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再論・室町将軍の死と怪異

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(1)

再論・室町将軍の死と怪異

著者 西山 克

雑誌名 人文論究

巻 59

号 4

ページ 18‑38

発行年 2010‑02‑20

URL http://hdl.handle.net/10236/8504

(2)

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

西 山

は じ め に 私は

かつ て﹁ 怪異 学序 説﹂ と題 した 文章 のな かで

︑室 町幕 府第 五代 将軍 義量

︵一 四〇 七〜 二五

︶の 逝去 にと もな う 怪 異に つい て︑ 伏見 宮貞 成の 日記 であ る﹃ 看聞 日記

﹄応 永三 二年

︵一 四二 五︶ 二月 二八 日条 など の記 事を 引用 しな が ら 解釈 を加 えた こと があ る⑴

︒ その ころ 私の 構想 して いた 怪異 学そ のも の につ い て は︑ 東 アジ ア 恠 異学 会 の 編集 に よ る 論文 集﹃ 怪異 学 の 技法

﹄⑵

およ び

﹃怪 異 学の 可 能 性﹄⑶

に よ って

︑な お 中 間報 告 の 段 階で は あ るが

︑そ れ な りに 刺 激 的 な成 果を 提示 する こと がで きた と思 って いる

︒ しか し︑

﹃ 看聞 日記

﹄応 永三 二年

︵一 四 二五

︶二 月 二 八日 条 に つい て は︑ 前 稿﹁ 怪 異学 序 説﹂ で その 概 要 をあ つ か っ たと きか ら︑ 史料 とし ての 位相 の複 雑さ から

︑い ずれ は再 論す べき 記事 と考 えて いた

︒青 年将 軍の 逝去 をめ ぐる 怪 異 の巷 説が

︑潜 在的 に皇 統の 一翼 をに なう 伏見 宮家 の正 統を つい だ記 録者

貞 成の フィ ルタ ーを 通過 する 以前 に︑ 室 町 殿 義 持 在世 時 の 政治 的 構 造の な か で︑ あ るい は 状 況の な か で︑ 時 の権 力 と どの よ う に関 わ り つ つ流 布 し て い た の か

︒受 容し た京 都の 都市 社会 は︑ 地理 的に 王権 を包 摂す るも のと して

︑こ の怪 異の 巷説 にど のよ うに 関わ った のか

︒ 寺 社勢 力︑ とく に神 祇の 世界 は怪 異の 巷説 に不 可分 な関 係を もっ てい たよ うに 見え る︒ なぜ 神祇 なの か︒

一 八

(3)

││ 課題 とす べき こと は様 々あ る︒ 室町 殿義 持と その 時代 につ いて は︑ 近年

︑急 速に 読み 直し が進 んで いる

︒父 義満 の構 築し た政 治構 造や 宗教 戦略 へ の 回帰

││ 特に

﹁室 町殿

﹂義 満期 への 回帰 が指 摘さ れる と同 時に

︑後 小松 院政 との 協調 関係 が語 られ るな ど︑ 義満

・ 義 教期 のは ざま にあ る義 持期 の独 自の 相貌 が浮 かび 上が って いる

︒ その よう な義 持期 の国 家・ 王権 と怪 異と の関 係は

︑恠 異学 会が 主張 して きた 怪異 のポ リテ ィカ ルな 性格 から して け っ し て 無 縁な も の とは 考 え られ な い が︑ そ れを 全 面 的に 論 じ る 余裕 は い まは な い︒ こ の点 は 後 日 を期 す こ と に し た い

︒ しか しつ ぎの こと にだ けは 留意 して おく 必要 があ るだ ろう

︒本 稿が 扱う 五代 将軍 義量 の不 慮の 死は

︑応 永三 二年 の 出 来事 であ った

︒室 町殿 義持 はそ の二 年前 に出 家し てい る︒ 出家 後の 義持 が︑ 国家 的な 宗教 政策 にで はな く︑ 個人 的 な 寺社 信仰 にの めり こん だこ とに つい ては

︑大 田壮 一郎 氏に よる 的確 な指 摘が ある

︒ 出 家後 の義 持に つい ては

︑と もか く仏 神事 の量 的拡 大と いう 以外 に政 策上 の方 向性 を見 出し 難く

︑そ れは 義持 初 政 とは まっ たく 対照 的な 姿で あっ たと いえ る︒ もと もと

﹁過 剰﹂ な公 武祈 祷は さら にそ の頻 度を 増や し︑ 既成 のシ ステ ムで は対 応不 能な 状況 に陥 って いた

︒ 応永 三二 年が 義持 にと って どの よう な年 であ った のか

︒大 田氏 の指 摘に 留意 した うえ で私 の宿 題を はた して おく こ と にし たい

︒再 論と して の性 格上

︑記 述が 前稿 と重 複す るこ とが ある

︒寛 恕頂 けれ ば幸 いで ある

︒ 一︑ 将 軍 義量 の 死 応永

三二 年︵ 一四 二五

︶と いう 年は

︑諸 階層 の日 記に 書き とめ られ た怪 異記 事に 関す るか ぎり

︑二 月二 七日 夕刻 の 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

一 九

(4)

義 量急 死と いう 事件 さえ 起こ らな けれ ば︑ その 前後 でと りた てて 特異 な性 格を 持つ 年で はな かっ たよ うに 思わ れる

︒ た とえ ば﹃ 満済 准后 日記

﹄同 年一 月三

〇日 条に は︑ つぎ のよ うな 記事 が見 えて いる

︒ 今 月六 日山 門横 川飯 室不 動堂 廻禄 云々

︑草 創以 来于 今無 為堂 云々

︑本 尊不 動定 肇五 代祖 定善 作云 々︑ 本尊 ノ御 身 ニ 金銅 鋳不 動被 納云 々︑ 此銅 不動 ハ無 子細 自灰 燼中 尋出 云々

︑次 今月 廿三 日大 宮御 殿上 ニ首 无猿 死テ 在之 云々

︑ 凡 大宮 御殿 ノ上 ニ猿 ノ上 ルハ 怪異 也︑ 内野 合戦 等時 如然 云々

︑今 度体 先規 未聞 之由

︑證 憲法 印等 申︑ 珍事 々々

︑ 比叡 山横 川の 飯室 不動 堂が 焼亡 した こと

︑日 吉大 社大 宮御 殿上 に首 のな い猿 が死 んで いた こと

││ など が記 録さ れ て いる

︒飯 室不 動堂 の焼 亡に つい ては

︑本 尊の 胎内 に納 入さ れて いた 金銅 製の 不動 明王 が燃 え残 り︑ 灰燼 のな かか ら 見 つ か っ たと い う ので あ る から

︑む し ろ 秘 仏の 奇 瑞 に関 す る も ので あ る︒ そ れに 対 し て日 吉 大 宮 の首 な し 猿 の 記 事 は

︑﹁ 内 野 合 戦

︵明 徳 の 乱

︶等 の 時︑ 然 る が 如 し﹂ と あ る よ う に︑ 禍 々 し い 戦 争

凶 事 の 予 兆 と し て 捉 え ら れ て お り

︑明 らか な怪 異記 事で ある

︒ し か し室 町 期 の怪 異 記 事一 般 の 定 型を 踏 ん でお り

︑少 な くと も 怪 異 記事 と し て特 異 で はな い

︒事 態 が 激 変 し た の は

︑応 永三 二年

︵一 四二 五︶ 二月 二七 日の 夕刻 に︑ 義量 が一 九歳 の若 さで 他界 した ため であ る︒ その 兆し は前 年か ら あ った

︒た とえ ば﹃ 満済 准后 日記

﹄応 永三 一年 六月 一四 日︑ 祇園 会が 行わ れた 日の 記事

││

︒ 祇 園会 於右 京大 夫亭 御見 物如 恒年

︑今 日依 仰俄 出京

︑御 出以 前参 御所

︑御 対面

︑御 方御 所様 御痢 病気

︑此 七日 計 御 座︑ 但於 今御 減也

︑雖 然御 邪気

︹之 気︺ 時々 御発

︑次 ニハ 故林 光院 御事

︑連 々被 仰出 云々

︑仍 若左 様御 怨念 モ ヤ ト被 仰出 云々

︑御 祈祷 事︑ 別而 御沙 汰有 度由 被仰 談︑ 次ニ ハ此 間御 加持 ニ参 スル 弁覚 僧都

︿青 蓮院 出仕

﹀野 狐 仕 由風 聞︑ 大略 無其 隠由 被聞 食及

︑可 為何 様哉 由也

︑予 申入 云︑ 御祈 事ハ 凡無 間断 御沙 汰旁 可宜 事也

︑⁝

⁝次 ニ 弁 覚僧 都事

︑如 被仰 出方 々︑ 其沙 汰勿 論候

︑但 実説 未承 定間

︑于 今不 達上 聞候 キ︑ 所詮 如此 無覚 束上 ハ︑ 御加 持 可 被停 止条

︑可 為簡 要旨 申入 了︑ 次林 光院 御事 ハ︑ 誠御 執心 モ勿 論由 覚候

︑只 可被 訪申 条第 一御 事候 歟旨 申︑

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

(5)

林光 院足 利義 嗣の 怨霊 や野 狐使 いの 話題 が︑ 義 量 の病 状 と の関 連 で 取り 沙 汰 さ れて い る︒

﹁ 御方 御 所﹂ 義 量は 一 週 間 ほど 痢病 をや み︑ いく らか 病状 が回 復し たと ころ で︑ 意識 障害 をひ きお こし

︑う わご とを 言い 続け た︒ その うわ 言 の なか に︑ かつ て父 義持 の粛 清し た義 嗣の 名が 繰り 返し あら われ たの であ る︒ 一方 で︑ この 邪気 が青 蓮院 出仕 の験 者弁 覚僧 都が 野狐 を使 った から であ ると いう 風聞 も流 れて いる

︒記 録者 であ る 満 済の 戸惑 いが 行間 から 滲み 出て いる よう であ るが

︑野 狐使 いの 摘発 は︑ 室町 時代 の宮 廷社 会に おい て未 熟な 医療 を 隠 蔽す る単 なる 責任 転嫁 では なか った

︒そ れは ある 種の シス テム であ った とも 言え る︒ 王権 周辺 の精 神障 害が 狐憑 き と 判定 され ると

︑狐 使い を摘 発す るこ とに よっ てそ の治 療を 完遂 する こと がで きた ので ある

︒そ れが 精神 障害 の社 会 的 な落 とし どこ ろで あっ たと 言い 換え ても よい

︒ しか し義 量は 回復 する こと がな かっ た︒ この とき

︑義 量の 父で ある 室町 殿義 持は なお 健在 で︑ 時の 国家 や王 権に た だ ちに 激震 がお よぶ こと はな かっ た︒ しか し最 大の 問題 は義 持に 義量 以外 の男 子が なく

︑ま た義 量に も継 嗣が 存在 し な かっ たこ とで ある

︒青 年将 軍の 若す ぎる 死は

︑当 時の 政治 秩序 に︑ その 崩壊 を予 見さ せる よう な不 安定 なゆ らぎ を 持 ち込 むこ とに なっ た︒

﹃ 看 聞日 記

﹄応 永 三 二 年︵ 一 四 二 五︶ 二 月 二 八 日 条 の 前 半 部 分 に

︑義 量 の 急 死 に つ い て の つ ぎ の よ う な 記 事 が あ る

将 軍他 界実 事也

︑昨 夕云 々︑ 為天 下驚 歎︑ 両三 年内 損︑ 此間 興盛 種種 被尽 祈療

︑然 而無 其験 遂被 堕命

︑当 年十 九 歳 也︑ 尤 可 惜 々 々︑ 室 町 殿 於 于 今 無 一 子︑ 将 軍 人 躰 忽 闕 如

︑天 下 惣 別 驚 入 者 也︑ 荼 毘 明 日 於 等 持 院 可 有 沙 汰 云 々︑ 御台

不堪 悲歎

︑存 命不 定云 々︑ 公家 武家 俗侶 馳参

︑都 鄙騒 動也

︑ 将軍

・参 議右 中将 義量 の他 界は 本当 のこ とで あっ た︒ 昨夕 のこ とで ある とい う︒ みん な驚 嘆し てい る︒ この 二・ 三 年

︑彼 は内 臓を 痛め てい ろい ろ祈 療を 尽く した が︑ その 成果 もな く︑ つい に命 をお とし てし まっ た︒ まだ 一九 歳︑ 惜 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 一

(6)

し いこ とで ある

︒室 町殿 には もう 一人 も子 ども がい ない のだ

︒将 軍に なる 人が いな くな って しま った

︒天 下は みな 驚 き 入っ てい る︒ 荼毘 は明 日︑ 等持 院で 沙汰 され ると いう

︒室 町殿 の御 台所

︵将 軍の 母で ある

︶は 悲嘆 のあ まり

︑そ の 存 命す ら定 かで ない らし い︒ 公家 も武 家も 俗人 も僧 侶も 馳せ 集ま り︑ 都も 田舎 も大 騒動 とな って いる

⁝⁝ と︒ 要 す るに 義 量 は︑ 大酒 に よ ると お ぼ し い内 臓 疾 患に 悩 ま され

︑さ ま ざ ま な祈 療 が 施さ れ た︒ し か し そ の 効 果 も な く

︑つ いに 命を 落と した

︒室 町殿 義持 には 義量 以外 に男 子は なく 将軍 継嗣 がた ちま ち不 可能 な状 態と なっ てし まっ た の であ る︒ 遺骸 は二 九日 に︑ 室町 将軍 家の 菩提 寺と して 崇敬 され た等 持院 で荼 毘に ふさ れる こと にな った

︒ 公武 統一 政権 の中 枢に 風穴 があ き︑ 行き 先の 見 え ない 将 軍 空位 時 代 が始 ま っ た︒

﹁ 室町 殿 今 に於 い て 一子 な し﹂ と い う緊 迫し たフ レー ズが

︑貴 族・ 廷臣 たち の間 で不 吉な 合い 言葉 のよ うに 繰り かえ され る︒ たと えば 実務 官僚 中原 師 郷 の日 記﹃ 師郷 記﹄

︑ その 同二 七日 条に もつ ぎの よう な記 事が ある

︒ 今 日未 剋許

︑征 夷大 将軍 御方 御所 薨 去

︑ 此 間御 病 気 也︑ 言語 道 断 重 事︑ 諸人 驚 嘆︑ 不 及是 非

︑室 町 殿御 一 子 大 方無 申限 之次 第也

︑諸 人不 及参 御訪

︑御 所先 御座 等持 寺 ︑ 青年 将軍 義量 の死 と政 権に 与え たそ の衝 撃が

︑こ こで も簡 略な 言葉 のう ちに 書き とめ られ てい る︒ その なか の一 文

﹁室 町殿 御一 子大 方申 す限 りな きの 次第 也﹂ が︑ 伏 見宮 貞 成 の書 き お いた

﹁室 町 殿 今 に於 い て 一子 な し﹂ の 不吉 な フ レ ーズ と呼 応し てい るこ とは 明ら かだ ろう

︒ ある いは また 朝儀 典礼 に詳 しく

︑後 に武 家伝 奏に も任 じら れた 中山 定親 の日 記﹃ 薩戒 記﹄ の同 日条 にも つぎ のよ う な 記事 があ る︒ 今 日申 剋征 夷大 将軍 参議 正四 位下 行右 近衛 権中 将兼 美作 権守 源朝 臣義 量︿ 春秋 十九 歳﹀ 薨去

︑日 来不 例︑ 内損

︑ 又 怨霊

︿故 入道 大納 言義 嗣卿 以下

︑﹀ 所 致 云 々︑ 入道 前 内 大臣 御 一 子也

︑於 于 今 者 更無 相 続 之人 躰

︑一 天 重事

︑ 万 人愁 傷也

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 二

(7)

﹃ 看聞 日記

﹄や

﹃師 郷記

﹄で 明示 され ない 怨霊 説 が書 き と めら れ て いる の は 重 大で

︑室 町 殿 義持 は 以 後︑ 彼自 身 が 屠 った 弟義 嗣ら の怨 霊に 悩ま され 続け るこ と に なる

︒見 て の とお り

︑こ の 定親 の 日 記 のな か に も︑

﹁今 に 於 いて は 更 に 相続 の人 体な し﹂ のフ レー ズが 書き 込ま れて いる ので ある

︒ 室町 殿義 持に はも はや 一子 とて なか った

︒院 政の 主宰 者で ある 後小 松院

││ そし て称 光天 皇の 治世 下で

︑室 町殿 義 持 は公 武の 主従 関係 の頂 点に 立っ てい た︒ 国家 財政 も軍 事も 義持 なし には 動か なか った ので ある から

︑そ の唯 一の 後 継 者の 突然 の死 をめ ぐっ て︑ 幕府

・宮 廷社 会を 覆っ た危 機意 識に つい ては

︑想 像す るに 余り ある

︒ 正 統 的な 室 町 将軍 の 系 譜が 絶 え る かも し れ ない と い う異 常 事 態 のな か で︑ チ マタ で は さま ざ ま な 流言 が 飛 び 交 っ た

︒伏 見宮 貞成 は義 量逝 去の 記事 に続 いて

︑そ うし た流 言の 数か ずを 奇妙 な情 熱を こめ て書 き記 して いる

︒貞 成の 書 き 記し た風 聞巷 説の 記事 をい くつ かに 分節 し︑ 記号

・ナ ンバ ーを つけ て引 用し てみ る︒

Ⅰ︺ 当 年相 当三 合︑ 此歳 天下 必有 凶事

︑自 往昔 度々 例天 下重 事不 可勝 計︑ 仍自 旧年 諸門 跡御 祈祷 事被 申云 々︑ 然 而 無其 験歟

︑既 二宮 御事

︑将 軍連 続︑ 天下 又大 乱風 聞旁 呈凶 事了

Ⅱ︺ 正月 中種 々恠 異風 聞巷 説雖 難信 用聊 記之

① 正月 一日 早朝

︑大 雨雷 鳴︑ 其時 分勘 解由 小路 武衛 屋形 棟上 ニ甲 降下

︑銘 将軍 ト書 云々

不聞

︑甲 斐宿 所へ 僧一 人太 刀持 参申 云

︑八 幡 参籠 之 時︑ 此 太刀 是 へ 可 持参 之 由 蒙霊 夢 了︑ 夢 覚太 刀 現 形不 思儀 之間 持参 之由 申︑ 甲斐 若党 比興 イタ カ之 由申

︑太 刀不 請取 追返 了︑ 然而 不思 儀之 間︑ 又彼 僧召 返 太刀 ヲ請 取︑ 事子 細猶 欲相 尋之 処︑ カキ 消之 様逐 電︑ 如何 ニ尋 とも 行方 不知

︑件 太刀 武衛 先祖 七条 入道 太 刀也

︑八 幡ニ 奉納 太刀 也云 々︑ 此事 実説 云々

︑猶 不審 々々

③ 正月 一日

︑室 町殿 北野 へ社 参︑ 宮廻 之時

︑御 殿内 有声

︑当 年御 代可 尽云 々︑ 又北 野ニ 鶏物 ヲ云

︑今 年御 代 可尽

︑主 上可 崩御 云々

︑此 鶏被 流捨 云々

︑ 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 三

(8)

④ 又管 領

馬物 ヲ云

︑只 今ニ 骨ヲ 折ヘ シ︑ 能々 可養 云々

︑其 時厩 馬共 同様 ニイ ナヽ クト 云々

⑤ 又正 月一 日︑ 将軍 室町 殿御 前ニ 被参 之時

︑鳩 二来 喫合 二死 云々

⑥ 同中 旬之 比︑ 天狗 拍物 ヲシ テ夜 々ク ルイ 行云 々︑

⑦ 又華 王院 夢想 ニ神 祇官 ト覚 シキ 所ニ 諸神 会合

︑一 座人 云︑ 将軍 代欲 尽︑ 諸神 已捨 給了

︑但 北野 未捨 給之 由 被申 ト蒙 夢想 云々

︑仍 披露 申︑ 北野 可参 籠之 由被 仰云 々︑

⑧ 又 去 比︑ 日吉 大 宮 社頭 ニ 頭 モナ キ 猿 二 死テ ア リ︑ 此 社檀 ニ ハ 猿不 入︑ 惣 シ テ 鳥 獣 も 不 入 云 々︑ 不 思 儀 事 也︑

⑨ 又 二 月 将 軍 病 気 已 火 急 之 時

︑室 町 殿 寝 殿 棟 瓦 ノ 上 ニ 白 羽 ノ 箭 一 筋 立︑ 其 箭 紙 ニ テ 羽 ヲ ハ ク

︑箟 ハ 筆 也 云々

︑瓦 ノ上 ニ立 事︑ 殊不 思儀 云々

︑其 後無 幾程 将軍 死去 云々

⑩ 雨降 入夜 暴風 甚雨

︑雷 鳴︑ 後聞

︑大 風雨 之時 分︑ 神祇 官松 明お ひた ゝし くみ えて

︑四 五千 人許 相集

︑暫 有 てト ツト 咲テ 退散

︑松 明火 人ニ 見之 実説 也︑ 諸神 会合 歟︑ 天狗 野干 所為 歟︑ 不思 議也

︑ 謳 歌説 事々 不足 信用

︑雖 然天 下風 聞説 大概 記之

︑ ちな みに

︑︹

︺の

⑩と して あげ た記 事は

︑﹃ 看聞 日記

﹄二 月二 八日 条で はな く︑ 翌二 九日 条に 書き とめ られ たも の で ある

︒た だ︑ 内容 的に は二 八日 条と 一括 して も不 自然 では ない ので

︑こ こで はあ えて 同条 に挿 入し

︑足 利義 量の 逝 去 をめ ぐる

﹃看 聞日 記﹄ の記 事の 全体 を解 読す べき テキ スト とし て解 読の 俎上 に載 せて みる こと にし たい

︒ 室 町 時代 の 公 武統 一 政 権の 中 枢 が 多彩 な 怪 異に 彩 ら れて い た こ とは

︑こ の 記 事を 一 見 する だ け で あき ら か で あ ろ う

︒い か に 記 録者 貞 成 が巷 説 好 きで あ る に して も

︑こ の 風聞 巷 説 の 量は た だ ごと で は ない

︒室 町 時 代 の 首 都 社 会 に は

︑現 代の ワイ ドシ ョー を凌 駕す るほ どの 怪説 奇説 があ ふれ かえ って いた

︒ ただ し︹

Ⅰ︺ と︹

Ⅱ︺ の部 分は 記事 の性 格に 違い があ る︒ この 応永 三二 年が 歴注 にい う三 合の 年に 当た ると いう こ

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 四

(9)

と は︑ 当時 の﹁ 科学 的﹂ 知識 に基 づく 事象 で︑ まっ たく 偶発 的な 出来 事で はな かっ た︒ 陰陽 道の 研究 者で ある 小坂 真 二 氏の 論文

﹁三 合の 算出 法に つい て﹂ を見 ると

︑三 合に つい て︑ 三 合と は︑ 隋唐 志の 五行 家類 に属 す黄 帝九 宮経 等の 所説 に基 づく

︑九 合︵ 八卦 八宮 と中 央宮

︶十 二神 のう ち太 歳

・ 太陰

・害 気の 三神 の相 合の こと であ り︑ この 三神 の相 合す る年

︵三 合歳

︶に は風 水旱

・疾 疫・ 兵革 等の 種々 な 災 害が 起る とさ れ︑ 奈良 時代 以後 改元 の理 由と なり

︑ま たし ばし ば天 皇の 施徳

・祈 祷の 対象 とも なっ てお り︑ 政 治 思想 上重 要な 役割 を果 した もの であ る︒ と 書か れて いる

︒太 歳︑ 太陰

︑害 気の 三神 が相 合す る のが 三 合 で︑ そ の年 は 洪 水・ 旱魃

・伝 染 病・ 戦 争な ど

︑あ ら ゆ る災 害が おこ ると 考え られ てい た︒ 三合 を決 定す るに は複 雑な 計算 式が あり

︑小 坂真 二氏 によ ると

︑そ の年 は九 年 ご とに あら われ ると いう

︒つ まり 応永 三二 年が 三合 の年 であ るこ とは 風聞 巷説 の類 では なく

︑当 時の

﹁科 学的

﹂な 常 識 とし て語 られ てい たこ とな ので ある

Ⅰ︺ で︑ 当年

︵応 永三 二年

︶は 三合 にあ た る︑ こ の年 は 天 下に 必 ず 凶事 が あ る│

│と 書 か れて い る のに は

︑そ の よ うな 理由 があ る︒ その 三合 に対 処す るた めに

︑前 年よ り諸 門跡 で祈 祷が 行わ れて いた ので ある

︒何 事も 起こ らな け れ ば︑ 導師 の験 力︑ 祈祷 の効 果が 賞賛 され たで あろ う︒ が︑ 事態 は期 待通 りに は進 まな かっ た︒ 院政 の主 宰者 後小 松 院 の 第 二 子小 川 宮 が二 二 歳 で亡 く な り︑ 続 いて 将 軍 義量 も 逝 っ てし ま っ たの で あ る︒ この 二 人 の 若者 の 早 す ぎ る 死 は

︑二 人の 父︑ 後小 松上 皇と 義持 にと って

︑た しか に致 命的 なつ まづ きの 石と なっ た︒ 義持 のた だ一 人の 男子

︑義 量に つい ては いま 問題 にし てい る︒ 後小 松上 皇の 第二 子小 川宮 につ いて はつ ぎの よう な 事 情が あっ た︒ 当時 の天 皇称 光は 後小 松院 の継 嗣と して 即位 した が︑ 病弱 で︑ しば しば 精神 障害 の徴 候を 示す こと が あ った

︒称 光天 皇の 先行 きに 不安 を感 じて い た 人び と は︑ 後 小松 院 の 第二 子 に し て﹁ 儲君

﹂︑ 小 川 宮に 期 待 する と こ ろ が大 きか った

︒そ の小 川宮 が急 死し てし まっ たの であ る︒ 中山 定親 の日 記﹃ 薩戒 記﹄ に﹁ 御毒 を聞 こし 食す か﹂ と 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 五

(10)

書 きと めら れて いる よう に︑ その 早す ぎる 死に 対し ては

︑毒 殺の 可能 性す ら囁 かれ た︒ 称光 天皇 は正 長元 年︵ 一四 二八

︶七 月二

〇日 に崩 御す る︒ その 際︑ 後小 松院 は﹃ 看聞 日記

﹄の 筆者 伏見 宮貞 成の 皇 子 彦仁 王を 猶子 とし て即 位さ せた

︒後 花園 天皇 であ る︒ 持明 院統 の内 部で 後光 厳│ 後円 融│ 後小 松と 続い た皇 統は

︑ こ こに 断絶 する

︒以 後︑ 皇位 は後 花園 天皇 の子 孫に 伝え られ

︑二 一世 紀の 現代 に至 るこ とに なる

︒ もと もと 後光 厳流 の皇 統は 伏見 宮家 を皇 位か ら遠 ざけ るこ とで その 正統 性を 維持 して きた

︒後 光厳 天皇 の兄 崇光 が 皇 位を 退い たあ と︑ 伏見 宮家 の祖 栄仁 親王

︑そ の子 貞成 は皇 位に つけ ない まま に︑ 称光 天皇 の時 代を 迎え てい たの で あ る︒ もし も称 光天 皇が 病弱 でな けれ ば︑ ある いは 小川 宮が 急死 しな けれ ば︑ 伏見 宮家 に天 皇位 が渡 るこ とは 二度 と な かっ たか もし れな い︒ 小川 宮と 称光 天皇 の死 によ って

︑み ずか らの 血統 の終 わり を確 認せ ざる とえ なか った 後小 松 院 の無 念さ は想 像す るに あま りあ る︒ 要す るに

︑後 光厳 流の 皇統 の断 絶に いた る流 れが

︑応 永三 二年

︑こ の三 合の 年に 決定 的と なっ たの であ る︒ そし て そ れは

︑室 町殿 義持 の正 統を 継ぐ 唯一 の後 継者 の死 と お なじ 年 の うち に お こっ た

︒﹁ チ マ タに は 大 乱の 風 聞 が流 れ て お り︑ いず れに して も天 下は 凶事 を呈 して いる

﹂と いう

﹃看 聞日 記﹄ の感 慨は

︑圧 倒的 多数 の人 びと の思 いを 代弁 す る もの であ った ろう

︒ 一方 で︹

Ⅱ︺ につ いて は︑ 当時 の﹁ 科学 的﹂ 知識 には 馴染 みが たい

︑ま さに 風聞 巷説 を集 成し たも ので あっ た︒ 風 聞 巷説 は中 世以 前に おけ る史 料伝 来の 原則 から 甚だ しく 遠い

︒一 般に 史料 は特 定の 団体

・家 を利 する もの であ る︒ そ の 権利 やプ ライ ドを 保証 する もの だけ が自 覚的 に残 され る︒ しか しい ま私 たち が前 にし てい るの は︑ ただ の風 聞巷 説 に すぎ ない ので ある

︒ひ!!!!! 特定 の家 にも 個人 の利 害に も関 わり なく

︑こ れら の史 料は 書き 残さ れて いる

︒ ただ これ はメ ディ アで ある

︒風 聞巷 説の 発信 者│

│政 権中 枢・ 有力 守護

・寺 社・ 都市 民な ど│

│が 推定 され る場 合 で あろ うと

︑な かろ うと

︑風 聞巷 説に は情 報が 織り 込ま れ社 会的 な認 知に むか う性 格を もっ てい る︒ 正確 には

︑認 知

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 六

(11)

の ため の判 断を 享受 者に 求め る性 格を もっ てい る︒ 歴史 学が 社会 的コ ンテ クス トを 解読 しよ うと する とき に︑ 風聞 巷説 は極 めて 有用 なも ので あろ う︒ もち ろん 記録 者 で ある 伏見 宮貞 成の フィ ルタ ーを どの よう に腑 分け する かと いう 問題 は残 され てい る︒ しか し︑ いま 問題 にす る記 事 に つい ては

︑記 録者 本人 が謳 歌の 説は どれ もこ れも 信用 する に足 りな いと 書い てい るの であ る︒ 歴史 学に とっ てこ れ ほ ど有 難い 史料 はな い︒ 以下

︑国 家体 制や 社会 秩序 の不 気味 な崩 壊を 暗示 する よう な巷 説の なか から

︑特 に二 つの 言説 を取 り出 して みる

︒ 将 軍義 量逝 去の 予兆

︑室 町殿 と神 祇︑ この 二つ であ る︒ 二︑ 風 聞 巷説 を 読 む

︹将 軍義 量逝 去の 予兆

︺ 義量 が逝 去す る直 前の

﹃看 聞日 記﹄ に︑ つぎ のよ うな 奇妙 な現 象が 書き とめ られ てい る︒ そこ に書 きと めら れた 記 録 者の 解釈 は︑ 内臓 疾患 によ る義 量の 急死 によ って 永遠 に宙 づり の状 態と なる

︒応 永三 二年

︵一 四二 五︶ 二月 一四 日 条 であ る︒

抑 此間 御所 旧跡 馬場

︿昔 御蔵 跡云 々

﹀︑ 蟾 蟇数 千 出 て田 中 ニ 入︑ 大少 不 知 其 数云 々

︑帰 路 其跡 見 之 処︑ 蛙於 于 今 不 見︑ 此事 佳瑞 也︑ 近比 有吉 例︑ 應永 十五 年自 室町 殿蟾 蟇数 千万 出了

︑不 経幾 程将 軍執 天下

︑尤 吉事 也︑ 義 量 逝去 の わ ずか 二 週 間前 の 記 事 であ る

︒特 に 傍線 を 付 けた 箇 所 に 注意 し て いた だ き た い︒ 応 永 一 五 年︵ 一 四

〇 八

︶︑ 室 町殿 より 数千 万の ヒキ ガエ ルが 這い 出し た︒ 幾 程も な く 将軍 が 天 下を 掌 握 し た︒ ヒキ ガ エ ルの 出 現 は吉 事 で あ る︑ と︒ 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 七

(12)

この とき の室 町将 軍は 義持 であ る︒ 義持 の将 軍位 襲職 は応 永元 年︵ 一三 九四

︶一 二月 のこ とで ある が︑ 全盛 期の 父 義 満が 王権 の実 質を 掌握 して

︑義 持は 天下 の覇 権か ら遠 いと ころ にい た︒ 弟義 嗣の 存在 も義 持の 未来 を不 確定 なも の に して いた

︒そ の義 持が 応永 一五 年五 月に 突 如 とし て 自 由に な っ た︒ 父義 満 が 死 んだ の で ある

︒﹁ 将 軍 執天 下

︑尤 吉 事 也﹂ と表 現さ れて いる 背後 に父 義満 の逝 去が 想定 され てい ると ころ に︑ この 親子 の複 雑な 関係 が透 けて みえ てい る が

︑そ のこ とは よい

︒問 題な のは カエ ルで ある

︒ 応永 一五 年当 時︑ リア ルタ イム に日 記を 書い てい た貴 族山 科教 言は

︑そ の日 記﹃ 教言 卿記

﹄の 同年 二月 六日 条に

﹁ヒ キカ ヘル 新御 所︿ 室町 第﹀ 東門 前ヨ リ大 場ニ 百千 アリ 云々

︑陰 陽師 ニ被 尋也

﹂と いう 記事 を書 きと めて いる

︒ 義満 急死 の三 ヶ月 前に

︑室 町御 所か ら大 量の ヒキ ガエ ルが たし かに 出現 して いた ので ある

︒も ちろ ん自 然現 象で あ り

︑御 所 の 春 先 の 池 で 生 ま れ た 子 ガ エ ル で あ ろ う

︒﹃ 教 言 卿 記

﹄に よ る と ヒ キ ガ エ ル の 数 は じ つ は﹁ 百 千﹂ で あ っ て

︑貞 成の 数千 万が とん でも ない 誇張 であ った こと がわ かる

︒ が︑ その こと はよ い︒ 問題 なの は王 権で ある

︒繰 り返 すが

︑春 先に おけ る大 量の 蛙の 出現 は自 然現 象に 過ぎ ない

︒ し かし その 現象 が王 権の 周辺 に立 ち現 れる と︑ それ は瑞 祥あ るい は怪 異と なる

︒こ の構 図は 董仲 舒的 な天 人相 関説 に お ける 瑞祥

・災 異の 枠内 にあ ると もい える

︒実 例は 枚挙 にい とま ない

︒こ こ では 些 か 性 格の 異 な るつ ぎ の 記事 を 提 示 する のに とど めて おこ う︒

﹃ 長興 宿禰 記﹄ 文明 一四 年︵ 一四 八二

︶八 月一 二日 条で ある

︒ 後 聞︑ 今夜 室町 殿不 思議 有恠 異︑ 御母 儀

殿

御 方 御倉 前 庭︑ 有 合戦 声 兵 具打 合 音 令 騒動

︑番 衆 輩 奔散 令 驚 之処

無 人 一 向 無其 形

︑陰 陽 賀 安 両人

︑被 召 占 文︑ 安 三 位有 宣為 吉 事 之由 勘 申

︑賀 三 位在 通以 外 御 慎 之 旨︑ 進 占 文

︑ 室町 殿は 将軍 足利 義尚

︑御 母儀 一位 殿は 日野 富子 をさ して いる

︒御 方御 倉の 前庭 で合 戦の 声︑ 兵具 を打 ち合 わせ る 音 が聞 こえ

︑騒 動と なっ た︒ 幕府 は陰 陽師 の土 御門 有宣 と勘 解由 小路 在通 に占 わせ たが

︑二 人の 占文 は全 く逆 の内 容

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 八

(13)

と なっ てい た︒ 有宣 は吉 事と 勘申 し在 通は 御慎 と勘 申し てい るの であ る︒ 室町 殿の ヒキ ガエ ルの 一件 で︑ 重要 なの は﹃ 教言 卿記

﹄が

﹁陰 陽師 に尋 ねら るる なり

﹂と 書い てい るよ うに

︑当 時 か らこ れを 怪異 とみ なす 人々 がい たこ とで ある

︒陰 陽師 はこ れが 怪異 なの かど うか 判定 し︑ もし 怪異 なら ば何 の前 兆 な のか を勘 申す る︒ 残念 なが らそ の勘 申結 果は 知ら れな い︒ 少な くと も貞 成は

︑こ れを 義持 にと って の吉 事と 解釈 して いた

︒そ の吉 事 を 先例 にし て︑ 貞成 は新 たな ヒキ ガエ ルの 出現 を嘉 瑞と 捉え たの であ る︒ しか し現 実は 貞成 の解 釈を 裏切 った

︒二 週 間 後に 将軍 義量 が死 んで

︑天 下は 凶事 を呈 する こと にな る︒ 記録 者の 解釈 が永 遠に 宙づ りの 状態 とな った と書 いた の は その こと であ る︒ 他方 で凶 事の 予兆 もあ った

︒応 永三 二年 の正 月一 日︑ 室町 殿義 持の 御前 に将 軍義 量が やっ てき た︒ もち ろん 年賀 の 挨 拶の ため であ る︒

⑤に ある よう に︑ その とき 二羽 の鳩 が飛 んで きて

︑突 きあ い二 羽と も死 んで しま った とい う︒ 鳩 の 喧嘩 はあ りえ るだ ろう

︒し かし それ によ って 共倒 れに 死ん でし まう とい うこ とが あり える のか どう か︒ 常識 的に は 考 えが たい だろ う︒ 問 題 なの は

︑鳩

︑そ れ もつ が い の鳩 と は 何 かと い う こと で あ る︒ 言う ま で も なく

︑そ れ は 八 幡 信 仰 の 表 象 で あ っ た

︒早 くか らつ がい の鳩 の向 きあ う姿 が︑ 固定 した 意匠 とし てイ コン 化さ れ︑ 官軍 に与 えら れる 錦の 御旗 を飾 るこ と す らあ った

︒も とは 石清 水八 幡宮 の鎮 座す る男 山を

︑別 名﹁ 鳩が 峰﹂ と読 んだ こと から 起こ った 信仰 であ ろう

︒ 室町 将軍 家も 武門 源氏 以来 の伝 統に 基づ いて 八幡 神を 氏神 とみ なし たか ら︑ 当然

︑つ がい の鳩 に様 々な 意味 づけ を 行 うこ とに なっ た︒ つが いの 鳩の 共倒 れの 死は

︑将 軍の 死︑ ある いは 室町 殿義 持を 含む 将軍 家の 自滅 的な 崩壊 の兆 し と して 理解 され たに 違い ない ので ある

︒ この よう な怪 異の 頻発 をう けて 青年 将軍 が逝 去し たの か︑ 将軍 逝去 をう けて その よう な怪 異が 想起 され るの か︒ 時 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

二 九

(14)

間 の順 序は 正確 では ない

︒し かし いず れに して も︑ 室町 時代 を生 きた 人々 の心 性の なか では

︑義 量は 頻発 する 怪異 の た だな かで 死ん だの であ る︒

︹室 町殿 と神 祇︺ 応永 三二 年の 正月 一日 は︑ 季節 的に は珍 しい 雷雨 で明 けた

︒① によ ると

︑そ の時 分に 勘解 由小 路武 衛│

│前 管領 斯 波 義淳

││ の屋 形の 棟の 上に 甲が 降下 した

︒そ の甲 には 銘文 があ り︑ 将軍 と書 いて あっ たと いう ので ある

︒斯 波義 淳 を 義量 の後 継に 擬す 巷説 であ ろう

︒斯 波氏 は室 町将 軍家 と同 族︒ 足利 一門 のな かで も格 式が 最も 高く

︑義 淳の 祖父 高 経 まで は足 利氏 を名 乗っ てい た︒ 室町 殿義 持に もは や男 児が いな い以 上︑ 足利 嫡流 家と 家格 に遜 色の ない 斯波 氏を

︑ 新 たな 将軍 家に 擬し てい るの であ る︒ 権力 闘争 の兆 しを ふく む危 うい 噂と 言う べき だろ う︒ 斯波 義淳 につ いて は︑ さら に手 の込 んだ 巷説 も流 れて いた

︒② によ れば

︑義 淳の 家臣 甲斐 某の 宿所 へ一 人の 僧が 太 刀 を持 参し てあ らわ れ︑ つぎ のよ うに 語っ たと いう ので ある

︒石 清水 八幡 宮に 参籠 して いる とき

︑甲 斐の 宿所 に太 刀 を 届け るよ う夢 告を 受け

︑目 覚め ると 実際 に太 刀 が 出現 し て いた

︒﹁ 武 衛 先祖 七 条 入 道﹂ が石 清 水 八幡 宮 に 奉納 し た 太 刀│

│︒ 七条 入道 は斯 波高 経︵ 一三

〇五

〜六 七︶

︑﹁ 甲 斐﹂ は斯 波氏 の家 臣で ある

︒か つて 石清 水八 幡宮 に奉 納さ れた 先祖 斯 波 高経 の太 刀が 甲斐 の宿 所に 届け られ たの は︑ 天下 の軍 事指 揮権 を八 幡大 菩薩 が斯 波義 淳に 委ね たこ とを 意味 する だ ろ う︒ しか もそ れは 先祖 斯波 高経 の秘 めら れた 野望 の成 就と して 捉え られ てい る︒ もち ろん 天下 の覇 権へ の野 望で あ る

︒伏 見宮 貞成 の記 述は

﹁実 説だ とい う﹂ と﹁ なお 不審

﹂の あい だを 揺れ てい る︒ しか し﹁ 実説

﹂と 考え るの であ れ ば

︑幕 府内 部の ただ の奪 権闘 争で はす まな い事 態も 想定 され てい るこ とに なる

︒ ちな みに

︑太 刀を 持参 した 僧が 甲斐 の若 党か ら﹁ イタ カ﹂ と罵 られ てい るこ とは 興味 深い

︒イ タカ は異 高な どと 書

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

(15)

か れる こと もあ る︒ 京都 五条 橋の 下な どで 卒塔 婆に 戒名 を書 いて 死者 を供 養し

︑死 霊を 管理 し︑ 口寄 せを 行う 民間 宗 教 者で

︑狐 を使 うこ とも あっ た︒ それ が得 体の 知れ ない 他人 を罵 倒す る言 葉と して 使わ れて いる のは

︑彼 らが 社会 的 な 賤視 の対 象だ った こと と関 係が ある

︒ とも あれ

︑ワ イド ショ ー的 な巷 説の 氾濫 のな かで

︑斯 波高 経や 義淳 の名 前が 浮上 して いた こと は︑ 幕府 権力 の内 部 事 情に 精通 する 何者 かが

︑こ の噂 の流 布に かか わっ てい たこ とを 示し てい るの かも しれ ない

︒甲 降下 の怪 異を

﹁堅 く 隠 密す

﹂と 言わ れた 斯波 義淳 の立 場は 複雑 だっ たで あろ う︒ たと え根 も葉 もな い巷 説で も︑ それ が政 治情 勢に 何ら か の 影響 を与 える こと も考 えら れる から であ る︒ この ころ

︑と きの 管領 畠山 満家 が義 淳の 対抗 馬と 見な され てい た︒

④の 記事 によ れば

︑そ の畠 山満 家邸 の厩 の馬 が 人 語で

﹁只 今ニ 骨ヲ 折ヘ シ﹂ と言 い︑ ほか の馬 も一 斉に いな ない たと い う⑽

︒ 幕閣 内 部 の 緊張 関 係 が見 事 に あぶ り 出 さ れて いる とい うべ きだ ろう

︒斯 波義 淳へ の王 権神 授的 な巷 説に 対し て︑ 畠山 満家 に対 する 噂は 辛辣 であ る︒ 怪異 の 巷 説に 仮託 して

︑明 快な 政治 的主 張│

│あ るい は期 待の 表出

││ がな され てい るよ うに も思 える

︒ 王権 神授 とい うテ ーマ に関 して は︑

⑨の 段を 取り 上げ るこ とも でき るか もし れな い︒ この 年の 二月 に︑ 将軍 義量 の 病 状が 危機 的な 状態 に立 ち至 った とき

︑室 町殿 義持 の寝 殿の 棟瓦 のう えに 白羽 の矢 が立 った とい う︒ そも そも 堅い 瓦 に 矢が 立つ とい うの も不 思議 であ るが

︑そ れ以 上に この 矢は 常識 はず れの 姿か たち をし てい た︒ 鳥の 羽の かわ りに 紙 が つけ てあ り︑ 鏃の 部分 がた ぶん 筆に なっ てい たの であ る︒ この 噂の 意味 する とこ ろは 少々 わか りに くい

︒筆 と紙 が与 えら れて いる のだ から

︑義 持に 後継 者を 指命 せよ とい う こ とな のだ ろう か︒ こう した 巷説 には 何か 典拠

故 事の 裏付 けが ある よう にも 思う が︑ 私は まだ その 典拠 を発 見で き て いな い︒ いず れに して も公 武政 権の 中枢 に位 置す る室 町殿 の系 譜が

︑後 継者 の病 死に よっ て断 絶す るか もし れな いと いう 危 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 一

(16)

機 に際 して

︑一 見荒 唐無 稽に 見え る流 言飛 語の なか にも 王権 神授 的な 思想 が鮮 明に 姿を 現し てく るの であ る︒ 公権 力 は 人智 を超 えた 何者 かに よっ て保 証さ れる

︒そ の何 者か は神 々で あっ て仏 菩薩 では なか った

︒ つぎ に③ の記 事を 見よ う︒ 室町 殿義 持が 北野 天満 宮に 初詣 に行 き︑ 宮廻 りを して いた とき

︑御 殿の なか から 声が 聞 こ えて

︑﹁ 今 年で 御代 が尽 きる だろ う﹂ と言 った とい う ので あ る︒ 北 野社 の 本 殿は 多 く の 堂社 に よ って 取 り かこ ま れ て いた

︒宮 廻り は左 回り にそ の堂 社群 を巡 拝し なが ら歩 くこ とで

︑こ の時 代の 北野 社で はマ ニュ アル 化し た宮 巡り の 次 第も 成立 して いた

︒ 義 持 が聞 い た とい う 声 が北 野 天 神 の託 宣 と して 構 想 され て い る こと は 言 うま で も ない だ ろ う︒ し かし こ の 場 合 の

﹁御 代﹂ が天 皇の それ なの か︑ 室町 殿の それ な のか

︑将 軍 の それ な の か︑ これ だ け で はわ か り にく い

︒そ こ で噂 に 尾 鰭 が つ い てく る

︒北 野 社の 鶏 が 不吉 な 予 言 を語 っ た│

│と

︒予 言 の 中身 は 室 町 殿の 逝 去 でも 将 軍 の 急 死 で も な く

﹁主 上﹂ 称光 天皇 の死 であ った

︒ はや くか ら精 神障 害の 兆候 を見 せて いた 称光 天皇 の死 は︑ 実際 には 応永 三五 年︵ 一四 二八

︶の こと であ る︒ だか ら こ の予 言は 厳密 には 実現 しな かっ たと 言っ てよ い︒ しか し︿ 御代 が尽 きる

﹀の 表現 のな かに は︑ 王権 の衰 微・ 王者 の 死 去・ 社会 の混 乱へ の言 いし れぬ 不安 と︑ 代替 わり への 裏返 しの 期待 感が ひそ んで いる よう にみ える

︒王 者の 不慮 の 死 の向 こう 側に 見え る風 景は

︑い つも その よう に両 義的 なも のな のだ

︒ワ イド ショ ー的 な巷 説の なか で︑ その よう な 不 安と 裏返 され た期 待の 対象 が︑ 病弱 な称 光天 皇に しぼ られ てい った のは

︑状 況と して は当 然の こと であ った よう に 思 う︒ しか し現 実に 死去 した のは 若い 将軍 の方 であ った

︒社 会不 安の 醸成 とい う意 味で 予言 は半 ばは 外れ

︑半 ばは 成 就 した とい うべ きな のか もし れな い︒ それ にし ても

︑予 言獣 はな ぜ人 間の 神主 でも なく 巫女 でも なく 鶏だ った のか

︒応 永三 二年

︵一 四一 六︶ から 九年 前 の 春に

︑大 聖歓 喜天 の神 体で ある 二股 の杉 に怪 鳥が 止ま って 鳴い たこ とを 想起 して みよ う︒ 北野 社に 出現 した 奇怪 な

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 二

(17)

││

︒ギ リ シ ア 神話 の キ メラ の よ うな 幻 獣

︒宝 殿 内に 参 籠 通夜 す る 人 々が 肝 を つぶ し た そ の 鳥 は︑ 頭 が 猫 で 身 が 鶏

︑尾 が蛇 とい う姿 をし てい た︒ この 場合

︑頭 と尾 をの ぞく 本体 が鶏 であ るこ とに は注 意が いる

︒そ の悪 魔的 な身 体 は

︑じ つは 鶏と して 構想 され てい るの であ る⑾

︒ どう やら 中世 の北 野社 では

︑鶏 が聖 なる 霊獣 と見 なさ れて いた らし い︒ 日吉 大社 にと って の猿 や春 日社 にと って の 鹿 のよ うに

︒し かも それ は両 義的 な性 格を 持っ てい た︒ 北野 天神 の化 身と して 不吉 な予 言を 語る こと もあ れば

︑猫 や 蛇 と合 体し

︑魔 物化 して 社頭 を揺 るが すこ とも ある

︒今 年で 御代 が尽 き︑ 主上 が崩 御す るだ ろう とい う鶏 の予 言は

︑ そ のよ うな 北野 信仰 の文 脈か ら語 り出 され たも ので あっ た︒ さて

︑義 量逝 去を めぐ る一 連の 怪異 記事 のな かに

︑も うひ とつ 北野 社が 問題 とな るも のが ある

︒⑦ の語 りで ある

︒ こ のシ ーン には

︑北 野天 神と 室町 殿と の蜜 月的 な関 係が

︑よ り直 截に 書き 記さ れて いる

︒話 は華 王院 と称 する 人物 の 夢 想を 室町 殿義 持が 聴い たと いう 設定 で進 めら れる

︒ 華王 院の 夢想 とは

︑宮 中と おぼ しい とこ ろで 神々 が会 合し てい ると いう 夢で ある

︒そ の会 合の 一ノ 座︑ すな わち 最 も 上座 にす わっ てい る神 が︑

﹁ 将軍 義量 の代 が尽 き よう と し てい る

︒諸 神 はみ な 彼 を 見捨 て て いる

︒た だ し 北野 天 神 だ けは いま だ義 量を 見捨 てて はい ない

﹂と 語っ たと いう ので ある

︒そ れを 披露 され た義 量の 父義 持は

︑義 量の 生存 に 一 抹の 希望 を抱 いた ので あろ う︒ 北野 社に 参籠 する と言 った

︑と いう

︒す べて の神 々が 見捨 てて もな お将 軍義 量を 見 捨 てる こと のな い神

︒北 野天 神│

│︒ 義量 の逝 去と いう 歴史 的現 実か らす ると

︑義 量と 北野 天神 との この 遭遇 には

︑奇 妙に 不吉 な匂 いが する

︒こ の不 吉 な 話形 には じつ は先 例が あっ た︒

﹃ 平家 物語

﹄巻 第五

︑物 怪之 沙汰 のつ ぎの よう な語 りで ある

︒ 又

︑源 中納 言雅 頼卿 のも とに 候け る青 侍が 見た りけ るゆ めも おそ ろし かり けり

︒た とへ ば大 内の 神祇 館と おぼ し き とこ ろに

︑束 帯た ゞし き上 臈た ちあ また おは して

︑儀 定の 様な る事 のあ りし に︑ 末座 なる 人の

︑平 家の かた う 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 三

(18)

ど す る と おぼ し き を︑ その 中 よ り追 ッ た て らる

︒か の 青 侍夢 の 心 に︑ あ れは い か なる 上 臈 に て ま し ま す や ら ん と

︑あ る老 翁に とひ たて まつ れば

︑厳 島の 大明 神と こた へ給 ふ︒ 其後 坐上 にけ だか げな る宿 老の 在ま しけ るが

︑ こ の日 来平 家の あず かり たり つる 節斗 をば

︑今 は伊 豆国 の流 人頼 朝に たば うず る也 と仰 せら れけ れば

︑其 御そ ば に 猶宿 老の 在ま しけ るが

︑其 後は わが 孫に もた び候 へと 仰ら るゝ とい ふ夢 を見 て︑ 是を 次第 にと ひた てま つる

︒ 節 斗を 頼朝 にた ばう とお ほせ られ つる は八 幡大 菩薩

︑其 後は わが 孫に もた び候 へと 仰ら れつ るは 春日 大明 神︑ か う 申老 翁は 武内 の大 明神 と仰 らる ゝと いふ 夢を 見て

︑こ れを 人に かた る程 に︑ 入道 相国 もれ 聞い て︑ 源大 夫判 官 秀 貞を もッ て︑ 雅頼 卿の もと へ︑ 夢見 の青 侍急 ぎ是 へた べと の給 ひつ かは され たり けれ ば︑ かの 夢見 たる 青侍 や が て逐 電し てん げり

︒ 源中 納言 雅頼 卿に 仕え る青 侍│ 青い 袍を 着た 六位 の侍

│の 見た 夢も 恐ろ しい もの であ った

︒大 内裏 の神 祇官 と思 し い とこ ろに

︑束 帯を 正し く身 に着 けた 貴人 たち がた くさ んお いで にな って

︑議 定を して いる 様子 であ った が︑ その 末 座 にい て平 家の 味方 をし たと 思し い人 が︑ その 場か ら追 い立 てら れて しま った

⁝⁝ と︒ 中納 言雅 頼︵ 一一 二七

│一 一九

〇︶ は村 上源 氏︑ 具平 親王 四代 の孫 で源 雅兼 の子

︒嘉 応元 年︵ 一一 六九

︶か ら治 承 三 年︵ 一一 七九

︶ま で中 納言 の要 職に あっ た︒ 頼朝 の側 近で ある 中原 親能 が雅 頼の 家人 であ った ため に︑ 治承 四年 に 平 家方 から 尋問 を受 ける

︵﹃ 玉 葉﹄ 同一 二月 六日 条︶ など

︑源 氏に 近く

︑ま た摂 関家 にも 近か った

︒ 大内 裏の 神祇 官と 思し い場 所で の出 来事 であ った と物 語は 語っ てい る︒ 源中 納言 雅頼 卿の 青侍 が見 た夢 は︑ これ 以 上 ない 舞台 設定 と登 場人 物と

︑そ れに 神話 的な 筋立 てを 持っ てい た︒ 青侍 は夢 のな かで 一座 の老 翁に

︑追 い立 てら れ た 貴人 につ いて

︑あ れは どう いう 人な のか と問 うて いる

︒老 翁の 返事 は意 味深 長な もの であ った

︒そ の貴 人が 厳島 大 明 神だ とい うの であ る︒ 世俗 の権 力の 変遷 を︑ 背後 で支 える 神々 の力 関係 の変 遷と して 捉え るこ の未 来記 的叙 述は

︑八 幡大 菩薩 と春 日大 明

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 四

(19)

神 の相 次ぐ 登場 によ って

︑こ の語 りの 持つ

︑時 代の 変革 を照 射す る射 程の 長さ を顕 わに する こと にな る︒ 神祇 官の 会合 の場

︑そ の上 座に は八 幡大 菩薩 が座 って おり

︑日 頃平 家の 預か って いた 節刀 を︑ 伊豆 の流 人源 頼朝 に 賜 おう と仰 せら れた

︒そ のと き︑ 傍ら にい た春 日大 明神 が︑ その 後は わが 孫に もと 仰せ られ たと いう ので ある

︒ 国家 的な 軍事 指揮 権の シン ボル とし ての 節刀 が︑ 八幡 大菩 薩の 意志 によ って 平清 盛か ら源 頼朝 へ︑ そし て摂 関家 へ と 移動 して ゆく

︒源 頼朝 の覇 権と 源氏 三代 の滅 亡︑ 摂家 将軍 の登 場と いう 未来 の年 代記 が︑ 神々 の約 諾と いう 枠組 み を まと って

︑予 言的 に語 られ てい ると いう こと だ︒

﹃ 看聞 日記

﹄応 永三 二年 二月 二八 日 条に お け る﹁ 華王 院

﹂の 夢 想は

︑こ の

﹃平 家 物 語﹄ 物怪 之 沙 汰の 話 型 を下 敷 き と して いる

︒少 なく とも この よう な話 型の 存在 を 前 提 にし て 語 られ て い る︒

﹃平 家 物 語﹄ に おけ る 青 侍の 夢 想 では

︑ 神 祇官 と思 しき 場所 に会 合し た神 々は

︑厳 島大 明神 を例 外と して すべ てが 平家 を見 捨て る︒

﹃ 平家 物語

﹄に おけ る厳 島大 明神 の役 割を 担っ てい るの は︑

﹃看 聞日 記﹄ の巷 説に おけ る北 野天 神で ある

︒厳 島大 明 神

│清 盛︑ 北野 天神

│義 量の アナ ロジ ーが 話型 の類 似を 支え てい るわ けだ

︒し かし 結論 は同 じで はな い︒

﹃ 平家 物語

﹄ が 厳島 大明 神の 追放 と軍 事指 揮権 の予 定調 和的 な移 行を 語る のに 対し て︑ こと の結 末︵ 未来 図︶ が見 えて いな い﹃ 看 聞 日記

﹄の 場合 は︑ ただ 北野 天神 の加 護が 語ら れる のみ であ る︒ その 意味 では

︑② にお ける 軍事 指揮 権の 移行 も

︑﹃ 平 家 物語

﹄の 話 型 の別 れ と して 語 ら れ てい る の かも し れ ない

︒ 八 幡大 菩薩 は﹁ 節斗

︵刀

︶﹂ を 斯波 義淳 に下 賜す る︒ 死霊 や 狐魅 を 管 理す る 賤 視さ れ た 職 能民 で あ った イ タ カの よ う な 僧侶 を介 在さ せる など

︑相 応の 潤色 を帯 びた 記事 では ある が︑ いず れに して も八 幡大 菩薩 が軍 事指 揮権 を他 者に 委 ね る構 図は

﹃平 家物 語﹄ の未 来記 に酷 似し てい る︑ と言 って よい

︒ もっ とも

︑太 刀は 王権 によ って 下賜 され る節 刀で はな く︑ 斯波 義淳 の先 祖高 経が 八幡 宮に 奉納 した もの であ った と い う︒ 先述 した よう に将 軍職 に対 する 高経 の野 望の 再現 が想 定さ れて いる わけ だ︒ 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 五

(20)

王権 神授 の構 想が 巷説 の流 布を 支え てい る︒ しか し│

│︒ しか し︑ 未来 の年 代記 が神 々の 約諾 とい う枠 組み をま とっ て︑ 確乎 とし て提 示さ れる

﹃平 家物 語﹄ 物怪 之沙 汰の 語 り に対 して

︑﹃ 看 聞日 記﹄ の書 きと めた 巷説 が何 か不 吉な 相貌 を帯 びる のは なぜ だろ う︒ お わ り に 青

年将 軍の 逝去 をめ ぐる 怪異 の巷 説が

︑潜 在的 に皇 統の 一翼 をに なう 伏見 宮家 の正 統を つい だ記 録者

貞 成の フ ィ ルタ ーを 通過 する 以前 に︑ 室町 殿義 持在 世時 の政 治的 構造 のな かで

︑あ るい は状 況の なか で︑ 時の 権力 とど の よ うに 関わ りつ つ流 布し てい たの か︒ 受容 した 京都 の都 市社 会は

︑地 理的 に王 権を 包摂 する もの とし て︑ この 怪 異 の巷 説に どの よう に関 わっ たの か︒ 寺社 勢力

︑と くに 神祇 の世 界は 怪異 の巷 説に 不可 分な 関係 をも って いた

︒ な ぜ神 祇な のか

︒ 本稿 のは じめ にで この よう に述 べな がら

︑当 該記 事の 読み にこ だわ り︑ 課題 には 正面 から 触れ ずじ まい に終 わっ て い る︒ 密教 が天 皇位 の世 襲の 保障 に重 要な 役割 をは たす とし ても

︑室 町殿 と院 政の 主宰 者︑ そし て天 皇と の関 係性 の な かに 定位 する 当該 期の 王権 は︑ 神祇 の世 界と 濃密 な関 係を つく りだ して いた

︒し かも その 濃密 な関 係は 王権 の衰 微 と いう 方向 性に シフ トし てい る︒ 青年 将軍 の急 死が 室町 殿義 持の 未来 を空 白に して しま った

︒歴 史が 次に どの よう な一 手を 打つ のか

︑ま だ誰 にも わ か らな い︒ その よう な先 の読 めな い段 階に お い て︑ 確乎 と し て未 来 を 語る こ と は 不可 能 で ある

︒﹃ 看 聞 日記

﹄の 書 き と めた 巷説 が不 安定 で︑ 何か 不吉 な相 貌を 帯び るの は︑ おそ らく はそ のた めだ

︒ 以上 のよ うな 説明 も可 能だ ろう か︒

⁝⁝ いや

︑語 ろう と思 えば

︑未 来は いか よう にも 語る こと がで きる

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 六

(21)

問題 なの は﹃ 看聞 日記

﹄の 時代

︑神 々の 約諾 とい う予 定調 和的 な枠 組み その もの が意 味を 失っ てい るよ うに 見え る こ と で あ る︒ 中世 の 国 家権 力 を 支え て き た 神々 の そ れぞ れ が 力 を失 っ た わけ で は ない

︒少 な く と も巷 説 の な か で

︑ 神 々は なお 次代 の権 力者 に王 権を 授与 する 権利 と権 限を 留保 して いる

︒そ うで はな くて

︑世 界を 支え る予 定調 和的 な 枠 組み

︑つ まり は神 々の 約諾 とい う︑ 世界 の神 話的 な構 造そ のも のが 失わ れて いる よう に見 える ので ある

︒ 日付 の一 日ず れる

⑩の 記事 は︑ ある いは 神祇 官の 荒廃 を│

│室 町将 軍の 加護 者︑ 北野 天神 すら 立ち 去っ た神 祇官 の 荒 廃を

︑語 って いる のか もし れな い︒ 雨 降入 夜暴 風甚 雨︑ 雷鳴

︑後 聞︑ 大風 雨之 時分

︑神 祇官 松明 おひ たゝ しく みえ て︑ 四五 千人 許相 集︑ 暫有 てト ツ ト 咲テ 退散

︑松 明火 人ニ 見之 実説 也︑ 諸神 会合 歟︑ 天狗 野干 所為 歟︑ 不思 議也

︑ と いう 語り は︑ 神祇 官に おけ る神 々の 会合 の後 日談 とし て︑ 願っ ても ない 劇的 な余 韻を とど める もの だろ う︒ 暴風 雨 の さな かに 神祇 官を 埋め 尽く した 四五 千の 集団 は神 々だ った のか

︒室 町殿 の悲 劇を 哄笑 して 退散 した とす れば

︑天 狗 野 狐の 類だ った のか

︒す でに 神祇 官に 神々 の姿 はな く︑ どの よう な未 来図 が示 され るこ とも ない

︒ 註

⑴ 西 山 克

﹁ 怪 異 学 研 究 序 説

﹂︵

﹃関 西 学 院 史 学

﹄ 二 九

︑ 二

〇 二 年

︶︒

⑵ 東 ア ジ ア 恠 異 学 会 編

﹃ 怪 異 学 の 技 法

﹄︵ 臨 川 書 店

︑ 二

〇 三 年

︶︒ 怪 異 学 と 怪 異 に つ い て の 私 自 身 の 考 え 方 に つ い て は

︑﹃ 技 法

﹄ の 序 章 に あ た る 西 山

﹁ 怪 異 の ポ リ テ ィ ク ス

﹂ を 参 照 さ れ た い

⑶ 東 ア ジ ア 恠 異 学 会 編

﹃ 怪 異 学 の 可 能 性

﹄︵ 角 川 書 店

︑ 二

〇 九 年

︶︒

⑷ 石 原 比 伊 呂

﹁ 准 摂 関 家 と し て の 足 利 将 軍 家

│ 義 持 と 大 嘗 会 と の 関 わ り か ら

﹂︵

﹃ 史 学 雑 誌

﹄ 一 一 五

│ 二

︑ 二

〇 六 年

︶・ 同

﹁ 足 利 義 持 と 後 小 松

﹁ 王 家

﹂﹂

︵﹃ 史 学 雑 誌

﹄ 一 一 六

│ 六

︑ 二

〇 七 年

︶︒ 伊 藤 喜 良

﹃ 足 利 義 持

﹄︵ 吉 川 弘 文 館

︑ 二

〇 八 年

︶︑ 大 田 壮 一 郎

﹁ 室 町 殿 権 力 の 宗 教 政 策

│ 足 利 義 持 期 を 中 心 に

﹂︵

﹃ 歴 史 学 研 究

﹄ 八 五 二

︑ 二

〇 九 年

︶ な ど を 挙 げ て お く

⑸ 大 田 壮 一 郎

﹁ 室 町 殿 権 力 の 宗 教 政 策

│ 足 利 義 持 期 を 中 心 に

︒ 再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 七

(22)

⑹ 西 山 克

﹁ 室 町 時 代 宮 廷 社 会 の 精 神 史

│ 精 神 障 害 と 怪 異

﹂︵ 東 ア ジ ア 恠 異 学 会 編

﹃ 怪 異 学 の 可 能 性

︶ を 参 照 の こ と

⑺ 小 坂 真 二 氏

﹁ 三 合 の 算 出 法 に つ い て

﹂︵

﹃ 日 本 歴 史

﹄ 三 八 三

︑ 一 九 八

〇 年

︶︒

⑻ 西 山 克

﹁ 皇 統 と 亀

﹂︵ 東 ア ジ ア 恠 異 学 会 編

﹃ 亀 卜

﹄ 臨 川 書 店

︑ 二

〇 六 年

︶︒

⑼ 池 田 知 久

﹁ 中 国 古 代 の 天 人 相 関 論

│ 董 仲 舒 の 場 合

﹂︵ 宮 嶋 博 史 編

﹃ 世 界 像 の 形 成

﹄ 東 京 大 学 出 版 会

︑ 一 九 九 四 年

︶︒

⑽ 中 世

〜 近 世 に 継 承 さ れ て い く 未 来 記 の 言 説 の な か に

︑ 馬 が 人 語 を し ゃ べ る 逸 話 が 織 り 込 ま れ て い る こ と が あ る

⑾ 西 山 克

﹃ 聖 地 の 想 像 力

﹁ 夢 見 ら れ た 空 間

﹂︵ 臨 川 書 店

︑ 一 九 九 八 年

︶︒

│ 文 学 部 教 授

再 論

・ 室 町 将 軍 の 死 と 怪 異

三 八

参照

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