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大正期台湾人の「日本留学」に関する研究 A study of Taiwanese Students in Japan during the Taisho Era 2010年度

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(1)

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 博士学位論文

大正期台湾人の「日本留学」に関する研究

A study of Taiwanese Students in Japan during the Taisho Era

2010 年度

紀 旭 峰

(2)

目 次

序 論 研究目的・研究方法・先行研究

……… 1

1.研究目的

2.時期区分

3.先行研究の整理と検討

⑴戦前台湾人留学生に関する研究

⑵学生・立身出世に関する研究

⑶戦前高等教育制度に関する研究

⑷知の構築と実践に関する研究

⑸アジア知識人の交流・連携に関する研究 4.研究課題と研究方法

⑴文部省と台湾総督府の台湾人留学生政策について

⑵大正期までの台湾人留学生の分類と特徴について

⑶留学生の生活について

⑷留学生の知の構築と実践について

⑸アジア知識人の連携について 5.初出一覧

[第 1 部] 台湾人の「日本留学」の歴史的展開

第 1 章 「日本留学」の時代背景

……… 17

第 1 節 「内地日本」に留学する理由………

………

17

1.科挙制度の廃止と書房教育の衰退 2.日本植民地統治下の台湾人教育

3.「小学―中学―高等学校―大学」という進学ルートの不連続

第 2 節 台湾人留学生の「内地渡航」と就職問題 ………

………

31

1.台湾人の

内地渡航

2.植民地知識青年の就職

第 2 章 台湾人留学生に対する政策

……… 36

第 1 節 初期の日本留学 ………

……… 36

1.警戒される台湾人の日本留学と希望者の選抜 2.

早まる地方名士の子弟の留学

3.教会斡旋による留学

4.台湾協会(東洋協会)の「半官半民」学資補助制度

(3)

5.主流としての小中学・実業学校留学

第 2 節 大正期までの

台湾人留学生関連条例………

………

49

1.文部省外国人留学生条例

2.国語学校語学部国語科留学生支給規則 3.台湾総督府直轄学校留学生規則

4.台湾総督府外国留学生規程 5.台湾人留学生の管理・監督

第 3 節 台湾総督府の代行機関……… 59 1.台湾協会とその留学生補助監督事業

⑴台湾協会の創立とその事業

⑵学資補助と進学斡旋と留学生管理

2.留学生監督とその権限

3.高砂青年会

[第 2 部] 在京台湾人留学生

第 3 章 在京台湾人留学生の留学生活

……… 68 第 1 節 留学生をとりまく東京の社会世相 ……… 68

1.文明中継地としての東京 2.「上京遊学」の経費 3.下宿屋と学生風紀の紊乱

4.台湾人留学生の居住形態と居住地域 5.留学生活に潜む民族差別

第 2 節 台湾総督府官営寄宿舎高砂寮の位置付け ……… 76 1.高砂寮設置の背景と寮名

⑴設置背景

⑵台湾人留学生寄宿舎の命名

2.高砂寮の性格と特徴

⑴高砂寮の機能と所在

⑵寮規則とその特徴

3.舎監と副舎監の任用について 4.交流拠点としての高砂寮

第 3 節 在京台湾人留学生の出身地域 ……… 88

第 4 章 私立大学専門部と専門知識の獲得

……… 89 第 1 節 私立専門学校の「大学昇格」……… 89

(4)

1.「学部・大学予科・専門部」という三位一体型 2.大学令の公布と大学生の増加

3.私立大学の東京集中

第 2 節 主要高等教育機関の受け入れ ……… 93 1.高等教育機関の入学資格

2.「専門部か学部か」の選択 3.主要進学先

⑴専門部への集中

⑵医科

⑶美術

⑷中央大学専門部

第 3 節 早稲田大学と近代台湾 ……… 103 1.早稲田大学機関誌のなかの台湾

『早稲田学報』

『早稲田政治経済学雑誌』

2.「政治経済科の早稲田」へ 3.台湾人留学生の専門知識の獲得

4.早稲田大学関係者と近代台湾の諸啓蒙運動

台湾人主宰の機関誌への寄稿

台湾議会設置に関する教員の論考

第 4 節 明治大学と近代台湾 ……… 119 1.『明治法学』・『明治学報』・『明治大学学報』のなかの台湾

2.「大学令」公布前後の明治大学

⑴「大学令」施行前と施行後

⑵明治大学経緯学堂からみる台湾人留学生の進学難 3.「法科の明治」へ

4.台湾人留学生の専門知識の獲得と実践

⑴専門部法科と政治経済科のカリキュラム

⑵「知の実践」としての諸啓蒙運動への参加 5.明治大学教員の台湾論

6.弁護士布施辰治・古屋貞雄と台湾労農運動

⑴布施辰治と台湾

⑵古屋貞雄の渡台

(5)

[第 3 部] 台湾人留学生と近代台湾の啓蒙運動

第 5 章 大正デモクラシー期の台湾人留学生

……… 139 第 1 節 台湾人留学生の社会的役割 ……… 139

1.知識の翻訳者 2.政治結社の旗手

第 2 節 台湾人留学生の講演による「知の伝播」……… 145 1.知識啓蒙としての各種講習会

2.一般民衆を対象とする講演会 3.留学生の文化巡回講演

第 3 節 雑誌にみる台湾人留学生の「知の実践」……… 150 1.台湾人主宰の『台湾青年』と『台湾』

⑴『台湾青年』の創刊

⑵早稲田大学台湾人留学生の論考

⑶明治大学台湾人留学生の論考 2.日本人と朝鮮人主宰の機関紙

第 6 章 在京台湾人とアジア知識人との連携

…… ……… 166 第 1 節 契機としてのキリスト教 ……… 167

1.富士見町教会牧師・植村正久の台湾伝道 2.植村の台湾認識

3.植村主宰の『福音新報』のなかの台湾

4.『台湾青年』と『台湾』にみるキリスト教系知識人の寄稿 5.対照的な存在としての吉野作造と田川大吉郎

⑴雑誌からみた吉野作造の台湾認識

⑵田川大吉郎と近代台湾の政治運動

第 2 節 初期社会主義者・安部磯雄と台湾 ……… 185 1.富籤発行への反対

2.1 回目の台湾訪問

⑴野球親善試合と講演会

⑵台湾養女制度への関心

3.自治と教育の関係性 4.2 回目の台湾訪問

⑴巡回講演会

⑵台湾最初の地方選挙への批判

第 3 節 佐野学と在京台湾人留学生……… ……… 192

(6)

1.小ブルジョア・ブルジョア運動の限界 2.被圧迫民族の青年との交流

第 4 節 機関誌にみる在京アジア知識人の連携・・……… 194 1.台湾人とアジア知識人との連携における蔡培火の役割

「『台湾青年』への執筆」と「議会設置への署名」の斡旋

⑵諸機関誌にみる蔡培火の論考

2.アジア知識人連携の一具現としての『亜細亜公論』

⑴『亜細亜公論』の創刊とその特徴

⑵『亜細亜公論』の執筆陣

3.諸機関誌にみる在京朝鮮人との連携

⑴在京朝鮮人主宰の機関誌

『革新時報』と『青年朝鮮』

『亜細亜公論』と『大東公論』

4.コスモ倶楽部からみた在京台湾人と朝鮮人との接触 5.在京中国人との関わり方

⑴結社を通じて

⑵『亜細亜公論』からみる直接的・間接的な連携

結 論 近代台湾における「法律青年」と「政治青年」の誕生

…… 217

付録: 『亜細亜公論』と『大東公論』掲載記事の目録

……… 223

史料・参考文献

……… 232

(7)

図表目次:

第 1章

[表 1]科挙試験にみる台湾人合格者

[表 2]国語学校の構造

[表 3]書房生徒数の推移

[表 4]小学校と公学校の生徒数と就学率

[図 1]内地日本人と本島台湾人の就学率

[表 5]台中中学校の生徒数(大正 8(1919)年台湾教育令公布まで)

[表 6]台湾における中学校と専門学校の本島台湾人生徒数の推移

[図 2]台湾教育令と第 2 次台湾教育令にみる台湾人の学校組織図 第 2章

[表 7]明治 42(1909)年中内地ヘ留学シタル本島人生徒調

[表 8]明治 41(1908)年在京台湾人留学生の在学状況(12 月末現在)

[表 9]大正期までの台湾人留学生所属の推移

[表 10]大正期までの台湾人留学生所属学校の比例

[表 11]台湾人留学生に関する条例

[表 12]同志社中学校第 5 年級に在籍する林茂生の成績調査(明治 42(1909)年)

[表 13]退学処分報告ノ場合

[表 14]官費留学生ノ場合

[表 15]本島人内地留学報告様式 第 3 章

[表 16]台湾における「内地日本人」と「本島台湾人」の 1 日賃金の比較

[表 17]大正期在東京台湾人の推移

[図 3]台湾人留学生寄宿舎高砂寮

[図 4]東洋協会専門学校敷地図

[図 5]台湾人留学生寄宿舎高砂寮平面図

[表 18]大正 8(1919)年度留日台湾人の出身別と進学学校別 第 4 章

[図 6]大正初期の高等教育システム

[図 7]大正後期の高等教育システム

[表 19]主要私立大学の創設時期

[表 20]主要大学の入学資格(大正期)

[表 21]法科・政治経済科出身の台湾人留学生

[表 22]経済・哲学・文学・その他出身の台湾人留学生

[表 23]医学分野出身の台湾人留学生

(8)

[表 24]東京美術学校の台湾人留学生

[表 25]中央大学における台湾・朝鮮人留学生在学者数一覧(大正 13 年と大正 15 年)

[表 26]中央大学専門科法科履修科目の比較(大正 2(1913)年・大正 13(1924)年))

[表 27]『早稲田学報』のなかの台湾

[表 28]大正期における早稲田大学東アジア留学生の在学生推移

[表 29]早稲田大学台湾人卒業生一覧(大正期入学のみ)

[図 8]アジア人留学生の「選択課目届」(大正 9(1920)年)

[表 30]大正 9(1920)年度早稲田大学専門部政治経済学科の科目配当一覧

[表 31]『台湾青年』と『台湾』にみる早稲田大学教員の担当科目と寄稿(和文の部)

[表 32]大正 2(1913)年までのアジア留学生の在学生推移

[表 33]明治大学台湾人留学生一覧(明治期・大正期入学・卒業のみ)

[表 34]明治 37(1904)年度本科専門部法科の科目配当一覧

[表 35]大正 5(1916)年度本科専門部政治経済科の科目配当一覧

[表 36]『台湾青年』と『台湾』にみる明治大学関係者の寄稿(和文の部)

第 5 章

[表 37]『台湾青年』にみる訳文と翻訳者

[表 38]『台湾』にみる訳文と翻訳者

[表 39]『台湾青年』と『台湾』にみる台湾人留学生新民会会員の論考

[表 40]夏季学校のテーマと講師陣

[表 41]講演回数と解散処分回数

[表 42]聴衆延べ人数と平均聴衆人数

[表 43]『台湾青年』と『台湾』にみる早稲田大学出身の台湾人の論考

[表 44]『台湾青年』と『台湾』にみる明治大学出身の台湾人の論考 第 6 章

[表 45]『台湾青年』と『台湾』にみる日本基督者の寄稿(和文の部)

[表 46]大正期諸機関誌にみる蔡培火の論考

[図 9]『亜細亜公論』創刊号

[図 10]『大東公論』創刊号

[図 11]1920 年代後半の思想の 3 潮流

[表 47]在京朝鮮人経営刊行物発行状況(大正 11(1922)年 1 月~11 月)

[図 12]『革新時報』

[図 13]『青年朝鮮』創刊号

(9)

【凡例】

(1)本文中の敬称は略した。

(2)一行をとってあるのは引用を意味する。

(3)台湾総督府公文類纂からの引用においては、旧漢字や旧仮名遣いをそのままにした。

(4)引用においては、現在不適切とされる表現もそのまま引用したが、他意はない。

(5)明治、大正、昭和などの年号の後の(□)内に、西暦年を示した。

(6)朝鮮・台湾・中国の人名は、日本の常用漢字を使用した。

(7)清国、支那、鮮人の表記は、原文の表記に基づく。

(8)中略は「・・(中略)・・」で表した。

(9)中国語文の引用においては、できる限り翻訳は原文の表現を尊重して翻訳したが、一 部分かりやすさを重視して、筆者が加筆した箇所もある。

(10)

序 論 研究目的・研究方法・先行研究の検討

1.研究目的

本研究は、大正期の「内地日本」高等教育機関における台湾人留学生の受け入れと在京 台湾人留学生の「知の構築」・「知の実践」・「人の交流」に関するものである。

昭和 20(1945)年 8 月に日本の敗戦と共に、50 年にわたる日本の台湾植民地統治に終 止符が打たれた。その後、台湾の高等教育機関の整備やアメリカからの援助(米援)の影 響により1、日本留学者数は、漸減の傾向があらわれ、台湾社会への影響力も徐々に薄れて いった。それにもかかわらず、近代台湾の非武装抗日運動の展開過程において、大正期に 日本の高等教育機関で学んだ台湾人が果たした貢献は決して少なくない。彼らの思想傾向 と台湾論はさまざまな様相を呈するが2、雑誌『台湾青年』(“THE TAI OAN CHHENG LIAN)

3や台湾議会設置請願運動4などからみれば、近代台湾の文化・政治・民族運動の端緒を拓 いたのは大正期在京台湾人留学生であったことは間違いないだろう。

戦前台湾人は、植民地での教育差別によってやむをえず日本留学を選択した上に、留学 生活の中で、一部の日本人から「チャンコロ」5という民族差別をうけていた。一方、内地 日本高等教育機関への留学が次第に増加の傾向があらわれた大正期は、ロシア革命、米騒

1 「1952 年までに、政治、社会両面にわたる安定を確保し、教育面においても当初の方針が実施の軌道 にのり、1953 年には早くも海外留学を派遣できる体制を確立するまでになったのは、ひとえに国民党を めぐる外的条件の強化、すなわち 1951 年に始まるアメリカの対台湾援助(US.Aid=略して米援)によ るものであろう」。小林文男「戦後台湾の海外留学」国立教育研究所『国立教育所紀要』第 94 集、1978 年、174 頁。

2 1920 年代後半に入ると、植民地支配に対する台湾知識人の抵抗形態は、大きく「待機派」・「祖 国派」・「台湾革命派」の 3 つに分類される。「台湾抗日ナショナリズムの諸潮流を、それぞれのもつ 台湾解放イメージで分類するなら、後述するように、次の 3 つのタイプに分けることができる。即ち、A

「待機派」B「祖国派」C「台湾革命派(1927 年より)」である。A、B はともに中国復帰を前提するもの であるから、これを『光復』論と概括すれば、A、B はその下位区分であることになる」という。若林正 丈『台湾抗日運動史の研究 増補版』研文出版、2001 年、167~176 頁。また、1927 年までは、A「待機 派」と B「祖国派」が存在するが、「27 年を過渡期として、『光復』論とは異質な台湾解放のイメージ、

即ち『台湾革命』論(そして実体としての『台湾革命派』)が登場して『待機派』、『祖国派』に加わる」

のである。同上書、172~173 頁。

3 『台湾青年』とは、大正 9(1920)年 7 月に創刊された新民会と台湾青年会の機関誌である。台湾総督 府警務局『台湾社会運動史』(復刻版)龍渓書舎、1973 年(初出:『台湾総督府警察沿革誌』第 2 編領台 以後の治安状況中巻、1939 年)、28~31 頁。その誌名については、王育徳は「新民会は中国の革命雑誌

『新青年』にならって、月刊『台湾青年』(発行人蔡培火)を発行した」と示唆している。王育徳『台湾 』 弘文堂、1970 年、117 頁。その後、大正 11(1922)年 4 月に月刊『台湾』(“THE FORMOSA”)に誌 名を改め、翌年 4 月に漢文の半月刊『台湾民報』となり、同年 10 月から旬刊となった。さらに大正 14

(1925)年 7 月に週刊に発展し、昭和 2(1927)年 8 月からは台湾で発行するようになり、昭和 5(1930)

年 3 月に週刊『台湾新民報』に改名、昭和 7(1932)年 4 月から日刊紙として発行されるにいたった。

伊藤潔『台湾:4 百年の歴史と展望』中央公論社、1993 年、104 頁。

4 台湾議会設置請願運動とは、大正 10(1921)年 1 月から昭和 9(1934)年 2 月まで、15 回にわたる本 島台湾政治運動である。同上書、315~404 頁。

5 チャンコロという中国人(漢民族)に対する蔑称の語源はさまざまな説がある。たとえば、清国人(チ ンクォレン)説、中国人(チュンクォレン)説がある。また、日本植民地統治時代に台湾語の「清国奴

=チェンコッロー(chheng-kok-lô)」に由来するという説もある。

(11)

動、三・一独立運動、五・四運動などの歴史的出来事がおきた時代である6。それと同時に、

「近代日本における社会問題・社会主義の出版熱」を迎えた時期でもあった7。こうした状 況のなかで、民族意識に目覚めた一部の台湾人留学生は、ほかのアジア留学生と同様に、

「全世界を風靡した民族自決の思潮から刺激をうけ、日本の大正デモクラシーと政党政治 期の自由な空気のなかにあって、西欧的民主、自由、理性を目標とする広範な文化啓蒙運 動と反植民地主義的な民族運動を繰り広げた」8のであった。

台湾人が「内地日本」への進学(以下、日本留学とする)を選択した理由と彼らの進学 先をはじめ、大正期台湾人留学生の実態を把握するためには、植民地期台湾人留学生政策 や本島台湾の教育システムのみならず、内地日本高等教育機関における台湾人留学生の受 け入れや高等教育機関における台湾人留学生の「専門知識の獲得」などについても検討す る必要があるだろう。

個人の出世を目指して、日本留学の道を選んだ台湾人もいれば、知識・教養を求め、留 学を決意した台湾人青年もいるように、日本留学の理由はさまざまである。その半面、高 度な専門知識を獲得する過程において、戦前台湾人の知の構築も、「高等教育機関が帝都東 京に集中する」という近代日本の教育システムのなかに組み込まれたと見なすことができ る。

学資・生活費の資金面から、大正期の台湾人留学生を、「台湾総督府直轄学校派遣の官 費留学生」、「台湾協会(のちの東洋協会)の学資補助生・給費生」、「地方名士の子弟」、「地 方名士の援助を受けた私費留学生」と 4 種類に大別できる。例えば、「地方名士林献堂(1881

~1956)の支援を受けた私費留学生」として来日した文化・政治・民族運動のリーダーで あった蔡培火(1889~1983)のような者もいれば、東京美術学校(現東京芸術大学)出身 の黄土水(1895~1930)のような、東洋協会の学資援助をうけながら、寄宿舎高砂寮での アルバイトで留学資金を賄う苦学生もいた。

さらに、大正期台湾人留学生の社会的役割を検討するにあたって、もうひとつ見逃すこ とができないのは、台湾人留学生と他のアジア知識人との直接的・間接的交流、とりわけ

「知識の交流」と「啓蒙運動の連携」という側面にあると思われる9

顧みれば、大正期台湾人留学生が文化・政治・民族運動を推進していくなかで、在京朝 鮮人・中国人のみならず、日本のリベラル派、キリスト教系知識人、社会主義系知識人、

アナーキストからも多大な協力を得ていた。そのなかでも、蔡培火が、「台湾の政治運動は 植村正久の助力なくては始め得なかったと申さねばならぬ。台湾議会設置運動に対する中

6 ロシア革命のアジアに与えた影響については、石母田正『歴史と民族の発見』東京大学出版会、1952 年、20~21 頁を参照されたい。

7 梅田俊英『社会運動と出版文化:近代日本における知的共同体の形成』御茶の水書房、1998 年、25 頁。

8 呉密察「台湾史の成立とその課題」溝口雄三ほか編『アジアから考える(3)周縁からの歴史』東京大 学出版会、1994 年、226 頁。

9 山室信一は、こうした留学生を含めたアジア知識人の知識交流・知識実践を、「思想の連鎖」と定義し ている。山室信一『思想課題としてのアジア:基軸・連鎖・投企』岩波書店、2001 年。

(12)

央政界の同情者は皆先生の御紹介によると申してよい」10と述べたように、富士見町教会 の牧師であった植村正久(1858~1925)は、大正期台湾人留学生と日本人との交流におい ての重要な人物といえる。そのために、大正期台湾人留学生の人脈作り、とりわけキリス ト教系知識人との交流を解明する上で、植村の歴史的役割について検証を必要とするだろ う。

上述した牧師植村の理解と斡旋が重要である半面、アジア留学生をふくめたアジア知識 人の「横のネットワーク」11にも注目する必要があるだろう。というのは、『亜細亜公論』

("THE ASIA KUNGLUN")などの雑誌への寄稿者を通じて明らかなように、内ヶ崎作三郎(1877

~1947)、安部磯雄(1865~1949)、杉森孝次郎(1881~1968)、帆足理一郎(1881~1963)、

佐野学(1892~1953)など、『台湾青年』と『台湾』の寄稿者には大学教員が多かったから である。それに加えて、コスモ倶楽部、建設者同盟、新亜同盟党、エスペラント運動12な どにおいても、台湾人を含めたアジア知識人の連携が多かれ少なかれあった。

第 3 章で詳述するが、1910 年代後半、ロシア革命、日本国内の米騒動、朝鮮半島の三・

一独立運動、中国の五・四運動などの連鎖から刺激をうけ、在京台湾人留学生が啓蒙団体 設立を試みる。そこで、台湾人留学生は、台湾人を中心とする新民会と暁鐘会13のみでは なく、新亜同盟党(東亜同盟会)・亜細亜学生会・建設者同盟・コスモ倶楽部などの思想啓 蒙団体にも意欲的に参加する14。他方、ようやく諸啓蒙運動を展開しはじめた在京台湾人 は、在京朝鮮人や中国人との連携を図ろうと試みた。一例をあげれば、蔡培火、林呈禄(1886

~1968)、王敏川(1889~1942)などの台湾人は、総合月刊誌『亜細亜公論』の主幹である 朝鮮人柳泰慶(柳壽泉)と提携していたことがある。『亜細亜公論』の執筆メンバーをみれ ばわかるが、早稲田大学専門部政治経済科からは、台湾人黄呈聡・王敏川のほか、朝鮮人 の李相壽(大正 12(1923)年卒)と中国人の湯鶴逸(大正 11(1922)卒)・張昌言(大正 13(1924)年卒)なども健筆をふるっていた。こうした『亜細亜公論』の例からも、アジ ア留学生の間にはなんらかの交流と連携があったと推測できよう15

10 蔡培火「植村正久先生に対する思出での 23」『植村全集月報』第 3 号、植村全集刊行会、1932 年、8 頁。

11 大正期アジア知識人の「横のネットワーク」については、後藤乾一「大正デモクラシーと雑誌『亜 細 亜公論』:その 史的意味と時代背景」『アジア太平洋討究』12 号、早稲田大学アジア太平洋研究センター、

2009 年を参照されたい。

12 松田はるひ「緑の蔭で(1):植民地台湾エスペラント運動史」『エスペラント』財団法人日本エスペ ラント学会、1977 年 6 月号、18~27 頁と初芝武美『日本エスペラント運動史』財団法人エスペラント学 会、1998 年を参照。

13 暁鐘会の設立と趣旨については次のような記述がある。「在京一部の有志青年に依つて組織されたる 内外時事思想諸問題の研究機関である。該会は会員研究の便利を図り、毎月 2 回以上諸専門学者指導の 下に研究会を開き、且時々親睦会を催することになつてゐる。在京台湾人にして会員の紹介があれば、

何人でも入会が出来る。尚ほ仝会の詳細を知りたい方は仮事務所小石川西江戸川 9 番地台湾雑誌社内暁 鐘会世話係に御聞き下さい」のである。「学会消息 暁鐘会ノ成立」『台湾』第 4 年第 1 号、1923 年、72 頁。

14 小野容照「新亜同盟党の研究:朝鮮・台湾・中国留学生の民族を越えるネットワークの初期形成過程」

『次世代アジア論集』早稲田大学アジア研究機構 No.3、2010 年を参照されたい。

15 拙稿「大正期台湾人『内地留学生』と近代台湾:早稲田大学専門部政治経済科を中心として」『アジ ア太平洋研究科論集』16 号、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科、2008 年。

(13)

戦前日本に留学した中国人・朝鮮人に関する研究は、古くは阿部洋、さねとう・けいし ゅう、上垣外憲一、厳安生、近年は河路由佳、水野直樹、王嵐、朴宣美、大里浩秋、孫安 石、川島真をはじめとして多くの先行研究がある16

これに対して、台湾人留学生の場合、人物研究17を除いて、留学生全体に関する研究と して、上沼八郎、小林文男、陳三郎、張美珍、阪口直樹、佐藤由美・渡部宗助、洪郁如、

佐藤由美といった数少ない研究成果に限られ、研究の蓄積は少ない18。植民地期台湾教育 史に関する従来の研究においては、日本植民地教育政策の角度から分析したものが多く、

戦前期台湾人の日本留学史はほとんど問題視されてこなかった。その意味では、戦前期台 湾人の日本留学史が、最も研究成果が待たれる空白領域の 1 つとなっている。

以上の問題意識をもって、本研究は、台湾総督府と文部省の留学生政策と近代日本高等 教育システムから、当時台湾人留学生の①「高等教育機関での知識の構築」、②「諸啓蒙運 動における知の実践」、③「アジア知識人との交流」の 3 点について具体的に検証すること を目的とする。

2.時期区分

本研究は、1910 年代から 1920 年代半ばまでの、いわゆる大正期在京台湾人留学生を研 究対象とするが、大正後期、即ち大正 8(1919)年以降漸増した高等教育機関に在籍する 台湾人留学生の啓蒙運動に着目したい。なぜならば、大正後期は三・一独立運動、五・四 運動など、被支配・被抑圧民族の政治運動・民族啓蒙運動が頻繁に行われた時代であると 同時に、在京台湾人留学生の「知の実践」が開花しはじめた時期でもあったためである。

明治 28(1895)年の日本領台後、日本当局は、明治 30(1897)年 5 月 8 日まで台湾の漢 民族住民に国籍選択権を与えていた19。しかし、領台初期、異民族支配者としてやってき

16 阿部洋「『解放』前韓国における日本留学」(『韓』第 5 巻第 12 号、東京韓国研究院、1976)、さねと うけいしゅう『中国留学生史談』(第一書房、1981 年)、上垣外憲一『日本留学と革命運動』(東京大学 出版会、1982 年)、厳安生『日本留学精 神 史:近 代 中 国 知 識 人 の 軌 跡 』( 岩 波 書 店 、1991 年 )、河路 由 佳 ・ 淵野雄二郎,野本京子編著『戦時体制下の農業教育と中国人留学生:1935-1944 年の東京高等農林学校』

(農林統計協会、2003 年)、水野直樹・同志社大学人文科学研究所編『朝鮮人留学生たちの京都』(同志 社大学人文科学研究所、2003 年)、王嵐『戦前日本の高等商業学校における中国人留学生に関する研究』

(学文社、2004 年)、朴宣美『朝鮮女性の知の回遊:植民地文化支配と日本留学』(山川出版社、2005 年)、

大里浩秋・孫安石・川島真編著『留学生派遣から見た近代日中関係史』(御茶の水書房、2009 年)など があげられる。

17 人物史と個人回想録に関する刊行物は、杜聡明『回憶録―台湾首位医学博士杜聡明(上・下 )』(龍文 出版社、2001 年)、周宗賢『黄朝琴伝』(台湾省文献委員会、1994 年)、荘永明ら企画『島国顕影Ⅰ~Ⅲ 』

(創意力文化事業有限公司、1995 年)、呉三連口述・呉豊山記録『呉三連回憶録』(自立晩報社文化出版 部、1991 年)、陳逸松口述・呉君瑩記録・林忠勝撰述『陳逸松回憶録(日拠時代篇)』(前衛出版社、1994 年)、葉栄鐘『台湾人物群像』(時報出版、1995 年)、張漢裕・張炎憲等編『蔡培火全集』全 7 巻(財団 法人呉三連台湾史料基金会、2000 年)、などがあげられる。

18 詳細は、「先行研究の整理と検討」の「⑴戦前台湾人留学生に関する研究」を参照されたい。

19 日清講和条約第 5 条「日本国ヘ割与セラレタル地方ノ外二居住セムト欲スル者ハ自由二其ノ所有不動 産ヲ売却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ為本約批准交換ノ日ヨリ 2 箇年ヲ猶予スヘシ但シ右年限ノ満チ タルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本国ノ都合二因リ日本臣民ト視為スコトアルヘシ」台湾総督 府警務局、前掲書、663~668 頁、ちなみにその期限は明治 28(1895)年 5 月 8 日から明治 30(1897)

(14)

た日本に対して、台湾民主国をはじめとして、台湾住民の熾烈な武力抵抗運動が各地で相 次いで発生した。この植民地統治前期を中心に、各地で散発的に起こった武装抗日運動の 根底には、抵抗を持続できるような文化的な基盤や統一された軍隊はなく、また政治的自 立の伝統もなかった20。その後、武装抗日運動の鎮静化に伴い、台湾社会の治安は安定を 取り戻しはじめるが、これで台湾の民族問題が根底から解消したわけではなかった21

大正 3(1914)年 11 月に明治期自由民権運動の旗手であった板垣退助は訪台し、「台湾 同化会」22を組織した。この組織は、台湾人の抵抗運動が武装抵抗運動から非武装的民族 運動への大きな転機として位置付けられた23。なぜならば、「台湾人も人なり、日本人同様 の権利と待遇を得たいということにあった」24という、「台湾同化会」の主張が、当時「も っとも台湾の社会に影響を与えた」25ためである。しかし、この組織は、翌大正 4(1915)

年 2 月末に台湾総督府から解散命令を受けた。この「台湾同化会」からの刺激もあって、

一部の新世代知識人は、武装抵抗といった形ではもはや日本に対抗することができないこ とを認識し、抵抗運動の形を変え、政治参加という形で台湾人の地位を向上する植民地議 会設置の推進へと方針を転換した26

台湾における抗日民族運動の時期についは、大正 4(1915)年の西来庵事件を境とし、

前半を「1915 年までの武装抗日運動」、後半を「1915 年以降の近代抗日民族運動」とする 二分法がよく用いられる。これに対して浅田喬二は、さらに戦前台湾の抗日民族運動を細 分化し、次の 4 つの段階論を打ち出している27

①「1895 年から 1902 年までの抗日武装闘争段階」

②「1920 年代前半期を中心にして展開された合法的な政治運動段階」

③「1920 年代の後半期から 1932 年まで展開されたプロレタリア運動段階」

④「1937 年から 1945 年 8 月まで個人的規模で展開された抗日運動段階」

年 5 月 8 日までであった。

20 台湾民主国は民衆の基盤が弱かったという例が取り上げられる。当時、民衆に独立を支持させる啓蒙 運動が殆どなく、独立についての論議は終始一部の人々、とりわけ地方名士(士紳)の間で行われ、一 般民衆にはとうてい無縁なものであった。黄昭堂『台湾民主国の研究』東京大学出版会、1970 年、219

~224 頁。

21 浅田喬二『日本植民地研究史論』未来社、1990 年、585 頁。

22 台湾同化会について、次のような指摘がある。「台湾人による政治的民主主義獲得のための最初の組 織は、板垣退助の台湾訪問を契機にして、1914 年 12 月に結成された台湾同化会であった。台湾同化会 の要求するものは、『台湾人も人なり、日本人同様の権利と待遇を得たいということにあった』のである。

この組織は、1915 年 2 月末、台湾総督府によって解散を命ぜられた」のである。浅田喬二、前掲書、596 頁 。 ま た 台 湾 同 化 会 の 成 立 と 消 滅 に つ い て は 、 台 湾 総 督 府 警 務 局 、 前 掲 書 、12~ 23 頁 を 参 照 さ れ た い 。

23 前期の武装抵抗運動は、最初の台湾民主国から大正 4(1915)年 8 月の西来庵事件までの約 20 年、後 期の非武装抵抗運動は大正 3(1914)年の台湾同化会から日本敗戦までの約 30 年であった。

24 浅田喬二、前掲書、596 頁。

25 蔡茂豊『台湾における日本語教育の史的研究:1895 年~1945 年』東呉大学日本文化研究所、1989 年、

59 頁。

26 大正 4(1915)年までの武装抗日運動は近代的な組織的民族運動のレベルに至らなかった。台湾にお ける近代的政治運動・社会運動は大正 10(1921)年以降のことである。矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』

岩波書店、1929 年、242 頁。

27 浅田喬二「1920 年代台湾における抗日民族運動の展開過程:『台湾文化協会』の活動を中心にして」

歴史学研究会編『歴史学研究』414 号(11 月号)、青木書店、1974 年、3~18 頁。

(15)

本研究は浅田の「1920 年代前半期を中心にして展開された合法的な政治運動段階」を踏 まえた上で、大正期台湾人留学生の留学時期を大きく次の 3 段階に分けることにする。

①第 1 段階:「明治後期から大正 3(1914)年板垣退助の訪台まで」

②第 2 段階:「大正 3(1914)年板垣退助の訪台から大正 8(1919)年『声応会』の成立 まで」

③第 3 段階:「大正 8(1919)年『声応会』の成立から大正 14(1925)年治安維持法の 公布まで」。

3.先行研究の整理と検討

これまで植民地期台湾教育に関する研究には、大きく 3 つの傾向がある。まず 1 つ目は、

同化教育と皇民化教育から植民地期台湾の教育を検討する傾向である。戦前においては、

①吉野秀公『台湾教育史』(台湾日日新報社、1927 年)、②林茂生“Public Education in Formosa Under the Japanese Adminstration”1929 年(古谷昇・陳燕南訳『日本統治下に おける台湾の学校教育:開発と文化問題の歴史分析』拓殖大学海外事情研究所華僑研究セ ンター、2004 年)などがある。一方、1970 年代後半に入り、台湾総督府の史料を駆使した 研究が数多く出版された。たとえば、①E.Patricia Tsurumi“Japanese Colonial education in Taiwan,1895-1945”(Harvard University Press, 1977 年・林正芳訳『日治時期台湾 教育史』財団法人仰山文教基金会(台北)、1999 年)、②蔡茂豊『中国人に対する日本語教 育の史的研究』(出版元不明、1977 年)、③『台湾における日本語教育の史的研究:1895 年~1945 年』(東呉大学日本文化研究所(台北)、1989 年)、④呉文星「日拠時期台湾師範 教育之研究」(国立台湾師範大学歴史研究所、1983 年)、⑤栗原純「植民地台湾における初 等教育政策」(『史論』第 51 集、東京女子大学読史会、1998 年)などがあげられる。タイ トルに示されるように、上記の先行研究は、日本植民地期の台湾人教育政策を検討する論 考ではあるが、E.Patricia Tsurumi と蔡茂豊の研究では、大正期台湾人留学生をとりまく 東京の思想状況からの影響について若干触れている。

2 つ目は、文化統合という視角から、台湾教育がもたらした文明化・皇民化の問題を論 じる研究である。代表例として、①駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、1996 年)、②駒込武「植民地支配と教育」(新体系日本史 16:教育社会史、2002 年)、③陳培豊

『「同化」の同床異夢~日本統治下台湾の国語教育史再考』(三元社、2001 年)があげられ る。駒込武は台湾のみならず、当時同じく日本の植民地下におかれていた朝鮮の教育と比 較しつつ、植民地における日本の文化統合を論究している。また駒込武は、植民地主義を 通して、台湾における高等教育機関「不自由な競争」を論じつつ、第 2 次台湾教育令の公 布が「植民地における教育を低レベルのものにとどめようとする政策が修正されたことを 意味」すると示唆している。これに対して、陳培豊の研究は、同化教育という観点から、

「国語=日本語」を通じて西洋近代文明概念が台湾人にどのような影響を与えたのかにつ

(16)

いて論じている。

3 つ目は、学級別、専門別、教材別を分析する研究手法である。①山本禮子『植民地台 湾の高等女学校研究』(多賀出版、1999 年)、②楊孟哲『日本統治時代の台湾美術教育(1895

~1927)』(同時代社、2006 年)、③劉麟玉『植民地下の台湾における学校唱歌教育の成立 と展開』(雄山閣、2005 年)、④岡部芳広『植民地台湾における公学校唱歌教育』(明石書 店、2007 年)などがある。

しかし、上記の先行研究の視線は、いずれも留学生に向けられていないため、留学生に ついて、日本留学の背景から日本での「知の構築」と「人の交流」までを総合的に扱った 研究はほとんどないといっても過言ではない。上記の諸先行研究が重要な意義をもつこと はいうまでもないが、留学生たちをとりまく内地での生活や進学状況などの検証に欠ける ことはひとつ指摘すべき点であろう。

わずかであるが、戦前の台湾人留学生に関する先行研究は、同化政策の視点から台湾人 留学生を検討した上沼八郎の研究(『平成 4・5 年度科学研究費補助(総合 A)研究成果報 告書―戦前日本の植民地教育政策に関する総合的研究』、1994 年)と、総督府の台湾人留 学生政策を考察した張美珍の論考(「台湾総督府の留学生政策」『信大史学』第 24 号、1999 年)があげられる。

また戦前台湾人留学生の推移をはじめとする留学生の統計に関しては、佐藤由美・渡部 宗助が植民地台湾人・朝鮮人留学生の統計資料の一環として台湾人留学生の推移を整理し ている。とくに、両氏が作成した「戦前の台湾・朝鮮からの留学生年表(稿)」は、筆者に とって大いに助けとなる。さらに佐藤由美は、2004 年から 2006 年にかけて、「青山学院と 戦前の台湾・朝鮮からの留学生」(『日本の教育史学』2004 年)と「青山学院の台湾・朝鮮 留学生に関する記録【1906-1945】Ⅰ~Ⅲ」(青山学院大学教育学会紀要教育研究、第 48 号~50 号、2004~06 年)を発表している。佐藤の研究は、台湾人の日本留学の背景と特徴 について触れてはいるが、その重点は、戦前青山学院(中学~大学)に在籍していた台湾 人学生の統計におかれている28。上記の統計資料がある程度の方向性を提供してくれるも のの、大正期在京台湾人留学生の「知の構築」への解明には限界があるといわざるをえな い。

1990 年代頃から、各大学の大学史刊行物の出版が次第に盛んになっていくが、早稲田大 学は、昭和 47(1972)年にすでに、『早稲田大学百年史稿本』を刊行した。それ以降も、

早稲田大学の歩みを網羅した大学史関連の刊行物を次々と出版した。そのなかでも、①『早 稲田大学百年史』では、「外国人留学生の来学」(第 1 巻第 14 章)、②「清韓留学生と学苑」

(第 2 巻第 9 章)、③「留日学生と来学の外国人」(第 4 巻第 14 章)などの章を設け、留学 生の状況について言及している。たとえば、「『外地』出身学生」(第 4 巻第 14 章「留日学 生と来学の外国人」)のなかで、当時、同じく植民地におかれていた朝鮮と台湾からの留学

28 佐藤の研究を通じて、青山学院で学んだ台湾人学生の多くは、昭和期、とりわけ、1940 年代に集中し ていたことがわかる。

(17)

生を取り上げ、大正 14(1925)年から昭和 23(1948)年までの学生数の推移を整理した29。 同百年史では、「第 1 次台湾教育令」(大正 8(1919)年 1 月 4 日公布)により、「台湾人は 内地人に比べて教育程度を低く定められ、しかも内地人教育機関との間に連絡を欠いてい たため、大学教育を受けようとする者は初めから内地の学校に学ばなければならないなど の差別待遇があ」30るという植民地期台湾における教育的差別の問題点を提起している。

しかし、文字通りこの百年史は、今日に至るまでの早稲田大学の歴史に着眼点がおかれた ため、台湾人留学生に関する論述は、概説的なレベルにとどまっており、大正期における

「台湾人在学生の推移」や「台湾人留学生の所属学科」など、台湾人留学生の「知の構築

(専門知識の獲得)」の展開過程については触れられていない。したがって、当然のことな がら、近代台湾の文化・政治運動にかかわっていた一部の早稲田大学関係者の協力につい ても言及されていない。

一方、早稲田大学と同様に数多くの台湾人新世代知識青年、とりわけ法律青年を輩出し た明治大学では、昭和 61(1986)年以降、大学史編纂の一環として、『明治大学百年史』

を次々と刊行した。アジア留学生については、①「清韓留日学生と明治大学」(第 1 巻第 3 篇第 3 章)、②「中国・朝鮮人留学生と大学の対応」(第 2 巻第 4 章)、③「中国・台湾人留 学生」(第 4 巻通史編Ⅱ第 3 章第 3 節)などを設け、清国留学生のための経緯学堂31や、留 学生の推移などを言及している。たとえば、『明治大学百年史第 4 巻、通史篇Ⅱ』では、「台 湾人留学生の法科への集中」と「台湾人の創改名 32などの記述がある。しかしそれも、

概説的なレベルにとどまっており、台湾人留学生の全体像の解明までには程遠い。以下で は、本研究の研究課題に関する先行蓄積について簡潔にまとめたい。

⑴戦前台湾人留学生に関する研究

戦前の台湾人留学生を対象とする先行研究として、次の研究をあげられる。①上沼八郎

「日本統治下における台湾留学生:同化政策と留学生問題の展望」(国立教育研究所『国立 教育所紀要』第 94 集、1978 年)、②張美珍「台湾総督府の留学生政策」(『信大史学』第 24 号、1999 年)、③阪口直樹「戦前同志社の台湾留学生:キリスト教国際主義の源流をたど る」(白帝社、2002 年)、④佐藤由美「青山学院と戦前の台湾・朝鮮からの留学生」(『日本 の教育史学』2004 年)、⑤佐藤由美・渡部宗助「戦前の台湾・朝鮮留学生に関する統計資 料について」(『植民地教育体験の記憶』2005 年)、⑥洪郁如「台湾人女性の『内地留学』」

(『接続』第 5 号、2005 年)、⑦佐藤由美・渡部宗助「戦前の台湾・朝鮮からの留学生年表

29 早稲田大学大学史編集所『早稲田大学百年史』第 4 巻、1992 年、644~653 頁。

30 同上書、648 頁。

31 「明治大学にては清国留学生を収容教育する為め特別教育部を設け東洋古来の学問に加へて西洋の学 術を教授し其修業年限を 3 ヶ年とし卒業の上は志望に依り同大学本科に入学を許すべし此教育部は同大 学と全く独立せしめ之を経緯学堂と名くといふ」のである。明治大学百年史編纂委員会編集『明治大学 百年史』第 1 巻史料編Ⅰ、1981 年、831 頁。

32 「創氏改名」とは朝鮮人向けの朝鮮総督府の強制的政策であるが、台湾人に対して、台湾総督府が「改 姓名」というやや緩めな申請制度をとっていた。

(18)

(稿)」(『植民地国家の国語と地理』2006 年、)⑧佐藤由美「青山学院の台湾・朝鮮留学生 に関する記録【1906-1945】Ⅰ~Ⅲ」(青山学院大学教育学会紀要教育研究、48 号~50 号、

2004~06 年)などである。

まず、上沼八郎の研究は、『台湾総督府学事年報』と『台湾教育会雑誌』の史料を駆使し、

「留学生対策の展望」と「台湾留学生と民族運動」に分け、「日本人と台湾人の共学」33か ら台湾人留学生の推移までを論じている。その上に、『台湾青年』と『台湾』を手がかりと して、台湾人留学生と民族運動について論究している。ただし、この論文は、戦前台湾人 留学生の研究の嚆矢として評価できる半面、日本植民地期における台湾人留学生の概論に とどまっていることも指摘せざるをえない。

次に、張美珍の「台湾総督府の留学生政策」を概観するが、この論文は、伊澤修二と後 藤新平の見解を活用し、日本領台初期における総督府の留学生政策を、台湾地方名士(士 紳)に対する懐柔政策の一環と指摘している。とくにこの論文では、総督府の留学生政策 制定過程を、①「明治 28~31 年の内地観光・遊学の奨励」、②「明治 32~大正 10 年頃の 官費留学生の派遣」、③「明治 40~昭和 20 年の私費留学生」と 3 つに分類した上で、台湾 人内地日本留学に対する総督府官僚の民族的思惑を緻密に検証した。また、同論文では、

『台湾協会会報』(のちに『東洋時報』と改題)の記事をふまえつつ、台湾人最初の官費留 学生楊世英(?~?)や、内地見学奨励政策、総督府の留学生管理についても触れている。

この研究の主要論点が、初期の留学生政策におかれたために、大正期高等教育機関の台湾 人留学生についてはあまり言及されていない。とはいえ、筆者にとって同論文は、政策面 における台湾総督府の姿勢を考察するにあたって、非常に重要なテキストである。

一方、阪口「戦前同志社の台湾留学生:キリスト教国際主義の源流をたどる」は、「台湾 人や亜細亜人の京都留学の端緒を拓いた」34といわれる同志社普通学校最初の台湾人留学 生である周再賜(1888~1969)を手がかりとして、同志社普通学校と同志社大学に進学し た台湾人留学生について考察している。同論文は、台湾のミッション系学校とキリスト教 の台湾伝道に着目し、同志社大学のキリスト教主義がどのような影響を及ぼしていたのか についても論じている。しかしタイトルからも明らかなように、この研究は同志社大学に 重点がおかれたため、当時高等教育機関における台湾人の全体像を把握することは困難で あろう。

洪郁如「台湾人女性の『内地留学』」は、内地日本留学の背後にある本島台湾の教育シス テムの欠陥を提起したものの、文字通り同論文の主な対象は女子留学生であった。それも、

昭和期以降の女子留学生を中心に、台湾人女性の学歴価値の確立や内地日本の生活圏を検 討した内容である。

33 大正 9(1920)年 1 月 8 日、「台湾人は事情より内地人小学校に共学を為しうること又内地人は事情よ り台湾人公学校に入ることを得る旨内訓及通達を以て明定せらる」と内地人台湾人共学を明示する。蔡 茂豊『中国人に対する日本語教育の史的研究』出版社・出版年度不明、110~124 頁を参照。

34 阪口直樹『戦前同志社の台湾留学生:キリスト教国際主義の源流をたどる』白帝社、2002 年、12~13 頁。

(19)

また留学生の推移に関しては、佐藤由美・渡部宗助が文部省、総督府、東洋協会などの 史料を駆使して戦前の台湾・朝鮮留学生の推移・年表に関する研究ノートを発表している。

しかし、これらの研究目的は、各種の統計資料を紹介することにあり、台湾人留学生の今 後の研究にどのように有効的に活用するかという課題が残されている。上記の研究ノート に加え、佐藤由美が「東京美術学校の朝鮮留学生」(『東アジア研究』第 49 号、大阪経済法 科大学アジア研究所、2008 年)と題する論考の中で、戦前東京美術学校(現東京芸術大学)

に在籍していた朝鮮人留学生の出身、と進路について整理しており、台湾人と朝鮮人の類 似点・相違点を分析している。

他方、台湾人留学生を専門的に取り扱う研究ではないが、吉田千鶴子『近代東アジア美 術留学生の研究:東京美術学校留学生史料』(ゆまに書房、2009 年)は、東京美術学校を 通して、戦前東アジア留学生の日本留学の背景と卒業後の活動について検討している。こ の研究のなかでは、黄土水、張秋海(1898~?)、陳澄波(1895~1947)をはじめとして、

台湾総督府国語学校出身の台湾人留学生についても言及している。

日本の研究動向に対して、台湾におけるこれまでの留学生研究は、中国側の史料を駆使 した傾向がみられる。たとえば、黄福慶『清末留日学生』(中央研究院近代史研究所、1975 年)や陳瓊瑩『清季留学政策初探』(文哲史出版社、1989 年)などがあげられる。しかし 上記の研究の着眼点は、清末と民国期の中国留学生に向けられているために、戦前台湾人 留学生にはほとんど触れられていない。

⑵学生・立身出世に関する研究

学生の歴史に関する研究としては、まず唐澤富太郎『学生の歴史』(創文社、1955 年)

があげられる。この先行研究は、幕末から 1950 年代初期までの学生像の変化を検証してい る。そのなかでも、左傾学生の出現と右翼学生の台頭について、政治的環境や社会的環境 などの側面から分析している。また同研究では「学生に関する年表」を作成し、各高等教 育機関の設立や学生の組織・機関誌などが細かく分類されている。同論文のなかで、植民 地台湾人については触れられていないが、同論文を通して、戦前における学生生活の全体 像と学生の思想系譜をある程度把握することができる。

学生の立身出世主義に関する先行研究については、①竹内洋『立身出世主義:近代日本 のロマンと欲望』(日本放送出版協会、1997 年)、②『学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論 新社、1999 年)、③E.H.キンモンス著・広田照幸、加藤潤、吉田文、伊藤彰浩、高橋一 郎訳『立身出世の社会史:サムライからサラリーマンへ』(玉川大学出版部、1995 年)な どがある。

上記の諸研究は、立身出世主義と学歴主義の歴史展開から、近代日本の青年就職問題と 高等教育とのかかわりを論及している。そこで戦前日本の学生の立身出世などを理解する テキストとして、竹内と E.H.キンモンスの研究は大いに参考になるが、両研究は、いず れも内地日本人を対象としたものであるために、当時、日本植民地の下におかれていた台

(20)

湾人と朝鮮人留学生の出世・就職問題や高等教育機関への進学については論じていない。

⑶戦前高等教育制度に関する研究

戦前日本における高等教育の展開過程に関する代表的な研究者として、まず天野郁夫が あげられる。天野の研究蓄積については、①『旧制専門学校』(日本経済新聞社、1978 年)、

②『近代日本高等教育研究』(玉川大学出版部、1989 年)、③『旧制専門学校論』(玉川大 学出版部、1993 年)、④『学歴の社会史:教育と日本の近代』(平凡社、2005 年)、⑤『大 学の誕生(上・下)』(中央公論新社、2009 年)などが主にあげられる。上記の研究は、明 治期以降の社会構造の変動をふまえつつ、近代日本における高等教育の展開過程について 論じている。

これに対して伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』(玉川大学出版部、1999 年)は、2 つ の世界大戦に挟まれた 1920 年から 1940 年までの期間に焦点をあて、高等教育拡充政策と、

それが社会に与えた影響を考察した研究である。天野と伊藤の研究は、私立大学専門部に 重点を置いた本研究にとって、重要かつ不可欠な参考文献であるにもかかわらず、両研究 には、戦前日本帝国に組み込まれた旧植民地台湾と朝鮮留学生が不在していることを、指 摘すべき点であろう。

⑷知の構築と実践に関する研究

戦前中国人・朝鮮人留学生の「知の実践」に関する先行研究は数多いが、近年の研究に 関しては、山室信一『思想課題としてのアジア:基軸・連鎖・投企』(岩波書店、2001 年)

はその代表的研究として見逃すことができないだろう。山室は、当時の日本を西洋文明の 中継地として位置づけ、欧米の思想・制度などの思想が日本に隣接する中国・朝鮮・ヴェ トナムなどのアジア各地からの留学生を通して、それぞれの母国に広がっていったと示唆 している。アジア各地からの留学生が日本に留学した最大目的は、日本の社会文化・文化 を学ぶことではなく、むしろ日本という媒介を通じて欧米の技術や制度などをより効率的 に摂取するためであったと述べている。同論文は、中国人や朝鮮人留学生に関する歴史の 経緯について詳細に論じられているが、台湾人留学生に関しては、新民会の設立や台湾青 年の発行などの記述にとどまった。これに対して、小熊英二『〈日本人〉の境界:沖縄・ア イヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』(新曜社、1998 年)は、明治大学教授 泉哲(1873~1943)から植民地政策学を学んだ林呈禄(1887~1967)の「専門知識の構築」

について言及している。しかしその主な内容は、六三法・同化主義・内地延長主義・植民 地自治・議会設置に関する台湾人留学生の論考に着眼点をおいたため、台湾人留学生の「知 の構築」の実態が明らかではない。

他方、梅田俊英『社会運動と出版文化:近代日本における知的共同体の形成』(御茶の水 書房、1998 年)の課題設定は、留学生の知の構築ではないものの、大正期日本国内の社会 状況から、大正デモクラシー期の社会運動史・出版史における知的共同体の展開過程を検

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討した点は、留学生主宰の機関誌をはじめとして大正期における出版状況と検閲を把握す るのに大いに助けとなった。

⑸アジア知識人の交流・連携に関する研究

大正期アジア知識人の交流・連携を検証する際に、近代日本のキリスト教系知識人の存 在が大きかったことを無視することはできない。しかし、研究の現状をみると、植民地に おけるキリスト教の伝道に関する研究蓄積が多いのに対して、日本のキリスト教系知識人 が台湾人留学生の諸活動に協力した経緯と実態を検討する研究は少ない。例えば、若林正 丈『台湾抗日運動史研究』(研文出版、1983 年)は、台湾政治運動史の文脈から、田川大 吉郎(1869~1947)、神田正雄(1879~1961)などの日本人が、台湾議会設置請願運動にか かわったという事実関係の提起に限定している。これに対して、高井ヘラー由紀「日本統 治下台湾における台日プロテスタント教会の「合同」問題:1930 年代および 1940 年代を 中心に」(キリスト教史学会編集委員会『キリスト教史学』第 59 集、キリスト教史学会、

2005 年)などの研究は、日本キリスト教史という前提の下で、日本におけるキリスト教の 台湾伝道とその問題点を論じている。

上記の問題点をふまえた上で、筆者は、トヨタ財団 2006 年度研究助成「日本植民地期 台湾人の日本留学に関する研究:高等教育機関の受け入れを中心に」(D06-R-0179)におい て、植村正久を中心に展開した一部の日本キリスト者のネットワークについて考察したが、

それでも、田川大吉郎、島田三郎(1852~1923)、内ヶ崎作三郎、五来欣造(1875~1944)、

安部磯雄など、キリスト教系知識人と台湾人留学生との交流実態に関する検証は残されて いる。

アジア知識人のネットワークについて、米谷匡史『アジア/日本』(岩波書店、2006 年)

は、吉野作造(1878~1933)とアジア出身の留学生との対話と提携を取り上げ、同化主義 を否定する台湾人の自治運動・文化運動を、朝鮮人の抵抗と同様に、ナショナリスティッ クな動きとして示唆している。しかし、一見すると日本植民地統治の下で、朝鮮人と台湾 人は同様に政治・民族運動を展開していたかのように思えるが、朝鮮人とは異なり、台湾 人は「文化的アイデンティティー」と「民族的アイデンティティー」といった 2 つの大き な課題に同時に直面せざるをえなかった35。そのために、台湾人の求めている自立性を、

朝鮮と同じ座標軸で議論することについては、大いに検討の余地があるだろう。

台湾人が主な検証対象ではないものの、後藤乾一「日本近現代史研究と『亜細亜公論』:

『アジアの中の日本』を考える素材として」(後藤乾一・紀旭峰・羅京洙編集解題『20 世 紀日本のアジア関係重要研究資料 亜細亜公論・大東公論』(復刻版)、第 1 巻、龍溪書舎、

2008 年)と「大正デモクラシーと雑誌『亜細亜公論』:その史的意味と時代背景」(『アジ

35 台湾知識人が直面したアイデンティティーの問題については、呉叡人「福爾摩沙意識型態:試論日本 殖民統治下臺灣民族運動「民族文化」論述的形成(1919―1937)」『新史學』第 17 巻第 2 期、新史学雑誌 社(台北)、2006 年、144~145 頁を参照されたい。

(22)

ア太平洋討究』第 12 号、早稲田大学アジア太平洋研究センター、2009 年)は、『亜細亜公 論』を通じて、大正期におけるアジア知識人の「横のネットワーク」の形成を論じている。

また、戦前期台湾と同様に、日本植民地の下におかれていた韓国の在京朝鮮人の諸運動に ついて論じたものに、小野容照「金若水の渡日と『大衆時報』創刊:日本における朝鮮人 社会主義勢力の形成に関する一考察」(『在日朝鮮人史研究』第 38 号、緑蔭書房、2008 年)

と「新亜同盟党の研究:朝鮮・台湾・中国留学生の民族を越えるネットワークの初期形成 過程」(『次世代アジア論集』No.3、早稲田大学アジア研究機構、2010 年)がある。小野論 文は、大正期在京朝鮮人を通して、新亜同盟党やコスモ倶楽部などの社会主義団体の活動 に参加していたアジア知識人の連携を検討している。上記の研究からは、当時の在京台湾 人とアジア知識人の協力と提携をある程度、把握することができる。

4.研究課題と研究方法

大正期台湾人留学生の全体像を把握するため、本研究は 5 つの課題に分けて検討したい。

⑴文部省と台湾総督府の台湾人留学生政策について:

本項目では、まず、台湾の教育システムを通して日本留学生の背景とその必然性を提起 し、そうした時代背景をふまえた上で、内地留学生の推移、とりわけ在京台湾人留学生の 比率と専門分野を検証する。次に、文部省と台湾総督府が公布した台湾人留学生に関する 法令を整理し、これらの法令がもたらした問題点を検討する。3 つ目は、「外国人留学生」

と「植民地人留学生」の狭間に立たされた台湾人留学生の進学問題について考察したい。

⑵大正期までの台湾人留学生の分類と特徴について:

高等教育機関に学ぶ台湾人の分類については、明治大学、早稲田大学、中央大学など、

当時多くの台湾人が通った高等教育機関の学生原簿・大学史・学報や、文部省と台湾総督 府の公文類纂をもとに、台湾人留学生の実態を検証する。なお、本研究では、美術と医学 分野についても若干言及するが、本研究は近代台湾における「法律青年」と「政治青年」

を多く輩出した明治大学と早稲田大学に重点をおいたため、美術・医科・文学・哲学分野 についての検討は、別稿を期したい。

⑶留学生の生活について:

「学生が他郷に出て学校生活をするとなれば、知人や適当なる寄宿舎がなければ下宿屋 に入るより他には道がない」36というように、自宅から通学のできない台湾人留学生の場 合は、民宿や学校寄宿舎で下宿生活を送らざるをえなかった。つまり、戦前期台湾人留学 生にとって、留学生活における下宿場所の確保は避けられない問題であった。本項目では、

36 瀧浦文彌『寄宿舎と青年の教育』単純生活社、1926 年、321 頁。

(23)

台湾総督府官営在京台湾人留学生寄宿舎「高砂寮」の設置を手がかりに、生活費や学資な ど、内地留学の経済的負担を検証する。また、冒頭で提起したように、一部の留学生が「チ ャンコロ(清国奴)」という民族差別を受けたという事実をふまえて、本項目では張深切

(1904~1965)、陳逸松(1907~1999)などの留学生の回想録を通して、民族差別と民族意 識の覚醒との因果関係について提起したい。

⑷留学生の知の構築と実践について:

学生の知識の獲得は、読書、講演会、サークル活動など、さまざまなルートを通じて構 築することができる。しかし、最も基本的な土台作りは、学校での勉学にほかないだろう。

この項目では、まず早稲田大学専門部政治経済科と明治大学専門部法科を中心に、それぞ れのカリキュラムを考察したい。なぜならば、上記の 2 校が多くの近代台湾啓蒙運動の旗 手を輩出したためである。そして五来欣造、小林丑三郎(1866~1930)をはじめ、法律や 政治などの科目を担当した講師陣をみると、この 2 校を兼務している者が多くいた。

次に、在京台湾人の発表した論説を通して、彼らの「知識の実践」の一側面を考察する。

在京台湾人主宰の機関誌を含めて、東京で刊行する諸機関誌に掲載された台湾人留学生の 論考をみると、その内容の多くが当時台湾の教育機関では習得のできない政治学、法学、

社会学などの高度な専門的知識であった。この点からも台湾人留学生にとって政治経済科 や法科の授業が有益であったことがうかがえる。

当時、イデオロギーの相違や当局の取締りなどにより、活動拠点を中国大陸に移した台 湾人留学生もいる一方、拠点を内地日本または本島台湾におく留学生もいた。しかし、本 研究は東京に限定するため、本島台湾と中国大陸における台湾人留学生の活動についての 検討は予め、断っておきたい。

⑸アジア知識人の連携について:

この項目では、在京台湾人留学生と日本知識人、在京朝鮮人、中国人との交流・連携を 考察する。『台湾青年』、『福音新報』、『早稲田学報』、『六合雑誌』、『廓清』などの雑誌を駆 使し、まずは、大正期在京台湾人の諸運動に協力していた日本知識人を中心に、彼らの台 湾論と交流実態を分析する。

次の「在京台湾人留学生と在京朝鮮人・中国人との連携」においては、上記の日本知識 人との交流を踏まえつつ、『革新時報』、『亜細亜公論』、『青年朝鮮』("THE YOUNG KOREA")、

『平平』37などの機関誌と、コスモ倶楽部や新亜同盟党などの思想啓蒙団体を通して在京 朝鮮人・中国人との提携を検証する。また、山川均(1880~1958)、石橋湛山(1884~1973)、

戴季陶(1891~1949)など、間接的に在京台湾人との交流があった日本人の例を通して、

アジア知識人の交流の一側面を捉えてみる。とくに大正期において、在京台湾人との間に

37 詳細は坂井洋史・嵯峨隆編『原典中国アナキズム史料集成 別冊解題。総目次』緑蔭書房、1994 年と 邱士杰『1924 年以前台灣社會主義運動的萌芽』海峡学術出版社(台北)、2009 年を参照。

参照

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