近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場
著者名(日)
白川部 達夫
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 史学科篇
号
37
ページ
111-164
発行年
2011
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002432/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場
白川部 達 夫
はじめに 下野国都賀郡西水代村田村家は、一九世紀には旗本渋谷氏の割元名主を勤め、在村肥料商として活動した豪農であった。 ロ 同家の肥料の仕入れ過程とここからうかがえる肥料流通の状況についてはすでに検討した。 関東の魚肥流通では、一八世紀末に下総関宿が江戸・浦賀に並ぶ集散地の地位を占めるようになる。同地は、銚子より 利根川をさかのぼり、江戸川へ入る分岐点にあり、関東平野の中枢部にあたった。このため江戸に送られる干鰯・〆粕な どをもとめて周辺の農民が購入に訪れた。当初、干鰯・〆粕を扱う商人は百姓売りを中心にしたが、在村に肥料商が成長 すると、浜方荷主と肥料商の仲介を行う、問屋になっていった。こうした動向のなかで、田村家も関宿干鰯問屋と結んだ 在村肥料商として成長していったのであった. 以上をふまえて、ここでは同家文書にもとついて、肥料販売の実態を明らかにし、一九世紀前半の後進地の地域市場の 展開を検討した.い.・ 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場二
田村家の肥料販売の動向
A文化・文政期 ヨゴ 田村家に残るもっとも古い肥料販売の記録は、文化一〇年︵一八二三と翌一一年の﹁粕干鰯売高覚帳﹂である。その 概要を表1に示した.、文化一〇年二八二三三月から八月末までの記事のある帳面で、この年は〆粕二一三俵、干鰯二 六〇俵を販売している.また文化二年︵一八一四︶は、二月から七月で〆粕二七七・五俵と干鰯五九俵を販売していた ことがわかる。販売金額は文化一〇年︵一八二三が二二四両余、文化二年︵一八一四︶が一八八両余であった..表2 の文政七年︵一八二四︶にも一年分の﹁大福帳﹂が残されているが、これでは〆粕︸四二俵、干鰯二七俵、糠三三二・五 く 俵で総額は↓三八両余となっている.、 その年によりかなり差があるが、全体として、文化一〇年︵一八一三︶より干鰯の販売量が減少していることが注目さ れる.この傾向はつぎに見る天保期以降でも確認できる.、したがって文化末年から文政期にかけて干鰯から〆粕への転換 が進んでいたということができよう また文化一〇、一一年は帳簿が魚肥販売のもので、七、八月頃までで帳簿が終わっ ているが、表2の文政七年︵↓八二四︶の大福帳は、その後の糠販売の記録も残されていた。糠は麦作などの肥料として、 秋口に販売されたが、その販売量は三巳C俵台になっていたことがわかる.糠は地糠と区別されており、下り糠であった、 販売先は、西水代村を中心に近隣の富田宿がこれに次いでいた−他は田村家とかかわりの深いものに販売したと考えら れる.その販売の数量は数表から一C俵前後の販売が一般的で、一力村数名であった.、一人当たりの販売量は少なく、直 接消費されたと見られる.また図1に示したように販売の範囲は、西水代から五、六キロメートル程度以内の村むらであ近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 表1 文化11、12年の田村家の肥料小売村むら 文化10年 文化11年 地 村名 粕 干鰯 合計 粕 干鰯 合計 区 代金俵数 〔砕』1 代金俵数 ・内1 代金,両︸ 代金俵数 6晦} 代金俵数 ∼両} 代金 q馴 西水代 50 35,40 105 27.11 62.50 69 44,35 21 4.84 49ユ8 下皆川 8 433 4.33 黒本 2 154 13 3,30 4.84 14 796 6 1.33 9.29 仲内 9 6,78 2 045 7.23 10 651 6.51 下高島 2 1.33 1.33 真弓 7 5,73 2 0.45 6.19 2 1.29 1.29 下初田 2 1.31 1.31 東 東水代 7 1.67 1.67 8 4,48 1 0.25 4.73 小林 2 1.33 L33 4 1.93 1.93 側 押切 2 1,46 8 2.22 3.67 10 635 4 0.92 7.27 上河原田 2 1.51 1.51 河原田 7 5,27 4 1.03 6.30 10 6,13 6.13 石塚 2 1,40 1.40 間中 3 2.36 1 0.27 2.63 1 0.56 0.56 寒川 5 3.81 9 2.14 5.94 5 3.47 3.47 迫間田 3 1⑨5 1 0、25 2.20 原 7 5.05 5 1.21 6.27 11 7.39 4 1.00 8.39 富田 36 26.94 32 8.23 35.17 42 26.76 26.76 野田 7 4、73 12 2.99 7.72 3 0.67 0.67 新井 7 5.55 7 1.67 7.22 8 5.12 3 0.66 5.78 堀込 2 L54 1.54 白岩 6 4.73 4.73 2 1.40 1.40 古橋 2 129 L29 豊後 4 3.05 10 3.07 6.12 7 4.73 2 0.42 5.15 西 鷲巣 4 2.67 2.67 4 2.44 2.44 岸内 3 L74 1.74 三谷 6 4,49 2 0.54 5.03 10 6.33 6.33 側 芝宮 8 6.30 7 L75 8.05 6 3,79 3.79 鯉ケ島 6 4.33 433 6 3.89 3.89 戸恒 20 15,11 17 4.12 19.23 15 9.54 2 0.42 9.95 水掛 6 4.44 2 0,53 4.97 曲ケ島 4 1.29 L29 向 3 2.11 1 0,33 2.44 3 1.88 1.88 沖之島 2 1.29 1.29 小池 6 1.43 L43 12 2.95 2.95 中根 1 0.57 0.57 清水 4 1.03 1.⑪3 不明 ヒ新開 7 4.12 4.12 新町 0,5 0.28 0.28 合計 213 157.56 260 66.82 224.38 277.5 174.59 59 13.70 188.29 出典:栃木県立文書館所管・西水代村田村家文書、2260、2264番、両は10進法表記、以下同じ
四 表2 文政7年の田村家の小売村むら 粕 干鰯 糠 合計 地区 村名 俵数 代金噛ノ 俵数 代金[1⑪ 俵数 代金.噸 代金・両戊 西水代 10 427 7 1.17 47 1055 16.00 東水代 ユ0 428 6 139 5.67 東 小林 2 045 0.45 小林新田 10 2.44 2.44 f則 押切 10 400 4.00 寒川 7 2.11 211 原 7 3.05 3.05 野田 3 050 050 富田 47 19.38 1 017 149.5 3550 5505 西 富田新田 19 7.41 56 13.18 20.58 側 新井 8 2.94 60 1327 1621 田迎 22 8.70 8 1.38 10.08 戸恒 1 0.16 0.16 向 2 073 0.73 不明 落合 7 1.08 2 0.49 1.56 合計 142 56.87 27 4.45 332.5 77.27 138.58 出典:田村家文書、2269番 り、西側の旗本・小藩領の村むらにやや厚めに分布している. 巴波:永野両川より東側の地域は、水運の便利もよく、この時 期下初田村や下国府塚村の名主のように自ら境・関宿河岸ある いは栃木町の肥料商から肥料を仕入れ、周囲に販売したり配分 したものもいた。このため田村家の販売が及びにくかったので あろう。 B天保末期∼嘉永初年 表3は天保一三年︵一八四二︶から嘉永元年︵一八四八︶ま で五年間の村別の販売数量である。田村家ではこの時期、五、 六月に村別の販売量をまとめて﹁覚﹂を作成した..したがって 干鰯・〆粕が中心であり、秋口からの販売が本格的となった糠 はほとんど記載されていない。その特徴を見ると、まず〆粕が 中心で、干鰯はごくわずかしか販売されなくなった。また〆粕 だけで一〇〇〇俵を前後する販売量となり、文化・文政期から 飛躍的に販売量が拡大したことがわかる。弘化元年︵一八四四︶ だけは販売金額も記録されているが、これによればこの年前半 には〆粕一二七三俵、干鰯一〇九俵を合計金=三三両余で販
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図1 化政・天保期の肥料販売圏 沖ノ島 永野川 ▲富田 新井 △牛久 △川連 巴波川 仲内△横堀 原 ▲野田 ▲古橋堀込 田迎 ▲ 豊後 西水代 芹㌦三谷 渡良瀬川 芝宮 曲ケ島向 中根 ▲村名は文化・文政期と天保・嘉永期に現れる村 △村名は天保・嘉永期にのみ現れる村 無印村名は文化・文政期にのみ現れる村
画
ノ、売していた.天保期には、各問屋からの仕入れ状況がわかるが、天保二年︵一八三一︶には関宿の肥料問屋染谷六左衛門 から〆粕七八五俵、干鰯一七六俵、粉粕・削・せんだいなど一〇三俵を仕入れている﹁その後も〆粕だけで六〇〇∼八〇 ニコ ○俵の仕入れが確認される。したがって田村家の肥料販売は文政末年から天保初年急激に拡大し、天保末年には〆粕で一 〇〇〇俵を超える規模となったといえる。 販売の地域性を見ると、図1に見るように西水代村から東側に比重が移っていったことが指摘できる。西水代村から西 側の村むらは、少量販売を地域ごとにまとめた西口という項目で一括されていると考えられるが、その比重は大きいもの ではなかった、、東側の主要な村むらは古河藩中郷に属する村むらで、巴波川と思川に挟まれた水田地帯であった.この地 域への販売が同家の販売量の飛躍的拡大をささえていたといえるが、それにともない仲介のものの世話が役割をはたした。 覚では下初田村に大出口、前沢口、高島村に松永分の記載があり、また人物名と思われる新村応輔といった記載が見られ る。その詳細については次章で検討することにするが、これらは大出・前沢・松永の各人物が田村家の肥料販売を伸介し たことを示している.、こうした仲介者を確保することで、田村家の肥料販売は拡大していったのである。 C文久・明治前期 表4は嘉永元年二八四八︶から、明治前期までの残された﹁粕糠干鰯大福帳﹂をもとにした販売量の推移を示したも のである。嘉永元年二八四八︶は表3とかさなる。表3は六月段階での販売量をまとめたもので、表4の数値は一年間 を通じての販売量である。嘉永元年︵一八四八︶全体で〆粕は一〇六〇・五俵で秋口に六〇俵ほど売れたことがわかる。 また干鰯が表4の方が二九俵と少なくなっているが、これは田村家の手遣分︵自家消費︶を計算に入れていないからであ る一この年田村家は干鰯三四俵を使っており、販売量と合わせると六三俵と、表3の四四俵を超える数値となり矛盾しな 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 一七
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い.、表4では表3に現れない糠・地糠についてもわかるが、糠は二八七俵、地糠は四二俵だった。大福帳の残る年では、 この年が最大で、以下、幕末維新期にかけて販売量は減少していった。 嘉永六年︵一八五三︶は〆粕四七五・五俵、干鰯一三〇俵で、秋口からの販売である糠︵下り糠︶は六五八俵、ほかに タ 地糠一九俵、鳥フン八四俵で、と嘉永元年︵一八四八︶に比べて糠や干鰯は急増したものの〆粕は半数以下となった。安 パ 政元年︵一八五四︶はさらに販売数は滅少し、安政四年ニ グロ じ 八五七︶、文久二年︵↓八六二︶と若干回復したものの、 慶応期になると諸物価の高騰が深刻化したこともあり販 D 一13︶ 剋 売量は再び減少して、維新の変動期にいたった. 当 俵 表5は〆粕.干鰯.糠.地糠の年度の一俵当たりの平均
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価格を示したものである。〆粕についてみると文化期には 格酬 辰当たり○.六、七両程度であったものが、藁六年二
表5 田村家肥料の販 粕 干鰯 糠 地糠 金(両) 金(両) 金(両) 金(両) 文化10年 0.74 α26 文化11年 0.63 0.23 文政7年 0.40 0ユ7 0.23 0.17 嘉永元年 0.74 0.24 0.26 0.20 嘉永6年 1.05 0.30 0.37 0.19 安政兀年 1.15 0.31 039 安政4年 0.85 0.23 0.36 0.26 文久2年 1.20 032 0.63 0.30 元治兀年 1.72 0.39 0.66 0.50 慶応元年 2.33 0.36 0.93 0.78 慶応2年 2.88 095 1.89 明治4年 3.65 1.17 L57 0.56 明治5年 2.28 0.71 1.06 1.06 明治6年 2.57 0.81 1.87 0.76 明治7年 4.54 1.28 1.32 0.74 明治8年 4.86 L29 1.27 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 出典;田村家文書、各年度の×福帳 八五三︶には一・〇五両と上昇し、さらに慶応期になると 二両を超えるようになった.この動きは明治初年でも止ま らず、明治四年︵↓八七二には三・六両余、明治七年二 八七四︶には四・五両余と嘉永期の三、四倍となった、他 についてもほぼ同様で高い上昇率となっている。こうした なかで田村家の肥料販売は、明治初年は〆粕で二〇〇俵台 の販売量で推移しており、その後、大きく展開することは 一九図2 嘉永元年・慶応2年の肥料販売圏 沖ノ島 ○小池 渡良瀬川 巴波川 ○駒岡 一σ仲方O th木 犬塚 ○平柳 ○千手 野川 ▲蔵井 ○仲内 島島 高高 上可
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ぷ 紺 田▲ 鑓 ○古国府 厭 ○藤田 ○岡 ○久保田。懐゜埜゜繕・荒井
大内川 ○黒本 ▲下初田 東水代▲小ネ生駒 西水代 ○岸内 ▲三谷 ▲芝宮 鯉ケ島▲戸恒 ▲曲ケ島○水掛 兵庫新 部屋 ▲寒川 ▲村名は嘉永元年と慶応2年両方に現れる村 ○村名は慶応2年にのみ現れる村 無印村名は嘉永元年にのみ現れる村 下線は切手発行の村むら ▲小袋 ○間中 ○島旦 ○松沼 ▲大行、 ▲石塚画
小山 3Km ︵f>なかったようである.、 田村家では、文化五年頃から当主だった九代直蔵が万延元年︵一八六〇︶に死去し、その子治兵衛が継いで幕末維新期 を迎えた。一〇代治兵衛は朱子学者の藤森弘庵などに学び、尊撰派の志士とも交流が深かった。ただ治兵衛は自ら運動に ほ 参加することはなく、家業に励んだため家運は衰えることがなかったとされる..肥料商売との関係で見ると、田村家が積 極的に肥料商売を展開させたのは、ほぼ直蔵の時代であった。その死後、治兵衛は先代の拡大した商売を整理して、堅実 な経営に転換して維新の変動期を乗り切っていったのであろう.、 図2は嘉永元年︵一八四八︶と慶応二年︵一八六六︶の肥料の販売地域を示したものである。嘉永元年︵一八四八︶で は、天保末∼嘉永初年の販売圏をほぼ維持しており、この頃までは、天保期以来の販売状況を継承しているといえる。い っぽう慶応二年︵一八六六︶には古河藩領の村むらが減少し、永野川の西側と大内川周辺にわかれる.、大内川村周辺と永 野川上流は引請人が切手によって販売を行った地域であった。幕末期に広まったが、いったん中断してこの年再開された。 明治になってこれがなくなると、西水代村から西側の村むらが中心となり、〆粕二〇〇俵台の販売となっていった。
肥料販売の形態
田村家の肥料販売について天保期∼幕末期を中心に検討してみたい。﹁粕干鰯×福帳﹂によれば、田村家は多くの場合、 春先に〆粕・干鰯を秋口に糠︵下り糠︶、地糠などを前貸しして、年末に代金を回収していた。嘉永元年⊃八四八︶の﹁粕 糠干鰯大福帳﹂から比較的記載の簡略な口座を紹介するとつぎのようである.・ 爪 彦右衛門殿 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 二、.二二 四月十二日 一、粕弐俵 ︵網印省略︶ タツ○ 代金壱両壱分也 〆 L・︹十しし日 一、︵ドり糠網印省略︶弐俵 ヤエ 代壱分弐朱ト弐匁五分 外二八分弐リ 駄 司廿一日 ﹂−、︵下り糠網印省略︶弐俵 ナラ○ 代壱分弐朱ト三分四リ 外弐分弐リ 駄賃 〆金弐両ト四匁弐分八リ 十二月廿四日 直済 これは西水代村爪畑の彦右衛門の口座であるが、同人は四月に〆粕を二俵、一〇月に二回に分けて下り糠を四俵購入し て、その代金を一二月二四日に完済している。〆粕や下り糠の俵数の下にある﹁タツ○﹂などという記号は符丁である。 運送については〆粕は各自の都合にまかされたが、下り糠については田村家側が運ぶことが一般で、﹁駄賃﹂がつけられ
ることが多かった。最後の﹁直済﹂は直接、 取ったり、他のものが持参した記事がある﹁ 干鰯大福帳]には 彦左衛門が代金を持参したということで、ときには田村家側の使用人が受け 万延元年の帳簿には、利子の記事がないが、元治元年⊃八六四︶の﹁粕糠 五月十ヒ日 一、粕壱俵 ︵網印省略︶ ヤワ○ 代金弐両弐朱ト弐匁九分四リ 外二九月迄分 六匁五分弐リ などと記事がある、関東では実際の相場に関係なく、帳簿上、金一両を銀六〇匁で計算する習慣があり、田村家でも確認 できる.これで計算すると月一%、年利一二%であったことがわかる、.明治四年︵︸八七二の﹁粕糠干鰯大福帳﹂でも このことは同様であったので、幕末維新期には年利一二%の前貸しを行っていたようである. 天保=二年︵一八四二︶に幕府は利子引き下げ令を出し、それまで↓五%だった利子の上限を一二%に引き下げた..そ の後、田村家もこれにしたがって一二%へ移行していたと考えられる。天保ニニ年以前は一五%の時期もあったようで、 年月日不詳の上高島村松永弥兵衛より田村直蔵へ宛てられた書状には﹁貴君様御貸し付之趣ヲ以、当人罷出候ハ・壱割五 ぼ 之利相加へ元利御引取可被下候﹂とあり、一割五分の利子がつけられたことがわかる、差し出し者の松永は天保一三年二 のヒ 八四二︶の〆粕・干鰯の売り上げ覚で、上高島村松永口として七三俵の〆粕販売の世話をしている人物と思われる。松永 口は天保一三年二八四二︶を最後に消えるので、この書状はそれ以前のものであろう。天保一三年以前では田村家も一 五%の利子であったことが想像されるのである.、 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 一三
二四 化政期の肥料の販売帳簿には、利子の記載がないが、文政七年二八二四︶の﹁金銭出人帳﹂では、奉公人の﹁おほの﹂ に五月五日に干鰯一俵を金二朱と銀弐匁五分で渡した記事があり、これに銀一匁二分の利子がつけられている。この年は 八月に閏月があることを含めて、一二月まで八カ月の利子と考えると丁度年利一八%と計算できる。この帳簿には貸金で 二〇%という記載もあるので、ここでの利子は肥料だけのことか、あるいは奉公人にたいする優遇処置であった可能性も ある.。 同じ文政七年︵一八二四︶に近村の都賀郡下初田村大出家は、巴波川周辺に〆粕八六俵、干鰯一二俵の販売を行った.、 ざぬ その﹁粕干加代金請取覚帳﹂が残っているが、一例を示すとつぎのように記載されている。 村 利右衛門殿 両二壱俵六分かへ 五︹十七日 、金弐分弐朱 ︵網印省略︶ へ消し﹁ ﹁三百五拾五文﹂ 粕壱俵 ︵同日付粕弐俵分省略︶ 〆金壱両三分、三百五拾九文 利弐朱ト七百六拾弐文 〆金弐両卜三百七文 十一.H︹十︰ハU 内金壱両出也 ここでは貸金と利子およびその合計が示され、金貨と銭貨の換算が行われている。これにより換算率を計算すると金一 両に銭六貫五一二文替えであったことがわかる。また一二月一六日に内金が入れられているので、利子の期月は一一月ま
でか、一二月までのいずれかということになる。八月に閏月があるのと、五月一七日から一二月一六日ということで、な か八カ月と計算すると、利子率は年利二〇・〇七%が得られる。他村の場合も同じで、卒島村仁右衛門の場合は、八カ月 で一九・九八%となるなど計算上端数は出るが、ほぼ年利二〇%におさまる。かつて同帳を分析した荒居英次は﹁その場 合五月から十月までの半年間の代金利息は一両につき金一分・銭七一文の割で明らかに利率二割五分余の高利であった﹂ グ と、半年で二五%、年利にすると五●%として肥料商の高利貸し的性格を強調した。しかし今回帳簿を精査したところ、 そのような記述は見当たらなかった.また同じ下野の芳賀郡稲毛田村綱川家の文政七年⊃八二四︶の﹁粕干鰯書出覚帳﹂ の書き出し部分に利子について=、弐拾両壱分利足﹂という記事があり、月にご二五%、年利一五%であったことが アお わかる。文政中頃では年利一五∼二〇%という利子が行われており、天保期に入ると一五%となり、さらに天保末年の利 子引き下げ令を受けて一二%へと低下していったと見てよいであろう。この年利一二%という利子率は畿内では享保期に ダがン は見られ、計算がわかりやすいこともあり、農村では基本的なものとなっていたようである。さらに幕末維新期になると ガ 播磨でも確認できる。関東でも同様で、意外に利子引き下げ令が定着していった様相がうかがえるのである.しかし明治 ら 七年二八七四︶の﹁粕干鰯糠大福帳﹂では、年利一五%と上昇し一〇年代へ続いている。幕末維新期から明治初年のイ ンフレーションをうけて利子率が高まったといえる。 前貸し出来秋決済にたいして現金支払いもあった、記載様式はほぼ同様で、当然ながら年末の支払い状況の記載などは なく、最後に﹁済﹂と書き込まれている、現金決済は農民側が現金を用意する必要があるが、後に示すように、ある程度 値引きが期待できる点で有利であった。しかし実際には、現金決済はそれほど多くなく、嘉永元年二八四八︶は付け込 み部分が欠けていてわからないが、嘉永六年︵一八五三︶で五四両余、文久二年︵一八六二︶で一〇〇両余であった..嘉 永六年二八五三︶で総販売量の六・七%、文久二年︵一八六二︶で一〇・八%程度であった︵表7参照︶。田村家の肥 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 一二五
一六 料販売のおおむね九割は出来秋払いであったのである.支払いについては、米穀などで支払われることもあったが、ほと んどは現金決済であった。嘉永元年︵↓八四八︶の場合、一二名︵内西水代村百姓一〇名︶が米と槙、大豆で代金の一部 ハ を支払っているが、その総額は金二二両余で全体の二・五%に過ぎなかった。田村家は米穀の取り引きもしていたようで あるが、肥料前貸しとリンクしたものではなかったといえる。前貸し、出来秋生産物払いという形式は、ここでもとられ ていない、 田村家の肥料商売との比較のために、栃木町肥料商の通帳が得られたので紹介しておこう。弘化四年︵一八四七︶五月 ﹁粕干鰯之通﹂は栃木町の肥料商嶋屋市右衛門が都賀郡真弓村の弥惣右衛門家へ宛てて出したものである。二年分記載が ぶ あるが、ここでは後の嘉永元年分を示そう。 申年覚 五月十五日 一、︵〆粕網印省略︶弐俵 壱俵壱分六リ 代金壱両弐分、十三匁四分五リ ︵中略︶ 十月朔日 一、地ぬか四俵 七俵かへ 代弐分、四匁弐分九リ リ壱匁弐分九リ
右惣元リ 共〆六両ト三百廿七文 右之所へ 米拾五俵九升 九分かへ 代六両弐分弐朱ト三百六文 粕代差引 〆金弐分、七百七十五文 右之通米代二て粕代金不残元り共受取相済申候、以上、 申十二月十日 弥惣右衛門は嘉永元年︵一八四八︶の五月に〆粕五俵を購入した。ここで示したのはその冒頭の弐俵部分である。﹁壱俵壱 分六リ﹂とあるのは、〆粕の価格で一両当たり何俵かで示される。省略したが〆粕は三口に分けられており、合計した上 で利子がつけられている.、秋口になると九月に〆粕壱俵を購入し、さらに示したように一〇月に地糠四俵を購入した.地 糠の利子については、一二月を含んで期月を三カ月と見ると年利一五%であったことがわかる、元利合計して六両余にな ったが、これを弥惣右衛門は米一五俵九升で支払った、その代金が六両余で肥料代と差し引きして決済された.,金二分余 嶋屋側が支払う計算になっている、嘉永元年︵一八四八︶の段階で栃木町嶋屋は出来秋現物決済を行っていたことがわかる.. 利子も年利一五%で天保一三年︵一八四二︶の利子引き下げ令以後も、享保以来の利子率を維持していた,田村家ではす でに利子も引き下げ、出来秋現物決済はほとんど行っていなかった.、その点で栃木町肥料商の方が伝統的な販売方式を行 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 一二七
・一八 っていたといえる。天保末年から嘉永期にかけて、栃木町北郊の嘉右衛門新田の肥料商売を止めようとした栃木町肥料商 け にたいして、周辺農民が反対して、その営業に不満を表明しているが、こうした商売方法にも問題があったのであろう。
三 肥料取り引きの諸様相
A直接取引
農作業が始まる時期になると農民は、田村家から〆粕などの肥料を購入した。直接出向いて購入することも少なくなか ったと思われるが、その様相はわからない。史料があるのは注文をした場合である。申九月晦日の稲葉伊兵衛から田村直 蔵へ宛てられた書状は マアこ 時分柄冷気之瑚二御座候得とも弥御揃被成珍重之御儀二奉存候、次二下拙方不意二罷有候、乍揮御可安心可被下候、 然れは今日申上候〆粕代金二て壱両分位イ、何卒貴丈様御見作ひ御遣し被下度奉存候、何様二も御情々可被下候、先 は要事計早々如此二御座候、以上、 お となっており、書状の持参者に見繕いで〆粕を渡すように頼んでいる。書状を持参したのは奉公人であろうか。また簡単 カげ な﹁口上﹂で注文する場合もある、つぎの史料は横堀村新之助より田村直蔵へ宛てられたものである.、 口上 一、粕弐俵御渡し可被下候、以上、 六月一日 横堀村 新之助丁題夫 定右衛門 水代村 田村直蔵様 横堀村新之助は田村家にたいして、〆粕二俵を使いの定右衛門へ渡すように依頼しているが、その文書様式が手形のよ うになっていることがわかる,両者とも金額や品目・俵数を指定して、適当なものを見計らって渡すように頼んでいる。 品質を直接確かめるという関心はここでは示されていない。田村家側としても、ある程度期待に応えるものを渡さなけれ ば、その後の取り引きに影響するので、それだけの配慮は払ったのであろう.、 B通帳の使用 〆粕・糠などの肥料は比較的高価なものであったので、肥料商は出来秋払いの前貸しを行う際には、支払いが確実なも のに通帳を渡して取り引きした 通帳を持参すれば、それが当人ないし同家の奉公人である証明ともなった.それがない ものは紹介などが必要であった、四月二五日付けの赤塚村桜井富之進から田村直蔵宛の書状では 乍略義書面ヲ以申上候、先以其地御家内様儲々御機嫌よく被遊御座珍重之御儀二奉存候、然は今日私シ親類之者二御 座候、御宅様えは初めて者二御座候、書面ヲ以申上候、今日粕御無心申度、尤何卒御情積之段偏二奉願上候、猶又来 廿八日方私分は御無心申上候、何卒此者之儀御情積之段奉願上候、尤金之儀は今日御勘定可仕候、又々申上候、早々 取込乱筆御用捨可被下、早々、以上、 でぶ となっており、親類のものを紹介し、〆粕の無心を申し入れている。最後のところで代金は本日勘定するというのが、桜 井富之進のことか、親類のもののことか、どちらともとれそうであるが、いずれにしても桜井は初めての親類を田村家に 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 二九
.二こ 紹介して取り引きが円滑に進むように計らったのである。赤塚村は西水代村からは遠距離にあったから、田村家側にはこ の親類のものを知ってはいなかった、そこで即金で代金を払うにしても紹介の書状があった方がより確実に取り引きがで きるし、桜井側も値引きなど相応の好意が期待できるといえる。 田村家の出した通帳はまだ発見されていないが、﹁粕糠干鰯大福帳﹂には同家が通帳を出したことがわかる記事がある. ざお たとえば嘉永元年︵一八四八︶の帳簿では上高島村の口座につぎのような記載がある.. 生沢通 庄兵衛殿 型月ト’日 一、粕壱俵︵網印省略︶ 同 一、同壱俵︵網印省略︶ 代金壱両壱分ト五匁也 〆 これはこの前の口座にある下高島村の生沢五郎右衛門が自分の通帳に庄兵衛の分をつけさせて、〆粕を購入させたこと を示している、生沢五郎左衛門はこの年、田村家から〆粕一〇俵、金八両二分余を購入している,ある程度耕作規模の大 きな農民であろう。帳簿に姓が記載されており、村役人などを勤めた地域でも知られた家柄のものであったと考えられる。 田村家ではこうした人物に通帳を出し、その信用で肥料販売を促進したのである。
C通帳の貸与 つぎの書状は年不詳四月に押切村森田権之進より田村直蔵へ宛てられた書状である、 尚々御家内様宜敷御伝言奉願上候 烏渡申上候益御機嫌よく被遊御座不斜奉存候、然は粕通之義中里村え借シ遣シ申候間、以書付ヲ奉申上候、何卒何品 成共此人え相渡し被下候様奉願上候、尤追々通帳え御印可被遊候、且又乍御無心餅おかきたね御持被成候ハ・、何卒 三升計り此馬二御送り被下度奉存候、早々乱筆御用捨可被遊候、以上、 森田権之丞は﹁粕通﹂を隣村の中里村へ貸して手元にないが、この手紙を持参する人物に肥料を渡してほしいと願い、 後日に通帳へ印鑑をもらえればよいとしている。また同じ森田権之進の直蔵宛六月一六日の書状では 尚々申上候、近日之内粕之儀も着仕候様、↓昨日被仰聞候様承知仕候、如何二御座候哉申上度、 乍揮以使ヲ奉申上候、御家内様益々御機嫌能被遊御座候段、不斜奉存候、永々雨天二付事々難渋仕候得共、昨日より 御天気二相成、大慶二奉存候、然は一昨日ハ友沼村太郎右衛門下男二粕之通ヲ以申上候処、切め二相成候段、被仰聞 候二付、引取之節二右之通帳面何レ成欺相すて申候様子、昨日承り甚当惑仕候間、何卒右之通ハ不用之儀二仕度、態々 申上候間、左様二御承知可被遊候、若シ見当り申候共、私シ方より書付参り不申候ハ・、何二成共御断申上候、早々 如此二御座候、以上、 とあって、友沼村太郎右衛門へ貸した粕の通がいっばいになったと聞かされた下男が、これを捨ててしまったことを田村 家へ伝えて、別のものが通帳をもってきても、書状がなければ肥料を渡さないようにと申し入れている、このように通帳 の貸借が行なわれるなかで、自ら田村家へ出向かない場合は、使用人に通帳と書状をつけて田村家へ行かせて肥料を受け 取らせることが行われていたのであろう、西摂津の西宮・尼崎の肥料商などは通帳の貸し借りを禁止し、そのことを通帳 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 二
にすり込んでいるものも見られた が図られていた しかし田村家の場合、貸し借りは容認されており、それによって積極的に顧客の確保
D大ロ取引
通帳の貸借により、自分の口座に付けさせることで取り引きすることがあったが、この場合でも、﹁粕糠干鰯大福帳﹂ では別口座に記録されたようである.、ただ代金の回収には一定の責任をもった。これ以外に、一人で大口の取り引きをす る形式で、肥料販売を仲介するものもいた。東水代︵榎本︶村の小林政蔵は表6のように、嘉永元年︵一八四八︶には横 塚七郎兵衛と乗り合いで、粕八三俵を購入している。嘉永六年︵一八五三︶は糠七俵と自家消費分程度の取り引きであっ たが、明治六年∼明治八年︵一八七三∼七五︶には単独で相当数の肥料を購入し 表6 東水代村小林政蔵の肥料購入 年代 品目 俵数 金額(両) 嘉永元年 粕 83 62.33 嘉永6年 糠 7 2.41 明治6年 粕 49 109.79 明治7年 粕糠 64 U5 267.31 W938 明治8年 粕干鰯糠 72P54
334.26 @1,25 U7.50 出典・田村家文書、各年度の×福帳 ている。これらは各年度の﹁粕糠干鰯大福帳﹂では小林政蔵の購入の形式となっ ているが、明治六年︵一八七三︶と思われる酉五月二四日の小林政蔵から田村治 兵衛へ宛てられた書状ではつぎのようになっている。 尚々 昨日は種々御執成預り千万辱仕合奉存候、然は粕︵網印省略︶、︵網印省略︶合テ 八俵御送り被下、何共難有仕合奉存候、何共申兼候得共、跡俵七俵御遣し被下度 奉頼上候、尤 ︵網印省略︶拾俵 都合拾六俵 ︵網印省略︶五俵ニ 右之通り二て切り上ケ仕候間、何卒御間二合被下候様御頼申上候、当節柄二御座候間、帰月柳無相違御勘定可申上候、 此度ハ人撰之上、貸附致候間、左様二御承引可被下候、何レ明日ハ早々以参証書差上申候間、左様二御承知可被下候、 跡俵七俵早々御送り可被下候、早々、以上、 ここでは〆粕の追加を依頼しているが、肥料は小林が自家消費したのではなく、さらに貸し付けたことがわかる。とく にこの年は人選をした上で貸し付けたと述べており、信頼できるものを厳選することで、田村家から安定した肥料供給を 得ようとしている.この場合、帳簿上は小林政蔵が田村家から肥料を購入した形式になっているので、支払いの責任も小 林にあったと見られる,ただまったく田村家側が関係がない小売かというと、小林政蔵にたいしてある程度、東水代村で の販売を任せる働きかけをしていたのではないかと思われる。明治二年以降になると、小林政蔵は取り引きをしていな いが、替わって植木重次郎が東水代︵榎本︶での取り引きを一括して行っており、小林政蔵が行っていた取り引きが引き いヒ 継がれている.これらから完全な卸ー小売関係とは思われないのである。隣村になぜ仲介的なものをおく必要があったの かわからないが、こうした大口取り引きも行われていた、 E引請・世話人 いっぽう通帳の貸与とは別に世話・引請と称された取り引き方法があった..年月日不詳の富田宿寿屋新三郎より田村直 蔵宛の書状では 口⊥二て申上候、然は此人金弐分持参いたし候間、しめかす弐俵御かし可被下候、尤残り金は七月迄私し引請申候、 右之思召二て御掛合可被下候、早々用事如此、 とあり、手付けとして金二分を持参したので、これで〆粕二俵を貸してほしい。残りは七月に支払うことで、寿屋新三郎 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 一三三
.一四 ドおゴ がその支払いを﹁引請﹂るという内容である..農民は金二分を持参して寿屋へ行って、この書状を書いてもらい、その上 ヨニ で田村家から肥料を受け取ったのであろう、同様なものに年不詳五月一五日の中里村重助から田村直蔵宛の書状がある。 乍失礼以書付奉願上候 カリ しかれバ此度竹吉・平三郎弐人之もの方へ粕壱俵御かし可被下候、御勘定之義ハ、来ル十一月迄二私引受差上申候、 以上 中里村重助は、竹吉・平三郎の二名について、年末まで〆粕一俵ずつを貸してくれるように依頼している、こうした引 請人を介した取り引きは、安政元年二八五四︶を例にとれば﹁粕糠干鰯大福帳﹂の上では 富田宿松本殿引請 勝之丞殿 五月二日 一、粕弐俵 ︵網印省略︶ タ○ 代金弐両也 〆 十二月廿四日 済 ぴポ 弥重殿より と記載されている。この口座の前には富田宿松本助之丞・同弥重の乗り合いの口座がある。帳面には親子の名前が連名さ れることもあるので、弥重は隠居であったのかも知れない。この松本の引請で同宿の勝之丞は〆粕二俵を前借りしたが、 代金は一二月になって、松本弥重が持参したことがわかる。引請や世話といった場合、本人が直接田村家に支払うことは 少なく、多くは引請・世話人が代金を徴収して田村家に支払っている。ある程度、引請人が代金徴収に責任をもっていた といえるであろう、
表7 嘉永6年の取り引き構成 事項 引請人など 購入者 品目 俵数 代金(両) 粕 256.8 262.37 干鰯 89 27.07 糠 517 192.50 直済 135 地糠 5 0.78 鳥フン 75 8.83 ハキ 10 1.68 粕 21 22.24 小計 135 515.47 引請 16 35 干鰯
f
554
1.56 Q0.86 粕 95.7 101.05 干鰯 16 432 請取 12 27 糠地糠74
2.27 O.67 鳥フン 2 0.50 ハキ 2 0.31 手形 1 30 粕干鰯 91 X 104.20 @3.07 小計 29 92 粕 238.81 11 9.64 干鰯 11 3.16 現金 41 糠 80 30.47 地糠 10 2.25 鳥フン 7 0.88 小計 41 46.40 粕 475.5 499.50 一F鰯 130 39.18 合計 糠地糠 658 P9 246.09 @3.70 鳥フン 84 10.21 ハキ 12 2.00 小計 29 268 800.68 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 出典:田村家文書、イ2916 表7に嘉永六年︵↓八 五三︶の取り引きの様態 を示した。同年をとった のは嘉永元年︵一八四八︶ の帳簿が、若干後欠で現 金取引の部分がないため である、まず取り引きは、 前貸しと現金払いに分け られる。この年、現金払 いを行ったのは四一名で その総額は四六両余であ った。全体の五・八%程 度であった。ほとんどは 前貸し形態をとったこと が明らかである。前貸し では直接田村家と取り引 きして、代金も﹁直済﹂ したものは↓三五名、金 =一.五=二六 五一五両余となった・またそれ以外で引請人が立つことが明記されている場合︵引請︶、引請人の明記はないが代金を世 話をしているものが取り集めて田村家へ差し出している場合︵請取︶、引請人が手形を出している場合︵手形︶などを合 計すると仲介者二九名、被仲介者九二名で総額二一二八両余となっている。全体の二九・八%が引請人などを仲介として田 村家と取り引きしたことがわかる。仲介を必要としたのは他村のもので、西水代村内で仲介を受けているものは数名しか いなかった.田村家側も経営状況が容易に把握できたので、仲介者を必要としなかったのである。村内外で見ると、村内 売りは二八一両余で全体の三五・二%であった。残り五一八両余が村外での販売であるが、そのうち半分程度が直接取り 引き、半分が引請人などを介した取り引きということになった。引請人などがかかわった取り引きは、安政元年︵一八五 ね 四︶では販売額の三四%、安政四年︵一八五七︶には三九%に及んだ。年によって違うが、一定規模の取り引きが行われ た時期は、こうした比重であった.、また明治期になり取り引き規模が〆粕で二〇〇俵台になると、村内と周囲のものに限 へほ 定されるので、ほとんど直接取り引きになっていった。 F引請・世話と﹁人撰﹂ 引請・世話人は代金の回収に一定の責任をもったことは指摘したが、当然ながら紹介する農民を判断し、できるだけ信 頼できるものを田村家に紹介するようにした..大口取り引きを行った東水代の政右衛門が述べているように﹁人撰﹂が大 事であった・田村家側はその仲介者を信頼して、それまでかかわりのなかった人物に肥料を前貸しするので、引請・世話 以下の仲介者の判断が×きな役割をはたしたのである。こうした判断について年不詳四月一日の石塚村殿塚徳左衛門から め 田村治兵衛宛の書状はつぎのように述べている。 暖和相催候得共、先以御揃愈御勇猛二被成御座奉大悦候、然は今日国分村より馬四疋参り、当年も粕御拝借申度段申
来候二付、昨年も御勘定大キニ延日仕候問、迷惑之趣相断候得共、此人儀は実正之人二て昨年も年中勘定相済候間、 カ 間違も無之と愚案仕候、外弐疋之儀は申断候得共、苗代時差支候趣立て申歎候間、壱俵宛御拝借可仕様申聞候間、都 合六俵奉願上候、余之一疋之儀は相断候間、左二御承知可被下候、取急大乱筆如斯御座候、早々不尽、 ここでは下石塚村の殿塚徳左衛門のもとに国分村から四名のものがやってきて、肥料前借りの仲介を依頼した。徳左衛 門は昨年の支払いが遅れて迷惑したので紹介は断った。しかし一名は﹁実正之人﹂で年内に勘定を済ませたので紹介し、 二名は苗代時期なのでどうしてもと懇願したので〆粕一俵宛だけ前貸しさせることにした。そして最後の一名は断った。 全体で六俵前貸しさせることにしたというので、年内に勘定を済ませた一人は〆粕四俵を前借りできたことになる。前貸 しを認められた三名は、この手紙をもって田村家から〆粕を入手したのであろう。 このように引請.世話人は、あらかじめ前貸しを認める人物をそれまでの支払い勘定を基準に選別する役割をもってい たのである.。殿塚徳左衛門は、幕末維新期に継続的に田村家と取り引きしていた有力農民で居村を中心に世話を行ってい た.、同人が出てくる﹁粕糠干鰯大福帳﹂では、安政元年︵一八五四︶に国分村弥重郎が粕八俵、干鰯一俵、地糠三六俵を ロロ 購入し、支払いは﹁殿塚より受取﹂と殿塚徳左衛門が田村家に届けた記事がある。四月一日の購入記録はないので、この 書状の時の取り引きに該当しないようである。しかし安政元年︵一八五四∀の国分村弥重郎の購入量は、地糠については 自家消費したとは考えにくい量であり、殿塚ー国分村弥重郎ー国分村農民という経路で肥料が配分された可能性があろう。 引請.世話人は購入者の生活情報をある程度把握しており、これにもとついて紹介を行ったと考えられる。とくに居村 内のものは詳細な状況把握を行い、田村家と交渉している。年不詳一二月二一日の下石塚村殿塚仁兵衛より田村直蔵宛書 ハ 状ではつぎのように肥料代の未払いについて述べている。 尚々皆々様二宜御伝言被為仰上可被下候、井粕代追々済方無相違可為仕候、未手続延引候問、少々御猶予可被下候、 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 三七
..一八 以上、 一翰口上仕候、厳寒之瑚二御座候得共、愈御揃御勇健二被成御座奉快喜候、籾申上兼候仕合二御座候得共、村方忠左 衛門粕代昨年も格別之御勘弁相成、又々彼是申上候も誠下拙方見込違こて、何とも御申訳無御座候得共、当人儀も至 極不運之儀二て、当五月中も子供庖瘡二て殊之外作方手下り、夫故歎格別二取実も少ク其上昨暮難渋故、如何様飯米 も無之右所へ引越候哉、上納向も滞り当人奉公出仕候仕合、右二付作方肥代金二御座候得共、実二当惑仕候次第、何 とも揮入申上兼候得共、右引当高昨年分も御引受被下、尤御見込不足ハ連も今年御返済と申ニハ出来兼候得共、来暮 之様子次第、又々済可為仕、井今年分も右仕合二て代金無之、是又申兼候得共当金壱両御受取被下、春二相成同人女 妻とも二木綿二ても為織候て壱分哉壱分弐朱ハ入金可為仕候間、残金来暮迄之所、何分御勘弁奉願上候、余り不行届 二御世話申上気毒千万二御座候得共、可相成ハ、右二御聞済可被下候、 一、昨暮又兵衛と申もの御粕代金弐分也滞、此節済切可仕様厳重申聞候得共、去冬申上候通同人儀も大病こて休口■ 二相懸り、当四五日二至り漸全快、右之もの儀も右仕合故、暮詰難渋仕僅之儀二ても出来兼、此節金三朱也持参、 達て相歎候仕合申兼候得共、来暮ハ無相違皆済可申付候間、右入金二て御勘弁奉願上候、右之段色々面倒成ル仕合、 何分御聞済可被下候、早々頓首、 下石塚村仁兵衛は、嘉永六年二八五三︶の﹁粕糠干鰯大福帳﹂に名前が見え、安政元年二八五四︶の同帳では徳左 衛門と乗り合いで現れるので、徳左衛門の父親であったと見られる。ここでは下石塚村内の忠左衛門と又兵衛の肥料代の 未払いについて釈明している。忠右衛門については、子供が庖瘡にかかり手当で耕作が遅れて実入りが少なかったため、 支払いも滞っているとしている。年貢上納も滞っており本人は奉公に出て現金収入を確保しようとしている事情を伝え、 とりあえず金一両を支払い、春には妻女に木綿を織らせて一分か一分二朱ほどを調達するので待ってくれるように伝えて
いる。また又兵衛の昨年の滞り金二分について、大病を患っていたため、返金できなかったが近日全快して、金三朱を持 参した、来暮れには完済するので待ってほしい旨述べている.、忠左衛門は、嘉永元年︵一八四八︶の﹁粕糠干鰯大福帳﹂ ニ で粕四俵を購入している..代金三.両ト六匁壱分五厘のうち、嘉永二年︵↓八四九︶正月二日に金一分を﹁殿塚より受取﹂ と殿塚仁兵衛から田村家へ届け、金二両ト六匁一分五厘が未済となっている。 殿塚氏の場合、帳面上に明確に引請・世話の記述はないが、支払いについては、﹁殿塚より受取﹂とあって、何らかな 世話と代金の取り集めを行っていた、引請・世話人や請取とされる関係は全体の三〇%程度であったが、それ以外にも未 払いが続くと、村役人を介して催促も行われなその場合、未払い農民の生活事情をよく知っているものが仲介となり、 相互の問を調整していた、、田村家もこうした共同体的な濃密な人間関係にもとつく結びつきを含み込んで、取り引きを行 っていたのである。
四 切手の使用
引請・世話人のなかには、田村家に宛てて肥料の受け渡しをもとめる手形を出す場合があった.文政=二年͡一八三〇︶ の﹁二番糠売帳﹂のなかに、 切手 岸内 八月卜九日 一、︵糠俵印省略︶四俵 多郎右衛門殿 代金壱両弐朱ト壱匁七り 〆 済 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市⋮場 二九一四一 という記載があり、切手の使用が認められる、.これは﹁蔵出﹂に対応しているが、﹁蔵出﹂は田村家の蔵から現物を渡し たことを意味している、これにたいして田村家が切手を発行して、肥料を入手させたことを示す肥料は下流の部屋河岸 で陸揚げされて、馬背で田村家へ運ばれた、おそらく部屋河岸に近く、希望するものには切手を渡して、部屋河岸の河岸 問屋が預かっている肥料から現物を受け取れるようにしたものであろう.いっぽう引請のものが切手を書いて、田村家に 肥料販売を依頼する形式のものをあげるとつぎのようである. 覚 一、粕弐表 右之通り此ものえ御渡シ被成下候様奉願上候、 丁且日日上ハ[[[ 発一戸 彦右衛門 ㊥ 水代村 直蔵様 [畏pU ﹁ ︵網印省略︶壱俵 夫久兵衛殿 渡し ︵網印省略︶壱俵 ﹂ これは下初田村発戸の彦右衛門が田村直蔵に宛てて出したもので、この手形の持参者久兵衛に〆粕二俵を渡すように依 頼している、田村家は依頼を受けて〆粕二俵を渡し、この文書の裏に渡した〆粕の網印と渡した人物の名前を記録した.、 彦右衛門の出した切手は数通残っているが、その一つには﹁今日此者え御遣シ可被下候様二奉頼上候、尤代金之儀は私引 お 請日限之通り無相違御勘定可仕候﹂とあり、同人が引請人として切手を発行していたことがわかる。
こうしたものは他のものでも見られ、口上、覚、手形、切手、馬札などという表題がつけられているが、組織だったも のは大内川村稲荷関の清水岩蔵のもので、ほかに千手村の柴織右衛門のものが若干残っている..まず史料が豊富な清水岩 蔵の方から検討しよう.、岩蔵との取り引きでは、田村家側から手形を出す場合があった.年代の都合上、こちらから紹介 しよう 手形 一、魚粕壱駄 右之通り此手形引替相渡可申候、以上、 寅三月 水代 田村治兵衛 霜旦 大内川村 稲荷関 岩蔵殿 ぷ ﹁ 塚田 倉次殿 ﹂ ここでは田村家が岩蔵へ宛てて手形を出しているが、裏書では塚田村の倉次が〆粕を受け取ったことが記されている. あらかじめ田村側が手形を用意して岩蔵に渡しておき、岩蔵は適当な希望者にこの手形を渡して、田村家から肥料を入手 させたと考えられる.寅年は幕末維新期では安政元年︵一八五四︶と慶応二年︵一八六六︶である。﹁粕糠干鰯大福帳﹂ ニの の慶応二年二八六六︶の口座には塚田村倉次の名前はないが、安政元年︵一八五四︶の口座には名前が見られる。安政 期には当主直蔵はすでに高齢で治兵衛が実質的に経営をになっていたとすれば、治兵衛の名前で手形が出されることがあ 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 四一
一四二 ったのかも知れない.田村家にはもう一点、寅三月出しの手形があり、ここには﹁魚粕壱駄﹂と書いた下に﹁倉次殿﹂と ある,同じ筆跡なので当初から書いてあったのか、〆粕を渡したときに、裏書きにしないでここに書き込んだものか判断 む できない.切手の性格からすれば後日書き込まれたと見るべきだろうか。それはともかく安政元年二八五四︶の口座で は、塚田村倉次は四月三日に〆粕二俵を受け取っているのをはじめとして、同五日〆粕二俵、同二一日〆粕二俵と田村家 から受け取っている.三月に岩蔵へ渡しておいた手形がこの取り引きのどこかで使用されたのであろう..代金の総額は八 ニと 両二朱余で一一月一〇日に岩蔵から田村家へ代金が届けられていることがわかる。寅三月の切手の綴りの↓つには、田村 ニぶず 治兵衛から岩蔵宛に出した切手四枚と岩蔵から田村宛に出した切手七枚が綴られている。したがってこの頃、岩蔵側は田 村の出した切手がなければ、自ら田村宛の切手を書いて渡していたと考えられる、つぎに岩蔵側から出した万延元年二 が 八六〇︶と思われる岩蔵の切手を示すとつぎのようである。 切手 一、魚粕 壱駄 右之通り此手形引替二御渡シ可被下候、以上、 一り延凡β一 閏三月廿四日 川連村 鶴吉殿 大内川村 稲荷関岩蔵 ⑩ ͡ママ︸ 御無心置御渡し可被下候、以上、 水代村
田村治兵衛様 この切手と引替に、〆粕一駄︵二俵︶を川連村鶴吉へ渡すように依頼している。閏三月前後の綴だけで七六枚の切手が 発行されていた.そのなかには﹁申四月二日﹂などと書いたものもあり、これらにより同年が万延元年︵一八六〇︶であ ることがわかる。嘉永元年二八四八︶から慶応二年︵一八六六︶まで﹁粕糠干鰯大福帳﹂には、稲荷関岩蔵の口座があ り、取り引きをしていたことが確認できる。表8に万延元年︵一八六〇︶の切手を含めてその状況を示した。安政期にな ると田村家の取り引き量が減少するなか、まとまった取り引きをしており、その比重は高かった。またその地域は、図2 に示したように×内川村周辺の村落で、田村家の販売圏の周縁部であった。岩蔵は大内川村の旗本駒木根氏領の農民であ の ったが、隣村黒本村には田村家と同じ旗本渋谷氏領があり、多少のかかわりがあったのであろう。 つぎの書状は、岩蔵が田村治兵衛宛に代金の回収を報告したものである。 覚 あら川村喜兵衛殿分巳年粕代金弐分、私方二て惜取置候間、近日之内其御宅え右金不残御勘定可仕候、以上、 四月三B ×内川村 稲荷関岩蔵 酋題 /.\ 水代村 田村治兵衛様 ここでは荒川村喜兵衛の巳年分の代金を受け取ったので、近日届けると報告している。表現から見て、前年が巳年で支 払いが滞っていたのであろう、四月に喜兵衛が支払ったのは、つぎの肥料を前借りするために支払いの必要があったため と考えられる 岩蔵は代金の回収はもとより、滞り分の取り立てについても一定の役割をはたしていたようである、 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 、四三
の切手発行村むら (単位:俵) 安政4年 万延元年 文久2年 慶応2年 人数 粕 干鰯 糠 人数 粕 干鰯 人数 粕 不明 人数 粕 1鰯 4 16 3 6 4 10 2 6 10 41 4 10 1 2 1 2 1 4 ユ 13 1 2 2 ユ 4 1 6 1 2 4 11 2 1 2 7 17 1 2 1 2 3 14 2 4 1 4 1 2 12 38 1 2 10 20 2 20 6 12 1 2 2 4 2 8 3 13 3 23 1 6 1 1 2 3 6 1 4 1 2 1 2 2 8 1 2 5 14 6 16 7 15 3 1 2 1 2 1 2 4 9 1 2 1 4 1 2 1 6 3 6 3 6 1 4 3 8 1 2 1 2 3 14 1 2 10 1 4 1 1 1 8 1 2 1 10 3 6 1 2 1 3 4 18 5 16 2 4 68 199 4 29 56 145 2 29 101 4 21 82 1 四四
近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 四五 表8 稲荷関岩蔵・直之助 嘉永元年 嘉永6年 安政元年 村名 人数 粕 干鰯 人数 粕 干鰯 人数 粕 干鰯 大「勺川 11 99 5 2ユ 73 9 19 45 行野 1 6 小薬 6 18 3 6 2 [〕国府塚 1 4 上国府塚 2 5 下国府塚 藤田 1 2 1 4 久保田 1 2 ] 2 塚田 3 10 人宮 1 2 仲内 1 4 小舟 2 4 黒本 1 4 荒川 1 4 石塚 上石塚 1 2 小宅 飯塚宿 城内 萩原 房合 桶田 寄居 中ノ内 木沢 武井 福富 割出 柴 老沼 谷新田 杉木 川連 松沼 寄居 卒島 小袋 大行寺 小袋 下荒井 古国府 田村 島田 不明 12 105 5 30 99 9 36 92 2 出典;万延元年のみ切手の集計、他は各年度の「粕糠干鰯大福帳」より
四六 岩蔵がどのように切手を出したか、その内実はわからない..しかし居村を越えた一定の範囲の農民を対象に切手を出し その支払いを引き請ける以上は、何らかの報酬を得たと考えるのが自然であろう.岩蔵の場合、親しいものに通帳を貸し て肥料を入手させるというような共同体的な結合を前提にした融通関係をはるかに超えたもので、営業的行為として行わ れたといえる、そ2/だけに多少相手に不安があっても切手を出すことがあったようで、これにともなう紛糾も見られ垣, 口上 以手紙啓上仕候、しかれは切手ヲ喜十ト申印切手参り候ても、決て出シ不申様奉頼上候、何れ廿四五日頃には下拙罷 出万々申上候、先は早々乱筆如此二御座候、以上、 ロ 申二月十十九日 大内川村 岩蔵 ㊥ 水代村 田村治兵衛様 貴下 この口上は喜十名義の切手について、切手を出したものの、何か支障が生じて肥料を渡さないように田村家に要請して いるものである 事情は不明であるが、切手が意に反して流出してしまったため、その無効をもとめたものであろう。切 手はいったん発行してしまえば、誰でも肥料を受け取ることが可能にできていた.岩蔵側が出すときは基本的に人物を特 定しているが、田村側はその人物を知らないこともあったであろう。また田村側が出すときは人物の特定がないのである。 それでも前貸しが成立するのが切手のもっている利便性であった..数量は一駄と限定されていることが一般だったので多 額にはならなかったが、流用しようとすればできたから、このような問題も生じたのである.、
つぎに千手村の柴織右衛門関連の切手について見てみよう..織右衛門の場合、手形の発行開始の事情がわかる書状があ でぶず る・.子二月一〇日付けで千手村織右衛門から田村直蔵へ宛てたものである、 前文略御用捨可被下候然は今日粕御無心申度趣二付、得其意手形差出候間、御改之上御貸渡し二相成候様奉願上候、 且手形無之ものえハ御断可被下候、尤御勘定之義ハ、八月お限り之勘定之筈二御座候、直段向ハ現金之積り二て相済 候迄ハ利足を加へ其思召二て奉願上候、私義も今日可申上御約定二は候得共、少々差支之義有之候間、何ぞ十二日無 相違藤井村より相掛ケ申上候、左二御承知之程奉願上候、早々、以上、 尚々、当年之分ハ初メて之ものこ御座候間、成丈下直二奉願上候、左候得共来年ハ別段二御借用之もの有之候様子 御座候、売弘メ之内ハ右之趣奉願上候、以上、 書状には子年で直蔵宛となっているので、嘉永五年二八五二︶が該当する.、しかし嘉永六年︵一八五三︶の﹁粕糠干 鰯大福帳﹂には織右衛門の名前が見えず、同人が帳簿に現れるのは、つぎの子年の元治元年︵↓八六四︶からであった、 この点で元治元年二八六四︶が内容にふさわしいが、宛所の直蔵はすでに三年前の万延元年二八六巳︶には亡くなっ ている、嘉永五年頃に計画はあったが進展しなかったのか、織右衛門が元治元年︵一八六四︶に書状を書いたところ、宛 所を前当主にしたか事情は不明である、千手村は西水代村を流れている永野川の上流で、同村からかなり離れている、し かし同村には西水代村の田村家が属した領主旗本渋谷氏の領地一二〇石余があり、同領の付き合いはあった,千手村の名 前が帳簿に現れるのは、文久二年二八六二︶に同村の政右衛門が糠二俵を購入した時が初めてで、その後、元治元年二 八六四︶になって織右衛門をはじめ一四名が取り引きを行ったことがわかる。そのうち、織右衛門と政右衛門が文久三年 (一 ェ六三∀一二月から〆粕を購入している記載があるので、政右衛門が先行して織右衛門らが加わった形になっている 元治元年︵一八六四∀には一五名で粕四三俵、干鰯一俵を購入した、.ほとんどのものが二月一◎日過ぎに購入し、織右衛 近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場 .四七
四八 ぽ 門が三月に〆粕二俵、伝蔵が七月に干鰯一俵を購入している。この書状が元治元年二八六四︶のものとすると、織右衛 門は前年の一二月に〆粕を購人して、その状況を確かめた上で、春の取り引きの直前に書状を出したということになる。 内容は織右衛門が手形を出すことにしたので、手形のないものとの取り引きはしないこと、勘定は八月限りの勘定とし、 直段は現金売りと同じにすること、前貸し中の利子はつけることであった。さらに今年は初めてのことなので、できるだ け直段を下げてくれれば、来年は前借りしたいというものがいるようなので、売り広め中は、そうした心得でいてほしい ふ と述べている.そこで実際の手形を見てみよう。 手形 千手村 [、粕弐俵 馬 銀蔵 子二月十日 織右衛門 ⑳ 西水代村 田村様 元治元年二八六四︶の﹁粕糠干鰯大福帳﹂には二月一〇日に銀蔵が〆粕二俵を購入した記事があるので、この手形はそ のためのものであろう、銀蔵は馬で〆粕を受け取りに田村家へ行ったようである、この年はその後、同人は〆粕を一三B ら に二俵、一八日に二俵購入しているので、その時も手形が出されたと考えられる。その後、手形は明治二年︵一八六九︶ バ まで出されたようで、つぎのものがある.。 手形 一、粕四俵 千手村 馬 造酒蔵