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著者 大谷 祥一

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中世初期アイルランドにおける王国の諸相 : 『ア ダムナーン法』の王のリストから

その他のタイトル The Relation between Ui Neill and Munster in Early Medieval Ireland : Munster Kings in the Guarantor List of Cain Adomnain

著者 大谷 祥一

雑誌名 史泉

巻 111

ページ A17‑A29

発行年 2010‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023699

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中世初期アイルランドにおける王国の諸相

──『アダムナーン法』の王のリストから──

大 谷 祥 一

は じ め に

8世紀から14世紀にかけて,アイルランドでは,歴史上の出来事を記したという体裁で,多 くの物語群が書き記された。それらの物語の中では,古代のアイルランドを舞台に,伝説上の王 や戦士たちが,華々しい活躍を見せている。歴史物語群における王たちの多くは,強力に王国を 統率し,まさに英雄的な人物として描かれている。しかし,それら英雄的な王の姿は,あくまで も中世に書かれた物語の中でのものであり,それが事実であったわけではない。実際,古代のア イルランドでは,トゥアスtúathと呼ばれる部族が社会を構成する基本単位だったと考えられて いる。トゥアスは,およそ3000人程度の人口からなる,血縁に基づく氏族共同体であり,その トゥアスを統べていたのがリーríと呼ばれる王であった。しかし,王とはいっても,統べてい るのが3000人規模のトゥアスでは,王というよりも,むしろ部族の長とでもいうべき存在であ った。

さらに,アイルランドにおける王の特徴として,王位にも地位の高低があることが挙げられ る。それは,ひとつのトゥアスを統べる王の上に,いくつかのトゥアスの連合体を統べる王がお り,さらにその上に,アルスター・マンスター・コナハト・レンスター・ミーデという,アイル ランドでコーゲトと呼ばれた5つの地域を収める王がおり,最上位に,アイルランド全体の王,

もしくは,上王ard-ríと呼ばれる存在があったという概念である。物語で活躍する王の多くは,

これらコーゲトの王であり,英雄的な王となると,アイルランド全体を統べる上王とされる人物 もいる。しかし,歴史的には,アイルランド全土を統一する王は結局現れることがなく,これら アイルランド王や上王は,あくまでも概念上のもので,文学作品上のものであったといえる。こ のような,王位のランクに関する概念がいつごろからあったものかはわからない。しかし,8世 紀初頭に書かれた世俗法である『クリース・ガブラハCríth Gablach』の中には,王位に三段階 のランク付けがなされている(1)。また,7世紀末に公布された『アダムナーン法Cáin Adamnáin』

にある王族のリストからは,ひとつの王家の中に,上位の王と下位の王がいたことがわかってい る(2)。なにより,年代記には,有力な王に対して,アイルランド王rí Érennという称号が与えら れているのである。それは,実態を伴わない理念的なものとはいえ,アイルランド全体を統べる 強力な王としての理想像を視野に入れた王国形成がなされたことをうかがわせる。

実際に,7世紀半ばから8世紀にかけてのアイルランドでは,強力な王国を形成しつつある王 家がふたつ存在していた。アイルランド中部から北東部を勢力範囲に収めていたイー・ネール

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Uí Néill家と,アイルランド南西部のマンスターを勢力範囲としていたエオガナフタÉoganachta 家である。本稿では,この両王家に焦点をあてて,また,王家と密接な繋がりを持ち,王国の形 成と発展とも無関係ではないと思われる,教会との関係にも触れながら,7世紀後半から8世紀 にかけてのアイルランドにおける王国の形成・発展と,その特徴につて考察することとする。

1章 王国の形成と発展

イー・ネールは,「ニーアルの子孫」を意味し,5世紀半ば頃の人物とされるニーアル・ノイ

ギアラハNiall Noígiallachを祖としている。その息子が,パトリック伝承に登場し,パトリック

の布教時のアイルランド王とされるロイガラLóeguireであるが,それらは,後世の聖人伝中に あらわれるものであり(3),実際には,5世紀の時点でのイー・ネールの王たちは,半ば伝説の中 にあるといってよい。実際に,5世紀初め頃までは,イー・ネールはアイルランド中部のさほど 大きくない勢力であったと考えられている(4)

イー・ネールが勢力を拡げていくのは,6世紀半ば以降である。『アルスター年代記』には,543 年と547年および550年に,イー・ネールの一王家のケネール・ネオガンCenél nEógan(ニー アルの息子エオガンを祖とする家系)のドムナルとファーガスの兄弟と,ケネール・コニルCenél Conaill(同じくニーアルの息子コナル・ガルバンを祖とする家系)のアインマレが,北方のコナ ハト王との戦闘に勝利している記述がある(5)。また,563年には,アイルランド北部にいたピク ト人勢力を駆逐している様子が描かれる(6)。ここにおいて,ケネール・ネオガンとケネール・コ ニルがアイルランド北部に勢力基盤を確立したといえる(7)。一方,アイルランド中部ではミーズ やブレーガといった地域を中心に,イー・ネールのケネール・コルプリCenél Coirpri(ニーアル の息子のコルプリを祖とする家系)や,ニーアルの曾孫のディアルヴァートの息子から別れたふ たつの家系であるシール・ナイド・スラーネSíl nÁedo Sláne(アイド・スラーネを祖とする)と クラン・ホルヴァーンClann Cholmáin(コルヴァーン・モールを祖とする)といった王家が勢力 を保持していた。イー・ネールの王位は,6世紀から8世紀半ばまでは,ひとつの家系で親から 子へと相続されるのではなく,上に述べた,イー・ネール王家を構成する各王家の有力者が王位 に就いていた。そのため,王位継承の際にイー・ネール王家内での同族争いがしばしばみられ,

前王を殺害して王位に就いた例も,『アルスター年代記』の,5世紀から9世紀半ばまでの34代 の王の中だけでも7例,前王を幽閉して王位に就いた例が1例ある(8)。このことは,イー・ネー ル王位が,各王家の微妙に均衡のとれたパワーバランスの上に成り立ったものであり,特定の王 家が王位を独占できる状況になかったことを示している。

このことは,王位継承のあり方の不安定さを示すものである。しかし,そのことは単純に王権 が弱かったことを示すものではない。前王と戦い,それを倒して王位に就くことは,新たな王が それだけの能力を有しているということである。このように,いわば,実力で王位を勝ち取った 王たちの陰には,王と争いながらそれを倒すことができずに敗れた王族も存在しているのであ る(9)。しかし,年代記の中に,アイルランド内の他の勢力との戦闘の記述が頻繁にみられる当時

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のアイルランドでは,それは必須の能力であったといえる。王位をひとつの家系が相続していく ことによって,無能な王や,幼少の王が王位に就くと,他の勢力との争いに敗れ,王国全体が危 機に陥ることになる。ひとつの家系でなく,複数の家系から王位に就く者がいるということは,

常に,王国を統率する者のストックを作っておく,いわば保険のようなものである。たとえ,そ れが王位争いのリスクを孕んでいたとしても,新たな王が他の勢力との争いに勝利していれば,

王国の維持には問題がなかったのである。イー・ネールの王家は,いわば王家を構成し,王位を 継承していく各王家の連合体というべきものであったといえる。王国は,祖を同じくするとい う,遠い血縁を紐帯としたいくつかの王家によって支えられていたのである。

このことは,本稿で分析の対象とする『アダムナーン法』の保証人リストからもうかがえる。

その中に,イー・ネール王と,それを構成する各王家の王の名があり,イー・ネールという大き な勢力が,イー・ネールの有力な王家の勢力や,イー・ネールに従属する小王国の集合体であっ たことがわかる。年代記の中では,イー・ネールの王に対して,アイルランドの伝説上の都で,

聖地でもあるタラの王rí Temairやアイルランド王という称号が用いられている。実際には,イ ー・ネールの王がいかに大勢力といえども,アイルランド王としての実態はなかったことは明ら かではあるが,イー・ネールの勢力範囲内に伝説のタラの地があったこと,7世紀以降には実際 にアイルランドでも有数の勢力に成長したことなどから,アイルランド王としての権威を主張し うる立場にあったことは間違いない。

一方,アイルランド中部から南西部の地域であるマンスターでは,エオガン・モールÉogan Mórを祖とするエオガナフタ家がマンスターの王家に就いていた。後世に作られた,マンスタ ー王のリストには,5世紀の半ば頃からエオガナフタ王家の王の名が見られるが,実際には,年 代記でエオガナフタの王家がマンスターの王家を独占していく様子が見られるのは,6世紀にな ってからである。このことから,エオガナフタも,イー・ネール同様,最初はそれほど大きな勢 力ではなかったものがやがてマンスター全域に勢力を拡大していったものと考えられる(10)。ま た,これもイー・ネールと同様に,エオガナフタの王家も,複数の王家に分かれていき,その中 でも,エオガナフタの本拠地であるカシェルを拠点とするエオガナフタ・ハイシルÉoganachta

Chaisilに,マンスター中部のエオガナフタ・アイネÉoganachta Aineとエオガナフタ・グレンダ

ヴナハÉoganachta Glendamnacha,マンスター西部のエオガナフタ・ロッハ・レーンÉoganachta

Locha Léinの4つの王家が主にマンスターの王位を継承していた。

このように,上位の王位をひとつの家系が相続するのではなく,祖を同じくする複数の家系が 王位を継承していく王家の構図も,イー・ネールに共通するものがある。マンスターの王位に は,年代記ではマンスター王rí Mumanあるいは,カシェル王rí Caiselの称号が用いられる。カ シェルはマンスターの中心地であり,伝説にも登場する都である点,また,パトリックの布教伝 承を持つ点(11),タラとは距離の離れた北部を拠点とする北イー・ネールの王でも,イー・ネー ル王としてはタラ王と表記されるのと同様,カシェルから遠く離れたマンスター西端のエオガナ フタ・ロッハ・レーンの王がマンスター王に就いたときにカシェル王の称号が用いられているな どの点で,イー・ネールにおけるタラと共通する点がある(12)。しかし,7世紀にはすでに伝説上

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の聖地となり,都としての機能を失っていたと考えられるタラとは違い,カシェルは要塞が築か れ,教会も置かれ,一貫してアイルランド南部の首都として機能している。

このように,6世紀半ばから7世紀にかけて,アイルランドの北部と南部で同時進行的にふた つの王家の勢力拡大がなされていくことになる。さらに,イー・ネールでは8世紀半ばから,エ オガナフタでは9世紀に入ってから,それまで,いくつかの王家の間で継承さてきた王位が,特 定の家系に収斂されていくことになる。それは,王権が強化され,王位の継承が安定していった ことを示している(13)。それまでは,王国を支える,血縁で結ばれた各王家の連合体とでもいう べきものであったものが,名実共に王国へと変貌を遂げたといってよい。本稿が対象とする,7 世紀後半から8世紀初めのアイルランドは,それまでの,血縁に基づく古代的な氏族共同体か ら,王国が形成されていくまでの過渡期にみられた,共通の祖先を持つ複数の王家の連合体の時 代であったといえるだろう。

これら強力な王家の発展に関して,見落としてはならないのが,王家と教会との関係である。

次章では,中世初期のアイルランド社会を考えるうえで無視することができない,王家と教会の 関係をみていくことにする。

2章 教会との関わり−アイオナ修道院を中心に

アイルランドに,本格的にキリスト教が入ってくるのは5世紀になってからである。アイルラ ンドでのキリスト教布教の大きな役割を果たした人物のひとりがパトリックである。このパトリ ックによる,イー・ネールとエオガナフタ両王家への布教の伝承があることはすでに述べたが,

これらの伝承は,後世の聖人伝の中に書かれていることであり,また,パトリックが活動してい た5世紀半ばの時点では,イー・ネールもエオガナフタも,未だ小さな勢力であったと考えられ るため,その史実性はほとんどないと考えてよい。ただ,これらのパトリック伝承は,最初の布 教者であり,「アイルランドの使徒」であるパトリックの創設による教会としての権威を主張 し,アイルランド7世紀末から台頭してくるアーマーを中心に形成されたものであり,この時期 に南北アイルランドの有力な王家であったイー・ネールとエオガナフタに対する,アーマーのプ ロパガンダであったと考えられる(14)。それは反対に,アーマーにそのようなプロパガンダ活動 を必要とさせるライバルが他にあったことを示している。イー・ネールとの関係でいえば,それ はアイオナ修道院であろう。

アイオナは,アイルランドの北方,スコットランド西岸に浮かぶ,ヘブリディーズ諸島のうち の一島である。地理的にはスコットランドに属しているが,そもそも,スコット人と呼ばれてい たアイルランド人が入植したのがスコットランドの語源であり,6世紀にアイオナに修道院が創 設された当時,アイルランド北東岸とスコットランド西岸の両方を勢力圏に抑えていたダール・

リアタ王国Dál Ríataが栄えており,アイオナは文化的にも政治的にもアイルランドに属してい たといってよい。アイオナに修道院を建てたのはコルム・キレColum Cille(コルンバColumba とも)である。コルム・キレは,イー・ネールのケネール・コニルの祖であるコナル・ガルバン

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の曾孫にあたる人物で,アイオナの他にデリーやケルズ,ダロウなどの有力な修道院をいくつか 創設している。そのうち,アイルランド北部のデリーとアイオナの創設時期が,イー・ネールの アイルランド北部への勢力拡大と完全に一致している。543年に,ケネール・ネオガンのドムナ ルとファーガス,ケネール・コニルのアインマレが初めてコナハト王に勝利した後,546年にコ ルム・キレがデリーに修道院を創設している(15)。さらに,563年にアイルランド北部にいたピク ト系部族を北イー・ネールが駆逐したその年に,コルム・キレがアイオナに渡っているのであ る(16)。このことから,イー・ネールの勢力拡大と,イー・ネールの王族出身であるコルム・キ レの活動が強く結びついていたことは間違いない。さらには,アイオナの修道院長は,コルム・

キレ以降,第2代修道院長バイテーネBaíténe(17),第3代ライスレーンLaisrén(18),第5代セゲー ネSégéne(19),第7代キュメーネCumméne(20),第8代ファイルベFaílbe(21),第9代アダムナーン と,9人中7人の修道院長がケネール・コニルの出身である。このように,アイオナ修道院は創 設以来,イー・ネールの,それもケネール・コニルと密接な関係にあったのである。これは,後 に述べるように『アダムナーン法』の公布にも影響することである。

一方で,マンスターにおける教会に関しては,北部の教会ほど詳しい動向はわかっていない。

ただ,6世紀には,エムリー,コーク,クロンファートといった,後にマンスター王家との強い 結びつきを持つことになる修道院が建てられていく。それらは,エムリーがアイルベ,コークが フィンバー,クロンファートがブレンダンと,それぞれ,マンスターと縁が深い人物によって建 てられており,マンスターの教会が,北部におけるそれの,パトリックやコルム・キレの権威に 基づくものとは一線を画する。さらに,9世紀には,マンスター王家であるエオガナフタ家か ら,これらの修道院の修道院長が何人か出ており,その関係は,北イー・ネールのケネール・コ ナルとアイオナ修道院との関係に近い(22)

実際,コルム・キレの建てた修道院のうち,もっとも南にあるダロウでもアイルランド中央 部,南イー・ネールとマンスターとの境界付近にあり,ケルズも南イー・ネールの勢力範囲に,

デリーとアイオナははるか北にあるが,これは,コルム・キレが北イー・ネールの王族出身であ ることを考えると当然であるといえる。また,パトリックとの関係を伝える教会も,アーマーや ダウンパトリックなどの有力な教会はアイルランド北部にあり,パトリックに関する伝承も多く がアイルランド中部から北部に集中している。これに対して,南部のマンスターにおいては,コ ルム・キレやパトリックとは系統が異なる,マンスターと縁が深い人物の教会が独自の発展を遂 げたことを示している。さらに,上に述べたコルム・キレやパトリックとの関係が深い教会が多 い地域は,イー・ネールの勢力範囲とほぼ重なるのである。そして,マンスター王家と関係の深 い教会は,クロンファートがマンスターとコナハトの境界にある他は,当然のことながらマンス ターの勢力範囲に収まっている。このように,教会の分布と,王国の勢力範囲がほぼ一致するこ とは,それぞれの王国と,教会の活動が密接な関係にあったことを示している。そのことから,

この時期のアイルランドにおける教会の活動は,たとえ,それが一見教会だけの問題のように見 えても,世俗の王権の動向と関係しているとみなすことができる。

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3章 イー・ネールとマンスター王家−『アダムナーン法』から

『アダムナーン法』は,697年アイルランド中央部のバーBirrにおける教会会議で,アイオナ 修道院長アダムナーンによって示された法令である(23)。その内容は,聖職者や女性,子供,さ らには教会財産を暴力から保護することを訴えるもので,それを犯した者が負うべき賠償を詳細 に規定するものである。この,『アダムナーン法』の第28条に,この法の保証人リストがあり,

聖職者40人,王族50人の,計90人の名がある(24)。本稿で分析するのは,このうち,王族のリ スト50名である。

その前に,『アダムナーン法』公布の背景を説明すると,これに先立つ695年にケネール・コ ニル出身のロングシェフLoingsechがイー・ネールの王位に就いた(25)。ロングシェフ以前には,

共同統治を含めて4代にわたってシール・ナイド・スラーネの王が続いており,ロングシェフ は,ケネール・コニルにとっては,37年ぶりにイー・ネールの王位に就いた人物ということに なる。この,アダムナーンおよび,代々のアイオナ修道院長を出してきたケネール・コニルから イー・ネール王が出たことが,『アダムナーン法』公布を後押ししたといわれている(26)。実際 に,王族のリストの最初にアイルランド王としてロングシェフの名があり,以下,イー・ネール の有力王族の名が続き,イー・ネールの王族は50人中17人にのぼる。

この王族リストに関しては,ニー・ゴネフが詳細な検討をしており,このリストにある人物の ほとんどが,年代記等の史料で確認できることから,このリストがアダムナーンか,そうでなく ても,ほぼ同時代の人物によって作成されたものとされている(27)。しかし,このリストには,

アイルランドで多くみられる名前であったり,情報量が少なかったりするために同定が難しい者 も何人かおり,ニー・ゴネフも,概ね同定しているものの,やはり不明な人物が何人か残されて いる。ただし,イー・ネール王家の人物に関しては,年代記と照らし合わせてもほぼ完全に同定 できる。

また,王のリストの下位にはピクト人やダール・リアタなど辺境の王国,アルギアラのように イー・ネールに従属する王の名があることから,この王族のリストの順番は,王の序列を表して いると考えられるが,それが本当に当時のアイルランドにおける王族の序列を表したものなの か,また,そうであるとして,それがどのような基準に基づく序列なのかは留保が必要である。

さらに,ニー・ゴネフをはじめとして,従来の研究は,主にリストの人物の同定に主眼がもたれ ており,そこから,さらに踏み込んだ分析はなされていない。しかし,この,『アダムナーン法』

の保証人リストを詳細にみてみると,当時の状況と照らし合わせて不審な点がいくつかみうけら れる。本章以降では,『アダムナーン法』の保証人リストの問題点を明らかにし,分析を加える ことによって,この保証人リスト作成に込められた意図を読みとろうと試みることにする。

本稿で問題とするのは,『アダムナーン法』の王族リストにおけるマンスターの王族の扱いで ある。王族リストにはマンスターの王族,特にエオガナフタの王家の人物として,4人の名前が ある。王のリストの5番目にマンスター王rí Mumanとして名前のあるエデルスケールEter-

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アダムナーン法王族リスト

王族の名 称号 称号訳 その他

1 Loingsech rí Érenn アイルランド王 ケネール・コニル

2 Congal mac Fergus rí Cenél Conaill ケネール・コニル王 Loingsech(1)の従兄弟

3 Flann Find rí Cenél nEógan ケネール・ネオガン王 ケネール・ネオガン

4 Conchabur rí Cenél Coirpri ケネール・コルプリ王 ケネール・コルプリ

5 Eterscél rí Muman マンスター王

6 Cú Dínaisc rí Ir Muman 西マンスター王 マンスターの王族

7 Cucherca rí Osraige オスラゲ王 アイルランド南部の小王国

8 Congal mac Suibne rí inna nDéissi デーシ王 マンスターの小王国

9 Eogan rí Uí Fidgent イー・フィドゲント王 マンスターの小王国

10 Andelait rí Déissi Thúaiscirt 北デーシ王 マンスターの小王国

11 Elodach rí Desmuman 南マンスター王 マンスターの王族

12 Ailill Concen Mathair rí Maige Féne マーゲ・フェーネ王 マンスター王

13 Fiachra Cosarach rí Cruithne クリースネ王 ダール・ナラデ王

14 Becc Boirch rí Ulad アルスター王

15 Niall mac Cernach rí Breg Mag ブレーガ王 シール・ナイド・スラーネ

16 Cellach mac Gerthidi rí Diaballaigin レンスター王

17 Condarach rí Corco Duibne コルコ・ドゥブネ王 マンスターの小王国

18 Coirpri rí Uí Chennselaig イー・ヘンセラーグ王 レンスターの王族

19 Congal Ua Mrachaide 不明 不明

20 Conall rí Uí Fhidgeinti イー・フィドゲント王 マンスターの小王国

21 Cellach mac Rogellaig rí Connacht コナハト王

22 Dluthach rí Uí Maini イー・ヴァーニ王 コナハトの王族

23 Dunchad rí Uí nAmalgado イー・ナヴァルガド王 コナハトの王族

24 Muirghis (rí Cenél Coirpri) (ケネール・コルプリ王) ケネール・コルプリ

25 Macha rí Uí nEchach Arda イー・ネハフ・アルダ王 コナハトの王族

26 Murchad Midi (rí Uí Néill) (イー・ネール王) クラン・ホルヴァーン

27 Colman rí Ferns ファーンス王 レンスターの小王国

28 Mael Fothartaig (rí Airghialla) (アルギアラ王)

29 Dub Díberg (rí Cenél mBogaine) (ケネール・ボガーネ王) ケネール・コニル

30 Maine mac Niall Niall(15)の子

31 Mael Caech 不明 不明

32 Aurthuile Flann Find(3)の兄弟

33 Aed Odba シール・ナイド・スラーネ

34 Eochaid rí na nDeissi デーシ王 Congal(8)の従兄弟

35 Aed mac Dlúthach rí Fir Cúl フィル・クル王 シール・ナイド・スラーネ

36 Flaithnia 不明 不明

37 Fiannamail (rí Dál Riata) (ダール・リアタ王)

38 Feradach 不明 不明

39 Feidelmith アルスターの王族

40 Fallomain rí Uí Thuirtri イー・スルトリ王 アルギアラの王族

41 Fogartach Niall(15)の子、(30)の兄弟

42 Garban rí Mide ミーズ王 Murchad Midi(26)の兄弟

43 Eochu Lemi rí Uí Chremthainn イー・フレムサイン王 Mael Fothartaig(28)の子

44 Eochu ua Domnall (rí Dál Riata) (ダール・リアタ王)

45 Conall Grant rí deiscirt Brega 南ブレーガ王 Niall(15)の子、(30)の兄弟

46 Tuathal rí Cenél nGabráin ケネール・ガブラン王 ダール・リアタの王族

47 Toicthech rí Luigni リーグニ王 コナハトの小王国

48 Bobdchath rí Luigne リーグネ王 Murchad Midi(26)の兄弟

49 Irgalach rí Ciannacht キアンナハト王 シール・ナイド・スラーネ

50 Bruide rí Cruithntuath クルースントゥアス王 ピクト人の王か?

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scél,西マンスター王rí Irmumanとして6番目に名前のある,クー・ディーニースクCú Dí- naisc(28),南マンスター王rí Desmumanとして11番目に名前のあるエーローダハElodach,マー ゲ・フェーネ王rí Maige Féneとして12番目に名前のあるアリル・マク・コン・ケン・マーサル Ailill mac Concen Matharである(29)。ここで,最も重要なのはマンスター王として名前のあるエ デルスケールと,マーゲ・フェーネ王として名前のある,アリル・マク・コン・ケン・マーサル である。アリル・マク・コン・ケン・マーサルは『イニシファーレン年代記』では698年の項に マンスター王rí Mumanとして死亡の記述があり(30),『アダムナーン法』が公布された697年の 時点では,このアリル・マク・コン・ケン・マーサルがマンスター王であったことがわかる。で は,マンスター王として名前のあるエデルスケールはどうかというと,『イニシファーレン年代 記』には,721年にマンスター王エデルスケールの死亡の記述がある(31)。さらに,713年にエデ ルスケールの前のマンスター王コルマク・マク・アリルの戦死の記述があり,エデルスケールが マンスター王になったのはこの後のことと考えられる(32)。つまり,『アダムナーン法』公布の時 点で,エデルスケールはマンスター王ではないのである。

このことは,どのように説明できるであろうか。まず考えられるのは,『アダムナーン法』の 王のリストが,公布されたときよりも後の時代,少なくともエデルスケールがマンスター王位に 就いた後に作成された可能性である。先にも述べたようにエデルスケールがマンスター王位に就 くのは713年以降のことであり,704年に死亡しているアダムナーンがそれを知ることはな い(33)。また,ニー・ゴネフによる,保証人リストの検証の結果,この保証人リストは,アダム ナーン自身の手によるかどうかは別として,『アダムナーン法』公布とほぼ同じ時代に作成され たものだとされている(34)。なにより,エデルスケールに関しては,後世の作成で説明できて も,アリル・マク・コン・ケン・マーサル・マーサルに関してはそれが当てはまらないのであ る。

それというのも,王のリストと年代記の照会を行う際,王が死亡したときの記述が大きな情報 源となるので,王の称号は死んだ時のものとなっている。そのため,697年の時点で先代の王が 生きているときは,後に後継者となる王は,『アダムナーン法』の中では,まだ下位の称号を名 乗っている場合があり,そのために『アダムナーン法』の王族のリストと年代記の称号が食い違 うことはあるが,その逆は考えにくい。つまり,後に上位の王位につく人物に,『アダムナーン 法』の中で下位の王号が就いていることがあるが,『アダムナーン法』公布時点で上位の王位に あった人物に,下位の王号が用いられているアリル・マク・コン・ケン・マーサルのような例は 非常に不自然なものである。さらに,アリル・マク・コン・ケン・マーサルは『アダムナーン 法』公布後,すぐに死亡しているので,もし,王族のリストが後世に作られたものなら,その名 前自体をリストに入れなければよいはずなのに,わざわざ下位の王号を付けて載せる必要はな い。

もうひとつ考えられる可能性として,このリストが,アダムナーン自身による場合はもちろ ん,あるいは別の人物の手によるものとしても,リスト中のイー・ネールの王族の人数の多さか らして,イー・ネールの王家に近い者の手によることは間違いない。その場合,北部のイー・ネ

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ール王家の関係者は,南部のマンスター王家の情勢に疎かったため,このような誤りが生じたと いうことが考えられる。しかし,一方で,このリストを作った者がマンスターの情勢に詳しかっ たと思われる一面もある。それが,マーゲ・フェーネ王という称号である。アリル・マク・コン

・ケン・マーサルは,エオガナフタ王家の中のエオガナフタ・グレンダヴナハ家の出身であり,

マーゲ・フェーネは,まさにエオガナフタ・グレンダヴナハの勢力範囲内にある小王国なのであ る(35)。また,アリル・マク・コン・ケン・マーサルをマーゲ・フェーネ王とする史料は『アダ ムナーン法』だけであり,他の史料にはマーゲ・フェーネ王としてのアリル・マク・コン・ケン

・マーサルはみられない。

これらのことから,この,『アダムナーン法』の王族のリストは,何らかの作為をもってそれ を作成したことが考えられる。

4章 イー・ネールとマンスター王家−『イニシファーレン年代記』から

第3章では,『アダムナーン法』の王族リストにおけるマンスター王の不自然な序列から,何 らかの作為を持ってこのリストが作成された可能性を指摘した。本章では,年代記の記述からそ の作為の目的を探ることとしたい。その鍵となるのが,年代記から窺える,アリル・マク・コン

・ケン・マーサルの属しているエオガナフタ・グレンダヴナハ家の動向である。

まず,『イニシファーレン年代記』には,664年に,アリル・マク・コン・ケン・マーサルの 父であるカサル・クーケン・マーサルCathal Cú Cen Matharが,イー・ネールとの戦闘で死亡し ている記述がある(36)

さらに,『アダムナーン法』でマンスター王とされているエデルスケールの死亡の記述が,『イ ニシファーレン年代記』の721年の項にあることはすでに述べたが,その,同じ『イニシファー レン年代記』の721年の項に,続けて以下の記述がある。

フィンゲンの息子であるマンスター王カサルCathal mac Finnguineがブレーガを侵略し た。その後,マイル・ドゥーンの息子であるタラ王ファーガルFergal mac Maeldúinと和を 結び,こうしてファーガルはカサルに屈服した。このことで,カサルはアイルランドを統べ た五人のマンスター人のひとりとなったのである……(37)

年代記の記述では,先の王の死後,次の王の即位の記述がないことや,しばらく間をおいて次 王の即位の記述がある例,あるいは,先王の死後に王族同士の争いや他国から侵略されたなどの 記述はよく見られるが,先王の死後にすぐ次の王が他国を侵略した記述は稀である。この,マン スター王カサル・マク・フィンゲンCathal mac Finnguineがどういう人物かというと,カサルの 父親のフィンゲンは,アリル・マク・コン・ケン・マーサルの前のマンスター王であり,その兄 弟でもある人物である(38)。つまり,カサルはアリル・マク・コン・ケン・マーサルの甥という ことになる。このカサルは,上記のようにブレーガ,すなわち南イー・ネールの領内に攻め込

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(11)

み,時のイー・ネール王ファーガル・マク・マイル・ドゥーンを屈服させている。このことか ら,カサルはアイルランド王rí Érennとして年代記に記される数少ないマンスター王のひとりと なっている(39)

この,カサル・マク・フィンゲンの属するエオガナフタ・グレンダヴナハ家では,アリル・マ ク・コン・ケン・マーサルとフィンゲンの父であり,カサル・マク・フィンゲンの祖父にあたる カサル・クーケン・マーサルも,イー・ネールとの戦闘で死亡していることは先に述べた。それ に加えて,カサル・マク・フィンゲンが即位した直後にイー・ネールに攻め込んで打ち負かして いることを考えると,カサル・マク・フィンゲンやアリル・マク・コン・ケン・マーサルの属す るエオガナフタ・グレンダヴナハ家は,エオガナフタ王家の中でも,反イー・ネールの傾向が強 かったのではないだろうか。少なくともカサル・マク・フィンゲンは,その行動から,イー・ネ ールと敵対していたことは事実である。他方,エデルスケールは,その治世に特にイー・ネール と争ったという記述はない。エデルスケールが親イー・ネールであったかどうかはともかく,イ ー・ネールに対して敵対的であったことはうかがえない。

そのエデルスケールが『アダムナーン法』の王族のリストでマンスター王とされており,アリ ル・マク・コン・ケン・マーサルがマーゲ・フェーネ王とされているのである。上に述べたエオ ガナフタ王家の状況と,イー・ネール王家との関係を知らずに,この王族のリストの作成者がエ デルスケールをマンスター王として序列を上げ,マンスター王であるアリル・マク・コン・ケン

・マーサルの序列を下げていたと考えるのはあまりに話ができ過ぎている。おそらく,この王族 リストの作成者は,アリル・マク・コン・ケン・マーサルが,イー・ネールと戦って死亡したカ サル・クーケン・マーサルの息子であり,その属するエオガナフタ・グレンダヴナハ家がイー・

ネールに対して敵対的な王家であることがわかっていて,王族のリストに手を加えたのであろ う。ただ,このような作為が加えられた保証人リストが発表された場合,それを当事者が黙って 見過ごすとは考えにくい。少なくとも,この保証人リストが,当事者全員の承認を得たものであ るかどうかは疑わしいといえよう。

マンスターの王は,年代記ではアリル・マク・コン・ケン・マーサルとエデルスケールの間 に,エオガナフタ・ハイシル家のコルマク・マク・アリルがいる(40)。『アダムナーン法』の王族 リストでは当時のマンスター王であるアリル・マク・コン・ケン・マーサルのみならず,その次 のマンスター王であるコルマク・マク・アリルをも飛ばしてエデルスケールをマンスター王とし ている。このことは,やはり,エデルスケールが王族リストの作成者,つまりイー・ネール王家 の人物と親しく,協力的であったことをうかがわせる。そう考えると,『イニシファーレン年代 記』で,エデルスケールの死の直後にカサル・マク・フィンゲンがイー・ネールに攻め込んだこ とも,エデルスケールが,イー・ネールに対して敵対的なエオガナフタ・グレンダヴナハ家に対 する抑えとしての役割を果たしていたことが考えられる。

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(12)

お わ り に

『アダムナーン法』の王族リストには,マンスター王家に対してだけでなく,イー・ネール王 家内の序列にも不自然な点が見られる。695年にケネール・コニルのロングシェフが王位に就く まで4代37年にわたってイー・ネール王を出しており,南イー・ネールの主流派であったシー ル・ナイド・スラーネの王が王族のリストの中で15番目と低く,6世紀半ば以降,ひとりもイ ー・ネールの王位に就いた者がいないケネール・コルプリの王がリストの4番目に来ていること である。リストの順番そのものが,リスト作成者にとっての各王家の序列を示しているかどうか はまだ検討の余地があるが,リストの1番目にイー・ネール王であるロングシェフの名がアイル ランド王としてあり,2番目にロングシェフの従兄弟であり,その死後にイー・ネールの王位に 就くコンガル・マク・フェルグサCongal mac Fergusの名があることを考えると(41),保証人リス トの作成者の意図が特定できるのではないだろうか。

ひとつは,マンスター王家に対するものである。イー・ネールに敵対的な王家の序列を下げ,

親しい王家の序列を上げることによって,イー・ネールと親しいマンスター王家との関係を示す ことが,イー・ネールに対して敵対的な王家への牽制となったと考えられる。ふたつ目は,イー

・ネール内での関係である。南イー・ネールの中でイー・ネール王を多く出している有力な王家 を下に置き,非主流派の王家を上位に持ってくることで,北イー・ネール,特に,時のイー・ネ ール王であるケネール・コニルの優位を強調する意図があったのではないだろうか。

このように,有力な修道院による人道的な法のように見てとれる『アダムナーン法』も,その 保証人リストを見ると,作成者のバイアスがかかっていることがうかがえる,それは,このリス トの作成者がアダムナーン自身である場合はもちろん,そうでなくとも,イー・ネール,中でも ケネール・コニルの利害を強く代弁する意図がみえるのである。

Ancient laws of Ireland ; published under direction of the Commissioners for Publishing the Ancient Laws and Institutes of Ireland, vol.4. Din techtugad and certain other selected Brehon law tracts, W. S., Hein, ed., Buffalo, 2000, pp.328−337.

Cáin Adamnáin : An Old-Irish Treatise on the Law of Adamnáin, K. Meyer, ed. & tr. Oxford, 1905 ; rep.

1989, pp.18−21,拙稿「中世初期アイルランドにおける王位継承と「王家」共同体−イー・ネール王 家の例から−」,『歴史家協会年報』創刊号,2005 年,12−15 頁。

⑶ L. Bieler, ed. & tran., The Patrician Texts in the Book of Armagh, Dublin, 1979, pp.82−99.

⑷ T. M. Charles-Edwards, Early Christian Ireland, Cambridge, 2000, pp.441−468.

Annals of Ulster(以下 AU)543, 547, 550. Annals of Ulster −Annals of Senat ; A Chlonicle of Irish Affairs from A. D. 431, to A. D. 1540, W. M. Hennessy, ed. & tr., Dublin, 1887.

⑹ AU 563.

⑺ AU 563.記述中にケネール・ネオガンとケネール・コニルが北部の地を得たことが記されている。

⑻ 拙稿「中世初期アイルランドにおける王位継承と「王家」共同体−イー・ネール王家の例から−」,6

−7 頁。

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(13)

⑼ AU 600,637. 600 年にシール・ナイド・スラーネの祖である,時のイー・ネール王アイド・スラーネ

Aed Sláine が,甥でありクラン・ホルヴァーン家系のスブネ・マク・コルヴァーン Suibne mac Colmain

との戦闘で勝利し,スブネは敗死している。637 年にはアルスター王コンガル・カイフ Congal Cáech と,ケネール・コニルのイー・ネール王ドムナル・マク・アイド Domnall mac Aed がマグ・ロス Mag Roth で戦い,ドムナルが勝利している。この戦いは,表向きはアルスターとイー・ネールの争いだ が,コンガル・カイフ陣営にケネール・ネオガンとクラン・ホルヴァーンの王がいるため,事実上イ ー・ネール王家の内部争いの側面もある。

⑽ T. M. Charles-Edwards, op. cit., pp.534−548. F. J., Byrne, Irish Kings and High-Kings, London, 1973, pp.165−186.

⑾ L. Bieler, op. cit., pp.194−218.

The Annals of Inisfallen(以下 AI) 851, The Annals of Inisfallen, Seán Mac Airt, ed., & trs., Dublin, 1951.

⒀ イー・ネールではケネール・ネオガンとクラン・ホルヴァーン,マンスターではエオガナフタ・ハイ シルの王が主にそれぞれの王位を継承している。

⒁ Sharpe, R., ‘St Patrick and the See of Armagh’, Cambridge Medieval Celtic Studies 4, 1982, pp.33−59.

⒂ AU 546.

⒃ AU 563.

⒄ AU 598.

⒅ AU 607.

⒆ AU 652.

⒇ AU 669.

AU 679.

AI 847, 851, 890, 944.

AU 697,『アダムナーン法』のテクストとしては,Cáin Adamnáin : An Old-Irish Treatise on the Law of Adamnáin, K. Meyer, ed. & tr., Oxford, 1905 ; rep.1989,また,日本語訳テクストとして,古アイルラ ンド語史料研究会「『アダムナーン法』」『ノートルダム清心女子大学キリスト教文化研究所 年報』

第 27 号,2005 年,92−116 頁,を参照とした。

Cáin Adamnáin, pp.18−21,また,アイルランド名のカナ表記には困難が伴うが,本稿では,『アダム

ナーン法』における人物名に関しては,古アイルランド語史料研究会「『アダムナーン法』」,の訳に 従った。

AU 695.

古アイルランド語史料研究会「『アダムナーン法』」,96 頁。

M., Ní Dhonnchadha, The Guarantor List of Cáin Adomnáin, 697 ,Peritia 1, 1982, pp.178−215.

AI 717.

『アダムナーン法』では,アリル・マク・コン・ケン・マーサル Ailill mac Concen Mathar だが,年代 記ではアリル・マク・クーケン・マーサル Ailill mac Cúcen Mathar となっている,AI 698.

AI 698.

AI 721.

AI 713,また,この,コルマク・マク・アリルは,エオガナフタ・ハイシル家の出身であり,父親の アリルは,アリル・マク・コン・ケン・マーサルと同名であるが,エオガナフタ・グレンダヴナハ家 のアリル・マク・コン・ケン・マーサルとは別人である,B., Jaski, Early Irish Kingship and Succession, Dublin, 2000, p.314.

AU 704, AI 704.

M., Ní Dhonnchadha, op. cit., pp.178−215.

T. M. Charles-Edwards, op. cit., pp.535−547.

AI 664.

― 28 ―

(14)

AI 721.

AI 694.

AI 742.

AI 713.

Cáin Adamnáin, pp.18−19, AU 705.

(関西大学大学院文学研究科・博士課程後期課程)

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表 アダムナーン法王族リスト

参照

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