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「支那東海黄海漁業協議会」と台湾

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(1)研究ノート. 「支那東海黄海漁業協議会」と台湾 藤井 賢二. はじめに.  筆者は拙稿「日韓漁業問題の歴史的背景一・旧植民地行政機関の漁業政策比較の視点から. 一」(1)において、旧殖民地行政機関の漁業政策の比較を行った。その中で、1926年か. ら1929年にかけて四回にわたって、農林省が関係各県や旧植民地行政機関の水産行政担 当者を東京に集めて開催した「支那東海黄海漁業協議会」(以下「協議会」と略す)に注目. した(2)。拙稿執筆時に閲覧できたのは1927年と1928年の協議会の議事要録(3)の みであったが、その後、1926年の協議会の議事要録(4)および1929年の協議会の議事 要録(5)を入手できた。.  新たに入手した1926年と1929年の議事要録に特徴的なのは、農林省をはじめとするい わゆる内地の水産行政担当者が提唱した底曳網漁業への規制に対する、台湾総督府の水産. 行政担当者の反対意見が記録されていることである。このような台湾の主張は1927年と 1928年の協議会の議事要録では見ることはできない。本稿において、筆者は協議会におけ る台湾総督府の水産行政担当者の主張を整理し、日本統治期台湾漁業の実相解明の一助と したい。. 1 底曳網漁業の発展と協議会  1920年代後半に開催された協議会の目的は、農林省と関係各県そして旧植民地行政機関 の間で、東シナ海・黄海における底曳網漁業への規制を調整することであった。底曳網漁 業はトロール漁業と機船底曳網漁業に大別される。日本でのトロール漁業の本格的な操業. 開始は1908年のことであるが、高能率であるため沿岸漁業者との紛争や資源枯渇の問題 が発生した。目本政府は1912年にトロール漁業の操業区域を東シナ海・黄海に限定し、. 1917年には許可船数を70隻に制限した。規制が強化されたトロール漁業の間隙を突いて 東シナ海・黄海に進出したのが、1919年に考案された「二そうびき漁法」により漁獲能力 を増した機船底曳網漁船だった。資源維持のため、そしてトロール漁業との共倒れを防ぐ ため、1924年に日本政府は東シナ海・黄海で操業する機船底曳網漁船の新規許可をしない ことにしたが、機船底曳網漁船の「許可の権限が知事にあったため充分抑制の効果なく(中 略一筆者一)許可隻数は更に年とともに増加していった(6)」。.  底曳網漁業の発展は二つの問題をもたらすことになった。東シナ海・黄海での資源問題 と日中漁業紛争である。まず、資源の枯渇の激しさは高価な鯛類の減少に示されている。. トロール漁船一網当たりの鯛類漁獲量は、1909年を基準として、19ユ2年には41%、1921. 年には8%、1925年には何と3%にまで減少した(7)。もう一つの問題、日中漁業紛争. 一107一.

(2) とは、1924年に渤海でおこった、日本のトロール漁船と機船底曳網漁船による中国人漁業 者の漁具の破損事件、および中国による日本漁船温温事件である(8)。以後、日中両政府. は双方とも海軍艦艇を自国漁民保護のために山東省方面に派遣し、「同方面の漁業問題は  (中略・筆者う国際問題へと推移(9)」していった。日中漁業紛争の背景には日本の底曳. 網漁業者による新漁場開拓の動きがあった。底曳網漁業の好漁場は日本近海から第一次世 界大戦後には済州島西方に、そして渤海湾へと移動した(10)。トロール漁獲物の総数量. に占める黄海・渤海の漁獲物の比率は1921年の12.1%から1926年には47.5%に急増し ていた(11)。.  農林省が各県や1日植民地行政機関との間で底曳網漁業への規制を調整することをめざし. て協議会を開催したのは、資源問題と日中漁業紛争という二つの問題に対応するためであ った。1926年4月に開催された第一回協議会の初日に挨拶した阿部壽準農林省水産局長代 理は、「荷も支那東海黄海の漁業に関し一定の方針の下に行政を行わんとするならば是非共. 或る程度の協力と連絡とを必要とする」と会議の必要性を訴え、にもかかわらず「外薗に 対する関係であるとか又は魚族の蕃殖保護とか謂ふ様な利害を共通にし態度を一様にすべ き事柄に就てまで動もすれば歩調が乱れんとすることは御互に遺憾」と現状への懸念を示 したのである(12)。. H 台湾底曳網漁業の発展  台湾におけるトロール漁業の操業開始は1912年であった。「台湾漁業株式会社(資本金 50万円)は栄丸(215.59噸)を以て先ず着業し、続いて台湾海陸産業株式会社は東海丸 (210,72噸)を以て何れも基隆根拠で操業を開始した(13)」。さらに、1915年には「台湾 水産株式会社の第一丸(190.60噸)及第二審(185.50噸)が着漏して法定許可数の四隻となっ. たが島内壽要少なく成績は見るべきものがなかった。(中略筆者・)台湾トローラーはレン. コダイ、チダイ等の漁獲に恵まれたが肝心の台湾人が赤物を好まぬため、需要少なく魚価 低廉であった(14)」ためである。第一次世界大戦により日本のトロール漁船の多くは掃 海用としてヨーロッパ諸国に転売され、台湾のトロール漁船も姿を消した。その後、第一 次世界大戦後の好況を受けたトロール漁業の台頭により、「台湾にも日魯漁業会社の割込、 台湾トロール会社の創設とにより旧に倍して汽船トロール業が復活(15)」した。しかし、. 機船底曳網漁業に押された結果、台湾のトロール漁業は1925年には再び廃業してしまっ た(16)。台湾においてトロール漁船が三度操業を開始するのは1927年以降であった。こ の年、「共同漁業株式会社は整備式漁業に依り試験の結果好成績を得て、同年従業船四隻を. 以て廻船事業を開始し本漁業の更生を見、其の義姉妹会社である蓬莱水産株式会社之を継 承したが更に日本水産株式会社に合併され事業は継続された(17)」。その後1936年まで. は4隻が操業したが、【表1】で示したように、台湾トロール漁船は1937年以降増加し、 1939年には13隻の従業船数を数えた。. 一108一.

(3)  台湾における機船底曳網漁業の試験操業は1919年のことであり、1924年には「内地よ り二艘曳漁業者の渡航により相当優良なる成績を挙げ、爾来順調なる発展を遂げた(18)」。. 1927年の時点では、許可船数は「北部に三十組、南部に五組計三十五組」、実際の従業船. は計26組(52隻)とされている(19)。基隆と高雄を根拠とした台湾機船底曳網漁業は  「1931∼32年頃一時財界不況の余波を受け悲境に陥ったが、其の後漸次恢復(20)」した。. そして、【表1】で示したように、トロール漁業と同様、台湾機船底曳網漁業は1930年代 後半に隻数を増加させ、1940年には136隻の従業船数を数えた。「底棲魚族の豊庫(ママ)、. 支那東海及び南支那海に接近している」台湾は、「機船底曳網漁業に最も恵まれたる地位」 にあったのである(21)。.  1930年代、特にその後半に台湾底曳網漁業は大きく伸張した。【表2】で示したように、. 日本統治;期における最高の数値を記録した1940年の台湾の総漁獲高は、1931年の総漁獲 高に対して、重量で2.21倍、金額で2.99倍の増加である。このうち底曳網漁業の漁獲高 は、1931年の漁獲高に対して、重量で4.96倍、金額で7.13倍の増加であり、総漁獲高よ. りもはるかに高い伸びを示した。総漁獲高に占める底曳網漁業の漁獲高の比率は1931年 には重量で23.4%、金額で15.1%であったが、1940年には重量で52,4%、金額で36.3%. に達した。特に1938年以降の台湾底曳網漁業の伸びは著しく、この年には重量・金額と もに沿岸漁業(22)を逆転している。.  以上の台湾底曳網漁業の発展を概観すれば次のようになろう。台湾トロール漁業は1910 年代から操業を開始したが、二度にわたって廃業を繰り返した。1920年代後半、台湾トロ. ール漁業は三度目の復興を試みた。台湾機船底曳網漁業は1920年代に開始され、順調に 発展した。そして、1930年代に台湾底曳網漁業は大きく伸張した。二二総督府殖産局水産 課『毫濁水産統計』で底曳網漁業の従業二二数や漁獲高を確認できるのは、1930年代以降 である(23)。特に1930年代後半の台湾底曳網漁業の発展は著しかった。. 【表1】 台湾の底曳網漁業従事乱数 トロール漁業 機船底曳網漁業. 1934年 1935年 1936年 1937年 1938年. 4隻 4隻 8隻 8隻 9隻. 64隻. 62隻 98隻 78隻 78隻. 1939年. 13隻. 101隻. 1940年. 13隻. 136隻. 1941年. 13隻. 98隻. 〈出典:毫樋総督府殖産局水産課『墓濁水産統計』 昭和9年∼昭和16年〉. 一109一.

(4) 【表2】 台湾総漁獲高に占める底曳網漁業の比率 トロール漁業. 1931年. 1933年 1934年 1935年. 1936年 1937年. 1938年 1939年. 1940年 1941年. 総漁獲高. 重量(千斤) 比率. 重量(千斤) 比率. 重量(響町) 比率. 重量(千斤). 金額(千円) 比率. 金額(千円) 比率. 金額(千円) 比率. 金額(千円). 3.4%. 16,368 19.9%. 30,881 37.6%. 82,109. 2.9%. 1,586 12.2%. 2,813 21.5%. 13,055. 2,636 3.0%. 14,189 16.4%. 33,589 38.7%. 86,691. 366 2.6%. 1,349 9.7%. 3,027 21.8%. 13,873. 3,766 3.3%. 21,352 18.5%. 48,795 42.3%. 115,274. 369 2.3%. 1,757 11.0%. 3,860 24.2%. 15,939. 5,022 4.2%. 25,821 21.3%. 48,398 40.1%. 120,827. 409 2.5%. 1,684 10.2%. 4,217 25.4%. 16,634. 2,823. 381. 1932年. 沿岸漁業. 機船底曳漁業. 4,937. 3.8%. 38,167 29.1%. 47,825 36.5%. 131,054. 487. 3.6%. 3,182 23.3%. 4,373 32.1%. 13,639. 5,419. 4.2%. 37,086 28.5%. 45,361 34.9%. 129,967. 470. 3.2%. 3,443 23.1%. 4,682 31.4%. 14,934. 6,893. 5.3%. 42,878 32.9%. 37,562 28.9%. 130,152. 528. 3.6%. 25,・2%. 4,215 29.0%. 14,513. 10,207. 8.4%. 45,426 37.6%. 36,677 30.3%. 120,901. 1,164. 7.4%. 4,663 29.8%. 15,670. 3,664. 4,445. 28,4%・. 15,302 11.1%. 50,363 36.6%. 33,936 24.6%. 137,730. 2,373. 9.4%. 7,549 30.0%. 6,224 24.7%. 25,183. 24,839. 13.7%. 70,365 38.7%. 21.6%. 181,792. 3,818. 9.8%. 10,213 26.3%  10,462 26.9%. 38,894. 12,886 10.0%  34,364 26.7%  34,309 26.7%. 128,710. 2,571. 39,274. 6.9%  9,051 24.3%  10,612. 28.5%. 371.95. 〈出典:塁濁総督府殖産二水二二『二二水産統計』 昭和6年∼昭和16年〉 皿 第一回協議会における台湾の主張  1926年4月に開催された第一回協議会では、農林省の宮脇伊太郎技師が二日目に「トロ ール漁業に就て」と題して講演し、「近来漁場荒廃の傾向漸く顕著となりつつある」と訴え て次のような底曳網漁業への規制案を示した。(24).   「汽船『トロール』漁業拉に機船底曳網漁業のみならず水産行政に関しては農林省と.   各殖民地と常に聯絡を保ち努めて同一方針に出つる様協調を遂ぐること」. 一110一.

(5)   「汽船『トロール』漁業は現在の法定制限数たる七十隻を飽迄も維持するの方針を以    て進むこと」.   「台湾、朝鮮、関東州等にて許可する『トロール』船は右制限内に於て二重許可とす    る様協定を遂ぐること」.   「政府は『トロール』船を七十隻に制限したると同一の精神を以て、東海、黄海(渤海.    を含む)に出漁する機船底曳網漁船を自今内地、朝鮮、台湾、関東州合せ百五十組    (三百隻)以内に制限するの方針を確立すること」.  これらの提案を受けて二日間にわたる協議が行われた。  まず、「行政処分の聯絡統一に関する事項」では、山口が「支那東海、黄海の現況は相当 危期(ママ)に瀕する」として、「台湾に去ても内地と同様(機船底曳網漁船の筆者補注う. 噸数に付ては五十噸限度に賛成あり度し」と要望した(25)。これに対して台湾は「漁獲 の減少せりとて直に魚類の減少となすは如何なるものなるや。されば台湾としては(中路 筆者・)噸数を四十噸(ママ)以下となすが如きは未だ確定し得ざる処成り」と反論した。. その理由として台湾の特殊事情、すなわち、夏季の氷や防熱装置の必要性および冬季の風 浪の強さを挙げ、「故に山口の要望に対しては応じ難きものあり、御了解を乞う」と主張し. た(26)。この論争については、大濱喜一郎水産三二政課長が「地理的特別の事情は承知 したるも兎に角行政上の連絡を取ること異議なきや」と問うて賛同を得た。そして、「トロ. ール漁業、機船底曳網漁業、捕鯨業、工船蟹漁業は各地方より出漁する漁場の同一なるに 鑑み之が許可に付ては連絡協調をなすこと」という結論になった(27)。  次に、「トロール漁業許可の件」では、二重許可によって殖民地も含めてトロール漁業を. 七十隻の制限内に抑えようとする農林省に対して、関東州と朝鮮が異議を唱えなかったと は異なり、台湾は反論した。台湾は農林省との過去の「協調の結果四隻丈は許可し得るこ と」となっていたことを根拠に、「今後も四隻は許可して差支なしと致し度し」と主張した のである(28)。結局、「今後トロール漁業の許可を為さんとするときは当分七十隻の制限 を考慮すること」という柔軟性のある結論になった(29)。.  そして、「機船底曳網漁業許可の件」でも台湾は農林省の規制の方針に反論した。台湾の. 機船底曳網漁船は「現今尚十四五隻(ママ)あるに過ぎず。而して之以上許可せずとすれ ば台湾は非常に不利益なり」と不満を述べ、「台湾にては底曳網漁船を急に増加せしむれば 漁獲物の販路、貯蔵等の関係にて共倒れとなる心配もあり。漸を逐うて増加しっっあり」 と機船底曳網漁業の漸進的な振興の意思を示した。そして、「右趣旨を記せられ特別なるも のとして御考慮あれ度し」と主張した(30)。結局、「機船底曳網漁業許可の件」に関する 協議会としての結論はまとまらなかった。協議会の結果を速報した『壷溝水産雑誌』と『水 産界』には、「機船底曳網漁業については決定しなかったが内地の現在以上の隻数を許可し ない方針は尊重して適当に考慮すること(31)」になったと記録されている。.  協議に先だって協議会の一日目に行われた、各地における底曳網漁業への許可状況の説 明で、朝鮮総督府の水産行政担当者は、トロール漁業は「沿岸漁業の助長保護を主とせる. 一ユ11一.

(6) 為許可せず」、機船底曳網漁業の「漁船は五十噸以上のものは許可せざる方針なり」と述べ. た(32)。このような朝鮮総督府の底曳網漁業振興への消極的な姿勢と台湾総督府の積極 的な姿勢は対照的である。両総督府の底曳網漁業規制策の違いは1930年代も継続した。 朝鮮総督府はトロール漁業を1945年の統治終了まで許可しなかった。また、【表3】で示 したように、1937年における朝鮮の機船底曳網漁船は平均約18.2トンで、内地の47.6ト ンや関東州の41。2トン、そして青島の50.0トンに比べて明らかに小さかった。. 1表3】東海黄海を操業区域とするトロール並に機船底曳網漁船現在数(1937年) 隻数. 種類. 総噸数. 70隻. 19,400噸. 内地機船底曳網漁船. 654隻. 31,100噸. 朝鮮機船底曳網漁船. 110隻. 2,000三. 関東回機船底曳網漁船. 114隻. 4,700二. 丁青島機船底曳網漁船. 64隻. 3,200噸. 100隻. 7,800噸. 汽船トロール漁船. 台湾汽船トロ「ル漁船・機船底曳網漁船. 〈出典:里内晋「海洋漁業振興の意義」(『海洋漁業』41海洋漁業協会    1940年1,月 東京)55頁〉 IV 第四回協議会における台湾の主張.  1929年4月に開催された第四回協議会において、台湾はふたたび農林省と論争した。協 議会初日に長瀬貞一農林省水産局長が挨拶して「従来当省に於きましては汽船『トロール』. 漁業に対し隻数制限あり、機船底曳網漁業に対し新規許可制限あり、今後も尚大体此の方 針を踏襲したき意向(33)」と希望を述べた。  この後、「支那東海黄海漁業取締改善に関する件」「日支漁業問題に関する対策の件」「支. 那東海黄海に於ける漁利島国並漁業制限に関する事項」の三つの協議事項について二日間 にわたる協議が行われた。台湾は第一項と第二項については「別段意見なき」と述べたが、. 第三項目ついては次のように主張した(34)。まず、「『トロール』船四隻の協定に付ては. 台湾にも本省にも右協定の内容を知るに足る公文書なく四隻と定めたる根拠不明」と疑問 を示した。「一昨年の試験的従漁を経て昨年より稽安定するを得た」、復興期にある台湾ト. ロール漁業にとって、台湾にトロール漁業が勃興した1913年当時の規制は不満足なもの であった。次に、「機船底曳網に付ては協議会に於て内地同様船数制限をなすべき様申出ら. れたるも台湾としては最初より漸進許可の方針を取りたる特殊事情あるに鑑み飽迄も船数 制限に賛成せずして今日に至れり」とそれまでの経緯を述べた。台湾は、トロール漁船に ついては1926年の第一回協議会で主張した操業許可4隻維持…の枠を越えてさらに増加さ せる意思を示し、また機船底曳網漁船の船数制限には従来通り反対を唱えたのである。. 一112一.

(7)  農林省の底曳網漁業抑制の方針に反対する台湾は、その「経済上の理由」として次の四 点を上げた(35)。①「島内鮮魚補給の点」、②「漁場に余力ある点」、③「営業上島内同 漁業者を脅威せざる点」、④「内地『トロール』船と或る程度に漁場の異なる点」であった。. ①については、「台湾は他の殖民地と異なり魚類の需要旺盛にして現在島内の漁獲高にて足  らず年々五、六百万円の二二其の他の移入超過に依りて漸く需給の均衡=を取りつつあり」. と述べ、「鮮魚の補足を二漁業(トロール漁業と機船底曳網漁業・筆者補註うに求めざるべ からず」と主張した。②については、「下関、長崎等を根拠地とする東海出漁の手繰網(機 船底曳網と同じ・筆者補註・)一ヶ,月の平均漁獲高は(中略・筆者う約九百函にして台湾にて. は約千二、三百函を漁獲し明に内地出漁船の二二よりも余力あるを知る」べしと主張した。. ③については、いわゆる内地の機船底曳網漁船一組の水揚げ高が年間平均「六萬圓」なの に対して台湾根拠の機船底曳網漁船のそれが「八萬八千圓」であり、操業隻数を増加させ ても「内地よりも経営者は安定を得たること明」らかと説明した。④については、「本島根. 拠の『トロール』船の操業区域は内地根拠の夫の如く東海北部及黄海迄出漁するものとは 思われず、又或る場合には内地の『トロール』船の為本島『トロール』船の操業区域を上 海以南に制限するも差支えなし」と、台湾といわゆる内地のトロール漁船との漁場の分割 を提案した。.  1929年の第四回協議会で台湾が述べた、農林省の底曳網漁業抑制の方針に反対する「経 済上の理由」は強引な印象を与える。②「漁場に余力ある点」と③「営業上島内同論業者 を脅威せざる点」からは漁業資源保護の観点は抜け落ちている。現実には、「トロール漁業. 及機船底曳網漁業に対し禁止区域を設けたるの外格別取締施設をなさず、従て漁場の保護 並に漁業取締上遺憾の点が多い(36)」と、台湾総督府の漁業資源保護施策への漁業者の 評価は芳しいものではなかった。④「内地『トロール』船と回る程度に漁場の異なる点」. については、いわゆる内地のトロール漁船との漁場の分割という台湾の提案に農林省が同 意する可能性があったとは考えられない。一例を示すと、1939年末の時点での「南支那海 海域」におけるトロール漁船の操業許可二三は「内地許可二〇、台湾許可一七」であり(37)、. 内地根拠のトロール漁船の操業水域は「上海以北」に留まるものではなかった。1927年か ら建造されはじめたディーゼル・トロール漁船は従来のスチーム・トロール漁船に優る「航 続力と冷凍装置の優秀性」を備えており、「長躯下関よりトンキン湾漁場に至り操業し帰途 も途中無寄港で根拠地へ直航」したのである(38)。. V 台湾総督府の「南支南洋漁場開発」.  1929年の第四回協議会における台湾の主張で注目されるのは、「南支南洋漁場開発」の 必要性から台湾が底曳網漁業への規制に反対した点である(39)。台湾は、前述の「経済 上の理由」に続いて、「昨年西部日本水産大会を本島に開きでより島内の水産熱は一段の緊. 張を示し所謂南支南洋漁場開発が与論として叫ばるる様になり本年大型試験船の建造予算. 一113一.

(8) 通過したる次第」と説明した。そして、にもかかわらず台湾の「『トロール』船は四隻に過 ぎずとあっては畢寛徒に誇大恥したりとの議を受くるの虞もあり」と主張した。また、「南. 支南洋方面の出漁を奨励する上にも全然未知の漁場に出漁せよとは謂得ざるにして東海に 安全なる若干の足場さえ湿せぱ之を漸次南下せしむるにも容易なるべし」とも述べた。.  上記台湾の主張中の「西部目本水産大会」は、1928年9月21日に台北鉄道ホテルで発 会式と第一回大会が開催されたものである。その会則には、「南支那海、支那東海、渤海、 黄海、玄海及日本海を中心とする水産業の改良発達を図るを以て目的と」し、関係する「各 地方の水産団体を以て組織」すると記されていた(40)。・第一回西部日本水産大会では、  「南支那海及南洋を漁場とする漁業の調査及指導奨励方」を「農林大臣及台湾総督に建議」. することが決議された。建議の理由として「本邦近海及東海黄海渤海等の主要漁場漸次荒 廃の傾向著しきを以て将来南支南洋方面に漁場を拡張するの要あり(41)」とあり、東シ ナ海・黄海の漁場荒廃に対応した南シナ海・東南アジア海域での漁場開拓の必要性が訴え られていた。.  台湾総督府は、1926年から1937年にかけて「南洋方面漁場調査」を毎年のように行っ た。1928年までは総督府試験船の凌海丸、1931年からは同じく函南:丸が従事して、南シ ナ海の底魚漁業漁場および東南アジア海域の二二旗魚漁場を調査したのである(42)。前 述の協議会における台湾の主張中の「大型試験船」とは照二項のことであろう。台湾総督. 府は1931年には「凌海丸を廃止して新たに照二二(417噸)を建造し、同時に試験機関 充実の為職員の増員を図り、主として南方漁場の調査試験に任ぜしめ(43)」のであった。.  1935年の時点での「南支南洋漁場開発」について、「南支南洋は現在二千万円の漁獲を 有する支那東海漁場に三倍する底魚漁場及延長七千二百浬に至る浮魚漁場を有し、殊に是 等地方の地元漁業は極めて幼稚で年々数千万円の水産製品を輸入しつつあるの現状に照ら し将来この方面に於ける水産上の開発は主として本島(台湾・筆者補註・)を中心として考 慮すべき必要がある(44)」と、台湾の漁業関係者は述べた。「南支那海及東京湾方面は、. れんこだい、ちだい、あかまつだい、えそ等の底曳漁場とせられ、又南支那海比島以南の 南方海区、まぐろ、かじき、ふか、かつお等の浮魚の好漁場として、何れも台湾漁船に依 って開拓せられた(45)」という、日本の統治終了後に書かれた評価も残されている。.  1926年の南シナ海漁場調査の報告書には、「今後開発すべき漁場として東に支那黄海東 海あるも、内地漁業の急激なる発達本島底曳網の勃興に依り将に開発し尽されんとするの 状況に在り、従って今後発達す可き方面は勢い東京湾香港方面に求めざる可からず(46)」. と調査の必要性が述べられている。ここでも、東シナ海・黄海の漁場荒廃に対応するため には南シナ海・東南アジア海域での漁場開拓が必要であることが述べられていた。協議会. が開催された1920年代後半は、台湾漁業の「南支南洋」への進出の胎動期であった。そ して、台湾総督府と台湾の罠二二業者の「南支南洋」進出の背景には丸協議会開催の理由 でもあった、東シナ海・黄海の漁場荒廃という現実があったのである。. 一114一.

(9) おわりに.   「支那東海黄海漁業協議会」が開催された1920年代後半は、台湾漁業におけるトロー ル漁業の三度目の復興期、そして機船底曳網漁業の開始期に当たっていた。また、この時 期は台湾漁業の「南支南洋」進出の胎動期でもあった。協議会において、台湾総督府の水 産行政担当者は、農林省の提唱する底曳網漁業への規制に対して強引ともいえる反対意見 を述べた。ここに底曳網漁業振興と「南支南洋」漁場進出をめざす台湾総督府の強い意思 を見ることができる。協議会の後にこれら二つの政策に台湾総督府がどのように具体的に 取り組んだのか、そして日本統治終了後の台湾においてこれら二つの政策がいかに継承さ れたのか、こうした問題の究明は他日の課題としたい(47)。. 〔註〕. (1)東アジア近代史学会編『東アジア近代史』5 ゆまに書房 2002年3,月 東京。 (2)四回の協議会すべてに出席したのは、朝鮮総督府・関東庁・台湾総督府・島根県・.    山口県・長崎県・福周壁の水産行政担当者であった。日本敷府からは外務省・海軍.   省・逓信省・農林省の担当者が毎回出席した。第一回協議会は1926年4,月13日∼    15目に農林省水産局長室で開催され、34名が出席した。第二回協議会は1927年4.   月11日∼12日に農林省内高等官食堂で開催され、39名が出席した。第三回協議   会は1928年4月11日∼12日に農林省会議室で開催され、33名が出席した。第四.   回協議会は1928年4,月30日∼5月1日に農林省会議室で開催され、36名が出席    した。. (3)農林省水産局『昭和二年四月 昭和三年四月 開催 支那東海黄海漁業協議會議事   要録 附支那漁業関係法規』 発行年不明。 (4)農林省水産局『大正十五年四,月開催 支那東海黄海漁業二関スル協議會議事要録.   附たらば蟹二関スル件』 発行年不明。 (5)農林省水産局『昭和四年四月開催 支那東海黄海漁業協議會議事要録』 発行年不   明。. (6)中川悉『底曳漁業制度沿革史』日本機船底曳漁業協会 93頁 1958年 東京。 (7)宮脇伊太郎「『トロール』漁業二就テ」 前掲註(4)93頁。 (8)「漁業紛議頻獲(関東州で)」(『水産界』500 大目本水産會 1924年8月 東京)。. (9)1929年4月開催の支那東海黄海漁業協議会における長瀬貞一水産局長の挨拶(前   掲註(5)15頁)。その後の日中漁業紛争については、伏本正樹「北支の底曳網漁   業と関東州の関係に就て」(『海洋漁業』23号 海洋漁業協会 1938年7月 東京)   に記載されている。 (10)笠原昊「東海黄海の底曳漁業について」(『水産學集成』 財団法人東京大學出版會. 一115一.

(10)    1957年3月 東京)230頁。 (11)「汽船『トロール』漁獲物総数量ノ黄渤海ト東海トノ匠分並百分率表」(前掲註(5)    附表)。. (12)前掲註(4)8∼9頁。 (13)齋藤市郎『トロール漁業』(丸善出版株式会社 1959年2,月 東京)6頁。.    ただし、吉越義秀「壷溝水産史(一)」(『壷湾水産雑誌』293 壷濁水産會 1939   年8,月 皇北)では台湾におけるトロール漁業の開始を1912年としている(26頁)。 (14)前掲註(13)7∼8頁。「赤物」とはチダイ・レンコダイのことである。同書には、.    日本のトロール漁船が「昭和3年に開拓された南支トンキン湾漁場では、香港・高.   雄を根拠として東海・黄海で滅亡に瀕した赤物即ちチダイ・レンコダイを漁獲」し   たとある(14:頁)。. (15)宮上覇七「大正水産の回顧」(『垂溝水産雑誌』132三七水産協會1927年1月.   垂北)5頁。 (16)二階九皐「建設期に於ける本島水産業」(『墓濁水産雑誌』120 毫1轡水産協會.   1926年1月 壷北)5頁。 (17)「壷濁の産業」(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通巻第13.   冊 毫濁篇 第2分冊 第4部 1948∼50年)103∼104頁。影印判(高麗書林   1985年 ソウル)。 (18)『海洋漁業』32号  (海洋漁業協会 1939年4月 東京)53頁。 (19)宮上覇七「本島底魚漁業の将来(下)」(『毫濁水産雑誌』143 毫濁水産協會 1927.   年12,月 壷北)6頁。 (20)前掲註(17)103頁。 (21)前掲註(18)52頁。. (22)沿岸漁業とは、佐々木武治編『皇溝の水産』(皇濁水産會 1935年・台北)では「船.   舶を使用する漁業中動力を有せざる漁船に依るもの」であり、『昭和十年 毫濁水産   統計』では地曳網、焚寄網、定置網などを沿岸漁業に分類している。 (23)機船底曳網漁業従業回数:は『毫濁水産統計』では1933年から記録されている。た.   だし1933年の従業隻数は、『昭和八年 蔓灘水産統計』では台北州732隻、新竹州   24隻となっており(m頁)、数値の基準が不明なため【表1】では割愛した。 (24)前掲註(7)107頁。. (25)前掲註(4)20∼21頁。山口県からの出席者は渡會絹三郎技師と黒田藤五郎水産   試験場長であった。. (26)前掲註(4)21∼22頁。台湾からの出席者は森脇虎壽技師であった。 (27)前掲註(4)23頁。 (28)前掲註(4)24頁。 (29)前掲註(4)26頁。. 一116一.

(11) (30)前掲註(4)28∼29頁。 (31)「封支出漁取締協議」(『三二水産雑誌』124墓漣水産二二 1926年5月 丁丁 65    頁。  『水産界』522 大日本水産會 1926年5月 東京 51頁。) (32)前掲註(4)21∼22頁。朝鮮からの出席者は松野二平技師と長友寛技師であった。 (33)前掲註(5)14頁。. (34)前掲註(5)18頁。台湾からの出席者は三儀i喜宣技師、宮上覇七技師、中谷哲二    技師の三人であった。. (35)前掲註(5)18∼20頁 (36)前掲註(22)『墓溝の水産』117∼118頁。. (37)岡武夫『水産資源及水産施設』(1941年5,月)。なお、同書には同時点での「東海.   黄海海域」での許可船数は「内地許可七〇、台湾許可八、上海許可四」と記されて    いる。また、「丁丁に於ては日本水産、上海に於ては華中水産が許可を得て操業し   ている」と記されている。 (38)前掲註(13)14頁。. (39)前掲註(5)20∼21頁。 (40)「西部日本水産大會概況」(『憂灘水産雑誌』153 毫濁水産會 1928年10月 毫北).   23∼27頁。なお、第二回大会は1929年5月に山口県で、第三回大会は1930年10   ,月に旅順・大連;で、第四回大会は1934年9,月に朝鮮の羅南・清津で開催された。. (41)「西部日本水産三二の建議及請願」(『墓濁水産雑誌』160 皇子水産會 1929年5.   月 下北)65頁。 (42)吉越義秀「墓濁水産史(二)」(『毫濁水産雑誌』294 墓濁水産會 1939年9月 壷.   北)7∼14頁。なお、これ以前に一度、1917年に台湾総督府は東南アジア海域で   水産調査を行っている。. (43)前掲註(17)101頁。なお、台湾総督府の漁業試験ならびに海洋調査は、1910年   の水産試験機関設置と凌海丸(40噸)建造にはじまる。 (44)前掲註(22)『壁濁の水産』22頁。. (45)「台湾経済半世史概観」(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通.   巻第12冊 台湾篇 第1分冊 第1部 1948∼50年)194頁。影印判(高麗書林   1985年 ソウル)。 (46)i毫濁総督府官房調査課編『南支那及南洋調査125 南支那佛領印度支那漁業試験報.   告』(下溝総督府官房調査課 1926年10月)1頁。 (47)筆者は、日本の台湾統治終了後、日本政府と台湾(中華民国政府)との間で行われ.   た漁業交渉で底曳網漁業の「日華漁業合作事業」が協議され、1952年には「日華両   国の共同事業」として「南方漁業開発会社」の設立が構想されていたことを明らか   にした(拙稿「戦後目二間の漁業交渉について」〈兵庫教育大学東洋史研究会r東洋   史訪』第9号 2003年3月〉)。. 一117一.

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