〈論 説〉
積極的一般予防論における危険の引受け
三代川 邦 夫
序
第一章 積極的一般予防論 第一節 刑罰の意義 第二節 管轄という概念 第三節 犯罪論体系 第二章 危険の引受け
第一節 被害者の自己答責性と行為者の管轄
第二節 被害者の自己危殆化の原因に管轄を有する場合 第三節 被害者の自己危殆化行為それ自体に管轄を有する場合 第四節 被害者の同意
第五節 保障義務と組織的管轄の競合?
第六節 小 括 第三章 総 括
序
わが国において,危険の引受けという問題が議論されて久しい。危険の引受 けとは,被害者が,自己の法益への危険性を認識したうえで危険な行為の遂行 に承諾しているものの,その危険が実現しないことを期待している場合をい う
1)。ドイツにおいては,古くから刑法
2)のみならず民法
3)の領域においても 議論されており,BGH 判例
4)も相次いでいる。これに対し,わが国において この問題が意識され始めたのは,ダートトライアル事件 (千葉地判平成ઉ年 12
) Vgl. Lenckner/Sternberg-Lieben, in: Schönke/Schröder, Strafgesetsbuch Kommentar, 29.
Aufl., 2014,Vor.§ 32ff., Rn.102.
月 13 日判時 1565 号 144 頁) 以後である。この事件は,地裁判例であったにもか かわらず,当時大々的に話題となった。そして,その後は,これに連なる判例 が登場していないにもかかわらず,学説において議論され続けている
5)。
では,日本の学説は,おおよそどのような状況になっているのだろうか。こ の問題を,被害者の同意の延長線上の問題として考えている見解が,おそらく 通説的であろう
6)。そして,それに抗うかたちで,BGH (Hunderter Hit 事件=
BGHSt.32, 262) にも採用されたドイツの議論
7)を参照する見解
8)もあり,さら には自己答責性原理 Prinzip der Eigenverantwortung という哲学的な議論
9)も
)「危険の引受け」という定式化こそされていないが,ライヒ裁判所のメーメル河事件(RGSt.
57, 172)も,危険の引受けの問題であるとされている。そして,後掲注 7)や後掲注 9)の一 連の文献があるほか,Hans-Joahim Hirsch, Soziale Adäquenz und Unrechtslehre, ZStW 74
(1962),S.95ff.;Heinz Zipf, Einwilligung und Risikoübernahme im Strafrecht, 1970 などの文献が ある。
)Hans Stoll, Das Handeln auf eigene Gefahr, 1961. 紹介として,前田達明「紹介:Hans Stoll 著『自己危険にもとづく行為』(DAS HANDELN AUF EIGENE GEFAHR, 1961)」法学論叢 85 巻 号(1969)68 頁。
) 最も著名な判例は Hunderter Hit 事件(BGHSt.32, 262)であるが,ほかにも飲酒オートバ イ事件(BGHSt.7, 112),警察官ピストル事件(BGHSt.24, 342),ヘロイン交付事件(BGH, NStZ1985, 319),エイズ感染症事件(OLG Bayern, NJW1990, 131),加速テスト事件(BGHSt.
53, 61)などがある。判例の紹介については,塩谷毅『被害者の承諾と自己答責性』(法律文化 社・2004)〔初出:「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(1)〜(4 完)」立命館 法学 246 号・247 号・249 号・251 号(1996〜1997)など〕や同「自動車競走事件における危険 引受け」立命館法学 345 = 346 号(2012)364 頁に詳しい。
!) 枚挙に暇がないが,代表的なものとして,塩谷・前掲注 4),山口厚「被害者による危険の 引受と過失犯処罰」研修 599 号(1998)頁,同「『危険の引受け』論再考」齊藤誠二先生古稀 記念『刑事法学の現実と展開』(信山社・2003)89 頁,小林憲太郎『因果関係と客観的帰属』
(弘文堂・2003)61頁以下(初出:「被害者の関与と結果の帰責」千葉大法学論集 1 5 巻号
〔2000〕),島田聡一郎「被害者による危険引受」山口厚〔編著〕『クローズアップ刑法総論』(成 文堂・2003)123 頁等がある。
") 山口・前掲注 5)「『危険の引受け』論再考」89 頁,同『刑法総論〔第版〕』(有斐閣・
2016)183 頁以下,林幹人『刑法総論〔第版〕』(東京大学出版会・2008)173 頁以下,井田良
「危険の引受け」西田典之 = 山口厚〔編〕『刑法の争点〔第版〕』(有斐閣・2000)78 頁以下,
佐伯仁志「違法論における自律と自己決定」刑法雑誌 41巻号(2002)192 頁以下,伊藤渉ほ か『アクチュアル刑法総論』(成文堂・2005)179 頁〔成瀬幸典〕,西田典之『刑法総論〔第 版〕』(弘文堂・2010)190 頁,松原芳博『刑法総論』(成文堂・2013)140 頁,小林憲太郎『刑 法総論』(新世社・2014)79 頁以下等参照。社会的相当性や社会的有用性を考慮したり,細部 に異同はあるが,被害者の同意との関係において理解するという出発点,および被害者の認識 した危険と結果との因果関係があれば可罰性阻却するという結論においては,共通する。社会 的有用性を併せ考慮するという見解の実質は,許された危険という利益衡量を別途考慮に入れ るという議論であろう。
ある。しかしながら,これらの見解は, 総論の議論にありがちだが 大鉈を 振るう議論が多く,それ自体は魅力的であるものの,想定している事例も論者 によって区々に分かれており
10),実務的使用に耐えうるきめ細やかな議論が なされているとは言い難い。たしかに,学説の役割は,個別具体的な事件を解 決することではない。しかし,学説の任務が,実務を説得することによって法 を作り上げることにある
11)ならば,危険の引受けという問題をもう少し細分
#) Vgl.Bernd Schünemann, Moderne Tendenzen in der Dogmatik der Fahrlässigkeits- und Gefährdungsdelikte, JA1975, S.133ff., 131ff., 167ff., 185ff., 203ff.;ders., Fahrlässige Tötung durch Abgabe von Rauschmitteln? ‒Besprechung des Urteils BGH, NStZ1981, 350-, NStZ 1982, S.60.
(y原力三「西ドイツ『新刑法雑誌』の紹介(16)」警察研究 54 巻 11 号〔1983〕94 頁以下に紹 介 が あ る);Claus Roxin, Gedanken zur Problematik der Zurechnung im Strafrecht, in:
Festschrift für Richard M. Honig, 1970, S.133;ders., Zum Schutzzweck der Norm bei fahrlässigen Delikten, in: Festschrift für Wilhelm Gallas, 1973, S.241(山中敬一「クラウス・ロクシン『過失 犯における規範の保護目的について』」龍谷法学*巻= 号〔1977〕497 頁に紹介がある);
ders., Die Mitwirkung beim Suizid ‒ein Tötungsdelikt?, in: Festschrift für Eduard Dreher, 1977, S.331;ders., Die Sterbehilfe im Spannungsfeld von Suizidteilnahme, erlaubtem Behandlungsab- bruch und Tötung auf Verlangen, NZSt1987, S. 345; ders., Fahrlässige Tötung durch Nichtverhinderung einer Tötung auf Verlangen?, in: Festschrift für Hans-Ludwig Schreiber, 2003, S.399;ders., Zur einverständlichen Fremdgefährdung, JZ2009, S.399;ders., Der Streit um die einverständliche Fremdgefährdung, GA2012, S. 655; ders., Tötung auf Verlangen und Suizidteilnahme Geltendes Recht und Reformdiskussion, GA2013, S.313. この議論の萌芽期の紹 介・検討としては,山中敬一『刑法における客観的帰属の理論』(成文堂・1997)339 頁以下
〔初出:「客観的帰属論の理論史的考察(二)完」法学論集(関西大学)45 巻号(1995)〕およ び 708 頁以下〔初出:「危険実現連関論の展開(三・完)」法学論集 47 巻号(1997)〕に詳し い。
,) 完全に同一ではないが,山中敬一『刑法総論〔第版〕』(成文堂・2015)433 頁以下,同・
前掲注 7)713 頁参照。
*) Vgl.Ulfrid Neumann, Die Strafbarkeit der Suizidbeteiligung als Problem der Eigenverant- wortlichkeit des „Opfers, JA1987, S.247f.;Ralf Hohmann/Pia König, Zur Begründung der strafrechtlichen Verantwortlichkeit in den Fällen der aktiven Suizidteilnahme, NStZ1989, S.
304ff.; 塩谷・前掲注 4)『被害者の承諾と自己答責性』369 頁以下,増田豊『規範論による責任 刑法の再構築』(勁草書房・2009)372 頁(初出:「共犯の規範構造と不法の人格性の理論 共 犯の処罰根拠と処罰条件をめぐって 」法律論叢 71巻"号〔1999〕),瀬川行太「結果発生への 被害者の過失的関与について(・完)」北大法学論集 63 巻"号(2013)447 頁以下,Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993(Zaczyk の 不法論の紹介として,飯島暢『自由の普遍的保障と哲学的刑法理論』〔成文堂・2016〕127 頁以 下〔初出:「刑法上の不法概念の法哲学的基礎づけ」法学政治学論究(慶應義塾大学)48 号
(2001)〕がある).
10) 同旨の指摘として,島田・前掲注 5)125 頁参照。
11) 平野龍一『刑法の基礎』(東京大学出版会・1966)243 頁以下参照。
化し,問題となりうる事例群を整理したうえで,その事例群に対する理論的な 分析の視座を設定することもまた,重要である。
このように考えるとき,積極的一般予防論の論者による分析が非常に示唆的 である。積極的一般予防論の騎手といえば Günther Jakobs
12)であるが,
Jakobs シューレに連なる Roland Derksen
13)が,非常に精緻な分析を試みると 同時に,積極的一般予防論ならではの分析軸を提示している。
積極的一般予防論とは,雑駁にまとめれば,犯罪を法益侵害として捉える伝 統的刑法理論に抗い,社会秩序を維持するために規範があると考え,その規範 に違反したことをもって,犯罪と定義する見解である
14)。この理論は,その 用語と依拠しているシステム理論が独特であることが影響しているのか,過度 に賛美されるか嫌悪され,公平な評価を受けてこなかったきらいがある。しか しながら,Jakobs や Derksen の論稿を紐解いてみると,この危険の引受けと いう問題に関しては,「被害者の自己答責性」や「被害者/関与者の管轄 Zus- tändigkeit」といった取っ付きづらい表現は多用されているものの,その実質 をみれば,全体的にきめ細やかでバランスの取れた議論を展開している。そし て,それと同時に,積極的一般予防論ならではの規範的観点を導入した分析が なされており, (用語の癖の強さはともかく) その分析は,説得的で示唆的であ る。そうすると,通説的見解の発想を,より深化・精緻化させる格好の機会と もいえるだろう。
そこで以下では,Derksen の議論を紹介し分析することによって,通説的 見解の精緻化を図るための示唆を得ることにしたい。ただし,Derksen の議 論を理解するためには,積極的一般予防論の刑法理論体系全体を明らかにする 必要がある。そのためには,Jakobs の刑法体系を参照する必要があるが,こ れをきちんと理解するためには,さらに Jakobs が参照している社会システム 理論をも理解する必要がある
15)。
したがって,予備的考察が少し長くなってしまうが,まずは積極的一般予防
論の全体像を第一章で素描しつつ理解することにし,第二章で本題である危険
の引受けの問題を整理・分析する。そのうで,第三章でそこから得られる示唆
について総括することにしたい。
12) 本稿における Jakobs の理解については,主に下記の Jakobs の著作を参照した。Strafrecht Allgemeiner Teil, 2.Aufl., 1991(初版は,西ドイツ刑法理論研究会〔代表:y原力三〕「〔資料〕ギ ュンター・ヤコブス『刑法総論』(一)〜(十三)」関西大学大学院法学ジャーナル 42 号〔1985〕
〜55 号〔1990〕に 要 約 が あ る); Schuld und Prävention, 1976; Vermeidbares Verhalten und Strafrechtssytem, in: Festschrift für Hans Welzel, 1977, S. 307; Regreßverbot beim Erfolgsdelikt Zugleich eine Untersuchung zum Grund der strafrechtlichen Haftung für Begehung, ZStW 89
(1977),S.1(松宮孝明〔編訳〕『ギュンター・ヤコブス著作集[第巻]』〔成文堂・2014 年〕69 頁
〔安達光治・訳〕に翻訳がある);Die subjektive Tatseite von Erfolgsdelikten bei Risikogewöhnung, in: Festschrift für Hans-Jürgen Bruns, 1978, S. 31; Die Zuständigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt. Zur Äußerlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassung(山中 敬一〔訳〕「不作為犯における組織による管轄 作為と不作為の区別の表見性について 」関西大 学法学論集 43 巻号〔1993〕271 頁として翻訳され掲載されている);Der strafrechtliche Hand- lungsbegrff, 1992(上田健二 = 浅田和茂〔訳〕「刑法上の行為概念」立命館法学 227 号〔1993〕98 頁および松宮・前掲『ヤコブス著作集』頁に翻訳がある);Das Schuldprinzip, 1993(松宮・前掲
『ヤコブス著作集』33 頁に翻訳がある);Zum Unrecht der Selbsttötung und der Tötung auf Verlangen, in: Festschrift für Arthur Kaufmann, 1993, S.459; 阿部純二 = 緑川邦夫〔訳〕「講演 支配 犯および義務犯における関与」法学(東北大学)57 巻号〔1993〕40 頁; 花井哲也〔訳〕「講演 客観的帰属 特に『許された危険』,『ï及禁止』,『信頼の原則』という刑法的な制度の領域につ いて 」朝日法学論集 10 号〔1993〕頁; Das Strafrecht zwischen Funktionalismus und alteuro- paischem Prinzipendenken. Oder: Verabschiedung des alteuropaischen Strafrechts?, ZStW 107
(1995),S.843(松宮孝明=金尚均〔訳〕「機能主義と古きヨーロッパの原則思考の狭間に立つ刑法 はたまた『古きヨーロッパ』刑法との決別か?」立命館法学 247 号〔1996〕432 頁に翻訳がある), Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996(平山幹子・前掲『ヤコブス著作 集』103 頁以下に紹介がある);Akzessorietät. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA1996, S.253(豊田兼彦・前掲『ヤコブス著作集』145 頁に翻訳がある);Objektive Zurechnung bei mittelbarer Täterschaft durch ein vorsatzloses Werkzeug, GA1997, S.553(松宮・前掲『ヤコブ ス著作集』167 頁に紹介がある);Bemerkungen zur objektiven Zurechnung, in: Festschrift für Joachim Hirsch, 1999, S.45(松宮・前掲『ヤコブス著作集』191 頁に紹介がある);Strafrechtliche Zurechnung und die Bedingungen der Normgeltung, Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie, 2000, S.57; Tötung auf Verlangen, Euthanasie und Strafrechtssystem, 1998; Staatliche Strafe ‒ Bedeutung und Zweck, 2004(飯島暢 = 川口浩一『国家刑罰 その意義と目的 』〔関西大学出版部・2013〕
に翻訳がある);Das Selbstverständnis der Strafrechtswissenschaft vor den Herausforderungen der Gegenwart, in:Eser/Hassemer/Burkhardt(Hrsg.),Die Deutsche Strafrechtswissenschaft vor der Jahrtausendwende Rückbesinnung und Ausblick, 2000, S.47(松宮孝明「ギュンター・ヤコブス 現代の挑戦を前にした刑法学の自己理解」立命館法学 280 号〔2001〕113 頁に紹介がある);Die subjektive Tatseite, ノモス 15 号(2004)67 頁(岡上雅美「ギュンター・ヤコブス『行為の主観 面』」筑波法政 40 号〔2006〕183 頁に翻訳がある);Altes und Neues zum strafrechtlichen Vorsatz- begriff, Zeitschrift für rechtswissenschaftliche Forschung 2010, S.283(玄守道・前掲『ヤコブス著作 集』237 頁に翻訳がある);松宮孝明〔序〕平山幹子〔訳〕「ギュンター・ヤコブス 市民刑法と敵 味 方 刑 法」立 命 館 法 学 291 号〔2003〕459 頁; System der strafrechtlichen Zurechnung, 2012;
Theorie der Beteiligung, 2014; Rechtsgüterschutz? Zur Legitimation des Strafrechts, 2012(川口浩 一 = 飯島暢『法益保護によって刑法は正当化マ マ できるか?』〔関西大学出版部・2015〕に翻訳があ る);Normative Erwartungen, in:Festschrift für Klaus Tolksdorf, 2014, S.281; Drei Bemerkungen zum gesellschaftsfunktionalen Schuldbegriff, in:Festschrift für Kristian Kühl, 2014, S.281.
第一章 積極的一般予防論
第一節 刑罰の意義
刑法は,刑罰権の発動する要件を定める法であるが,刑罰は,規範の妥当性 を確証するために用いられる。たとえば,泥棒が「あの人よりも,私の方がこ
13)Roland Derksen, Handeln auf eigene Gefahr, 1992. 紹介・検討として,長谷川裕寿「自己の 危険に基づく行為(一)(二・完) デルクセンの所説を中心に 」法学研究論集(明治大学大 学院)10 号 33 頁・11 号(ともに 1999)41 頁がある。
14) 積極的一般予防論についての近時の研究として,中村悠人「刑罰の正当化根拠に関する一考 察⑴ 日本とドイツにおける刑罰理論の展開 」立命館法学 341 号(2012)287 頁以下,同
「刑罰の正当化根拠に関する一考察⑵」342 号(2012)208 頁以下参照。
15) 主著として,Niklas Luhmann, Soziale System. Grundriß einer allgemeinen Theorie, 1984
(翻訳として,佐藤勉〔監訳〕『社会システム理論(上)(下)』〔恒星社厚生閣・1993/1995〕);
ders., Rechtssoziologie, 4.Aufl.(初版の翻訳として,村上淳一 = 六本佳平〔訳〕『法社会学』〔岩 波書店・1977〕),2008;Dirk Baecker(Hrsg.),Niklas Lumann, Einführung in die Systemtheorie, 2002(翻訳として,土方透〔監訳〕『システム理論入門 ニクラス・ルーマン講義録〈〉』〔新 泉社・2007〕)などがある。ルーマンの理論の理解に際し,Georg Kneer/Armin Nassehi, Niklas Luhmanns Theorie sozialer Systeme, 4.Aufl., 2008(翻訳として,舘野ほか〔訳〕『ルーマン 社 会システム理論』〔新泉社・1995〕),馬場靖雄『ルーマンの社会理論』(勁草書房・2001),福井 康太『法理論のルーマン』(勁草書房・2002),Christian Borch, Niklas Luhmann, 2011(翻訳と して,庄司信〔訳〕『ニクラス・ルーマン入門 社会システム理論とは何か』〔新泉社・2014〕),
大澤真幸「社会学理論のツインピークスを越えて」現代思想 2014 年 12 月号 34 頁等を参照し た。以下の記述も,これらの文献による理解(とりわけ後二者)に基づいている。
システムとは,要素の間に特定の関係があり,何らかの秩序が形成されていることをいう。
これは,刑法体系において,構成要件と違法性との間に特定の関係があるといったかたちで議 論されていることを想起すれば,理解しやすいだろう。システムの中で重要なものとして,機 械,生体,精神,社会があげられる。社会システムの特徴は,①オートポイエティーク(自己 創出的),②意味を構成する,③コミュニケーションを要素とする,の点にある。簡潔に説明 しておくと,オートポイエーシス・システムである(①)というのは,外部にその設計者が居 ないということである。外部に設計者が居るシステムの典型が機械であるが,生体,精神,社 会は外部に設計者は居ない(むろん,インテリジェント・デザイン説などに依拠する場合は別 である)。そして,生命は意味を構成せず(②),精神においては,思考・感情といった精神プ ロセスが要素であって,コミュニケーションが要素なわけではない(③)。したがって,社会シ ステムにおける本質的特徴が,上記①〜③に求められることになる。
の洋服は似合う!」などといった理由で,被害者の財物を窃取したとする。こ の行為に対し,泥棒が以上のような弁解をしたとしても,それはおよそ容れら れずに窃盗罪が成立する。この泥棒は,社会的に観察すれば,「人の物を盗ん ではならない」という社会規範につき,「その社会規範は私には妥当しない
(私は泥棒をしても許される) 」という異議を申し立てていることになる。この泥 棒が行った窃盗行為に対し,刑罰を科すということは,異議申立てを却下する ことに他ならない
16)。つまり,刑罰権の対象である犯罪行為とは,規範に対 する異議申立てであり,規範に反する価値観を提示する行為である。このよう な行為を放任すると,「人の物を盗んではならない」とか「人を殺してはなら ない」という規範は,名目上存在しているだけで,実際のところはそんな規範 は存在していないのではないか,と社会の人々 (公民
17)) が不安に思うだろ う。このような事態が横行したら,社会を維持できなくなる。そこで,現在の 社会秩序を構成する規範が妥当していることを示すために,規範を否定する行 為をした者を処罰することで,「いや,ちゃんとこの規範は存在しています」
16) 刑罰が,異議に対する異議であるとか,コミュニケーションであるとかいうのは,そのよう な趣旨である。行為者の異議に対し,国家がそれを却下するという点に本質がある。
コミュニケーションというのは,雑には「社会的に有意味な行動」という意味である(正 確には,情報・伝達・理解というステップの選択の総合である。Vgl.Claudio Baraldi/Gianc- arlo Corsi/Elena Esposito, GLU: Glossar zu Niklas Luhmanns Theorie sozialer Systeme, 1997, S.
89ff.(Baraldi)〔翻訳として,土方透ほか〔訳〕『GLU ニクラス・ルーマン社会システム理論 用語集』〔国文社・2013〕123 頁以下参照。参照の便宜のため,以下では,同書を「GLU 原著 頁 / 邦訳書頁」というかたちで引用する)。たとえば,野良猫が家に入り込み,いたずらをして 高価な壺を割ってしまったとしよう。この場合,法益侵害はあるため,因果的行為論という刑 法体系に拠るならば,これは不法な事態である。これに対し,Jakobs の体系に拠れば,これは 社会的(とりわけ刑法的)には無意味な事態である。なぜなら,野良猫が壺を壊したとしても,
それは「他人の物を壊してはならない」という規範に対する異議申立てとはおよそ評価できな いからである。あくまで,Jakobs や Luhmann が想定している「社会」というのは人の社会で あり,規範というのも当然人に対し差し向けられているものであるから,人に差し向けられた 規範を猫が破るということはありえない。我々が,正当な理由なく他人に怒鳴られたら強い憤 りを覚えるのに対し,正当な理由なく犬猫に吠えられても他人に怒鳴られたときほどは憤りを 覚えないのと同じことである。
このように,Jakobs の文献において,「コミュニケーションである/ない」という表現が頻 繁に登場するが,端的にいえば「社会に対して有意な行動か」ということである。日常用語的 な意味でのコミュニケーション,すなわち会話,通話,FAX や e メールなどももちろんコミ ュニケーションであるが(それらにより精神疾患を負わせれば傷害罪となるし,相手の名誉を 傷つければ名誉毀損罪となる),それにとどまらず,他人をナイフで斬りつける行為も,
Jakobs や Luhmann の用語法においては「コミュニケーション」ということになる。
と宣言するのである
18)。
しかし,そもそもなぜ規範は重要なのだろうか。「社会を維持できなくなる」
ことの意味をもう少し掘り下げてみよう。なぜ社会を維持できなくなるかとい えば,人がどう振る舞えばよいかということを,規範が規定しているからであ り,その規範の妥当性が揺らぐと,人がどう振る舞えばよいか分からなくなる からである。このことは,信頼の原則を想起すると分かりやすいだろう。たと えば,対面信号が青色信号の交差点に進入する際に我々が抱く「右側から来る 車の対面信号は赤色信号だから,止まるだろう」という期待・予測
19)は,た
17) 以下では「公民」という用語も併用するが,これは Hegel に端を発する概念であり,Hegel が Citoyen と呼んだものである(Jakobs もしばしば用いている)。そこでの公民は,「自ら進ん で共同の利益とかかわり,知と意志に基づいて,共同の利益こそが己の土台をなす精神だと認 め,共同の利益を最終目的として活動する」存在である(Vgl.G.W.F.Hegel, Philosophie des Rechts nach der Vorlesungnachschrift K.G. v. Griesheims 1824/25,K.-H. Ilting(Hrsg.),§ 260.
〔翻訳として,長谷川宏(訳)『法哲学講義』(作品社・2000)〕)。
18) このように,⑴刑罰の効果がすべての公民について及ぶという点で一般予防であり,⑵刑罰 によって公民を威嚇して犯罪行動を抑止させる点に主眼があるのではなく,一旦侵害された規 範の妥当性を回復・再び確立するという点に主眼があるため,積極的である。このような意味 で,Jakobs の刑罰論は積極的一般予防論と呼ばれる。これに対し,「行為者を他者(規範の名 宛人一般)に対する政策目的達成のための単なる手段として処罰することにならざるをえない のである。このような,社会の安定という利益のための単なる道具としてのみ奉仕することに つながる個人の手段化が,個人の尊厳を害することになる点では,消極的一般予防との間にそ れほど大きな差があるわけではない」という指摘があるが(曽根威彦『刑法学の基礎』〔成文 堂・2001〕48 頁。さらに同『刑法原論』〔成文堂・2016〕27 頁以下も参照),Jakobs からすれ ば,公民というのは社会構成員として期待された振舞いをすべきであり,予期違背を行った者 を処罰するというのは,むしろその者を人格ある公民として扱っていると反論することになる だろう。
なお,近時の Jakobs は,消極的一般予防を一切排するのではなく,「人を殺してはならな い」という規範を破った者を処罰することにより,その規範が妥当していることを市民に認知 させることの重要性も説く(Vgl.Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Staatliche Strafe, S.29f.;ders., a.a.O.
(Anm.12),System der strafrechtlichen Zurechnung, S.14)。それによれば,規範に対する異議 申立てに対し,単に違法宣告や有罪宣告をするだけではたりず,犯罪者に刑罰を現実に科すこ とで,犯罪現象を現実に減少させることができる,そのようなかたちで法秩序の現実性に疑問 を抱かせないことも重要なのだ,という(Vgl.Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Wie und was schützt das Strafrecht?, 前掲注 12)『国家刑罰』108 頁以下)。Jakobs は,これを「規範妥当の認知的 保障」と呼んでおり,あくまで積極的一般予防論の枠内で説明しようとしているものの,一般 的な刑罰論と親和性を持ちつつある点は注目に値する。ただ,刑罰論に関する近時の浩瀚な研 究においても,なおその正当化が果たされていない点にも鑑みれば(中村悠人「刑罰の正当化 に関する一考察( ・完)」立命館法学 344 号〔2012〕199 頁以下参照),このような Jakobs の 説明が成功しているかという点については,疑問も残る(飯島暢「ヤコブスにおける刑罰の現 実性と認知的保障」前掲注 12)『国家刑罰』75 頁以下参照)。
とえ裏切られた (=赤色信号を無視して交差点に進入し,自車と衝突する) として も,なおも保護されるもの
20)である。具体的には,その事故により相手に怪 我を負わせても自動車運転過失傷害罪にはならないし,損害賠償責任も負わ ず,生じた不利益は当該期待・予測を裏切った側が負担する。そして,再度似 たような場面に遭遇したとしても,対面信号が青色信号であればそれを信頼し て交差点に進入してよく,右側から車が来ているという一事をもって一時停止 したり徐行しなくてもよいのである。つまり,「対面信号が赤信号の車は,止 まるべきである」という規範があることによって,我々は交差点に差し掛かる 度に徐行したり一時停止をしたり,車が入り乱れて立ち往生するという事態を 避けることができる。このような規範がなければ,交差点に進入した他の車と 両すくみ状態になり,とても道路交通は立ち行かなくなってしまうであろ う
21)。このように,社会生活では,必然的に人は多くの他者と関わらざるを えないのであり,それゆえに「他者との間でどう振る舞えばよいか」に関する
19) このような期待を,Luhmann は予期 Erwartung と呼ぶ(a.a.O.(Anm.16),GLU, S.45ff./296 頁以下(Baraldi))。
20) このように,期待・予測が裏切られ痛い目に遭ったとしても,その裏切りにより生じる不利 益を裏切った側に負担させ,再度類似の状況が生じてもその期待・予測を維持することが許さ れるものを,規範的予期 normative Erwartung と呼ぶ。そして,これを「予期の抗事実的保 障」と呼ぶが,要するに予期違背が現実に生じたとしても,なおその予期を抱いた者を保護す る(予期違背を生じさせた者に負担を負わせる)ということである。
これに対し,そのような保障・保護がなされない予期は,認知的予期 kognitive Erwartung と呼ばれる。法学においてよく用いられる表現で言い直せば,「(期待権としての保護に値しな い)事実上の期待」といったところであろう。これは,期待を寄せるのは勝手だが,それが裏 切られたからといって,何か保障や賠償がされることはない,ということである。たとえば,
私が,好きなアイドルが自分と結婚してくれるという期待を(勝手に)抱いていたところ,そ のアイドルが第三者と結婚してしまった場合,私の期待は裏切られているが,それに対しアイ ドルは損害賠償義務を負ったり,(それにより私が精神疾患を患ったとしても)傷害罪や過失致 傷罪に問われることはない。そのような期待を抱いた側が,負担を負わなければならない。た とえば,治療費は私が負担しなければならないし,再度痛い目に遭うことを避けたければ「も う懲り懲りだ,二度とアイドルに恋などするまい」というかたちで自己の期待・認識を改める べきことになる。
法とは,規範的予期と認知的予期の間に線を引くもの,一定の予期を規範的予期とするもの である(Vgl. a.a.O.(Anm.16),GLU, S.147ff./285 頁以下(Corsi))。むろん,規範的予期と認知 的予期は,ア・プリオリに区別されるようなものではなく,時代や社会とともに変わりうるも のではある。しかし,そうであっても,法的に保護される予期とそうでない予期とを区別する ことは,社会の安定性を飛躍的に高めるものである(そして,その線引きが可動的であるとい うことにより,むしろ社会の変化に適合することができる)。
人々の予測・期待が非常に重要なものとなる。そして,その振舞いの仕方を規 定するのが,法規範を始めとする社会規範である。
このことからも分かるように,公民は,社会的に期待された振舞いをしなけ ればならない。具体的には,①いかなる者であっても,許されない危険を創出 しないようにしなければならない。人々は,自己の身体やそれに準ずる範囲に 関し,他人に危険を生じさせないようにする義務がある。たとえば,馬によっ て跳ね飛ばされる人が居ないように,自己の使用している機械が爆発したりし ないように,管理する義務がある
22)。これらを適切に管理せず,他人に危険 を及ぼすような場合に,不法が認められる。①は,老若男女や身分を問わず,
公民である以上は全員に要求される義務である。これに対し,②特定の者にの み認められる義務もある。たとえば,公務員のみに課される賄賂罪にかかる義 務や,医師等にのみ課される秘密漏示罪にかかる義務などである。たとえ大企 業の社長といえども,ある業者との契約の見返りにリベートを受領したとして も,収賄罪などには問われない。秘密漏示罪に掲げる主体以外の者が,誰かの 秘密を漏らしたとしても,秘密漏示罪に問われることはない。それらの義務 は,あくまで特定人にのみ向けられているからである
23)。①②のいずれにせ よ,当該公民が社会において期待されている役割を果たさなかったことが,処 罰根拠の中核をなしている。
21) このことを,Luhmann は,複雑性の縮減とか,二重の偶有性 Doppelte Kontingenz/double contingency と呼ぶ(正確には Talcott Parsons に由来する)。つまり,ありとあらゆる行動を 相手が取る可能性があり(偶有的),かつ相手も自分に対しそう思っている場合(偶有性が二 重),お互いにどう行動するかが読めず,たちまち立ち竦んでしまう。このようにして,過剰に 複雑な状況が生起すると,社会生活が成り立たなくなるため,相手が取ると考えられる行動を 一定数に絞り込むことで(縮減),お互いが円滑に行動することができる(Vgl. a.a.O.(Anm.
16),GLU, S.37ff./254 頁以下(Baraldi))。通路の右側通行/左側通行という区分をあらかじめ 定めることは,その例といえる。これがなければ,対面から向かってくる通行人と同じ方向に 動いて衝突する危険があるが,区分をあらかじめ設けることにより,衝突を回避できる。
22) Jakobs が組織化管轄 Organisationszüstandigkeit と呼ぶものである。表現が分かりづらい が,「管轄」は「管理権限・管理義務」,「組織」は人体の組織(ないしは器官・機関 Organ)
をイメージすれば多少は分かりやすくなるかもしれない。つまり,人は手や足などの組織を,
人にぶつけたりしないように管理する義務がある。そして,この義務は,手足だけに限られず,
自己が乗った馬や,自己が使用する機械などにも拡張される,ということである。
23) これが,Jakobs のいう制度的管轄である。これは,その者が現在の社会制度において占め る地位に基づき要請される義務である。公務員などの国家制度に基づく義務が典型であり,義 務犯 Pflichtdelikte と呼ばれるものである。
このような期待を裏切る行為が横行すると,社会が成り立たなくなる。人が いきなり斬り掛かってくることを警戒し,常に護身用の防具を装備し,360 度 注意を張り巡らせ続けなければならなくなる。このような事態を防ぐために規 範が存在し,その規範を破った者を処罰することで規範の妥当性を回復するの である
24)。
第二節 管轄という概念
以上のような①②を表現するために,Jakobs は「管轄」という用語を用い る。これは,「社会において期待されている振舞いをしなかった (予期違背)
のは,誰か」を問題とする概念である。先の交通事故の事例でいえば,信号を 無視した者が傷害を負った場合に,青色信号に従って交差点に進入した者が傷 害罪や過失運転致死傷罪に問われるか否かは,「どちらが社会的に期待される 振舞いを怠ったのか=管轄を有していたのか」という問いに対する答え次第で ある。そして,これに対しては,「赤色信号を無視した側が,社会的に期待さ れる振舞いを怠ったのであり,管轄を有していた」と答えることになる。ゆえ に,損害賠償義務は赤色信号を無視した者が負い,青色信号に従って交差点に 進入した者は傷害罪等の罪責を負わないことになる。
そして,管轄の有無は,構成要件や違法性,有責性の各段階で問題とされて おり,積極的一般予防論は,全体論として有機的に,管轄の有無を判断するシ ステムであるといえる。
したがって,特定の犯罪成立要件/阻却要件だけ眺めて管轄の有無を論じて もあまり生産性がなく,Jakobs の犯罪論体系全体において管轄がどう判断さ れているかを論じなければならない。そこで,次節では,Jakobs の犯罪論体 系において,管轄というものがどのように考慮されているかという点を,冗長 になることを避けつつ検証していきたい。
24) ここからも窺えるように,Jakobs はいわゆる法益保護を刑罰の意義,刑法の任務だと考え ていない。刑法により保護されるのは,個々の財 Gut そのものではなく,「財を保護する規範」
の 妥 当 性 で あ る(Vgl. Jakobs, a. a. O.(Anm. 12), Rechtsgüterschutz? Zur Legitimation des Strafrechts, S.20)。生命や身体といった個々の財は,単なる規範の動機に過ぎず,規範そのも のではない。
第三節 犯罪論体系
以上のような理解に基づき,積極的一般予防論の犯罪論体系を,ここで整理 しておこう。ここで注意を要するのは,Jakobs は,構成要件・違法性・有責 性などの人口に膾炙した用語を用いているものの,その拠って立つ基礎理論が 伝統的通説と異なる以上,その概念の意味も通常と異なる点である。この点に 留意しつつ,以下で整理を試みたい。
第一款 構成要件・違法性・有責性
積極的一般予防論においても,犯罪の要素は,大きく分けて不法と責任とい う要素に二分される。
不法とは,社会的に受忍されない行為であり,規範の侵害 (社会的に期待さ れる役割を果たさないこと) をいう。そして,正当化事由がある場合に限り,例 外的に社会的に受忍されるものと評価される。構成要件と違法性との間には,
類型的にみて規範を侵害するといいうるか/個別的にみて規範を侵害するとい いうるか,という相違しかない。つまり,構成要件不該当の行為は,個別的事 案をみることなく規範を侵害するものとはみなされない (そもそも社会的にみ て特に問題のない) 行為であるのに対し,違法性阻却される行為は,一般的に みれば規範を侵害する (社会的にみて問題のある) 行為であるが,ただ個別具体 的な状況に鑑み社会的に受忍しうる行為である。単純化すれば,構成要件該当 性と違法性との間には,そのような類型的抽象的/個別具体的という相違しか ない。
責任とは,不法に対する責任をいい,規範を遵守するという動機付けをしな かったことをいう。
そして,以上から窺えるように,積極的一般予防論において法益侵害結果は
本質的に重要ではなく,規範違反性を確証・客観化・可視化するものにすぎな
い。刑法にとって本質的なのは,「規範違反行為に否認の烙印を押すことで規
範妥当を回復させる」点だからである。
第二款 構 成 要 件 第一目 客観的構成要件要素
犯罪の成立のために,構成要件要素として行為や因果関係などが必要とされ る点は,積極的一般予防論においても同様である。
そして,行為については,「個人的に回避可能な,外部的結果を導くこと」
という定義が一般によく用いられる
25)。しかし,積極的一般予防論において は,「規範が自己に対して妥当しないことを表明する」ことが本質的に重要で あり,「回避可能な外部的結果を導く」ことは,そのような意思表明を客観 化・可視化するものにすぎない。
行為と結果との間の因果関係の存否も,規範が自己に妥当しない旨の宣言行 為が,可視化・客観化されたといえるか否かという見地によって,判断され る。生じた結果が,自己の行為と因果関係を有しないということは,規範が自 己に妥当しない旨の宣言行為が可視化・客観化されたわけではない,というこ とになるからである。具体的には,行為と結果との間に,⑴ 現実の関係があ り,⑵ その関係が法的に本質的であるということが必要になる。⑴ 因果関係 の現実性とは,合法則的条件関係が存在することをいう。⑵ に関しては様々 なものが存在するが,大別して(2-1) 人々の行動の予測可能性の規範的保護に 基づくものと,(2-2) 結果犯という犯罪類型から導き出される内的関係に基づ くものとがある。(2-1) は,社会的相当性と呼ばれ,社会的に相当な行為は社 会を震撼させるものではないため許容されるという見地から,因果的には法益 侵害を惹起するものであっても,その行為を可罰領域から排除するものであ る。具体的には,許された危険,信頼の原則,保障人関係的実行,遡及禁止が あげられる。(2-2) は,規範目的連関と呼ばれ,行為者の設定した許されざる 危険が実現したことをいう。
許された危険や信頼の原則は,因果経過に他者の誤った行動が介入したこと で,有害な事態が生じた場合に,「誰の管轄に属するか」を特定する議論であ る。許された危険は,行為者と被害者の二当事者間での管轄の所在を規律する 概念であり,リスクを較量することで
26),その管轄をどちらに割り振るか (惹 起された結果についていずれが帰責されるか) が決せられる
27)。信頼の原則は,
25)Claus Roxin, Strafrecht Allgemeiner Teil Bd.1, 4.Aufl., 2006, § 8 Rn.33ff.の議論参照。
行為者と第三者との間での管轄の所在を規律する概念であり,効率的分業の見 地から管轄の所在が決せられる。
これらに対し,規範目的連関とは,許されざる危険の創出と,惹起された結 果との間の事実的因果関係さえあれば客観的構成要件が充足されるのではな く,それに加え,危険の実現の仕方が (行為者に管轄を生じさせる根拠・規範に 基づき) 許されざる実現の仕方をしたことを要求する概念である。客観的帰属 論が主張する構成要件的射程 (規範の保護目的論) に近い概念である。Jakobs は,規範と無関係に事実上存在している (汎在的 ubiquitar) 危険が実現したの であれば,帰責を認めることはできないという。
被害者の意思的関与による可罰性阻却として,⒜ 構成要件該当性阻却事由 としての合意,⒝ 構成要件該当性阻却事由としての同意,⒞ 違法性阻却事由 としての同意,の三種があげられる。⒜ 構成要件該当性阻却事由としての合 意とは,個々の (各論的な) 構成要件の解釈において,合意の存在により構成 要件該当性が否定されるものをいう。たとえば,強要された合意であっても,
それに基づく財物の占有の移転は,強盗罪における奪取ではなく,恐喝罪にお ける処分にすぎず,ゆえに強盗罪の構成要件該当性を阻却する。このように,
⒜ の合意は,個々の構成要件の解釈に帰着する議論である。次に,⒝ 構成要 件該当性阻却事由としての同意とは,被害者に法益の処分権限が認められてい る場合の,被害者の法益処分の意思をいう。典型例が財産犯である。被害者 は,自己の財産をどのように交換してもよく,財産犯はその妨害を禁止する犯 罪類型であるから,被害者が自らの意思で交換に供したのであれば,当然に財 産犯は成立しない。⒞ 違法性阻却事由としての同意とは,それ以外の犯罪に おける被害者の同意である。⒝ と ⒞ の違いは,先述の構成要件該当性と違法 性の相違に帰着するものであり,個別具体的な事情をみる必要があるか否かと いう見地から決せられる。言い換えれば,当該構成要件が,被害者の不了承を も織り込んだ構成要件であるか,そうでないか,という点から,区別される。
26) 厳密にいえば,歴史的正統性による許された危険(歴史的に受け継がれてきたがゆえに,社 会的に相当なものとして受忍される行為)も存在するが,本稿との関係では重要でないため,
割愛する。
27) 本質的には緊急避難と同根である。緊急避難との相違点は,先述の構成要件該当性と違法性 の相違に帰着する。つまり,許された危険というのは類型的な判断であって,個別具体的な事 情を捨象して判断されるのに対し,緊急避難は個別具体的な事情に鑑み判断される。
同意に瑕疵がある場合については,法益関係的錯誤がある場合には処分権限者 に法益放棄の意思がないと評価され,それ以外の錯誤および強制に基づく場合 には間接正犯の原理に従い処理される。
第二目 主観的構成要件要素
故意・過失の本質はいずれも,行為者において構成要件実現を (回避できる のに) 回避しなかった,という点にある。つまり,規範違反 (構成要件実現)
を回避可能であったにもかかわらず回避しなかったのか否かが第一次的に重要 であり,回避されるべきものについての認識の有無は二次的な問題にすぎな い。この意味で,故意・過失という区別は,二次的な区別だということにな る
28)。
第三款 正 当 化
構成要件該当行為とは,個別的事情に立ち入らず類型的にみて,社会的に容 認できず,規範に対する異議申立てとみられても仕方ない行為である。しか し,類型的には社会的に容認できない行為であっても,個別具体的な事情に鑑 みれば,容認できる場合がある。たとえば,人を殺す行為は,類型的にみて
「人を殺してはならない」という規範に対する異議申立てと評価され,社会的 に容認されない行為である。しかし,それが実は正当防衛行為であった,とい った事情があれば,例外的に社会的に受忍しうる行為だと理解し直されること になる。このような,個別具体的な事情に立ち入り,当該行為の文脈・状況を 考慮して,社会的に受忍しうるものであるか否かを精査するという作業が,正 当化という段階においてなされている判断である。
では,いかなる場合に正当化が認められるか,換言すれば社会的に受忍しう る行為と捉えられるのか。そこで正当化を規律する原理は,大別してつあ
28) また,行為者の心理状態を重視しない帰結として,知的認識が不足しているがゆえに構成要 件を実現してしまった場合(知的瑕疵)と,規範違反を回避しようとする動機が欠落するがゆ えに構成要件を実現してしまった場合(意的瑕疵)とを区別することになる。知的瑕疵がある にすぎない場合は,規範遵守の意思自体はある(自己の行為により規範に違反することの認識 がなかったにとどまる)ため,異議申立てとしての意味合いは弱い。これに対し,意的瑕疵が あるような場合は,まさに規範を遵守するという動機付けをしていないのであるから,規範に 対する強い異議申立てである。したがって,積極的一般予防論からすれば,両者は区別される。
る。
第一に,被害者による利益定義の原理があげられる。先の正当化的同意が典 型例であり,被害者が利益を定義できる財であるがゆえに,被害者の意思に従 って財を侵害することが正当化されるということである。
第二は,功利的考慮に基づくものであり,その典型は防御的緊急避難であ る。違法に侵害した者 (当該侵害につき管轄を有する者) は,その侵害の除去に 必要な範囲で被侵害者による防御を受忍しなければならない。ただし,常に反 撃を受忍しなければならないというわけではなく,おおまかな均衡性が要求さ れる。
第三は,連帯原理であり,公共的利益に基づき正当化されるものである。こ の典型例が攻撃的緊急避難である。正当防衛・防御的緊急避難と比較すると,
危難が転嫁される者 (被害者) は管轄を有していないにもかかわらず,危難に 陥った者から危難を転嫁されることを甘受しなければならないという点に,特 徴がある。緊急状況に陥った者を救助する義務が国家には認められ,そして国 家による救助が間に合わない場合には国家構成員たる公民がそれを代理する責 務を有する。ゆえに,緊急状況に陥った者から危難を転嫁されても,公民であ る以上はそれを甘受しなければならないのである。そして,これは公民として の責務に基づくものである以上,攻撃的緊急避難は免責されるのではなく,正 当化される。
第四は,非人格化と呼ばれる,正当防衛である。これは,客観的状況だけみ れば防御的緊急避難に近似するが,似て非なるものである。違法な攻撃であれ ば防御的緊急避難をなしうるのに対し,正当防衛は,違法であることに加え,
有責な攻撃に対してのみなしうる。違法・有責に他者に攻撃を加えようとする 者は,もはや相手を人格的存在として尊重しておらず,ゆえに,自らが人格と して扱われることを放棄しているからである。そのため,被害者の防衛のため に必要であれば,侵害者は殺されても文句をいえないことになる。
第四款 責 任
以上のように考えると,構成要件に該当することで規範への異議申立てとい
う不法は認められるのだから,なぜさらに責任という犯罪カテゴリーが登場す
るのか,という疑問が生じる
29)。しかし,単に客観的に規範の違反があるだ
けでは,「社会的に望ましくない事態が生じた」とはいえるかもしれないが,
「刑罰をもって臨むべし」とまではいえない。単に不法な行為が行われたにと どまる場合は,治療や教育で足りる場合もあるのだから,社会秩序を維持する ためにわざわざ刑罰を持ち出す必要はない。しかし,法に従おうとする遵法意 識
30)がないような場合には,他に適切な対処方法がない
31)ため,刑罰をもっ て臨むほかない。なぜなら,刑罰とは,行為者を処罰することにより,規範が 妥当していることを確証し,それによって社会秩序の安定を企図するものであ るところ,遵法意識があるにもかかわらず規範に違反してしまった者を処罰し なくても,規範の妥当性は揺らがない (自然災害
32)と価値的に同視されるため)
が,遵法意識がなく規範に違反する者は処罰しなければ,規範が妥当していな いという疑念を人々に抱かせるからである。
このように,「刑罰をもって臨むほかない」といえる場合を,積極的一般予 防論は「責任がある」「人格として規範に有効に異議を唱える」「規範忠誠に配 慮する管轄がある」と表現する。管轄の有無や異議申立ての有効性とは,「行 為者には責任がある」という結論の言い換えにすぎず,それ自体は本質的には 重要ではない。重要なのは,刑罰をもって臨む必要があるか否か,遵法意識の 有無である。
このような発想は,責任を目的論的・機能的に解釈する発想であり,責任を
29) Jakobs の責任論に関しては,神田宏「責任の機能化と責任能力 ヤコブス(JAKOBS, Günther)の所論を中心に 」法と政治(関西学院大学)44 巻号(1993)213 頁,田中久智
「ヤコブスの機能的責任概念に基づく量刑論(一)(二・完)」熊本法学 79 号 59 頁・80 号(と もに 1994)111 頁も参照した。
30)「法への忠誠 Rechtstreue」と呼ぶ(Vgl. z.B.,Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Strafrecht Allgemein- er Teil, S.482)。
31)「他の方法による(予期)違背の処理の可能性 die Möglichkeit anderweitiger Enttäuschung- sverarbeitung」と呼ぶ(Vgl. z.B.,Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Schuld und Prävention, S.18)。
32)「自然の罰 poena naturalis」と呼ぶ(Vgl.Jakobs, a.a.O.(Anm.12),System der strafrech- tlichen Zurechnung, S.66)。Jakobs がSinn versus Naturという対立軸を頻繁に用いること からも(Vgl.ibid.,S.59),このような対比が念頭に置かれていることが窺える。端的にいえば,
不法というだけでは自然災害(天災)と人為的災害(人災)とは区別できない。責任というカ テゴリーは,その両者を選別するカテゴリーである。責任があることによって,ある現象は,
自然現象ではなく,刑法的意味を有する(帰責の対象である)現象となるのである。
また,遵法意識をおよそもちえない,帰責能力 Zurechnungsfähigkeit をもたない者の行為 も,自然現象と同視されるが,この場合は,そもそも規範を否定する能力を有する理性的主体 ではないため,規範の妥当性が揺るがされない(Vgl. z.B.,Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Strafrecht Allgemeiner Teil, § 18)。この点で,遵法意識があるにもかかわらず規範違反をした者とは異 なる。
心理的に解釈する発想と袂を分かつ
33)。その対立が先鋭化する論点として,
常習犯の加重処罰があげられるだろう。心理的にみれば,常習犯は初犯よりも 犯罪行動を断念させるハードルが高いのだから,むしろ責任は軽くなるはずで ある。しかし,現行法はそうなっていない。その理由は,Jakobs によれば,
常習犯を減軽・免除することが社会的に耐え難い帰結をもたらすという点に求 められる
34)。
33) このような解釈手法を採る理由を理解しようとする際,Jakobs が Max Weber の「脱呪術 化された社会 die Entzauberung der Welt」という表現(Vgl.Max Weber, Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus : Gesamte Aufsätze zur Religionssoziologie, 1920, Kapitel 2 § 1 〔翻訳として,中山元(訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経 BP 社・2010)210 頁以下〕,ders., Wissenschaft Als Beruf, 2.Aufl., 1921, S.16〔翻訳として,同
(訳)『職業としての政治/職業としての学問』(日経 BP 社・2009)〕)を頻繁に引用している点 に注目する必要がある(Vgl. z.B.,Jakobs, a.a.O.(Anm.12),Schuldprinzip;ders., a.a.O.(Anm.12), Altes und Neues zum strafrechtlichen Vorsatzbegriff)。Weber は,近現代社会はそれまでの社 会と異なり,宗教,伝統,習俗,迷信などに囚われず,科学,テクノロジー,官僚制によって 特徴づけられていると分析し,それを「合理化」と呼んだ。とりわけ,科学的思考は過去の呪 縛を一掃したと理解し,これを「呪術からの解放」と呼んだ。これを Jakobs は,呪術が解け る前は超越的な神の論理 宗教 によって意味や運命というものが一義的に規定されていたの だが,呪術が解けてしまってからは,そうはいかない,という趣旨で援用している。
このように考えると,行為の意味は,観察者の解釈によって定まるものであり,Weber によ れば,目的合理性および効率性の見地から決まることになる。さらに進んで Luhmann は,「意 味」とはシステム内部でのみ意味をもつ概念だという(Vgl.Dirk Baecker(Hrsg.),Niklas Lumann, a.a.O.(Anm.12),Kapitel IV)。たとえば,経済システムにおいては,支払いがなされ るか否かというのが決定的に重要であり,支払能力や意思と関係ない事情は「意味」をもたな い。このように,「意味」とは当該システムにおける文脈の中で把握されるものであり,
Jakobs の刑法理論においては,「規範の妥当性」という見地から,「意味」が把握されることに なる。
34) たとえば,セルフサービスのデパートで商品が誘惑的な宣伝文句を伴い陳列されており,か つ盗犯防止の安全対策がとられていない誘惑的状況において,窃盗をした場合,それは責任を 加重するのか,軽減するのか,はたまた無関係なのか。有責性を心理的概念とみるならば,占 有離脱物横領罪の法定刑の低さを有責性の減少に求める見解があるように(西田典之『刑法各 論〔第"版〕』〔弘文堂・2012〕251 頁参照),そのような行為状況を責任減少事由と捉えること も不可能ではない。しかし,同時に,誘惑的であるからこそ禁圧性が高いという理解も不可能 ではなく,「誘惑的である」ということだけでは責任の大小を決することはできない(山口厚
『問題探究刑法各論』〔有斐閣・1999〕122 頁以下参照)。有責性という要素を刑罰の目的と有機 的に連関させることによって,この誘惑性を適切に位置づけることができる。たとえば,かか る宣伝方法は過剰な経済行動であると考えるならば,被害者(デパート)の信頼は法的に保障 されたものではないから,刑罰を用いる必要はないということになる。これに対し,適切な経 済活動の範囲内であると考えるならば,この誘惑性は一切免責的に作用しない。このように,
刑罰を用いる必要があるか否かという点から,分析すべきことになる。
第五款 正犯・共犯論(関与)
以上は,行為者が単独正犯の場合を念頭に置いた帰責理論である。では,複 数人が関与した場合,どのように・なぜ帰責されるのか。正犯とされるケース について,大別して つのケースがある。第一が義務犯
35)であり,第二が支 配犯である。
義務犯とは,賄賂罪などのように,制度的に保護された義務違反により,直 ちに正犯として処罰される犯罪をいう。ただし,これは一定の限られた犯罪類 型にのみ妥当する議論であり,その他の多くの犯罪類型は,支配犯である。
支配犯においては,正犯であろうとも共犯であろうとも,その処罰根拠はと もに,規範に対する異議申立てに求められる。ドイツ刑法 (StGB) は,25 条 項36)で直接正犯と間接正犯とを規定し, 項
37)で正犯としての共同正犯を 規定し,26 条
38)および 27 条
39)で狭義の共犯を規定しているが,これらの関与 類型の相違は,管轄のあり方による相違に基づくものであって,管轄の有無に 基づく相違ではない (訳語は,『法務資料第 416 号ドイツ刑法典』を参照) 。
正犯とは,犯罪行為 Tat に完全な管轄が認められる場合であり,具体的に は,行為形成 Tatgestaltung・行為決意 Tatentscheidung・行為実行 Tataus- führung に関する支配を認めうるか否かによって決まる。自らが実行行為を行 っていない間接正犯は,行為媒介者の構成要件回避が不可能な状況において,
行為媒介者の行為を利用しているのであるから,行為媒介者に優越する決意を 行っているがゆえに,行為決意を支配しているといえる。共同正犯は,実行に 必要な役割を果たしたがゆえに,犯罪行為を共同実行したものと評価される が,つまるところは行為形成・行為決意・行為実行全体に対し,複数人が互い
35) Jakobs の義務犯論の詳細については,平山幹子「『義務犯』について⑴(・完)」立命館 法学 270 号 112 頁・273 号(ともに 2000)207 頁に譲る。
36)「自ら又は他の者を通じて犯罪行為を行った者は,正犯として罰せられる。」
37)「複数の者が共同して犯罪行為を行ったときは,各人が正犯として罰せられる(共同正犯)。」
38)「違法な行為を故意で行うよう,故意に他の者に決意させ得た者は,教唆犯として正犯と同 一の刑で罰せられる。」
39)「項 違法な行為を故意で行うよう,故意に他の者を幇助した者は,従犯として罰せられ る。
項 従犯に対する刑は,正犯に対する法定刑に従う。刑は,第 49 条第項により,減軽す るものとする。」
に同等に支配したと理解される
40)。これらに対し,狭義の共犯 (教唆および幇 助) は,各則の構成要件が捕捉する犯罪行為を自ら行っているわけではないど ころか,単体では当罰的な行為を行っているわけではない。たとえば,空き巣 泥棒のために泥棒を家まで車で送り届ける行為は,倫理的・道徳的に望ましく ない
41)行為かもしれないが,それ単体ではなんら不法を実現していない。車 で送り届ける行為は,それ自体が処罰の対象なのではなく,正犯者の行った正 犯行為について帰責させるための端緒・きっかけであり,正犯者が実行の着手 の段階に至った時点で,車で送り届けた者は「正犯者と共同して, (構成要件 実現により) 規範に対する異議申立てを行った」と評価される。あくまで処罰 根拠は,正犯行為による規範違反を共に行った点に求められる。換言すれば,
狭義の共犯が処罰されるのは,因果的に正犯行為を促進したからというより も,犯罪行為に適合するようなことを行い,規範違反へと促したがゆえに,共 犯者も規範違反を共に犯した者と評価されるためである
42)。何をもって「共 同 Gemeinsamkeit」と評価されるかは,物理的・心理的に決まるものではな く,規範的に決せられる。たとえば,食料品店の売り子が,買い手が店の商品 を毒殺のために準備しようとしていることを知りつつ,それを販売したとして も,殺人幇助になることはない。このような,社会的に相当な行為
43)につい ては,共同性を認めることができないことになる。
40) なお,自手実行をしなくても,共同正犯たりうる。たしかに,行為実行に対する支配は欠落 するが,準備段階における行為形成への支配によって,埋め合わせることができるからである。
41) Jakobs はこれを,責務 Obliegenheit に対する違反と呼び,義務 Pflicht に対する違反ではな いとする。いずれも命令・禁止に対する違反という点では共通するが,刑法的文脈では,義務 違反のみが処罰され,責務違反は道徳的非難が問題となるにとどまる。その例として,免責的 緊急避難を定める 35 条項第文は責務に違反したにとどまる(ゆえに免責される)のに対 し,危難の甘受が期待される場合に免責を否定する同第文は義務違反である(ゆえに免責さ れない)。Jakobs, System der strafrechtlichen Zurechnung, S.70(Anm.157),S.79 Anm.(178)
で指示されているJoachim Hruschka, Strafrecht nach logisch-analytischer Methode. systema- tisch entwickelte Fälle mit Lösungen zum Allgemeinen Teil, 2.Aufl., 1988, S.415ff. や,近時の議 論としてJuan Pablo Montiel, Obliegenheiten im Strafrecht?, ZStW 129(2014),S.592ff. 参照。
42) したがって,共犯もまた組織化行為である。Jakobs は,「犯行組織化の一部 Teil einer Tatorganisation」と か「前 段 階 の 組 織 化 Vorfeldorganisation」と 呼 ぶ(Vgl.Jakobs, a. a. O.
(Anm.12),Akzessorietät, S.260, 263)。
43) Jakobs は,このような行為の排除法理として,ï及禁止 Regreßverbot を援用する。彼自 身が明言しているように,Jakobs のいう意味でのï及禁止論は,故意行為が介在した場合の帰 責制限法理ではない(Vgl.ibid.,S.261)。したがって,ï及禁止という表現こそ用いているもの の,伝統的なï及禁止論とは無関係であることには注意を要する。
第二章 危険の引受け
第一節 被害者の自己答責性と行為者の管轄
第一款 「自己答責性」の意味
被害者の危険の引受けの事例類型を巡り,ドイツにおいては,被害者の「自 己答責性 Eigenverantwortung」が問題とされることが多い。しかし,この自 己答責性という用語は,論者によって使い方が異なる点には,注意を要する。
客観的帰属論の論者も,自己答責性という表現を用いる
44)。しかし,客観 的帰属論が殺人罪や傷害罪に傾斜した議論を行うのとは異なり,Derksen ら の議論の特徴は,広く自らが危険にさらした局面に着目する点にある。それゆ え,その解決も総論的な概念に依拠することになり
45),自己答責性という用 語もより広い意味を持つことになる。
また,Derksen は,自己答責性という表現を用いる学説のうち,行為者の 答責性と被害者の答責性とを等置するような発想
46)を,手厳しく批判する。
その理由は以下の点に求められる。既述のとおり,ある行為が犯罪として処罰 される理由を,規範への異議申立てを行った点に求めるのが Jakobs や Der- ksen であり, (賄賂罪や秘密漏示罪等の特殊な犯罪を除き) 自己の組織化管轄の 不当行使をもって処罰すべきと考えている。ということは,赤の他人が自分で 自分を損ねたとしても,それはまさに「管轄外」ということになる。たとえ ば,A が所有する壺を,A が自ら破壊しようとしているとき,たまたま通り
44) 代表的な議論として,前掲注 7)参照。彼らが,殺人罪や傷害罪に傾斜した議論を行うの は,ドイツ刑法が,自手による自殺に加担した行為を不可罰としつつ,他手による自殺に加担 した行為を処罰するからである(216 条)。
45) Vgl.Derksen, a.a.O.(Anm.13),S.169ff.
46) 代表的な論稿として,Ulfrid Neumann, Die Strafbarkeit der Suizidbeteiligung als Problem der Eigenverantwortlichkeit des „Opfers“, JA1987, S.247f. や,Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993 がある。