ

たのである。

  また、会頭選挙をめぐっては、結局、副会頭だけが改選(六月一五日)されることになり、浅井が一位になり、豊

寿は三位で落選した。同夜、佐々城家に植木枝盛、巌本善治、徳富蘇峰ほか一名が招かれた(「植木日記」六月一五

日)(宇津七五頁) ((

  (

()婦人白標倶楽部の旗揚げ

  その一週間後の『女学雑誌』(第一六七号、一八八九年六月二二日)「時事」欄に、「婦人白標倶楽部」の設立が報

道された。ただし、「府下四十二番女学校の人工藤佐野、十三番女学校の人相良龍の両女史」の設立によるものであ

る。

  さらに、『女学雑誌』第一八三号(一〇月一九日)の「開書」欄に、「婦人白標倶楽部々員総代  佐々城豊寿  潮田

千勢」の連名で、「全国有志懇親会に送る書」(九月二五日付)が掲載された ((

。また、「広告」欄には、「婦人白標倶楽

部記事」が掲載され、相談会決議書も掲載された。なお、『女学雑誌』は学術雑誌であったが、保証金を納め、新聞

紙条例により、この第一八三号から時事問題を論じることが可能となった。こうして、国会開設を前にした布陣が作

られたのである。

参照

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