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東京学芸大学紀要人文社会科学系 Ⅱ 第 67 集 (2016) 東京学芸大学紀要人文社会科学系 Ⅱ 67: ,2016 はじめに観応の擾乱において足利尊氏は 弟足利直義を追ってみずから東国に下向した 同乱の終結後 敗北した直義派の東国武家は逼塞を余儀なくされ 東国武家社会

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Author(s)

杉山,一弥

Citation

東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II, 67: 170-161

Issue Date

2016-01-29

URL

http://hdl.handle.net/2309/140120

Publisher

東京学芸大学学術情報委員会

Rights

(2)

東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 67 集(2016) 東京学芸大学紀要 人文社会科学系Ⅱ 67:170 - 161,2016 はじめに 観応の擾乱において足利尊氏は、弟足利直義を追ってみずから東国に下向し た。同乱の終結後、敗北した直義派の東国武家は逼塞を余儀なくされ、東国武 家社会は尊氏派の者たちによって主導されることとなっ た (1) 。観応の擾乱後しば らく続いたこの鎌倉府の政治体制は、 薩 さっ 埵 た 山 やま 体制との学術用語で呼びならわさ れてい る (2) 。具体的には、畠山国清・河越直重・宇都宮氏綱を中心にかたちづく られていたとみなされている。 薩埵山体制については、これまでその構成体に関する個別具体的な研究が蓄 積されてきた。そこでは本稿が主題とする宇都宮氏綱の ほ か (3) 、畠山国 清 (4) 、河越 直重・平一 揆 (5) 、高坂氏 重 (6) 、入間川陣な ど (7) 、関連する主要人物や重要事項につい て多角的な検討が加えられている。 宇都宮氏綱は、薩埵山体制において上野・越後守護であった。しかし地理的 にみて東国周縁部の国々をおもな活動地域としていた宇都宮氏綱は、薩埵山体 制を担った主要人物のなかでもっとも注目度が低く、なお研究の余地が残され て い る。 そ の う え 薩 埵 山 体 制 は、 応 安 元 年( 一 三 六 八 )、 宇 都 宮 氏 綱 が 鎌 倉 府 勢によって本拠宇都宮を囲まれて降伏したことによって最終的に解体されたと される。薩埵山体制における宇都宮氏綱の位置づけに着目する所以である。 本稿では、これまで宇都宮氏綱発給文書を中心に解されてきた宇都宮氏綱の 乱の推移について、宇都宮氏被官の芳賀氏発給文書、ならびに関連する古記録 に も ひ ろ く 目 を 配 る こ と に よ っ て そ の 様 相 を あ き ら か に し て ゆ く こ と と す る。 そして観応の擾乱後、鎌倉府が鎌倉公方足利氏―関東管領上杉氏を中心とした

  山

  一

  弥

      観 応 の 擾 乱 後 の 東 国 社 会 は 、 い わ ゆ る 尊 氏 派 の 東 国 武 家 が 主 導 権 を に ぎ る こ と と な っ た 。 し ば ら く 続 い た そ の 当 時 の 権 力 構 造 に は 、 薩 埵 山 体 制 と の 学 術 用 語 が あ た え ら れ て い る 。 本 稿 で 主 題 と し た 宇 都 宮 氏 綱 は 、 そ の 政 治 体 制 を 支 え る 三 本 柱 の ひ と り で あ っ た と み な さ れ て い る 。 し か し 上 杉 憲 顕 ら 旧 直 義 派 の 東 国 武 家 の 政 治 復 帰 が 許 さ れ る と 、 東 国 武 家 社 会 に ふ た た び 変 動 が お こ っ た 。 と く に 宇 都 宮 氏 綱 と 上 杉 憲 顕 は 、 上 野 ・ 越 後 両 国 に お い て 政 治 経 済 的 な 競 合 関 係 に あ っ た 。 そ の た め 宇 都 宮 氏 綱 は 上 杉 憲 顕 の 復 帰 に 異 を 唱 え る こ と と な る 。 そ れ が 宇 都 宮 氏 綱 の 乱 で あ る 。 宇 都 宮 氏 綱 の 乱 は 、 観 応 の 擾 乱 後 の 東 国 社 会 が 大 き く 変 容 し て ゆ く 過 程 に お い て 、 転 換 点 と な る 出 来 事 で あ っ た と い え る 。 そ れ は 京 都 の 公 家 が 、 遠 く 離 れ た 東 国 社 会 に お け る 宇 都 宮 氏 綱 の 乱 に 興 味 を 抱 き 、 関 連 記 事 を 書 き 残 し て い る こ と か ら も う か が え る 。  * 東京学芸大学  人文科学講座  地域研究分野( 184-8501   小金井市貫井北町 4- 1-1)

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政治体制に移行してゆく過程を、これに異を唱えた宇都宮氏綱の動向から跡づ けることとする。 一、上野・越後守護宇都宮氏綱 観応二年(一三五一)八月一日の未明、足利直義は京都を去り北陸道経由で 鎌倉に向かった。観応の擾乱は、ここにその舞台が東国へ移ったのである。直 義派の東国武家は、駿河・伊豆国堺に軍勢を展開させて東海道経由で鎌倉をめ ざす足利尊氏勢と対峙した。そのとき宇都宮氏綱は、尊氏派の東国武家として 下野国宇都宮から相模・駿河国堺の足柄山へ向かったのであった。駿河・伊豆 国堺に軍陣をかまえる足利直義勢は、この宇都宮氏綱のうごきによって東西を 足利尊氏勢におさえられるかたちとなり、足利直義は足利尊氏への服属を余儀 な く さ れ た。 『 太 平 記 』 巻 三 十 薩 多 山 合 戦 事 は、 足 利 尊 氏 勢 の 最 終 的 勝 利 を 決 定づけたのは宇都宮氏綱勢のうごきによるものとして描いている。 宇都宮氏綱は、もともと尊氏派の東国武家であった。すでに『園太暦』貞和 五 年( 一 三 四 九 ) 八 月 十 四 日 条 に は「 宇 津 〔都〕 宮 以 下、 大 略 属 二 ( 高 ) 直 一 と み え る。 そ し て、 観 応 の 擾 乱 に お い て 尊 氏 派 と し て の 戦 功 が 認 め ら れ た 宇 都 宮 氏 綱 は、 上野国と越後国の守護職を獲得し た (8) 。同乱以前、上野・越後両国の守護はとも に直義派の上杉憲顕がつとめていた。宇都宮氏綱が上野・越後守護に補任され たことは、観応の擾乱における政治変革の象徴的事由のひとつであった。本節 では、宇都宮氏綱の上野・越後二ケ国守護としての様相について、守護代芳賀 氏の動向を交えながら個別に考察す る (9) 。 第一に、上野守護についてである。上野守護としての宇都宮氏綱関連文書は 四通 ほ ど残存する。いずれも宇都宮氏綱宛の文書である。その初見は、正平七 年(一三五二)閏二月十六日、上野国淵名荘をめぐって伊豆走湯山が新田大嶋 義政と下地中分できるよう南宗継から命じられた文書であ る )(( ( 。ついで文和元年 ( 一 三 五 二 ) 十 二 月 二 十 七 日、 鎌 倉 法 泉 寺 領 の 上 野 国 雀 袋・ 戸 矢 両 郷 を め ぐ っ て「 新 ( 大 嶋 ) 田 兵庫頭義高已下之輩并長尾 左 ( 景 忠 ) 衛門入道 等」の違乱を停止させるよう命 じられた足利尊氏の御教書写が残 る )(( ( 。そして文和二年十二月十七日、上野国多 胡荘頭職をめぐって「神保太郎左衛門尉・瀬下宮内左衛門尉等・小串四郎左衛 門尉以下輩」が濫妨する下地を佐々木導誉の代官に沙汰するよう命じられた将 軍足利義詮の御教書案があ る )(( ( 。また年未詳ながら三月十八日、上野国山上保内 田部・蒲井・葛塚村等を大田邦康に沙汰するよう命じられた鎌倉公方足利基氏 の書状が知られ る )(( ( 。 こ の 四 文 書 を 通 覧 す る と 、 観 応 の 擾 乱 に お け る 上 野 国 の 在 地 社 会 の 一 端 が あ き ら か に な る 。 た と え ば 新 田 大 嶋 義 高 ・ 長 尾 景 忠 や 、 神 保 氏 、 瀬 下 氏 、 小 串 氏 ら は 同 乱 後 の 社 会 変 動 に 抵 抗 し た 上 野 国 の 国 人 で あ る こ と が わ か る 。 こ れ ら 国 人 の 多 く は 、 前 上 野 守 護 上 杉 憲 顕 と の 関 係 を つ う じ て 獲 得 し た 権 益 の 確 保 を め ざ し 、 観 応 の 擾 乱 で 上 杉 憲 顕 が 没 落 し た の ち も 在 地 に 拠 っ て 抵 抗 を つ づ け た の で あ る 。 一方、新上野守護の宇都宮氏綱をつうじて尊氏派につらなった上野国の国人 もいた。たとえば赤堀(香林)時秀とその一族である。赤堀時秀の子息赤堀直 秀は、足利尊氏勢として宇都宮氏綱の近臣芳賀高貞に属して観応の擾乱にのぞ んだ軍忠状が残されてい る )(( ( 。宇都宮氏綱は、そうした国人と連携しながら上野 守護として地域社会との関係構築を試みたのであろう。 新上野守護宇都宮氏綱とむすんで在地社会での立場を有利にしようと目論ん だのは、赤堀氏のような国人層だけではなかった。そうした人物のひとりに上 野国細井御厨の助五郎清長がいる。助五郎清長は、いわゆる沙汰人層にあたる 人物である。助五郎清長は延文年間、伊勢神宮領であった上野国細井御厨の伊 勢国二見郷来迎院相伝分「御上分・乃貢等」を抑留したとしてたびたび非難さ れ て い る )(( ( 。 そ れ ら 文 書 の な か で 助 五 郎 清 長 は、 「 假 二 護 所 威 一 と 表 現 さ れ て いる。ここでの守護所とは、宇都宮氏綱のことを指している。おそらく助五郎 清長は、新上野守護宇都宮氏綱と関係をむすぶことで、細井御厨において伊勢 神宮雑掌よりも有利な政治経済的立場を築いていたのである。そうした趨勢も あり、上野国における新守護宇都宮氏綱の政治的立場は一応の安定をみたので はなかろうか。 第二に、越後守護についてである。宇都宮氏綱の越後守護としての確実な所 見は、文和二年(一三五三)十二月九日、村山熊王の忠功を賞した宇都宮氏綱 の発給文書であ る )(( ( 。しかし観応三年(一三五二)九月三日、越後国鵜河荘内安 田 条 上 方 を 丹 波 安 国 寺 に 沙 汰 す る よ う 命 じ た 足 利 義 詮 御 教 書 の 充 所 が「 守 護 」

(4)

東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 67 集(2016) となっていること は )(( ( 、宇都宮氏綱の守護就任を前提としていたためとみること もできる。これは越後守護の交替情報をつかんだ丹波安国寺側が、充所の明示 を避けて汎用性のある「守護」という表現を選択したとみることができるから である。その ほ か越後国人の和田茂助が、 文和元年(一三五二)十二月十七日、 宇都宮氏綱の近臣芳賀高貞の「注申」にもとづいて足利尊氏から知行安堵の御 教書を獲得してい る )(( ( 。観応の擾乱を契機として、尊氏派である新越後守護宇都 宮氏綱との関係構築を模索する越後国人もあったのである。羽黒義成などはそ うした越後国人のひとりであったといえ る )(( ( 。 守護遵行の仕組みのなかで越後守護宇都宮氏綱のうごきがみえるのは、文和 三年(一三五四)二月八日、関東執事畠山国清から「越後国豊田庄并同国奥山 庄内金山郷等」を和田茂助に沙汰するよう命じられた文書であ る )(( ( 。そしてこれ 以降、宇都宮氏綱のもとで越後守護代であった芳賀高家の発給文書が九通 ほ ど 散見され る )(( ( 。 ①   越 後 国 奥 山 庄 内 金 山 郷 事、 任 二 去 年 十 月 廿 四 日 奉 書 之 旨 一 打 二 下 地 於 三浦和田土佐守茂 資 〔助〕 一了、仍渡状如件、 文和四年二月十日        右衛門尉高家 在判            沙弥良 性 )(( ( ②   小 泉 庄 内 弐 分 方 事 、 任 下 下 一 旨 上 所 レ 三 浦 和 田 土 左 守 茂 助 一 也、仍渡状如 レ件、 文和四年六月廿九日           駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花 押 )(( ( ) ③   三 浦 和 田 与 三 景 茂 申 母 儀 所 領 高 浜・ 桜 曾 禰 内 田 畠 在 家 等 事、 止 二 加 地 近 ( 景 綱 ) 江守 違乱 一、可汰付 景 ( 和 田 ) 茂 一之状如件、 十 ( 文 和 四 年 カ ) 月四日        高 〔芳賀高家〕 □ (花押) 蒲原郡々奉行御 中 )(( ( ④   和田三郎左衛門尉 義 ( 羽 黒 ) 成 申妻女所領桜曾禰・高浜条内田畠在家等事、佐々 木 加 地 又 三 郎・ 同 福 丸 等 致 二 妨 一 々、 所 レ 無 二 違 一者、 可 レ 二 彼 違 乱 一 若 又 有 二 子 細 一者、 ■ 令 ■ 出 ■ 府 可 二 申 一 旨、 可 レ レ 相 二 触 加 地 又三郎・同福丸等 一之由候也、仍執達如件、 文和四年十一月七日           駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花押) 蒲原郡御奉行御 中 )(( ( ⑤   越 後 国 蒲 原 郡 豊 田 庄 闕 所 分 事 除致御方 輩所領分 、 任 二 下 文 之 旨 一 可 レ 沙 汰 一 状如 レ件、 延文元年八月六 日 )(( (        駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 ⑥   越 後 国 奥 山 庄 内 塩 谷・ 塩 沢・ 鍬 江・ 荒 居 等 事、 誤 雖 レ 被 レ 二 給 人 一 理 運無 二子細之上者、如元可知行状如件、 延文元年八月六日        駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花押)      和田 下 ( 茂 実 ) 野権守 殿 )(( ( ⑦   蒲 原 郡 豊 田 庄 内 闕 所 分 除御 方領 事、 任 二 御 下 文 之 旨 一 可 レ 二 知 行 一者、 守 二 例 一沙汰之由候也、仍執達如件、 延文元年十一月廿二日          駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花押) 三浦和田 土 ( 茂 助 ) 左守 殿 )(( ( ⑧   参 二御方忠節者、於本領相違由候也、仍執達如 レ 件、 延文元年十二月九日           駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花押) 村山 右 ( 信 義 ) 京亮 殿 )(( ( ⑨   越 後 国 山 東 郡 吉 河 庄 内 大 津 并 苽 生 両 条 事、 任 二 下 文 之 間 〔旨〕 一 本 郷 弥 五郎頼泰 一候了、仍状如件、 延文二年四月廿六日           駿 ( 芳 賀 高 家 ) 河守 (花押 影 )(( ( ) この九通を通覧すると、文書様式が一定していないことがわかる。それゆえ この越後守護代芳賀高家発給文書は、文書相互の相違点に着目しつつ詳細に考 察をくわえる必要がある。 はじめに①②は、ともに和田持助の所領に関する打渡状である。しかし①は 連署、②は単署である。その理由は不明である。しかし、これを守護代芳賀氏 が越後国内において単独で守護遵行ができる仕組みを整えていった過程とみれ ば、 宇 都 宮 氏 の 越 後 守 護 と し て の 勢 力 伸 張 の 証 左 と 捉 え る こ と も 可 能 で あ る。 ついで③④は、ともに蒲原郡奉行宛の文書である。この③④は、おなじ土地に 関する内容である。しかし書止文言 ほ かの文書様式が異なる。その理由もまた 不明と言わざるをえない。しかし③の料紙は切紙である。そこでこれを、③が もともと折紙形式の文書であったためと措定すれば、書止文言の違いもそこに 由来するものとみることができる。それは畢竟、越後守護代と蒲原郡奉行のあ

(5)

いだの書札礼をめぐる政治的葛藤の表出とみることもできよう。ついで⑤⑦⑨ は、 いずれも 「任 二御下文之旨 との文言がふくまれていることに特徴がある。 これは守護の宇都宮氏綱が越後国に在国していなかったため、その手続きが簡 略 化 さ れ た 証 左 と み る 見 解 が あ る。 首 肯 さ れ る べ き で あ る。 し か し「 任 二 御 下 文 之 旨 一 と の 文 言 は、 一 般 的 に は 守 護 の 発 給 文 書 が も ち い る も の で あ り、 守 護代の発給文書がもちいる文言としては不適切である。くわえて⑤⑦⑨は、書 止文言もまた一定していない。これは一体いかなる所以なのであろうか。案ず るにそれは、芳賀高家が守護代として発給すべき文書様式への原則が固まって いなかったためとみるべきではなかろうか。下野宇都宮氏は、鎌倉幕府の滅亡 後、このときまで守護職を獲得したことがなかった。それゆえ室町幕府のもと ではじめて宇都宮氏綱が上野・越後守護となったとき、宇都宮氏被官の芳賀氏 に は 守 護 代 と し て の 行 政 経 験 が 皆 無 で あ っ た。 こ れ ま で 指 摘 し て き た よ う な、 ① ② に み え た 守 護 遵 行 の 形 態 変 化 、 ③ ④ に み え た 蒲 原 郡 奉 行 宛 の 文 書 様 式 の 揺 れ 、⑤ ⑦ ⑨ に み え る 「 任 二御下文之旨」なる一般的には不適切な文言の使用は、 いずれも行政運営や文書様式が定型化できていない芳賀高家の越後守護代とし ての経験値を示しているようにみえる。そしてそれは、⑥を安堵状のような文 書形式で発給し、⑧が④⑦と同様の書止文言を使用するなど、奉書と直状の関 係 ほ か 種 々 の 文 書 様 式 が 不 統 一 で あ る こ と に 繋 が っ て い る の で は な か ろ う か。 越後守護代芳賀高家の発給文書は、一般的な守護代発給文書と異なり、いわゆ る様式論によって分析するにはやや不適合な部分を有しているようにみえる。 こ れ は 、 越 後 国 に 残 存 す る 芳 賀 高 家 発 給 文 書 と そ の 兄 芳 賀 高 貞 発 給 文 書 の 関 係 を み る と き に も 留 意 す べ き 問 題 を 提 起 し て い る 。 の ち の 延 文 二 年 ( 一 三 五 七 ) 六 月 十 一 日 、 芳 賀 高 家 の 兄 芳 賀 高 貞 は 、 越 後 国 人 の 色 部 遠 江 守 に 対 し て 、 越 後 国 小 泉 荘 内 の 土 地 を 兵 粮 料 所 と し て 預 置 く 文 書 を 発 給 し て い る )(( ( 。 そ し て 、 そ の 文 書 を も っ て 越 後 守 護 代 が 弟 芳 賀 高 家 か ら 兄 芳 賀 高 貞 に 交 替 し た と み る 見 解 が あ る 。 し か し そ れ は 、 兄 芳 賀 高 貞 が 軍 事 指 揮 権 の 範 疇 で 同 文 書 を 発 給 し て い る と 措 定 す る こ と も で き よ う 。 ま た 越 後 国 で は 、 宇 都 宮 氏 の 奉 行 人 と み ら れ る 「 左 衛 門 尉 」 な る 人 物 の 発 給 文 書 も 知 ら れ る )(( ( 。 守 護 宇 都 宮 氏 綱 期 の 越 後 国 で は 、 い わ ゆ る 行 政 権 を 守 護 代 で あ る 弟 芳 賀 高 家 が つ か さ ど り 、 南 朝 方 勢 力 や 旧 守 護 上 杉 氏 勢 力 と の 武 力 抗 争 に お け る 軍 事 指 揮 権 に つ い て は 兄 芳 賀 高 貞 が 主 導 し て い た と み る の が 整 合 的 で あ る よ う に み え る 。 越 後 国 に お け る 兄 芳 賀 高 貞 と 弟 芳 賀 高 家 の 関 係 性 は 、 こ れ も ま た 発 給 文 書 の 様 式 論 か ら 判 断 す る こ と が 非 常 に 難 し い 。そ し て そ れ こ そ が 、 守 護 宇 都 宮 氏 綱 期 に お け る 越 後 国 の 守 護 機 構 の 特 質 と い え る の で は な か ろ う か 。 二、岩殿山合戦の推移 鎌倉公方足利基氏は、貞治二年(一三六三)三月、兄の将軍足利義詮と連携 の う え 上 杉 憲 顕 を 「 関 東 管 領 )(( ( 」 と し て 鎌 倉 に 復 帰 さ せ る 道 を ひ ら い た。 こ れ は観応の擾乱後、逼塞を余儀なくされていた旧直義派の東国武家に政治的復権 の機会が与えられたことを意味す る )(( ( 。一方、それは旧尊氏派の東国武家にとっ て鎌倉府中枢からの凋落を意味していた。このうち典型的な尊氏派であった宇 都宮氏綱は、上野・越後二ヶ国の守護職をめぐって、直義派の上杉憲顕と競合 関係にあった。そうした政治的経緯に鑑みれば、宇都宮氏綱と上杉憲顕が並存 し難い関係にあったことはあきらかである。畢竟、宇都宮氏綱は上杉憲顕の鎌 倉復帰に反対する立場を明確にし、 武力抗争に訴えたのであった。その推移は、 『太平記』巻三十九芳賀兵衛入道軍事の題材としてもとりあげられている。 貞治二年八月、足利基氏は、上杉憲顕の復帰にさいして障害となる宇都宮氏 綱 を 討 伐 す る 意 志 を 固 め た。 『 後 愚 昧 記 』 貞 治 二 年 六 月 三 日 条 に は「 今 日 所 レ 下 二 関 東 一 使 節 海 老 名 備 中 守 入 道 上 洛 云 々、 鎌 ( 足 利 基 氏 ) 倉 武 衛 不 レ 洛 一 々」 と ある。上洛しないことを室町幕府に伝える足利基氏の言動に鑑みると、すでに 五月中には宇都宮氏綱討伐を決意していたのであろうか。そして同八月、足利 基氏は宇都宮氏討伐の軍勢催促をおこなったのであった。 依 二 杉 入 ( 憲 顕 ) 道 参 上 一 宇 都 宮 下 ( 氏 綱 ) 野 守 可 レ 二 合 戦 一 之 由 有 二 其 聞 一 間、 既 来 廿日所 二発向也、不時剋馳参之状如件、 貞治二年八月十八日           ( 足 利 基 氏 ) 花押影) 小野崎伊勢守 殿 )(( ( こ の と き 宇 都 宮 氏 の 政 治・ 軍 事 的 中 核 を 実 質 的 に 掌 っ て い た の は 芳 賀 氏 で あった。しかし討伐対象として掲げられているのはあくまでも当主の宇都宮氏 綱である。これは、宇都宮氏と芳賀氏の家格をとらえるさい重要な意味をもつ 問題である。

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東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 67 集(2016) さ て 常 陸 国 人 の 小 野 崎 氏 に 発 給 さ れ た こ の 軍 勢 催 促 状 は 、 足 利 基 氏 が 八 月 二 十 日 に 鎌 倉 か ら 発 向 す る こ と を 表 明 し た う え で 、 宇 都 宮 氏 討 伐 へ の 参 陣 を 命 じ て い る 。 し か し 東 国 武 家 が 、 す ぐ さ ま こ れ に 応 じ た の か は 不 明 で あ る 。 た と え ば 同 二 十 九 日 、 足 利 基 氏 は 那 須 周 防 守 に 対 し て 「 凶 (宇都宮氏綱) 徒 蜂 起 之 間 、 去 廿 六 日 合 (岩殿山) 戦 所 二 勝 一 、 不 レ 日 一 参 一 状 如 レ )(( ( 」 と の 軍 勢 催 促 状 を 発 給 し て い る 。 こ こ で 足 利 基 氏 は 、 同 二 十 六 日 の い わ ゆ る 岩 殿 山 合 戦 の 勝 利 を わ ざ わ ざ 明 記 し た う え で 参 陣 を も と め て い る の で あ る 。 こ れ は 、 岩 殿 山 合 戦 の 結 果 を う け て も な お 去 就 を 明 ら か に し な い 東 国 武 家 が 数 多 く 存 在 し た こ と を 想 定 さ せ る 。 また前述『太平記』には、岩殿山合戦の最中でも日和見主義をつらぬく平一 揆や白旗一揆など一揆層の姿が印象的に描かれている。そうした態度をとった のは、いわゆる一揆層だけだったのではあるまい。おそらく在地にて社会情勢 を 凝 視 す る 国 人 層 も 同 様 だ っ た の で あ る。 た と え ば 足 利 基 氏 は、 翌 九 月 六 日、 南 奥 国 人 の 長 沼 秀 直 に「 宇 都 宮 下 ( 氏 綱 ) 野 守 可 レ 二 籠 藤 原 一 有 二 聞 一 早 差 二 塞 通 路 一 可 レ退 治 之 術 一 状 如 レ )(( ( 」 と の 文 書 を 発 給 し、 宇 都 宮 氏 を 北 側 か ら 圧 迫 す る よ う に 命 じ て い る。 ま た 同 十 日、 足 利 基 氏 は、 下 野 国 人 の 茂 木 智 世 に 「 凶 (宇都宮氏綱) 徒 蜂 起 之 間 所 二 討 散 一 〔也カ〕 、 不 レ 廻 二 日 一 参 一 〔之〕 状 如 レ )(( ( 」 と の 文 書 を 送 達し、やはり岩殿山合戦の勝利を明記したうえで参陣をもとめている。こうし た軍勢催促状の存在に鑑みると、宇都宮氏勢力圏と隣接する陸奥・下野の国人 層のなかには、その去就を明確にしないものがとくに多かったのであろう。 ついで足利基氏の動向を詳らかにすることによって、岩殿山合戦の推移を跡 づけておきたい。八月二十日、鎌倉から発向した足利基氏は、同二十五日、武 蔵国苦林野宿に陣をかまえ た )(( ( 。そして翌二十六日、北隣の「岩殿 山 )(( ( 」に集結し た 宇 都 宮 勢 と 合 戦 に お よ ん だ の で あ る。 岩 殿 山 合 戦 の 様 相 は、 『 後 愚 昧 記 』 貞 治二年九月九日条につぎのように著されている。 伝 聞、 此 間 自 二 関 東 一 脚 到 来、 兵 衛 督 基(足利) 氏朝臣      与 二 津 〔都〕 宮 一 族 等 一 戦、 両 方 各十万余人討死了、 宇 ( 氏 綱 ) 津宮 引退籠城了云々、 伝聞記事であるため誇張された表現もふくまれるが、岩殿山合戦が東国のみ ならず京都の人々にとっても大きな関心事であったことがわかる。また鶴岡八 幡宮別当の弘賢は、のちの応永九年(一四〇二)二月五日、その譲状案のなか で伊豆走湯山の別当職について「去貞治年中、 為 二岩殿山御留守賞而 瑞 ( 足 利 基 氏 ) 泉寺殿 御代拝補 訖 )(( ( 」と記している。ここに岩殿山合戦は、当時の人々にとって東国社 会の歴史的転換点あたる出来事と認識されていたことがわかる。そうした背景 もあって岩殿山合戦の情報は、すぐさま京都にも伝えられたのであろう。前述 『太平記』 が、 岩殿山合戦を題材としてとりあげているのもそのためといえよう。 『 源 威 集 』 に は、 岩 殿 山 合 戦 の 前 日 夜( 二 十 五 日 夜 ) の 足 利 基 氏 の 動 向 が つ ぎのように描かれている。 基 ( 足 利 ) 氏 朝 臣、 貞 治 二 癸 卯 月 廿 五 日 夜 雨 、 御 陣 武 州 苦 林 ノ 野 宿 ニ テ、 明 日 巌 イ ハ ト ノ 殿 山合戦成シ夜半計、御唐櫃ヨリ御笛取出シ、御具足堅メナガラ左右ノ御籠 手ノ指掛ヲ丶ロシ、 鎖 クサリ ノ指懸ヲ解セ給、御籠手ヲ臂ノ方へ押コカシ、音ヲ ハ 不 レ 立 御 息 ノ 下 ニ テ、 早 キ 楽 ヲ 半 時 計 遊 セ シ ヲ 承 テ、 乍 レ 何 楽 ニ テ 候 由 言 上 シ タ リ シ カ バ 、 初 ソ 聞 キ ク ラ ン 覧 、 荒 序 也、 手 碎 テ 忘 安 キ 楽 成 間、 百 日 不 レ 闕 是 ニ 稽 古 毎 日 所 作 也、 明 日 合 戦 手 ヲ 丶 ロ サ バ 存 命 不 レ 也、 不 レ 日 ニ   一 且 ハ 笛 ノ 餘 ナ ゴ 波 リ、 且 ハ 為 二 天 一 ノ 祈 祷 成 ト テ、 押 沈 メ 御 座 シ 事 ノ 體、 御 笛 ノ 稽 古 ハ 去 事 ナ レ ト モ 不 思 議 ニ ソ 見 奉 リ シ、 思 ヘ ハ 永 保 ノ 昔、 義 ( 源 ) 家 ・ 義 ( 源 ) 光 戦 場 ニ 御 笛 ヲ 携 タツサヘ 賜 テ、 彼 若 冠 ニ 大 事 ヲ 授 給 ケ ル ハ、 御 当 家 ノ 庭 訓 成 ケ リ ト、 昔 今 ヲ 感 奉 シ カ、 夜 明 シ カ ハ 武 州 巌 イ ハ ト ノ 殿 山 ノ 御 合 戦 ニ テ 敵 ヲ 多 ク 討取、関東静謐有リシ也、 足利基氏は、岩殿山合戦の前日夜、在陣する武蔵国苦林野宿にて御具足を装 着したまま、ひとり御笛の曲目「荒序」を無音・御息のみにて稽古していたと いう。源義光の御笛をめぐる伝説を引用しながら、足利基氏の文化的教養を示 した著述である。そして『源威集』の描写をみると、岩殿山にはすでに集結し た 宇 都 宮 氏 の 軍 勢 が あ る か の ご と く で あ る。 こ れ ま で 岩 殿 山 合 戦 に つ い て は、 同地が足利基氏の近臣高坂氏重の本拠地近隣であることから、足利基氏側が高 坂 氏 勢 力 圏 内 の 岩 殿 山 を 合 戦 場 と し て 積 極 的 に 選 ん だ も の と 評 価 さ れ て き た )(( ( 。 しかし、宇都宮勢が足利基氏よりもさきに岩殿山へ到着して軍陣を構えていた ならば、合戦場の選択に足利基氏の主体的意図をみることは難しい。足利基氏 が 宇 都 宮 勢 を 待 構 え る か た ち で 岩 殿 山 合 戦 が お こ な わ れ た と す る 従 来 の 見 解 は、再検討の余地があるのではなかろう か )(( ( 。 岩殿山合戦に足利基氏勢として参加したことが一次史料から確認できる東国 武家は、常陸国人の中村弥次郎 貞 (定) 行のみであ る )(( ( 。おそらく足利基氏勢は、軍勢

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が思うように参集しなかったのである。また □ 〔志村カ〕 □ 六郎左衛門入道常全の軍忠状 をみる と )(( ( 、四日後の同三十日、いまだ岩殿山周辺では宇都宮勢の掃討戦が続い ている。いずれも岩殿山合戦が激戦であったと伝承される所以であろう。 な お 常 陸 国 人 の 烟 田 時 幹 は、 翌 月 の 九 月 五 日 に な っ て か ら 下 野 国「 足 利 御 陣 )(( ( 」に滞在する足利基氏のもとへ馳参じた。そしてそこから下野国宇都宮にむ けて進軍する足利基氏に「供 奉 )(( ( 」したのであった。東国武家の参集が鈍かった とみられる徴証のひとつである。 さて、こうした足利基氏勢のうごきに対して在国していた宇都宮氏綱は、み ず か ら 下 野 国 小 山 の 天 王 宿 に お も む き 足 利 基 氏 に 面 拝 し て 服 属 し た の で あ っ た )(( ( 。『 太 平 記 』 の 描 写 に 鑑 み る と 足 利 基 氏 は、 岩 殿 山 合 戦 の 首 謀 者 を 芳 賀 氏 と みなすことで政治的決着をはかったようである。宇都宮氏綱は、足利基氏に武 力抗争をいどみ敗れながらもひとたびは許されたのであった。しかし岩殿山合 戦の結果、宇都宮氏綱は薩埵山体制から完全に脱落し、鎌倉府中枢は関東管領 上杉憲顕にその主導権が移行してゆくこととなった。この後、足利基氏の存命 中、宇都宮氏綱と上杉憲顕の政治抗争が表面化することはなかった。しかし足 利基氏の死去によって事態は再びうごきだすのである。 三、河越合戦・宇都宮合戦の推移 応安元年(一三六八)二月、旧尊氏派の河越直重が鎌倉府に対する武力抗争 にでた。武蔵国河越舘に立籠ったのであ る )(( ( 。このとき鎌倉府は、河越直重ら平 一揆とともに宇都宮氏綱もあわせて討伐対象としたのであった。鎌倉府は、河 越氏ら平一揆と宇都宮氏が連携しているとみなしたのである。 事の発端は、前年の貞治六年(一三六七)四月二十六日、鎌倉公方足利基氏 が死去したことにあ る )(( ( 。河越氏ら平一揆は、 新鎌倉公方足利金王丸(のち氏満) と 関 東 管 領 上 杉 憲 顕 を 中 心 と し た 次 期 鎌 倉 府 体 制 へ の 不 満 を 表 出 さ せ た の で あった。これに対して鎌倉府勢は、武蔵国河越に発向した。そして河越氏をし り ぞ け た 後、 鎌 倉 府 勢 は そ の ま ま 下 野 国 宇 都 宮 へ む け て 進 軍 し た の で あ っ た。 宇都宮氏綱は、岩殿山合戦以来、五年をへてふたたび討伐対象とされたのであ る )(( ( 。本節では、それら河越合戦・宇都宮合戦の推移をあきらかにする。 まず河越氏ら平一揆は、関東管領上杉憲顕が京都に上洛した時期を狙って蜂 起した。応安元年二月当時、上杉憲顕は新将軍足利義満の就任慶賀のために上 洛していたのである。このころ上杉憲顕は、 上洛をくり返していたようである。 た と え ば 前 年 の『 師 守 記 』 貞 治 六 年 七 月 八 日 条 に は、 「 今 夜 上 椙 民 部 大 輔 入 道 俗名 憲顕 上 洛、 自 二 上 野 国 一 洛 云 々、 被 レ 二 宿 三 条 西 洞 院 大 草 入 道 妙 香 宿 所 一 々」 とある。これは上杉憲顕が、同四月二十六日の足利基氏の死去後、同十二月七 日の足利義詮の死去までの間、足利義詮と協議を加えるため京都と東国のあい だを往来していたことを示している。 上杉憲顕が河越氏ら平一揆の蜂起を知ったのは、前述のごとく京都に滞在し て い る と き で あ っ た。 し か し 上 杉 憲 顕 が 東 国 へ 戻 っ た の は、 『 花 営 三 代 記 』 応 安 元 年 三 月 二 十 八 日 条 に「 上 椙 民 ( 憲 顕 ) 部 大 輔 入 道 下 二 関 東 一 但 自 二 道 一 可 レ レ 出 二 上 野 国 一 云 々」 と あ る よ う に、 翌 月 の 三 月 末 の こ と で あ っ た )(( ( 。 つ ぎ に み る ように鎌倉府勢は、いそぎ犬懸上杉朝房を主力として発向したのであろう。 河越合戦については、一次史料が稀少で詳細は不明である。わずかに犬懸上 杉朝房が、合戦後、鎌倉瑞泉寺の義堂周信を訪れて禅問答したときの記事が知 ら れ る の み で あ る。 犬 懸 上 杉 朝 房 と 義 堂 周 信 が 交 わ し た 会 話 の 内 容 は、 『 空 華 日用工夫略集』応安元年閏六月二日条につぎのように著されている。 上 杉 霜 ( 朝 房 ) 台 、 北 征 レ賊、 々 退 後 帰 レ 自 二 城 一 今 日 特 入 二 山 ( 瑞 泉 寺 ) 中 一 故 ( 足 利 基 氏 ) 府 君 影 前 炷 レ香与余対談、 遂問、 近因 二謀叛者 為 レ国殺太多、 罪当 レ何人 答、 当 レ 兵 者 一 又 問、 一 念 不 生、 環 有 二 者 一耶、 余 励 レ 曰、 且 莫 二 大話 一 又問、 某近臨 二戦場乃悔悟、 坐禅工夫莫 下是怕生死底小乗心麼、 余 曰、 莫 レ 念 一 是 乃 一 念 不 生 之 基 根 也、 問、 必 竟 作 麼 生 用 心、 余 良 久云、会麼、公曰、不 レ会、余云、且去別時来、 犬懸上杉朝房は、閏六月二日、鎌倉瑞泉寺の義堂周信のもとを訪れ、故足利 基氏の影前で香を焚きつつ、河越合戦での殺罪について心境を吐露し、助言を 求めたのであった。河越合戦は、鎌倉府体制のあり方をめぐる政治抗争に起因 する側面があったため、 合戦の当事者にはさまざまな葛藤があったのであろう。 なお河越合戦の結果は、 『花営三代記』応安元年六月二十八日条に「関東事、 去 十 一 日 於 二 武 州 一 一 掻 〔揆〕 打 二 合 戦 一 引 二 籠 川 〔河〕 越 館 一 由 使 者 到 来 云 々」 と み える。おそらく六月中旬には鎌倉府勢の勝利が確定していたのであ る )(( ( 。上杉憲

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東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 67 集(2016) 顕が京都から東国へ戻った後、新鎌倉公方足利金王丸ら鎌倉府勢が本格的に武 蔵国河越舘へ発向したことも関係しているのであろ う )(( ( 。そして鎌倉府勢は、そ のまま下野国宇都宮へ転戦したのであった。 鎌倉府勢の下野国宇都宮に向けてのうごきは、岩殿山合戦のときの宇都宮討 伐とは大きく異なっていた。それは岩殿山合戦時と異なり、宇都宮氏綱が服属 のための拝謁に訪れなかったからである。そこで鎌倉府勢は、下野国宇都宮ま で進軍して実際に宇都宮氏居館(宇都宮城)を取囲んだのであった。 宇 都 宮 合 戦 の 様 相 は、 こ れ に 参 加 し た 市 河 頼 房・ 市 河 弥 六 入 道 代 難 波 基 房 )(( ( 、 嶋津大隅弥三郎代田村右衛門次郎忠 長 )(( ( 、善波十郎左衛門尉胤 久 )(( ( 、南部右馬助入 道法 言 )(( ( の軍忠状によってあきらかとなる。その内容を整理すると、鎌倉府勢の うごきはつぎのように復元できる。 応安元年六月十七日の河越合戦終息後、鎌倉府勢は同十九日までにひとたび 武蔵国府中へ戻った。そして同二十七日から順次に武蔵国牛嶋の平一揆勢討伐 へ向かった。武蔵国牛嶋は、 隅田川が江戸湾にそそぐ河口部に位置し、 入間川 ・ 隅田川水系をつうじて武蔵国河越と直接むすばれていた。おそらく武蔵国牛嶋 の在地領主牛嶋氏は、江戸氏一族として平一揆の構成員だったのである。鎌倉 府勢は、武蔵国牛嶋をおさえることによって江戸湾から武蔵国河越にいたる河 川流通の掌握をはかったのであろう。あるいは河越から牛嶋に逃れてきた平一 揆の構成員もいたのであろうか。いずれにせよ鎌倉府勢は、武蔵国牛嶋を確保 した後、ふたたび武蔵国府中へ戻った。なお武蔵国府中はこれ以降、歴代鎌倉 公 方 が 軍 事 行 動 を 起 こ す と き の 起 点 都 市 と な る )(( ( 。 そ し て 閏 六 月 二 十 五 日 に は、 下野国足利へ移動したのである。その後、鎌倉府勢は七月二十六日、足利をで て宇都宮へ発向した。進路は、植野(佐野市植野)を経由し、八月四日には吹 上(栃木市吹上町)に着陣した。そして八月十九日、横田要害(宇都宮市兵庫 塚町)にて宇都宮勢との合戦が始まった。鎌倉府勢は、 大塚(宇都宮市大塚町) に御陣をかまえて態勢を整えた後、同二十九日、贄木城(宇都宮市新町)を攻 略 し た )(( ( 。 そ し て 九 月 六 日、 最 終 的 に 宇 都 宮 城 の 攻 撃 に と り か か っ た の で あ る。 な お 同 日 に は、 宇 都 宮 方 の 石 井 城( 宇 都 宮 市 石 井 町 ) に も 攻 撃 を 加 え て い る。 二 十 九 日 の 贄 木 城 攻 略 の と き「 越 二 田 河 )(( ( 一 え て 出 張 し て き た 御 敵 と は、 こ の 石井城の宇都宮勢であろう。こうした一連の宇都宮合戦は、九月上旬には終息 したようである。宇都宮氏綱は、ふたたび鎌倉府勢に降伏したのであろう。 宇都宮合戦の推移をみると、宇都宮氏本拠は複数の城と要害によって一体的 に構成されていたことがわかる。この点、近隣の下野国小山もそうした様相を 呈 し て い た こ と が 知 ら れ て い る。 城 館 群 に よ っ て 本 拠 を 構 成 す る 都 市 構 造 は、 下野国に特徴的な景観だったとみることもできる。 なお乱後の宇都宮氏綱の処遇は定かではない。しかし宇都宮氏綱がその本領 を没収されなかったであろうことは、つぎの寄進状からあきらかとなる。    寄附      簗瀬郷内鷺谷給分跡之事    右、為 二一向寺領先例執務之状如件、      応 □ 〔安カ〕 □ 〔元カ〕 年十月七日         氏 (宇都宮) 綱 (花押)       一向 寺 )(( ( 宇都宮氏綱は、宇都宮合戦にて鎌倉府勢に降伏した翌月、一向寺に対して簗 瀬郷(宇都宮市簗瀬)の鷺谷給分を寄進している。これは宇都宮氏綱が、降伏 後も本領は維持できていたことを明示している。その理由は、生田本『鎌倉大 日 記 』 応 安 元 年 条 の「 御 敵 平 一 揆 与 同 御 罪 科 事、 以 二 埵 忠 賞 観 応 年 中 拝 領 地 一収公 一 、御 二免本領訖、 但観応 ニ 無 二拝領地仁者、 本領三分一被 二収公云々」 との描写が示唆的である。おそらく宇都宮氏綱は、観応の擾乱のさい獲得した 所領を手放すことで赦免されたのである。また『空華日用工夫略集』応安六年 ( 一 三 七 三 ) 五 月 四 日 条 に「 宇 都 宮 三 郎、 受 衣 」 と み え る の は、 宇 都 宮 氏 が 鎌 倉府との関係修復を模索した試みのひとつと捉えることもできよう。 おわりに 以上、いわゆる薩埵山体制の三本柱の一角とみなされ、観応の擾乱後の鎌倉 府中枢を担っていたとされる宇都宮氏綱の動向を考察した。 観応~応安期における宇都宮氏綱の様相をみると、当時の宇都宮氏綱は、鎌 倉公方足利基氏が長期在陣していた武蔵国入間川には同陣していなかったとみ られる。おそらく宇都宮氏綱は、下野国宇都宮に居住していたのである。これ は薩埵山体制の三本柱の一角とみなされる宇都宮氏綱が、じっさいには鎌倉府

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中枢の意思決定には深く関与していなかったことを示している。宇都宮氏綱を 薩埵山体制の三本柱の一角とみなす見解は、宇都宮氏綱の乱の全体像から獲得 される印象論ということになる。 宇都宮氏綱が二度にわたり鎌倉府から討伐を受けたのは、 上杉憲顕との政治 ・ 経済的な競合がその要因といえる。つまり薩埵山体制の三本柱とみなされる畠 山国清・河越直重・宇都宮氏綱の三人のうち、畠山国清・河越直重と宇都宮氏 綱では上杉憲顕との関係において決定的な相違点があるのである。薩埵山体制 については、一門・譜代被官か関東武士かという構成員の外見的枠組みの問題 のみならず、多様な要素について検討を進める余地があろう。 宇都宮氏綱は、 岩殿山合戦の段階で実質的には鎌倉府中枢から脱落していた。 しかし上杉憲顕は、 河越合戦に乗じてふたたび宇都宮氏綱に軍事圧力を加えた。 宇都宮合戦には、上杉憲顕の強い意志がうかがえるのである。そしてそれこそ が、旧薩埵山体制における宇都宮氏綱の軍事的意味が強調されてきた所以であ り、また宇都宮氏綱と上杉憲顕の政治経済的な競合・対立関係の根深さを示す 証左でもある。それは一方、宇都宮氏が、二代鎌倉公方足利氏満とは政治的な 対立構造を抱えていなかったことを意味している。これはのちに宇都宮氏綱の 子息宇都宮基綱が小山義政と私闘を繰りひろげたさい、足利氏満が宇都宮基綱 に親和的な政治姿勢をとった前提としても興味深い。 また越後守護代芳賀氏の発給文書には、古文書学的な様式論ではとらえきれ ない特徴がある。これは、鎌倉期以来の在地領主としての宇都宮氏の文書発給 の形態を色濃く残しているためとみることもできる。そうした東国武家文書の 時代横断的な考察は、今後の課題としたい。 ( 1 ) 渡 辺 世 祐『 関 東 中 心 足 利 時 代 之 研 究 』( 雄 山 閣、 一 九 二 六 年 )、 峰 岸 純 夫『 足 利 尊 氏と直義』 (吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。 ( 2 ) 峰 岸 純 夫「 南 北 朝 内 乱 と 武 士 ― 薩 埵 山 体 制 の 成 立 と 崩 壊 ―」 (『 中 世 の 合 戦 と 城 郭 』 高 志 書 院、 二 〇 〇 九 年、 初 出 一 九 九 八 年 )、 植 田 真 平「 南 北 朝 後 期 鎌 倉 府 の 関 東 支 配 体 制 と 公 方 直 臣 ―「 薩 埵 山 体 制 」 の 特 質 と そ の 展 開 過 程 ―」 (『 日 本 歴 史 』 七五〇、 二〇一〇年)など参照。 ( 3 ) 清 水 昭 二「 南 北 朝 期 の 宇 都 宮 氏 ― 宇 都 宮 氏 綱 を 中 心 に ―」 ( 江 田 郁 夫 編『 下 野 宇 都 宮 氏 』 戎 光 祥 出 版、 二 〇 一 一 年、 初 出 一 九 七 四 年 )、 江 田 郁 夫「 鎌 倉 府「 薩 埵 山 体 制 」 と 宇 都 宮 氏 綱 」( 『 室 町 幕 府 東 国 支 配 の 研 究 』 高 志 書 院、 二 〇 〇 八 年、 初 出 二〇〇〇年) 、および『宇都宮市史』第三巻中世通史編(一九八一年、 文責清水昭二) など参照。 ( 4 ) 小 川 信「 畠 山 国 清 の 動 向 と 分 国 の 消 長 」( 『 足 利 一 門 守 護 発 展 史 の 研 究 』 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 〇 年、 初 出 一 九 七 七 年 )、 佐 藤 和 彦「 南 北 朝 内 乱 と 東 国 社 会 ― 十 四 世 紀 後半における諸乱の検討―」 (『日本中世の内乱と民衆運動』校倉書房、 一九九六年、 初 出 一 九 八 四 年 )、 小 林 一 岳「 畠 山 国 清 の 乱 と 一 揆 」( 『 日 本 中 世 の 一 揆 と 戦 争 』 校 倉 書 房、 二 〇 〇 一 年、 初 出 一 九 九 六 年 )、 拙 稿「 畠 山 国 清 の 乱 と 伊 豆 国 」( 黒 田 基 樹 編『足利基氏とその時代』戎光祥出版、二〇一三年)など参照。 ( 5 ) 小 林 一 岳「 中 世 関 東 に お け る 一 揆 と 戦 争 」( 前 掲『 日 本 中 世 の 一 揆 と 戦 争 』 所 収、 初 出 一 九 九 四 年 )、 角 田 朋 彦「 平 一 揆 に 関 す る 一 考 察 ― 鎌 倉 府 と の 関 係 を 中 心 に ―」 ( 岡 田 清 一 編『 河 越 氏 の 研 究 』 名 著 出 版、 二 〇 〇 三 年、 初 出 一 九 九 四 年 )、 同「 烟 田 氏と平一揆」 (烟田町史研究 『七瀬』 八、 一九九八年) 、小国浩寿 「足利尊氏と平一揆」 (『 鎌 倉 府 体 制 と 東 国 』 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 一 年、 初 出 一 九 九 五 年 )、 同「 鎌 倉 府 基 氏政権期の守護政策と平一揆」 (前掲『鎌倉府体制と東国』所収、 初出一九九五年) 、 同「 平 一 揆 と そ の 時 代 」( 前 掲『 河 越 氏 の 研 究 』 所 収、 初 出 一 九 九 八 年 )、 同「 相 模 平 一 揆 成 立 の 諸 前 提 」( 浅 野 晴 樹・ 斎 藤 慎 一 編『 中 世 東 国 の 世 界 』 2 南 関 東、 高 志 書 院、 二 〇 〇 四 年 )、 同「 南 北 朝・ 室 町 期 の 南 武 蔵 領 主 の 様 態 と 前 提 ― 武 州 普 済 寺 と 平 姓 柴 崎 氏 を 手 が か り に ―」 ( 清 水 亮 編『 畠 山 重 忠 』 戎 光 祥 出 版、 二 〇 一 二 年、 初 出 二 〇 〇 五 年 )、 海 津 一 朗「 武 蔵 国 一 揆 の ば さ ら 大 将 ― 河 越 直 重 ―」 (『 楠 木 正 成 と 悪 党 』 ち く ま 新 書、 一 九 九 九 年、 初 出 一 九 九 七 年 )、 同「 入 間 河 公 方 府 と 武 蔵 国 一 揆 」( 『 南 北 朝 遺 文 』 関 東 編 第 三 巻 付 録 月 報 3 、二 〇 〇 九 年 )、 落 合 義 明「 南 北 朝 期 相 模 守 護 と 鎌 倉 ― 河 越 氏 の 守 護 時 代 を 中 心 に ―」 (『 三 浦 一 族 研 究 』 一 二、 二 〇 〇 八 年 )、 清 水 亮「 平 一 揆 の 乱 と 源 姓 畠 山 氏 」( 黒 田 基 樹 編『 足 利 氏 満 と そ の 時 代 』 戎 光 祥出版、二〇一四年)など参照。 ( 6 )湯山学「関東府侍所 ・ 伊豆国守護高坂氏重について」 (『鎌倉府の研究』岩田書院、 二 〇 一 一 年、 初 出 一 九 八 二 年 )、 角 田 朋 彦「 平 一 揆 大 将 高 坂 氏 重 に つ い て 」( 『 埼 玉

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東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第 67 集(2016) 地 方 史 』 三 九、 一 九 九 七 年 )、 木 下 聡「 鎌 倉 府 の 諸 機 関 に つ い て 」( 黒 田 基 樹 編『 足 利満兼とその時代』戎光祥出版、二〇一五年)など参照。 ( 7 ) 落 合 義 明「 陣 と 芸 能 ― 武 蔵 国 入 間 河 陣 を 中 心 と し て ―」 (『 中 世 東 国 の「 都 市 的 な 場」と武士』山川出版社、二〇〇五年、初出一九九九年)など参照。 ( 8 )佐藤進一 『室町幕府守護制度の研究』 上(東京大学出版会、 一九六七年) 、松本一夫 『東 国 守 護 の 歴 史 的 特 質 』( 岩 田 書 院、 二 〇 〇 一 年 )、 木 下 聡「 足 利 基 氏 期 の 関 東 管 領 と 守 護 」( 前 掲『 足 利 基 氏 と そ の 時 代 』 所 収、 二 〇 一 三 年 )、 外 岡 慎 一 郎「 室 町 幕 府・ 南朝と使節遵行」 (『武家権力と使節遵行』 同成社、 二〇一五年) 、ならびに 『新潟県史』 通 史 編 2 中 世( 一 九 八 七 年、 文 責 山 田 邦 明 )、 『 群 馬 県 史 』 通 史 編 3 中 世( 一 九 八 九 年、文責久保田順一)など参照。 ( 9 ) 南北朝期の芳賀氏については、 石丸煕 「南北朝動乱断章―紀清両党の動向をめぐっ て―」 (安田元久先生退任記念論集刊行委員会編 『中世日本の諸相』 下巻、 吉川弘文館、 一 九 八 九 年 )、 市 村 高 男「 文 献 史 料 か ら 見 た 飛 山 城 の 歴 史 と 性 格 」( 前 掲『 下 野 宇 都 宮 氏 』 所 収、 初 出 一 九 八 八 年 )、 松 本 一 夫「 南 北 朝 期 の 越 後 守 護 代 芳 賀 氏 を め ぐ っ て 」( 『 下 野 中 世 史 の 世 界 』 岩 田 書 院、 二 〇 一 〇 年、 初 出 二 〇 〇 八 年 )、 同「 鎌 倉 ~ 戦国前期における宇都宮氏の被官について」 (荒川善夫 ・ 佐藤博信 ・ 松本一夫編『中 世 下 野 の 権 力 と 社 会 』 岩 田 書 院、 二 〇 〇 九 年 )、 な ら び に『 真 岡 市 史 』 第 六 巻 原 始 古代中世通史編(一九八七年、文責伊藤邦彦)など参照。 ( 10)「宇都宮家蔵文書」 (『群馬県史』資料編 6 中世 2 編年史料 1 、九一八号) 。 ( 11)「蜷川親治氏所蔵文書」 (前掲『群馬県史』九四九号) 。 ( 12)「佐々木文書」 (前掲『群馬県史』九六一号) 。 ( 13)「神田孝平氏旧蔵文書」 (前掲『群馬県史』九五一号) 。 ( 14)「赤堀文書」 (前掲『群馬県史』九三六号) 。 ( 15)「氏経卿引付三」 (前掲『群馬県史』九七八 ・ 九八五号) 。 ( 16)「村山文書」 (『新潟県史』資料編 5 中世三文書編 Ⅲ 、三六五五号) 。 ( 17)「 安 国 寺 文 書 」( 前 掲『 新 潟 県 史 』 四 二 一 七 号 )。 な お 上 杉 憲 顕 は、 観 応 三 年 十 一 月 二 十 九 日 に は「 当 国 越 後 先 守 護 上 杉 民 郎 〔部〕 大 夫 〔輔〕 憲 顕 」 と 表 現 さ れ て い る( 「 反 町 英 作 氏所蔵文書 (三浦和田氏文書) 」〈『新潟県史』 資料編 4 中世二文書編 Ⅱ 、一二五九号〉 )。 ( 18)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲 『新潟県史』 一七九〇号) 。参考文書として 「小 田部庄左衛門氏所蔵文書」 (前掲『新潟県史』三七六〇号)がある。 ( 19)「反町英作氏所蔵文書(三浦和田羽黒氏文書) 」(前掲『新潟県史』一四二二号) 。 ( 20)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲『新潟県史』一八九三号) 。 ( 21)松本前掲論文「南北朝期の越後守護代芳賀氏をめぐって」参照。 ( 22)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲『新潟県史』一八〇五号) 。 ( 23)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲『新潟県史』一七九三号) 。 ( 24)「 志 賀 槇 太 郎 氏 所 蔵 文 書〔 蒐 集 文 書 〕」 ( 前 掲『 新 潟 県 史 』 三 四 六 四 号 )。 な お 本 文 書は切紙である。 ( 25)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲『新潟県史』一七九五号) 。 ( 26)「 山 形 大 学 所 蔵 中 条 家 文 書 」( 前 掲『 新 潟 県 史 』 一 七 九 六 号 )。 な お 本 文 書 は 充 所 を欠く。 ( 27)「反町英作氏所蔵文書(三浦和田氏文書) 」(前掲『新潟県史』一二九九号) 。 ( 28)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲『新潟県史』一七九九号) 。 ( 29)「 反 町 英 作 氏 所 蔵 文 書( 村 山 氏 文 書 )」 ( 前 掲『 新 潟 県 史 』 一 七 一 九 号 )。 な お 本 文 書は小切紙である。また本文書を要検討文書とみる見解もある。 ( 30)「 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 蔵 本 郷 文 書 」( 前 掲『 新 潟 県 史 』 四 〇 〇 一 号 )。 関 連 文 書 として、 足利尊氏が宇都宮氏綱に発給した「本郷左衛門大夫申越後国吉川庄内大津 ・ 中 条・ 苽 生 子 〔等〕 事、 し ( 子   細 ) さ い な く わ ( 渡 ) た さ れ 候 へ く 候 」 と の 年 未 詳 十 月 四 日 付 の 書 状 が あ る( 「東京大学史料編纂所所蔵本郷文書」 〈前掲『新潟県史』四〇〇三号〉 )。 ( 31)「桜井市作氏所蔵文書」 (前掲『新潟県史』二七五五号) 。 ( 32)「山形大学所蔵中条家文書」 (前掲 『新潟県史』 一七九七号) 、「覚園寺文書」 (前掲 『新 潟県史』四〇五六号) 。 ( 33) 「 出羽上杉文書 」 (『南北朝遺文』関東編、三〇七七号) 。 ( 34) 久 保 田 順 一『 上 杉 憲 顕 』( 戎 光 祥 出 版、 二 〇 一 二 年 )、 石 橋 一 展「 上 杉 憲 顕 と 岩 殿 合戦」 (前掲『足利基氏とその時代』所収、二〇一三年) 。 ( 35) 「 色川本額田小野崎文書 」 (前掲『南北朝遺文』三一一〇号) 。 ( 36)「秋田藩家蔵文書四十九城下諸士文書」 (前掲『南北朝遺文』三一一六号) 。 ( 37)「下野皆川文書」 (前掲『南北朝遺文』三一二五号) 。 ( 38)「吉成尚親氏所蔵茂木文書」 (前掲『南北朝遺文』三一二六号) 。 ( 39) 武 蔵 国 苦 林 野 宿 に つ い て は、 宮 瀧 交 二「 中 世「 鎌 倉 街 道 」 の 村 と 職 人 」( 網 野 善 彦 ・ 石井進編『中世の風景を読む』 2 都市鎌倉と坂東の海に暮らす、新人物往来社、

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一九九四年)など参照。 ( 40) 武 蔵 国 岩 殿 山 に つ い て は、 斎 藤 慎 一『 中 世 武 士 の 城 』( 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 六 年、 一 一 六 ~ 一 二 四 頁 )、 落 合 義 明「 比 企 の 観 音 霊 場 を め ぐ る 武 士 た ち 」( 峰 岸 純 夫 監 修 『東国武士と中世寺院』高志書院、二〇〇八年)など参照。 ( 41)「三宝院文書」 (『神奈川県史』資料編三古代中世(三上)五三〇四号) 。 ( 42)小国前掲論文「鎌倉府基氏政権期の守護政策と平一揆」参照。 ( 43)『 太 平 記 』 巻 三 十 九 芳 賀 兵 衛 入 道 軍 事 の「 此 ( 芳 賀 ) 勢 、 八 十 里 ヲ 一 夜 ニ 打 テ、 六 月 十 七 日 辰 刻 ニ 苦 林 野 ニ ゾ 著 ニ ケ ル 」 と の 描 写 は、 芳 賀 氏 ら 宇 都 宮 勢 が 迅 速 な 軍 勢 移 動 を お こ な い、 岩 殿 山 合 戦 の 九 日 前 の 六 月 十 七 日、 す で に 岩 殿 山 あ た り に 着 陣 し て い た とみるのが穏当ではなかろうか。 ( 44)「 集 古 文 書 二 十 四 」( 前 掲『 南 北 朝 遺 文 』 三 一 三 二 号 )。 な お 本 文 書 の 中 村 氏 を 相 模 国 人 と み る む き も あ る が、 中 村 弥 次 郎 貞 (定) 行 は 常 陸 国 人 で あ る。 こ の 点、 飛 田 英 世 「鹿島町・中村家の中世文書」 (『常総の歴史』一三、 一九九四年)参照。 ( 45)「 畑 野 静 司 氏 所 蔵 文 書 」( 前 掲『 南 北 朝 遺 文 』 三 一 四 〇 号 )。 な お 苗 字 部 分 の 欠 失 に つ い て、 『 南 北 朝 遺 文 』 は「 畑 野 」 と 推 定 す る が、 『 甲 斐 国 志 』 巻 之 百 五・ 士 庶 部 第四・志村六郎左衛門尉(上岩崎村)の記述にしたがえば「志村」であろう。 ( 46)「京都大学総合博物館所蔵烟田文書」 (前掲『南北朝遺文』三一三一号) 。 ( 47)「京都大学総合博物館所蔵烟田文書」 (前掲『南北朝遺文』三一六五号) 。 ( 48) 生 田 本『 鎌 倉 大 日 記 』 貞 治 二 年 条 に「 八・ 廿、 鎌 倉 ヲ 御 立 了、 八・ 廿 六、 於 二 武 州 岩 殿 山 一 芳 賀 伊 賀 守 高 貞 以 下 宇 都 宮 家 扶 持 者 蜂 起、 仍 入 間 川 御 発 向、 御 敵 悉 令 二 没 落 一 間、 其 マ ヽ 遂 〔逐〕 二 敵 跡 一 野 州 夫 〔天〕 王 宿 ニ 被 レ 召 二 御 陣 一 、 上 杉 桂 ( 憲   顕 ) 山 禅 、 自 二 越 後 一 彼 御 陣 ニ 参上」とある。 ( 49) 佐 藤 博 信「 武 蔵 河 越 合 戦 に 関 す る 考 察 ― 東 国 に お け る 足 利 氏 の 支 配 を め ぐ る 一 動 向―」 (『中世東国の支配構造』思文閣出版、一九八九年、初出一九八三年) 。 ( 50)『後深心院関白記』 貞治六年五月三日条に 「自 二 関東 一早馬到来、 左兵衛督 基 ( 足 利 ) 氏卿 早世、 去 廿 ( 四   月 ) 六日 事也云々、 春秋二十八、 所悩五个日、 及 二 廿六日晩陰 一 事切云々」 、『常楽記』 貞治六年条に「四月廿六日、鎌倉 左 〔 マ マ 〕 馬 頭殿 基 ( 足 利 ) 氏 入滅 二十八歳 」とある。 ( 51)『勝山記』応安元年条に「河越合戦、宇都宮降参」とある。 ( 52)「 鹿 苑 寺 文 書 」( 前 掲『 南 北 朝 遺 文 』 三 四 六 五 号 ) に「 上 ( 憲 顕 ) 杉 殿 、 去 ( 三 月 ) 月 廿 八 日 進 発 候 キ、東国定可 レ 二 無為 一候歟」とある。 ( 53)「 本 間 美 術 館 所 蔵 市 河 文 書 」( 前 掲『 南 北 朝 遺 文 』 三 四 七 九 号 ) に 「 去 ( 六 月 ) 月 十 七 日 河 越 合 戦 之 時 致 二 忠 節 一 」 と あ る。 ま た 生 田 本『 鎌 倉 大 日 記 』 応 安 元 年 条 に も 「 壬 〔 マ マ 〕 六 ・十七、河越合戦、御敵悉退失、仍野州被 レ 二 宇都宮城 一 間降参了」とある。 ( 54) 生 田 本『 鎌 倉 大 日 記 』 応 安 元 年 条 に「 二 ・ 八、 武 州 河 越 館 ニ 平 一 揆 閉 籠 之 間、 為 二 対治 一 若 (足利基氏) 公 御向」とある。 ( 55)「本間美術館所蔵市河文書」 (前掲『南北朝遺文』三四九〇号) 。 ( 56)「早稲田大学所蔵下野島津文書」 (前掲『南北朝遺文』三四九一号) 。 ( 57)「国立公文書館所蔵諸州古文書二十四」 (前掲『南北朝遺文』三四九五号) 。 ( 58)「国立公文書館所蔵諸家文書纂」 (前掲『南北朝遺文』三四九六号) ( 59)拙稿 「『鎌倉年中行事』 にみる鎌倉府の着装規範―鎌倉公方の服飾を中心として―」 (『室町幕府の東国政策』思文閣出版、二〇一四年、初出二〇〇七年) 。 ( 60) 贄 木 城 の 比 定 地 に つ い て は、 江 田 郁 夫「 中 世 の 宇 都 宮 」( 『 中 世 東 国 の 街 道 と 武 士 団』岩田書院、二〇一〇年、初出一九九九年)参照。 ( 61)前掲「早稲田大学所蔵下野島津文書」参照 ( 62)「一向寺文書」 (前掲『南北朝遺文』三四九二号) 。

参照

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