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キリスト教社会主義の一展開 : 西村関一の生涯と思想

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       1)

キリスト教社会主義の一展開

    一西村関一の生涯と思想一

村  裕

明 1.はじめに (1)アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長就任の辞  西村関一(1900年∼1979年)は,W. M.ヴォーリズ(一柳米来留)氏や賀川 豊彦氏らの影響のもと,戦前戦後の近江の地において牧師としてキリスト教の 伝道に生涯を捧げたが,同時に16年におよぶ衆参両院での社会党国会議員とし て,自らの思想を政治活動や社会運動の場において実践した。西村の生涯と思 想は,近代日本におけるキリスト教思想の位置を明らかにするにとどまらず, 日本における社会改革運動の一つの展開を探るうえにおいても,きわめて重要       2) な素材を提供している。  西村の生涯を振り返る前に,晩年西村が書き記した文章と,国会での演説と 1)本稿は,1991年度滋賀大学公開講座「近江その人その道II」において,「近江におけるキ リスト教精神の伝統一西村関一の生涯と思想一」と題して行った講演原稿に,加筆修正を 加えたものである。講演を準備するにあたっては,多くの方々より資料の提供をうけ,聞 き取り調査を行うことができた。とりわけ,西村ゆき枝,山田耕三郎,樋上不二子,山元 勉,賀川純基,星野力,西村重雄,太田敏子,安田ツヨ,吉川利造・双葉,財津正Wt 一早 百合の各氏及び,堅田教会,近江兄弟社,近江八幡市立図書館,アムネスティ・インター ナショナル日本支部,賀川豊彦記念松沢資料館,大阪キリスト教学院の各団体にはお世話 になった。また,資料の整理には山村和美,小泉義雄の両氏に協力をいただいた。この場 を借りて,深くお礼申し上げる次第である。 2)西村の生涯を全体として取り扱った文献は菅見の所これまでになく,本稿が最初のもの となるだけに,叙述にあたっては彼の生涯と思想の評価もさることながら,紙幅の許す限 り彼の生涯を正確に跡づけ,重要と思われる著作や演説は引用ないし注記するように配慮 した。したがって本稿は,西村の本格的な評伝というよりは,そのための基礎作業という 性格をもつ。

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にもとづきながら,なぜいま西村という人物を振り返ってみようとするのかに ついてあらかじめ考えてみる事にしよう。  最初の文章は,西村が1976(昭和51)年,世界的な人権擁護組織であるアムネ スティ・インターナショナルの日本支部理事長に就任した際のあいさつの言葉 である。1976年という年は,西村にとっては1974年に国会議員の任期を満了し て,政治活動の第一線から退いている時期に当たる。こうした時期に,アムネ スティ運動の日本を代表する理事長を引き受けたわけである。この文章は,自 らに課せられた新しい人生の課題を前にして,76年の自らの生涯を謙虚に振り 返った,自己省察の文章として大変興味深いものである。   「私は日本支部創設以来の理事長として多大の貢献をいたされた猪俣浩三   先生のあとを受け継ぐものとしては適格者でないことは誰よりも私自身が   一番よく知っています。それにも拘らず,あえてこれをお受けする決意を   いたしました心境を自分を深く反省しながら述べさせていただきます。    第一に私の父,常世川こと西村由之助は清水次郎長の乾分として関西で   西名をうたわれました。父は生涯,権力に媚びず,富貴に組みせず,圧迫   され,疎外され.,差別されている少数者のために,自ら“やくざ”と卑下   して,文字通り生命がけで権力と闘った人間です。私もこの父の血を受け   継ぐものとして,父の残してくれたこの道一理由なく捕らえられ,人間と   しての権利を奪われ,孤独と憂愁の中に,ときには言語に絶する拷問を受   け,死に直面している何千,何万,仁恕万という囚人,“良心の囚人”はも   ちろん,まだ十分手のとどいていないこれらの人々を救済する唯一の国際   人権擁護機構,アムネスティ運動に加わることこそ,この道を貫く今日的   意義があると確信するのであります。    第二に私は宗教家のはしくれ,一田舎牧師として,多年イエス・キリス   トの福音を説いてまいりました。“一人の人間の重さは全世界の重さにまさ   る”と言われたイエスの教えを実践する道を私はアムネスティに見出した   のであります。私はかつて韓国光州矯導所に徐俊植君を問安し,多ぜいの   権力者の面前で,堂々たる彼の“告白”をきき,年老いた私の全身の血は

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      キリスト教社会主義の一展開  55   若者のように燃えたぎりました。………(中略)………    第三に私は,過去16年間衆参両議員として院の内外で平和と人権の問題   にかかわりつづけました。その中で,どんな政治の営みも平和への働きも,   一人の人間の魂の尊さを忘れては無に等しいということを痛感してまいり   ました。今日の政治の混乱,あつれき,救いがたい病巣を思うと,一層そ   の感を深くします。    最後に一言付け加えさせていただきます。アムネスティ運動は人間を大   切にする運動でありますから,他のどの団体よりも,組織よりも会員相互   がこの一つの目的のために憂いを分かち合い患いを負い合っていく」血の通        3)   つた組織でありたいと願っています。」  このように,自らの76年の人生を謙虚に振り返りながらアムネスティ運動の 理事長に就任にあたっての決意を述べている。自分の生い立ち,福音の確信, 政治のあり方を通じて一人の人間の重さ,すなわち個人の人権や,個人の自立 や,個人の発達というものを軸にした社会作りの強い希求というものを,この 文章の中に読み取ることができよう。今日ソ連・東欧をはじめとして,いわゆ る社会主義体制が崩壊をし,他方日本では過労死といわれる現象が横行してる。 これらに共通していることは,一人一人の個人の重さ,個人の人格や人権や発 達ということを軽視してきたことにあるのではなかろうか。そうした意味では, 西村が76歳という年に当たって,自分の生涯・福音の確信・政治の言動を総括 しながら,もう一度個人の人権や自立や発達を軸にした社会作りの希求という ものを強く願い,アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長就任の辞 としていることは,大変興味深いことである。 (2)福田赴夫外務大臣問責決議演説  もうひとつは,1971(昭和46)年に参議院の本会議で西村が行った演説である。 これは,日本政府が中国の国連加盟に反対したことに対して,佐藤内閣の外務 3)西村「理事長就任に当たって」『ニュースレター』(アムネスティ・インターナショナル 日本支部)1976年10月,5ページ。

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大臣であった福田赴夫氏の問責決議を全野党が提案し,西村が社会党を代表し て行った提案主旨説明の一節である。西村がいかに優れた外交資質を持った政 治家であったかを示す演説である。   「およそ政治に携わる者にとって最大の責務は正しい歴史観を持つことで   あり,歴史の流れを深く洞察し,適確に決断し行動することであります。   特に今日のような変:革期に処する外務大臣は,単なる外交技術にたけてい   るということだけでなしに,多分に予言者的,先見心的性格を持ち,同時   に,部下はもちろん国民が納得してついていけるような人物でなければな   りません。私は,福田赴夫外務大臣が出現したとき,ある種の期待を持つ   た者でありますが,まず,その外交方針演説を聞き,そこにはこの激動期   に処する外務大臣としての抱負経論の片りんさえ認めることができず,そ   の期待は完全に裏切られました。………(中略)…・…・・    ニクソン氏は,二度までキッシンジャー特別補佐官を北京に派遣し,彼   自身の訪中に備えています。日本政府が国連の場で国府の立場を守るため   に狂奔している間に,米中接近は着々具体化していたことをあなたはよも   や見落としておられますまい。佐藤内閣が口を開ければ言われる日米パー   トナーシップ,日米相互理解,相互信頼などということは,最近の繊維交   渉,ドルショック,ニクソン訪中の発表等のいきさつから見ても,日米の   特殊関係などはもはや存在していないのも同然ではありませんか。        ………(中略)・……・・    国連で国府擁護の主役を勇敢にっとめたのは,アメリカではなくて日本   でありました。衆議院で野党の同僚血豆から,日本はまさしくピエロの役   を演じさせられたと申されましたが,まことに悲しい道化役者であったと   思わずにはおれません。    国連は,ここに新たに中華人民共和国を迎えて,いままでの変態的な大   国中心の状態から脱却し,国連本来の普遍性に立つ世界平和の唯一の国際   機構として脱皮しようとしています。この重大な時期にあたって,あなた   は日本の外務大臣として,日本が世界無比といわれる平和憲法を持ち,真

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  の世界平和と国際的連帯と,世界を一つに結ぶ日本外交のみごとな展開を   すべき絶好のチャンスを失われました。また日本は,おそらく中華人民共   和国を承認する世界の最後の国になるかもしれません。あなたは,日本の   ためにも,世界諸国,諸民族のためにも重大なあやまちをおかされました。    私は,清潔な政治家福田赴夫君のためにこれを惜しむものであります。   政治家は出処進退が大切であります。あなたは,この際,いさぎよく外務        4)   大臣の職を辞し,その不明を天下に謝すべきであります。」  このように,単なる外交技術ではなく正しい歴史認識に立ち,自主的で平和 的な外交を日本が行うべきであるという観点から,中国の国連加盟に反対の票 を投じた日本政府を批判し,外務大臣福田超夫氏の責任を追求しているのであ る。そして,引用を省略した箇所では,明治期,条約改正にあたって,黒田清 隆内閣の大隅重信外務大臣が,あえて黒田首相や伊藤博文枢密院議長に反対し て,日本外交の進路を切り開こうとした態度を高く評価したのだった。今日, 日本外交の様々な問題点が指摘されているが,20年前に西村が参議院の本会議 で行ったこの演説は,日本の外交の今後のあり方を考えるためにも再度振り返 るに値する名演説ではなかろうか。後述するように,西村が提起し実践した自 主的平和外交の理念と原則は,今日ますます重要性を持ってきている。 (3)五つの時期区分  さて,西村の79年の生涯を振り返るにあたり,五つの時期に西村の生涯を区       5) 分することにしよう。第一期は,誕生から1922(大正11)年に近江ミッション(後 4) 『参議院会議録』第7号,1971年10月28日,2∼3ページ。 5)近江ミッション(近江基督」教伝解団)は1911(明治44)年,W. M.ヴォーリズ氏や吉田悦 蔵氏らによって,近江に神の理想の里を作るということを目的として結成されたきわめて ユニークな平信徒集団である。近江ミッション綱領のなかでは,「本団ハ近江国ニテ教派二 関係ナク,基督ノ福音ヲ宣伝スルヲ目的トス」と述べられている。このような綱領をかか げつつ,他方で様々な社会改良事業を行い,そこで得られた資金を元にキリスト教を布教 しようとしたのである。キリスト教の伝道事業は近江ミッション教務部が扱い,機関誌「湖 畔の声』を発行し,いくつかの教会を運営した。ヴォーリズ建築事務所は,教会だけにと どまらず,大丸百:貨店心斎橋店,関西学院大学をはじめ,当時の多くの洋風建築を手掛け/

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の近江兄弟社)の社員となり,本格的なキリスト教の布教に自らの一生をかけ る決意をするまでの「信仰への目覚め」期である。第二期は,近江ミッション の社貝に正式になり,大津の堅田で本格的なキリスト教の布教活動を行い始め た「堅田伝道の開始」期で,1923(大正12)年から1936(昭和11)年までである。 第三期は,1936年に堅田を一時離れて近江八幡の近江兄弟社本社に勤め,その 後召集され中国戦線に赴き,そこで敗戦をむかえる時期であり,「近江兄弟社本 社と戦争」の時代である。第四期は1946(昭和21)年に復員し堅田に帰り,そこ で戦後の伝道活動を開始する「堅田伝道の展開」期であり,1946年から1958(昭 和33)年西村が国会議員に当選するまでの時期である。そして最後の第五期は, 1958年国会議員に当選をし,1974(昭和49)年に国会議員の任期を満了し,その 後もアムネスティ運動等々の活動を行い1979(昭和54)年に亡くなるまでの時期 であり,「人権擁護と世界平和の政治」を実践した時代である。 II.信仰への目覚め (1)キリスト教との出会い  西村は,1900(明治33)年6月4日,大津市三井寺下に,常世川こと父西村由 之助と母八重の長男として生まれた。先ほどの「アムネスティ・インターナシ ョナル理事長就任の辞」にもあるように,父由之助は清水次郎長の杯を受け, 次郎長の養女であり,大政の娘であった花子という人物を最初の夫人に迎えた。 当時の常世川一家は,子分が数千人を越える関西で最も大きな侠客の集団の一 x ている。滋賀大学経済学部の同窓会館「陵水会館」も,ヴォーリズ建築事務所の手で,1938(昭 和13)年に建築されたものである。さらに,メンソレータムという大衆的な薬を日本で独占 販売した近江セールズ株式会社を経営し,近江療養院という病院も運営していたのである。 近江ミッションは,1934(昭和9)年近江兄弟社と名称を変更する。近江ミッション及び, ヴォーリズ氏,吉田悦蔵氏についてはさしあたり,次の文献を参照。一柳再来留(W.M.ヴ ォーリズ)『失敗者の自叙伝』1970年,吉田悦蔵『近江の兄弟』1923年,沖野岩三郎『吉田 悦蔵伝』1944年,奥村直彦「W.M.ヴォーリズの思想構造」「キリスト教社会問題研究』第 30号,1982年2月,浦谷道三『ヴォーリズ』1983年,山形政昭『ヴォーリズの建築』1989 年,『西国と文化』第51号(特集:平成の現代に生き続けるメレル・ヴォーリズの偉業)1990 年春。

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つであった。西村は父のことをインタービューやエッセイで何度か振り返って       6) いるが,その際に二つのことを父の思い出としてくりかえし述べている。一つ は,渡生の世界における父の姿である。常世川は,多くの世の中から疎外され たアウト・ローの人々や,未解放部落出身者を差別することなく常に平等に扱 っていたという点である。もうひとつは,毎年暮れには三井寺下の大きな御堂 で米を施す等,貧民に対していつも温かいまなざしを持っていたことである。 常世川は西村を溺愛に近い形でかわいがったそうだが,西村もまた,生涯権力 に屈せず富貴に組せず戦った父を誇りにしていた。常世川は,比較的早い時期 に任侠の世界から足を洗い,一家を子分に譲り,自分は大津の白玉町で骨董業 を営んだ。西村は大津西尋常小学校(現在の長等小学校)を経て,大津尋常高 等小学校(現在の中央小学校)を卒業し,膳所中学校に入学するのだが,その 時期に常世川は,骨董屋の親父だったわけである。  膳所中学時代,西村は山が好きで毎週比叡山に登っていたという。のちに西       の 村は,このことを自然を通して神の声を聞いていたと回想している。こういう 中で,膳所中学のクリスチャンの同僚に誘われて,近江ミッションが経営をし ていた馬場鉄道キリスト三二年会のバイブル・クラスに,毎週金曜日に通い始 めたのがキリスト教との出会いであった。当時の馬場キリスト教青年会には, 近江ミッションの創立者であるヴォーリズ氏や吉田悦蔵氏らがよく出入りして いたそうである。聖書講義は,近江ミッションの牧師であったアメリカ人のウ ォーターハウス氏が行い,膳所中学の英語教師であった南石弓が通訳をしてい た。そして1917(大正6)年イースターの日に,洗礼をうけたのである。当時西村 は16才であった。 6)西村が父のことを振り返った文章は数多いが,常世川の没後40年を記念して,1964年に 刊行されたと思われる『近江の次郎長靴世川』と題するパンフレットには,西村が「父の こと」という一文を寄せているほか,中上天弓氏が「常世川を語る」を,宇野宗祐氏が「湖 国風雲録」の中から常世川について述べた部分を転載している。 7)西村「良き自然,良き父,良き友,良き師」(1972年筆)『日本」e uスト教団堅田教会機 関誌』第5号(故西村関一牧師導引3周年記念号)1982年8月。この記念パンフレットに は,西村の遺稿7編のほか,武村正義氏の「西村先生との出会い」等多くの追悼文が掲載 されている。

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(2)近江ミッションへの入社  西村は洗礼を受けた翌年,1918(大正7>年に膳所中学を卒業するが,すぐにキ・ リスト教の伝道者になったわけではない。近江ミッションやヴォーリズ氏から の誘いを振り切って,伊藤忠の関連会社である古川拓殖に入り,フィリピン・ ミンダナオ島で開拓事業にいそしむわけである。なぜこの様な選択をしたかに ついて,西村は次のように回想している。  当時の日本社会に西村は大きな不安を感じていた。それは国内における貧困 ・人口過多であり,海外に移民した人々に対しては排日運動の激化である。そ ういう状況を見て,西村は海外へ出る人々のユートピアをキリスト教に基づい て作り上げるという,理想主義的なロマンをいだいくのである。そして,伊藤 忠兵衛氏の紹介で,フィリピン開拓事業を行っていた古川拓殖に入社したのだ った。入社に際して伊藤忠兵衛氏との面接の席上で,なぜフィリピン渡航を希 望するかの質問に対して次のように応えたと述べている。   「日本の人口問題を解決するにはどうしても将来おおいに海外に発展しな   ければなりません。それは現在でも北米でも,カナダでも,濠州でも,支   那でも排日が盛んです。南米諸国も日本移民の制限をしょうとしています。   このままではわが国の海外移民は八方ふさがりです。私はこの閉ざされた   道を切り開くために海外に働く人々の真の友となって奉仕の生活を送りた   いのです。日本人が利己心を棄てて,利他心に生きるようにならなければ,       8)   どんなに沢山の資本をこれが為に投じても駄目だと思います。」  西村はミンダナオ島のダバオで,アカバ麻の開拓事業に従事する。しかし18 歳の青年が描いた理想主義や人道主義は,すさまじい現実の中では脆弱なもの であり,思い通りには進まないのは当然である。そのうちに,アメーバー赤痢 とマラリヤにかかり,わずか1年余りで帰国せざるをえなくなった。 8)西村「明けゆく湖(その5)」『湖畔の声』1937年7月,43ページ。「明けゆく湖」は,近 江ミッションの機関誌『湖畔の声』に,西村が1937年3月から1938年9月まで16回にわた って連載した自伝であり,膳所中学時代から近江ミッションにはいるまでが回想されてい る。

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 帰国後西村は,自分の理想主義や人道主義と現実との矛盾をどう解決すべき か,自分の理想をどうずれば実現できるかを真剣に考える。1920(大正9)年秋 吉台の本間俊平という人物を訪ねて,そこでもう一度自分のキリスト教にたい する信仰を鍛え直そうとした。本間俊平氏は,キリスト教の日本での布教を考 える場合には興味深い人物であるが,自らの思想を実現するために山口県秋吉 台で,刑を終えてどこにもいくあてのない人をあっかり,共に働きながらキリ       9) ストの教えを説いた人物である。秋吉台に行く前に,岡山県の無心というキリ スト教の信仰が盛んだった小さな村で,武賦しげという人物に会い彼女に現在 の西村の信仰の限界というものを指摘される。そこで目を開かれて,秋吉台の 本間氏のもとで二ヶ月ほど修行をし,自分の宗教心を鍛えなおすのであった。 そして秋吉台から帰ったあと,一年志願兵として入営する。志願兵を終えたあ と,西村はもう一度フィリピン行きを試みるが,これは父や家族の反対にあい 断念せざるをえなくなる。そこで今度は,丹那トンネルの開削事業に入ってそ こにいる土工たちの問でキリスト教の教えを広めようとした。当時丹那トンネ ル開削事業の一部を常世川のかつての子分たちが,請け負っていたからである。 しかしそこでもうまくいかず,病をえ意気消沈して大津に帰って来た。  その時ヴォーリズ氏などかつて馬場キリスト教青年会で交友した近江ミッシ ョンの面々が西村を迎え,近江ミッションに入ることを勧めるのであった。近 江ミッションへの入社に当たり,感銘深い言葉を吉田悦蔵氏は西村に残してい る。「神様は二度までも病を与えて,あなたを近江にひきかえしなさったのです        10) よ。もう,どこへも行ってもいけません。」こうして西村は,1922(大正11)年10 月,近江八幡キリスト教青年会の主事として,近江ミッションでの最初の活動 を開始するのであった。 9)三吉明『本間俊平伝』1962年。森鴎外氏の短編「鎚一下」(『鴎外全集』第10巻所収)は,  本間俊平氏をモデルとした作品であり,『中央公論』第28巻第8号,1913年7月,に掲載さ  れ,のち『かのように』1914年,に収められた。 10)西村「明けゆく湖(その16)」『湖畔の声』1938年9月,29ページ。

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III.堅田伝道の開始 (1)最:初の受洗者  西村は近:江ミッションに入り,本格的に神学校に通うことを希望する。ヴォ ーリズ氏はアメリカの神学校にはいって勉強することを勧めるし,日本人の多 くは同志社の神学部で勉強することを勧める。しかし,西村はアメリカに行く ことも,同志社の神学部に行くことも拒んだ。というのは当時西村は,土山鉄 次という人物の熱列なる説教にひかれ,土山鉄次氏が校長をしていた大阪の自 由メソジスト神学校(現在の大阪キリスト教学院)で学ぶことを強く希望した からであった。西村の父はキリスト教の洗礼を受けることに関しては反対しな かったが,本格的に西村が牧師になって伝道するということには強い反対の態 度を示し,西村は勘当される。このように西村は近江ミッションから一時離れ, 父から勘当されても自分の信じた人のもとで学習する道を選んだのであった。  ところが,近江ミッションはその後条件をだし,援助を申しでる。それは, 堅田の地で伝道を行うなら,つまり週日は大阪の学校に通い,土・日・月の三 日間堅田で伝道を行うなら,月35円の資金的援助をするというものであった。 これで西村は,経済的には救われることになり,またその後生涯活動すること になる堅田の地に赴くことになるわけでもあった。大阪の神学校に通いながら, 堅田での伝道が開始されたのである。ヴォーリズ氏は,堅田伝道を始めるにあ たって,西村に次のように語ったということである。   「伝道ということをあせってはってはいけません。まずその遣わされた土   地の人間になりなさい。それからその土地になくてはならない人になりな   さい。それからぼちぼち伝道ができますよ。自分一代で何もできなくとも,        11>   あせらないで,じっくり腰を落ち着けておやりなさい。」 11)西村「堅田伝道物語(2)」『湖畔の声』1978年5月,7ページ。「堅田伝道物語」は,1978  年4月から1979年6月まで,『湖畔の声』に9回にわたって連載され,戦前戦後における西  村の堅田での活動を振り返った興味深いエッセイであるが,近江兄弟社の事情で雑誌が一  時休刊され,その年の8月に西村が死去したため未完で終わっている。

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      キリスト教社会主義の一展開   63  このようにヴォーリズ氏は西村をさとし,開拓的伝道にたいするはなむけの 言葉にしたのであった。当時の伝道は,路傍伝道という形式をとって行われた。 すなわち,小さなちょうちんを持って太鼓をたたき,「信ぜよ,信ぜよ,信ずる 者は救われる」といった言葉をかげながら歩き,そして人の集まる場所,例え ば銭湯の前身で説教をしたのである。当時堅田は浄土真宗の盛んな所で,「ヤソ 教の乞食坊主」といわれ様々な迫害を受けながらの伝道だったという。そのう ち堅田の小さな伝道所に,何人かの人が集まり始めた。そして1924(大正13)年 に,最初の受洗者7名をえることになったのである。西村が伝道を開始して一 年目のことであった。この当時の堅田伝道の様子を,近江ミッションの機関誌 『湖畔の声』は次のように伝えている。   「西村関一氏の熱烈なる祈りと努力の下に恩寵豊かに堅田の働きは成長し   つつ,聖書研究会は毎土曜日夕7時より,伝道集会は毎日曜日夕8時より,   開かれつつあり。平均出席人員8名。路傍伝道,3月第1日曜日の夜より   毎日曜日西村氏及び有志によりて続行されつつあワ。………(中略)………    3月30日午前7時同;地における最初の洗礼聖餐式挙行され,7名の兄姉   信仰告白され受洗されたり。十有余年近江ミッションによりて伝道されし   同地に近江ミッション員の長き祈りと,西村氏の働きを通して今回かかる       12)   聖なる栄光の輝きしはまことに感謝の極みなり。」  この文章が示しているように,西村が堅田で伝道を始める前に,近江ミッシ ョンはガリラヤ丸という伝道船を使って,堅田や今津などの湖西の地で伝道を     13) 行っていた。それから西村が専任の牧師として堅田で活動し,最初の受洗者7 名をえたのであった。最初の受洗者の中に,のちに結婚するゆき枝夫人がいた。 西村は,ゆき枝夫人との出会いを,後年「神さまはいちばんいい半身を与えて       14) くださったと思って感謝しています」と語っている。1927(昭和2)年西村は, 12) 『湖畔の声』1924年5月,16∼17ページ。 13)ガリラヤ丸によるユニークな湖西伝道活動については,奥村直彦「近江ミッションとガ  リラや丸伝道」『キリスト教社会問題研究」第38号,1990年3月に詳しい。 14)西村「福音と侠客道と」『月刊キリスト』第13巻第6号,1961年6月,24ページ。

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64 彦根論叢第275号

自由メソジスト神学校を卒業し,近江八幡教会で結婚式をあげ,堅田に定住し て本格的な伝道を開始することになる。ちなみに,新婚旅行は,大津の:葛川に 幻燈器を持っての伝道旅行であったという。 (2)多面的な伝道活動一江西義塾と湖畔国民高等学会一       15)  西村は堅田において,きわめて多面的な布教活動を行った。  一つは,当時堅田にあった東洋紡の紡績工場の労働者を対象とした伝道活動 である。三交代制の女工たちの勤務体系に合わせた聖書講読を行い,これを信 仰・希望・愛の組と名ずけた。また,当時紡績工場にきていた地方出身の労働 者たちは学習意欲が盛んであり,こうした人々の学習意欲を満たすために聖書 以外に,英語や国語,漢文,歴史などを教える私塾をおこし,これを中江藤樹 の学風にならって「江西義塾」と命名した。さらに,女工たちの健康問題や, 紡績工場から琵琶湖に流れる排水問題の調査活動を,戦後の民社党の創設者と なる西尾末広氏らと共に行ったのだった。  もうひとつは,農村青年にたいする伝道である。この際も西村は,広い意味 での農村青年の知的文化的育成をはかりながら伝道事業を行おうとする。すな わち西村はデンマークの国民高等学校に範をとった,「湖畔国民高等学会」を開 催しつつキリスト教の布教を行ったのである。何故にこのような伝道方式をと ったかについて,西村は「農村伝道私見」と題した一文の中で次のように述べ ている。  確かに,わが国にとっての大問題は農村問題である,しかし,当時のキリス ト教は都市中産階級や都市労働者への布教は熱心であったが,西村がみたとこ ろ農村にたいしてはきわめて冷淡であり,これを変える必要があると思われた。 しかもその際,確かに農村問題は経済問題であり社会問題であり生活問題であ るけれども,同時に精神問題であるということを西村は強調する。すなわち農 村の担い手をいかに鍛えるかが大事であって,農村の担い手を育てることが, 15)西村「堅田伝道物語(4)」『湖畔の声』1978年7月,13∼14ページ。

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      キリスト教社会主義の一展開   65       16) 農村伝道の根本であると強調するのだった。  では湖畔国民高等学会とは如何なる活動をしたのであろうか。1929(昭和4) 年に第1回が開催されるが,活動の趣旨は『湖畔の声』に次のようにかかれて いる。   「3月26日より4月18日まで,24日間の予定にて毎夜七時より九時まで,   湖西堅田に於て,当ミッション堅田伝道所主催の下に開催。………趣旨   本会はいわゆる学問家や,知識階級の為に存せず,筆執る者にも,鍬握る   者にも,鉄槌を振ふ者にも,すべての職業に従事する人々に必要なりと信   ずる高等教育を導くる機会をあたえんとするものなり。本会は特にデンマ   ーク国に於ける国民高等学校の範に則り,神と祖国と隣人とを愛する堅き   信念の上に立ち,新時代に処する学問を理解し,共働してわが国の農村文   化を高め,充実せる農村生活を実現せんとする有為なる地方青年の為に生      17)   まれたり。」  講義科目も大変広く,歴史から始まり,心理学,社会学,農村問題,農業技 術等についてキリスト教関係者のみならず,京都大学や同志社大学の教員を専 門の講師に迎えている。ヴォーリズ氏は人生問題と住宅問題について講義し, 西村はデンマーク国民高等学校と,聖書山上の垂訓という二つの講義を担当し ている。会員は,41名で毎夜平均30名内外の出席者があり,中にはかなりの遠 方からの出席もあったと記録されており,広い意味で社会教育を地域社会で実 現をし,広い知識を与えながら伝道を行っていたのである。  また西村は,堅田保育園・堅田幼稚園を設立し運営し,あるいは消費組合「ひ つじや」をおこし,さらには,本間俊平氏にならって刑務所から出てきた人々 や,どこにもいくあてのない人を堅田の自らの家に住まわせて,何十人という 16)西村「農村伝道私見」『湖畔の声』1925年2月,6∼8ページ。このような西村の農村伝  道は,当時賀川豊彦氏や杉山元治郎氏らによって進められようとしていた農村福音学校を  基盤に農村伝道を行おうとする考え方(杉山元治郎伝刊行委員会編『土地と自由のために  一杉山元治郎伝一』1965年,291∼300ページ参照)を学び,先駆的に堅田の地で実践した  ものにほかならない。 17)『湖畔の声』1929年5月,53ページ。

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人々との共同生活をおこなっていた。  したがってキリスト教の伝道と言っても,福音主義的なキリスト教の方向の みではなく,地域社会のニーズに応じて奉仕する社会的福音の活動を全面的に 行いながらキリスト教の伝道に努めたわけである。このような西村の姿勢は, 当時堅田で農村運動を組織していた全日農の杉山元次郎氏や日農の野溝勝氏ら の影響もあるが,それを超えて大きな影響を与えたのが,賀川豊彦氏であった        18) ことは,西村が後年回想するところであった。 IV.近江兄弟社本社と戦争  1936(昭和11)年10月,近江兄弟社本社の強い要請を受けて西村は堅田を離れ, 近江八幡の兄弟社本社に移る。それは農民道場設立のためとされており,近江 入庫の本社を中心に農村伝道を展開するその責任者に西村が抜てきされたから である。しかし,1936∼37年という時期は,日本が本格的に戦争に突入する時期 でもある。すなわち1936年には2・26事件がおこり,1937年7月には藍溝橋事 件がおこり日中戦争に突入するのである。その意味では,農村において本格的 な伝道を展開しようとしても,大きな限界に直面せざるを得なかったのである。        19)  当時西村は,近江入詞キリスト教会の牧師として活動を行っているが,同時 に近江兄弟社理事として,兄弟社内部で重要な地位につくようになる。メンソ レータムは日本だけでなく中国各地でも販売が盛んになり,西村はこの時期た びたび中国大陸を訪れ,近江兄弟社の販売活動の視察および中国でのキリスト 教の実態調査と交流とにっとめた。  西村は1944(昭和19)年,44才の時に召集をされ,歩兵小隊長として中国戦線 に赴く。西村は梱包監視隊長,すなわち後方物資部隊の小隊長として活動し, 敗戦を迎えることになった。敗戦後の日本軍の状況と,その中での西村と中国 18)西村「人生知己に感ず」『滋賀日日新聞』1977年6月22日。西村と賀川氏との交流がいつ  から始まるかは興味のある点だが,賀川豊彦記念松沢資料館には西村が賀川氏に宛てた手  紙が2通保管されており,その最初のものは1928年6月30日の日付で,賀川氏への堅田で  の夏期大学の講演依頼である。 19)当時の西村の活動は,『近江入幡キリスト教会50年史』1951年,を参照。

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      キリスト教社会主義の一展開   67 人民軍の梁大佐との心温まる交流は,ある雑誌の懸賞小説で一位をとりた「揚       20) 子(ヤンズ)」という記録小説の中で詳しく語られている。当時のことを反省し つつ,西村は戦後,自らの戦争責任について次のように語っている。   「私は太平洋戦争に対して自分が牧師でありながら積極的にこの戦争をく   いとめるべきときに身を投げ出して戦うことをしなかった。積極的にこれ   に聖戦なりとして協力するということはしなかったが,しかし,自分があ   の悲惨な戦争を,身を投げ出して食いとめ得なかったということに対する          21)   良心の苛責がある。」  西村も多くの日本人と同様,戦争という大きな波に流されながら近江兄弟社 の活動をし,中国で戦争と敗戦を体験し,1946(昭和21)年6月,日本に帰って くる。これが第三期であり,西村にとっては苦渋に満ちた時期であったといえ よう。 V.堅田伝道の展開 (1)伝道活動の再開と社会的活動  西村は,1946年11月堅田教会の牧師として活動を再開する。その伝道方式は 戦前と同様,社会的福音と福音主義的キリスト教との立場を統一をするという 視点に立っていた。堅田の衣川に引揚者のために保育所を設立運営する,ある いはある未解放部落において井戸掘りといった生活基盤を整備しながら伝道活 動を行う,農村福音学校を志賀町栗原の熊沢蕃山ゆかりの蕃山文庫で開催する, 堅田文化協会を自ら興し学者文化人による講演会を行う等であった。このよう な活動を,戦前にもまして一層積極的に進めながら,キリスト教の伝道を展開 したのである。  この時期は,西村の諸活動が社会的に認められ,公的な社会活動をも積極的 に引き受けはじめる時期でもある。とりわけ,西村自身障害を持った子の親と  22) して,福祉の活動には熱心であり,滋賀県社会福祉協議会の副会長,滋賀県児 20)西村「揚子(ヤンズ)」『ニュー・エイジ』1957年1月。 21)西村「福音と侠客道と」前掲書,25ページ。

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童福祉審議会の委員長等を歴任した。  さらに,滋賀県地方労働委員会の公益代表委貝を1948(昭和23)年以来務め, 1954(昭和29)年には地労委会長代理として戦後滋賀県の大争議であった琵琶湖        23) 汽船・江若鉄道・近江絹糸の争議の調停を行った。とりわけ近江絹糸争議は労 使の対立が厳しく調停に困難を極めたが,西村が会長代理として尽力をつくし, 一応の解決にいたることができた。当時の西村の調停にあたっての態度を示す ものとして,近江絹糸社長であった夏川喜久次氏に対する公開の手紙がある。   「………しかしなんと言ってもあなたの近代経営者としてのものの考え方   に大きなずれがあった事が今日の大事をおこす根本の原因となったのだと   思います。事業の運営だけがあなたの全てであって,労務管理や労働問題   に対する研究が不十分だったのではないでしょうか。………あなたは事業   の拡張に馬車馬のように突き進んでいかれた結果その工場の施設や財政の   充実を計るために専念し,工員の待遇を改善したり,福利厚生施設を整備   する暇がなく,ついに今日に及んでしまったのではないでしょうか。それ   よりもあなたの頭の中には日本産業を興隆させるためには,少々ぐらい労   働法規の裏をかいて従業員を余計働かせたり,不完全な待遇のまま辛抱し   てもらってもやむを得ないという一種の信念とも言うべき考え方があった        24)   のではないでしょうか。」  このように経営者の前近代的な労働者の人権を軽視した態度を批判している のだが,同時に,当時の労働組合運動の戦術上の問題をも批判し,その成熟を 強く望んだのであった。別の文章では次のように述べている。   「私は,やはり今の日本の労働組合がはちまきを締め赤旗を振っているの   は,現状においてはやむをえないと思うんです。しかし早くああいう時期 22)末娘光世氏に対する西村の思いは格別の物があり,多くのエッセイが書かれているが,  さしあたり,西村「ハープを弾く劃一身障を超えた光世のこと一」『婦人の友』第69巻第9  号,1969年9月,参照。 23)地労委時代の西村の活動と思い出については,「座談会・地労委10年の歩みを語る」『滋  賀県地方労働委員会年報昭和29・30年度』1956年,参照。 24)西村「夏川:喜久次氏へ一一人の友人の立場から一」『キリスト新聞』1954年8月28日。

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      キリスト教社会主義の一展開  69 を通り越して,お互いに談笑のうちに,侵すべからざる威厳をもって経営 者を説得できるような力を持たなくてはならぬと思います。なにか虚勢を 張り,虚勢と言っては悪いが,そういう格好をしないと強くないという感       25) じかたは,まだ本当に成熟していないと思いますね。」 (2)インド・イスラエル・フィリィピン紀行  こうした社会的活動を行いながら,1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にか けてインド・イスラエル・フィリピンを訪れる。この海外訪問は,西村にとっ てはその後の自らの政治活動の基礎を形作る大きな転機となるものであった。 この訪問は,主要にはインドで開催された国際児童福祉研究会議と国際社会事 業会議に日本代表として参加するためであったが,その後西村は足をのばして, イスラエル,フィリピンを訪れるのである。  インドでは様々なことを学んだが,大きな影響を受けたのは,米ソとは違う 新しい力,インドを含んだ第三世界の力であり,そういう新しい力が世界の平 和に貢献するのではないかという期待を感じるのである。そしてまた,当時の インドのガンジー主義,つまり紛争問題を武力で解決するのではなく,話合い ・非暴力で解決をしょうという考え方にも強く影響をうける。当時のインドは 国境問題で様々な紛争があったが,ガンジー主義にのっとってネール首相が非 暴力・話合いのもとに解決をはかろうという考えを持っていた。西村は,こう いつた点を高く評価したのである。  さらに,良心的インド人の日本評価に耳を傾ける。それは東京裁判の判事で あったインド人パール博士の言葉である。パール博士は,東京裁判の中で日本 に対して比較的好意的な論陣を張った唯一の判事であるが,彼は日本の戦後復 興のあり方について,西村に次のように語ったということである。   「今の日本は,三つの大きな誘惑にさらされています。どうかその三つの   誘惑に打ち勝って下さい。第一に,日本の青年諸君はアメリカ人のような   高い生活水準をまねようとする誘惑に陥ってはならない。第二に,日本は 25)西村「福音と侠客道と」前掲書,26一一27ページ。

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 すなわち, には日本が侵略をしたということを深く反省をして中国や朝鮮の問題に介入す べきではない,三つ目には軍事的再建ではなくて平和的再建をめざすべきだと 言うパール博士の言葉は,西村にとって極めて印象的なものであり,その後の 西村に大きな影響を与えた。  インド訪問の後,イスラエルを訪れるのだが,キリスト教の聖地エルサレム 等を訪れる聖地巡礼にとどまらず,当時新しく国を作ったイスラエルの地域開 発の様子を視察する。そして共同集団型のキブツ,協同組合型のモシャブ・オ        27) ブディムなどによる国づくりに強く感動するのである。  そして,最後にフィリピンに訪れるのであった。西村はフィリピンを訪れる にあたり,自分が若い時代に来た地をもう一度訪れたい,日本人として戦争に おける様々な行為をフィリピンの人々に謝罪したい等の目的も持っていたが, モンテンルパにある日本人戦犯の収容所を訪ね彼らを慰問することが主要な目     28) 的であった。西村は日本の戦争責任を戦犯のみに負わせるのは忍び難く,彼ら を問安してキリストの福音を語りたいと強く感じていた。当時フィリピンは, 大変反日感情が強く,なかなか一人では町を歩くことができなかった。そんな 中で教会関係の人々の援助で,モンテンルパの戦犯を訪れる機会を得た。当時 モンテンルパには108名の日本人戦犯がいて,そのうち59名が死刑の判決をうけ  どんなことがあっても朝鮮や中国の問題に介入してはいけない。もしも日  本がそれらの問題に加担するならば,日本は取り返しのつかぬ羽目におち  いるだろう。第三に,日本は早急に国家の再建を急いではならない。余り  に早く再建を急こうという誘惑にひきずり込まれると,日本産業は知らず       26)  知らずのうちに軍事産業に切り替えられてしまう。」      まず日本は対米関係においては自立性を持つべきである,二つ目 26)西村「インド紀行(12)」『湖畔の声』1954年5月。「インド紀行」は『湖畔の声』に,1953  年4月から54年6月にかけて13回にわたって連載された。 27)西村「イスラエル紀行(10)(11)」「キリスト新聞』1953年9月5日,12日。「イスラエ  ル紀行」は,『キリスト新聞』に1953年6月27日から1954年3月6日まで,24回にわたって  連載された。 28)西村「モンテンルーバの同胞を訪ねて」『ニューエイジ』1953年5月。

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      キリスト教社会主義の一展開   71 ていた。西村は『新約聖書』ピリピ書第1章をよみ,キリストによる平安,生 死を貫く慰めについて語り,その後23名の同胞の声を録音した。この録音は帰 国後,NHKのラジオ放送で全国に放送されたが,これは非常に反響が大きく, 西村の名は近江の地のみならず,全国で知れ渡ることになった。 (3)政治の世界へ  こうした活動を経て,西村を政治の世界に推す声が多くなる。西村は1955(昭 和30)年に,まず左派社会党から衆議院議員選挙に立候補する。戦後日本ではキ リスト教をベースにした社会主義者は,河上丈太郎氏をはじめとして多くの場 合普通右派に属すると言われるのだが,西村の場合は左派社会党から立候補す るのである。その理由は,当時の滋賀県内の左右社会党の事情や西村の考え方 にもよるが,さらに大きな要因は,当時の滋賀地評の事務局長村田重蔵氏が, 西村の社会的活動を高く評価したことにあった。西村は,衆議院議員候補に立 候補する前に,滋賀県知事選挙の革新統一候補として擬せられるが,これは辞 退する。西村は国会議員に立候補するに至った内的理由を後に次のように振り     29) 返っている。  一つには,例えば福祉や,地方労働委員会の仕事を行い,地域社会に奉仕す る活動を行えば行うほど,政治の貧困にぶちあたり,それをを変えなければ福 祉の充実はありえないと感じたこと,もう一つは,戦争に際して自分は積極的 に身をなげうって反対しなかったという反省及び呵責であり,戦争を深く反省 し,世界の平和のために政治の世界で働きたいと考えたことである。この二つ が西村を政治の世界へ馬区り出した理由である。さらに大きな問題として,牧師 という職業と政治家という職業をどの様に統一すればよいのか非常に悩んだの であった。これについて,彼は以下のように回想している。   「しかし,牧会者という立場と同時に,一つの予言的立場が牧師になけれ   ばならない。そういうことは矛盾の中に一つの統一を求めてゆく。そこに   新しく生きる私に与えられた道なんだという確信に到達して,ついに政治 29)以下の叙述は,西村「福音と侠客道と」前掲書,24∼25ページ。

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72  彦根論叢第275号  への踏み切りが神の御心なりと信じて,そこに信仰の告白の場として,私  の政治への踏み切りを決意せしめた最も重要なポイントがあった。」 VI.人権擁護と世界平和をめざして (1)自主的平和外交  西村は,1955(昭和30)年の初めての選挙では落選するのだが,1958(昭和33) 年の衆議院選挙で初当選し,本格的な国会議員としての活動を開始する。 1960(昭和35)年に第一位で再選され,さらに1963(昭和38)年に三選されるが, 1967(昭和42)年の選挙では落選する。この時は,社会党内の事情で滋賀県選挙 区定員5名のうち社会党から3名立候補ということもあり,西村は落選したの であった。しかし西村にとって幸運なことに,その年の6月に参議院の補欠選 挙があり,西村は参議院議員として国会に返り咲くことになった。そして翌年 の1968(昭和43)年の通常選挙で参議院議員として再選され,1974(昭和49)年に 参議院議員の任期を満了する。  西村の国会議員時代は16年間であるが,西村の最も得意とした分野は外交, とりわけ自主的平和外交だと言えよう。彼は国会議員任期中,30数回海外を訪 問している。この時代の30数回というのは,国会議員としてまれにみる多さで ある。しかもその目は,一貫してアジアに向けられているのだった。さらに外 務委員会の仕事をしていたのは,合わせて10年近くあり,そのうち6年間は外 務委員会の理事を務めている。西村は野党議員という限界にも関わらず,日本 に自主的平和外交を確立すべく力を尽くし,そこで大きな仕事を果たしたので ある。  では如何なる姿勢で,外交にたずさわったのであろうか。戦後の日本外交を 特徴づけるのは,徹底した親米外交であり,言葉を換えれば対米従属外交であ        30) つたことは多くの論者がすでに指摘するところである。本稿の冒頭で,西村が 行った外務大臣福田品評氏の聞応決議演説を取り上げたが,その中で西村が強 調していることは,アメリカ合衆国の判断に依存してきた戦後日本外交の限界 30)例えば,浅井基文『日本外交反省と転換』岩波新書,1989年。

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      キりスト教社会主義の一展開   73 であり,自主的平和外交の必要性であった。そして外交とは,単に語学でも技 術でもなく,正しい歴史認識にたつことであり,正しい歴史認識にたって,日 本国民およびかつて日本が侵略したアジアの人々を納得させるべきであること を強調したのだった。同じ様な主旨の発言を西村は国会でたびたび行っている が,1966(昭和41)年アジア開発銀行設立協定に対して,社会党を代表して衆議 院本会議で行った演説は,アジア外交についての西村の基本姿勢を示している ので紹介することにしよう。   「第二次対戦後,植民地支配から脱して政治的独立を達成したアジア・ア   フリカ・ラテンアメリカの諸国は,先進資本主義諸国に対して,経済的に   も独立を要求して,開発や援助よりも,その経済成長率を高め,工業化を   進めるための貿易環境の改善を要求していることは政府もご承知のところ   であります。その援助は,実際にも被援助国の従属化に役立たせるような   ものであってはならないことは申すまでもありません。わが国は,アジア   の一国として,アジア人と共に考え,アジア人と共に悩み,アジア人と共   に行動することによって,西欧先進諸国にインパクトを加える役割を持つ   ていると思うが,総理のお考えはいかがでしょうか。    政府の最近の外交姿勢を見ますと,口にアジアの一員としての立場を堅   持するといいながら,実際には自由主義諸国との協調,もっとはっきり言   えば,いまアジアにおいて失敗に失敗を重ねているアメリカの外交姿勢に   追従している様な印象を受けるのであります。追従するだけではなしに,   アメリカの失敗のしりぬぐいをしょうとするのが佐藤内閣のアジア外交の   本質であります。………(中略)…・…・・    今度のアジア開発銀行東京誘致に失敗したことは,現地外交官の責任を   追求するのではなく,何か日本のアジア外交の面で反省しなければならな   い点があるのではなかったのでしょうか。それは,日本の間違った大国主   義に対する後進諸国の反発のあらわれではないでしょうか。これはまた,   アジアの心をつかむアジア外交という点で従来少しく欠くるところがあっ        31>   たことに対する頂門の一針ではなかったでしょうか。」

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 このように,当時の佐藤内閣の外交姿勢をきびしく批判し,アジアの一員と しての外交がいかにあるべきか,そのためにはアメリカに追随するような姿勢 を根本的に改める必要がある,大国主義的な発想は戒めるべきだということを 繰り返し述べているのである。これは現代にも生きる考え方であり,昨今の湾 岸戦争に対する姿勢など様々な問題において,日本外交は現在でも,アメリカ を見てアジアを見ていないと言われても過言ではないという局面が多く見られ るのである。  さらに西村は,現場主義であり,こうした質問をするときには必ず現地を訪 れ,現地の視察をふまえて質問するのである。例えば,南ベトナムへの日本政 府の援助の実態について次のような質問を行っている。   「私が現地に参りまして見たところでは,多数の高価な医療器械や医薬品   が送られておりますが,全然一全然と言っては言い過ぎであるかもしれま   せんが,使い方がわからない。また薬の内容については日本語と英語で書   いてございますから,向こうの医師や薬剤師の方が十分にそれを読みこな   せないということから,また器械の取扱についても習熟しないために,全   部それが倉庫の中に放り込んである。こういうことでは,せっかくいま大       32)   臣が言われた日本国民の好意が十分に通じない。」  これは,1965(昭和40)年の西村の質問であるが,現在の日本の海外援助の問 題点としても繰り返し指摘されている点である。そうなるとこれは日本外交の 構造上の問題に起因することとなり,それは西村の言うように,日本外交にお ける自主性の欠如にゆきつくのである。  以上のように外交の基本姿勢を保ちながら,平和への活動を押し進めるわけ である。西村は国会議員になった当初から世界連邦の活動を積極的に行う。 1962(昭和37)年には世界連邦の日本国会委員会の事務総長となり,1968(昭和 43)年には世界連邦主義者世界協会(WAWF)の名誉理事長にも選出され,世 界連邦運動という形で世界平和のために積極的に活動を展開した。 31) 『衆議院会議録』第41号,1966年4月15日,982∼984ページ。 32) 『予算委員会第2分科会会議録』第4号,1965年2月25日,3ページ。

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       キリスト教社会主義の一展開  75  そして,ベトナム和平に関してはかなり早い時期から勢力的に活動を行った。 1962(昭和37)年に,西村は南北ベトナムを訪れている。これは国会議員として はかなり早い時期の訪問である。西村は国会議員の任期中,都合8回ベトナム を訪れ,ホー・チ・ミン主席らベトナム首脳と会見し,戦争を終結させ和平を 実現するための活動を多面的に展開した。西村のベトナム和平への基本的姿勢        33) は次の4点である。  第一は,日本はアメリカの主張を口まねするのではなく,積極的に和平のイ ニシアティブをとるべきであり,それをベトナムの人々も望んでいるというこ とである。第二は,ベトナムには大義があり,ジュネーブ協定に違反したのは アメリカであるという点である。第三は,ベトナムにはベトナムのやり方とい うのがあり,ベトナムの問題はベトナム人に任すべきであるということである。 そして第四には,そういったことをアメリカ政府や国民に日本は大胆にいうべ きである,それこそが日本がアジアの国々に対してできる最も有効な援助であ る,このように西村は述べている。西村は,1965(昭和40)年にはアメリカを訪 れ,積極的にベトナム和平の必要性をアメリカ国内で主張した。さらに,1972(昭 和47)年には超党派の国会議員からなる「ベトナム問題議員懇話会」を発足さ せ,その総主事となった。この様な形でベトナム和平に力を尽くしたのである。 (2)人権擁護の戦い  こういつた外交の分野と並んでもうひとつ大きな西村の活動は,人権擁護の 分野であった。  西村の国会での最初の質問は,未解放部落の入会権問題である。1958(昭和33) 年7月に,西村は衆議院の農林水産委員会で,多くが農地解放の恩恵にあっか りえなかった未解放部落農家の社会的経済的条件の改善のために,まず入会慣 行を持っていない未解放部落農家に対して入会権を与えよという主張を行う。 33) 『外務委員会会議録』第2号,1966年2月18日,8∼9ページ。国会発言以外に,西村  がベトナム問題にふれた叙述は多いが,さしあたり,西村「ハノイをたずねて(1)∼(3)」  『キリスト新聞』1972年3月4日一一25日,参照。

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そして自らの政治信条を次のように述べるのである。   「私は政治家としては一年生でありますが,政治の本領は,社会の片すみ   に行われておるいと小さき者の声を取り上げて,これを十分に国政の上に   生かす工夫が必要であると考えるのであります。………(中略)・……・・私   は日本の農地の耕作地が農地法制定以来概して耕作農民の手に帰したこと   は認めるものでありますが,山林原野はまだ手をつけられていません。ま   た,さきに申し述べましたように,この農地法の恩恵にもあずかることが   できなくて,今なお多くの苦難を担っているところの何百万という部落農       34)   民とその家族のあることを大臣は覚えていただきたいのであります。」  未解放部落に対する差別の撤廃と社会的経済的条件の改善にたいする西村の 態度は,国会議員になる以前からも一貫したものであったが,それを国会での 自らの演説の最初に選んだことはきわめて印象的である。そして西村は, 1962(昭和37)年キリスト者部落対策協議会第1回全国大会で,会長に選出され ている。  人権を抑圧されている国内外の人々に対して,西村は人権擁護の戦いを繰り 広げた。例えば,川北友也という米国籍の日系人で,戦争開始期に日本にいた ため日本軍属であった人物が,戦後アメリカに帰国し,彼が捕虜虐待に関わっ たのではないかという曖昧な証言にもとづいて,終身刑を受けていた。西村は 川北友也氏の釈放を嘆願し,超党派的に精力的に署名を集め釈放をかち取った のであった。晩年には,在日韓:国人で韓国に留学をし,その政治思想を理由に 韓国政府に捕らえられた徐兄弟の釈放を求める運動にたずさわった。当時徐兄 弟は,別々の刑務所に収監されていたが,西村は1974(昭和49)年5月に韓国を        35) 訪れ,光州矯町所に囚われていた弟の徐俊植氏に面会したのである。こうした 西村の行動が,徐兄弟を激励し,当時の韓国政府の二人に対する対応にも影響 34)『農林水産委員会会議録』第10号,1958年7月7日,2∼3ページ。 35)西村「徐俊植君への手紙」『世界』1979年8月。西村が亡くなった直後,徐兄弟の末の弟  である徐京植氏が同じ雑誌に,西村の徐兄弟に対する支援の行動に感謝する感動的な弔辞  を寄せている(徐京植「故西村関一先生への手紙」『世界』1979年10月)。

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      キリスト教社会主義の一展開   77 を与えたのであった。  さらに興味深いのは,西村が1973(昭和48)年7月におこった金大中氏拉致事 件の当事者の一人であり,金大中氏の権利回復に奔走したことである。どの様 な意味で当事者であったのか,西村自身国会の発言の中で次のように述べてい る。   「実は金大中氏はあの事件のありました当日の午前中に私と会う約束だっ   たのです。しかも御本人は,転々と滞在しておるホテルをかえておるし,   場所も明示しておりません。事務所もわかりません。ただ電話番号だけは   私も知っておりましたが,それも向こうからの一方的な電話によりまして,   8日の日の午前中にお目にかかりますという金大中氏御本人からの電話が   ございました。私が直接電話にでたのであります。それが時間については   参ります前に申し上げますということでございましたが,12時まで待ちま   したけれども,私は他の予定をキャンセルいたしまして金大中氏の来られ   るのを待っていたのであります。しかも,国会の中であるなら身辺の危険   についても心配はなかろうということで,会館の私の部屋で会うという約   束をしたのであります。ところが,12時になりましても何らの連絡もなけ   れば本人はあらわれてこないということで,私のキャッチしておりました,   事務所であろうと思いますが電話をかけましたところが,秘書らしい人が   驚いて,まだ行っておりませんか,当然先生のところへ行っているはずで   ございますがということで非常に驚いた表情でございました。すぐに調べ   まして直ちに連絡をいたしますといいながら何の連絡もありませんし,も   ちろん本人はあらわれてきません。そこへあの事件が起こっているのであ     36)   ります。」  このように,金大中氏が日本で活動しようとした際に日本で最初に会おうと した国会下半の一人が西村であり,西村と会おうと約束していたその日の朝に 金大中氏は捕らえられたのである。西村としてはこの事件が日本の主権に関わ る問題であるにとどまらず,自らも当事者の一人として大変責任を感じ,事件 36)『外務委貝会会議録』第22号,1973年8月30日,7ページ。

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78  彦根論叢第275号 の真相を明かにし,金大中氏を日本に呼び戻すことができるように繰り返し国 会で働きかけた。しかも,西村は大変行動が早く,同年の12月には,自宅に軟 禁中の金大中氏をソウルに訪れ会見しているのである。会見の模様を,西村は 国会の発言の中で次のように述べている。   「私は,昨年12月の17日と19日の2日間にわたって,ソウルの金大中氏の   自宅を訪れまして親しく会見をいたしました。金大中氏はきわめて淡々と   した口調で,自分の今回受けた苦難はたいへんなものであったけれども,   このことを通じて韓日友好のきずなとなるならばしあわせである。大衆の   苦難を負うて,今後大衆の中の政治家として自分が働くことができるのな   らば,自分の受けた試練はかえって災いを転じてしあわせにできると考え   ているという発言があり,………(中略)………日本の皆様から受けたい   ろいろな好意にたいして感謝しておるが,自分の本当の願いとしては,日   本の国民の世論あるいはアメリカの国民の世論によって自分が完全な自由   の身となるということよりは,………わが国の韓国の世論によって完全な        37)   自分の自由が確保できることを期待しているという発言もございました。」  こういつた人権擁護及び世界平和のための活動が,国会議員西村が最も得意 とする分野であった。 (3)琵琶湖総合開発  西村が国会議員として地元滋賀県関係にたいして行った主だった活動は,愛 知川ダム問題琵琶湖をはじめとする内水面漁業の振興眠いくつかあるが,滋 賀県にとっては戦後最大の地域開発計画である琵琶湖総合開発に対しては,極 めて明瞭な態度をとっていた。  西村は,琵琶湖総合開発計画が法案として審議されている時期,すなわち 1972(昭和47)年から1973(昭和48)年にかけて,都合6回参議院の本会議および 委員会で関連の発言をしている。西村の基本的立場は明瞭なものであり,琵琶 湖の環境の保全と水質の回復がまず前提であり,それをふまえた上での琵琶湖 37)『外務委員会会議録』第3号,1974年2月19日,2ページ。

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      キリスト教社会主義の一展開  79 の開発であるべきだというものである。そして,琵琶湖の環境保全と水質回復 をはかるための緊急の具体的施策を提案するのであった。まず第一は,下水道 の普及を早急にはかるべきだという点である。第二は,農業排水の処理,廃鉱 の処理の為の処理技術の開発し,その施設を整備することである。第三には, 琵琶湖の自然浄化能力を高めるために,内湖を復元し,ヨシやアシなどの水性 植物の浄化作用を見直すべきであることである。第四には,琵琶湖周辺の公有       38) 地の拡大すること,そのために積極的に土地の先行取得を行うことである。こ のように琵琶湖の水質回復のための具体的提案を行い,琵琶湖環境保全事業の 優先的実施を強く要求したのであった。こうした考え方は20年後の現在におい ても,琵琶湖の環境の保全と回復を考える場合に振り返るべき基本的視点だと いえよう。 VII.おわりに  1900(明治33)年に生まれ1979(昭和54)年に生涯を閉じた,西村関一という人 物の生涯を振り返ってきたが,最後に西村の生涯と思想の評価の視点について, 簡単に考察することにしよう。  第一は,西村における信仰の特質である。それは,福音主義的キリスト教と 社会的福音の統一であった。西村自身は次のように述べている。   「福音主義的キリスト教の立場を堅持すると共に,地域のニーズに応じて   奉仕する,社会的福音の立場とは別々に考えることができなかった。より   福音的であればあるほどより社会的であり,より社会的であればあるほど        39)   より福音的であるように考えていたようです。」  西村のこうした立場は,一方では,強いピューリタニズムの精神にもとづき, 平信徒集団として社会改良事業を進めっっキリスト教を広めようとする,M. ヴォーりズ氏を中心とする近江兄弟社の活動と,他方では,キリスト者にして 社会運動家であった賀川豊彦氏の思想的影響とにもとづいて形成されたものと 38) 『建設委員会会議録』第18号,1972年6月1日,14∼17ページ。 39)西村「堅田伝道物語(4)」『湖畔の声』1978年7月,14ページ。

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