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会津若松城下 : その歴史と文化 : 第四十二回 Neesima Room企画展公開講演会

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会津若松城下 : その歴史と文化 : 第四十二回 Neesima Room企画展公開講演会

著者 野口 信一

雑誌名 同志社談叢

号 34

ページ 201‑214

発行年 2014‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014161

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二〇一会津若松城下 その歴史と文化 第四十二回Neesima Room企画展公開講演会「会津と八重―八重を育てた故郷を語る―」

平成二十五年六月十五日土曜日  於  良心館地下二番教室

会津若松城下   その歴史と文化

野 口 信 一

皆さん、こんにちは。昨日は朝6時に家を出て、日本海廻りでやって参りました。福島県を出て新潟県に入った途端、列車がストップしてしまいました。なぜかと思いましたら、カモシカと衝突、ということで

月」が線戦の辰戊もの上重八「マ、ラド河大北桜いがた6の次城、落本二松放の日明て、しま送し と思います。 3資料をご枚ほどます。話い思といたげ上し申し意用ちいもたいたきだたいご時随覧方ののましたしで、そら 末会津の精神性、それから幕おの文化、こういったことをしたまなまいテーマとみりすので、今回は八重を生 でこと史お話し申いう今と化と歴の津会は、日上し文げとまに常非と、すまいい広化文と史歴も、どれけす 結構いるようです。 が自然こ豊かなとはり境県た。しまたあが過経で、ろ念カで遅も物動な重貴が、す物モ記然天とういとカシれ 15どほ分 23日第 から、前半のクライマックス鶴ヶ城籠城戦に突入して参ります。 25話

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二〇二会津若松城下 その歴史と文化戊辰の戦いで会津藩は3000人を超える戦死者・自刃者を出し、最後降伏開城という悲劇的な結末に至っております。その戦争に至った要因の一つに、会津藩主松平容 かたもりの京都守護職就任がありました。歴史に「もし」はありませんが、この守護職を受けなかったら、白虎隊を始めとする会津の悲劇的な運命は回避できたかもしれません。その守護職受諾の元となったのが、初代会津藩主保科正之の定めた家訓でした。会津藩では家訓と書いて、「かきん」と発音いたします。横長の資料をご覧下さい。最初に系図を記しましたが、正之は徳川家康の孫、2代将軍秀忠の子になります。秀忠の奥方お江 ごうは、おととしの大河ドラマの主人公でしたが、正之はお江の子ではありません。江戸城大奥に奉公にあがっていた元北條家の家臣神尾伊予の娘、お志津の子として、江戸市中で密かに誕生いたしました。お江に正之の存在が知られると、命も危ないということで、その誕生は極秘にされておりました。恐妻家の秀忠は、正之を正式には認知いたしませんでした。正之は武田信玄の娘・見性院に匿われておりましたが、7歳の時、元武田の家臣、信州高遠藩主保科正光に養育されることになり、以後母子ともども高遠で生活いたします。その後、保科家を継いだ正之は、腹違いの兄3代将軍家光の知るところとなり、高遠3万石から、一挙山形 20万石、さらに1643年

23万石の会津藩主に抜擢されました。

260くらいある藩の中で上から 23万石でも幕末時点で全国 19番目、東北では仙台伊達

るしえいもと法憲の藩津会て、対に士藩や主藩年、晩は之正 62万石に次ぎ第2位の石高になります。

言うものです。 い家徳軍、将はと君大うで指ここた。しまりなと元を川しにとせく尽を義忠て忠勤、家徳りまつす。まり川お 争辰戦がの悲劇の戊れここそこ条一第のい。津さだく覧ごを会藩資にで、のもたし示確の明を方りあ場、立料 15す。かからなる家訓・きまんを制定いたし条

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二〇三会津若松城下 その歴史と文化 普通、家訓というのは家の掟、教えですから自分の家を守れ、殿様である会津藩主に忠義を尽くせというのが常識です。ところが会津藩の家訓は自分の家はさておき、本家である徳川家に忠義を尽くせというものです。しかもほかの藩を見て判断するな、さらにもし徳川家に逆らう藩主・殿様が出たら、それは私の子孫ではない。家臣の面々は決してそれに従ってはならない、とまで記されています。それほどまでに徳川家を大切にした家訓でした。これは自分を引き立ててくれた家光への恩もあるでしょうが、正之は腹違いとは言え、家康の孫・徳川直系ですし、4代将軍家綱の叔父として、未来永劫にわたり会津藩が幕府を支えていかなければならない、という気持ちから作られたものでした。この第一条を元として、9代藩主松平容保は、越前の松平春嶽やのち最後の将軍となる一ツ橋慶喜らに、執拗に攻められ、京都守護職を受諾せざるを得ませんでした。この時、守護職辞退を進言したのが家老田中土佐と西郷頼 たのですが、来週 は、非こる得を価評い高常ど、になさ高の識意の備警とにな2りか年0181後、年らのこそした。まれにより せと視検が、たししでんこまりあそ決対のとア同て藩行のしし厳の律規力、事軍さ、た会ら、か人役の府幕津 佐田中土たの先祖に治は5政の際実歳、かずわは衆あシる、お家は時のこた。しまりロて行が宰玄中田老・っ なかはる 士の藩と、らが、樺太名た0061めの衛防のそ夷蝦いのし容の主藩時のこた。ま宗向にどな島尻利岬、谷 許可されず、その腹いせに日本人の番屋や船を襲っておりました。 が、た主松代時のし衆の容平警す藩代7す。まりま始でが、備貿まりおてめ求を易のこと本日はアシロ頃のに ひろかた 0な2らか今は、のたっにとけかっきるれら知年5夷(前北太の樺北、のそと道海)8の藩津会年、80蝦1 藩と、会津との家柄いう白とかのたっ立が矢の羽力・武世軍でが力武の藩津た。し会らてかをあ力にされた事 ごといたきだたい覧ので、のすまし場登が母頼い思かまかに、に、藩津会たれ離に遥す。ら都京ぜなはでれそこ 19日NHKの「歴史秘話ヒストリア」

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二〇五会津若松城下 その歴史と文化 学校での教育は がのばなりません。偏に数字人十書きますが、大凡人数と 町ど子の内にず必と、るなたもけちのグループ・什に入らな6れ歳がすたた。侍の子どもち、男の子だけでし じゅう 10りで以齢年のそは藩か津会が、すでらか前ら、お教てっ行をま育歳侍てしと人て、しとの

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二〇六会津若松城下 その歴史と文化い道であり、嘘をついたりだましたり、人の道に外れることはしない、という精神であります。この「ならぬことはならぬ」は、八重の会津人としてのバックボーン、精神的支柱、ともいえるものでした。八重の籠城戦における正義の戦いであり、忠義の戦い。京都においても、自分の信じる正しい道を突き進む、という生き方につながります。他にも日新館では5代藩主松平容 頌の編纂した『日新館童子訓』という重要な教科書がありました。本文は忠義の侍、親孝行の子、夫や舅に尽くす婦人などの物語・実話の本で、道徳教育の副読本ともいえるものです。その序文は「それ人は3つの大恩ありて生をとぐるなり」で始まります。3つの大恩とは、自分を産んでくれた親の恩、生活の糧を与えてくれる殿様の恩、そして色々な知識を教えてくれる先生の恩を指しております。八重は7歳にしてこの長い序文を暗記していたそうです。このうち侍にとって一番大切なものは忠義にありました。侍は、自分はもちろん、家族を犠牲にしても殿様を守ることに命をかけておりました。日新館は男子の学校で男女共学ではありません。八重は学校に通うことはありませんでしたが、童子訓は藩士の各家庭にも配布されましたので、躾とともに、これを徹底的に教え込まれておりました。女性は学校で学問を学ぶことは出来ませんでしたが武道、とくに薙 刀は奨励され、女子による対抗試合なども行われました。では教育はどうしていたかというと、武家の女の子は7歳位から各家庭で読み書きを習い、9歳頃から糸紡ぎ、

12、 義火看の人病や事炊消、の鉄弾砲に、敢勇に以男の護、上砲まの忠る対に様殿た。しすりりたつ弾くなどにあ の間月ヶ一際、の争す戦辰戊が、で妻な城淑籠臆戦る順、み並く、なとこすにはちた性女て、いお貞従段普は 自害の仕方なども入っておりました。これには自刃、家の婦女子としての生き方などを厳しく教え込まれました。 そ教せまれらけ受は育れのどほでれずいが、すんたしや武い、舞る振居ち立躾た。育、教庭家分、のそだいま 3習裁す。まい習を縫り、福織機らかろこ裕なを雇歌和や道書いを家師教庭家はで歳

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二〇七会津若松城下 その歴史と文化 というのは女性や子供も同じ、第一番のものでした。八重も籠城戦にあたり「主君のため命の限り戦う決心であった」と述べております。これが山国会津という風土の中で、愚 直、愚かな程真っ直ぐな心が醸成され、さらに進んで頑 がんめい迷固 陋、頑固で融通が利かないと言う精神性が育まれて参りました。この会津藩士の精神性の元となったのは、正之の家訓もありますが、実は今に繋がる会津の精神性を確立したのは、先程の5代藩主時代の家老田中玄 はるなかといえます。田中家は代々家老の家柄ですが、玄宰が家老に就任したのは りよ代時の宰玄は す介しまし資料とご紹くをかつ会いのそは日今て「が、津用れ名た。しましたい意こを」付類聚物という番 会津の伝統産業の殆どが、玄宰の創設、また復興したものと言っても過言ではありません。 た。をそこで殖産興業す奨励致しまが、今日、ましり宰ば、お玄は民が豊かにらねな藩繁て栄はないと考のえ っに渡まておりの面向て全どな化文業、産罰、刑そす。まのでが、すまりおでん及教改に上の活生民庶は革育、 34経済、政治、次々と改革を実行して参ります。それは軍制、歳の時でした。玄宰は藩主の許しを得て、

ののかう合に味地の土どりに、のるえ植を種てめ図地難かい。も、てえ植に地土なそずかわしば少り買って、 くに量大にな種んこり、役っびは人たれ渡を金買をさっまて初宰玄とるすた。しは「ねどに宰玄かのるすう尋 入しのした。そら金購く、か雲出を種べすに物が産額ま今いのな莫た。しで金大う大と円万002と何でお金 して、が大変値段と病薬く効に万分、のそく高の貴人ま特の津会を参こ重は宰玄た。しで物なす。しも年5要 ん。あ津会も在現せまりのはで雲、もるきで培栽も出と長蒔~年4でま穫収ら野きか種かしのけ、だ所ヶ三も 用て薬と人参の効能しも薬方漢昔も今参。人用薬よはれく地知でどて、しまび選をこ土りはておらます。人参 の出と参人に央中て番元進勧下、一央、中のそりお通ま参まん。せまりあはで人す。の普論勿は参人のこす。 50り八番の代時の重度で丁代、時の後どほ付すお産てれさ記が品特が、産、名の方地津会年

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二〇八会津若松城下 その歴史と文化成果は分からず、時間もかかるし、それが無駄になるかもしれない。それより一度に会津中に種を蒔けば、どこが栽培に適する場所か分かるに違いない」、と言って実行させました。ともかく玄宰の行うことは大胆にして細心、用意周到で発想が非常に豊か、しかも柔軟でした。前例踏襲が当たり前の時代にあって、こんな真似は中々出来ません。その後、人参栽培は成功をおさめ、清国(中国)へ輸出されます。この人参を一手に引き受けたのが、現在の兵庫県山東町出身、長崎の人参商足立仁 じゅうろう郎でした。仁十郎はこれで莫大な利益を得ましたが、仁十郎は栽培法、製造法までよく知っており、一年おきに会津に来て技術指導なども行っておりました。会津藩では城下に人参役場を設置、ここに人参が集められ、800石取の人参奉行以下、大勢の鑑定人が等級を判定し、製品化がなされました。資料に人参役場の絵図を出しておきました。一代で莫大な富を得た仁十郎は、会津藩に多額の献金も行い、500石取、若年寄格という高い地位を得ます。会津に来る際は、お土産も持ってきました。よく知られるのは資料に出ております、戊辰戦争、降伏式の際に敷かれた赤い毛 氈。緋毛氈ですが、この毛氈は式の後、小さく切られ、藩士らがこの口惜しさを永遠に忘れまいと、泣 きゅうけつせん血氈と名付けられました。もう一つ、仁十郎が会津にもたらしたものに凧があります。絵図を出しておきましたが、唐人凧といわれております。唐人と言ってもイスラム系の顔をしており、形もかなり変わっております。八重の桜でも、これから籠城中の城内で子どもたちが凧を揚げるシーンがありまして、この唐人凧が登場します。舌を出しておりまして、ベロくんだし凧とも言います。まるで敵を馬鹿にしたような凧ですが、この凧を揚げた子どもの一人が、山川咲という女の子でした。山川大蔵、健次郎の妹です。維新後、アメリカ留学から帰った咲、改め捨松は、

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二〇九会津若松城下 その歴史と文化 薩摩出身、のちの陸軍大臣大山巌と結婚、鹿鳴館の華と謳われます。ちなみにドラマにおいて、大山巌は籠城戦の初日、八重のスペンサー銃で撃たれ、足を負傷いたします。再び番付に戻りますが、番付上段右側、関脇に本郷瀬戸が出ております。本郷は会津若松の隣、以前の会津本郷町、現在は会津美里町本郷と変わりましたが、古くから焼物の町として知られます。現在は

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二一〇会津若松城下 その歴史と文化今でも年中売られておりますが、今の季節がピークとなります。このニシン鉢ですが、民芸の柳宗悦や陶芸家・河井寛次郎らの目に止まり、昭和 成平たれさ表 おも在現が、す名有が酒会は津年す。まりおて出が毎で全を発国先す。まりおてめ収月績会成鑑評ので優秀な ももに付番のが、すでのおきつは酒にけ漬椒山つ幾こか2お美清酒銘に央中目段川側す。ま酒りおて出が右 ちの医者くらいと、詠んだ歌です。 促の催は、で払うの目位れ回2もでそす。ましたがい気く小徒さ金む住に丁長町之持か、で者面目真律儀な婿 弥があります。貧乏なケ太たちはツで買物を狂歌う度弥二い目くらいで払のは、う太でと」で医者丁長者、婿 「ニシンかか、という本が伝えられます。その中に資料に出ておりますが百首俗解」之町生態を狂歌に詠った「徒 ちた女の歩後越はのたいシり売に下城をンニのこしで性た。太会の太てし略、進の弥弥称通士、武級下津の藩 しん 津ではせ取れまん。会でんろちもがすンシニ夷、の蝦を北海す。まれば運に津会て経潟新後越がンシニの道そ しまして、一躍その名を高めました。 33賞国のベルギー・ブリュッセルの万博受において最高賞のグランプリを年

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二一一会津若松城下 その歴史と文化 次にご紹介するのはこれも昔からの特産、東西の大関・会津蝋燭と若松塗物、漆器であります。実はこの二つ、密接な関係を持っております。漆器の塗料は漆、漆の木に傷をつけて採取します。会津蝋燭はその漆の実を材料とします。蝋燭は織田信長に献上した記録も残っております。その後はときの領主から朝廷や幕府への献上品とされ、江戸城では1月3日の謡い始めの時、300目掛け、大きさは不明ですが、かなりの大きさの蝋燭が灯されておりました。また今はありませんが細工蝋燭として、筍型の筍蝋燭、筆型の筆蝋燭なども作られておりました。玄宰の時代、漆の木は180万本にも達し、その収入は米に次ぐ位で、漆の木の戸籍も作られ厳重に管理されました。自宅の木でさえ勝手に伐ることは禁じられる位でした。蝋燭は会津の特産ではありましたが、江戸中期頃からハゼの実を原料とする、安価な蝋燭が西日本で製造されるようになり、価格面では全く勝負になりませんでした。蝋燭は高級品であり、武家であっても日常は中々使えません。当時の灯は油、ナタネ油などが主に用いられておりました。今は漆の木も少なくなり、漆蠟からの蝋燭というのはとっくの昔に途絶えております。もう一つ、番付左側2段目に絵蝋燭が記されます。これは今も会津の土産品として知られます。この絵蝋燭の起源ですがはっきり分かっておりません。文献上では玄宰の時代、文化年間の風俗帳に出て来るのが今の所、最初となっております。絵蝋燭は冬の季節、生花の少ない時期、仏壇にこの絵蝋燭を備えたことに始まる、ともいわれます。一方、漆器ですがこれも起源は分かっておりません。最初にお城を築いた蒲生氏郷が故郷、近江国日野、近江商人、日野商人で有名な所ですが、ここから木地師や塗り職人を連れて来たと言われますが、もちろんそれ以前から漆器は作られておりました。歴代の領主の奨励もあり、会津漆器の名は高まって参ります。ここでも

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二一二会津若松城下 その歴史と文化玄宰はさらに技術の改良、発展を目指し、京都から蒔絵師を招聘、領内の職人に伝習させます。これにより会津漆器は一段とその芸術性を高めまして、玄宰は海外への輸出を考えました。1802年幕府に交渉しまして、長崎在留のオランダ人や中国人に売り込むことに成功いたします。この結果、金蒔絵が施されたお盆や重箱、煙草入れなどが輸出されております。その漆器の素材である木地を挽くのが木地師ですが、番付右側3段目の右に南山材木と記されます。南会津地方が有名ですが、ここ以外からも城下に送られて参ります。漆器というのは漆を塗る前に下地を施す必要があります。これを行ったのが先程の下級武士、弥太之進たちでした。弥太たちは下地仕事や米撞き・精米ですが、内職をしないと暮しが成り立ちませんでした。先程の狂歌の隣に「彼岸中あてにするなと七日町  五 の問屋に弥太が断り」と出ております。五器といいますのは五器椀というお椀の、塗り下地を削る弥太の内職ですが、お彼岸の最中は内職などとても出来ません。何故かといいますと、春の彼岸、城下には近郷の村から彼岸獅子という男獅子、雌獅子、太夫獅子の3匹獅子に笛太鼓の集団が何組も訪れます。弥太たちはこの彼岸獅子が何よりも大好きでした。彼岸中は毎日朝から晩まで、応援団として一緒について回りますので、とても内職などしていられません。弥太にとっては正月よりも大切な行事でした。そこで彼岸中、内職は出来ないと、七日町の漆器問屋に断りを申し入れる、律儀な弥太でありました。同じく「からうすの米撞き賃の値上がりは  春の彼岸の七日なりけり」という歌もあります。米撞きも弥太の内職の一つで、この期間は人手不足で、米の撞き賃も値上がりいたしました。八重の桜でも前に彼岸獅子が登場しましたが、来月7月7日第 ヶ機ていた山川大蔵隊は、お城の危をた知り急遽戻ります。ところが鶴っ当まお衛防の口光日境・国す。にり 27のタ岸イトルが「彼話獅子入城」とってな

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二一三会津若松城下 その歴史と文化 城は既に敵に囲まれており、入ることが出来ません。そこで大蔵はこの彼岸獅子を先頭に立て、正々堂々、敵の意表をついて包囲網を突破、見事入城を果たします。これはウソのような本当のお話です。彼岸獅子は農民の郷土芸能ですが、この時命がけの入城であり、維新後これを称えた旧藩主松平容保は、葵の紋のついた頬 掛けを特別に与えております。北会津、小松の彼岸獅子で、今も毎年3月お彼岸に市内を回ります。彼岸獅子は先祖の供養のためのものですから、文化年間以前はお盆に行われていた記録があります。その後、春の彼岸に変わりましたが、その理由は判明いたしません。恐らく、夏では獅子の面を被って踊るのは暑くて大変なこと、また秋の彼岸は農作業で忙しいためと思われます。他に番付を見てみますと、武器武具関係も多く記載されます。上段右に下坂の槍、左には長道の刀が出ております。下坂というのは姓・苗字、長道は三 善長道と申します。会津五鍛冶、城下の鍛冶職・五本指の一つに数えられます。両家とも四国・伊予松山の出身で、加藤嘉明について会津に参りました。会津藩の武士にとって、この長道の刀を持つことはステータスでもありました。刀に関連しまして、番付中央下段に正 阿弥 が記されます。これは刀の鍔をいいます。会津正阿弥と称され、藩内はもちろん全国にも知られておりました。金の象嵌が施された精緻な鍔も残っております。ほかに煙 管や金粉、金箔の製造なども行いまして、領外からの優秀な技術の積極的な導入により、良質の手工業製品が作られ競争力も増して参ります。玄宰は販売に耐えうる製品の増加により、販路拡大のため江戸中 橋槇 まきちょう、東京駅・日本橋の近くに、その専売所ともいえる産物会所を開設しております。1793年でした。今のアンテナショップの超草分けといえます。ここで扱う商品は漆器、銅細工、煙管、薬用人参、蝋燭、麻、紅花、干蕨など多品目に渡りました。先ほど今日、

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二一四会津若松城下 その歴史と文化東京から来て福島県の物産の販売が行なわれていると紹介されておりましたけれども、現代のアンテナショップ、福島県八重洲観光交流館というのが、東京駅近く、八重洲冨士屋ホテルの手前にありまして、名産特産品を販売しております。玄宰は1808年、

どうもありがとうございました。 お話申し上げました。ごく一部ではありますけれども、主に精神性と文化面につきまして、会津の歴史、れども、 霰こるれまこち撃と砲雨が、弾にし指目を城ヶとしなわけたしで間時なかずはっ日今た。しまいまれ、て鶴か す。立まりおてし存現れさ建たが墓に頂山の山田小敷だ城のが陣砲の軍西に腹中山戊田小のこ際、の争戦辰東 61との遺言により、「長くお城と日新館を望み得る所に葬れ」歳でその生涯を閉じましたが、

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