• 検索結果がありません。

音楽(唱歌)教科書

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "音楽(唱歌)教科書"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1 明治初期の唱歌教育 1872(明治5)年8月に「学制」は制定されたものの、音楽に関する問題は、「当分之ヲ欠 ク」としながら「唱歌」「奏楽」という字句を用いている。つまり、「学制」第27章に下等小学 教科として「14唱歌当分之ヲ欠ク」、下等中学教科として「16奏楽当分欠」と記されている。 1879(明治12)年には音 おん 楽 がく 取 とり 調 しらべ 掛 がかり が発足しているが、それに先立ち伊 い 沢 さわ 修 しゅう 二 じ が愛知師範学 校附属幼稚園で遊戯唱歌を実施していた。取調掛発足の前年に、伊沢と目 め 賀 か 田 た 種 たね 太 た 郎 ろう の二人が 唱歌教育の教育的効果について、文部大輔田 た 中 なか 不 ふ 二 じ 磨 まろ あてに教育上申書を提出している。 ここに一つの問題がある。「唱歌」「奏楽」といった教科名の名付け親が誰であるかという点 である。「唱歌」は文字通り歌うことであるが、和語としては本来雅 が 楽 がく の楽器の旋律を特殊な 譜で歌うことを意味していたもので、「奏楽」は、鳴 なり 物 もの として使われてきた言葉である。 この二つの言葉が教育科目の中で使われる前、1873(明治6)年発行の『小学読本』巻一に は軍隊のラッパを「音楽」として扱っている。「音楽」「唱歌」「奏楽」といった用語が、音楽 取調掛設立以前にすでに使われていたことは興味深いことである。誰の考えによったものかは、 つまびらかではないが、古来、日本に「音楽」という言葉は見当らない。「楽」「歌舞」「管弦」 「奏楽」という言葉は、伝統音楽、殊に雅楽や歌舞伎に使われてはいるものの、「音楽」という 言葉が取調掛の設置後に、洋楽、伝統音楽の両方に使われるようになった。 「学制」の制定の時に、「唱歌」はすでに教科の中に入っていたものの「当分之ヲ欠ク」扱 いを受けたのは、指導者と教材がなかったこと、教育方針が固められていなかったことが原因 になっていた。伊沢と目賀田の二人は、その後アメリカに留学し、ブリッヂウォーター師範学 校とハーバード大学で勉強し、音楽をメーソンに学んだのである。1875(明治8)年から3年 の留学を経て伊沢は帰国し、1878(明治11)年東京師範学校長に就任、翌年には「音楽伝習所 設置案」を文部省に提出している。 この設置案に従って、メーソンを迎え、音楽取調掛を設置した。伊沢は文部卿の寺島宗則に、 「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること。将来、国楽を興すべき人物を養成すること。諸 学校に音楽を実施すること」を提案している。こうした伊沢の提案を受けながら、実際にはメ 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷

音楽

(唱歌)

教科書

(2)

要都市での学校における唱歌教育は、ままならぬ状態であった。 1881(明治14)年5月に文部省は「小学校教則綱領」を発し、その第24条に、 「唱歌初等科ニ於テハ 容易キ歌曲ヲ用ヒテ五音以下ノ単音唱歌ヲ授ケ 中等科及高等 科ニ至テハ 六音以上ノ単音唱歌ヨリ漸次複音及三重音唱歌ニ及フへシ 凡唱歌ヲ授ク ルニハ児童ノ胸 きょう 膈 かく ヲ開 かい 暢 ちょう シテ其健康ヲ補益シ 心情ヲ感動シテ其美徳ヲ涵養センコト ヲ要ス」 としている。更に、教育上の指導要領ともいうべき「唱歌例解」の中には、 一 進学ノ快情ヲ作用スルコト 其歌(進メ進メ) 二 人物ヲ愛スルノ心情ヲ養フベキコト 其歌(霞カ雲カ) 三 父母大地ノ恩ヲ思フノ心ヲ存セシムヘキコト 其歌(大和 や ま と 撫 なで 子 しこ ) 四 父母ヲ愛慕スルノ心情ヲ養フヘキコト 其歌(思ヒ出レバ) 五 朋友 六 古今聖主ノ恩 七 忠臣 八 尊王 九 愛国 と続き、唱歌は音楽を愛する心を育てるのではなく、「教学聖旨」の精神、つまり儒教的道徳 教育を音楽を使って行う方向に向っていった。 2 明治初期の唱歌教員の養成 こうした教育が実際に行われたのは、音楽取調掛編の『小学唱歌集』が発行された1881∼82 (明治14∼15)年のことであった。その実態は西洋楽譜を理解できる先生の居たところに唱歌 教育が限られており、「欠ク」としていたところが多かったようである。そのために、各府県 による唱歌教育指導者の育成が急に熱を伴って強くなっている。 京都府の例を挙げてみると、京都府は1882(明治15)年師範学校取調員であった三吉茂と京 都府師範学校生であった伊藤よねの二人を官費で音楽取調掛に出向を命じ、翌年取調掛を卒業 して帰洛した二人を現場で教育に当らせた。三吉は下京第二小学校に赴任し、『小学唱歌集』 初編と1878(明治11)年に式部寮雅楽科で編纂された『保育唱歌』を使って唱歌教育を実施し ている。又、京都府高等女学校では、1882(明治15)年3月に風琴(オルガン)1個を音楽取 調掛に調達依頼しており、それにより高等女学校で伊藤の教育によって「唱歌ヲ伝習セシム」 とある。1883(明治16)年には附属小学校を設置し、師範生徒の実習授業の場にするなど、進 んで音楽科に取組もうとした。1886(明治19)年には更に唱歌教育を広くとり入れるため、京

(3)

都府尋常小学校教員50名余りを3ヶ月にわたって招集し、三吉が理論を担当し、伊藤と赤松藤 技の2名が実地指導を教導して、府内における唱歌教育の普及につとめている。 京都府同様に福島県でも教員2名を選び、音楽取調掛に派遣し、理論と実技の両方を学ばせ、 1年間の教育課程を終了するや、師範学校と附属小学校で現場教育にあたらせた。こうした地 域的な教育差は、指導者の存在に左右されることがあり、事実、1886(明治19)年森有礼文相 時代に公布された「小学校令」では、唱歌教育は「土地ノ状況ニヨッテハ」欠くことのできる 教科となっていた。 唱歌教育の低迷期にあって国体主義と忠君愛国主義は、教育の基礎となっていた。1890(明 治23)年の「教育勅語」の発布、翌年の「小学校祝日大祭日儀式規程」の公布は大きく音楽教 育に関係してくる。いわゆる儀式用唱歌の登場であり、「殊ニ小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式 ヲ行フニ当リ 用フル所ノ歌詞楽譜ハ主トシテ尊王愛国ノ志気ヲ提起スルニ足ルヘキモノ」と している。「学制」の制定以来、文部省が音楽教育の方針としてきたものは、いわゆる芸術歌 曲の採用でもなく、前記のように、和洋の音楽美を中心に結びつけたものでも、新しい国楽を 作る人格の形成を目的としたものでもなかった。国策のままに音楽教育がゆれ動いている状態 を見ると、国策と政治、政治と教育の深いかかわりを実感として受けとめるばかりである。 3 明治期の唱歌教科書 この頃の小学校唱歌集には、国歌はなく、林 はやし 広守 ひろもり 作曲とウエブ作曲の「君が代」があり、 いずれとも認められていなかったが、1893(明治26)年8月の文部省告示第三号をもって「君 が代」(読み人不知、林広守作曲)を国歌とすると公示している。 明治初期の『小学唱歌集』の歴史をふり返ってみると、伊沢、目賀田、メースンによる音楽取 調掛の苦心の理想が、教育法の変転と共に変化して行くようすが見えてくる。文部省音楽取調掛 編によって、『小学唱歌集』初編 が1881(明治14)年(図1)に、続いて『小学唱歌集』第二編 が 1883(明治16)年(図2)に、『小学唱歌集』第三編が1884(明治17)年、『幼稚園唱歌集』が1878 (明治20)年(図3)に、刊行されていった。 そして、教育勅語発布後の1891(明治24)年 には忠君愛国の色濃い『帝国唱歌』の発行を みることになる。 『小学唱歌集』の内容としては、音階、音 譜、拍を基礎として教え、歌唱に関する練習、 聴唱法を用いた教授法が採用され、単旋律か らカノン、二部合唱、三部合唱への体系的な 訓練に工夫が見られる。又、日本音階を用い 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図1『小学唱歌集』初編 1881(明治14)年

(4)

た曲(筝うた)や外国の民謡、芸術曲の採用な ど、伊沢、目賀田の苦心がにじみ出ている。こ こには、手さぐりながら洋楽の技法をとり入れ、 共通の記号としての音楽の書法を理解させ、そ の上我が国の伝統音楽にも目を向けさそうとす る学問的態度がうかがえる。しかし、こうした 苦心も国政のなり行きに従い、その中に忠君愛 国の思想を盛らざるを得なかった。 4 唱歌教育と師範学校 音楽教育の初期には、師範学校が主要な役割を果したことは、京都、福島の2府県に限らな い。熊本県では1884(明治17)年、岐阜県では早くも1879(明治12)年に女子師範学科と普通 女学校に唱歌を正科としてとり入れている。両県とも教師を音楽取調掛に派遣し、研修の上県 内で音楽教育の実際に当らせている。各県の音楽教育への熱意は相当に強く、音楽取調掛へ講 師の派遣を依頼し、又、県内においても郡部から中央に講師の依頼が相次いで、両県では夏休 みを返上して5、6週間にわたる特別講習会を設け、教員の育成に当っている。 1883(明治16)年発行の中学校、師範学校教科書『音楽問答 楽典』(文部省編)(図4)な どもこうした要求に応えたものであろう。実際、音楽取調掛に毎年何名かの研究生を送るのは 大変な事で、又、取調掛側もそれ程多くの学生を受け入れることも出来なかった。1年又はそ の程度取調掛において研究した学生を、伝習生としてあつかい、各県庁所在地で講習会を開い て、教員の養成に当らざるを得なかった。 音楽に関する基礎知識の教育と共に、楽器の奏法に関する研修や、楽器を要求する声が各地 に広まっている。数県が楽器として風琴(オルガン)の斡旋を取調掛に依頼している。京都府 図3 『幼稚園唱歌集』 1887(明治20)年

(5)

には日本でも一、二番目の風琴が 来たという話であり、岐阜県は風 琴に加えてヴァイオリンを購入し たいと申し出ており、青森県では 1888(明治21)年に教育展覧会が 開かれ、その折に「音楽に関する 諸器の展示」が行われている。 こうした音楽教育の実体を見る と、文部省音楽取調掛の設置と教 科書の発行の後も、教育の実際と しては各府県で相当のバラツキが みられたのも当然である。 滋賀県における唱歌教育がいつから実施されたかについては不明である。ただ1889(明治22) 年に設立された滋賀県私立高等女学校に、本科と家事専修科の二科が設けられ、その二科には 設立の当初から「音楽」が学科目に組みこまれていたことは、1890(明治23)年5月29日発行 の官報に記録されている。その上、官報には「唱歌速成科ハ前年ト異ナルコトナシ」と明記し ていることから、1889(明治22)年ごろから音楽が正科に組みこまれていたものと、判断して 良いだろう。 おわりに 明治維新から自由民権思想の移入、それにまつわる様々な新思潮を受けとめるのに、まず国 民に平等な教育を受けさせることが急務であった。こうした国民の教化こそ明治政府の一番苦 心したところでもあったろうし、開国後急に西欧文化が流入してくるのに対応することも苦心 したところであろう。まず国としての形を整え、民衆にその国の意識を植えつけ、国民として の自覚をさせることが肝要であった。 明治憲法の発布以前、文部卿の時代に教科目の一つに「音楽」を加えたことは、伊沢、目賀 田両氏の大いなる功績であることは間違いない。アメリカの教育制度をいかに理解していたと はいえ、国情の違う日本に「音楽」を根づかせることは難しかった。明治以来今日に至るまで の音楽の教科書や手引き書の歴史は、その難しさを切実に語ってくれるものである。その歴史 は今後のわが国における芸術教育の教え方に多くの示唆と反省を与えるものであろう。 (佐藤 治子) 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図4 『音楽問答』1883(明治16)年

参照

関連したドキュメント

731 部隊とはということで,簡単にお話しします。そこに載せてありますのは,

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、

ピンクシャツの男性も、 「一人暮らしがしたい」 「海 外旅行に行きたい」という話が出てきたときに、

個別の事情等もあり提出を断念したケースがある。また、提案書を提出はしたものの、ニ

○池本委員 事業計画について教えていただきたいのですが、12 ページの表 4-3 を見ます と、破砕処理施設は既存施設が 1 時間当たり 60t に対して、新施設は

○事業者 今回のアセスの図書の中で、現況並みに風環境を抑えるということを目標に、ま ずは、 この 80 番の青山の、国道 246 号沿いの風環境を

あの汚いボロボロの建物で、雨漏りし て、風呂は薪で沸かして、雑魚寝で。雑

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場