井上円了の青少年時代の思想 : 誕生から長岡学校
まで
著者名(日)
三浦 節夫
雑誌名
井上円了センター年報
号
21
ページ
51-86
発行年
2012-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002861/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja井上円了の青少年時代の思想
誕生から長岡学校まで三浦節夫ミ⋮き・
﹂ 生誕の地 井上円了︵以下、円了という︶は﹁明治の第二世代﹂の一人と歴史家から評価されているが、円了は自伝を執 筆しなかった。その理由は、﹁人以レ有レ伝為レ伝、我以レ無レ伝為レ伝﹂︵−︶ということであり、ここに、円了の思 想の一面がみられる。多岐の分野にわたる業績を残しながらも、円了の全体像がとらえにくい一因は白伝が残さ れなかったことにもよる。 円了は安政五年二月四日︵西暦一八五八年三月一八日︶に、長岡藩西組浦村︵越後国三島郡浦村︶、現在の新 潟県長岡市浦に生まれた。生家の慈光寺は東本願寺︵真宗大谷派︶の末寺で、父・円悟、母・イクの長男として 誕生した。明治一六年に新潟県へ提出された﹁神社寺院仏堂明細帳﹂の慈光寺の文書によれば、慈光寺の由緒は ﹁万治元年五月廿五日創立、開基慶伝タリ﹂︵2︶と記されている。万治元年は西暦一六五八年であるから、慈光 寺は円了が生まれたときにすでに二〇〇年の歴史があった。母のイクも、真宗大谷派の寺院の出身である。イク の寺は同県中魚沼郡千手村の栄行寺といい、さきの﹁神社寺院仏堂明細帳﹂には、﹁永禄年中創立開山法教タ リ﹂︵3︶と記してあり、その創立は慈光寺より四〇年以上前となっている。 51井上1’」・J’の青少聯旅の思想東本願寺を本山とする真宗大谷派は、二万力寺、一〇〇万門徒﹂と称する日本の仏教界を代表する大教団で ある。西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派とともに、本願寺教団として合わせてみれば、日本最大の教団で あり、真宗の教線は全国各地に張り巡らされ、多数の民衆を門徒として組織・教化している。円了はこのような 大教団の末寺の長男に生まれたのであるが、井上鋭夫氏は戦後の著作で、真宗寺院とその長男の意味をつぎのよ うに明らかにしている︵4︶。 ﹁農村を遠望すれば三つの屋根が天空高くそびえている。役場と学校と寺院がこれである。それは後生を保証 し先祖の冥福を祈る寺院の社会的地位をそのまま表現している。﹁村長さま﹂﹁先生さま﹂﹁お寺さま﹂が旧日本 の農村の指導層を構成していたのである。村落社会では、寺院が久しく集会所であり、身上相談所その他の社会 施設でもあり、御先祖様の霊の鎮まるところであり、老人の安息所でもあった。村人たちは真宗寺院︵もとは道 場︶を運営する﹁惣中﹂11﹁講中﹂の構成員であり、世俗的身分に制約されてはいたが、彼等は阿弥陀如来や御 開山の前では互いに御同朋御同行であった。/寺院の住職は、僧侶の女犯がきびしく罰せられていた時代でも、 真宗だけは肉食妻帯が当然とせられ、数百年にわたる明らかな家系を誇り、庄屋とならぶ村の名門として今に血 統を伝えた。寺院の嫡子は﹁御新発意︵こしんぼち︶﹂として、とくに人々から嘱目された。村の老婆が御新発 意の成長ぶりに目を細めて語り合うのは、彼らが将来本尊や開山や御先祖様を、そしてまた彼等の後生を、同行 と弥陀とに代わって守ってくれるからにほかならない。﹂ 後述するように、浦村という農村的性質の強い村の真宗寺院の位置づけは井上鋭夫氏が指摘したとおりであ る。その真宗寺院の長男に円了が生まれたことは、自動的に後継者を意味する﹁候補衆徒﹂︵教団の正式な身分 ではこう称する︶となり、次期の住職として育てられることを意味する。寺院内はもちろん、門徒︵檀家のこと 52
を真宗ではこう呼ぶ︶たちの中でも、幼い円了を﹁御稚児様﹂と呼んで特別に対応する慣習があるのはすでに明 らかにされたとおりで、生まれてすぐ社会的な地位を持っていた。そして、﹁父は真宗門下大谷派の寺院に住職 たりしをもって、余の春秋一〇歳までは宗門の教育を受けたり﹂︵5︶と、円了が記しているように、幼年時代は 真宗の寺院において次期住職、つまり村の指導者・有識者にふさわしい教育を受けたのである。真宗大谷派の関 係者によれば、その教育とはつぎのようなものである。 一般的に朝夕の﹁勤行﹂が重視され、そこでは正信掲、念仏、和讃六首が勤められる。また、年中の法要儀式 では無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の﹁三部経﹂が読請される。このとき、後継者は住職にしたがい同じく読 諦することによって経典を覚え、法話を聴くことによって教えを知り、儀式をみることによって作法を身につけ ていくのである。そして、寺院の生活の中で、住職と門徒の村人との社会的な対応の仕方を学ぶのである。 晩年になって円了は、宗教的な信仰については終始一貫して真宗を奉じ、諸宗諸派を公平にみても、﹁信仰の 一段に至りては、真宗の外にいまだ余が意に適するものを発見せず。これ一〇歳以前家庭において受けたる教育 の仏縁が、内より自発せしによるならんか。﹂︵6︶といい、幼児から少年時代までの寺における真宗の教育が生涯 における信仰の基になったことを明らかにしている。 このように円了が真宗の信仰を持ちえたことの背景の一つに、父の慈光寺、母の栄行寺の規模︵門徒数︶も関 係しているだろう。新潟県は真宗大谷派にとって、寺院数が多く、全国の三〇教区︵行政区︶のうち、高田、三 条の二教区あり、慈光寺が属しているのは後者の三条教区である。三条教区は、全国で第五位の寺院数を有する 大教区である。そして長岡を中心とする地域は真宗大谷派の﹁宗教都市﹂の一つであり、寺院が集中していると ころでもある。寺院は規模によって、俗に大坊、中坊、小坊と呼ばれる。寺院の集中している地域では、大坊と 53判円・’靖少鞘代の思想
小坊には主従のような支配関係が成立している。さきの﹁神社寺院仏堂明細帳﹂によれば、慈光寺の門徒戸数は 一二〇戸あり、母方の栄行寺も三九三戸となっていて、どちらも中坊、あるいは中坊以上の規模であり、他に依 拠しないで独立自営の寺院運営が可能な規模であった︵7︶。このような社会的経済的な基盤が円了の人間性や思 想の形成にとって、少なからぬ意味をもっていたと考えられる。 さて、真宗寺院は財産によって維持されるよりも、門徒の生活からの拠出によって成立している。慈光寺のあ る浦村はどのようなところであったのか、信濃川の中流域に面したこの村で少年時代を過ごした円了は、一六歳 のとき︵明治七年︶に、浦村のことをつぎのような漢詩で詠んでいる︵8︶。 詠浦村 村在信濃江水辺 南隣岩野北宮川 人民土地両多大 商店農家共富全 其 二 村在長岡西 前臨信濃水 南界岩野下 北接道半裡 人家三百姻 浦村を詠ず ほと 村は信濃江水の辺りに在り 岩野に南隣し北は宮川 ふた 人民と土地と両つながら多大 商店と農家と共に富全 村は長岡の西に在り 前は信濃の水に臨む さかい 南は岩野の下に界し 北は接す道半の裡 けむり 人家 三百の姻 54
土地一方里 全部皆平坦 更不見山峙 四時園林緑 風景実堪視 ここで詠まれているように、 店と農家、合わせて三百戸という大きな村であった。 河川交通の拠点となる港︵東浜︶ るという。このように、浦村は農業、商業、漁業で栄え、風景にも恵まれていたところが円了の生誕の地である。 土地 一方里
全部皆平坦
そばだつ 更に山の峙つを見ず しいじ 四時 園林 緑なり 風景は実に視るに堪う︵以下、省略︶ 浦村は信濃川の中流の西側にあり、藩の城下町の長岡の対岸に位置している。商 漢詩の﹁其二﹂の省略部分を読むと、農村である一方で、 があって、交易によって遠近に通じていた。また、信濃川での漁業も盛んであ 二 修学︵その一 漢学︶ 安政五年は明治維新の一〇年前にあたる。円了は真宗寺院の後継者としての教育を受けていたが、一〇歳の 年、すなわち慶応四年‖明治元年から漢学を学ぶ。円了のその後も含めた修学過程がわかっているのは、二つの 自筆の履歴書があるからである。一つは現在の新潟県立長岡高等学校記念資料室に所蔵され、もう一つは﹁屈蟻 詩集﹂という自作の漢詩集に記されている︵9︶。この二つの履歴書について、ここでは、前者を履歴書︵一︶、後 者を履歴書︵二︶と呼ぶが、二つの履歴書は記述の詳細が異なっていて、二つを合わせるとより正確な内容とな る。また、この青少年期において、円了がどのような思想を持っていたのか、そのことをうかがい知る資料とし て、﹁襲常詩稿﹂﹁詩冊﹂などの漢詩集がある。この漢詩集には時代の変化に関する円了の反応が示されている。 55井1・1’1了硝舛蝋の思・e!履歴書︵二︶の冒頭に、円了は﹁明治元年三月ヨリ同二年四月迄同県下片貝村医士石黒忠徳二従テ支那学ノ素 読ヲ正シ洋算ノ階梯ヲ授カル﹂と記している。同県とは新潟県、忠徳は忠恵が正しい。円了が初めて教育を受け た石黒忠恵は、弘化二年︵一八四五︶年に父・平野良忠の任地である岩代国︵福島県︶梁川に生まれた。忠恵の 父は次男で、幕府の代官手代になるために平野家に入ったのであるが、忠恵の誕生から八年後に江戸に戻って勤 務していた。しかし、その父は忠恵の数え一一歳で死去し、さらに母も一四歳で亡くなった。それから、忠恵は 片貝村の伯父のもとで石黒姓に復して相続人となったが、一九歳のときに、蘭学者の佐久間象山に教えを受け、 二〇歳で武士を捨てて医師になる決意をして、江戸へ出ている。苦学して医学と洋学︵蘭学︶を習得し、さらに 江戸医学所に入学し卒業後は同所の句読師となっていたが、維新の変を避けるために、米沢を経て、故郷へ帰っ て私塾を開いたのが、慶応四年のことであった。 石黒の塾は、二組に分かれていて、円了は第二の組であった。この第二の組では﹁医・僧または農家の子弟な どを上級として、経書・歴史・算数を教え、これにはひとしお力を入れて尊皇心を注入﹂︵−o︶したと、石黒は書 いている。このような教育を円了はどのように受け止めたのであろうか。円了はつぎのように回想している︹11︶。 ﹁先生洋風を好み、机をもって椅子にあて、生徒をしてこれに鋸せしめ、机二、三脚を重ねてテーブルに代用 し、生徒をしてその上に書籍を置かしむ。ときどき試験あり。成績優等のものには、その賞与として西洋紙一枚 を授かる。余も両三度、西洋紙の恩典をになえるを記憶す。そのうれしさ、今日の学生が銀時計、金時計の賞与 を受くるよりもはなはだし。﹂ 石黒は二一二歳の若き西洋医であり、一〇歳の少年の円了に与えた影響の大きさを、この回想が物語っていると おりである。石黒を﹁良師﹂と慕う円了は、一時間ほどの徒歩通学を苦にしなかったという。こうした円了の学 56
習の熱心さを、石黒はつぎのような思い出として語っている︵12︶。 ﹁或る朝大雪で、通学して来る者もなかったのですが、戸外にとんとん履物の雪を落とす音がしました。妻は、 あれは、きっと襲常︵円了 引用者︶です、と言って戸を開けると、果して井上襲常でした。また、襲常が鼻 緒の切れた下駄を手に提げて来たことがありましたので、妻が、なぜ鼻緒を立て直して穿いて来なかったか、と 問いますと、そんなことをしていると、時間が遅くなって、先生の講義を聞きはずすといけないから急いで跣足 でやってきました、といいました。実に井上は子供の時から学問に熱心で、心がけが他と異なっておりました。﹂ このような、円了の回想と石黒の思い出の二つを読むと、それは一つの事柄の表裏を表しているように見るこ とができる。青年教師の石黒と少年の生徒である円了と間には、教育を媒介とした﹁感応﹂があったことがわか る。円了は石黒の教育によって、深い目覚め︵自覚︶を行っている。石黒の思い出にある、大雪の朝のこと、裸 足で通学してきたことの二つのエピソードは、円了の謹厳実直な性格を物語るものとみることができるが、その 見方以外に、ものごとに深く惹かれたときに懸かれたように思索し行動する円了の姿を表していると言った方が いいだろう。 石黒は尊王壌夷の思想の持ち主であった。それが、佐久間象山と出会い、佐久間から﹁世界の状勢はかような 訳であって、西洋の学問の進歩は恐るべきものである。足下ぐらいの若者は充分我が国の学問をした上、更に西 洋の学問をなし、そしてそれぞれ一科の専門を究めることをせねばならない﹂︵13︶と言われ、擁夷の方法を論破 されて転換し、そして、石黒は武士を捨て西洋医になったのである。生徒の円了たちに対して、青年教師の石黒 は﹁ひとしお力を入れて尊皇心を注入した﹂という。 円了が石黒の塾に通っていた間の九月、長岡藩と新政府との戦争があり、長岡という城下町が焦土となって、 57)目’円了の紗年蹴の思想
長岡藩は敗北する。この戦争は明治維新の一つであり、石黒にはその意味は理解できていた。円了は藩の敗戦と いう形で維新を体験するが、尊皇思想を持つ西洋医の石黒が、この戦争を教育の素材として、日本の状況、時代 の変化、日本と世界の関係を話し、西洋の学問の必要性を何らかの形で伝えたことは十分に考えられる。このよ うに、円了の思想の出発点の一つは一〇歳のとき、石黒という教師と長岡藩の敗戦によって形成されたのであ る。石黒は明治二年の春、維新の戦争が収束するのを見て、再び上京する。このとき、明治に改元され、天皇を 迎えた江戸は東京と改められていた。石黒は新政府へ出仕する。 石黒の塾がこのようにして閉鎖されたあと、ほどなくして円了は戊辰戦争後に浦村に寄寓するようになった藩 儒者である木村鈍里から漢学の教授を受ける。木村は天保二︵一八三一︶年に長岡藩が有能な子弟を江戸に留学 させた際に、選ばれた三人のうちの一人であり、江戸の朝川善庵の塾に学んだ。その後、藩校の崇徳館の﹁都 講﹂となって儒学を講義し、能書家としても知られていたが、戊辰の戦争以後、浦村の慈光寺と道を隔てた所に 住むようになっていた。 履歴書︵二︶には、﹁同︵明治 引用者︶二年八月ヨリ五年十二月迄同県下長岡旧藩木村鈍翁二就テ支那学 ノ意義ヲ問フ﹂と、円了は記している。木村鈍里から本格的な漢学の教育を受けたのは三年余りである。その教 育がどのようにして行われたのか、円了は一つの漢詩でそれを示している︵14︶。 慈貴雑吟 こう 浦里開費集小児 浦里饗を開けば小児集う し し 読書終日勉孜孜 書を読むこと終日 勉むること孜孜たり 午前共諦支那語 午前共に支那語を舗し 58
﹁慈光費﹂ 藩で儒者をつとめた木村鈍翌から漢学を学習し、 歳︶の漢詩で、文明開化には内外国家の学を修めることが必要であると考えていたことがわかる。 連作があり、そこでこの学校の概要がうかがえる。 は二十五六名。目指すべき教育目標も、 慈光寺にこのような学校が設けられた背景には、 慈光寺の第一四世であるが、 ラレ且ツ熱心二各地ヲ布教セラレタリ﹂︵16︶と言われ、 円悟も教団の教育事業にかかわっている。 で仏教や真宗の教えを学び、 円了の父や母にはこのような教育を重視する考えがあり、 たので、明治という新時代の直後に 円了の漢学は石黒忠恵と木村鈍隻による教育が基礎となっている。 午後相伝英米詞 新施罰刑懲惰慢 常窮道理教愚痴 早成内外国家学 要立文明開化基 蟹とは﹁慈貴﹂ 午後には相伝う 英米の詞 新たに罰刑を施し惰慢なるを懲し 常に道理を窮めて愚痴なるに教う つと 早に内外国家の学を成し もと 文明開化の基を立てんことを要む と呼ばれた、円了の生家の慈光寺に設けられた学校である。この塾では午前は長岡 午後は英米の詞を勉強したという。円了はこの明治五年︵一五 この漢詩には ﹁校長格の木村鈍里も入れて教師は少なくとも三人。生徒数 明治という新しい時代にふさわしいものであった﹂︵15︶と言われている。 円了の父と母の理解があったものと考えられる。父の円悟は 慈光寺の第一二世の円実は、﹁讃勧ト称シ博学ニシテ僧侶ヲ三條二集メテ教鞭ヲト このような教化者の系譜は円了の父にも継承されていて、 母のイクの出身寺である栄行寺も、江戸時代には﹁京都の本山の学寮 帰国後にこの地方の教学振興をになった勧学者を輩出した﹂︵17︶という歴史がある。 また、慈光寺の総代の高橋家は進歩的な大地主であっ ﹁慈光費﹂のような教育事業が行われたと考えられる。 その内容を、円了は履歴書︵一︶に記して 59 井L凹」メの青少{i時代の思想
いる︵著者名は原文のままである。以下同じ︶。石黒の塾では、およそ一年間で﹃孝経﹄、﹁学記﹄、﹃大学﹄、﹃中 庸﹄、﹃論語﹄、﹃孟子﹄、﹃周易﹄、﹃毛詩﹄、﹃尚書﹄、﹃礼記﹄、﹃文選﹄の=の書物を学んだ。木村からは三年余り の間に、﹃論語﹄、﹃孟子﹄、﹃春秋左氏伝﹄、﹃古文孝経﹄、﹃大学﹄、﹃中庸﹂、﹃詩経﹄の講義を受け、その他に、読 書では﹃三体詩﹄、﹃唐詩選﹄、﹃古文真宝﹄前書・後書の六冊、会議では﹃蒙求﹄、﹃論語﹄、﹃孟子﹄、﹃国史略﹄、 司馬遷﹃史記﹄の五冊、質問では﹃日本外史﹄、﹃正文章軌範﹄、﹃続文章軌範﹄、﹃孔子家語﹄、﹃日本政記﹄、﹃世 説﹄、﹃荷子﹄、﹃春秋左氏伝﹄の八冊、独調で﹃春秋﹄、太宰純﹃和語要領﹄、﹃古事記﹄、南郭﹃文笙﹄、﹃東京土 産﹄、﹃万国新話﹄、エリテツ﹃地球説略﹄、ワシン﹃博物新編﹄、福沢諭吉﹃西洋事情﹄初編・外編・二編、箕作 麟祥﹃勧善訓蒙﹄の一二冊、この中には重複もあるが、合わせて三八冊に及んでいる。土田隆夫﹁井上円了の長 岡時代﹂︵﹃井上円了センター年報﹄第一八号所収︶には、木村の漢学教育が明らかにされている。 ﹁読書﹂とは素読のことである。﹁開講﹂とは講義のことである。﹁会議﹂とは会読・輪講・輪読のことである。 輪講は﹁長岡藩国漢学校﹂での教授法で、﹁各人教育﹂︵個別教育︶を目指して取り入れられた授業方法である。 ﹁質問﹂とは藩費で﹁質問生﹂と呼ぶ上級の門生の課程に相当する段階での、より深い学習を意味する。﹁独訥﹂ はいわば総合的な仕上げの学習である。このように、円了は藩貴レベルの最高の漢学教育を受けていたのであ る。 さて、基本が漢学にあったので、漢籍が記されているのは当然であるが、﹁独諦﹂の中で目立っているものは 福沢諭吉の﹃西洋事情﹄で、初編、外編、二編とすべてを読書している。この中で、﹁文明開化とは何か﹂とい うことを初めて知ったであろう。それを中心に、﹃東京土産﹄﹃万国新話﹄﹃地球説略﹄﹃博物新編﹄などをも読 み、円了は先の漢詩に詠んでいるように、﹁内外国家の学を成して、文明開化の基を立てること﹂という、新時 60
代の目標を感じたのであろう。この明治元年から四年余りの漢学の修学を終えて、 習とした洋学へと転換する。その転換の過程には少なからぬ曲折があった。 つぎに﹁慈光蟹﹂で初歩的学 三 修学︵その二 洋学の初歩︶ 明治新政府が全国の学校制度の創設に着手したのは、明治五年九月の﹁学制﹂を頒布からである。円了が﹁慈 光費﹂での漢学の修学を終えたのは同四年一二月であり、円了が学校制度に則った新教育を受けるには時間的な ズレがあった。そのため、明治六年、一五歳になった円了は、しばらく内田正雄﹃輿地誌略﹄、准水大顛子﹃角 毛偶話﹄、福沢諭吉訳述﹃世界国尽﹄、箕作﹃万国新史﹄、福沢﹃学問勧﹄を読書し、寺院の法務を手伝って過ご したのであろう。石黒忠恵や木村鈍臼又から四年余りにわたって教授された漢学の教育は当時の知識人の基礎教養 であり、円了は父からの宗門の教育と合わせて、基本的な教育を終えたことになるが、それが先の漢詩に詠ん だ、明治という新時代の﹁文明開化﹂へ対応するものではなかったので、その後の進路はすぐには定まらなかっ た。履歴書︵一︶には、﹁五月二十九日ヨリ八月上旬マテ高山楽群社へ入学栗原氏ヨリ受業﹂と、円了は記して いる。慈光農の終業から五カ月が経ってから、円了は始めて英語の塾へ通学したのである。そのことをつぎのよ うな漢詩に詠んでいる︵18︶。 夏日到高山洋学校作 夏日 高山洋学校に到るの作 りゅう さ 一笠一蓑一布衣 一笠一蓑一布衣 負書朝暮共往帰 書を負いて朝暮共に往帰す 人言終日成何事 人は言う 終日何事をか成すと 61 州上円∫のF’1少年時代の思想
我立講堂唱恵微 我は講堂に立ちて恵微を唱う この詩でいう高山洋学校とは、履歴書︵一︶にいう高山楽群社であり、この高山とは信濃川を挟んだ浦村の対 岸にある高山︵現長岡市高山町︶であろうと推測されて、現地で栗原氏による塾があったのか確認したが、未詳 に終っている。ただ、漢詩では﹁朝暮共に往帰す﹂とあるので、自宅から通学できた範囲内である。村人は一五 歳になった円了が書物を背負って毎日でかけ、何を行っているのか、分からない。そこで、円了に問うている。 円了は講堂︵教室︶で﹁恵微﹂を唱えているのであると答えている。この﹁恵微﹂とは、﹁AB﹂のことであり、 すなわち英語を習っていることを指しているのである。 円了が本格的な英語教育を受けた始めは、明治六年のこととなる。履歴書︵一︶の同年の﹁洋書﹂には、﹃小 語綴︵スペルリング︶﹄、ヨニヲン氏﹃読本︵リードル︶﹄、コロネル氏﹃小地理書﹄、サアゼント氏﹃第一読本﹄ ﹃第二読本﹄という書名が記されている。まず、ABCのアルファベットを習い、続いて﹃読本︵リードル︶﹄を 六月から七月まで、﹃小地理書﹄は七月下旬から、さらに﹃第一読本﹄﹃第二読本﹄を習っていたのである。 このように円了は漢学から英語へと転換したのであるが、この学校は五月下旬から八月上旬と三カ月で終って いる。なぜ円了の英語学習が初歩の途中で終ったのか、円了が九月から何をしていたのか、それを知る資料はな い。進路はまだ定まっていなかったようである。翌明治七年の元旦の漢詩はこのような円了の心を詠んだもので ある︵ー9︶。 一月元旦作 一月元旦の作 と いん 隣鶏声裡斗回寅 隣鶏声裡 斗は寅を回り こうじゅつ 明治七年甲戌春 明治七年甲戌の春 62
いんじゅんこそく 未覚因循姑息夢 未だ因循姑息の夢より覚めざるに すで あした 已迎文化日新農 已に迎う 文化日々新たなるの農 この漢詩は﹃詩冊﹄と題された新しい詩集の巻頭の一詩であり、﹁屈蟻 井上 円了 作焉﹂と名前が書き付 けられている。﹁屈嵯﹂とは、尺蟻︵尺取虫︶が身を屈するさまを言った言葉で、﹃易﹄繋辞伝から出たものと言 われる︵20︶。身を屈するのは、屈することにより、次にはさらに大きく伸びることを示唆している。この明治七 年元旦の漢詩には、その思いが、﹁未だ因循姑息の夢より覚めざるに﹂﹁已に迎う 文化日々新たなるの員﹂とい う言葉に表現されている。円了自身は未だに﹁旧弊﹂にとらわれたままで変化がないが、時代は已に文明開化で 日々新たなる文化が進展しているのである。この漢詩の﹁其二﹂の中では、﹁草堰文明開化風 草は堰す 文 明開化の風に﹂と詠っていて、これほどまでに時代の文明開化が大潮流となっているのに、自己の境遇との懸隔 があり、円了自身はそのことを嘆かずにはいられなかったのである。 しかし、こうした立場を自覚した円了は、文明開化とは何かを求めて、﹁独見﹂つまり自己学習を猛烈に行う のであった。履歴書︵一︶によれば、二月から四月までの三カ月の問に二三冊の本を読んでいる。二月は、﹃新 律綱領﹄、﹃改定律例﹄、会沢﹃新論﹄、福沢諭吉﹃童蒙教草﹄、満川成種纂述﹃台湾紀聞﹄、中村敬太郎訳﹃自由之 理﹄、寧静﹁西洋夜話﹄、片山淳之助﹃西洋衣食住﹄、於菟子訳﹁啓蒙知恵環﹄、寺内章明訳﹃五洲紀事﹄、青木輔 清﹃万国奇談﹄、﹃史略﹄と一二冊に及んでいる。さらに、三月は田中大介纂輯﹃道理図解﹄、瓜生政和﹃西洋新 書﹄初編・二編・三編、﹃世界風俗往来﹄、﹃万国往来﹄、岡田輔年﹃東洋史略﹄、福沢諭吉﹃窮理図解﹄と八冊を ﹁独見﹂している。そして、四月の岡田輔年﹃東洋史略﹄、瓜生政和﹃西洋新書﹄四編や時期未詳の﹃西洋史記﹄、 後藤達三﹃窮理問答﹄までを含めると、読書の激しさがわかる。また、これらの書名をみると、円了の関心が 63 井上円rの青少fl時代の思想
﹁自由﹂﹁西洋﹂﹁万国﹂ いる︵21︶。 題学問勧之文 坐臥書斎春日永 巻箭学問勧之文 説明人間同等事 貴賎賢愚在惰勤 円了は福沢諭吉の している。 ている。 ﹁世界﹂へ向かっていたこともわかる。そして、四月中旬にはつぎのような漢詩を詠んで ﹁人間は同等の存在であり、 円了自身の心の中に、 の定まらない心境をも、 謹 吟 学問の勧めの文に題す 書斎に坐臥すれば春日永し の 巻は箭ぶ 学問の勧めの文 説き明かす 人間同等の事 貴賎賢愚は惰と勤とに在りと ﹃学問勧﹄を前年にすでに読み終えていた。それを再び取り出して読み直し、この漢詩を記 貴賎賢愚の差は学問に励むか怠けるかにある﹂と、福沢の諸説をとらえ すでにこのような思想があって、感応した形で作詩したのであろう。また、進路 その裏に託していたのであろう。つぎの漢詩も、そのような思いを詠っている︵22︶。 すで 已生天下昇平世 巳に天下昇平の世に生まれ 又遇文明開化時 又た文明開化の時に遇う つと 男子早成中外学 男子早に中外の学を成し もとい はか 可謀富国強兵基 富国強兵の基を謀るべし この漢詩では、平和な時代に生を受け、また文明開化の時に遇い、早く中外の学問を広く学び、富国強丘ハの礎 となるべきであると、円了自身が時代のキーワードである、文明開化、富国強兵を強く意識し、内ばかりではな 64
く﹁外﹂の学問を学ぶことを希望していたことがわかる。つぎの﹁初夏村居﹂と題する漢詩︵五言律詩︶ で、浦村での自らの読書に明け暮れる生活を明らかにした後で、つぎのように詠んでいる︵23︶。 難身在窮巷 以徳潤精神 天下文明世 男児憤発辰 早成開化学 要導玩愚民 机には書籍が積みあがり、 ︵町︶にあっても仁徳の精神を磨き、 自立の道へと教化しようと願っている。 の中 いえど 身は窮巷に在りと錐も 徳を以って精神を潤さん 天下文明の世 とき 男児憤発するの辰 つと 早に開化の学を成し もし 玩愚の民を導かんことを要めん 訪問客もほとんどない生活の中で、円了は銀難辛苦にも耐えて、むさくるしい世間 文明開化の世の中で、男児として一刻も早く新しい学問を学んで、民衆を 四 修学︵その三 洋学校入学︶ すでに円了は、前年には高山楽群社で英語の初歩という洋学教育を受けていた。しかし、それは途切れ、翌年 の二月から四月までは自宅にこもって独りで読書しながら時代を学ぼうとし、洋学への強い関心がこの春に詠ん でいる漢詩には感じられるし、またその漢詩の裏側には洋学教育を受けられないことへの焦りが表れていた。こ うした熱意が、ほどなく長岡の洋学校への進学となって実現する。同校の﹁学校口誌﹂には﹁四月三十日 兵太 郎[野秋兵太郎 引用者] 一、第十六区小六区浦村慈光寺住職井上円悟長男井上円了同道入来、円了入門入 65井H,1 Vの青少塒代の思想
塾之義申込有之﹂︵24︶とあって、父円悟に伴われて円了が洋学校への入学を申し込んだのである。高山楽群社を 終えてから一年近い時間が経過していた。このとき、長岡の洋学校は、創立期の﹁長岡洋学校﹂から﹁新潟学校 第一分校﹂へと校名を変更している。父とともに申し込んでからほどない五月五日に、円了は新潟学校第一分校 へ入学し、寄宿舎で生活するようになった。その当日のことを、円了はつぎのように詠んでいる︵25︶。 始到長岡洋学校作 始めて長岡洋学校に到るの作 まち 独到長岡市 独り到る 長岡の市 アごつ 始遊洋学費 始めて遊ぶ 洋学蟹 講堂終日坐 講堂に終日坐し しき 頻諦恵微声 頻りに諦す 恵微声 始めて長岡の洋学校に一人で来たときの円了の気持ちが、この漢詩にはよく表現されている。すでに父親とと もに、この学校へ入学する手続きは済んでいたが、浦村の慈光寺を離れ一人で長岡の町に到り、希望していた洋 学校へ実際に足を踏み入れて講堂に座り、一人で恵微声、つまりABCとアルファベットを頻りに発音して、自 らの喜びを身体で現していたのである。 これまでの円了の経歴を述べるにあたり、長岡の洋学校について触れてこなかったが、実は円了が漢学を終業 した時点が、長岡洋学校の創立の時期であった。維新の戦争で敗れた長岡藩は、新たな時代へ対応する政策の第 一に人材養成を掲げていた。藩校の崇徳館︵文化五年創立・一八〇八︶は、明治元年に自然廃校となったが、翌 二年に国漢学校が創立した。しかし、四年の廃藩置県を受けて国漢学校は廃校となった。そして、翌五年に三島 億二郎を学校掛とし慶応義塾の学頭をしていた旧藩士の藤野善蔵を教師として、新たな時代の人材を養成するた 66
めに﹁長岡洋学校﹂が同年二月二日に設立されたのである。当初の入学生は一四名であったという。ところ が、柏崎県が廃止されてから、新潟県が県下の洋学校の統一を強制してきたために、教師の藤野は一年で辞任 し、明治六年一一月に﹁新潟学校第一分校﹂と改称されたのである。円了が入学したのはこの新潟学校第一分校 となってからである。 明治六年はまだ長岡洋学校時代であるが、信濃川を挟んだ対岸の町である長岡に一大教育事業として洋学校が 設立されたことは、河川交通でつながっていた浦村にも伝わっていたはずであろう。しかし、円了は同年に高山 楽群社で英語の初歩を学習するという経過をとっていた。﹁男子早成中外学 可謀富国強兵基 ︵男子早に中外の 学を成し 富国強兵の基を謀るべし︶﹂と漢詩で詠っていた円了の心中には、外の学ー洋学への熱望があったこ とはすでに述べたとおりである。その進学先としてもっとも望んでいたのは長岡洋学校であろう。 円了の進路が紆余曲折した事情について、長岡洋学校から現在の長岡高等学校までの百年の歴史を編纂した土 田隆夫氏はつぎのように推測している。長岡洋学校は藩校以来の学統を保持していて、原則的には長岡藩士11士 族の子弟について入学を許していた。洋学校の入学者はとくに厳しく旧藩士の子弟に限定していた。しかし、長 岡洋学校の経営が円滑に行かなくなったときから、その原則的立場を緩和し、近郷の豪農や寺院の子弟も入学さ せるようになった。このことは初期の入学者には必ず﹁入学保証状﹂の提出が必要であったが、円了の場合はそ の保証状がないからである。なお、円了はすでに高山楽群社で英語を学んでいた実績も入塾の条件の一つに挙げ られよう。 年齢的には、藩校以来、一四、五歳から入学できた。円了でいえば、明治五年の慈光蟄で木村鈍里から漢学を 終えた時点が数え一五歳であったから、長岡洋学校の創立時には学齢に達していたし、随時入学制度でもあっ 67 井卜円」’の青少a時代の思想
た。しかし、明治維新後も続いていた身分的制限によって円了が洋学校に即入学できなかったのが実情であろ う。土田氏が指摘したように、創立期の洋学校の経営は変転とした。入学者数をみれば、明治五・六年の二年間 は六八名、七年は=二名、八年は四九名、九年は二八名、一〇年は四一名、一一年は三一名となっている︵26︶。 円了が入学した明治七年は一三名ともっとも少ない人数で、土田氏がいう学校側が校名を新潟学校第一分校と変 更せざるを得なかったし、また経営上から入学条件を緩和せざるを得ないような状況にあったことを示してい る。 洋学校では英語と数学の教育を行っていた。入学してから三カ月後の七月に、一六歳になった円了はその学校 生活を﹁校中偶成 七時食朝飯 八時受日業 九時万国史 十時洋算法 常難在書案 終年耽惰遊 早晩学芸成 威名立全州
十九八七其
時時時時二
L
洋算の法 万国史 日業を受く 朝飯を食し と題して、つぎのように詠っている︵27︶。 寄宿舎に住んでいた円了は、 学︶を学んでいた。 常に書案に在りと難も ふけ 終年惰遊に耽らん 早晩学芸を成し 威名を金州に立てん 朝食・休憩を終えた八時から授業が始まる。九時から洋学、十時から洋算︵数 ﹁常に書案に在りと錐も 終年惰遊に耽らん﹂、常に机に向かっていても怠惰な心に終ってい 68たという。それというのも、同題の漢詩の一で、つぎのように詠んでいたからである︵28︶。 自到長岡三月余 長岡に到りてより三月余 三月有余学洋書 三月有余 洋書を学ぶ は 愚身堪趾才情拙 愚身才情の拙なるを趾つるに堪えん いえど むな 難重時口寸功虚 時日を重ぬと難も寸功虚し この詩では洋学校での三カ月間の洋書の学習・理解が思ったように進まず、授業の内容がわからず、時日を重 ねても進歩がなく、自分の資質に問題があるのではないかと述べている。同題の其三の漢詩ではつぎのように詠 んでいる︵29︶。 坐講五洲史 坐して五洲の史を講じ 臥暗地理書 臥して地理の書を暗ず かな 貧哉吾輩学 貧なる哉 吾輩の学 ナベから 須是惜三余 須く是れ三余を惜しむべし 坐って五洲の歴史を学び、うつぶせになって地理を暗唱しているが、自分の学問はなんとも貧弱で、学問に当 てるべき三つの余暇をすべて注いで勉強しなければならないと、円了は洋学校での初期の学習状況を記してい る。希望して進んだ学校に、即時には適応できなかったことを示している。だが、円了は努力して学習を?、つけ ていた。その自分をつぎのように詠っている︵30︶。 冬夜偶成 はな 一天月苦夜光明 一天の月 苦はだ夜光明し 69制11rの青少働代の思想
こま 満地霜濃秋気清 満地の霜濃やかにして秋気清し 灯火試開英仏史 灯火試みに開く 英仏の史 読尽不覚到深更 読み尽くせば覚えず深更に到る 冬に至ろうとする秋も深い夜に、円了は灯火のもとで、英仏の史書を読んでいる。読み終われば、すでにすっ かり夜も更けているという状況であったという。また、この詩の﹁其二﹂には﹁開書又感性愚痴 書を開けば又 た性の愚痴なるを感ず﹂とし、洋書の原書をなんとか理解しようと繰り返し努めている姿がみえる。 履歴書︵一︶によれば、円了がこの年に授業で学んだ洋書はつぎのとおりである。パーレー﹃万国史﹄、ミッ チェル﹃大地理書﹄、クイケンブス﹃小米国史﹄、同﹃大米国史﹄、同﹃究理書﹄、ピネヲ﹃文典﹄、マルカム﹃英 国史﹄、グードリッチ﹃仏国史﹄、同﹃羅馬史﹄の九冊である。円了は高山楽群社で英語の初歩を学んだが、長岡 の洋学校では後述のように、すぐに原書で歴史や地理を読んでいくのであるから、理解が進まなかったのも当然 であろうが、しかし、円了は自分の中に反省点を求め続けて、日々取り組んでいたことが漢詩集から読み取れ る。そして、長岡での生活には満足していたようで、つぎのような漢詩を詠んでいる︵31︶。 長 岡 越後長岡開化地 越後長岡は開化の地 文明日盛月繁華 文明は日々に盛にして月々に繁華なり ポゆ がゆ 蔵王港口汽船口 蔵王港口汽船口 かまびす 渡町市街人力嘩 渡町市街人力嘩し この詩をみれば、明治七年の長岡の文明開化が日進月歩で進んでおり、港には汽船が、町には人力車が往来し 70
てと、長岡が繁栄を続けていることを円了は実感している。 川蒸気船は、明治初期から信濃川をさかんに往来するようになり、新潟港から長岡港まで、従来の和船では三 日間かかったのが、蒸気船では上り一一時間、下り八時間と、革命的に変わったのである。ガランガランと音を 立てて往来する様子は住民の注目の的となり、船内は連日満員だったといわれる。円了の文明開化の実感が分か る。 すでに記したように、少年時代から求め続けた文明開化が、長岡の町の変貌であり、そして自らは原書で洋学 を学ぶことで実現しているのである。そのため、明治八年の元旦の漢詩には、一年前の旧習にとらわれて苦悩し た自己の姿は詠われていない︵32︶。 一月元旦 三百六旬尽又新 三百六旬尽きて又た新たなり 忙中暗遇雪中春 忙中暗に遇う 雪中の春 今朝万戸賀年客 今朝万戸 年を賀するの客 しンき 欲奪寒威酌酒頻 寒威を奪わんと欲して酒を酌むこと頻りなり 一年が過ぎて、新たな年の初めの日に、忙しさの中で春を迎えたが、元旦の今朝は年賀の客で賑わい、皆寒さ を防ぐために酒を盛んに酌み交わしている。このように、明治八年の元旦の風景を詠むばかりで、円了の心の 中にわだかまるものはなかったようである。この元旦と題する詩の﹁其三﹂ではつぎのように現状を詠んでい る︵33︶。 其 三 71 月上円了の・’i少年時代の思想
和風散雲霧 和風 雲霧を散じ 天日輝乾坤 天日 乾坤に輝く みなぎ 全国春明治 全国 明治春り こうむ 万民蒙聖恩 万民 聖恩を蒙る この漢詩では、新春の風が初日に晴れをもたらしたことに対比して、全国に明治の新しい文明がみなぎってい きわたっていること、それは万民がみな天子の皇恩を蒙っていることを意味するのだと詠んでいる。明治という 新しい時代の文明開化11天皇による恩恵という理解が円了にはある。この聖恩に報いるには何をなすべきか、こ ういう意識が明治の時代の人間としての円了が生涯持ち続けたものでもあるが、すでにこの一七歳前後の漢詩に はこの問題意識が詠みこまれているのである。つぎの漢詩は、入学から一年が経つ五月のものであろう︵34︶。 述 懐 去歳到長市 一季在校中 常論古今史 未見寸分功 身得逢開化 心難脱旧風 如吾繋鞄輩 空作白頭翁 去歳長市に到り 一季校中に在り 常に古今の史を論ずるも 未だ寸分の功を見ず 身は開化に逢うを得たるも 心は旧風を脱し難し ひさご 吾は鞄に繋がれし輩の如く な 空しく白頭の翁と作らん 72
長岡に来て一年になり、洋学校で学び、いつも古今の歴史を論じているが、未だに少しも身についていない。 文明開化の世の中に出会うことができたのに、気持ちは旧風を脱しきれていない。私は食べられることもなくぶ ら下がっているひさごのように、無用のものである。このまま空しく年老いていくのだろうか。円了の一年後の 心境はこのようなものであった。円了の精神の中には、文明開化と旧習という対比があり、その対比が﹁文明開 化とは何か﹂を問い続ける原動力になっている。明治の初年にあって、円了にこのような精神が芽生えたこと は、明治という時代を創造する世代として成長していたことを表している。 履歴書︵一︶によって洋学校での学習をみると、つぎのような原書を講読している。ウーレン﹃ヒシカルジォ グラヒー﹄、ウエルソン﹃万国史﹄、チヤンブル﹃経済書﹄、ウエランド﹃大経済書﹄、マルカム﹃日耳曼史﹄、 ウェルス﹃究理書﹄の六冊である。また、数学は入学以来、﹁平算﹂﹁分数﹂﹁比例﹂﹁少数﹂﹁諸算﹂﹁代数学﹂ま でと広く習っている。履歴書︵一︶を読むと、入学からおよそ一年が過ぎた頃から、授業へ対応できるようにな り、その余暇に﹁独見﹂が可能になったことを表していて、その書名が記されている。中村敬太郎﹃立志編﹄、 ﹃元明史略﹄、﹃老子経﹄、安井息軒﹃弁妄和解﹄、小幡篤次郎訳﹃英氏経済書﹄、﹃国法汎論﹄と、これらは読書し た月が分かっているので、その順に紹介したが、月不明では﹃東京新繁昌記﹄、﹃近世史略﹄、﹃近世紀聞﹄、マル チン﹃性理略論解﹄、洋書の﹁独見﹂ではスウェル﹃羅馬史﹄と一二冊に及んでいる。それだけ学力が向上した のであろう。 五 修学︵その四 洋学校の授業生︶ 履歴書︵二︶によれば、新潟学校第一分校で教育を受けたのは、 ﹁七年五月ヨリ九年七月迄﹂の二年ニカ月間 73 井トド」∫の青少年時代の思、想
である。履歴書︵一︶の﹁受業﹂﹁独見﹂の書名の記載は明治八年末で終っていて、それから九年七月までの様 子は分からない︵35︶。洋学校での始めて学んだ英学の授業について、後年の長岡中学の和同会でつぎのように 語っている。︵36︶ ﹁私が此校に這入たのは、洋学をする為め、乃ち英語を学ばうと云ふのであった。然し其頃は、今日の如く完 全ではない、辞書と云ふても緑なものはなく、長岡には求めたくても勿論ない、東京なり、横浜なりへ、こ れ、、の本があるかと問ひ合わせ、其れでもまだ、、決定する事は出来ない、何部あるか、と云ふ様の所まで知 つて、漸く其れで、教科書に用いると云ふ有様で、実に書物を得るにしても容易のことではないのです﹂ ﹁私の這入た時、﹁パーレー﹂の万国史をやつて居つた組があつたので、先づ其の組に這入れと云ふ訳であつ た。﹂ ﹁其頃、一般に、始めに文典、﹁スペルリング﹂、最後に﹁リードル﹂と云ふ風であつたが、私はそうでなく、 直ぐ﹁パーレー﹂の万国史からやり出した。尤も其後一年程、東京から或る西洋人が、漫遊に来たのを先生に頼 んで、二三ケ月﹁リードル﹂を学んだ、﹁パーレー﹂の万国史がすむと﹁ミユート﹂の﹁ウヰルソン﹂の万国史、 ﹁ギゾウ﹂の文明史、など盛に読んで、之が読めれば英語は先づ卒業と云ふ有様であつた。﹂ その月に終業した円了は、﹁九年八月ヨリ十一月迄長岡洋学校工数学授業三雇ハレ九年十ニヨリ十年六月迄長 岡中学工支那学授業三雇ハレ在勤仕候﹂と、履歴書︵二︶に記しているが、この授業生となった頃の校名を、円 了は誤って記している。長岡の洋学校の歴史は、明治五年一一月に長岡洋学校として創立され、一年後の明治六 年一一月から新潟学校第一分校と改名され、それが明治九年七月に、県の方針により新潟学校の本校・分校とも に廃止になった。これによって同七月から独立の私立学校となり﹁仮学校﹂の名称で授業は継続された。それか 74
ら四カ月後の同年一一月に﹁長岡学校﹂と改名されたのである。長岡中学校となったのは明治二五年一〇月から である。 したがって、円了はこの﹁仮学校﹂の数学の授業生として初めて採用され、その後の﹁長岡学校﹂では漢学の 授業生として雇用が継続されたのである。受業生として採用されたということは、円了が学力の面で秀でていた からであろう。長岡洋学校以来、同校は洋学と数学を教科としていたが、長岡学校になったとき、この二科に漢 学を加えたのである。﹁授業生﹂とはどのようなものであったのだろうか。長岡学校の規則によると、校長、教 員、事務掛、この他に﹁教場助手 臨時之を置く 教員の指導を受け教授一切の雑役を掌る﹂とあり、教員の臨 時の助手である︵なお、円了が提出した﹁在校当時の母校﹂という調査表では、﹁明治九年ヨリ教授ノ手伝ヲナ シ且ツ舎監ヲナセリ﹂といい、寄宿舎の舎監を兼務していたようである︶。履歴書︵二︶によれば、授業生とし て働く傍ら、﹁長岡校工転シテハ英書ヲ中野悌四郎越後二間ヒ漢学ヲ田中春回師二謀ル﹂として、洋学と漢学の 学習を継続している。 このように授業生として洋学校に残った円了は、仮学校時代に有志の組織として﹁和同会﹂を創立している。 ﹁学校日誌﹂の明治九年一〇月二〇日に、﹁井上円了により今般和同会設立明廿一日土曜日ヨリ毎土曜日二相催シ 度旨ニテ規則書持出談有之二付許可致し候事﹂とあり、]二日の発会したこの有志の組織には一七名が参加した という。創立者は円了ら八名であるが、会の命名者は円了で、﹁論語ニヨリ和シテ且ツ同スル﹂という意味で、 ﹁和同会﹂と名付けたと、﹁在校当時の母校﹂という資料に記している。 和同会の目的は﹁相互の懇親を厚うし、演説の稽古を、為さん﹂とするもので、この趣旨に賛成したものが参 加する任意の会がもともとであった。その活動において円了は中心的な役割を担い、会務を担当して毎土曜日の 75 片ヒ円了の‘‘テ少年時代の呈ユ想
午後の和同会を開催した。この会は長岡学校時代も存続したが、当時は公開で演説などを行う時代ではなかった ので、演説者は井上円了の外、数名にとどまり、また参加者も大抵同じ者で、時には人数が少なくて開会が困難 な時があったと、﹁和同会沿革﹂には記されている︵和同会は円了が学校を離れてから一時衰退したが、その後 再建されて、生徒自身の自治を重んじる生徒会として現在も新潟県立長岡高等学校に存続している︶。 和同会を組織したように、円了には個人としての知性や精神を重んじる面とともに、それを積極的に社会化し ようとする性格や思想があり、中心となって組織を作る指導者としての活動力をすでに兼ね備えていたことを示 している。仮学校から長岡学校へ校名が変更され、明治九年一二月一日に改めて開校式が時の県令などを迎賓と して挙行された。円了も授業生として参列している。この開校式については、漢詩を作る︵37︶とともに、﹁長岡 学校開業一条﹂︵38︶という記録を、円了は残している。この﹁長岡学校開業一条﹂には、当日の模様の他に、校 長から来賓、教員、生徒の祝辞が記されているが、円了も祝辞の中で、﹁教育により和漢洋の文学を学ぶことは 知識を開き、富国のもととなり、国家の盛衰もその隆替に関する﹂と述べて、教育の重要性を明らかにしてい る。そして、すべての祝辞を書き終えた後で、円了は行を改めて、﹁今ヤ我日本ハ復往時ノ日本ニアラザルナリ﹂ と、明治九年末の気持ちを特記している。ここに、円了の明治の初期における時代認識を強く見ることができ る。 このような時代認識と自己との関係については、長岡学校の開業後に作られた﹁漫成三首﹂という漢詩にも、 つぎのように表れている︵39︶。初めに其一を紹介しよう。 漫成三首 勤智怠愚何異倫 勤智怠愚 何ぞ倫を異にせん 76
万民同等得権均 万民同等にして権を得ること均し や むかし 休言古昔多英傑 言うを休めよ 古昔英傑多しと 彼亦是人我亦人 彼も亦是れ人 我も亦た人なり この漢詩では、勤め励む人間と愚かで怠けている人間も、ともに同じ人間であり、万民は同等にして、等しく 権利を有している。過去を持ち出して、昔は英雄が多かったなどということは意味がない。彼等偉人も人間、ま た私も同じ人間だからである。円了が人間同等論を漢詩に詠んだ初めは、二年前の明治七年の﹁題学問勧之文﹂ であるが、それから洋学校で広く世界の知識学び、平等論をより深く理解し、自己の思想として再確立している ことが、この詩から読み取れる。そして、続いてつぎのように詠んでいる。 其 二 かえ うち 秀菊却生幽谷裡 芳蘭還発僻山中 択賢山豆只措紳士 草葬由来起大雄 この其二では、 し、 り、 指摘する。ここには、 美しい菊も、 賢人がどこから生じるのか、 かえって大人物は民の草葬から生まれてきたのではないか。 きない意義ある存在であることを、 秀菊は却って幽谷の裡に生じ かえ ひら 芳蘭は還って僻山の中に発く えら あ しんしん 賢を択ぶに豊にロハだ措紳の士のみならんや そうもう 草葬は由来大雄より起く 芳しい蘭も、ともに深い谷間や僻遠の山間に咲くものであるということを例示 それを問うている。士大夫のような朝廷の高官から選ぼうとするのは誤りであ 円了はこのように、民間にこそ大人物が育つと 欧米諸国の歴史から得た視点が自己の思想として語られているのであろう。民間が蔑視で 人間平等論の具体例として強調しているのである。さらに其三ではつぎのよ 77 力1円rの青少ll塒代の)忍想
﹁漫成三首﹂ 王といえども異なる特別な血筋がある訳ではないし、 だ。努力すれば高位高官にもなれ、 を凌げば未来が開けることになる。 この﹃詩冊﹂という漢詩集の訳注者である長谷川潤治氏は、この﹁漫成三首﹂と先の﹁題学問勧之文﹂の二つ の漢詩を比較して、つぎのように述べている︵40︶。﹁前掲詩﹁題学問勧之文﹂とこの詩︵﹁漫成三首﹂ー引用者注︶ は基本的に同じ主題を有している。しかし、前掲詩は福沢諭吉の説く言葉そのままに詠われているのだが、この 詩の言葉は円了自身の詩語としてしっかり詩中に収まっている。それだけ思想が内実化されてきたということで 間であり、 円了はこの 万苦又千年 勉焉年少者 怠為奴隷身 勤作措紳士 将相本同倫 王公寧異種 是皆一族人 誰怪普天民 其 三 うに詠んでいる。 誰か普天の民を怪しまん 是れ皆一族の人なるを いずく 王公寧んぞ種を異にせん しょうしょう 将相は本倫を同じくす しんしん な 勤めば措紳の士と作り 怠たらば奴隷の身に為らん 勉めよや 年少の者 万苦又た千年 の最後の詩で、再び人間平等論を高く詠っている。天下の民はすべて皆同種同等の人 また将軍も宰相も本来は同種の人間であるの 怠ければ奴隷の身になるかもしれない。だから、年少の者は勉励せよ、労苦 78
ある。﹂ 円了の思想が長谷川氏のいうように、明治七年から九年までの思索によって培われてより内実化されたこと が、和同会という場を設けて、その思想を表出する﹁演説の稽古﹂を行うことにつながったのであろう。この歳 の最後に詠んだつぎの漢詩も、当時の円了の思想と行動の到達点を表している︵41︶。 雑 詠 と題する詩には、 の川汽船が就航したのは明治七年のことで、 に行き来し、天涯の地へ行くもの隣へ行くような感覚になり、 く交わって、まるで一 の言葉に、円了は明治の文明開化を背景に新しい意味を付与している。 試見文明世 日新又日新 水行依汽船 陸運用車輪 四海皆兄弟 天涯是比隣 昔時他界者 今日一村人 この﹁雑詠﹂ 試みに文明の世を見る 日々新たにして又た日々新たなり 水行は汽船に依り 陸運は車輪を用う 四海は皆兄弟 天涯は是れ比隣 むかし よ そ 昔時は他界者なるも 今日は一村の人 明治の文明と思想がともに進歩する世の中が詠われている。新潟から長岡まで 川には汽船、陸には車輪が走り、世界中に人々が親しく兄弟のよう 昔は無縁な他所の人が、今では同郷のように親し つの村人のようである。この漢詩で使われている﹁四海皆兄弟﹂﹁天涯比隣﹂という古典 とくに洋学によって観念的ではあれ、 79 井]円∫の青少年時代の思想
﹁万国﹂﹁世界﹂を理解したこと、明治の文明開化が現実として進捗していることなどが影響している。少年円了 がこのような時代の変化を身に受け止めながら、一八歳になるまでに思想として着実に獲得した新たしい見方 が、この漢詩には表現されているのである。 80 五 真宗寺院の後継者としての矛盾 ここまで、円了の゜誕生から少年、青年時代の修学と思想の発展についてみてきたが、慈光寺という真宗寺院の 長男に生まれ、次の住職になるという﹁宿業﹂を担っていたことに変わりはない。住職になるにはまず﹁得度﹂ をしなければならない。円了が東本願寺から得度をゆるされたのは、明治四年四月二日である︵42︶。=二歳での 得度というのは教団の開祖親鷺の九歳に行うという慣例からすると、遅すぎるものであった。その間の事情につ いて、円了は晩年につぎのように述べている︵43︶。 ﹁余が長岡にある間、父は余をして将来住職を継がしめんと欲し、余に謀るに得度式を本山に請願せんことを もってせり。余の意これを好まざるをみて、ひそかに願書を呈出して許を得、のちにその由を告げ、いわゆる事 後承諾をもとめられたり。故に余の僧籍に入りたるは自ら意識せざりしところなり。﹂ このような経過があって、円了の得度は教団の慣例から遅れたのであるが、円了が﹁余の僧籍に入りたるは自 ら意識﹂しないことであったということは、自身の関心や思想が教団や寺院の慣例に従わないところにあったこ とを示している。そのことについて、明治二〇年、二九歳の時の著書﹃仏教活論序論﹄で、つぎのように明らか にしている︵44︶。 ﹁余はもと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の教育をうけたりといえども、余がひ
そかに仏教の真理にあらざるを知り、顧を円にし珠を手にして世人と相対するは一身の恥辱と思い、日夜早くそ の門を去りて世間に出でしことを渇望してやまざりしが、たまたま大政維新に際し一大変動を宗教に与え、廃仏 殿釈の論ようやく実際に行わるるを見るに及んで、たちまち僧衣を脱して学を世間に求む。﹂ この文章はすでに記したように、二〇歳代末にまとめて書かれたものである。慈光寺に生まれ生活していた当 時を象徴的に表しているが、円了が仏教や真宗の教えに対して疑問を持ったということよりも、葬式・法事のい わゆる葬式仏教的な儀式中心の寺院生活を懐疑的に見ていたことを示しているのであろう。明治維新が三大変 動を宗教に与え、廃仏殿釈の論﹂が実際に惹起されたと記している。筆者はこれまで、長岡藩の敗戦と石黒忠恵 の塾での出会いという二つのことを、円了の明治維新の体験として取り上げてきたが、実は円了にはもう一つの 経験があったのである。それが明治新政府による国教を仏教から神道にするという宗教政策の転換であった。 それは明治に改元される前の慶応四年四月に一挙に発令された。このときのいわゆる神仏分離令が、円了の いう廃仏殿釈に進んだのである。その実際の廃仏殿釈という仏教弾圧の動きが最初に起こったのが佐渡であっ た︵45︶。一〇月二一日に、判事が諸宗本寺住職に対して、五三九寺を八〇寺へと一カ月以内に廃絶または統合す べしと命令したのである。佐渡には真宗大谷派の寺院だけで四八力寺あり、統廃合が現実のものとなったわけで ある。、このような強制的命令と寺院の混乱する情報は、佐渡が属する三条の教区内にも伝わり、同じ教区にあ る慈光寺も知り、一〇歳の円了も事態の急変を感じたことであろう。この佐渡の廃仏殿釈は各宗派の反対と、命 令した判事の解任によって、明治三年には自然解消になった。 しかし、この事件は慈光寺という仏教寺院に生活する円了の心の中に、何らかの影響を与えたことは確かであ ろう。すでに紹介した﹃仏教活論序論﹄に﹁廃仏殿釈の論ようやく実際に行わるるを見るに及んで、たちまち僧
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k円了の青少II時代の思想衣を脱して学を世間に求む。﹂と、円了が書かざるを得ない仏教の衰退は、明治維新以後に強まって行ったから である。 円了が父から宗門の教育を受けたにも拘わらず、定められた﹁得度﹂に逡巡した事情は、一方で文明開化が進 展し、他方で廃仏殿釈が進行するという背反するものによって起こったのである。父からの事後承諾で得度した 円了は、漢学の修学を終えてから、時代の思潮である洋学を求めて、旧習を離れて新たな思想を吸収することに 集中し、洋学校の授業生という職を得るまでになったが、この過程において、一方では人間平等という文明開化 の思想を身につけたが、他方では真宗寺院の後継者であるという逃れ切れない﹁宿業﹂を自覚せざるをえないと いう自己矛盾を自らの中に見出していたことになる。長岡時代の円了はその矛盾を解決できないまま苦悩として 心の中に抱え込んでいたのである。 82
(一
1注
)一
︵2︶ ︵3︶ 井上円了﹁付録 第一編 信仰告白に関して来歴の一端を述ぶ﹂﹃活仏教﹄︵﹃井上円了選集﹄第四巻、一九九〇年︶ 四九五頁。同選集の引用文に誤りがあったので、原文の通りに訂正した。本論文における井上円了の著作の引用 は、便宜上、現代表記した﹃井上円了選集﹄からとする。同選集に未収録のものは原本から引用する。なお、以下、 同選集からの引用にあたっては、﹃選集﹄と略称する。 拙稿﹁井上円了とその家族 生家の慈光寺と栄行寺を含めて﹂︵﹃井上円了センター年報﹄第一五号、二〇〇六年︶ 一一五頁。明治一六年の神社寺院仏堂明細帳は、現在、新潟県立文書館に所蔵されている。拙稿では、慈光寺と栄 行寺の文書を翻刻したので参照されたい。 同右、一一八頁。︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 井上鋭夫﹃本願寺﹄講談社学術文庫、二〇〇八年、一七頁。 井上円了﹁付録 第一編 信仰告白に関して来歴の一端を述ぶ﹂︵前掲﹃選集﹄第四巻︶四九五頁。 同右、四九六頁。 新潟県へ提出した﹁神社寺院仏堂明細帳﹂に記載された戸数はそれなりの正確さがあったと考えられる︵ただし、 拙稿﹁井上円了に関する郷土における調査報告﹂︵﹁井上円了研究﹄第一号、昭和五六年、一三〇頁︶の中で、慈光 寺の総代であった高橋友二郎は﹁檀中は百三十∼四十あるんです﹂と述べている︶。 真宗大谷派の教団は、⊃万力寺、一〇〇万門徒﹂と称されているが、寺院ごとに門徒数は異なるけれども、そ の正確な統計的な門徒戸数を知ることは難しい。今川覚神﹁大谷派の末寺、教師、及ひ門徒﹂︵﹃教界時言﹄第一四 号、一八九七年 一二月、六三頁︶によれば、明治三〇年の総門徒数は﹁四九七万人﹂余りで、これを明治二八年 の人口﹁四↓五五﹂万人に対して、その割合を求めると、人口の一二%に相当する。 真宗大谷派が全寺院を対象とする﹁教勢調査﹂を行ったのは、日本の﹁国勢調査﹂の翌年、大正一〇年︵一九二 一︶である。拙稿﹁既成仏教教団の構造 真宗大谷派の教勢調査に基づいて﹂︵﹃宗教研究﹄第三五〇号、二〇〇 六年一二月︶によれば、この大正一〇年の結果は、寺院の総数が八三八〇力寺、檀信徒の総数が一三六万戸余りに なっている。門徒戸数の↓力寺平均は一六二戸である︵三〇頁︶。同論文では、寺院の規模を平成]二年︵二〇〇 〇︶の教勢調査によって説明しているが、俗に大坊、中坊、小坊を大まかに分ける場合、平均から前後数十戸が中 坊であろう。慈光寺はこの中坊に該当し、その寺院運営を独立的に行うことが可能であったと考えられる。なお、 門徒戸数が五〇戸以下の寺院は三割り近くあり、これらが小坊と言われ、逆に大坊とは栄行寺のような門徒戸数三 〇〇以上を指すのである。 井上円了﹁詩冊﹂︵新田幸治他編訳﹃甫水井上円了漢詩集﹄三文舎、二〇〇八年︶六二∼六三頁。この漢詩集で使 われた﹁甫水﹂は井上円了の号で、生誕地の浦村に因んだものである。この漢詩集は﹁襲常詩稿﹂﹁詩冊﹂﹁屈蟻詩 集﹂の3つをまとめたものである。以下では、﹃漢詩集﹄と略称する。なお、円了は幼名を岸丸という。春の彼岸 に生まれたからである。つぎに詩集名にある﹁襲常︵ともつね︶﹂と改名した。襲常の名は﹁﹃老子﹄五十二章を出 典﹂︵長谷川潤治﹁﹃甫水井上円了漢詩集﹄解題﹂︵﹃漢詩集﹄、二二頁︶とする。その後、得度して父の円悟の名 83 “」円了の青少{1時代v)思想
︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵14︶ ︵15︶ ︵16︶ ︵17︶ ︵18︶ をついで﹁円了﹂という法名を名乗るようになった。 二つの履歴は﹃東洋大学百年史﹄資料編1・上、三∼六頁、六∼八頁に翻刻されている。前者の﹁履歴書﹂は明治 八年作、後者の﹁履歴﹂は明治一八年六月作として区別されている。前者の作成は長岡学校に﹁代用教員たる授業 生﹂︵長谷川潤治、前掲論文、﹃漢詩集﹄、一二三頁︶に採用される際のものであろうと考えられる。後者は、氏名 の後に﹁明治十年十月 十八年六月﹂とある。前の﹁明治十年十月﹂は東本願寺の教師教校の在学中を示し、後の ﹁十八年六月﹂は東京大学文学部哲学科の卒業時を示している。この後者の﹁履歴﹂は、﹁履歴書 自明治元年 至 四年末﹂と書いて、続いて漢書、英書が記されているが、これらはほとんど長岡学校時代までのもので、﹁自明治 元年 至四年末﹂以外のものが多く、その書名は前者の履歴書とほとんど重なるだけで、﹁明治十年十月 十八年 六月﹂の事項はまったく記されていないなど、後者の履歴書は未完のものと見られる。ただし、この後者の履歴は、 長岡時代の事項の年月日が正確に記されているという特徴がある。 石黒忠恵﹃懐旧九十年﹄岩波書店、昭和五八年、九]頁。 井上円了﹃円了茶話﹄︵﹃選集﹄第二四巻︶一五二頁。 石黒忠恵、前掲書、九二頁。 同右、 一〇六百ハ。 井上円了﹁襲常詩稿﹂︵﹃漢詩集﹄︶五〇頁。﹁慈費﹂﹁慈光費﹂は、明治五年の﹁学制﹂に先立つ学校で、浦村だけ ではなく、周辺の村をも対象としたものであったが、﹁学制﹂発布後、この地域11第一六大区小六区の一五力村は 慈光寺で行なわれていた教育の運営経験を生かして、土地を慈光寺の総代である高橋九郎が提供し、明治七年に外 新田校として、第三中学区の第二五番小学校として開設が許可された︵﹃越路町史﹄通史編 下巻、越路町、平成 =二年、八三頁︶。 ﹃漢詩集﹄五〇頁の長谷川潤治の注による。 拙稿﹁井上円了とその家族 生家の慈光寺と栄行寺を含めて﹂、前掲書、一二一頁。 同右、一一八頁。 井上円了﹁襲常詩稿﹂︵﹃漢詩集﹄︶四八頁。 84