文学的美意識と「日本」 : 川端康成と三島由紀夫(
六)
著者名(日)
瀧田 夏樹
雑誌名
井上円了センター年報
号
10
ページ
119-132
発行年
2001-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002724/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja文学的美意識と﹁日本﹂
川端康成と三島由紀夫︵六︶瀧田夏樹§⋮§
︵十九︶ ﹁喜びの琴﹂から﹁太陽と鉄﹂へ 川端康成の最後の長編﹁たんぽぽ﹂が中断され、ノーベル賞受賞講演﹁美しい日本の私﹂が執筆されていたと き、執筆者は、自分の美意識を出来るだけわかり易いことばで説明しようという思いで書き、それ以外は念頭に なかったであろう。その試みは、たぶん西洋の読者にすぐ理解できる程には成功していると思えないが、自己の 文学的立場を飾ることなく語り尽くしたという意味で、思い残すところのない名文といえる。そして今から思え ば、これこそが、作家の残した遺書と云われてさしつかえない位置にあることに思いいたるのである。そこに は、受賞講演としては異様に多い﹁死﹂の話題が盛られており、特に﹁自殺﹂への言及が、どこか思い詰めた受 賞者の心境を語っているようである。受賞後およそ三年半ほどののちにおとずれる突然の自死が、どこか予感さ れているかのようで、この自己開示の形そのものが、遺言めいた精神性を感じさせる。講演﹁美しい日本の私﹂ と、絶筆の小説﹁たんぽぽ﹂こそは、川端康成が次の世代に遺した文章である。 これらが書かれていた昭和四十三年は、戦後の日本にとって、そして世界の若い知識層にとって、歴史的な激 119 文了的※芭識と 1[本動の時代であった。正確にいえばその前後一年余りを含んで、第二次大戦後最初にして最大の、旧体制に対する 反抗運動が、世界規模で燃えひろがっていった時代である。第二次大戦という世紀最大の戦争の処理は、当然な がら、いまださまざまな矛盾をはらみ、未解決の難問をあらゆる部分に残して、二十数年が経過していた。戦争 を知らない世代が大学キャンパスを歩きはじめたとき、彼らがそこに見たものは、許しがたい怠慢、旧態依然た る権威主義であった。いわゆる大学紛争の発火点は、各国、各大学でさまざまであり、反抗の形態・規模も↓様 ではないが、それら権威に対する反抗の担い手が、一部の不満者にとどまらず、一世代全部であったことが、こ の大きな転換期の本質をよく物語っている。戦後二十数年が経ち、ここに一つの大きな区切れが入ろうとしてい た。 川端康成は、こうした時代の底流に対して目立った反応を示していず、昭和四十年、多くの宿題を果たした功 労者として日本ペンクラブ会長を辞して以後は、顕彰を受ける多忙さに加え、著しく健康を害した。激震に対し て独特の形で反応したのは、三島由紀夫であった。この多産な作家が、畢生の大作﹃豊饒の海﹄を最終の作品と 宣言して、その四部作の第↓巻﹁春の海﹂を書き始めたのは、昭和四十年のことであった。四十三年という基準 をとると、そのとき著者は、第二巻﹁奔馬﹂を書き終え、第三巻﹁暁の寺﹂を書き継いでいたことになる。約束 どおり、この四部作最後の﹁天人五衰﹂を、昭和四十五年十一月二十五日に書き上げ、それを完成した日が、周 知の彼の最期の時となったのだから、この小説は、意図して五年前から書き始められた遺書と見ることが出来 る。その五年間は、いわば迫りくる﹁死﹂を前提とした生活であり、その﹁死﹂に対処するための日々でもあっ た。東京オリンピックの頃、すなわち高度成長の最盛期のこの時期にほぼ固められ、作品欄筆の日を起点として 逆算する方法で、生活のすべてが決定されていった、ただならぬ決心があった。これは、最後の一句が決まって 120
から作品の筆をおろすというこの作家として、本質的に不可能ではあり得なかったにしろ、自分の死を終着点と しそれに収敏させる劇作法にも似た生き方など、誰の理解も期待できるものではない。そして、その﹁謎﹂は死 後現在にまで続いている。そしてその死の準備期間ともいえる五年間が、あの未曾有の、時代の激動期と重なっ ていることは、われわれにとって大きなヒントである。その五年の間に、もう一つの三島像、世界の﹁ミシマ﹂ の重要部分が完成されていくのである。 その前年昭和三十九年。東西冷戦はなおつづいており、前の年にはアメリカ大統領ケネディの暗殺などがあっ たにせよ、比較的に平穏であった。日本にとっては、戦後の国力の回復と経済の復興を世界に示すいい機会を、 ﹁東京オリンピック﹂という平和の祭典に得た、忘れられぬ年でもあった。オリンピックを取材する三島由紀夫 には、死の影はまったく見えない。この年の収穫として挙げなければならないのは、長編﹃絹と明察﹄の完成 と、毎日芸術賞の受賞であろう。昭和二十九年の近江絹糸紡績の人権ストに材をとり、悲喜劇的にまとめた大作 で、﹃青の時代﹄﹃金閣寺﹄﹁宴のあと﹄と並ぶ、事実に発する作品である。だがそれはまた、おろかしいまでに 前近代的な大経営者、駒澤善次郎を、しいたげられてきた若い男女工員らの手で計画的に没落に追いつめ、死に いたらしめる激しさによって、その前年に出版された﹃午後の曳航﹄の系譜につらなる、﹁復讐物語﹂とも解釈 される。 紡績業界でも、その古い家内工業的経営方針が問題になっていた﹁駒澤紡績﹂が、一気に崩壊に立ちいたる過 程に、﹁岡野﹂がこれほど深くかかわったのは、 ﹁たまたまの機会﹂だったと書かれているが、この事件を﹁明 察﹂し一切を指揮したこの財界の黒幕は、最後まで姓だけで紹介され、名前さえ明かされていない。岡野は、す 121 之ア的美胞識とtl本1
でに方々にほころびを見せている会社の女子寮に、なじみで文学好きの年増芸者を寮母として送り込むが、十分 にスパイとして機能した。またリーダーの素質に目をつけた一工員へ、匿名で送った扇動の手紙は、これまで ﹁感恩報謝﹂という思想しか知らなかった労働青年の知性をくすぐる巧妙な書き方で、世界の人権獲得の史実を 教え、啓蒙していった。争議のノウハウを伝え、指導する目的で、﹁繊維同盟﹂の﹁秋山﹂という役員が送り込 まれるが、彼は、競争企業﹁桜紡績﹂社長から多額の闘争資金を託されている。自分を工員たちの﹁父親﹂︵て ておや︶と称して自賛し、過ちに気づかぬ間に、駒澤社長の堀は、内も外も埋められてしまっていた。 岡野のかかわりは、とても﹁たまたま﹂どころの段ではないことがわかるが、この干渉活動の根拠、ないし思 想がいたってあいまいであって、駒澤を頑固な﹁兜虫﹂にたとえた嫌悪の印象が、むしろ大きな動機として働い ているようだ。そういう意味では、作品中の争議は、﹁たまたま﹂成功してしまったという気楽な印象も残し、 いわゆる﹁社会派作家﹂の作品ならそなえていただろう、スリリングな分析の陰りを欠いている。 この岡野の思想として作品中で頻繁に引用されるのが、ハイデッガー哲学であり、ヘルダーリンの詩の一節で あって、どこかぴんとこないのだが、同じような思想のあいまいさは、岡野や秋山などの戦中派が、太平洋戦争 中に属していたといわれる御用団体﹁聖戦哲学研究所﹂なる機関とのかかわりにも現われており、自己満足以外 のものは認められず、明確な﹁絹﹂という言葉に対抗する﹁明察﹂のそれが、すこぶるアイロニーの影を帯びて 響いてくる。最後に、岡野を新生駒澤紡績の社長にさそう桜紡績社長の言葉に、ひそかな満足感を覚える岡野の 心情からも、﹁復讐物語﹂という作品性の印象は強い。 122 さて争議は、ロックアウトののち、中労委の斡旋があり、銀行筋の圧力もかかって会社がこれを飲む。だが問
もなく、駒澤社長は脳血栓で倒れ京大病院に入院、十七、八日の療養ののちに亡くなる。その入院のさなかに、 朝まだ暗いうちに口覚めた駒澤が、黒谷の金戒︵こんかい︶光明寺で打ち鳴らす暁鐘に耳をすます、静寂な思惟 に満ちた場面がある。駒澤は、一度その寺院の鐘つき堂に立ち寄ったことがあり、そこからの鐘が朝夕この病院 にまで響いてくることを同行者から聞いたことがあったのだ。そしてその時に見た、鐘の下の、乾ききって赤茶 け、荒らされた土の色を、記憶として鮮明に持っていた。 ともあれ、音はたしかに、自分が]度目近︵まちか︶に見たあの鐘からひびいて来るのだ。それは前︵さき︶ の余韻の消えきらぬうちに、秋の暁闇の澄んだ大気の中へ、次の大どかな一杵を打ち鳴らし、やがてすべてを 鐘の音で充たしてしまふ。その充たし方は、隠微で、狡滑なほど周到で、⋮⋮世界がまだ目ざめきらぬうち に、丸ごとそこを領略してしまふのだ。この水にひろがる墨のやうな響きを、誰が拒むことができるだらう。 誰がよく禦︵ふせ︶ぐだらう。時を告げるその鐘は、今の時を告げるのではなくて、遠い確実な時、未来のど こかしらに定まつてゐる確実な時を告げ知らせてゐるかのやうだ。 駒澤は、鐘の響きの底にもう一つ、銀の精髄とも、鋭い閃光とも思われるものが潜んでいるのを聞き取る。そ してそれに魅せられた。さえわたる駒澤の耳には、鐘によって解き放たれたかのように、暁の大気をついて一斉 にほとばしる﹁悲しい叫び﹂までが届き、彼はその悲しみを完全に納得できたと思った。彼はそのとき、すべて を許せる境地になったのだ。鐘を打つ場所の荒れさびた様子と、打たれた鐘の不可思議な響きと効果を描写する これらの箇所は、作品の読者に或る肯定を強い、救われる思いを喚起する力をそなえている。川端康成が﹁たん 123 之7的xv ,,za二日本
ぽぽ﹂を書いたときに、もしここから刺激を受けていたとしても、不思議ではないように思われる。川端康成の 作品では、鐘をつく者と聴く者双方が、離されて呼び合う苦しみが、ひしひしと切迫する場面なのではあったが 124 昭和三十九年の三島作品では、なお二つのドラマにも触れておきたい。その一編﹁恋の帆影﹂は、時をコ九 六四年五月の午後より翌朝にいたる﹂とされ、まさに現在の日本、﹁東京近郊水郷の小島なる舞鳥邸﹂を舞台に 展開される。それは、日本が、経済の実力を世界に認知される寸前の時期であるが、きたるべき国際化にあたっ てどう振る舞うべきかの戸惑いが、人物の劇とうまくからんで、それが一つの見所である。純日本風を外国人の 百万長者に味わってもらうことを目的とするホテル建設が計画され、それがもろくもくずれ去る一日の出来事で ある。手毬、謡、弓、茶菓子、そして英語のテープレコーダーによる接客の練習と、一家をあげての準備が、水 郷の邸の内外で行なわれている。島には幾本もの橋がかかり、客は和風の手漕ぎ舟でそこに運ばれる仕組みであ る。だが、嵐が吹けばひとたまりもなく流れてしまう橋のような、頼りない仕立てであり、しょせん浮世絵のよ うに現実離れした計画なのだ。また一泊百万ドルを三百六十万円と計算してあるところも、当時の日本の﹁弱 さ﹂を浮き立たせるかっこうの材料になっている。 もう一編の﹁喜びの琴﹂は、その上演をめぐって文学座が紛糾し、作者と数人の団員が退団することになり、 日本の演劇界の第↓人者でもあった作者と、文学座そのものにとって運命的な出来事となった。この戯曲は、あ る大学に隣接する警察署の公安部を舞台とし、二十数人の警察官の日常を描きながら、そこで思想がどう扱われ
処理されていくかについて、ことに若い刑事がどのようにしてこの世界に住みついていくのかを示す、ユニーク な題材で、時代の微動に敏感に反応する三島由紀夫ならではのテーマであった。筋を作者の筆で紹介するとこう である。︵﹁文学座の諸君への﹃公開状﹄﹂昭和三十八年十一月︶ ::反共の信念に燃える若い警官が、その反共の信念を彼に吹き込んだ、もつとも信頼する上官であつた巡 査部長が、実は左翼政党の秘密党員であって、この物語の進行する未来の架空の時期に、その政党の過激派が 策謀した列車転覆事件に一役買つてゐたのみか、自分自身も道具として利用されてゐたことを知り、悲嘆と絶 望の底に落ち込むが、思想の絶対化を唯一のよりどころに生きてきた青年は、すべての思想が相対化される地 点の孤独に耐へるために、ただ幻影の琴の音にすがりつく⋮⋮ この﹁公開状﹂によれば、飛びかう﹁反共的﹂セリフ、左翼が列車を転覆させたとする設定に、俳優が耐えら れず、上演拒否を申し入れてきたのであった。列車転覆事件といえば、昭和二十四年八月十七日に起こった﹁松 川事件﹂が、多くの容疑者を逮捕して長年月の裁判を行なった挙げ句、最終的に最高裁判所で全員無罪の判決が 下ったのが、実にこの年昭和三十八年九月十二日であった。被告の大多数が国鉄などの労組員で、共産党員であ ったこと、地裁では複数の死刑判決が出され、昭和三十四年八月十日の最高裁の差戻し決定も、七対五の際どい ものであったこと、結局真犯人の逮捕にたどりつけなかったことを含め、国論を二分する難事件であったことに 疑いはない。﹁文学座の諸君﹂の反応には、このような周知の事情が伏在していることが余りに明白であった。 この作品をどう見るかは、松川裁判の結果に対する態度にも通じ、その意味では、際物的性格を指摘することも 125 k”;的丈芭識と EI本
可能だ。なにしろ時間的に余りに接近しすぎているからだ。﹁芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのま ずに、ミツだけを吸ふことはできない﹂と作者はいうのだが、俳優が忌避したのは、そんな﹁毒﹂ではなかった のではないか。この作品が、松川裁判の最終結果や、﹁進歩的﹂文学者たちも加わった、未曾有の被告支援活動 などの社会性に刺激を受けて書かれていながら、これを]切無視してかかっているかのような﹁芸術作品﹂の尊 大さ、それを演じることに耐えられなかったのである。 すなわち、﹁公開状﹂は俳優たちの拒絶感をありのままに把握できていなかったふしがあり、このすれ違いこ そは、三島由紀夫の悲劇ととられるべきものであった。文学座から上演を拒絶された作品は、多少の書き足しと 書き直しを経て、劇団四季により五月七日から三十日にかけて、日生劇場で上演された。そのことで、作者のも っとも云いたかったこと イデオロギーや職務といった現実を超えた所で鳴り響いていて、人間に生きる勇気 を与えてくれる快い調べの存在を、リアリズムの舞台の上で象徴的に展開できたのは、生きる人、三島由紀夫に とって大きな励ましであったろう。﹁党のスパイ﹂などという気配はつゆほども見せなかった、十年勤続のよい 教育者﹁松村﹂巡査部長が、最終幕にきていきなり正体を剥がれたり、彼に心酔していた公安係巡査﹁片桐﹂が 悩む姿は、出来すぎたドラマだが、ひげの交通巡査﹁川添﹂が車の騒音のなかで明瞭に聞き取った幻の琴の音 が、片桐の絶望を救い、喜びに導く場面には、カタルシスがある。 このように見てくると、﹁喜びの琴﹂は、最終場面を招き寄せるために設定された、﹁過激派﹂共産主義者によ る列車転覆という、際どい公安事件︵しかも、松川事件とちがってすべてが確認されあばかれた犯罪という想定︶が、 作者にとって意味するものが問題になってくる。そのような意味でこの作品は、愛する劇団によるその上演拒否 により、短絡的に、次の目標を選び取らせるきっかけになったのではないだろうか。松川事件判決を肯定出来な 126
い心が動機として見える。短い文だが、﹁公開状﹂には、余りに激しい落胆と怒りがあらわである。しかも、先 にのべたように、そこには、三島側の根本的な読みちがえがある。 文中の、たとえば次のような言葉﹁諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室 の中へはひ込むのなら、私は残念ながら諸君とタモトを分かつ他はない⋮⋮﹂は、三島由紀夫が次の五年間で、 最も熱く結ばれ、最終的な行動へともに動いた、まったく別の種類の青年たちのことを、思い起こさせる。 克明、正確な記述で知られる安藤武氏著﹃三島由紀夫﹁日録﹂﹄の、昭和四十年の項は、一月一日の記述の前 にいきなり、﹁この年︵﹃僕はもう死ぬんだ﹄といい出した。⋮⋮︶﹂とあり、驚かされる。親しい友人伊澤甲子麿の 伝える言葉には、﹁いや、もうじっとしてはおれない。若者を集めて帝都防衛隊を作ろう⋮⋮﹂というものもあ った。二月二十六日には、﹃春の海﹄の取材として、奈良、円照寺の最初の訪問が行なわれ、その執筆は六月一 日だった。四月には、三島由紀夫主演の短篇映画口憂国﹄の撮影が行なわれ、三十日に完成した。六月から八月 にかけては、多くの戯曲のなかでも傑作とされる﹃サド侯爵夫人﹄が執筆された。二・二六事件を背景とする自 刃将校を扱った﹃憂国﹄は、翌年一月、フランス・ツールの国際短篇映画祭で、三百三十三編の出品作品中で次 点を獲得。また﹃サド侯爵夫人﹄は、第二十回芸術祭賞を受賞した。 昭和四十一年、五月。二・二六事件の決起将校と、神風特攻隊員の霊を冥界から呼びおろす降霊の集いを扱っ た﹁英霊の声﹂を発表。八月には、﹁奔馬﹄の取材に京都の大神神社、江田島の元海軍兵学校、熊本神風連事跡 を訪ねる。エッセイ﹁二・二六事件と私﹂は、天皇制が、昭和天皇の﹁人間宣言﹂のゆえに、三島由紀夫にとっ 127 ぐデ的美G識ヒ |Pt
ての最大の難問であることの告白として重要である。この﹁人間宣言﹂への懐疑は、さらに、二・二六﹁反乱軍﹂ を容認されなかった天皇の態度への、﹁憤りと悲しみ﹂につながる。この問題が自分のアイデンティティーその ものであることを確認しているのだ。なおこの年、剣道は四段の位に合格。運命の日本刀一振りを人から贈られ たのもこの年であった。ボディ・ビルによる肉体改造の完成も、﹁文武両道﹂という徳目をかかげての、行動の準 備に不可欠な条件であった。四十代の肉体は、このような人為的な加工がぎりぎり可能であることを発見し、勇 気を得た。昭和四十年十一月から四十三年六月まで書き継がれた長編エッセイ﹃太陽と鉄﹄には、この頃の彼の 思想の推移がつぶさに書かれており、興味深い。三島由紀夫は、﹁回収可能﹂という言葉を使っている。 128 すべてが回収可能だといふ理論が私の裡に生れてゐた。時と共に刻々と成長し、又、刻々と衰へるところ の、﹁時﹂に閉じこめられた囚人である筈の肉体でさへ、回収可能であることが証明されたのだから、﹁時﹂そ のものでさへ回収可能だといふ考へが生じてもふしぎはない。/私にとつて、時が回収可能だといふことは、 直ちに、かつて遂げられなかつた美しい死が可能になつたといふことを意味してゐた。//私は戦士としての 能力を夢みはじめてゐたのである。 彼は、古い箱のなかから、自分がかつて大戦未期二十歳の青年として応召した折りに書かれた﹁遺書﹂を取り 出して眺める。その﹁遺言﹂は、﹁一、御父上様/御母上様/恩師清水先生ハジメ/学習院並二東京帝国大学/ 在学中薫陶ヲ受ケタル/諸先生方ノ/御鴻恩二謝シ奉ル﹂に始まり、学友、弟妹に宛てた文章が続く短いもの で、最後は﹁天皇陛下万歳﹂でおわる、﹁型にはまりすぎ﹂たものである。そして入隊にそなえ遺髪、遺爪とと
もに持っていったものが、即口帰郷で持ち帰ったものであることが回想されるが、こんな遺書を若造に﹁らくら くと﹂書かせた﹁別の大きな手﹂について思索している。いわば自分でないもう一つの自分が心のなかに住んで いた頃の日本。そして現代日本では二度とこういう風な遺書が書かれなくなっていることの空虚さを述べる。 「一 カに遺書は多分これ一通で十分であらう。﹂︵﹁私の遺書﹂︶このような心の動きにも、時間を﹁回収可能﹂とす る、主観的、演劇的錯覚を見ることが出来る。﹁昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そ こを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければ ならない欲求が生まれてきてゐた﹂と三島由紀夫は書く。︵三、・.一六事件と私﹄︶あの大きな断絶を、どうして連 続して生きてこれたのだろうか、が大きな謎として残り、それが他の多くの者をわけ隔てるのである。﹁たんぽ ぽ﹂で、その目に見えぬ巨大な断絶からの圧迫をあえて描こうと挑んだ川端康成にとっても、こうした三島由紀 夫は、理解の外にあったはずである。 三島由紀夫の自衛隊体験入隊は、昭和四十二年から始まる。特例の許可を得て、平岡公威の実名で、四月十二 日から五月二十七日まで、先ず﹁久留米陸上自衛隊幹部候補生学校付﹂、次いで﹁富士学校滝ヶ原分屯地普通科 ︵歩兵︶新隊員教育隊付﹂﹁中級幹部課程﹂﹁習志野第一空挺団基本降下課程﹂﹁東千歳駐屯地第七師団﹂で、実 戦的な集中教育を受けた。一方、民族派雑誌﹁論争ジャーナル﹂とのコンタクトが出来、三島側に﹁民丘ハ組織﹂ の計画があることが打ち明けられた。十月に﹁国土防衛隊﹂草案をつくり、財界に援助を働きかけるが、結局自 己資金でと決定する。十二月五日には、航空自衛隊百里基地から、超音速戦闘機に試乗した。この間、三島由紀 夫の意のあるところを付度してか、参議院選、都知事選の立候補の打診を受けたが、その都度辞退した。なおこ 129 <ft’的美P識ヒ日本
の年から空手に入門する。 130 一方、戦後十分に民主化の改革が行なわれていなかった諸大学では、次第に矛盾が露呈され、昭和四十二九 六五︶年には、全国五十六大学で、学館・学費闘争が個別に始まり、やがて一九六七年の街頭闘争によって、学 園紛争の枠を超え、全共闘運動、大学革命闘争へつながっていった。これがピークを迎える昭和四十三年は、医 学部処分問題に端を発する東大闘争、授業料不正使用に対する日大闘争を代表として、ストライキ、バリケード 封鎖により、四十四年にかけて多くの大学が機能麻痺に陥っていた。世界的にも、フランス五月革命、西ドイ ツ、アメリカの大学や街頭での同質の激しい闘争が行なわれていた。三島由紀夫の﹁国土防衛隊﹂案は、こうし た国内治安の動揺を背景とし、積極的にこれにかかわろうとするものであった。国土防衛隊員の育成には、自衛 隊による教育が必須であり、三島案によれば、その指揮命令系統は内閣総理大臣直属で、公認され制度化された ものになるはずであった。 昭和四十三年。三月、﹁祖国防衛隊﹂と名を替えたグループに、日本学生同盟所属の主に早稲田大学の学生二 十名を集め、共に、陸上自衛隊富士学校に一ヵ月体験入隊し、最初の訓練を行った。六月には、街頭での訓練。 七月から八月にかけて三十三名の隊員と同様の体験入隊。十月に、隊の名を﹁楯の会﹂に改称、隊員の制服を制 定した。同じ長期の体験入隊は、翌四十四年に二度、四十五年春にも一度実施された。その他に、四十四年暮れ には、習志野の第 空挺団で、五十名の隊員と一日だけの落下傘降下のための予備訓練を受け、その日に、楯の 会の﹁憲法研究会﹂を組織し、憲法改正案をつくることが指示された。
このように、三島由紀夫は、着々と、自分と行動をともにする保守系の学生集団を集め、組織訓練を施すこと に成功していった。しかし、そのことで自衛隊の好意ある協力は受けることができたものの、自衛隊そのもの を、少しでも自分の行動計画のために動かすことには、多くの接触と説得にもかかわらず失敗した。三島の小軍 隊は、マスコミでもしばしば取り上げられたが、その真意は問われることもなく、好奇の目で見られるだけであ った。そうでなくとも三島由紀夫は、いろいろの、人目をそばだたせる変わったことをやる、多芸な小説家とし て有名であったのだ。しかしコ緒に立つ﹂ことを断られた自衛隊に対する失望は、憎悪と紙一重にまで高まっ た。楯の会とともに動く自衛隊がほしかった。しかしこれは、三島由紀夫自身が織り込みずみの、無理難題とい ってよかった。 東京大学全学共闘会議の討論集会に招待され、駒場の教養学部九百番教室で約]千人の学生と討論したのは、 昭和四十四年五月十二日だった。学園封鎖が方々で行なわれ暴力が日常化していたから、万一にそなえ短刀をひ そませ、又、教室の前の方の列には、楯の会の会員が座っていた。二時間半の討論を終わって書かれた﹁砂漠の 住民への論理的弔辞﹂によれば、その討論のために用意された題目は、次の五点である。 一 暴力否定が正しいかどうか 二 時間は連続するものか非連続のものか 三 三派全学連はいかなる病気にかかつてゐるのか 四 政治と文学との関係 五 天皇の問題 131 <’;fiY J.芒識こ日本1
これらの論点は、全共闘派独特の挑戦的反論の波に翻弄されながらも、確かに討論の対象として記録に残って いる。その個々の検討は次章にゆずるが、なかなか噛み合わぬ言葉を根気よく聞き分け、ともかく討論にしてい るのは、三島由紀夫であることがわかる。いっさいの党派からの自由を前提とし、自主講座を学問・思想の再構 築の場とした全共闘の思想があって、はじめて実現したディスカッションだったが、三島由紀夫が実にしっくり と、そういう場の討論者になって、世代のちがう大衆を相手にしている姿に、われわれは一人の勇者を見る思い を禁じ得ない。 ︵未完︶ 132