流出する物語‑ベケットにおける劇外劇
蝣
(劇中劇)と呼ばれるものにたいして、 (劇外劇)と呼 びうるものがあるとしたら、それほどのようなものだろ う。劇中劇がけっして比倫ではないのと同様に、舞台を とりまく社会や時代を指す比倫としてではなく、ひとつ の劇作品の構造に深く根ざして立ち現れてくるような、
もうひとまわり外側の劇があるとしたら、それはいった いどのようなものだろう。
こうした問いを立ててみることは、形式論理をもちい た言葉の遊びではない。サミュエル・ベケットのとりわ け後期の戯曲、その上演に立ち会うわたしたちにしばし ば訪れる、あのきわめて気味の悪い瞬間が強いるものだ。
その瞬間は、劇中のどこかの時点で、ふいにやってくる。
ひとたびそれが訪れると、舞台をみつめるわたしたちは 突如奇妙な緊張と不安にとらわれ、自分がいまどこにい て、何に立ち会い、何を目撃しつつあるのか、にわかに わからなくなる。演出や演技によって損なわれている場 合は論外として、むろん気づかずに終わることもできる だろうが、この奇妙な瞬間はたしかに作家の企てのうち にあり、あらかじめひそかに準備されている。舞台上で、
あるいはむしろ客席までふくめた劇場内で起こるこの不 可解な出来事はいったい何か。それを精確に記述するひ とつの手がかりとして、劇外劇という概念は要請されて
くる(1)。
2.
気味の悪い瞬間とはどのようなものか。それは劇中話 の濠出というかたちであらわれる。たとえば『オハイオ 即興劇』という作品(2)舞台上には大きな机があり、外 見のそっくりな二人の人物が、その一角をはさんで席に ついている。一人の前には本が開かれており、それをも う一人に読んで聞かせることで劇が進行する。物語はす べて、読み上げられる書物のなかにあり、舞台上の動作 はといえば、読み手となる人物がページをめくること、
そして聴き手となる人物が読み直しを求めてときおり机 をノックすることくらいだ。表題の含意とは裏腹に、即 興と呼べる要素はほぼ完全に排されている。
朗読をつうじて、ある男の物語が語られていく。安ら ぎをえるために、愛しい人と長くともに暮らした場所を 離れ、パリのセーヌ河岸とおぼしき町で独居を始めた男 の話である。この愛しい人(性別すら示されない)が誰 なのか、彼とのあいだに何があったのか、はっきりとは わからない。ただ、おそらくその人とは死に別れたのだ ろう、一人になった彼はあえて、二人で過ごした思い出
長 島 確
のまったくない新たな町で、単調な生活を営みはじめる。
部屋や町のなじみのなさにこそ安らぎを見出そうとす る彼は、この新たな生活に踏み出す以前に、警告を受け ていた。いくたびも夢にあの愛しい顔を見、声にならぬ ことばを聞いたことがあったのだ。長いあいだ一緒に過 ごした場所にとどまりなさい、私の影がなぐさめてあげ るから、と。環境を変えた甲斐もむなしく、けっして引 き返せない過去からの呼び声を振り払い切れずに、やが て彼は恐怖にとらわれ、不眠の夜を過ごすようになる。
と、そのうちある夜、彼のもとに一人の男があらわれ る。男はあの愛しい名を告げ、私はあの人から遣わされ、
あなたをなぐさめにきた、というのだ。この不測の訪問 者はコートのポケットからすり切れた本を取り出し、夜 明けまで彼に読んで聞かせる‑0
この決定的なくだりに至ってようやく、あるいは勘が よければここに至るまでにも薄々と、観客は読み上げら れる物語が舞台上の二人の人物と重なり合っていること に気づかされるだろう。読み進められてきた物語はまさ に舞台上の二人の姿であり、あらかじめ与えられていた 簡素な道具立て(人物・衣装・小道具)が、符合をつう じてにわかに意味をもちはじめる。観客としてはしずか に息をのむ瞬間であり、この効果だけでほとんど感興さ えおぼえる。
しかしこの瞬間は、それまで暖味だった何かが解明さ れたり肺に落ちたりするような、安心をもたらすもので はけっしてない。むしろ逆に、ぎょっとするような、ど ちらかといえば旺皐にも似た混乱を引き起こすのであ り、ふいに時間と空間の感覚が定まらなくなる。自分が いま舞台上に見ている人物が何者なのか、その説明がつ くというよりも、むしろよりいっそう得体が知れなくな るのだ。
構造を単純にとらえれば、この戯曲は二人の人物と、
その関係を説明する(かのように思われる)物語の二重 構造になっている。現前する人物がおり、かれらの現在
‑と至る来歴が、書物を読み上げるというかたちで披露 される。舞台上のほとんど不動の劇にたいして、劇中話 が出来事の経緯を雄弁に語るのであり、だとすると不思 議なのは、二人の来歴が‑それがほんとうに二人の来 歴であるのかという疑問も伴いつつ‑なぜ書物に書き 込まれているのか、ということに絞られる。
けれども、構成にかんして事後的になされるこうした 要約は、あの一瞬の気味の悪さをまったく説明しない。
そればかりか、世界のすべてが書き込まれた一冊の書物 や、反転可能な夢と現実の循環といった、いかにもボル ヘス的な別種の陪量へと問題をすり替えてしまうおそれ
さえある。なるほどこの物語は何段かの階層をもつ入れ 子の体をなしており、その各階層をむすぶ符合とその不 確かさがひとつの鍵となっている。舞台上で書物を読 み・聞く二人の人物がおり、その書物のなかにやはり書 物を読み・聞く二人の人物がいる。この二つの階層の符 合はたしかに畳惑的な謎であり、それらが完全に一致す るのか否か、どこまでも確定不能なものとして仕組まれ ているがゆえに、その主従関係、前後関係をめぐってさ まざまな解釈を誘うだろう。しかしそうした解釈は、事 後的にすべてを透視した地点からなされるがゆえに、あ の気味の悪さを引き起こす肝心の一瞬を取り逃がしてし
まう。
重要なのは、事の起こる順序だろう。舞台上にはじめ から与えられている二人の人物は、さしあたり舞台の序 盤においては、これから語られる物語にたいして、それ が書物に記されている、という括りを示す枠以上のもの ではない。あるいは、朗読の開始とともに後景に退く、
といってもよい。舞台を見つめるわたしたちの意識の焦 点は、しだいに劇中話の内容に絞られていくのであり、
舞台上の聴き手にあたる人物がときおりうながす読み直 しは、その人物のなんらかの関心・執着を示しつつも、
それがあくまで書物に記されているのだという印象を補 強し、わたしたちがその内容を把握するのを助けさえす るだろう。このとき聴き手にあたる人物は、観客ととも に、物語の枠の外にいる。
やがて物語のなかで、男が夢にみた愛しい人の警告 (「とどまりなさい、私の影がなぐさめてあげるから」) が語られ、ついで、その警告‑の違反を補うかのように、
使者が彼を「なぐさめに」訪れる。ここには奇妙な符合 があり、夢の実体化がある。物語のなかで、さらに夢と いう枠で括られていた出来事が、その枠から溢れ出し、
物語中の男の身に起こるのだ。そしてすぐさま、さらな る決壊がやってくる。物語中の使者が本を読み始めた (と語られた)とたん、舞台上の書物という、物語を括っ ていた枠までもが決壊し、劇中話が舞台上の光景を瞬く 間に呑み込むのである。いわば劇中話の実体化であり、
劇中話をあくまで劇中話にとどめる枠を保証していた舞 台上の人物は、突如わたしたちのもとを離れて物語のな かに陥入し、たんなる物語中の登場人物となりさがって、
枠としての役割を果たさなくなる。
書物のなかから物語が流出し、舞台上の人物を呑み込 むとき、かれらとともに物語の外側にいると信じていた わたしたちはいったいどうなるのか。自分たちの足場ま でもが一瞬にして消失したかのような不安をおぼえるだ
ろう。物語を書物のなかに封じ込め、その外枠を保証し ているかにみえた人物たちを失い、わたしたちは一瞬に して、こんどはかれらに代わってみずからが外枠を保証 する立場におかれていることに気づかされるのである。
内と外との境界線の引き直しを強いられるのであり、こ の遠近法の混乱、入れ子状の枠組みの突如の更新こそが、
あの気味の悪さの原因にはかならない。
3.
書物のなかの物語でしかなかったものが、それを読 み・聞く舞台上の人物を呑み込む。この予想外の出来事 に直面して、観客であるわたしたちは、不意をつかれ、
動顛しながら、物語の外枠を捉えなおさざるをえない。
どこまでが物語の内にあり、どこからが物語の外なのか。
この瞬間まで、わたしたちは何よりもまず、書物のな かの物語と舞台上の人物たちとのあいだに、つまりこう 言ってよければ劇中話と劇本体とのあいだに境界線を引 いていたにちがいないのだが、劇中話が劇本体を呑み込 むに至って、その境界線にかんする認識を、一挙に、強 制的に、あらためなければならなくなる。劇本体と思い こんでいたものが劇中話にすぎなかったと覚らされ、だ とすると劇本体はどこ‑いってしまったのか、急にわけ がわからなくなる。つまり眼前のすべてが劇中話である
かのように思われ、それと同時に劇本体が消失したかの ような錯覚に襲われるのであって、そのために、いま自 分が知覚している光景と自分自身との距離が測れなくな
i>nJご:
劇本体はどこ‑いってしまったのか。その消失の埋め 合わせとして、わたしたちは、それまで舞台上の人物た ちのいた立場に自分たちが置かれていることに気づかさ れる。劇中話と劇本体とのあいだに引かれていた境界線 が行き場をなくし、舞台上の光景と観客であるわたした ちとのあいだにくり上がってくるのであり、舞台序盤で 二人の人物が書物と結んでいたのと同じ関係を、ちょう どひとまわり拡大したかたちで、わたしたちは眼前の舞 台とのあいだに結ばざるをえない。すなわち、劇中話に たいして劇本体があったように、いまや劇本体にたいし て、いわば劇外劇とでも呼ぶべきさらにひとまわり大き な枠組みが生じており、わたしたちはそこに投げ込まれ、
戸惑いながら劇本体を覗き込んでいる。まるで、書物を 前に坐っている二人の人物のように。
4.
劇外劇と呼ぶべきこの奇妙な場の発生は、作家によっ で慎重に計算され仕組まれた効果にちがいないが、しか しながらそれはこの作品一度きりの、とっておきの着想 なのではない。これほどあからさまではないが、もうひ とつ別の例。 1972年に初演された『わたしじゃない』と いう作品である(3)。
この戯曲は「口のための芝居」とでもいうべきもので、
闇のなかに浮かぶ口が、自分の過去と現在の境遇を他人 事のように三人称でひたすらまくしたてる、上演時間お よそ15分の異様な作品である。けれどもこの説明はや はり事後的になしうるものでしかなく、ここでも順序が 重要だといえるだろう。つまり上演において劇外劇とい う場が発生する手順と、またそれを論じるためにいまこ うして語るときの順序である。それらの順序にかんする 注意なしには、劇外劇という問題は見えてこないのだ。
舞台はこんなふうに始まる。闇のなか、まず声が聞こ
えてくる。女のものらしいその声は、ぶつぶつと何かを 早口でつぶやいているようだが、内容はまだ聞き取れな い。声は闇から湧いてくるかのように次第に高まり、と つぜん舞台上空に口が現れる。俳優の生身の口だから、
わたしたち自身の口と寸法は違わないはずだが、不自然 な高さにあるのと、身体の他の部分がまったく見えない のとで、距離感が失われ、やけに小さく、しかし実寸の よくわからない不可解な大きさに見える。実際、人間の 身体の一部とは思えない、独立した小さな赤い生き物が 遠くでひらひらと動いているようであり、もはやこれだ けで、ほかに類例の見あたらない強烈な視覚体験だとい える。
その強烈さに庄倒されつつ、だんだんに聞き取れてく る言葉から、どうやらどこかの女について語られている らしいことがわかってくる。 「彼女」と呼ばれる誰かの 物語であり、つまりはこれが劇中話として、さきほどの
『オハイオ即興劇』の書物のなかの物語と同じ位置にあ る。この『わたしじゃない』も、やはり同じように劇中 話から始まっていくのだ。
こまかな行余曲折を省くと、劇中話はだいたい次のよ うに進む。女が野原を歩いていて、とつぜん闇に落ち込 んだこと(おそらく死んだのだと思われる)。闇のなか で、意識を取り戻したこと。体の感覚が徐々に戻ってく ること。どこからか言葉が聞こえてくること。それがど うやら自分の声であること。つまり自分の口が猛烈な勢 いで言葉を発していること‑。こうしてどこかの女の 物語だったはずの劇中話が、舞台上の口自身にぴったり
と重なってくるのである。
過去の、どこかよその出来事として語られる物語が、
それを物語として括る枠を破りながら、だんだん舞台上 で進行している出来事に追いついてくる。この作品はそ のような展開の大筋において『オハイオ即興劇』とじつ によく似ているといえる。ただし、こちらの場合は、 『オ ハイオ即興劇』ほどには焦点が‑箇所に絞られておらず、
あの気味の悪い劇的な一瞬のように明確な決壊の瞬間を もたない。そのかわり、劇中話(「彼女」についての物 請)と劇本体(舞台上の口)とのあいだには、じわじわ と利いてくるような、もっと微妙で複雑な二重化(ない しは符合)が全面にわたって施されている。決定的な瞬 間をもたないかわりに、はじめから少しずつ不可解な符 合が積み重ねられていくのであり、言い換えるなら、 『オ ハイオ即興劇』のように物語を囲い込み、その流出を堰 き止めている強固な堤防(書物)があるのではなく、そ もそも劇中話と劇本体とを隔てているのは穴だらけの薄 い膜であって、たえず至る所で劇中話の溶出が起こって いるのだ。
たとえばそれはすでに冒頭から始まっている。視覚の 強烈さに心を奪われて聞き逃すことがなければ、姿を現 した口は第一声でいきなり「出たout」と言っており、
すぐ先でこんどは「ちっちゃなものtinylittlething」と 言う。これは物語の文脈では女がちいなさ赤ん坊として この世に生まれ出たことを指しており、そのことは矢継
ぎ早に言い足し言い換えられる言葉(「into也isworldJ
「tinyli仕:legirl」)からすぐに明らかになっていくが、上 演に立ち会うわたしたちにとっては、同時に口じたいの 出現であり、舞台上空に小さく浮かぶその姿を意味する だろう。ちなみにこの辺りはベケット自身のフランス語 訳でも工夫されており、 「tinyli仕le血ing」にかわる「petit boutderien」は闇につつまれ存在しないにひとしい身体 の末端としてのロに、そして英語版の「godforsaken」に かわる「loindetout」はそのぽつんと孤立してある姿に、
より即物的に符合している(4)
つまりこの作品においては、劇中話はそもそものはじ めから劇本体‑と濠出しようとしており、 (闇に浮かぶ 口ひとつ)という、終始わたしたちに与えられている異 様な視像に意味を充填しようとしている。劇中話と劇本 体との境界線ははじめから脅かされており、観客である わたしたちも、舞台冒頭からその不安定な状況に立ち会 うことになる。それ以降、上演の間中、自分たちが何に 立ち会い、何を目撃しつつあるのか、しっかり画定でき ない不安をたえず砲えっづけさせられるのであるO 『オ ハイオ即興劇』のような一瞬の劇的な変化はないけれど、
これはこれでまちがいなく薄気味の悪い体験だろう。
そしてこのとき、やはりここには劇外劇と呼ぶべき場 が生じているのであり、わたしたちはそこに取り込まれ ている。そこは、劇中話を起点として、内から外へと枠 を破っていこうとする得体の知れない運動の結果現れて
くる、奇妙な磁場のようなものである。
境界線の画定をめぐる駆け引きが、そこでは起こって いる。まずはじめに、それは劇中話と劇本体とのあいだ でたたかわれる。劇中話は、劇中話という括りを突き 破って劇本体と一致しようとし、それにたいし劇本体は、
劇中話をあくまで劇中話の枠に収め、距離をとろうとす る。語られる物語はその語り手であるロ自身を指示しよ うとするが、口はその物語を、あくまで他人事として、
自分ではない「彼女」の物語として、拒絶し切り離そう とするのである。すなわち(わたしじゃない)というわ
月ilM!
このせめぎ合いによって、劇中話と劇本体、物語と舞 台上の口との境界が脅かされ、どこまでが劇中話でどこ からが劇本体なのか、わたしたちにはわからなくなる。
それはすなわち、劇本体とわたしたち自身との境界線が 不分明になることであり、いま眼前にあるものと自分自
身との関係が不安定になることである。
この事態は前述の「tinylittlething」のような、あちこ ちに鎮められた、意味を二重化させる小さな言葉の積み 重ねによって生じるが、なによりも最大の効果は、人称 代名詞によってもたらされるだろう。口が物語を自分か
ら切り離すために用いる「彼女」という三人称代名詞が、
観客としてのわたしたちの立場において、口自身を指示 するかのように機能してしまうのである。
舞台上に見える口を「彼女」と呼び、その過去や現在 の状況を「彼女」の物語として語りうるのは、じつはわ たしたちの立場である。傍観者であるわたしたちからみ
て口は「彼女」なのであり、観客の視点を一人称とした ときにこそ、舞台上の口はなんの支障もなく三人称で指 されるだろう。ところがその、わたしたちが用いてこそ 破綻なく通用する三人称を、当の指示されるロ自身が用 いて語っている。このとき語られる言葉は誰のものか。
誰を基点に言葉は紡がれているのか。物語と口とのあい だでたたかわれる境界線の画定劇が、もうひとまわり外 側にわたしたちを巻き込む場を形成する、これが『わた
しじゃない』における劇外劇の状況である。
5,
劇中話と劇本体とのあいだには、境界線をめぐるせめ ぎ合い、領土にかんする深刻な静いがあり、さらにその 外側において、相似形を描くようにして、劇本体とわた したちとのあいだでせめぎ合いが生じてくる。内側から 外へ枠を破ろうとする力と、逆にそれを押し戻し封じ込
めようとする力とが働いており、それらの括抗がひとつ の緊張状態を生み出している。この緊張状態は、劇中話 と劇本体、劇本体とその外部、というかたちで二重化し ている。
わたしたちが巻き込まれるのはこの二段構えの後者で あり、それを劇外劇と呼ぶわけだが、注意しなければな らないのは、そのときわたしたちは、いわゆる素の状態 にあるのではないということである。舞台‑の集中から 覚めて、客観視しているのではない。むしろある特殊な 関係において舞台にいっそう引き込まれ、ほとんどすっ かり取り込まれているとさえいえる。
つまり問題は、わたしたちの日常と劇作品とのあいだ の関係ではない。劇作品がその枠を破ってわたしたちの 生活に浸食してくるのではないのであり、舞台上の出来 事や台詞がわたしたちの人生に響き、重なり、符合する、
そういったありきたりのこととはまったく別の関係が、
ここには生じている。わたしたちの人生や経験、記憶な どとはいっさいかかわりなく、いままさに自分が知覚し 体験しつつある事柄じたいにおいて、自分と作品とのあ いだに取り結ばれるべき関係が問題となるのである。
ところで、 『わたしじゃない』においては、もうひと つの側面を指摘することができる。劇外劇は舞台と観客 のあいだで成立するばかりでなく、作品と俳優とのあい だにも発生してくるのだ。
簡単にふれるにとどめるが、演じている役柄の境遇が、
そのまま俳優自身の身にも重なってくるのである。闇の なかに浮かぶ口を舞台上で実現するために、俳優はなん らかのかたちで身体を拘束されなければならない。まっ たく身動きできない状態で、間のなかロだけにスポット ライトを浴びて、彪大な台詞をたえまなく発し続けなけ ればならないのであり、このとき、口だけとなって喋る ことをやめられないという、物語中の「彼女」の境遇に ついて語ることばの一々が、わが身と重ならざるをえな い。これは役柄が俳優の日常生活や人生と重なり合うこ ととは明らかに違う事態であり、演じているあいだにか ぎって、演じるという行為そのものが二重化してくるの
である(5)。
6.
劇外劇は、倍音のように、あるいは月にかかる皐のよ うに、劇本体のひとまわり外側に発生する特異な磁場の ようなものだといえる。それは劇の進行にともなって発 生し、劇とともにしか存続しない。劇が終わればこの磁 場も消滅する。そのかぎりにおいて、劇外劇は劇の外部 を形成するが、同時にまた、劇本体と不可分の、作品の 一部だともいえる。あえてそれを(劇外劇)と呼ぶ必要 があるのはそのためだ。
またそれは、内から外‑と向かう運動をとおして生じ てくる。劇中話が劇本体‑と境界線を破って流出し、そ の余波として、劇本体の外壁までもが決壊を始める。こ の二段階にわたる決壊の結果、わたしたちは、劇本体と その外部とを画定する境界線をみずから修復しなければ ならなくなる。その作業自体が劇外劇というもうひとま わり外の劇を構成するのである。
わたしたちが感じるあの気味の悪さ、居心地の悪さも、
この境界線の画定にかかわるものである。劇中話と劇本 体、劇本体とその外部、そのそれぞれを分かつ境界線が ぼやけ、語られる物語と舞台上の身体、そしてそれらを
とらえるわたしたちの知覚が不可解なかたちで多重化す る。しかもそれらは、たんに多重化するのではなく、た えず不安定にさまざまな度合いで分離と符合をくりかえ
し、ひとつの安定した配置に収まることがない。つまり、
舞台を見つめるわたしたちはたえず境界線を画定し続け なければならないのであり、境界線自体はたえず不安定 にゆれうごきながら更新され続ける。
もちろんその更新のあり方は、作品によっても微妙に 異なっている。 『オハイオ即興劇』においては、衣装や 小道具といったちいさな符合によって予告されながら も、内から始まる決壊はほぼ明確なひとつの瞬間をもち、
境界線の更新は、ほとんど劇的といってよい、決定的な かたちで起こる(6)。一方『わたしじゃない』においては、
境界線はたえず脅かされ、ゆれうごいており、一瞬たり とも安定しない。あるいは、安定へ向かうとすぐにそれ を崩す力が働くという、緊迫したせめぎ合いの、幾層に もまたがる展開だといえる。
だがいずれにせよ、境界線のこの更新に立ち会うと き、わたしたちは巧妙な入れ子状の構造をもつ劇の、最 も外側の輪郭にふれている。各階層は奇妙な符合、指示 対象の多重化によっていわば意味のうえで相似形を措き つつ、内から外へと順次拡大していくのであり、劇外劇 はその最も外郭に位置する。ただし、すでに述べたよう に、それはすなわちわたしたちの日常や実人生なのでは ない。あくまで劇本体に付随し、劇本体とともにしか存 続しない、固有の外部である。言い換えるなら、劇がつ いえる辺境であり、最果てである。
したがって、劇場の外にわたしたちの人生があり、そ れをひとつの劇とするさらに大きな視点がある、という ふうに考えを進めることはできない。むしろ、上演の最
中にだけ、劇と日常との接触面において発生する、特異 な真空地帯というべきである。そんな場所に、ベケット の戯曲をとおしてわたしたちは連れ込まれている。
7.
劇外劇の成立は、ベケットのさらにいくつもの作品に みとめることができる。 『モノローグ一片』 (1979)では、
舞台上の男が延々語る「彼」の物語が、やはり次第に男 自身の姿に重なり合ってくるし、 『ロツカバイ』 (1981) では、詩のように流れつづける声が語る遠い過去の物語 が、舞台上で揺り椅子にゆられる女の現在と符合し平行 しながら進む。あるいは『あしおと』 (1976)では、舞 台上の女と姿の見えないもうひとりの声とがそれぞれ語 る似通った物語が、不可解な配歯を季みながらもその女
と声に重なり合っていく。さらに、 『芝居』 (1963)にお ける人物の境遇とそれを演じる俳優の境遇との一致など
も、ここに含めてよいように思われる(7)
これだけ頻繁にあらわれるこの効果から、いったい何 が見えてくるだろうか。ふたつのありうべき議論の方向 について、最後に示唆しておきたい。
第一は、ベケット自身の仕事についてである。劇外劇 の発生は彼自身の作劇法の間違いなく重要な一項目であ り、それは彼の演劇観と深く結びついている。すなわ ち、彼にとって演劇とは、よそにある何かの再現ではな く、舞台上で現在進行形で生起する出来事によって成立 すべきものであり、そのための方策のひとつとして、劇 外劇を成立させるような複雑な仕掛けが考案されてい る。つまり、幾層にもわたって枠組みを決壊させ、内と 外の境界線をたえず更新せざるをえない状況を作り出す
ことで、俳優にも観客にも、作品とのあいだに、安定し た、いわば安全な関係を確保することをゆるさないので あり、それによって舞台をつねに現在進行形で生きられ るものにするのである。
この作家は自身の演劇観を創作以外のかたちでけっし て示さなかったから、作品の分析から導き出すしかない が、このような考えをもって作品を書いていたであろう
ことはほぼ間違いない。そして、それをより厳密に検証 するためには、戯曲の構造を事後的な視点から傭轍する のではなく、事の起こる順序‑それこそがベケット自 身の最も注意を払った点だろう‑にしたがって辿るこ とが重要であり、その結果、劇外劇という、観客として 上演に立ち会えば感じざるをえないにもかかわらず、ほ とんど説明しがたいあの気味の悪さをともなう特異な場 の発生も明らかになってくる。この劇中劇(請)一劇一 劇外劇という順序をもつ構造とその効果にかんしては、
さらに議論を推し進めることができるだろう。また、劇 外劇と呼ぶべき場の発生は、演劇だけにかぎらず、彼の 小説や散文等においても問題となっているだろう。小説 には小説に固有の外部があり、彼の小説はそこへわたし たちを導くが、それはまた別の用語で呼ばれるべきかも
しれない。いずれにせよ、このような場の発生は、ジャ ンルを問わずベケットの創作に深くかかわる問題である
にちがいない。
そして第二は、これをベケットから出発して、演劇の 問題、ひいては言語や記号の問題にまで広げる方向であ る。劇外劇は、劇のいわば臨界点に生じてくる、境界線 ないしは輪郭線の画定をめぐるせめぎ合いの場である が、それはベケットの戯曲にかぎって発生しているのかO 他の大部分の演劇においては、輪郭線はたんに終始安定 しており、またわたしたちもそれを疑わないことにあま
りに慣れきっているので、そのような場があることすら 気づかないだけではないのか。ベケットが仕掛けたよう な、劇中話から始まる二重の決壊によってゆさぶられな いかぎり見えてこないだけで、じつはどんな作品におい ても、それは発生しているのではないか。
だとすればこれは演劇の成立(歴史的な意味ではな い)、舞台上での記号の発生と機能の全般にかかわる問 題であり、また言語と身体、言語と行為との関係にも話 題は及ぼざるをえない。指示作用、冗長性といったその 諸関係のきわめて巧妙な使用によって、ベケットの劇外 劇は知覚可能になっているのであり、逆にふだんのわた したちは、そのような仕掛けをわざわざ施してもらわな ければ気づかないほど、何かに飼い慣らされているかも しれないのである。
ベケットの作品におけるあの気味の悪さを出発点とす る思考は、おそらく驚くほど遠くまでいく。
注(1) (劇外劇)という用語は、市村弘正氏が鶴屋南北の
『東海道四谷怪談』と文化文政期の江戸について論 じた評論「都市の崩壊‑江戸における経験」 (『[増 補] 「名づけ」の精神史』所収、平凡社ライブラリー、
1996年)から、言葉だけを借用している。
2) Samuel BECKETT, Ohio Impromptu, 1981, in The Complete Dramatic Works, Faber and Faber, London,
1986, pp. 443‑448.
3) Samuel BECKETT, Not I, 1972, in The Complete Dramatic Works, op. at, pp. 373‑383.
(4) Samuel BECKETT, Pas mot, in Oh les beauxjours suivi de Pas moi, Les Editions du Minuit, Paris, 1974,pp.79‑95.なおこのフランス語版の第一声は
「monde」であり、英語の「out」とは厳密には対応 しない。登場した瞬間の口のかたちにたいする配慮 とも思われるが、これはこれで観客にむけた第一声 として「toutlemonde」のように響くととらえるの は考え過ぎか。
(5)じつはこの作品には「聴き手」と呼ばれるもう一人 の登場人物がいる。フードのついたマントに身を包 み、観客に背を向けてじっと立っており、いくどか
「無力な同情helpless compassion」を示す動作をす る(ベケット自身の演出によるフランスでの再演の 際には、ついに耳をふさぐ動作までしたという)の だが、議論が無用に複雑になるのを避けるため、い まはふれない。ただ、個人的なくだらない話だが、
わたし自身、翻訳者として日本語での上演にかか わったとき、本番中にほとんどこの人物と同じ(か もしれない)思いを味わった。俳優がいつ台詞に詰
まるかと気が気でなく、もしつかえたとしても助け ようのない状況で、じっと聴き続けていることがほ んとうに耐え難かったのである。
(6)とはいえこの決定的な更新には(その後)がある。
書物のなかの物語が舞台上の現在に追いついた後、
朗読はさらに進められ、こんどは物語が舞台上の 二人に先行する。そして書物が読み終えられた後、
二人の人物は、すでに読み上げられた物語どおり、
じっと固まり、石になったかのように坐り続ける。
この劇的な結末の外側では、わたしたちもじっと石 になったかのように坐り続けているだろう。
( 7 ) Samuel BECKETT, A Piece of Monologue, Rockaby, Footfalls, Play, in The Complete Dramatic Works, op.
cit.カッコ内はすべて初演の年。