はじめに現代カンボジア
)舞した『カンボジアの台が芸術』(二〇〇三著ルロクムトヴ を家、代表する芸術研作家、究者のペイ・1
2
には二十二種類の舞台芸術が紹介されている。その中でも王宮古典舞踊、影絵芝居は、それぞれ二〇〇三年、二〇〇五年にユネスコの無形文化遺産に登録された。前者は「一千年以上、カンボジアの宮廷と密接な関わりがあった」「王宮内のさまざまな儀式において演じられてきた」「演目は民族の起源に関連した伝説を基にしている」とされ、後者は「アンコール王朝以前から古典舞踊とともに聖なるものとされてきた」「神々に奉納されるものであり特別な機会にのみ上演される」と説明されている
古のンコール王典以降の諸侯朝活躍の物語といったいわゆる が展開する。題材の多くはラーマーヤナ、ジャータカ物語、ア 登場人物の語りと歌によって物語大衆向けの娯楽演劇であり、 たっわ伝らか域地タルンデメのの初頭に現在コベナム南部ト バサック劇は二〇世紀劇は群を抜いて人々に親しまれてきた。 中でもバサック民とともに一世紀近く歩んできた芸能もある。 ル」「朝王「ーコンア宮王つ」「神々」にはながらいが、庶な 。3
岡田知子 カンボジアの大衆芸能「バサック劇」の変遷とその意義
物語である。バサック劇に対しては国内外の研究者の注目度は低く、研究も少ない。グイ・ポレは『カムボジャ民俗誌
―
クメール族の慣習』(一九四四)るにされる「喜劇」つ推いて言及してい測と の楽中の「舞踊と音」劇の項で、バサック4
)の七六九一(』劇演ア ブランドンの『東南アジ・ジアの演劇を専門とするジェームス 。アどな伎舞歌5
ソリヤー』・ア 『カンプチの歴史と調査当時の状況について触れている。雑誌 その中でバサック劇アジア諸地域での調査をもとにしており、 渡南東るには、間年三の代年〇六九一6
)す一七九一(」究研る関に劇演のアジボン に掲載された国文学者リーティアムテン「カ・7
)ーペイ・トムクロヴルの『ジケとバ七九九一(』劇クッサ 述る。いてべとふ二現代的なせりた劇のつが主要なものとなっ 数ある演劇の中でも最終的にはバサック劇と演劇史を概観し、 ンは、カでボジア8
):八九九一(』楽音のアジボンカ論概術芸の『ンアプウ・ 王立芸術大学教授で古典音楽を専門とするマを紹介している。 著名な役者歌詞、歌曲タイトル一覧、バサック劇の構成要素、 は9
(一九八七)世紀のカンボジアに対する中国文学の影響」 究の第一人者であるキン・ホックディによる「一九世紀、二〇 は、バサック劇の音楽について述べている。カンボジア文学研 10で
11では、
中国文化の影響の表象としてバサック劇を挙げている。リーとムアンによる『独立の文化』(二〇〇一)
の言及は皆無に等しい それ以降盛んであった一九六〇年代までの状況のみの記述で、 大枠を述べるにとどまっている。またバサック劇がるものの、 同書もバサック劇の構成要素には踏みこんではいのみである。 あるいは音楽や舞踊の中の一部として語られている全体の中、 ジバとーケだの『イペがッサをク劇劇演もれずいて、い除』 響について言及している。 ぼ影たし及映サ「に画」章では、バのック劇がせりふ劇、映画 ンタビューから構成されている。この中のおよび「せりふ劇」 関係者のイ関係資料、絵画についてのそれぞれの歴史、音楽、 映画、せりふ劇、ンボジアの独立以降に発展した現代的な建築、 五一九は、三年のカ12
えながら た加を料資像映びよお献文な新に究研行先られこは、で稿本 。13
いて考察する。 たつに義意と徴特の劇クッサバっかなこてれさ摘指でまれこ 、構成要素を整理し、バサック劇の成り立ちと変遷、14
一.バサック劇の成り立ち
―
メコンデルタ地域について前掲のカンボジア人による著書では、バサック劇の発祥地は「カンプチア・クラオムのプレア・トロペアンの対岸にあるクレアン州バサック郡」としている。バサックは地名であると同時にメコン川の支流名でもある。バサック川はプノンペンでメコン川に合流し、ベトナムを通って南シナ海に流れ込む。カン ボジア人にとってメコンデルタ地域、つまり地理的にプノンペンの南部にあたるカンプチア・クラオム、つまり「下のカンボジア」からきたものはすべてバサック起源のものと認識しているのである
れ配トナム支の下に組み込ま 一七七五年にベ地域にカンボジア人の社会が成立していたが、 遅くとも一六世紀末にはチャヴィン省の南部の一省に当たる。 ソクチャンのメコン川河口のデルタ地域にあるチャヴィン省、 ム内ナレトア・トロペアン、クアプン、バサックは、現ベレ 。15
たきてし植入に的格本が 人16、ナトベとるなに紀世九一ム たっなにうよるれさ記表てい用 させられ、地名や人名がカンボジア語の発音に類似した漢字を 17。放を習慣のら自は人アジボンカ棄
しンたが、現在もカボなジア人が多く居住っとムナトベで定領 。年一九五四ーのジュネブ協18
る座あく多数が院寺教仏上し、話を語アジボンカ 、19
るあ 民やクメール文族学化博物館が校級市語リーパはに高ンャチ 都省。ソク20
りのとっては、現在もンボジアカ領う土が識意あいるあでと ィに持つデポアスラにーツルカ人るンボジをアやカンボジア は、域地タル。デンコメな少アくともカンボジ本国にい21
カンダール寺 ・バサック地域のクサッチバサック劇のそもそもの始まりは、 たようにカンボジア語による名称で呼ぶことにも現れている。 記し述既く、な切一は述22、いとるあに内国ムナトベの在現う
うをいとるよにとこたっ作団劇にもととちた徒信 のスオという住職が還俗後、他の還俗者や弟子、23
劇呼したので瓢箪棚劇ともばれた。ベトナムのカイルオン で演上屋いた箪棚のような枝を葺小だけの簡単な造りの芝居 初当。は瓢24
また華人による「ヒー劇」 25、
26などとともに、バサック地域に存
在した演劇は互いに切磋琢磨されていった。瓢箪棚劇の一座は他の劇団の長所を適宜取り入れ、また観客によって使用言語を変えたことにより、人気を博していったという。カイルオン劇はベトナム北部の演劇トゥオンを「改良」した劇という意味で、一九三〇年代に南部で最盛期を迎えた新しい歌劇である。ベトナム南西部の民謡、冠婚葬祭の音楽と伝統的歌劇を基本として、そこに西洋の映画、戯曲などさまざまな要素を組み合わせ、ハット・ボイ劇よりも大仰な動作や表現が抑えられている
決まっている 化粧の型が役柄によって動作、の古い説話などから得ており、 中国中国伝統演劇の影響を受けている。題材はベトナム、り、 れの宮廷で演じらた発展しナ歌劇であムトれ、ば呼もとボベ 。劇またハット・ボイゥとはトオン、ハット・27
リー 28。
ン地たというバサック域演出身のチャー・クルオし上 でジは、一九三〇年、カンボアをで最初にバサック劇29
き取りから、その成り立ちを述べている 30への聞 ーとコーノイレプり、な るジケー劇を基に新たな芝居を作りだした。これが非常な人気 カンボジアの伝統演劇のひとつであ演劇の特徴を取り入れて、 というベトナム身体的な激しい動きをする、が自ら語り歌う、 クルオンは、語り手を使わず登場人物たち・た。そこでチャー ボイ劇やカイルオン劇を好んで見るようになっ・演じるハット 人のム地域見飽きたバサックナの劇カンボジア人は、ベトを 。それによるとジケー31
運搬の手段であった船は舞台を設えることもで回った。移動、 カンボジアの地方をプノンペンを皮切りに、ン川沿いを遡り、 小道具をジャンク船に搭載してメコ大道具、必要となる舞台、 上でに演32は一た。し功成も演上の座 居っなもとま住の座一たき、た
)とているジケー劇は、さペイ(二〇〇三年れ及でここ言 呼ぶようになった。 バサック劇とのような芝居を「下のカンボジア」から来た劇、 。カこうしてでンボジアはこ33
いく、りの比率が高戦闘の場面は少な 歌や踊手で叩く太鼓を主要な楽器として使用することである。 劇の特徴は、直径が大きく厚みのない、ジケー太鼓といわれる、 発祥の時期や場所については言明していない。ジケーだけで、 が連の可能性るあのとしている関とケーケリのイタや劇ー劇 信るす仰化、を教ムラスャチマム人の文は、レーシアのジイ で34
アウ」である ティ・「トム「マックトゥン」や「五〇のジャータカ」劇の題材は ー35。ジとるよにウマケ イルオンを取り入れた芝居であるとされていることがわかる。 ボイ、カ・本に中国伝統劇に影響を受けたベトナム演劇ハット ン基を劇ーケジのアジボカはと劇クッサバら、かとこの上以 。36
二.バサック劇の爆発的な人気
―
スターの登場バサック劇が人気を博していた時期に、ヨーロッパの影響を受けた現代的な演劇であるせりふ劇が登場した。リーではせりふ劇の成り立ちについて次のように述べている
芝るり舞台設定や衣装が実在す同人たし模を時々の般一の代 つまのために上演した。一部の劇団はヨーロッパのせりふ劇、 劇団が庶民の娯楽プノンペンでさまざまな舞踊団、式の際に、 位即ン王のシソワット・モニヴォの(在位一九二七―一九四一) 九一。二七年37
居を演じており、歌や「ミュージック」と呼ばれる西洋音楽が入るものだった。即位式とそれに伴う祝祭を見ようと全国から集まってきた人々は、今までにない芝居を目にし、この評判はすぐさま全国に広がった。このように既存にない演劇を受け入れる素地のあるところに、さらに影響を及ぼしたのが外国からの種々の劇団による上演だった。シャム、インドネシア、ベトナムからの学生劇団が海外視察旅行も兼ねてカンボジアで上演することをフランス保護国政府が許可した。それに影響された教員、学生、官吏などカンボジアの知識人層が、同様の現代的な劇を上演するグループを立ち上げ、このような演劇を「テアトル劇」と自ら称するようになった。カンボジア人の嗜好に合わせて歌や踊りも加え前座とした。またフランス保護国政府も支援し、グイ・ポレを演劇専門家とした
た演催の行事で上主すようになっる そ集めのためにのれぞれグループ資金動き、でが団劇にと活 研校窓同後、学等高中作会、究家協会、そ者のグループごの 。38
た国演じられ劇は「る民劇」と称され演 劇国立のき、団がでめて集演めにはを劇学を修た国内の専門家 ―一九五五。五六年ごろ39
た八れさ立設も校学劇演はに間の年五一らか年九 一九五七シェークスピアやモリエールなどの作品が上演され、 。の国内や現代小説40
容たを連演の様子を伝え、すぐれ作は介紹で載内ていつに品 さまざまな劇団や舞踊団の上ジア語紙『ナガラワッタ』では、 るボカンよれ一九三六年に創刊にさた初期の民族主義者たち 層だけが関わってきた官製の演劇であったことがわかる。 バサック劇とは異なり知識人にせりふ劇の成立過程を見ると、 41。うよのこ している
いる。 その際に劇を上演した記事が多数掲載されてループで訪問し、 会員が多数いる国内の主要都市をグ員の親睦を深めるために、 ほかにもシソワット中高等学校の卒業生が同窓会会れている。 記さ載掲く多が事42。的持支てし対に劇ふりせたまな 知識人階層は自分たちの演劇を持つようになると、バサック劇との差別化を図ろうとする。ポレは「上流人文士」たちがバサック劇を軽蔑し、「王室の舞踊の漫畫と等しく、『ジャワ人並びに回教徒の流れを汲む』タイのリケ或いはイケの新しい翻案でしかない」と言っていたと記している
次のように述べている。という見出しで、を好む人が多いのか」 なぜこのようにまでバサックの演劇を見るのメール人女性は、 「我がク載している。一九三九年一一月一一日第一四二号には においてもバサック劇に対しては非常に批判的な記事を掲タ』 。ッワラガナ『43
我々は疑問に思う。居てもたってもいられず、踊りを見に行くだけでなく、さらに劇団員を連れて行って食事をふるまい、さらに家に連れて行って一緒に泊らせ住まわせる。バサック劇が好きになって夫をすっかり忘れてしまう人までいる。
―
略―
我々は、「夫たちはもっと厳しくするべきである。妻がこのように劇団員に大騒ぎするのを放置しておいてはいけない」と理解する。また一九三九年一二月九日第一四六号の記事では「我々はバサック劇団を好み、夫を忘れ、兄弟を忘れてしまう女性がいる」ことについて、これはプノンペンだけではなく、地方都市でも
見られる現象として次のように述べている。
今回、バット・ドンボーンの我々の新聞読者から、「バット・ドンボーン市にもこのように夢中になっている女性がいる。放置すると、きっとこの病気は全国に広がるに違いない」と心配する手紙を受け取った。我々は、「なぜ女性たちが集まってこのようにバサック劇団員を好きになるのか」と疑問に思う。我々は新聞読者の皆さんに、この話についていろいろ知っていることがあったら、我々に助力して蒙を啓いてくれるようお願いする。
当時の男性知識人たちが糾弾するほど、バサック劇が人気を博していたことがわかる
官になっていたペイは次のようにせりふ劇を評価している。 化次務政の省術芸44。はに年一〇〇二文
ひとつには先進的だったのと、もうひとつは、すべてのせりふがよいものだったからだ。つまり知識人がつくり、演出していて、バサック劇やほかの劇のように即興で演じるものではない。それらの劇では役者は演技やせりふを自分で決めなければいけないし、歌も思いつくままに歌う。だが国民演劇ではそうではなく、せりふはすべて推敲して書かれたものであり、非常に練られた演出がされている。
45
さらに「バサック劇を見に行く人は多かった。しかしたいていの場合、一般の人や知識人はあまり見に行かなかった。正確に言えば、大衆が好んで見に行った」とも言っている
46。ペイ して次のように述べている はまた、一九六〇年代にバサック劇に陰りが見えてきた理由と
47。
バサック劇とはそもそも文学、仏教、詩歌に長けた文人たちが創り、観客も芝居に対し敬意を払っていたが、その時(筆者注:一九六〇年代)には教養のみならず文字も書けないような人が役者になり、即興で演じ、言葉遣いも不適切で耳障りだった。さらに役者たちは賭博、女、酒、薬物に手を出していて品行も良くなかったことが観客離れの理由だった。
周到な準備の上で上演するせりふ劇と対極の、即興で演じられるバサック劇を評価していないことがわかる。バサック劇は教養のない役者が即興で演じる大衆のものであり、せりふ劇は学識の高い知識人のもの、という認識が当時も現在もあるといえる
る 一方、ポレはバサック劇の人気の理由を次のように述べてい 48。
49。
音楽、歌合戦、道化、詩等の混じり合った新作劇を新しいものと信じている。ここでは恒久普遍の伝統の墨守するのと違って、大衆の好むところに従って絶えず発展を続けているからである。集散地近辺の田舎者は支那や安南の「当世風」を非常に好むので、喜劇も現在では全然統一のない諸要素からなる驚くべき混合物であるのも勢いまぬがれぬところとなっている。
一九三〇年代に限らず、一九五〇年代のカンボジアでの子ど
もの頃の思い出を綴った物語にもバサック劇に夢中になった少年たちや女性たちについての記述がある。ここで注意したいのが、原文では「芝居、劇」を意味する「ルカオン」としか書かれていないのだが、芝居の描写を見るとこれがバサック劇であることがわかる。つまり当時の庶民にとって芝居、劇といえば、数ある演劇の中でもほかでもないバサック劇を指していたと考えられる。
一九五一年、中級科第一学年のとき、私は突然、芝居の虜になった。オーン社長の劇場でやっている芝居で、当時非常に有名だったサン・サルンが主役を演じていた。バンコック寺ではホンという親友がいた。ホンも寺に寄宿していて、私よりはるかに芝居に熱中していた。芝居の霊が私にとりついたことなど、先生は一向にご存知なかった
50。
芝居に夢中になるうちに、役者が好きになった。サン・サルンではなく、その劇場を持っている社長の娘である女優が好きになってしまったのだ
51。
サン・サルンは背が高く細身だった。高官の奥方たちが取り巻きになっている、というもっぱらの噂だった
52。 ここに何度も登場するサン・サルン(一九二二―一九七三)は、バサック劇が人気になっていくのと同時に一九四〇年代から一九六〇年代まで一世を風靡した男性役者である
う見いとたっだどほる出がち立で席満もつ 。いは席客53
54サン・サルンは。 た、めたうっなに国よる全がにその名知られるようになっれた サルンの出演した作品は録音され、国営ラジオで放送さ・サン 一九五五年ごろになると事件も頻発するようになったという。 に愛好者が増え続け、それを快く思わない家族による殺傷沙汰 富裕層の女性を中心地域を中心に全国で興業するようになる。 判になる。二〇歳ごろには自分の一座を持ち、メコン川沿いの 躍評りなにうよるすの活ンってプノンペのジケー劇で一座切 父親の反対を押しは有名だったという。十六歳で還俗すると、 美声で読経する未成年僧として地元で幼い頃から寺で学んだ。 れ、州メコン川沿いのクロチェのま郡長であった父のもに生と
55。 フランス保護国時代、および一九六〇年代は、バサック劇の劇団員には高い基準の生活ができるように政府から支援金が与えられたので、演劇に集中することができたという
たきでが をと必ず観客員動すすることる化れい上映さ画てた物語を映 バサック劇で映画制作において、映画産業が興隆していたが、 一九六〇年代、カンボジアは東南アジア地域の中でもとりわけ 。56
サック劇は衰退していった。 映バにもとと気人の画57。で部市都にくとに、時同は
三.バサック劇の構成
に バッあうよるれらえ喩とるでクサ竈いなば選を薪は「劇」 客を飽きさせないための工夫が常に行われ進化していった 観民族の芸能の要素をうまく取り込みながら、まざまな地域、 そさたっ行流に々時の58、通たし摘指がレポの述既たまり、
59。
バサック劇といえば、勇ましい銅鑼やシンバル、登場人物の心情や行動にメリハリをつける木製打楽器の音、隅どりを施した魔物役の存在、中国風の衣装をつけた男性、丁々発止の立ち回りや「フオン」
旅回りをしていたとが多く、 員ろまでは一座の構成は代家族や親戚であるこご年六九一〇 ある。 とな呼ばれる大げさなポーズどが特徴的で60
族や親戚である 関もある。私設の一座も数は少ないが健在であり、構成員は家 あるいは軍隊に所属する役者がいて、劇団が創設されている機 61。現在は文化芸術省、州の文化局、
一九八〇年代については後述する。 年年代、一九七五―一九七九のポル・ポト時代、その後の 内戦が始まった一九七〇サック劇の構成内容について述べる。 一九三〇年代から一九六〇年代、そして現在のバ照しながら、 で参ではペイ(一九九七年)挙こげられている構成要素をこ 。62
三―一.物語
カンボジアでいわゆる古典物語とされる仏陀前世物語「ジャータカ」、アンコール王朝以後の王たちと諸侯の活躍の物語が題材として好まれる。ジャータカは、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーに伝わったといわれている「五十のジャータカ」を題材にしていることが多い。神々、仙人、鬼が登場し、王子や姫の奇想天外な冒険を描く。騎士や王子と美しい姫、あるいは村娘との恋、仙人からの呪術の習得、騎士と魔物の武 器を手にした闘いといった要素が必ず含まれる。「チャンソンヴァー王子とボパープオン姫」「ソヴァンコマー王子」「プレア・ニアン・オンポーペイ姫」「プレア・チャンコロプ王子」「騎士デチョー・ミアハ」のように、いずれも主人公の名前がそのままタイトルになっている。アンコール王朝以後を舞台とし、王や役人、軍人など宮廷に関わる者以外に一般庶民が主人公として登場する物語で、超自然的な要素が弱められている。勧善懲悪、因果応報がプロットとなっており、どれも観客がストーリーの内容と登場人物について馴染みのもの、あるいは結末が予想されるものである。いずれもバサック劇に特徴的な派手な衣装や化粧、動きの大きな立ち回りなどが生かされる内容となっている。ジケー劇でも同様の題材が扱われるが、両者での大きな違いは、バサック劇はあくまでも喜劇であり、ジケー劇は悲劇も扱うということである。たとえば十七世紀ごろを舞台にした「トムとティアウ」は、美声を持つ若い僧侶のトムと美しい村娘ティアウが恋仲を裂かれて最後には二人とも命を落とすという悲恋物語である。バサック劇では演じられず、ジケー劇での有名な演目となっている
トゥンと妻は元通り幸せになる物語に変更されている。 マック横取りした王子は父である王から罰せられて追放され、 人妻をバサック劇で演じられる場合には、が一般的であるが、 この物語はジケー劇で演じられるのの終盤では妻が自殺する。 は物語「マックトゥン」によって若く美しい妻を横取りされる また年老いたマックトゥンが傲慢な王子でしか演じられない。 人公の女性カーカイは悲劇的な結末を迎えるためか、ジケー劇 63。も」イカーカ語「物典古に様同主
以上のことからバサック劇の題材として最優先されるのは、主人公たちが幸せな結末を迎える喜劇であることがわかる。
三―二.
登場人物と演技
男女とも役者として登場する。「解説する劇」と呼ばれるほど、登場人物によるセリフが長い
るい スす空間に発生するインピりレーションに依存して出創者と 共演即興で演じる。つまり役者にとって次に何が起こるかは、 役者はセリフについて役者に指示し、語の大枠やアクション、 作を行う。バサック劇には台本や脚本はなく、座長が舞台や物 きを説明し、またこれから行う行動について述べてから次の動 場した際に自らの名前を観客に紹介した後、これまでの成り行 人主要な登場。物は、初めに登64
すてイムすべのを一人でこな パントマアクロバット、ダンサー、ナレーター、歌手、者は、 特に主役級の男性役ることが考えられる。バサック劇の役者、 す65。そそこに観客が加わり、の変反応次第で演じ方は化
それは森には野獣や精霊が場面が物語の最大の見せ場であり、 森の道化師二人が物語を解説することもある。ポレによると、 道化師役が二人いる。現在ではジケー劇のように幕前で場合、 歌う。主役女性は甲高く細い声で話す。またほとんどの話し、 セリフになる。主役男性は高めの声、魔物は低く太いだみ声で 語す用多を語調単の来由王る用族用語を使のするので文長い サンスクリット語パーリ語、王族や神々が登場する物語では、 なの語り、詩の詠唱のよう話る。し方があり、歌多数含まれが 66。通普て、じ応に面場はフリセ すみ、魔物や王子が出会うところだからだとしている
る闘弓などの武による器いンのが」あオフの「場 とり、「歩く」「馬に乗る」棒、いった移動や、徒手、剣、槍、 らおてれ限をとにさなポーズとるこである。これは男性役者 は「をンオフた技演な的つ打大」、つまり場面に合っ特げ徴 。67
うにたことえよるとい 性子たちが劇団の若い女舞たちに宮廷踊踊の基礎を教りの廷 元宮大規模なバサック劇団で、六〇年代には、一九五〇年代、 様、ジ劇ーケのは、踊舞ちたと廷同宮舞踊に類似している。性 一。方、女68
いて膝を出して躍る「西洋の踊り」があった 女の上演では前座で性まが短いスカートをはで代〇六九一年 。りまた前述のせのふ劇影響を受け、69
たのた際に中国活劇映画では武や叫び方を取り入れ術 一九六〇年代に映画産業が活況となっ踊の動きを取り入れた。 バサック劇の役者たちは、ら、インド舞額を赤い印で装飾し、 ンかとこたし行流が画映ドイ一にら九五五年はカンボジアで さまざまた。はにめたの工な一夫がされてき集九五〇年か客 。70
たっあもとこるれわ失が 自由度部の劇団は王立芸術大学の教員が書いた脚本を使用し、 一めたという。また言葉遣いに対する批判が起こった際には、 および語尾を柔らかく長くする話し方をや独特なアクセント、 クラオムに・ような自然なせりふ回しを取り入れ、カンプチア せりふ劇のように日常生活での会話のせりふ劇が流行すると、 。たま71
二月前後の春節の際ジャータカ物語の題材を上演し、たので、 また保守的な傾向にあっした。地方からの客は信仰心が篤く、 方る水祭りには地大からわ勢の客が上京れ行ンペンノプ都で たとえば十一月に首層によって演目を変更することもあった。 。六その他、一九は、〇年代で観客72
には中国風の要素が多いものを上演した
歌手前座として流行の歌を歌うことが多い 73。現在ではポップス
74。
三―三.音楽
楽器は大小の樽型太鼓スコー、低音域の二弦の弦楽器トロー・ウー、高音域の二弦の弦楽器トロー・チェー、大小の洋琴クム、シンバルであるチャープ、小型シンバルのチュン、小さい箱型の木魚パン
75、ラオ
76、キア、パオ、ロック
器を主に使用する 77など中国伝来の楽 代わりとしたり、呼子笛を加えたりすることもある。 現在ではドラムセットのシンバルを銅鑼の太鼓と銅鑼を叩く。 洋琴を使う。戦闘のシーンでは速いリズムで奏には二弦楽器、 歌の伴アの伝統楽器である竹笛クロイも現在は使用している。 が、ジボンカ78。ないてれらげ挙はにここい
物語が始まる前に登場人物全員が舞台に立ち、「祝福の歌」を芸能の神への感謝のために歌う。また上演終了の際には観客との別離の儀式として、観客に対する感謝と祝福をこめて出演者全員が再び登場して「月の光」などを歌う。現在はテレビ番組では、開演の歌は、数人の女性が楽団のそばで着席したまま歌うこともある。一九九三年に王立芸術大学の調査団が行った調査では、現存しているバサックの歌曲を四つに分類し、「一.純粋にバサック劇の曲」は二十八曲、「二.中国、ベトナムの影響を受けた曲」は二十二曲、「三.フランスの影響を受けた曲」は十六曲、「モハオリー
79十いてっなと曲九八かが」曲たし用利らる
80。フ 三―四.衣装 う。 これらの曲から役者が自由に選択して歌どが挙げられている。 マコな」イワハー、ュデア」「シンロ」「ンマロパ」「ワナシゴ 「マイオン」ランスの影響を受けた曲としては「タン「ワルツ」
古典的な物語では、主要な男性の登場人物である王族や魔物は、中国伝統劇に見られるようなクバン
化台舞な的 実写は合場 の性女す。 正端をさ表 け、つを色 とりきっく も唇や眉 てし粧化に は厚の粉白 性男役主 らず悪役である。 人間、魔物にかかわ役である。マントを着用している人物は、 装、たとえばアラブ文化圏風の衣装を身につけている女性は悪 ここから逸脱した衣てもカンボジアの古典舞踊の衣装である。 人間であっても魔物であっツを履いている。主役級の女性は、 全体的に中国風の衣服に革靴やブーな被り物をはじめとして、 る呼ばれと煌びやか81
粧である。主役のライバル役として登場する魔物は手の込んだ隅どりをする。人間の男と魔物の女の間に生まれた子は、この化粧を顔の縦半分にする。端役の魔物や道化役は薄く白く塗るだけである。
三―五.舞台
一九三七年ごろからプノンペンでは劇場で上演されることも多くなった。劇場は一座が所有している場合もあれば、所有者は別ということもあった。さまざまな演劇や映画が上映される劇場もあればバサック劇専用の劇場も多くみられるようになった。一九六〇年代ごろまでにはプノンペンには専用劇場が十二か所あったという
ある で的般一がのるす営 演台を上びのたに設 を舞設仮し、用使ク ラトにめたの搬運ッ 道との移動の大具等 で現在。は劇団82 83。 屋外の観客席はござ、あるいはプラスチック製の低い椅子である
はに的本基る。す用 幕使をり割き書はに 。景背の台舞84
中国風の衣装を身に付けた役者。(2006 年、撮影:福富友子氏)
カンボジア古典舞踊の衣装を付けた役者。(2015 年、撮影:吉田育代氏)
王宮内、広場、森あるいは海の三種類だが
るまズムの銅鑼、太の音、鼓た鳴れはらさが笛子呼 場面の転換には速いリあるいは上昇することで場面が変わる。 が下、降くやばす幕あ目場合もりる。観の客の前でこの書き割 村人の家の前などに代わる天界、トが描きこまれた王宮の外、 コアン、ールワッ85
にうなっている 一幕ごとに舞台の配置を変えるために緞帳を降ろすよ使われ、 劇場では書き割りだけではなく、建物や木、岩などの大道具が 86。一方、
い多がとこるあてい置が た子椅長87。かかの布つ、一机はに上の台舞っ
客席からは非常に舞台が見づらくなっていることもある。 たイク機材などが吊るされり、照明機材が設置されており、マ 野外では舞台前のセンターにマイクを持っていることが多い。 それ以外の役者はハンドの多い役者はヘッドマイクを使用し、 スタジオでの上演では、セリフ・れていることもある。テレビ 魔術を使う場面などは簡単なCGが施さたテレビ放送用では、 嵐、雷を表現するようになった。ま雨、流れる雲、流れる水、 プは。明照ジロ用ェクターを使し、88
三―六.上演のとき
一九六〇年代は切符を一座が販売していた
たしっあもろことたと 収穫物で観劇料の代わりたちは季節によっては現金を持たず、 。人む営を業農89
ので、観劇料は無料である を事の主催者が一座雇ていあげることが多い法し居芝納奉と 。で現在では地方る行われ法事の際の90
一十ろごめ初月五らか月季は、乾に合場るれさ演上で外野の 91。 あでる いたてしう化慣よ 習とのもる演すに上 後没日もてっあで内 日の後没屋る。あで
たっあで うくといがの一般的 三るのに晩晩、七続 一きじ演を語物のつ はま代年〇七九一で 劇」るであるため、 す説解「に、うよた に既。述べ92
一時間ほどで終了することもある。 重要な場面だけを演じが場面ごとのあらすじを説明してから、 司会者ビ番組としてホールでの上演を公開放送する場合には、 る。合もあたまテレ に短縮版るしてい場 るのどほ間時二が、 あのもるかか上以も 然とは依して六時間 で演公ので外野は、 現。在で93
四.おわりに
―
「大衆のための芸能」から新たな「国民演劇」として上演に集まる近隣の住民。(2006 年、撮影:福富友子氏)
バサック劇の庶民への人気の高さは、一九七〇年代、八〇年代の政府によっても利用されたことからもわかる。その効果はすでに『ナガラワッタ』において劇が庶民を啓蒙する手段になると指摘されている
94。
劇は、その演出家が高等な知識学問を持っていれば、話を書いて公演して、それを見た人に気付かせ、目覚めさせるため、あるいは心を導いて良く、あるいは悪く行動させるためのひとつの方法にすることができる。
後にポル・ポト政権としてカンボジアを掌握するクメール・ルージュとの内戦が激化した一九七〇年代前半は、政府の正当性と政策について説明するために、バサック劇を上演して村人を集めた。一か所に多くの人々を呼び集めるのには、バサック劇の上演が効果的であった
た防人々に喚起し、米の産、堤増建にじ演設いつて理修道鉄、 よをとこるあが威脅るに柄身ムの手拭いをにつけて、ベトナ として使われた。派手な衣装の代わりに黒い農民服と赤い格子 が、バサック劇はプロパガンダを人々に浸透させるための道具 伝統芸能は旧社会を肯定するものとして禁止されていたでも、 ポト政権・た極端な共産主義を急速に推し進めようとしたポル か一九七五年。ら四年近く続い95
も上演したという をどな話たげ捧を命しと落ち撃トッロイパ人カリメアてし呈 身をまた一九七〇年代にアメリカの空爆を受けたサイ同志が、 。96
たいた。全国で何百とう劇団が残ってい ッっだ劇クサ直バポト政権崩壊後後ポに登場した娯楽もル・ 。97
98。観劇料は籾米だっ た
ういとたっ従に はカンボジア的な要素を強く打ち出す傾向になり、衣装もそれ ので家国義主会社99。年その後約一〇間導続くベトナム主型
たれさ 全国一を競う大会も催局に所属するバサック劇団が創設され、 あろう。またこの時代には全国各州の州都にある州庁内の文化 100的のおそらく中国でたなれか除。取が素要り チーフオトなどによって脚本が書かれた・ティー この時代を代表する作家ら国営ラジオ放送でのバサック劇は、 内容を放送し、非常な人気を博した。これ娯楽の少ない当時、 101専さ国営ラジオではたれ演属上れ、さ。設が団劇の立
うないとたっだ気人変 大芝居小屋が作られさまざまな芝居が演じられ、ンプ内にも、 タイ国境に設けられた難民キャ・ポト政権崩壊後、カンボジア 102。一方ポル・ 体の支援によってパリで上演することもあった 民間団渡った王立芸術大学のバサック劇専攻の元学生たちが、 民かと考えられる。難なとなってフランスにいはのたっだで 103らここでもおそ。くバサク劇が健在ッ
るいてしら鳴 と警鐘を一九九六年にはすでにバサック劇は風前の灯である、 てジ『る。いくきてっなーかケなと執バれさ筆たが劇クッサ』 劇や府政もサクッバ様、間同民保組て行ち織は立しくな護の て、能芸統伝の他れをしつ場経済導入た。経済発展が進むに 一か九九三て、経を挙王ら年制数を制、党政市複さ活復せ、 とカに、も終と焉の戦ボ冷ン主ジアは国連導による総選東西 104。 る者バサック劇の役たちが危惧してい ナム政府がベトナム国内の一民族の伝統芸能としてしまう」と 105。後二〇〇一年には「継ベ者問題が心配」「ト
と上人がいないので演れの機会がない」るくげ上い雇」「たて 「生活苦のためバサック劇の役者からコメディアンに転身しは 106二さらに。〇一三年に
いった役者の意見や「バサック劇は年寄りのものと若者が誤解している」という王立芸術大学教員の意見が出ている
る放制作、に送してい 伝統芸能を紹介する番組を定期的や複数の民放テレビ局では、
TVK
らビレテ営国かしこ〇〇〇二と、うよ年開打を況状の 107。 をこなす子どもが登場している 掘するための視聴者参加型の番組もあり、バサック劇の魔物役 108芸子芸術発をもどる能あ。才で野分能ていたことなのである 新しいカムボジャの喜劇は生まれて来るのである」と語っそ、 想な作品が、新しい喜劇者の役像くこ力時る蘇にして得を新 わこ「ず、らにかも」るがれか分在解用不の器現れ、さ化し消 一いなの全統然ポが「レ素要諸か混らあ物合できべく驚るな バサック劇の真骨頂であろう。これはまさにかつてくことは、 極客の嗜好を積い的に取り入れてと観きこの代時にうよの動 られるような現代小説をコメディタッチにしたものもある。 『パイリンのばら』ある。またのように国語教科書で取り上げ はて以るい外し用使てえ般一ッ的同で成構な様のと劇クサバ 弾力性をイメージさせる効果音を打楽器に加リフに取り入れ、 フェイスブックといった現代的な要素を小道具やセ携帯、ら、 アンを多用している。古典物語と思われる舞台設定でありなが る。バサック劇のプロの役者を数名入れる他は、人気コメディ クな劇風コメディというようい新打たし出ちてをなンャジル
MYTV
と象対を聴視者若たしでテレビ放送は、バサッまた 109。メコンデルタ局が民族文化のひとつと認めて後援している他、 クメール民族芸術歌舞団があり、省ソクチャン市には、省文化 ムべベトンャチクソく。おて述国も況ナの劇クッサバの内現 110。 公いとるいてっ行もに演の全へ国中や、演公回巡ので域う
各地を巡回しているというので、 が開催される「村の演芸祭」村と村人たちの安全祈願のための る。をしてい乾特に公季には、演の一以回〇〇一に年上え、抱 プロティープ一座は、現在五〇人の劇団員を・省のリアスメイ 一方、民間の一座もある。一九六三年に旗揚げしたソクチャン 111。
」要がらそれらのも、素融合せず、共存が「 の化文能芸やムナトベ国カにをンボなぜ混にみ巧素要のアジ バサック劇は中た一般庶民はバサック劇を熱狂的に支持した。 一方確立させようとした。の読者層ではなかっ『ナガラワッタ』 けその読者層は洋の影響を受西た民せてしと演劇国を劇ふり ジのア人としてえ民族覚醒を訴た。ンボカいならなはてっ劣と で野分政行や内分済経の国野る台ベに人ムナ頭トや人国中す ッは、で』タのワラガナ『ラフ護ン保スのもと、カンボジア 演技、音楽が洗練され、大衆演劇の感が薄くなっている。 劇場でのバサック劇での公演を公開放送している。舞台装置や
VTV CANTHO
ー都市でのあるカント送市のテレビ放局では、 ベトナム南部メコンデルタの最大はここでは上演されている。 ク劇の演目ではない、「リアムケー」カンボジア版ラーマーヤナ 112カンボジア国内ではバサッ。ド ベバサック劇は現在、「中と国トのッリブナハイラペオのム 柔軟性、という五点である。 ⑤形式にとらわれない④金属製や木製の打楽器の使用、化粧、 ①喜劇、③特殊な②フオンの演技、本稿で整理してきた、が、 サ劇った。その過程でバックのて特徴として精製されたのい 113し容変ままたし
114りクンパなーキーナア、はよ、ういとラペオ「はいるあ」
115
と欧米人に評価される。上演中に観客が自由にしゃべり、食
べ、動き回ることが可能なであることから、地方におけるソーシャル・マス・イベントであるといわれる
たっかなれさ持 劇をかつて国民演劇と規定したが、結局時代を経て国民には支 伝統芸能としての側面を持てないエリート主義的なせりふは、 116。層人識知や府政 るナさせるものであナショり、リるなズとこにす発誘をム だがバサック劇に関する言説はベトナムとの関わりを意識る。 しあつつし価評再てとバ劇での劇サックを空新たな国民演間 117スそして今、劇場や。タジオなど制約の多い
これについては稿を改めたい。 118。
謝辞
本研究をすすめるにあたり、坂本恭章本学名誉教授による『ナガラワッタ』の日本語訳を使用させていただいた。またカンボジア語資料に見られた中国語起源と推測される単語については、本学の川島郁夫教授にご教示いただいた。ここに感謝の意を表す。
註
カンプチア、クメールを使用する。 カして用するが、引用文献に従って使ン味ボャ、ボムカでジ意ジ様同とアの 族民はルーまメクたる。あでで名ンある。本稿ではカボジアを主と可能も カジボジア語、カンボジア人、カンボアと文化というように使用するこン 1はカタカナ表記ではカンボジアが、い名として使用されることが多国
2វប្បៈិល្្រាវស្រាវជសមាការៈកម្. គណរ្មខែាពភីយន្សទសវិល.ំក្រ្រទុេជព បធម៍. ២០០៣.
KH> 1&topic=mp&cp=g/culture/ich/index.php?lg=en&pg=0031.unesco.or<http://www UNESCO, “Latest News and Events” , erie.tag3Hle tanIndiaboamCgib (最終閲覧日:二〇一五年十一月二十四日)
4ポレ、グイ「第六章」、
1『カムボヂァ民俗誌
: クメール族の慣習』
グイ・ポレ、エヴリーヌ・マスペロ共著、大岩誠・浅見篤訳、生活社、一九四四年。
としている。 静舞踊が「身振りの退な連続、その屈か情なあで」顔なる表無し、返り繰 い説明されて対るのに的し、宮廷に意好は劇喜のこる。いてれさ及言てし 5」ッ同書の二九四頁では、「バサク劇劇」という名称でとなく、「喜は Brandon, James R., , Harvard University Press. 1967.6Theatre in Southeast Asia ことを目的としていた。 扱宗教、歴史、文学、言語どの分野をない、識読す給供をる知広幅に者い さ定期に刊行るれてい雑誌で、も不在九一二頁によると、九現二六年創刊の 7八代笹川秀夫『アンコールの近』八中央公論新社、二〇―六年、〇
. Reyum.ceenndpe , in e-nd8f IureultC១៩៧១"ការស្រាវជ្រាវអំពីល្ខោនខ្មែរ" លីធាមតេង. s o 9ពេជ្រទុំក្រវិល. យីកេ និង ល្ខោនបាសាក់ សាកលវិទ្យាល័យភូមិន្ទវិចិត្រ
សិល្បៈ, ១៩៩៧.
10 ែរ្ម្រីខន្ដៈត្បិលុំវិញស់ជលយង្វែសម៉ៅ ភឿង . ១៩៩៨.
pp.321-372. Publishing. Culture International Pékin: 0thinch ction in Asia (17-2rie centue fs).es ed.: SALMON, Claudine in centuries” 20th the and nal mLiteraryigrations: traditio 11 . 1987. “Chinese literary influence on Cambodia in the 19thKhing Hoc Dy 12 Ly Daravuth and Ingrid Muan. . Reyum. 2001.Cultures of Independence 13 Gaston KNOSP “Le théâtre en Indochine”, Anthropos, 1908, pp. たとえば
280-293.では、カンボジアの演劇として「シャムの影響を受けた宮廷舞踊」のみを紹介している。そのほか筆者未見ではあるが、DUPAIGNE, Bernard. “Renouveau du théâtre Bassac”, Cambodge, samedi 28 février 1970, p. 3. (revueen français éditée à PPenh), Anuwat, “Le théâtre dans la vie khmère”, Anuwat, N° 4, Paris, 1977, pp. 17-23.がある。一般書としては遊佐たいら『スーはきっと踊りつづける
―
カンボジア舞踊家イム・キムスールの半生』工作舎、一九九九年、がある。同書はバサック劇の役者を目指していた女性、イム・キムスールの半生について書かれている。キムスールは、一九六〇年代末の中学生の頃からプノンペンの王立芸術大学民族舞踊学科でバサック劇を学び、一九七三年から同学科の学生一〇人とともに台湾台北市にある国立台湾藝術専科学校、および京劇専門の内湖国立復興劇校で合計に留学した。カンボジアがポル・ポト政権になったため、混乱のため帰国できず、一九七六年にはフランスに難民となって渡った。14 basaklakhaon you tubeるた。し用使をのもれいてさ載掲には料資像映、 lakhon basak,ល្ខោនបាសាក់のいずれかで検索すると、それぞれ約二万件の結果が出る。これらは大きく分けて映像資料、音声資料がある。前者はテレビ番組、野外上演の記録、後者はラジオ番組の音声、劇での挿入歌である。テレビ番組にはベトナム、カントーのVTVCantho、カンボジアの国営放送
TVK、民放のCTN、MYTV、SEATV、Bayon TVで放送されたものが多い。野外上演の記録にはカンボジア国内、ベトナム国内、またアメリカやフランスなどのカンボジア人コミュニティー主催のものがある。これらの映像、音声資料はいずれもすべてカンボジア語である。本稿では、VTVCanthoの映像も含めて使用した。
15 Ly and Muan op. cit. p.95.
二〇一四年、二七八―二八〇頁。 16 高有会、版出術学学大都京』地所田大のタルデンコメ子『洋土
17 同書、九五頁。
今書院、一九九四年、二八〇頁。 18 大の古』族民アジボンカの中ナム橋ェヴー『リアメン・ロト利、久ト 日) > .vn/wps/portal/cema/ethnic/ cema.gov(最終閲覧日:二〇一五年一一月二十四 <http://は万一一一ー人ル千メク二人二八六い人と推定されている。るに内 19 ムのベトナムの少数民族委員会二ナ〇国〇年の発表によれば、ベト一
一九九三年の時点で四五〇寺院あったという。 20 大れで表発の府政ムナトベば、よ橋・)頁六七一書、掲前ン(ロトに
21 同書、一八六頁。
政区分の領域概念をそのまま持っていた人もいたという。 ク中には、仏領時代以前のスロッや者プムといったカンボジアの行の齢高 22 ルよ高田(前掲書、三六九頁)にれーば、人九九六年調査時にクメ一 一八七二年建立された。 ヴ九年、一六二頁によると、チャィ〇ン省のホアトゥアン村にあり、〇二 23 書フ高田洋子、『メコンデルタ―ラ宿房、ス植民地時代の記憶』新ン
24 ពេជ្រ, ១៩៩៧,op.cit., ទ.៣៣-៣៧.
なった話題を題材にして上演し、庶民に好評を博した様子が描かれている。 のベトナムの共産主義下組織が旅地一間に座ざり取でた巷当り、あで時、 )一九九二年見にもられる。ナ』(シドンイ画『映の演主ヌーヴドヌ・ーリ 25 カ年この一座の様子は一九三〇代たの仏領インドシナト舞台としを
26
「ヒー」は中国語で「劇、
芝居、曲芸」を意味する「戯」から来ており、カンボジアでは、中国の演劇はすべて「ヒー劇(ルカオン・ヒー)」と称すると考えられる。
アの詩と芸能』赤松紀彦編、幻冬舎、二〇一四年、一三三頁―一四三頁。 27 清」『ジア南東ド、ンイ島、半鮮朝能水のムナトベ介「亮澤伊明、政芸
28 同書 29 , ., pp.95-96.លីop.cit バサック劇団の座長、俳優として有名であったとしている 生まれでメコンデルタ出身のトロン子ども時代からは、ミアリーによると、・ Kron呼ば一れていた人物と同考だとンえられる。一九四一年とロー・クサ 30 Xa で四大橋・トロン(前掲書、三頁二タ)よると、メコンデルに
。 年ではなく、一九世紀であるということになる。 カくなったという指摘があ最初にる。ンた〇三九ボはの一れ演上でアジさ でが宮中れ上演さなク劇ッ一)八四〇―一八六〇のサ統治下において、バ 31 位)笹川(前掲書、二五八頁に王(よると、アン・ドゥオン在
32 現在のホーチミンの、カンボジア語名。
, , ទ.៦៣t..ciopម៉ៅ)。した船の上が舞台となっていたという( 33 プき一九三〇年当時は、泊停に場船着ノの前寺ムナウ刹名のンペンロ 34 ពេជ្រ,២០០៣, ទ.១៤៣-១៤៤ 35 , ,ពេជ្រ ១៩៩៧op.cit.ទ.៨ 36 , ,ម៉ៅop.cit.ទ.៥៦.
37 , ., .pp.93-95លីop.cit 38 ., pp.96-99Ibid ことを掲載している。 ポ会のテアトル劇の団たちがコン員ン活チ得を金資動たて、演公でムャし 二十五第日九十八月一年三九一号六ソで学は愛友業卒校生等シ中トッワ高 劇喜がちたで生学祭ナィ演をれじたことが掲載さている。またカテたっ行 学員なと心が教職て生、学の校等っ中カイ・でン寺ープスレプの州ルーダ 内中の一唯の時、国アジボンカ等教育機関であったシソワット中高は、当 39 日たとえば一九三七年一一月六で事四十四号『ナガラワッタ』の記第
40 , , pp.96-95.លីop.cit.
兵
―
体身の〟民国〝代藤近たれらじ演己『裕と 性や自己同一性を秘儀的に表象する」としている。 的フ機危に誕生する新たな演劇的パォ状ーマンスが、『われわれ』の共同況 フォ五ーマンス』岩波書店、二〇〇年、や九十一頁でパ「社会の変動期は、41 Ly and Muan, ., p.69op. cit たことを示している、と指摘している。 劇と記述されていることら、舞踊とかがれっこにうよるなさ区で点時の別 踊」ムバロり「誤に、」表正「全をすて「訂ルうよる正にに劇ン(オカ)」 記の三-一の載事に掲された〇号三た七ていが、一九第三年七月三十一日 す味意を」り踊で「まれそロる「味バム」が「劇」の意注に使用されで、 42 の『一九三七年三月六日付十一号のでガラワッタ』の二-二の記事ナ
43 ポレ・マスペロ、前掲書、二九四頁。
見たことはない」と答えている。 ビューに対し、「バサック劇など若い女性が見に行くものではなかったので、 44 二月一九タンイの者筆たっ行に八六年一〇二は、性女のれま生年五 45 Ly and Muan, ., p.117.op. cit 46 ., p.124Ibid 47 , .,ពេជ្រ ១៩៩៧op.citទ.៤៦ 答えている。 シ通の」ではなく、三輪自転車タク人ー働のとっあで者た労車肉どな夫体 劇観で場劇専設常用劇クたッし見ことがあったが、に行くのは「普バサに 性の二〇一五年八月に行った筆者イ代ンタビューに対し、一九六〇年は、 48 の一九五五年プノンペン生まれ女る保健省勤務、および薬剤師であ元
49 ポレ・マスペロ、前掲書、二九五頁。
50 チュット・カイ
版会、二〇一四年、三九頁。 『憶訳、出学大語国外京東子の追田岡』アジボンカ知
51 同書、四〇頁。