手塚さんとフランシス・ジャム
朝比奈 誼
立教で定年を迎えたフランス語教員を数えると,多いのか少ないのか,
仏文科創設いらい三十余年間に武田,平井,川村,松室の四先生になる。
手塚先生は五番目だが昭和生まれでは皮切りである。つまり,今はまだ送 りだす側にいる自分の番がせまったということで,僕の立場はいわば玉手 箱の蓋をあけかけた浦島太郎にひとしく,つい筆が渋る。
何にせよ,手塚さん(先生よりこの方がぴったりくる)とは僕が立教に 来てからのお付合いだが, 同じ苦楽の時を生きてきたという実感があり,
並の家族よりも身近な存在だといっても過言ではない。わけても,共に汲 み交わした酒の量は他を圧していよう。
むろん手塚さんは酒に酔いしれていたどころではない。学生の面倒見の よさにかけては定評があり,フランス語教員全部が顔をそろえる卒業論文 面接の席で,特に女子学生に対する時の噛んでふくめるような口調はまさ しく「慈父」のそれであった。それも,今年かぎりで十二号館の研究室か ら失われることになる。
手塚さんは翻訳家としても知られる。僕自身は,ヴェルヌの『神秘の島』
やコレットの『青い麦』のしなやかで癖のない訳文の味わいをこよなく愛 するものだが, 代表作といえばもとより『フランシス・ジャム全詩集』に 止めをさす。この九百頁になんなんとする大著の「訳者のあとがき」には,
「フランスでもまだない」「世界に先駆ける」仕事とあるけれど,日頃控え めな人がこれだけ力説するのはよくよくのことにちがいない。ジャムにつ いてはジッドの友人であるとか,『明けの鐘から夕べの鐘まで』のカトリ ック詩人であるとか,その程度の知識しか持ちあわせぬ僕に論評の資格な どあるはずもないが,思い出すことが一つある。
数年前パリに滞在する機会のあった僕は,手塚さんからジャム関係の古 本探しの任務を託されたのだった。そこで,自分の必要もあり,ブラッサ ンス広場の古本市に何度か足を運び,何人かの古本屋に問題のリストを見 せて頼んだのだが,すべては徒労に終わった。向こうが気の毒がってジャ 39
ムの詩集の出物を教えてくれたことがあり,僕は宿題を果たしていない申 し訳に手塚さんにその旨を伝えた。しかし,その種のものならみなすでに 手元にある,という。素気ない返事だと思わないでもなかったが,「若い ころからジャムに関心をもちつづけた」という彼のうち込み方からすれば 当然の反応だったろう。しかも,それが大著出版の一年ほど前だったこと を考えると,訳稿に修正を加えるべく,最後まで参考資料の収集に手を尽 くしていた訳者の執念を感じないわけにはいかない。今の学生を見ている と,大学院レヴェルでさえ研究対象として選んだ作家の本を借りてすます のが当たり前のようだが,彼らに手塚先生を見倣えといいたくなるのは,
そもそも僕自身が時代後れになった証拠なのだろうか。
ところで,手塚さんは研究するだけではあきたらず,若いころはみずか ら詩作に手をそめたらしいが,近年は短歌にひそかな情熱を燃やしていた。
「ひそかな」というのは,ある酒の席で「自作が朝日歌壇の選に入り,全 国版の朝刊に掲載された」という告白を聞かされるまで,われわれは何も 知らなかったからである。なんでも,親類縁者からは当日早朝より「伸一 さん,おめでとう!」の電話があいつぎ,おおいに面目をほどこしたのに,
君をはじめ同僚諸君からは「朝日新聞をとっているはずなのに」今日にい たるまで何の挨拶もない。冷たさを恨みつつ,自分から手柄話におよんだ とのこと。ご当人にはここでその節の冷淡さのお詫びをくりかえすととも に,作品の引用を許していただきたい。
試験監督しつつ校舎の外見れば 泰山木が目の下に咲く
五号館前の白い清楚な花が,鬱屈した監督者の心を洗ってくれたのだろ う。
ところで,ジャムは手塚さんのいう「純なるもの,清らかなものの象徴 としての少女」をヒロインとした短篇小説をいくつか残したが,作品の舞 台になっているジャムの故郷ベアルン地方には泰山木が多く,作中にも取 りこまれている。ジャムの目に同じ花がどのように見えていたか。一例を あげる。
「庭園のそこかしこには,裸形の花をつけた泰山木の桃色がかった 花冠が,炎のように見えていた」(『クララ・デレブーズ』)
この違いはけっして小さくないと思うが,両者を比べてみることで,新 定年者の穏やかで純な人柄が改めて鮮明に浮かんでくるのではないか。
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