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経済学と時間(荒木廸夫教授退官記念論文集)

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経済学と時間

松 嶋 敦 茂  あらためていうまでもないことだが,時間という次元は,人間存在にとって 最も基本的で不可欠な要素である。もし望むなら,われわれは一生同一の地点 (空間上の位置)にとどまることもできようが,たとえ一瞬でも同一の時点に とどまることはできない。人間の行為は時間がしつらえた舞台の上で展開され ざるをえない。いやヨリ正確にいうなら,われわれの行為そのものがこの舞台 そのものを形づくっている。  だから,経済学はその生誕のときから「時問」と格闘してきた。F.ケネー は「年々の再生産」が紡ぎ出す「循環的時間」を定式化したし,A.スミスは 市場価格の自然価格への調整過程の分析をつうじて,社会的総労働時間の適正 な配分様式を考察した。彼らの分析は一世紀余の後に,A.マーシャルにおい て経済循環の理論と時間分析(短期と長期)へと展開する。またリカードが価 値論の文脈で行なった「生産期間」分析はジェヴォンズ,べ一ム=バヴェルク やピックスの資本理論へと継承されるし,マルクスが剰余労働時間の拡張のも たらす「ネガとポジ」(内田義彦)・技術革新について行なった考察は,シュン ペーターの「革新」の分析やポスト・ケインジアン成長理論へと変容しつつ受 け継がれてゆく。このようにみてくると経済学史は時間分析の歴史としても捉 えなおすこともできよう。  内山節『時間についての12章』(岩波書店,1993年)は言葉の最良の意味で の経験主義と,一貫した哲学的思惟とをあわせもつ好著であるけれど,「時間」 の問題を学史的にも考えるためのいくつかの論点を提供してくれている。この 小論ではそれらを手がかりとしつつ,このテーマについて少し考えてみよう。

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96 荒木口囲教授退官記念論文集(第300号) 1  等速で不可逆的・直線的に進行するものとしての「時間意識」が近代に固有       1) なものであるという認識は一般的であるが,内山は一歩を進めて,それは単に 「意識」の問題ではなく「存在」の問題でもあるという。たとえば「山里の時 間」はそれが主として共同体的に所有されている段階では,年々の農耕循環や 数十年におよぶ森林成育の周期に規律されて「循環的時間」として存在する。 が,資本主義三生産関係が山里にも侵入しそれを支配すると,共同体的に所有 されていた時間は諸個人によって所有・管理される私的時間となる。それはも はや「循環的時間」ではなく,貨幣資本循環の形式によって規律される直線的 な時間となる。  私もまた資本主義的商品経済が支配的に行なわれる経済における諸個人の 「時間」は,このようなものでしかありえないと思う。しかしシステムとして の資本主義的経済の「時間」は,単に直線的なものでしかないのであろうか? 資本主義的経済体制も一つの歴史的に自律的なシステムとして存立するために は,成長する存在としての「直線的」時間構造とともに,「再生産」する存在 として「循環的」な時間構造をもあわせもたねばならないのではないか。  人間の経済を「年々の再生産」のシステムとして,つまり「循環的時間」構 造をもつものとして初めて理論的・体系的に定式化したのは,先にも述べたよ うにケネーの「経済面」である。それは異なる三つの回転期間をもつ前払い資 本(「土地前払い」「原前払い」「年前払い」)を各生産期間に回収しつつ,全体と しての国民経済システムが,各年(生産期間)における生産・部門間交換をつ うじて再生産されるメカニズムを表式的に定式化した。  イギリス古典派(スミス,リカードら)においても「年々の再生産」という 観念はもちろん存在している。が,それは資本蓄積(経済成長)をつうじての, 労働力とその物質的条件(広義の賃金財)の再生産条件の分析にのみ限局され 1)真木悠介『時聞の比較杜会学』岩波書店,1981,およびP.コヴニー,R.ハイフィール ド(野本陽代訳)『時間の矢・生命の矢』静思社,1995.

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て,そのための「産業連関」的条件が分析されることはなかった。  「時間論」的にいえば,イギリス古典派の時間は「不可逆的時間」であった。 それをケネーの「循環的時間」と統一したのはマルクス再生産表式分析であっ たということもできよう。  ケネーが「循環的時間」を発見しえたのは,彼が農業部門のみを「生産的」 とみなしたことと無縁ではあるまい。というのも,工・鉱業生産物の生産にお いては,ある財Gとその生産過程Pは,この財Gに至る全原材料・中間財を G1, G2,・…  G。,それに対応する生産過程をP1, P2,・…  P。と表す なら,これらの生産過程は同一時点に,同じ工場内に共存する諸ラインあるい は社会的分業を担う諸生産部門P1, P2,・… P、として同時化することが できる。これに対して農業においては,特殊なケース  ジョージェスク・レ ーゲンが指摘するように(亜)熱帯地方の農業・養i鶏業など一を別にすれば, 地球の公転に規制されて生ずる一自然年をその生産期間としなければならない。 このような事情がケネーの循環的時間の発見に味方したのかもしれない。  だがいずれにせよ,全体としての国民経済システムは,(たとえ成長経済で あっても)「循環的時間」構造をその基底としてもたねばならない。いまリカ        2) 一ド  スラッファではなく  のアイデアにしたがって,労働力の再生産に 直接もしくは間接に関わる生産物を「基礎的生産物」とよぶなら,これらの基 礎的生産物のうち最大の不可分の生産期間をもつ生産物の生産期間が,このシ ステムの循環期間となることになる。  J.シュンペーターはこのゆえに一「経済循環」の発見ゆえに  ケネーに        3) 国民経済学の創始者の栄誉を与えた。そして彼はこの概念をワルラスの一般均 衡分析における均衡と同一の「定常循環」(circular flow)という概念に翻訳 したうえで,自己の「経済発展の理論」の基礎に据えるのである。 2)スラッファ体系においては,リカード体系においてと異なり,賃金は「後払い」とさ れ,労働力の再生産条件を示す関係式は含まれていない。そこで彼のモデルでは,一般 利潤率を規定する「基礎的生産物」も,すべての財貨の生産に生産手段として直接もし くは間接に用いられる生産物として定義される。 3)J.シュンペーター(中山伊知郎,東畑精一訳)『経済学史』岩波文庫1980.2章。

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98   荒木辿夫教授退官記念論文集(第300号)  しばしばケネーの「年々の再生産」と,この「定常循環」あるいは「定常状 態」とは同一視されている。しかし私の考えでは両者は明確に区別されるべき 別個の概念である。少し議論の本筋からそれるが,次にこの点を簡単に説明し ておこつ。  相違は二つある。第一。ケネーらの「年々の再生産」の図式にあっては,経 済均衡の条件は経済システムの生産力構造・生産関係構造の「再生産可能条 件」である。裏からいえば期間をつうじての生産・交換・分配によって形成さ れる経済均衡の成立過程は,この経済システムの再生産過程でもある。これに 対して,一般均衡分析にあっては,このような「再生産条件」が考慮されるこ とはない。たしかにワルラスー般均衡理論においては,今期に使用されている のと同一の型の「新資本財」が生産・需要されるべきことが示されているが, P.ガレニャー二『分配理論と資本』(山下博訳,未来社,1966)とそれに続く 論争が明らかにしたように,まさにこの点にワルラス理論の最大のアポリアが 胚胎するのである。さらにまた,労働力の「再生産可能条件」に至ってはまっ たくそこには考慮されていない。  第二。再生産条件に代わって,一般均衡理論における均衡を規定するのは「効 用極大化」の条件である。時間論の観点からみれば,この条件は,一方ではマ ーシャルの意味での「長期」の想定を必要とする。が,他方でそれは「本質的        4) に無時間的」(G.LS.シャックル)でもなければならない。というのは,全 財貨・用役市場において需給均衡がみたされるとともに,効用極大化の条件が みたされるためには,(1)「不確実性」が捨象されることと,(2)諸個人の利害が 「前もって調停されている」(pre−reconciled)ことが必要だからである。じ っさいワルラスは『純粋経済学要論』でそのように想定しているのだが,それ は経済システムが「無時間的な論理システム」であると想定するのと同値だか 4>K.ヴィクセルはローザンヌ学派のものとは異なる型の一般均衡分析モデルを示してい る。彼はそれに時間要素(「生産期間」)を導入する。が,その結果は,未知数に比べ方程 式の個数が一個不足することとなり,定常状態以外では均衡は不確定となる。(ガレニャ ー二前掲書)

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らである。たしかにケネーやイギリス古典派の理論のなかにも「不確実性」や 諸個人(グループ)間の利害対立は明示的には登場してこない。しかし「年々 の再生産」は一般均衡理論における「定常循環」とは違って,それらを原理的 に排除するような「時間」ではない。その意味でそれは一つの「歴史的時間」 ・「人間的時間」であるといえよう。  話をもとに戻そう。内山は資本主義的経済における時間は等速で直線的・不 可逆的な時間であると書いた。たしかにそのとおりである。もし個々人から独 立に等速で流れる時計的時間が成立しなければ,合理的な生産・経済システム の運営はありえない。しかし同時に,資本主義的経済システムも歴史貫通的な 「経済原則」に従うべきものであるなら,その基底に「循環的時間」構造をも たねばならないのではなかろうか。  ところでこのような議論に対して,一つの強力な批判が加えられている。そ れは「エントロピー法則」に基礎をおく次のような主張である。節をあらため て検討してみよう。 II  現在では資源・環境問題の古典的著作となっているN.ジョージェスク=レ        5) 一ゲンが1971年に刊行した著作『エントロピー法則と経済過程』一それは時 間論としては可逆的な「力学的時間」よりも,不可逆的な「熱力学的時間」概 念に経済学はヨリ多く依拠すべきことを主張している  の9章で展開されて いる「フロー・ファンドモデル」を用いて論点を定式化してみよう。  あるインプットのフU一(原材料・中間財・エネルギー)を投入して特定の アウトプットをうる生産過程を考察するとき,この生産過程はいくつかのファ ンド要因の働きのもとで行なわれている。ここで「ファンド」(fund)とは耐 久的な生産要素で,それを使用することによって一定期間生産的用役(サーヴ ィス)の継続的供給をうることができる生産要因をさしている。固定資本・労 5)N.Georgescu−Roegen, The Entrotty Law and the Economic Process, Harvard,1971.(高 橋正立・神里公訳)『エントロピー法則と経済過程』みすず書房1993。

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100  荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 働力・土地を含む「自然力」などを挙げることができよう。ところでこの生産 過程が継続的に繰り返されうるためには「その中のファンド要因が劣化してい ないことが必須の条件である」(註5)訳書,300ページ)。  実をいえば「この行き詰まり」を解決するアイデアこそが「年々の再生産」 という考え方である。つまり「それは資本設備はそれが参加している過程その ものによって不変のファンドとして維持される」(同上訳書,301ページ)と考 えるわけである。たとえば労働力というファンド要因を例にとって説明すれば, 「広義の賃金財」一先にみた「基礎的生産物」  の再生産システムをこの 経済システムはもっていなければならない。同様の部分システムが,資本設備 の維持や,土地を含む自然力の保全に対してもこのシステム内に存在していな ければならない。  だが「この考え方は虚構である。〈エントロピー法則〉の影響をまぬがれて 何物かを永遠に維持する過程といったものは現実的には馬鹿げたものだ」(同 上),ということである。ここでエントロピー法則とは熱力学の第2法則でエネ ルギー・物質は経済過程をつうじて利用可能な状態(低エントロピーの状態) から,利用不可能な無秩序な状態(高エントロピーの状態)に不可抗的に劣化 するという命題である。玉野井芳郎はこのことをヨリ強い調子で次のように主 張する。「新古典派経済学もマルクス経済学も,市場経済または商品経済の枠 内において,恒常的な経済フローが生産され消費される世界,すなわち定常経 済の世界の“無限の”くり返しを公然と説いてきたということができる。そし てそれは,狭義の経済学がわれわれに遺した重要な遺産のひとつでもある。・ ・…@ しかしながら,ここには重大な問題が見おされている。それは,狭義 の経済学によって試みられてきた市場経済または商品経済の枠内での定常状態 の説明においては,その“無限の”運動がいかなるエネルギー消費に基づいて いるかがほとんどまったく明らかになっていないことである。もしも恒常的な 経済フローの更新または経済の再生産が同じエネルギー資源を繰り返し使用す るものと想定されているのであるなら,このせっかくの理論的遺産はあの“永        6)久機関”の神話のなかに埋没するおそれがあるからである」,と。

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 これらの論者にとって経済過程とは「自然資源から廃棄物へ」と引かれた一 本道であって,貨幣現象を別とすれば「循環」(circular flow)はありえない。 彼らの主張の実際的意義の評価は「エントロピー危機」の現状をどのようにみ るかにかかっている。残念ながら私にはそれについて判断する資格はない。た だ純理論的レヴェルでいえば,彼らが「年々の再生産」と「定常状態」の両概 念を同一視していることは批判しておかねばなるまい。  前節では二つの相違点を指摘しておいたが,当面の論点に関していえば「年々 の再生産」の概念は過程の永続性の仮定をなんら必要としない,ということで ある。すなわち,この概念が主張する命題は,もし次年度も今年度と同一の生 産技術・所得分配と,少なくとも同一の規模での生産が繰り返されるとすれば, 今年度に成立する価格体系はこれらを次年度においても反復するのに必要な水 準で,今年度に用いられている生産方法によって一義的に決定される,という ものである。たしかに「古典」段階の理論には過程の「永続性」「無限性」を 前提しているように読めるふしがある。たとえばリカードは次のようにいう。 「欲求の対象となっている財貨のなかの際立って大きな部分は,労働によって 取得される。そして,それらのものはもしわれわれがその獲得に必要な労働を 投入する気になれば,ただ一国においてだけでなく,多くの国においても,ほ とんど無制限に増加することができるだろう」(D.リカード,『経済学および 課税の原理』岩波文庫版,1987,p.19,強調は引用者),と。  もちろんリカードは「自然」のもつ有限性が農業や鉱業におよぼす経済的効 果を分析している。しかし,「自然」は所与の与件として「劣化」しないもの として捉えられている。けれども「年々の再生産」の図式は,もし保全措置が 講じられなければ生ずる「自然」の「劣化」を分析することもできる。たとえ ば次のようにである。  スラッファは『商品による商品の生産』のなかで「土地」を一つの「結合生 産物」として取り扱っている。 6)玉野井芳郎『玉野井芳郎著作集2 生命系の経済に向けて』学陽書房,1990.p.121.

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102  荒木田夫教授退官記念論文集(第300号)  T十N.G十N 一一・・…一・一一・…一・・一・一・…(1) ここでTは生産技術,Gはアウト・プット, Nは自然である。ここではその 「劣化」は考慮されていない。しかしそれを考慮することは容易である。  T十N一>G十N’ ・・・・・・・…一一・・・・・・・・・・・・・・・・・・…(2)  N’ 十T’ eN …一一一……一・’…’””’”’”””(3) ここでT■は劣化した自然の回復のためのアクティビティである。②(3)式から 次の関係T+T’→Gがえられることは明らかであろう。つまり財貨Gはその 本来の生産コストとともに,「自然」Nの保全,維持のコストをも負担して生 産される。(もちろん実際には関係(3)は単一の式によってではなく,一つのシ ステムを表わす方程式群によって示される。)  ここで問題を複雑にしその解決を一義的でなくしている事情がある。それは 保全・維持されるべき「ファンド」の範囲,その保全の程度は必ずしも一義的 に定まっていないということである。つまりその「ファンド」が無償であるか, 無償に近い,その獲得が少なくとも短期的には個人にとってはそれほど困難で ないケースでは,いわゆる「フリー・ライダー」的問題が生じ「外部費用」の 「内部化」は容易ではないからである。古くは「労働力」というファンドの処 遇を巡る「工場法」「社会政策」の実現過程,近くは「公害問題」を巡る事態 はそのことを雄弁に物語っている。  問題をヨリー般的に定式化するなら,それは「合理性」を巡る対立・矛盾の 存在の問題だということができる。つまり「合理性」にも「私的個人的合理性」 (PR)と「社会的・システム合理性」(SR)が存在する。個人の見地から「合 理的」とみなされることと,「システム」の観点から合理的と考えられること は一般には一致しない。さらにPR, SRも単一ではありえない。諸個人は厳 密には同一の合理性の体系をもっていないし,SRについての観念は社会階級 ・階層の相違に応じて異なるし,問題を短期的に捉えるか長期的にみるかによ って当然違ってくる。維持・保全されるべき「ファンド」の範囲とその程度は, いかなる「合理性」(PRかSRか, SR1かSR2か・・…  )を基準とするか によって当然異なってくるのである。

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 さらにまた,このような保全・維持はジョージェスク=レーゲンのいうよう に「超長期」には「エントロピー法則」の壁に遮られて不可能になるかもしれ ない。いや彼らのみるところでは,それは「超長期」の問題などではなく,差 し迫った現実的問題であるようだ。しかしそのばあいでも,「狭義の経済学」 が鍛えてきた再生産=循環分析視角を放棄してよいとは私には思われない。  ここで,本稿のテーマ「時間論」に立ち戻ることにしよう。再び前節で引い た内山の書物を開いてみよう。内山節もまた環境問題を時間論の文脈において 考察している。ただ彼の問題意識はジョージェスク=レーゲンや玉野井のもの と同一ではない。彼は二つの時間すなわち地球の自転・公転が刻む時計的時間 (「無機的時間」)とともに,自然と自然,自然と人間,人間と人間の間に成立す る「関係的時間」とそれとが結合したとき成立する「存在としての時間」があ ることを指摘している。後者は,ときに不可逆的で等速な直線的時間としても あらわれるし,ときには「循環的な時間」や「ゆらぎ」をともなう時間として あらわれてくる。そして環境問題はこのようにして成立する種々の「存在とし ての時間」の間の矛盾・不一致によってもたらされるものとして捉えられてい る。彼は述べている。「ある社会が一つの時間秩序によって形成されていると き,時間の概念が異なる他者を,その社会は支配することも管理することもで きない。たとえば,今日この問題がもっとも顕著な形であらわれてきているの は現代社会と自然の関係であろう。かつて近代社会は,近代科学や技術を用い て自然を自己のコントV一ル下におこうと考えた。だが明らかになったことは, そのような試みを重ねるほど,私たちは自然をコントロールできるようになっ たのではなく,自然を破壊しただけだったということである」(前掲書,256ペ ージ)。  異なる「時間概念」の間に生ずる矛盾ということで内山が示そうとしている ものは,たとえば循環的な「森の時間」と直線的な「森林経営の時間」の間に 生ずる矛盾・対立である。本節での私の言葉でいえば,それはPRとSRの間 の矛盾・対立である。ヨリ図式的な言い方をすれば,異なる「時間概念」は異 なる「合理性概念」(PR1, PR2,・…  ;SRi, SR2,・・… )に対応し

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104  荒木辿夫教授退官記念論文集(第300号) ている,ということもできよう。  私は前節において,資本主義的経済のもとでの時間(意識)は,各個人にと っては「直線的」なものであるけれど,システムとしての資本主義経済は,そ れが存続し続けるとすれば,諸他の社会・経済体制と同様,「循環的時間」構 造をその基底においてもたねばならない,と書いた。だがそのことは,現実の 経済がつねにそのような「構造」を具備しているということをけっして意味し はしない。もし,現実の経済がつねに「システムの合理性」にかなうそのよう な「構造」をもっているなら,ケネーが『経済表』を書く必要はなかったこと であろう。ブルボン絶対王政(コルベール主義)が「循環的」な構造を破壊し たからこそ農業の疲弊がもたちされた。ケネーが批判しようとしたのは,それ に対してであった。人間経済が特定の「循環的時間構造」をもたねばならない という認識は,そのような批判のうちからのみ生じえたのであろう。そしてま た現実の資本主義経済が適切な「システムの合理性」を体して運営されている のでなければ,新たな『経済表』が書かれねばならないであろう。       III       7)  G.L. S.シャックルは『経済学における時間』など多くの著作において独自 の時問論を展開しているが,そこでは一貫して二つの時間概念が区別されてい る。一つは「外部からみた時間」(outside view of time),二つは「内部からみ た時間」(inside view of time)である。最近刊行されたJ. L.フォードの包括 的なシャックル研究にしたがって,私もそれらを「客観的時間」「主観的時間」 とよんでおこう。「客観的時間」とは時間の流れのなかで生起することがらに まったく関係のない「客観的観察者によって認識される時間」である。これに 対して「主観的時間1把握はシステムの「外部」にいる「客観的観察者」によ る時間把握ではなく,システムの「内部」で実際の意思決定に参加している当 事者の位置からの時間認識である。 7)G.L. S. Shackle, Time in Economics, Amsterdam,1958.なお次の書物を参考。 J. L. Ford, G. L. S. Shaclele, Aldershot, 1994.

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 シャックルの「客観的時間」は,前節でみた内山の「客観的時間」(それは ほぼ時計的時間と同義)と同一ではない。それは内山のいう「関係筋時間」の 多くをも含む概念である。前節までに私がみたのは,この客観的時間の構造で ある。関係的時間はまたシャックルのいう「主観的時間」とも関わっている。 そしてこの「主観的時間」の中核として,内山は「自分が保有している固有の 時間」を挙げる。彼は時計的時間としての客観的時間と,この時間との関係を 分析して次のように述べる。私は本節で,次に示す彼のこの章句を手がかりと しつつ,「主観的時間」について少し考えてみよう。  「・…  時間の自律が成立[客観的時間の成立]するとき,私たちの精神 はどのように変化していくであろうか。私にはそれは,自己の時間に対する経 営意識の成立であるように思われる。資本制商品生産の過程が時間経営の経済 学によって成り立っているのと同様に,自分が保有している固有の時間をいか に合理的に使用するかが,私たちには問われてくる。それは自分の固有の時間 を合理的に管理することであり,その意味で時間を経営することである。実際 現代の人聞たちは,時間を合理的に管理することを基礎において,人生を設計 し,残された時間を有効に使おうとする。そしてそうすればするほど,現代の 私たちは,時計の刻む客観的な時間=量的な時間に自分の時間世界をゆだねな がら,その固有の時間の一部を切り売りすることによって自分の固有の時間を 維持するしかなくなる。すなわち他者に自分の時間を投げだすことによって, 時間の合理的管理を維持するのである」(前掲書,251ページ)。  (1)共同的に所有される時間は,資本制商品経済が支配的となるとともに個人 的に所有される時間へと分裂する。時計的時間(内山の意味での「客観的時間」) が人々の生活を規律するようになる過程は「主観的時間」の成立過程でもある。 上に引いた内山の章句はこの点を明らかにしてくれている。しかしここで注意 しておきたいのは,この「主観的時間」が経済学の対象となるのは,その生誕 と同時ではなく,それから一世紀余りの時日を経過して後,「限界革命」以降 においてである。このことは経済学者の「注目点の変化」(J,ピックス)によ って説明することができる。つまり「古典」段階における経済学者は,時間の

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106   荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 社会的「客観的」構造に注目したのに対して,限界革命以降の経済学者は,時 間についてもそれを個人としての個体の見地から捉えようとするのである。  上に引いた内山の文章は,たとえばワルラスやべ一ム=バヴェルクにおける 「時間」の性格をよく示している。私は1節でワルラスの経済理論は「本質的 に無時間的」であると書いた。第一にそれは市場システムの「客観的」分析の 次元においてそうであると同時に,第二にその「主観的」次元においても,後 に論ずるけれど「意思決定」における「不確実性」のモメントの果たす役割を 捨象している点で「本質的に無時間的」なのである。しかしそれは「自己の時 間に対する経営意識」の構造分析としては「主観的時間」の構造を捉えている。 ワルラスの純粋経済学の住人は自己の保有する時間Tを,他人に譲渡する時 間t時間と自分で個人的に使用する時間(T−t)時間とに分割する。分割の 比率はt時間の他人への譲渡と引き換えにえられる報酬が,彼にもたらす効用 と,(T−t)時間の個人的消費が彼にもたらす効用との総;和を極大にするよう に定められる。べ一ム=バヴェルクにおいてはさらに,ワルラスでは分析され なかった消費と生産の時間構造が分析される。しかし,その分析も上にワルラ スに対して述べたのと同じ理由で,われわれの生きている世界に流れている「歴 史的」で「人間的」な時間ではないように思われる。  だがこのような欠陥にもかかわらず,彼らが古典派の理論につけ加えた「主 観的時間」構造の分析は大切な遺産であると私は考える。  内山は個人が保有する時間の「合理的」使用は,その一部分を他人に「切り 売り」することによってのみ担保されるから,その「合理性」そのものが制約 を受けざるをえないことを指摘する。この指摘は正しい。だが「マルクス的社 会主義」のユートピア性が明らかとなった今日,市場を媒介としない「個人的 時間」のいかなる「合理的」組織形態があるのであろうか?  (2)ケインズは1930年に書いた論説「わが孫たちの経済的可能性」(『全集』9 巻所収)において,人類は近い将来,これまで人類を悩ませてきた窮迫や貧困 の問題から解放され,新たな問題一「余暇」をめぐる問題一の解決に直面 せざるをえないだろう,と書いた。残念ながらこの予測は未だ実現されてはい

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ない。「過労死」が重大な社会問題である日本においてそれは「夢のまた夢」 といわざるをえない。しかし「余暇」の問題一人生における「余暇」として の「老後」の問題も含めて  は,われわれの福祉・厚生を規定する重要な要 因となっている。「限界革命」に始まる経済理論が展開してきた「主観的時間」 の構造分析が現代の経済学にとって,大切な遺産である理由もまたそこにある。  ところで杉原四郎によれば「余暇」についての最初の経済学的分析は,限界 革命の同時代者Kマルクスの分析のうちに求めることができる。杉原ととも に『資本論』第3巻48章でのマルクスの分析を聞いてみよう。すこし長いが該 当する章句の全体を引用する。ただし番号①②③は私が付したものである。  「①じっさい,自由の国は,窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するとい うことがなくなったときに,はじめて始まるのである。つまり,それは,当然 のこととして,本来の物質的生産の領域の彼方にあるのである。未開人は,自 分の欲望を充たすために,自分の生活を維持し再生産するために,自然と格闘 しなければならないが,同じように文明人もそうしなければならないのであり, しかもどんな社会形態のなかでも,考えられるかぎりのどんな生産様式のもと でも,そうしなければならないのである。人間の発展につれて,この自然必然 性の国は拡大される。というのは,欲望が拡大されるからである。しかしまた 同時に,この欲望を充たす生産力も拡大される。②自由はこの領域のなかでは ただ次のことにありうるだけである。すなわち,社会化された人間,結合され た生産者たちが,盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物 質代謝によって支配されることをやめて,この物質代謝を合理的に規制し自分 たちの共同的統制のもとにおくということ,つまり,力の最小の消費によって, 自分たちの人間性に最も適合した条件のもとでこの物資代謝を行なうことであ る。しかし,これはやはりまだ必然性の国である。③この国のかなたで,自己 目的として認められる人間の力の発展が,真の自由の国が始まるのであるが, しかしそれはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くこと       8) ができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」  この章句に示されるマルクスの思想と前項でとりあげたワルラス・モデルと

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108  荒木心夫教授退官記念論文集(第300号) の対照は明らかである。第一に,ワルラスは樽入の所与の選好体系(欲望)を 個人が保有する所与の資源(時間)によって充足するさいの資源の「最適配分」 の条件を数学的に定式化したのに対して,マルクスにおいては欲望もその充足 のための「手段」もともに所与とは考えられず,時間をつうじて成長するもの として捉えられている(段落①)。第二に,ワルラスにおける「合理的」経済組 織は「絶対的自由競争を仮定する制度」であるのに対して,マルクスにおける それは「集権的社会主義」的経済組織である(段落②)。マルクスのこの章句の       9) 結論部分③について杉原は次のような解釈を与えている。適確な注釈だと思う ので次にその全文を引用したい。  「・…  ところでマルクスが必然の領域を自由の領域の不可欠の基礎であ るとしているのは,必然の領域で用意される物的富によってはじめて人畜の生 活が確保され,自由の領域での人間の諸活動が保証されうるからだ,という理 由だけであろうか。私はそうではないと思う。先に見たように,人間によって 単なる必然の領域というものは存在しないのであって,存在するのは自然必然 性との戦いなのである。人間は労働の戦果として生産物と自由時間とを獲得す るのだが,それらを真に人間的に活用する能力もまた,この戦いを通じてはじ めて獲得されるのだ。して見れば必然の領域は,自由の領域に対して,単に物 的富と自由時間という客体的素材的条件を生み出すのみならず,人間的文化を 創造し享受しうる主体的条件をも準備するものといわなければなるまい。」  私もマルクス=杉原と同じく「余暇」の質は,人類の物質的生活の社会的再 生産の条件によって,それがいかなる組織形態のもとで行なわれるかに依存し        の     ているように思う。ただマルクス説とは違って,それは「集権的社会主義」の 形態のもとではありえない,とも考えている。  がいずれにせよ,ワルラス的モデルとマルクスの章句との二つは,「余暇」 8)マルクス,『資本論』第三巻第二分冊大月書店,1968,p,1051. 9)杉原四郎『経済原論1  「経済学批判」序説』同文館,1973.p.135,杉原は大熊信  行・柴田敬の問題意識を受け継ぎ,「経済本質論」  その起点は「時間の経済」  を  機軸として,マルクス経済学(労働価値説)を再解釈・再構成している。本文で引用し  たマルクスの章句はそのような観点から彼が特に重視するものの一つである。

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についての経済学的考察にとって不可欠な二つの思考の型をわれわれに提供し ているように思われる。すなわち,前者はそれについての機能的分析,後者は それについての社会・歴史的分析を与えている。  (3)内山は個人が保有する時間の「合理的」な使用を妨げている事情として, 個人が保有する「時間」を「切り売り」しなければならないことを指摘してい た。この点についての私の意見はすでに述べた。以下であらたに問いたいのは, 時間の「合理的」な使用を妨げている事情は果たしてそれだけだろうか,とい うことである。  ケインズは『一般理論』において「われわれを覆う時間と無知の暗い力」を 指摘し,この認識が経済学の出発点に据えられるべきことを強調している。私 はケインズが指摘したこの要因,つまり「時間に起因する不確実性」こそが, 時聞の「合理的」使用を妨げているいま一つの要因だと考えている。そしてこ の要因についての認識はマルクスにおいても,ワルラスにおけると同様に稀薄 であり,不十分であったように思う。それは彼らの思考における一つのアキレ ス腱であったのではないか。次に節をあらためてこの点について少し考えてみ よう。

IV

 「不確実性」の原因は時間(の変化)のみに起因するのではない。社会現象 に限っても,われわれの情報処理能力の限界に基づく「制限された合理性」(H. サイモン)にまつわる不確実性もあるし,自律的な諸個人(グループ)の行為 の相互作用がつくりだす「ゲーム論」的状況にともなう不確実性もある。しか し以下では時間(の変化)に基づく不確実性に限って考えてみよう。  経済学が生誕してから200年以上の時日が経過しているが,R.カンチロンや F.Y.エッジワースのような若干の例外を除けば,それが経済学の主題となる のは,今世紀になってから,しかも1930年代以降においてである。資本主義経 済の「不安定性」の自覚が経済学者の「注目点の変化」を促したことはいうま でもあるまい。

(16)

110  荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号)  ところで「時間に基づく不確実性」が「不可逆的時間」と結び付くものであ ることは明らかであろう。反復的にあらわれる「循環的時間」においてはそれ は登場しえない。経済学において不確実性はしばしば「確率」によって測られ るけれど,このことを考えればそれは「頻度確率」ではありえないはずである なぜなら「頻度確率」は,同一の条件のもとで十分に多くの回数にわたって反 復される事象を対象にするからである。  このような理由から,1920年代以降の経済学はいわゆる「主観確率」論を展       10) 開する。しかしケインズやシャックルが批判するように,この理論は十分に一 般的で確実な前提のうえに立っているとはいいがたい。というのもこの確率論 においては,第一に事象の確率判断は一個人が行なう基数的効用評価に還元さ れるけれど,個人の行なう効用評価はこの理論が想定するように単系的なもの ではなく,多系的・多次元的であるのが一般的だし,基数的であるよりはしば しば序数的であると考えられるからである。さらに第二に,この確率論は一個 人が行なう確率判断が一貫したもの(coherent, consistent)であること 数学的に表現すれば,ある行為によって惹起されるすべての確率事象が予測さ れ,それらの確率の和が1であること  を必要としているが,これは実際的 には実現不可能な条件であるからである。  だから『一般理論』以降のケインズは諸個人の行為を「論理的」に把握する ことを断念し,それらを「血気」(animal spirit)や「慣習」(convention)に よって理解しようとする。しかしながら,血気や慣習は確固たる合理性をもつ ものとはみなされなかったから,彼はシステムの合理性の基礎をマクロ的分析 ・「有効需要の理論」に求めるのである。  後期(1937年以降の)ハイエクもまた,経済主体の「完全知識」「完全合理 性」に基づいて彼らの行為を理解することを否定する。しかし彼の選んだ方向 はケインズとは対照的であった。市場メカニズム・慣行に基づく人々の経済的 10) J. M. Keynes, A Treatise on Plobability, The Collected VVritings ofJ. M. Keynes, vol. VIII, Cambridge.  G. L. S. Shackle, EPistemics and Economics, Cambridge, 1972.

(17)

行為は「短期的」には非合理的であるかもしれない。しかしそれらは「長期的」 には,一つの合理的な「自生的秩序」をもたらす。反対に「介入主義」的な方 策は「短期」的には一定の成果を収めても,「長期」的には市場システムの機 能を破壊することで,市場システムの自由な働きに委ねたときより,ヨリ望ま しくない結果に終わる,と。  要約しよう。経済学にとって時間論とは,結局,私的合理性(PR)・短期 的システム合理1生(SSR)・長期的システム合理性(LSR)の内容と相互関 係を問うことであるように私には思われる。あるシステムが永続するためには PRのみならず, LSRもみたされねばならない。そのためにはたとえ成長する 経済であっても,その基底において「循環的時間」構造を再生産しなければな らない(1節)。このことは「エントロピー法則」の作用(それは独自な考察を 必要とするが)を考慮にいれてもなお妥当するように思われる(II節)。  LSRはその内実からみると,「余暇」の量的および質的拡大であり,ライフ ・サイクルの「合理的」設計でもある(III節)。しかし「不確実性」が存在す るもとでは,自己の保有する時間について「長期」にわたっての合理的設計・ 管理は容易なことではない。ワルラスはこの点を見損なっているし,マルクス の認識も十分なものとはいいがたいように思われる。  PR, SRの相互関係の認識をめぐって,ケインズとハイエクの立場は対照 的である。たしかに両者ともPRの不完全性や市場システムの重要性の認識に おいては共通している。だが市場メカニズムの限界性の認識において両者は根 本的に相違している。そして私は,分厚い社会思想史的知見にささえられた, ハイエクの市場メカニズムについての分析に大いにひかれるけれど,比較的に 確定的なことのいえるSSRの分析に自己限定し,その基礎のうえに,一切の 臆断を排して,LSRについても発言するというケインズの方法的態度に親近 的である。

参照

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