ロシア革命と日本の社会運動
黒川 伊織 1 ロシア革命と日本 合法局面でロシア革命のインパクトが日本に及んでくるのは、1920 年のことである。山 川均・山川菊栄の個人誌『社会主義研究』の1920 年 6 月号が「ボルセヰキ特集号」として 刊行されたのを画期として、これ以降総合雑誌『改造』の誌面には、「労農露国」「赤色露国」 に関する記事が相次いだ。『改造』の論点の特質は、シベリア出兵を前提に、「赤色露国」と 地続きの「満鮮」の「赤化」に読者の関心を喚起していることにある。 この時期、内戦が続くシベリアには、ロシア共産党・コミンテルンの双方がそれぞれ拠点 を設けて、シベリア・東アジアへの進出の機会をうかがっていた。そのような工作を最初に 担ったのは、帝政時代からロシアに暮らし、シベリアで共産主義グループを組織した朝鮮人 のネットワークである。1920 年夏、東京へ現れた朝鮮人密使・李春熟の働きかけに応じて、 1920 年 10 月に大杉栄が上海に渡航し、コミンテルンの在中国代表・ヴォイチンスキー、大 韓民国臨時政府国務総理を務める朝鮮人・李東輝と接触した。帰国後の大杉は、ボル派との 共闘の場として『労働運動(第2 次)』を発行する。 共産党組織化に向けた日本への働きかけは、在米日本人社会主義者団を組織した片山潜 が暮らすアメリカからもなされた。このルートで日本共産党暫定中央執行委員会の成立に 決定的役割を果たしたのが、近藤栄蔵である。近藤は『労働運動(第2 次)』にボル派とし て寄稿しながら、李春熟に続く朝鮮人密使・李増林の働きかけに呼応して、山川均と協働し て水面下で非合法共産党の組織化を実現しようとしていた。 2 日本共産党暫定中央執行委員会の成立と山川均の役割 1921 年 4 月下旬、東京で日本共産党暫定中央執行委員会が組織された。暫定中央執行委 員会発足の会合に集ったのは、山川均・近藤栄蔵・堺利彦・荒畑寒村・橋浦時雄・近藤憲二・ 高津正道の 7 名で、暫定中央執行委員会の総務幹事は山川均、国際幹事は近藤栄蔵が務め た。近藤は、山川が起草した「日本共産党規約」および「日本共産党綱領」を携行して上海 に渡航した。 上海で近藤が日本共産党創立を報告したのは、李東輝のほか、ヴォイチンスキーにかわり コミンテルン在中国代表を務める朝鮮人・朴鎮淳、「大同党」(正統な中国共産党とは別個に 組織されたもう一つの「中国共産党」)を率いる中国人・黄介民らであった。この顔ぶれか らわかるように、大杉そして近藤の上海渡航は、コミンテルンからの直接の働きかけに加え て、朝鮮3・1 運動、中国 5・4 運動に象徴される朝鮮人・中国人の民族解放運動が上海を 拠点に築いたネットワークに支えられて実現したといえ、東京では、神田の中華基督教青年 会館がそのようなネットワークの末端として機能していた。中華基督教青年会館には、大杉 栄や高津正道も出入りして5・4 運動後の中国情勢を学んでおり、日本共産党創立の経緯を考える際には、コミンテルンからの直接的働きかけにとどまらず、第 1 次世界大戦の戦後 処理のなかで築かれた東アジアの民族解放運動のネットワークにも留意する必要がある。 暫定中央執行委員会の総務幹事(=委員長)を山川均が務めたように、日本共産党の創設 期において山川が果たした役割は決定的であった。合法局面において「赤色露国」「労農露 国」の紹介に力を注ぎ、同時代の思想的イデオローグとなった山川は、コミンテルンからの 働きかけに応えて、アメリカ帰りの近藤栄蔵らと協働して非合法共産党の結成を実現した のである。しかし、暫定中央執行委員会の活動を担ったのは、近藤と行動を共にする高津正 道ら暁民会の人びとであり、1921 年末の暁民共産党事件は、暫定中央執行委員会の活動と してコミンテルンに報告された。また、近藤はコミンテルンから受領した資金をもとに、高 尾平兵衛らアナルコ・サンジカリズムを支持する活発な労働者に働きかけ、彼らに事実上の 暫定中央執行委員会の活動を担わせてもいた。 3 極東諸民族大会の開催と「統一戦線」形成の試み 極東共和国と日本の外交交渉が続くなか、シベリアでのコミュニストの活動は活発化し、 日本国内のコミュニストへの接触も本格化していく。朴鎮淳に代わって再び上海に着任し てきたヴォイチンスキーの命により日本に派遣された中国人密使・張太雷は、ワシントン会 議に対抗して開催が予定されていた極東諸民族大会に日本代表団が出席するよう求めてき た。これに応えて、高瀬清、徳田球一、吉田一、和田軌一郎、北村栄以智、小林進次郎の6 名が日本から入露し、アメリカから入露してきた在米日本人社会主義者団の鈴木茂三郎、野 中誠之らととともに、1922 年 1 月にモスクワで開催された極東諸民族大会に日本代表団と して参加した。このように、極東諸民族大会は、日本国内外のコミュニストの結集を実現し、 日本とモスクワとの直接連絡が成立する画期となった。しかし、日本代表団のうちボル派が 高瀬・徳田の 2 名だけだったように、この時点での活発な活動家の多くはアナ派と目され ており、極東諸民族大会以降は、アナ派の活動家を暫定中央執行委員会に取り込もうとした。 その試みの責任者は徳田球一であったが、「中央集権と鉄の規律」というボルシェビキの組 織原則をアナ派が断固として受け入れようとしなかったため、アナ派の暫定中央執行委員 会への糾合は間もなく失敗に終わった。 アナ派の糾合に失敗した暫定中央執行委員会は、ボル派のみの組織として再発足するた めに、1921 年 4 月に山川が起草した「日本共産党規約」に明記された手続きを踏んで、1922 年8 月に日本共産党の第 1 回大会をもち、日本共産党(第一次、以下第一次共産党とする) を結成した。第1 回大会の参加者は、堺利彦、山川均、荒畑寒村、橋浦時雄、吉川守圀、高 津正道、徳田球一、高瀬清、渡辺満三の9 名であり、総務幹事に荒畑寒村、国際幹事に堺利 彦が就任した。このような再組織は、ボル系のみの組織としての再出発にとどまらず、ここ まで暫定中央執行委員会の発足とその活動の中核を担ってきた近藤栄蔵を排除するという 意味あいもあった。第1 回大会の開催を報告した 1922 年 9 月 24 日付英語報告書には、荒 畑・堺の直筆署名に加えて党の公印も押印されており、これが第一次共産党がコミンテルン
に送付したはじめての公式書簡となった。 極東共和国と日本の外交交渉が行われるなか、シベリアでは、コミンテルンによるチタを 拠点とした日本への工作が本格化していた。チタでの喫緊の課題は、シベリア駐屯日本軍に 対する宣伝工作に従事する日本人の獲得と、日本語でのビラやパンフレットの印刷を行う 印刷工の獲得であった。1922 年 5 月、高尾平兵衛の誘いにのった日本人印刷工ら 6 名がチ タに到着し、夏の間、アメリカから入露した間庭末吉の指導下でシベリア駐屯日本軍への宣 伝活動に従事したが、すでに 6 月にシベリア駐屯日本軍の撤兵が宣言されていたこともあ って、その効果は限定的だった。 夏が終わると、北浦千太郎ら日本人印刷工は、東方勤労者共産大学(クートヴェ)への入 学を希望してモスクワに向かった。10 月末に日本軍の撤兵が完了して極東共和国が消滅す ると、間庭末吉はチタからウラジオストク入りして、ウラジオストクに入港する海員への宣 伝工作を担うことになった。なお、このとき間庭は属地主義の原則に基づき、アメリカ共産 党からロシア共産党への転籍手続きを行おうとしたが、実現には至らなかった。 再組織された第一次共産党は、11 月にモスクワでの開催が予定されていたコミンテルン 第4 回大会に、日本共産党の綱領草案を提出した。この綱領草案が、1998 年に加藤哲郎が 紹介した「1922 年 9 月の日本共産党綱領」である。モスクワに届いたそれは綱領には不適 とされ、第4 回大会にはモスクワでブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」が日本共 産党の綱領草案として提出された。 第 4 回大会には、高瀬清・川内唯彦が日本代表として参加したが、第 4 回大会で重要な のは、大会に設置された朝鮮問題委員会が、「日本在留の朝鮮人共産主義者は日本共産党の 一セクションを構成すること」という決定を下したことにある。その決定の背景については 未解明であるものの、この決定がその後の日本共産党と在日朝鮮人運動の関係性に一定の 方向付けを与えることになったといえる。 4 コミンテルン執行委員会極東ビューローの設置 コミンテルンは、日本軍のシベリアからの撤退が完了した1922 年末から、ウラジオスト クを拠点として第一次共産党に対するより密接な指導関係を構築しようとしていた。その 背景には、1922 年夏以降、モスクワでのコミンテルンの組織再編が進み、コミンテルン執 行委員会幹部会に直属する東方部のうち極東セクションが、極東共和国消滅後のシベリア・ 沿海州でのコミンテルンの活動を統括するとの決定があった。 1923 年 1 月、ウラジオストクにコミンテルン執行委員会東方部極東ビューローが設置さ れた。その構成員には、ヴォイチンスキー・マーリン・片山潜が指名されたが、マーリンは 第 1 次国共合作に結実する中国での工作活動に専念していたうえ、極東ビューロー設立の 意義に疑問を抱いていたし、片山もまたベルリンに滞在して総同盟の棚橋小虎との接触を 続けており、結局のところ、ヴォイチンスキーだけがウラジオストクに着任して、ひとり極 東ビューローの実務を担うことになった。1923 年 2 月 15 日付ウラジオストクのヴォイチ
ンスキーより日本共産党中央執行委員会宛英語書簡は、自身のウラジオストク着任と、日本 からの最新情報を伝える要員のウラジオストク派遣を求める内容となっている。 極東ビューローと日本との連絡は、コミンテルンの上海拠点やウラジオストクに入港す る海員を介して保たれており、コミンテルンと第一次共産党の関係は一挙に緊密となった。 1923 年 2 月、日本共産党第 2 回大会(市川大会)での人事改選の結果、総務幹事に堺利彦、 国際幹事に佐野学が選出され、山川均と荒畑寒村が執行委員を退いたこと、さらには高尾平 兵衛の「脱党」の知らせにヴォイチンスキーは不快感をあらわにした。なお、第2 回大会に は、第1 回大会で選出された執行委員 5 名(荒畑寒村・堺利彦・山川均・高津正道・橋浦時 雄)、各専門部代表7 名、細胞代表 62 名の計 74 名が参加したとコミンテルンに報告してい る。 この時期、事実上日本駐在のコミンテルンのエージェントとして働いていたのは、極東共 和国よりダルタ通信社日本支社長の肩書きで派遣されたアントノフと、同社員「ニコライ・ マツオキン」である。1922 年 3 月はじめに東京に到着したアントノフの動静は、『外事警察 報』に詳しい。 コミンテルン第 4 回大会に提出されたブハーリン起草の「日本共産党綱領草案」=いわ ゆる「22 年綱領草案」が日本に到着したのは 1923 年 3 月はじめのことだった。「22 年綱領 草案」の日本語訳と「22 年綱領草案」への日本側のコメントを早急に求めるヴォイチンス キーに応じて急遽開催されたのが、3 月 15 日の石神井臨時党大会である。その結果、「22 年綱領草案」の方針――合法政党組織化による議会進出と日本におけるブルジョア革命の 「完成」――には大筋で同意するものの、第一次共産党は綱領起草委員会を設置して来たる べきコミンテルン第 5 回大会までに自らの手で新たな「日本共産党綱領草案」を起草する ことを決めた。また、「22 年綱領草案」にただひとり強硬に反対する荒畑寒村は、コミンテ ルン第 3 回拡大プレナム日本代表としてモスクワに送り、コミンテルン幹部と直接議論さ せることにした。1923 年 4 月末にモスクワ入りした荒畑は、議論ののち翻意し、合法政党 組織化に向けての検討をはじめた。日本国内では、野坂参三、山本懸蔵らにより日本労働総 同盟の左翼化が進み、総同盟を引き込んだ合法政党の組織化も視野に入っていた。 コミンテルン第 3 回拡大プレナム会期中の 6 月 5 日、治安警察法違反による共産党員の 検挙が行われた。第1 次共産党事件である。5 月 23 日までに検挙を察知した堺利彦は、近 藤栄蔵・高津正道・佐野学をウラジオストクに脱出させた。ウラジオストクには、コミンテ ルン執行委員会東方部副部長に就任したヴォイチンスキーにかわり、コミンテルン執行委 員会東方部ウラジオストク駐在代表となったファインベルクが 7 月はじめまでに着任して おり、日本からの3 名と在露の荒畑寒村・間庭末吉らを加えて、ウラジオストクで第一次共 産党の代表機関として日本共産党在外ビューローを組織した。 在外ビューローの最重要任務は、ブハーリン起草の「22 年綱領草案」にかわる第一次共 産党起草の「日本共産党綱領草案」を起草することにあり、イギリス共産党での活動経験を 持つファインベルクが指導にあたった。ファインベルクのリーダーシップのもと、在外ビュ
ーローは「イギリス労働党に倣って日本で「労働党」を組織する方策を講じる」ことを決定 し、「日本共産党綱領草案」に先立って、来たるべき合法政党の綱領草案を8 月中に起草し、 日本に送付した。この綱領草案の思想は、1924 年 6 月に合法無産政党組織化の「母体」と して第一次共産党の影響下に生まれた政治研究会に受け継がれた。 第一次共産党事件によって非合法共産党の存在が明るみになり、堺利彦以下80 名あまり が検挙されても、第一次共産党の活動に目立った打撃はなかった。幹部のうちただひとり逮 捕を免れた山川均は、他の残存党員とともに国内臨時ビューローを組織し、活動の継続を図 っていたし、『改造』などの言論界も、第一次共産党事件をフレームアップとする見方が強 かった。このように第一次共産党への風当たりが弱かったのは、第一次共産党が合法局面で 一定の成果を挙げた活動がロシア飢饉救済運動だけであったように、第一次共産党の活動 がただちに国家体制を揺るがすものとは見なされていなかったからであるともいえる。実 際、デモクラシーから社会主義やボルシェヴィズムに関心を抱くことは、当時の時代状況か らすると当然の帰結であったことは、レーニン『国家と革命』が東京高等商業学校教授・福 田徳三の訳出により『改造』に掲載されたという事実からも了承されるだろう。 ところで、ウラジオストクに極東ビューローが設置されてもなお上海拠点の重要性は変 わらず、コミンテルンの資金はモスクワから上海へ送金され、上海で日本からの連絡要員に 手渡されていた。また、コミンテルン大会出席のため日本から入露する場合も、上海拠点に 出頭し、中露国境から入露するルートが取られていた。このようなウラジオストク・上海の 二重構造の解消は、1923 年後半以降に課題となっていく。 5 関東大震災の衝撃と解党 9 月 1 日の関東大震災は、ここまで社会主義運動に対して比較的寛容であった世論が急速 に右傾化していく画期となった。自警団による朝鮮人・中国人の虐殺にはじまり、労働者出 身の第一次共産党員である川合義虎ほか南葛の社会主義者が虐殺された亀戸事件、そして 大杉栄・伊藤野枝を虐殺した甘粕事件と社会主義者に対する官憲の容赦ない圧殺が続いた。 このような日本国内の状況は、関東大震災の直後に出国して 9 月半ばにウラジオストクに やってきたアントノフより在外ビューローに伝えられたが、在外ビューローが日本国内で の事態を深刻に受けとめたのは、10 月末に上海からの書簡が届いてからのことだった。 10 月 22 日、戒厳令下の東京郊外で、山川均の主導により日本共産党第 3 回大会が開催 された(従来、1926 年 12 月の五色温泉での党債権大会が第 3 回大会であるとされてきた)。 大会では、国内臨時ビューローの廃止と新中央執行委員会の発足を決定し、山川が起草した 「行動綱領」を運動方針として採択した。新中央執行委員会は総務幹事・饒平名智太郎(改 造社社員)、国際幹事・佐野文夫、財務幹事・赤松克麿のほか北原龍雄・立田泰・浅沼稲次 郎を執行委員に選出しており、この時点での党員数は 258 名と報告している。山川が起草 した「行動綱領」は、在外ビューローが提案したように、合法政党の即時結党による議会進 出と、それによるブルジョア革命の「完成」を目指すものであり、以降の新中央執行委員会
はその方針の実行に全精力を傾けていく。 日本国内での第 3 回党大会の開催そして党組織の再編は、ウラジオストクの在外ビュー ローに諮らないままに行われた。ファインベルクの指導下に「唯一の日本共産党の執行機関」 を自認する在外ビューローと国内新中央執行委員会の軋轢は増すばかりであり、しかも日 本国内との連絡が上海に比して難しいウラジオストクから日本の運動を指導することは事 実上不可能に等しかった。そのため、モスクワのヴォイチンスキーは在外ビューローを上海 に移転させるよう命じて、事実上在外ビューローを解体するとともに、上海から国内新中央 執行委員会をコントロールしようとした。 解体直前の在外ビューローが、コミンテルン第 5 回大会に提出するために起草した綱領 草案が「1924 年 2 月の日本共産党綱領草案」である。この「24 年 2 月綱領草案」は、日本 の「政治制度」を「議会と責任内閣制をともなう立憲君主制」と規定して、「労働者農民政 府」樹立のための第一歩として日本における「ブルジョア革命の完成」を日本共産党が支援 すべきとしながら、「当面の要求」として18 歳以上の無制限の普通選挙権、言論・出版・集 会の自由、特高警察の廃止、被差別部落民に対する差別の完全撤廃など日本社会の現実を見 据えた独自の要求を掲げていた。「24 年 2 月綱領草案」は、1901 年の「社会民主党宣言」 にはじまる日本社会主義運動の伝統と、コミンテルンの影響の交点に位置するものといえ よう。さらに、「24 年 2 月綱領草案」で特筆すべきは、各国共産党に共通する一般綱領部分 (世界綱領)までも自ら起草したという点にあり、この点は、コミンテルンへの全面的従属 をよしとせず、コミンテルンから一定の自立性を保とうとした第一次共産党の矜持の現れ と評価したい。 「行動綱領」に示された合法政党結党の動きが進むなか、山川均らは非合法組織である第 一次共産党の解党と「党再建のための基礎作り」を、コミンテルンに諮ることなく独断で決 定し、荒畑寒村が上海に渡航してヴォイチンスキーに解党を報告した。ヴォイチンスキーの 分析によると、解党に至った原因は、①関東大震災後の白色テロ、②党内における人的対立 である。党内における人的対立とは、堺利彦・山川均・荒畑寒村ら初期社会主義以来の運動 経験を持つ年長世代と、高津正道・高瀬清・近藤栄蔵ら第1 次世界大戦後に社会主義運動に 身を投じた若い世代の対立にほかならない。 1925 年 1 月、在上海のヴォイチンスキーは、佐野学・荒畑寒村・山本懸蔵・青野季吉・ 徳田球一の出席により上海会議を開催し、日本共産党再建のための「1 月テーゼ」を採択し た。時を同じくして日ソ国交が結ばれ、コミンテルンのエージェントであるヤンソンがソ連 大使館員として東京に着任した1925 年 7 月以降、党再建の動きは具体化していった。 【参考文献】 黒川伊織『帝国に抗する社会運動―第一次日本共産党の思想と運動』有志舎、2014 年 12 月
2017/10/15報告用年表 黒川伊織作成 1917 11 ロシア10月革命 1918 1 イルクーツク共産党朝鮮人部結成=イルクーツク派 6 韓人社会党結成(ハバロフスク)=上海派 1918 8 日本政府、シベリア出兵宣言 9 原政友会内閣成立 1918 10 ドイツ革命 12 ロシア共産党中央委員会シベリア・ビューロー設立(オムスク) 1919 3 朝鮮3・1運動 1919 3 コミンテルン創立大会 1919 4 山川均『社会主義研究』創刊 4 大韓民国臨時政府設立(上海) 6 近藤栄蔵、アメリカより帰国 5 中国5・4運動 5 パリ講和会議 7 『改造』創刊 6 ヴェルサイユ条約調印 7 内務省警保局、思想団体を視察対象に含む通達 10 ソウル共産主義団体結成(のちイルクーツク派に合流) 9 アメリカ共産党創立 1920 2 普選運動の高揚 1920 1 ウラジオストク解放 1920 1 国際連盟発足 3 内務省警保局、外事課設置 3 ロシア共産党極東州ビューロー設立(ヴェルフネウジンスク) 3 戦後恐慌はじまる 3 朝鮮共産党(中立派)結成(ソウル) 4 ヴォイチンスキー、上海着任 4 第一次カラハン宣言 5 第1回メーデー開催 4 極東共和国成立 5 暁民会結成 5 尼港事件 6 『社会主義研究』ボルシェビキ特集号刊行 7 李春熟、東京到着 7ロシア共産党シベリア・ビューロー東方民族セクション設立(イルクーツク) 1920 7 コミンテルン第2回大会 8ロシア共産党中央委員会極東ビューロー設立(ヴェルフネウジンスク) 7 イギリス共産党創立大会 10 チタ解放 8 イタリア、工場占拠闘争 9 特高警察拡充 10 大杉栄、上海渡航 9 東方諸民族大会開催(バクー) 11 吉原太郎、シベリアでの活動開始 12 日本社会主義同盟創立 12 朴鎮淳、上海着任 1921 1 大杉栄『労働運動(第2次)』創刊 1921 1 コミンテルン執行委員会極東書記局設立(イルクーツク) 1921 3 ドイツ共産党、3月闘争 4 李増林、東京到着 4 日本共産党暫定中央執行委員会結成 4 近藤栄蔵、上海渡航 4 高尾平兵衛ら『労働者』創刊 5 高麗共産党(イルクーツク派)創立大会 5 日本社会主義同盟解散命令 5 高麗共産党(上海派)代表大会 6 マーリン、上海着任 1921 6 コミンテルン第3回大会 7 中国共産党一全大会 1921 7 プロフィンテルン創立大会 9 平田晋策、上海渡航 10 高尾平兵衛、上海渡航 10 張太雷、東京到着 10 猪俣津南雄、アメリカより帰国 11 暁民共産党事件 11 野中誠之、鈴木茂三郎、アメリカよりモスクワ到着 1921 11 ワシントン会議開幕(~22.3) 11 ロシア飢饉同情労働会発足 12 片山潜、メキシコよりモスクワ到着 12 グレイ事件 12 徳田球一、高瀬清、和田軌一郎、吉田一らモスクワ到着 1922 1 『前衛』創刊 1922 1 極東諸民族大会 3 過激社会運動取締法案反対運動 3 全国水平社創立 4 間庭末吉、チタ到着 4 日本農民組合創立 4 高尾平兵衛、吉原太郎、長山直厚、チタ到着 5 徳田球一帰国 5 片山潜、ヴォイチンスキー、チタ到着 6 日本政府、10月末でのシベリアからの撤兵を声明 6 片山・ヴォイチンスキー、高尾を同道してモスクワ帰還 7 高瀬清帰国 7 チタでの日本人印刷工による活動開始 7 野中誠之、吉原太郎、ハルビン到着 7 中国共産党二全大会 8 日本共産党第1回大会 8 高尾平兵衛、チタ帰還 10 高尾平兵衛帰国 9 高尾平兵衛、上海で領事館警察に拘束 10 日本軍、シベリアからの撤兵完了 11 チタの日本人印刷工、クートヴェに入学 11 荒畑寒村、北京でヨッフェと接触 12 間庭末吉、ウラジオストク到着 12 上海派・イルクーツク派の両共産党に解散命令 1922 11コミンテルン第4回大会(高瀬清、川内唯彦出席) 1923 1 長山直厚、高瀬清、川内唯彦帰国 1923 1 コミンテルン執行委員会東方部設立(モスクワ) 1923 1 孫文・ヨッフェ共同宣言 1コミンテルン執行委員会東方部極東ビューロー設立(ウラジオストク) 1 ヴォイチンスキー、ウラジオストク着任 1 マーリン、上海着任 2 三悪法反対運動 2 ヨッフェ来日 2 福田狂二『進め』創刊 2 日本共産党第2回大会(市川大会)開催 3 日本共産党臨時党大会(石神井臨時党大会)開催 4 『赤旗』創刊(『前衛』『無産階級』『社会主義研究』改題) 4 荒畑寒村、モスクワ到着 6 第一次共産党事件 5 ヴォイチンスキー、モスクワ帰還 6 日本共産党国内臨時ビューロー発足 6 中国共産党三全大会 6コミンテルン第3回拡大プレナム(荒畑寒村出席) 6 赤化防止団事件により高尾平兵衛殺害 7 荒畑寒村・和田軌一郎・辻井民之助、ウラジオストク到着 7 『階級戦』創刊(『赤旗』改題) 7 近藤栄蔵・佐野学・高津正道、ウラジオストク到着 7コミンテルン執行委員会東方部在ウラジオストク代表・ファインベルク着任 7 日本共産党在外ビューロー設立(ウラジオストク) 7 山崎一雄、ウラジオストク到着 8 和田軌一郎、在外ビューローの駐在代表として上海着任 8 山本懸蔵、ウラジオストク到着 9山崎一雄、在外ビューロー起草の合法政党綱領案を山川均に提示 9 関東大震災→亀戸事件・甘粕事件 9ファインベルク・辻井民之助・間庭末吉、救援船レーニン号で日本着 10 日本共産党第3回大会開催、合法政党組織化を決定 10 山本懸蔵、日本帰国 10 山本権兵衛内閣、普選断行声明 11 「国民精神作興に関する詔書」発布 11 山本懸蔵、ウラジオストク到着 12 虎ノ門事件 11 黒田礼二(岡上守道)、ウラジオストク到着 1924 1 第2次護憲運動はじまる 1924 1 中国共産党一全大会(国共合作決定) 1924 1 イギリス、労働党内閣成立 2 饒平名智太郎、ウラジオストク到着 1 レーニン没 3頃山川均ら、解党を決議 2 在外ビューロー、「日本共産党綱領草案」(「24年2月草案」)起草 3 産業労働調査所設立(野坂参三主事) 5 『マルクス主義』創刊 4 荒畑寒村、上海でヴォイチンスキーに解党を報告 5 中ソ国交樹立 6 政治研究会創設 6 コミンテルン第5回大会 11 孫文来日、「大アジア主義」講演 1925 1 日ソ基本条約調印 1925 1 ムッソリーニ、独裁を宣言 1 上海会議開催、「1月テーゼ」採択 3 孫文没 4 治安維持法公布 1925 4 朝鮮共産党創立(京城) 4 日本労働総同盟第1次分裂→日本労働組合評議会設立 5 普通選挙法公布 5 上海で5・30事件勃発 5 北樺太派遣軍撤兵完了、シベリア出兵終了 7 ヤンソン、東京のソ連大使館に着任 9 『無産者新聞』創刊 7 広東国民政府成立 12 農民労働党結成、即日禁止 12 スターリン「一国社会主義理論」採択 1926 1 京都学連事件 1926 1 中国国民党二全大会 3 労働農民党結成 1926 2コミンテルン第6回拡大プレナム(徳田球一出席) 4 治安維持法改正公布 3 中山艦事件 7 北伐開始 12 日本共産党第「3」回大会(五色温泉大会) 10 トロツキー追放 12 社会民衆党・日本労働党・労働農民党、無産政党分立 12 大正天皇没 1927 3 金融恐慌はじまる 1927 4 4・12クーデター→国共合作崩壊 1927 4 サッコ・ヴァンゼッティ事件 5 第一次山東出兵 6 東方会議(対中強硬策へ) 7 ブハーリン、日本共産党「27年テーゼ」起草 1928 1 第二次共産党『赤旗』創刊(地下) 2 初の普通選挙による第16回総選挙 3 共産党員一斉検挙(3・15事件) 6 治安維持法改正の緊急勅令 1928 12 張学良、易幟 1928 10 ソ連、第1次5カ年計画 東アジア・シベリアでの動き 外交 第 二 次 共 産 党 「 ビ ュ ー ロ ー 」 日本国内の運動・国内政治 第 一 次 共 産 党 日 本 共 産 党 暫 定 中 央 執 行 委 員 会