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王畿「婺源同志會約」訳注─陽明門下の講会活動記録を読む(二)─ 利用統計を見る

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(1)

王畿「?源同志會約」訳注─陽明門下の講会活動記

録を読む(二)─

著者

小路口 聡

著者別名

SHOJIGUCHI Satoshi

雑誌名

東洋思想文化

4

ページ

1-36

発行年

2017-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008661/

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王畿「婺源同志會約」訳注

─陽明門下の講会活動記録を読む(二)─

小路口

   

  「婺源同志會約」は、 その後付に、 「嘉靖丁巳年仲夏朔   龍溪王畿書」とある。すなわち、 嘉靖三十六年(一五五七 年 ) 五 月 初 旬 ( *「 朔 」 を「 初 旬 」 と し た こ と に つ い て は、 訳 注 末 尾 の 注 を 参 照 ) に 書 か れ た も の で あ る。 こ の 時、 王 畿 六 十 歳。 こ の 時 期、 王 畿 は 精 力 的 に 徽 州 府 で の 講 学 活 動 を 展 開 し て い た。 こ の「 会 約 」 中 に、 「 婺 源 は 紫 陽 の 闕 里 爲り」とあるように、婺源は朱熹の故郷にして朱子学の聖地でもあった。 嘉靖三十六年の王畿の講学活動   「婺源同志會約」が書かれた嘉靖丁巳三十六年(一五五七) 、王畿は五月六日に耳順の年を迎えたが、なおも精力 的に各地の講会に参加し、講学活動を行っている。 ○  四 月 一 日 ~ 十 三 日。 王 龍 溪 は、 寧 国 府 涇 縣 の 水 西 書 院 で 開 催 さ れ た 水 西 の 会 に 赴 く。 四 月 一 日 に、 水 西 に 到 着。 参加者は、 汪尚甯 (字は延德、 号は周潭。一五〇九─一五七九。徽州歙県の人。嘉靖己丑、 一五二九年の進士) ・ 周怡 (字は順之、 号 は 訥 溪。 一 五 〇 五 ─ 一 五 六 九。 宣 州 太 平 の 人。 嘉 靖 戊 戌、 一 五 三 八 年 の 進 士 ) ら 百 余 人。 講 会 は、 四 月 一 日 に 始 ま り、

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十三日に解散。この時のことは、 王畿の「水西同志会籍」 (『王畿集』巻二、 三五頁) 、 及び、 「水西經舎會語」 (同巻三、 五九頁) に記録がある。後者は、汪尚甯がその問答を記録し、王畿が訂正を加えたものである。 〇  四月十八日から二十八日頃。旌徳から新安に入り、徽州府の領県であり、また府城のあった歙県で開催された新 安福田の会に参加。十日も前から、洪覺山、及び、新安六邑の諸友が待ち受けていた。この講会の詳細について は、 『龍渓王先生全集』巻二、及び、 「新安福田山房 六邑 0 0 會籍」 (「福田山房序」 『新安理學先覺會言』所収) がある。 〇  五月。休寧の会に参加。 「書休寧會約」 (『全集』巻二。 『新安理學先覺會言』所収) 。 ○  五 月 五 日。 休 寧 県 の 西 四 十 余 里 に あ る 齊 雲 山 か ら 星 源 ( 婺 源 ) に 向 かい、洪覺山ら数十人と普済山房に宿泊し、そこで婺源同志会に参 加。本訳注「婺源同志會約」 。 〇  五月。婺源の葉蓮峰の二子、茂芝・獻芝兄弟の招きに応じて、雲荘 山の麓の見一堂において開かれた進修会に参加。これは、葉氏一族 によって開催された所謂「家会」である。 「書進修会籍」 (『王畿集』 巻二、 四八頁) ○  五月末から六月初め。王畿は、王遵巖とともに、三山(福州)の石 雲館第で、十九日間にわたって講学。別れに臨んで、問答の内容を ま と め た「 三 山 麗 澤 録 」( 『 龍 渓 会 語 』 巻 二 所 収 ) を 著 す。 『 白 山 中 国学』通巻 16号 (二〇一〇年) に訳注を掲載しているので参照。 (中島楽章『徽州商人と明清中国』山川出版)

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  以 上 の よ う に、 王 畿 は、 嘉 靖 三 十 六 ( 一 五 五 七 ) 年 の 春 か ら 夏 に か け て、 お そ ら く 二 月 に 銭 塘 県 で の 恒 例 の 天 真 書院の会に参加の後、 寧國府涇県から徽州府の歙県に入り、 さらに、 休寧県や婺源県において、 同志たちの講会や、 更に当地の有力宗族が開催する家会にも参加し、その後、福建省の三山にまで足を延ばすなど、とても精力的に講 会活動を繰り広げている。なお、 今回、 王畿の徽州府(新安)での講学活動について、 その経緯や実態を知る上で、 『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』( 後 述 ) が と て も 参 考 に な っ た。 そ の 中 に は、 嘉 靖 三 十 六 年 ( 一 五 五 七 ) の 末 署 を も つ「 福 田 山房序」 ・「書休寧會約」 ・「婺源同志會約」 ・「余氏家會題辭」の四つの会約が掲載されてある。 開催地の婺源について   『 太 平 寰 宇 記 』 に 拠 れ ば、 婺 水 が 城 市 の 三 面 を め ぐ っ て い る こ と か ら、 そ の 名 が つ け ら れ た と 言 う。 故 城 は、 今 の安徽婺源縣の北二十五里にあった。清化鎭である。後に治を絃高に移す。今は、江西省徳興県に属している。以 上は、臧勵龢等編『中國古今地名大辭典』 (上海商務印書館、一九三一、 八八七頁)に拠る。   「婺源同志会約」 の文中に、 「婺源は紫陽の闕里爲り」 とある。 「紫陽」 は朱子の別名である。三浦國雄氏によれば、 朱 子 が 若 い 頃 に よ く 登 っ た 徽 州 歙 県 城 南 に あ る 紫 陽 山 に ち な む。 朱 子 は、 「 後 に、 崇 安 縣 の 東 の 潭 溪 の ほ と り に 亡 父 に ち な ん で 紫 陽 書 院 を 建 て る。 朱 子 を 紫 陽 と 呼 ぶ の は こ れ に 由 来 す る。 」( 『 朱 子 』 講 談 社、 一 九 七 九、 七 〇 頁 )。 ま た、 婺 源 は、 朱 熹 の 父  朱 松( 字 は 喬 年、 号 は 韋 齋。 一 〇 九 七 ~ 一 一 四 三 ) の 生 地 で あ る。 遡 れ ば、 朱 氏 一 族 は、 「 歙 州 の 黄 墩 湖 の ほ と り に 住 ん で い た が、 唐 王 朝 の 最 後 の 年 号 で あ る 天 祐 年 間( 九 〇 四 ~ 九 〇 七 ) に、 朱 古 僚( 一 説に諱は 瓌 ともいう)という人が歙州刺史・陶雅の命によって、兵卒三千人を率いて婺源を 戍 まも り、そのままそこに 住みついた。これが婺源の朱氏の始祖である。 」( 『朱子』六十二頁) 。

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  上 の 写 真 は、 「 文 公 闕 里 」 と 書 か れ た 門 坊。 も と は、 元 の 時 代 に、 婺源の朱文公家廟の門坊として建立されたもの。三門両楼で、両脇に 「景星慶雲」 「泰山喬嶽」の提額があった。原坊はすでに倒壊して残っ ておらず、 この写真の門坊は、 黄山市歙県の郊外にある「徽州文化園」 に復元されたもの。宋の理宗の御筆とされる。   婺 源 は、 朱 熹 の 父  朱 松 の 生 地 で あ り、 朱 氏 一 族 の 本 籍 地 で あ る。 いわば朱子学の聖地とも言うべきで土地である。王畿に先だって婺源 で の 講 学 を 行 っ た 鄒 東 廓 に も、 嘉 靖 庚 戌 仲 冬( 嘉 靖 二 十 九 年・ 一五五〇年)に書かれた「書婺源同志会約」という一文があるが、そ の 冒 頭 で、 彼 は 婺 源 の 学 生 た ち を 前 に、 「 夫 れ 徽 國( 徽 州 府・ 新 安 ) の文公(朱熹)は、子の郷の先哲に非ざらんや。凡近を脱し、高明に 游 べ、 嬰 兒 と 爲 る 勿 れ、 大 人 と 爲 れ と は、 [ 朱 文 ] 公 の 來 學 を 啓 迪 せ しことに非ざらんや」 (「書婺源同志會約」 『鄒守益集』巻十六、 七八一 頁。 『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 に も 所 収。 ) と 言 い、 さ ら に 末 尾 で、 「 以 て 爾が郷の先哲の休(美)を 續 つ がんことを」と鼓舞している。 朱子学と陽明学   陽明学は、朱子の学問を批判的に継承した学である。婺源は朱子ゆかりの土地であったことから、王陽明の高弟 「文公闕里」と書かれた門坊(筆者撮影)

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にして、 良知現成論を説き、 「四無」説を説く王畿を迎え入れる側の学者たちの反応は、 きわめて複雑なものであっ たようだ。   まず、王畿は、講会の席で、或る人の「婺源は紫陽の闕裡爲り。今日の論、異同する所有るを免れず。 盍 なん ぞ 諸 こ れ を 諱 ま ざ る。 」 と い う 質 問 に 遭 遇 す る。 す な わ ち、 ど う し て わ ざ わ ざ 朱 子 の 故 郷 で も あ る 婺 源 の 地 に ま で 来 て、 陽 明学を広めようとするのか、という冷ややかな先制攻撃である。朱子学の聖地でもある婺源の地への良知心学の進 出に対する警戒心に満ちた発言である。これに対して、王畿は、王陽明の「学は天下の公学、道は天下の公道」の 語をもって応酬し、質問者の料簡の狭さを厳しくたしなめる。   そ の 上 で、 「 晦 翁 は 随 処 で 分 ち て 二 と 為 す、 先 師 は 随 処 で 合 わ せ て 一 と 為 す。 此 れ 其 の 大 較 な り 」 と、 両 者 の 違 い を 端 的 に 喝 破 す る。 さ ら に、 結 び の 一 句 で は、 聖 学 を 学 ぶ 際 に、 な に よ り も 大 切 な こ と は、 「 必 ず 聖 人 に 為 ろ う と す る 志 」 で あ る こ と を 力 説 し た 上 で、 学 問 の 是 非 当 否 は、 「 必 ず し も 其 れ 晦 翁 よ り 出 で し か、 先 師 よ り 出 で し か を問わず、諸れを其の心の安んずるものに求むるのみ」だとする。すなわち、既成の価値観の根底にあるもの、す なわち、人の本心にまで遡って、学の是非当否は見定めるべきであって、朱子か、王陽明かといった、上っ面の派 閥 争 い を し て い る 場 合 で は な い と た し な め る。 そ し て、 更 に、 最 後 に、 婺 源 の 学 ぶ 者 た ち に、 「 諸 こ れ を 心 に 求 め て 安んずるときや、其の言の 葛 き こ り 蕘 より出ずと雖も、敢えて以て非と為さざるなり。況んや先師をや。諸れを心に求め て 未 だ 安 か ら ざ る と き や、 其 の 言 の 孔 子 よ り 出 づ と 雖 も、 未 だ 敢 え て 信 ぜ ざ る な り。 況 ん や 晦 翁 を や。 」 と 結 ん で いる。極めて挑発的な言葉である。それが理由かどうかは分からないが、この部分は、全集本所収の「書婺源同志 會約」では、削除されている。

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婺源同志会について   『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 所 収 の 劉 邦 采「 聖 學 端 緒 辨 」 に、 「 婺 源 同 志 会 」 の 開 催 の 経 緯 に つ い て、 次 の よ う に 言 う。 劉 邦 采 は、 名 は 師 泉、 邦 采 は 字、 号 は 君 亮・ 獅 泉、 江 西 安 福 の 人、 嘉 靖 七 年 郷 試。 『 明 儒 學 案 』 巻 十 九・ 江 右 王 門 四所収。 会稽の先師(王陽明先生)が良知を掲げて四方に提唱した。四方の士人たちは、一時にして響くように、これ に呼応した。そして、 婺源の共に学ぶ者たちも日ごとに増した。庚戌 (嘉靖二八年 ・ 一五四九) の孟冬 (十月) 、 鄒東廓先生は、私とともに東に游学し、斉雲山に登り、紫陽[朱氏の祠]を訪れた。そして、婺源県の同志た ちもこれ聞きつけて、雲集した。 [別れに臨んで]依依として[後ろ髪を引かれる思いで]別れるに忍びなく、 と は い え、 別 れ ざ る を え な い。 [ 同 志 た ち が ] 互 い に 離 れ ば な れ に な っ て、 孤 独 に な っ て し ま う こ と に 対 し て 打つ手を探り、そこで婺源縣独自の講会の開催を決めた。私が[文を草して]宣言することで、その証拠とす るように依嘱してきた。 會稽先師掲良知以唱四方、 四方之士一時響應、 而婺源之共學者日増。庚戌孟冬、 東廓先生偕予東游、 躡齊雲、 謁紫陽、而茲邑同志聞而雲集、依依不忍別、又不容于不別也。惧其離群索居、遂謀而爲一邑之會、屬余言以 徴。   『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 を 見 る と、 新 安 の 地 に は、 ま ず は 婺 源 出 身 の 洪 覺 山 を 介 し て、 そ の 師 の 湛 甘 泉 が 入 り、 心

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学を広めた。その後、鄒守益や王畿など、王陽明門下の高弟達が続々と徽州府に入り、講学活動を行っている。   な お、 婺 源 同 志 会 の 創 立 者 で あ る 鄒 守 益 に も 同 名 の 一 文 が あ る。 「 婺 源 同 志 會 約 」( 『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 所 収。 なお、 『鄒守益集』巻十六に所収の題名は「書婺源同志會約」   七八一頁) 。王畿のものと同様、 『新安理學先覺會言』 に所収されたものの方が、冒頭部分の人名等の記載が具体的で、やや詳しい。原会約と思われる。 徽州府の講会活動について   婺源のある新安(徽州府)は講会活動が極めて盛んな地域であった。その一端は、次に掲げる謝應秀「題獅山于 氏家會」の中の以下の記述を通しても窺い知ることができよう。 往時の先輩として、 婺源には覺山洪師が、 歙県には周潭汪師が、 祁門には凰山一墩先生が、 休寧は鵬溪汪先生、 黟県は喬山韓先生がいた。大いに [斯学を] 提唱して、 人びとの心を奮い起こした。 [新安] 六県では、 歳会 (年 次例会)が行われ、各県には季会(季節ごとの講会)が存在した。善を勧め過ちを 規 ただ して、とことんまで[本 心を]覚醒させ、 蒸 さ か ん 蒸然 に鼓舞しあい、感化しあった。それはまさに飢えた者が空腹を満たそうとし、旅人が 家に帰ろうとする以上の勢いであった。 一時先輩、在婺有覺山洪師、歙有周潭汪師、祁則凰山一墩先生、休則鵬溪汪先生、黟則喬山韓先生、大倡擧 而 振 起 之。 六 邑 有 歳 會、 各 邑 有 季 會、 勸 善 規 過、 提 醒 究 竟、 蒸 蒸 然 鼓 舞 薫 成。 不 啻 饑 求 飽、 行 赴 家 也。 ( 謝 應秀「題獅山于氏家會」 『新安理學先覺會言』 )

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  ここに述べられているように、新安六邑全体では年一回の「歳会」を行い、各邑では三ヶ月に一回の「季会」を 行 い、 更 に は、 裕 福 な 氏 族 で は 子 弟 の 教 育 と し て 月 一 回 の「 月 会 」 も 行 わ れ て い た。 『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 に は、 王 畿「 余 氏 家 會 籍 題 辭 」、 銭 緒 山「 書 婺 源 葉 氏 家 會 籍 」、 余 純 似「 杭 溪 張 氏 交 脩 堂 家 會 題 辭 」、 謝 應 秀「 題 獅 山 于 氏 家會」 、陳昭祥「黟南 韓氏 家會序」 、李芳「喬岭 韓氏 家會序」 、謝凰山「王源 謝氏 家會序」 、以上七編の家会の記録が 収 録 さ れ て い る。 そ れ ぞ れ の 県 に は、 講 会 を 行 う 上 で の 中 心 人 物 が 存 在 し て お り、 「 婺 源 同 志 会 約 」 に 登 場 す る、 王畿を婺源の地に招聘した洪覺山は、婺源に此の人有りとされた著名な学者であった。 テキストについて   『王龍溪先生全集』巻二に、 「書婺源同志會約」がある( 『王畿集』三八頁) 。ただし、今回は、おそらくその執筆 当時の原本とされる、韓夢鵬撰『新安理學先覺會言』所収の「婺源同志會約」を使用した。全集本と対校し、その 違いを、 〔校注〕 で示した。これを見ると、 全集本では多くの省略が為されていることが分かる。そこから、 この 『新 安 理 學 先 覺 會 言 』 所 収 の も の が、 そ の 原 本 と 見 ら れ る。 す な わ ち、 『 龍 溪 會 語 』 と 同 じ よ う に、 全 集 に 所 収 さ れ る 際 の、 編 集 の 手 が 加 え ら れ る 以 前 の 原 本 で あ る。 編 者 の 韓 夢 鵬 に よ れ ば、 『 新 安 理 學 先 覺 會 言 』 は、 嘉 靖 か ら 萬 暦 年間に、徽州府を訪れた陽明学派の学者たちの会約・会語の類が保管されていたものの散逸を恐れ、それらを集め て一冊としたものである。しかし、残念ながら、この書は、朱子学の聖地である新安の地では、長い間、日の目を 見ることが無かったようだ。現存するものは、安徽省博物館の民国時期安徽通志館に、手抄本のかたちで伝わる一 冊 の み と い う こ と で、 所 謂「 天 下 の 孤 本 」 で あ る。 現 在、 解 光 宇『 新 安 理 學 論 綱 』 ( 安 徽 大 学 出 版 社、 二 〇 一 四 ) の 附 録として排印されているので、見ることができる。

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*      *      *

王畿「婺源同志會約」訳注

嘉靖丁巳五月端陽、予從齊雲趨會星源。覺山洪子、偕諸同志、舘予普濟山房。聚處凡數十人、晨夕相觀。因述先師 遺旨及區區鄙見、以相訂 繹 1 * 、頗有所發明。同志互相 參 2 * 伍、亦頗有所證悟。    〔校注〕   * 1「繹」を「釋」に作る(道光本) 。   * 2「參」を「三」に作る(道光本) 。   嘉靖丁巳五月の端陽、予、齊雲從り、星源に會するに趨く。覺山洪子、諸同志と 偕 とも にし、予を普濟山房に館す。聚 り處るもの凡そ數十人。晨夕相觀る。因りて先師の遺旨、及び、區區の鄙見を述べて以て相訂繹し、頗る發明する 所有り。同志も互いに相參伍して、亦た頗る證悟する所有り。 嘉 靖 丁 巳 ( 嘉 靖 三 十 六 年、 一 五 五 七 年、 王 畿 六 十 歳。 ) 五 月 五 日、 私 は、 齊 雲 山 か ら、 星 源( 婺 源 ) の 会 に 趨 い た。 洪 覺 山先生は同志たちと同行し、私を普濟山房に宿泊させ[て、同志たちの教育にあたらせ]た。聚ってきた者たちは 総 勢 数 十 人。 朝 夕、 切 磋 琢 磨 し あ っ た。 そ こ で、 [ 陽 明 ] 先 師 の 思 想 や[ そ れ に つ い て の ] 各 自 の 私 見 を 述 べ、 相 互 に 吟 味 し 合 う こ と で、 か な り 明 ら か に な っ た こ と が あ る。 同 志 た ち も ま た 相 互 に 意 見 を 比 較 検 証 し 合 う こ と で、 かなり悟るところがあったようだ。

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〇嘉靖丁巳=嘉靖三十六年丁已、一五五七年、王畿六十歳。   〇端陽=端午。陰暦の五月五日。   〇齊雲=齊 雲 山。 「 在 安 徽 休 寧 縣 西 四 十 餘 里。 中 峯 有 峻 巖。 憑 梯 而 上。 三 面 並 絶 壁 秀 峭。 峯 頂 廣 四 十 畝。 有 石 室。 學 道 者 居 之。 」( 臧 勵 龢 等 編『 中 國 古 今 地 名 大 辭 典 』 商 務 印 書 館、 一 九 三 一 )。 現 在 は、 国 家 級 風 景 名 勝 区 に 選 ば れ、 観 光 地 と な っ て い る。   〇 星 源 = 婺 源 の 雅 名。 弘 治『 徽 州 府 志 』 巻 一・ 地 理 一・ 郡 名 に、 「 婺 源 縣。 星 源、 以 縣本休 寜 地、 曾屬婺州、 取上應婺女之説、 故名」とある(明 ・ 彭澤修/汪舜民纂(弘治) 『徽州府志』全十二卷、 明弘治刻本) 。また、康煕『徽州府志』巻一の「婺源」の項に、 「星源亦以應婺女名。 」(清・丁廷楗修/趙吉士 纂『 康 熙 徽 州 府 志 』 全 十 八 巻、 清 康 熙 三 十 八 年 刊 本 ) と あ る。 「 婺 女 」 は、 星 座 の 名。 二 十 八 宿 の 一 つ。 玄 武 七 宿 の 第 三 宿。   〇 館 = 青 木 正 兒 の「 中 華 文 人 の 生 活 」 と い う 一 文 の「 客 遊 生 活 」 に つ い て 述 べ た 中 に、 「 富 貴の家は家塾を設け師を延いて子弟を教育するのが普通で、南宋の「夢梁録」 (巻十九、閒人の條)には、 「食 客には蒙童 ・ 子弟を訓導する者有り、 之を館客と謂ふ」 とあり、 雅名を 「西席」 「西賓」 と曰ひ、 また俗稱を 「門 館 先 生 」 と 曰 ふ。 文 人 學 士 の 傳 に、 某 の 家 に「 館 す 」 と あ る の が 此 の 生 活 で あ る 」 と あ る( 傍 線 筆 者。 『 青 木 正 兒 全 集 』 第 七 巻、 春 秋 社、 二 二 三 頁 )。 こ れ に よ れ ば、 単 な る 宿 泊 に と ど ま ら ず、 そ こ で の 子 弟 の 教 育 に も あたったのであろう。なお、 『漢語大詞典』 (以下、 『漢語』と略)に、 「旧時の私塾」の意とある。   〇普濟山 房 = 婺 源 県 の 普 濟 寺 か。 嘉 靖『 徽 州 府 志 』 巻 二 十 二・ 寺 觀 に、 「 普 濟 寺。 在 縣 治 東。 唐 中 和 三 年 建。 宋 大 中 祥 符六年賜額、 至正壬辰兵燬。國朝洪武初年重建」と見える。待考。   〇覺山洪子=洪垣、 字は峻之、 号は覚山、 婺源の人。 一五〇一~一五九〇。 嘉靖十一年の進士で温州知府を以て落職帰郷し、 以來家居すること四十六年。 その間、婺源を中心に、新安(徽州府)での講会活動を精力的に行っている。九十歳で卒した。湛甘泉の高弟 で、 「湛甘泉先生文集序」 (『湛甘泉先生文集』広西師範大学出版社、 二〇一四、 四七頁) 、 及び、 「墓誌銘」 (同上 ・

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巻三十二・外集所収、一八七五頁)がある。 『明史』巻二百八、 『明儒学案』巻三十九に伝がある。洪垣は、徽 州 府 に お け る 陽 明 学 派 の 講 会 を 誘 致 す る に あ た っ て の 中 心 的 存 在 で あ っ た。 康 煕『 徽 州 府 志 』 巻 十 三 に、 「 垣 仕宦所至、輙捐俸、立書院、置贍田、集人士講論、下逮氓庶吏胥、亦令環聽民皆專爼豆祀之、及解組歸復。偕 同里方瓘往從甘泉學、 甘泉爲起二妙樓居之。家居四十六年、 講習無虚日、 問學者屨嘗滿戸外、 學者稱覺山先生。 所 著 有 歴 朝 史 説・ 周 易 玩 辭・ 理 學 要 録 緒 言 聞 言 應 迹 言 等 書。 」 と あ る。 著 に『 覺 山 先 生 緒 言 』 が 有 る。 今、 WEB サイト Internet Archive ( https://archive.org/details/02095589.cn )で閲覧可能。   〇參伍=比較験証する。 『漢語』に、 「交互錯雑。錯綜比較、加以験証」とある。 『易』繫辭上伝に、 「 參伍 以變、錯綜其數。 」に基づく。 ま た、 『 韓 非 子 』 八 經 に、 「 参 伍 之 道、 行 参 以 謀 多、 揆 伍 以 責 失。 」 と あ る。 『 史 記 』 太 史 公 自 序 に、 「 若 夫 控 名 責實、 参伍 不失、此不可不察也。 」とある。 或 者 曰、 「 婺 源 爲 紫 陽 闕 里。 今 日 之 論、 不 免 有 1 * 所 異 同、 盍 諱 諸。 」 予 曰、 「 噫。 鄙 哉。 是 何 待 晦 翁 之 薄、 而 視 吾 道 之 不廣也。夫道、天下之公道、學、天下之公學、公言之而已。今日之論、不能免于異同者、乃其入門下手之稍殊。至 于此志之必爲聖人、則固未嘗有異也。蓋非同異、不足以盡其變。非析異以歸于同、則無以會其全。 雖 2 * 使千聖同堂而 坐、其言論風旨、亦不能以盡合。 道 3 * 固如是、學固如是也。譬之五味相濟、各適其宜而止。若以水濟水、孰從而和之 哉。    〔校注〕   * 1「有所異同」 を 「於有異同」 に作る。   * 2「雖」 字無し。   * 3「道固如是、 學固如是也」 の八字は、 「會 其全」の下に在り。

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或る者曰く、 「婺源は紫陽の闕裡爲り。 今日の論、 異同する所有るを免れず。 盍 なん ぞ 諸 こ れを諱まざる。 」と。 予曰く、 「噫。 鄙 せま きかな。是れ何ぞ晦翁を待つことの薄くして、吾が道を視ることの廣からざるや。夫れ道は、天下の公道、學は 天下の公學なれば、之を公言するのみ。今日の論、異同を免るる能わざるは、乃ち其の門に入り手を下すことの稍 や殊なればなり。此の志の必ず聖人と爲らんとするに至りては、則ち、固に未だ嘗て異ること有らざるなり。蓋し 同異するに非ざれば、以て其の變を盡くすに足らず、異を 析 わか ちて以て同に歸するに非ざれば、則ち、以て其の全を 會すること無し。千聖をして堂を同じくして坐せしむと雖も、其の言論風旨、亦た以て盡くは合う能わず。道は固 より是くの如し、學は固より是くの如きなり。之を五味相 濟 な すに譬うれば、各おの其の宜に適うのみ。若し水を以 て水を 濟 ととの へんとせば、孰れに從りてか之を和さんや。 ある人が言った。 「婺源は紫陽(朱熹)の故郷である。 [朱子の学と王陽明の学とでは]今日の議論として、どうし ても 異 ち が い 同 が存在します。どうして、はばかって避けようとしないのですか。 」と。私が言った。 「ああ。なんとさも し い こ と よ。 な ん と も 朱 晦 翁 に 対 す る 接 し 方 が 薄 っ ぺ ら な 反 面、 吾 が 道 に 向 け る 視 線 が 大 ざ っ ぱ す ぎ は し な い か。 そもそも道は、天下の公道であり、学は天下の公学であれば、 公 オープン に語ればよいだけだ。今日の論点が異同を免れな いのは、入門後の功夫の方法がいくぶん異なるからである。必ず聖人になろうとする志となる、もとより決して違 いはないはずだ。思うに、 同 ち が い 異 が無いと、変化にじゅうぶん対応することはできない。差異を分析することで、同 じところに帰着するのでなければ、その全体を一つにまとめることはできない。あまたの聖人を一堂に会して坐ら せたとして、その議論の意味合いは、やはりけっして何から何まで一致させることはできないだろう。道はもとよ りそういったものだし、 学はもとよりそういったものである。 これを五味が織りなす料理に譬えるならば、 [五味を]

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それぞれ[適量加えることで]ほどよい味加減にするだけである。もし[無味の]水で水[の味]を調えようとし ても、どうして調味することができよう。 〇婺源=朱氏一族の故郷。朱氏家廟がある。朱子の父、朱松の生地。朱子の生地は、福建路南剣州尤溪県の鄭 安道である。朱子が婺源を訪れたのは、 生涯に二度だけである。一度目は、 紹興十九年(一一四九)十二月に。 墓 参 に 行 き、 家 廟 を 訪 れ た。 朱 子 二 十 歳。 二 度 目 は、 淳 煕 三 年( 一 一 七 六 ) 三 月、 祖 先 の 墓 の 修 復 を 行 う。 四十六歳。 (三浦『朱子』年譜参照) 。    〇紫陽=朱子の別名。朱子が若い頃によく登った徽州歙県城南にあ る紫陽山にちなむ。朱子は、後に崇安縣の東の潭溪のほとりに亡父にちなんで紫陽書院を建てる。朱子を紫陽 と呼ぶのはこれに由来する(三浦『朱子』七〇頁) 。   〇闕里=もと孔子の故居。今の山東省曲阜城内闕里街。 孔 子 廟 が あ る。 こ こ で は、 広 義 の「 故 郷 」。 す な わ ち、 朱 氏 一 族 の 家 廟 が あ っ た こ と か ら、 「 朱 氏 一 族 の 故 郷 」 と い う ほ ど の 意 で あ ろ う。   〇 盍 諱 諸 =「 ど う し て 避 け よ う と し な い の か 」 と い う 或 る 人 の 質 問 の 背 後 に は、 どうしてわざわざ朱子学の聖地とも言うべき婺源の地にまで来て、陽明学を広めようとするのかという含意が 込められているのであろう。朱子の闕里である婺源の地への陽明学の進出/侵出に対する警戒心に満ちた発言 である。   〇夫道天下之公道~=王陽明の次の発言を踏まえる。 『伝習録』巻中「答歐陽崇一」に、 「 夫道、天 下之公道也。學、 天下之公學也 。非朱子可得而私也。非孔子可得而私也。天下之公也、 公言之而已矣 。」 とある。   〇五味=五つの味覚。すなわち、甘(あまい) ・酸(すっぱい) ・鹹(塩辛い) ・苦(にがい) ・辛(からい) 。 『礼記』礼運篇に、 「五味六和十二食、還相為質也」とある、その鄭玄の注に、 「五味、酸苦辛鹹甘也」とある。

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今所論不 同 1 * 、莫過於大學之先知後行、與中庸之存養省察。晦翁 以 2 * 格物致知属知、誠意正心属行、分知行爲先後。先 師則以、大學之要、惟在誠意、 知 3 * 者意之体、物者意之用、致知格物者、誠意之功。 不 4 * 行不足之謂知。知行一也。既 分知行爲先後、故須用敬以成其始終。先師則以 為 5 * 、誠即是敬、既誠矣、而復敬以成之、不幾于 頭 6 * 上安頭乎。孔門括 大學一書爲中庸首章、戒惧慎獨者、是 格 7 * 其意之物、致其心之知、誠意之功也。未發之中與發而中節之和、是正心脩 身之事。中和位育、則齊家治國平天下之事也。若分知行爲先後、中庸首言慎獨、是有行而無知也。 脩 8 * 徳凝道、聖學 之全。 若 9 * 分尊德性道問學爲存心致知、是有知而無行 也 11 * 。 晦 11 * 翁以戒慎恐惧属存養、不睹不聞爲己所不知矣、莫見莫顯 属省察、慎獨爲人所不知。既所不知矣、戒慎恐惧、孰從而知之。先師則以不睹不聞為道体、戒慎不睹恐惧不聞是脩 道之功、戒慎恐惧、即是隱、即是微、所謂獨也。是申言不可不慎之意、非二也。晦翁隨處分而爲二、先師隨處合而 爲一、此其大較也。    〔校注〕   * 1「不同」の下に「之大者」の三字有り。   * 2「以格物致知属知、 誠意正心属行、 分知行爲先後」を、 「以 格 致 誠 正、 分 知 行 爲 先 後 」 に 作 る。   * 3「 知 者 意 之 体、 物 者 意 之 用 」 の 十 字 無 し。   * 4「 不 行 不 足 之 謂 知 」 の 七 字 無 し。   * 5「 為 」 字 無 し。   * 6「 頭 上 安 頭 乎 」 を「 贅 已 乎 」 に 作 る。 な お、 『 王 畿 集 』 校 勘 に は、 「 贅 原 作 緩、 拠 丁 賓 本 改 」 と あ る。   * 7「 格 其 意 之 物、 致 其 心 之 知 」 を「 格 致 」 に 作 る。   * 8「 脩 徳 凝 道、 聖 學 之 全 」 の 八 字 無 し。  * 9「 若 」 を「 後 」 に 作 る。   * 11「~ 也 」 の 下 に、 「 一 人 之 言、 自 相 矛 盾、 其 可 乎 哉 」 の 一 文 字 有 り。   * 11「 晦 翁 」 以 下、 「 非 二 也 」 に 至 る ま で を、 「 晦 翁 既 分 存 養 省 察、 故 以 不 睹 不 聞 爲 己 所 不 知、 獨 爲 人 所 不 知、 而 以 中 和 分 位 育。 夫 既 己 所 不 知 矣、 戒 慎 恐 懼、 孰 從 而 知 之。 既 分 中 和 位 育 矣、 天 地 萬 物、 孰 從 而 二 之。 此 不 待 知 者 而 辨 也。 先 師 則 以 不 睹 不 聞 爲道體、戒慎恐懼爲脩道之功。不睹不聞即是隱微、即所謂獨。存省一事、中和一道、位育一原、皆非有二也。 」に作る。

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今、論ずる所の同じからざるは、大學の先知後行、中庸の存養省察より過ぎたるは莫し。晦翁は 以 おも えらく、格物致 知を知に属し、誠意正心を行に属し、知行を分かちて先後と爲すと。先師は則ち以えらく、大學の要は 惟 おも うに誠意 に在り、知は意の体、物は意の用なり、致知格物なる者は誠意の功なり、行わざれば之を知と謂うに足らずと。知 行は一なり。 既に知行を分かちて先後と爲す、 故に敬を用いて以て其の始終を成すを 須 ま つ。 先師は則ち 以 お も 為 えらく、 誠は即ち是れ敬なり、既に誠にして、復た敬して以て之を成す、頭上に頭を 安 お くに 幾 ちか からざるのみならんやと。孔 門、大學の一書を 括 くく りて中庸の首章と爲す、戒懼慎獨なる者は、是れ其の意の物を 格 ただ し、其の心の知を致し、以て 意を誠にするの功なり。未發の中と發して節に中るの和とは、是れ正心脩身の事なり。中和位育は、則ち、齊家治 國 平 天 下 の 事 な り。 若 し 知 行 を 分 か ち て 先 後 と 爲 さ ば、 中 庸 の 首 め に 慎 獨 を 言 う は、 是 れ 行 有 れ ど も 知 無 き な り。 脩徳凝道は、聖學の全なり。尊德性道問學を分かちて存心・致知と爲すが若きは、是れ知有れども行無きなり。晦 翁は 以 おも えらく、戒慎恐懼は存養に属し、睹えず聞こえざるは己の知らざる所と爲し、 見 あらわ るる莫く 顯 あらわ なる莫きは省察 に属し、慎獨は人の知らざる所 爲 た りと。既に知らざる所ならば、戒慎恐懼、孰れか從いて之を知らん。先師は則ち 不睹不聞を以て道体と為し、 睹 み えざるに戒慎し、聞こえざるに恐懼すは、是れ脩道の功にして、戒慎恐懼は即ち是 れ隱、即ち是れ微、所謂獨なり。是れ慎しまざるべからざるの意を申言し、二つにするに非ざるなり。晦翁は隨處 に分ちて二と爲す、先師は隨處に合わせて一と爲す。此れ其の大較なり。 今 日 の 議 論 で 異 な る 点 は、 『 大 学 』 の 先 知 後 行、 『 中 庸 』 の 存 養 省 察 が、 そ の 最 た る も の で あ る。 晦 翁( 朱 熹 ) は、 格物致知を知にあて、 誠意正心を行にあてることで、 知行を分けて先後 [の関係] と見なしている。 [一方] 先師は、 次 の よ う に 考 え る。 『 大 学 』 の 要 は、 「 誠 意 」 に ほ か な ら な い。 知 は 意 の 体 もと で あ り、 物 は 意 の 用 はたらき [ の 所 産 ] で あ る、

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致知格物とは、意を誠にする功夫である。実行しないと[ほんとうに]知っているとは言えない。知と行とは一体 不可分なものである。知行を[二つに]分けて、先後[関係]と見なすから、敬[の工夫]を用いて、始めと終わ り の 完 成 を 待 た ね ば な ら な い の で あ る。 [ 一 方 ] 先 師 は、 次 の よ う に 考 え る。 誠 こ そ ほ か で も な い 敬 で あ る。 す で に誠であるというのに、その上さらに敬によって完成させるというのは、頭上に頭を 安 お くようなもの[で、余計な こ と ] だ。 孔 子 門 下 は、 『 大 学 』 の 一 書 を 総 括 し て、 『 中 庸 』 の 首 章 と し た。 [『 中 庸 』 の ]「 戒 懼 」、 「 慎 独 」 と は、 その意の物を 格 ただ して( 「意」が具体的に発動する現場としての「物」 、すなわち、対他関係の場において、その関係 を 正 し て )、 そ の 心 の 知( 良 知 ) を 発 揮 す る こ と に よ っ て、 「 意 を 誠 に す る 」 功 夫 で あ る。 「 未 発 の 中 」 と「 発 し て 節 に 中 る 」 の 和 と は、 [『 大 学 』 の ] 正 心・ 修 身 の 成 果 で あ る。 「 中 和 位 育 す 」 と は、 [『 大 学 』 の ] 斉 家・ 治 国・ 平 天 下 の 成 果 で あ る。 も し 知 行 を 分 け て、 先 後 と 見 な す の で あ れ ば、 『 中 庸 』 の 首 章 に「 独 を 慎 む 」 と あ る が、 そ こ には行(行為)は有るけれども、知(認知)が無いということになる。徳を身につけ、道を堅固なものにすること が聖学の全てである。 「尊徳性」 と 「道問学」 とを分けて、 [それぞれ] 「存心」 と 「致知」 と見なすとなると、 知 (認 知)が有っても、行(行為)が無い[時がある]ということになる。晦翁は、 「戒慎恐懼」は存養に属し、 「睹えず 聞 こ え ず 」 は「 自 分 で は 気 づ か な い と こ ろ 」 で あ る と し、 「 見 あらわ る る 莫 く 顯 あらわ な る 莫 き 」( す な わ ち、 顕 現 し た と こ ろ ) は 省 察 に 属 し、 「 慎 独 」 は「 他 人 が 気 づ か な い と こ ろ 」 で あ る ( * 筆 者 注 = あ る い は、 「 慎 独 は 省 察 に 属 し、 莫 見 莫 顯 は 他 人 が気づかないところ」 である」 の誤りか?) としている。 「[自分でも] 気づかないところ」 だとすれば、 戒慎恐懼しても、 何にもとづいて知るというのか。先師は、 「睹えない、聞こえない」を道の 体 ありよう とし、 「 睹 み えざるにも戒慎し、聞こえ ざ る に も 恐 懼 す る 」 こ と が、 道 を 修 め る 実 践 で あ り、 「 戒 慎 恐 懼 」 こ そ が 隠 れ た も の で あ り、 微 かす か な も の で あ り、 所 謂 独 で あ る、 と す る。 つ ま り[ い つ で も、 ど こ で も ]「 慎 し ま な い わ け に は い か な い 」 と い う 意 味 を 重 ね て 言 っ

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たもので、 [戒慎恐懼と慎独の両者を]別個のものと見なしているわけではない。 [以上のように]晦翁は随処で物 事を分けて二つにするが、先師は随処で合わせて一つのもと見なす。これが、その大きな違いである。 〇 晦 翁 以 格 物 致 知 屬 知、 誠 意 正 心 属 行、 分 知 行 爲 先 後 =『 大 学 或 問 』 に、 「 程 子 曰、 誠 敬 固 不 可 以 不 勉。 然 天 下之理、不先知之、亦未有能勉以行之者也 。故 大學之序、先致知而後誠意。其等有不可躐者 。 苟無聖人之聦明 睿知、 而徒欲勉焉以踐其行事之迹、 則亦安能如彼之動容周旋無不中禮也哉 。」 。とあるのを踏まえる。王陽明は、 こ れ に 対 し て、 「 蓋『 大 學 』 格 物 之 説、 自 與 繋 辭 窮 理 大 旨 雖 同、 而 微 有 分 辨。 窮 理 者、 兼 格 致 誠 正 而 爲 功 也。 故言窮理、則格致誠正之功皆在其中。 言格物、則必兼擧致知・誠意・正心、而後其功始備而密。今偏擧格物而 遂謂之窮理、 此所以專以窮理屬知、 而謂格物未常有行。非惟不得格物之旨、 并窮理之義而失之矣。此後世之學、 所以析知行爲先後兩截、日以支離決裂、而聖學益以殘 晦 者、其端實始於此 。」 (『伝習録』巻中・ 「答顧東橋書」 ) と 言 う。   〇 大 學 之 要、 惟 在 誠 意 = 王 陽 明 の「 大 學 古 本 序 」 に、 「 大 學 之 要、 誠 意 而 已 矣 。 誠 意 之 功、 格 物 而 已 矣。 」( 新 編 本『 王 陽 明 全 集 』 巻 七、 二 五 八 頁 ) と あ る。   〇 知 者 意 之 体、 物 者 意 之 用、 致 知 格 物 者、 誠 意 之 功 = 王 陽 明 の「 大 學 古 本 傍 釋 」 に、 「 心 者 身 之 主、 意 者 心 之 發、 知 者 意 之 體、 物 者 意 之 用。 」( 新 編 本『 王 陽 明 全集』巻四十五・補録七、 一八五一頁)とある。   〇格物致知者、誠意之功=『伝習録』上巻に、 「 格物致知者 即 誠 意 之 功 。 道 問 學 即 尊 德 性 之 功。 明 善 即 誠 身 之 功、 無 二 説 也。 」。 ま た、 「 答 王 天 宇 」 に「 鄙 意 但 謂 君 子 之 學 以誠意為主、 格物致知者、 誠意之功也。 」とある。   〇不行不足之謂知=『伝習録』中巻に、 「知之眞切篤實處、 即是行。行之明覺精察處、即是知。知行工夫、本不可離。只爲後世學者分作兩截用功、失卻知行本體、故有合 一 並 進 之 説。 眞 知 即 所 以 爲 行、 不 行 不 足 謂 之 知 。」   〇 頭 上 安 頭 = 余 計 な こ と、 重 複 す る こ と の 比 喩。 こ こ は、

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蛇足の意。典拠は仏典。 『五燈會元』に、 「今有一事問汝等、 若道這箇是、 即頭上安頭、 若道不是、 即斬頭求活。 」 と見える。また、 黄庭堅の「拙軒頌」に、 「頭上安頭、 屋下蓋屋、 畢竟巧者有餘、 拙者不足。 」とある。以上、 『漢 語 』 に 拠 る。   〇 孔 門 括 大 學 一 書 爲 中 庸 首 章 =『 伝 習 録 』 上 巻・ 42条 に、 「 澄 問 學 庸 同 異。 先 生 曰、 子 思 括 大 學 一 書 之 義、 為 中 庸 首 章 。」 と あ る の を 踏 ま え る。 ま た、 「 中 庸 首 章 解 義 」 に も、 「 先 師 謂 子 思 括 大 學 一 書 爲 中 庸 首 章 。 戒 懼 慎 獨 者、 致 知 格 物 之 功、 所 謂 誠 意 也、 未 發 之 中、 正 心 邊 事。 中 節 之 和、 修 身 邊 事。 中 和 位 育 者、 家 齊 國 治 而 天 下 平、 盡 性 以 至 於 命 也。 此 易 簡 之 旨、 一 貫 之 宗 傳 也。 而 世 之 言 修 道 者 離 矣。 」( 『 王 畿 集 』 巻 八、 一 七 九 頁 ) と あ る。   〇 須 用 敬 以 成 其 始 終 =『 大 學 或 問 』 冒 頭 に、 「 吾 聞 之、 敬 之 一 字、 聖 學 所 以 成 始 而 成 終 者 也」 、 また、 更に、 「敬者、 一心之主宰而萬事之本根也。知其所以用力之方、 則知小學之不能無頼於此以爲始。 知小學之頼此以始、則夫大學之不能無頼乎此以爲終者、可以一以貫之而無疑矣。蓋此心既立、由是格物致知以 盡事物之理、則所謂尊德性而道問學。由是誠意正心以脩其身、則所謂先立其大者而小者不能奪。由是齊家治國 以及乎天下、則所謂脩己以安百姓、篤恭而天下平。是皆未始一日而離乎敬也。然則 敬之一字、豈非聖學始終之 要 也 哉。 」 と 言 う。 こ う し た 朱 熹 の「 居 敬 」 の 説 に 対 し て、 王 陽 明 は、 「 敬 」 を「 蛇 足 」 と し て 退 け る。 「 …… 大 抵『 中 庸 』 工 夫、 只 是 誠 身。 誠 身 之 極、 便 是 至 誠。 『 大 學 』 工 夫、 只 是 誠 意。 誠 意 之 極、 便 是 至 善。 工 夫 總 是一般。 今說這裏補箇敬字、 那裏補箇誠字、 未免畫蛇添足 。」 (『伝習録』上巻) 。   〇先師則以不睹不聞為道体、 戒慎不睹恐惧不聞、是脩道之功=『伝習録』下巻に、 「……蓋 不睹不聞是良知本體。戒慎恐懼是致良知的工夫 。 學者時時刻刻常睹其所不睹、常聞其所不聞、工夫方有個實落處。久久成熟後、則不須著力、不待防檢、而真性 自 不 息 矣。 豈 以 在 外 者 之 聞 見 為 累 哉。 」  〇 戒 懼 慎 獨 =『 中 庸 章 句 』 第 一 章 に、 「 道 也 者、 不 可 須 臾 離 也。 可 離 非 道 也。 是 故 君 子 戒 愼 乎 其 所 不 睹、 恐 懼 乎 其 所 不 聞。 / 莫 見 乎 隱、 莫 顯 乎 微。 故 君 子 愼 其 獨 也。 」 と あ る の に

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拠 る。 朱 注 に、 「 道 者、 日 用 事 物 當 行 之 理。 皆 性 之 德 而 具 於 心。 無 物 不 有、 無 時 不 然。 所 以 不 可 須 臾 離 也。 若 其可離、則豈率性之謂哉。是以君子之心常存敬畏、雖不見聞、亦不敢忽。所以存天理之本然、而不使離於須臾 之 頃 也。 / 隱、 暗 處 也。 微、 細 事 也。 獨 者、 人 所 不 知 而 己 所 獨 知 之 地 也 。 言 幽 暗 之 中、 細 微 之 事、 跡 雖 未 形、 而幾則已動。人雖不知、而己獨知之、則是天下之事、無有著見明顯而過於此者。是以君子既常戒懼、而於此尤 加 謹 焉。 所 以 遏 人 欲 於 將 萌、 而 不 使 其 潛 滋 暗 長 於 隱 微 之 中、 以 至 離 道 之 遠 也。 」 と あ る。   〇 中 和 位 育 =『 中 庸章句』第一章に、 「致中和、 天地位焉、 萬物育焉。 」とある。その朱注に、 「致、 推而極之也。位者、 安其所也。 育者、遂其生也。 自戒懼而約之、以至於至靜之中、無少偏倚、而其守不失、則極其中而天地位矣。自謹獨而精 之、以至於應物之處、無少差 謬 、而無適不然、則極其和而萬物育矣 。蓋天地萬物本吾一體。吾之心正、則天地 之 心 亦 正 矣。 吾 之 氣 順、 則 天 地 之 氣 亦 順 矣。 故 其 效 驗 至 於 如 此。 此 學 問 之 極 功、 聖 人 之 能 事、 初 非 有 待 於 外、 而脩道之敎亦在其中矣。是其一體一用雖有動靜之殊、然必其體立、而後用有以行、則其實亦非有兩事也。故於 此 合 而 言 之、 以 結 上 文 之 意。 」 と あ る。   〇 脩 徳 凝 道 =『 中 庸 章 句 』 第 二 十 七 章 の「 君 子 尊 德 性 而 道 問 學 」 の 朱注に、 「二者( 「尊徳性」と「道問学」 ) 脩德凝道 之大端也」とある。なお、 「凝道」については、王畿に「凝 道堂記」があり、その中で、 「夫萬物皆備於我、反身而誠、則樂誠斯凝矣。凝目睛、始能善萬物之色。凝耳韻、 始 能 善 萬 物 之 聲、 天 聰 明 也。 良 知 者、 離 明 之 體、 天 聰 明 之 盡。 致 良 知 則 天 命 在 我、 宛 然 無 思 無 爲、 不 出 其 位、 而萬善皆歸焉。所謂凝命也。故君子不重則不威、厚重威嚴、正位居體、 凝者學之固也 。以忠信爲主本、忠信者 凝之質也。世之學者、不務其本、而襲取於外、以輕浮失之者多矣。艮之連山、坤之歸藏、乾之潜龍、易道之密 機、 皆 所 謂 凝 也。 成 湯 之 昧 顧 諟、 文 王 之 小 心 昭 事、 成 王 之 夙 基 命、 聖 功 也。 故 曰 凝 者 聖 學 之 基 。」 (『 王 畿 集 』 巻十七、 四八〇頁)と言う   〇分尊德性道問學爲存心致知=『中庸章句』第二十七章の「君子尊德性而道問學」

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の朱注に、 「 尊德性、 所以存心而極乎道體之大也。道問學、 所以致知而盡乎道體之細也 。二者 脩德凝道之大端 也。 不以一毫私意自蔽、不以一毫私欲自累、涵泳乎其所已知、敦篤乎其所已能。 此皆存心之屬也 。析理則不使有毫 釐之差、處事則不使有過不及之謬。理義則日知其所未知、節文則日謹其所未謹。 此皆致知之屬也 。蓋非存心無 以 致 知、 而 存 心 者 又 不 可 以 不 致 知。 」 と、 「 尊 德 性 」 を「 存 心 」 に、 「 道 問 学 」 を「 致 知 」 に 分 属 し て い る が、 同時に、 その不可分性についても言及している。   〇晦翁以戒慎恐惧属存養……莫見莫顯属省察=朱熹は、 『中 庸 章 句 』 首 章 の ま と め に お い て、 「 右 第 一 章。 子 思 述 所 傳 之 意 以 立 言。 首 明 道 之 本 原 出 於 天 而 不 可 易、 其 實 體 備於己而不可離。次言 存養省察之要 。」 と言う。   〇晦翁……不睹不聞爲己所不知矣……慎獨爲人所不知= 『中 庸 章 句 』 首 章「 莫 見 乎 隱。 莫 顯 乎 微。 故 君 子 愼 其 獨 也 」 の 朱 註 に、 「 隱、 暗 處 也。 微、 細 事 也。 獨 者 人 所 不 知 而己所獨知之地也。 」とある。 『中庸或問』 に、 「其所不睹不聞者己之所不睹不聞也。……獨者人之所不睹不聞也。 」 と あ る。 →【 参 考 ② 】。 な お、 後 半 部 分 は、 前 半 に 倣 え ば、 あ る い は「 慎 獨 属 省 察、 莫 見 莫 顯 爲 人 所 不 知 」 の 誤 り か。   〇 戒 慎 不 睹 恐 惧 不 聞、 是 脩 道 之 功 =『 伝 習 録 』 巻 上 に、 「 人 能 修 道、 然 後 能 不 違 於 道、 以 復 其 性 之 本 體、 則 亦 是 聖 人 率 性 之 道 矣。 下 面 『 戒 慎 恐 懼 』 便 是 修 道 的 工 夫 、『 中 和 』 便 是 復 其 性 之 本 體、 如 易 所 謂 窮 理 盡性以至於命、中和位育便是盡性至命。 」  〇非二也=朱子が存養と省察、戒慎恐懼と慎独とを二つに分けてい るのに対し、王畿は両者は一つの工夫だとする。 『全集』本では、 「存省一事、中和一道、位育一原、皆非有二 也。 」 と あ る。 こ れ に つ い て は、 王 陽 明 の 次 の 発 言 を 参 照。 『 伝 習 録 』 上 巻 に、 「 省 察 是 有 事 時 存 養、 存 養 是 無 事時省察。 」とある。 【参考①】後半部分は、 「戒慎恐懼」と「慎独」の関係が問題となっているが、参考までに、朱子の解釈を挙げ

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ておく。──「潘恭叔の論は、 熹 わたし の旧説を見て、こうした疑問を持ったようだ。疑った結果は、おおむね一理 あ る が、 け れ ど も、 細 か い と こ ろ は ま だ 不 十 分 で あ る。 当 時、 [ 私 自 身 ] 旧 説 に つ い て は、 実 際 の と こ ろ 欠 点 があると考えたので、後で、すでに改定した。大抵、 『中庸章句』序章に、 「道は離るべからず、離るべきは道 に非ず。是れ故に、君子は其の睹えざる所に戒慎し、其の聞こえざる所に恐懼す」と言っているのは、つまり は、 徹頭徹尾、いついかなるところでも、功夫を下さないことはなく、ほんのわずかな時でも、道から離れて しまうことが無いようにすることを望んでいる のである。 〔原注: 「不睹」 「不聞」と「独」とは同じではなく 、 乃ち戒懼の至りであり、 どんなところでも戒懼しないことは無いということを言っているのである。 これらは、 耳 目 が 及 ば ず、 さ し せ ま っ た 要 件 が 無 い 場 面 で も、 や は り 目 を 離 さ な い と い う こ と だ 。「 無 声 に 聴 き、 無 形 に 視る」 (『礼記』曲礼篇)と言うようなものであるし。 耳に聞こえ、目に見えるところは、ぞんざいにしてもよ いが、特にここだけは功夫を加えるという意味ではないのだ 。〕その上、さらに、 「莫見乎隠、莫顕乎微。故君 子謹其独」と言っているのは、 つまり、 上文の[見聞の有無にかかわらず]全体的に通して行う工夫の中でも、 [ 特 に ] こ こ の と こ ろ は 一 念 が 起 こ る と こ ろ で あ り、 万 事 の 根 原 で も あ る た め、 そ の 上 さ ら に 喫 緊 切 実 な る と ころであることを理解し、それ故、ここのところで注意して省察すべきであって、その隠れたものを表面化さ せ、微かなるものを顕在化させようとするのである。いずれも[道心を前面に押し出すことで]人欲の私(す なわち、 人心)を無くすことである。 〔原注 : 二つの「莫」の字を観ると、 ここのところは 念慮が萌そうとして、 天理と人欲との幾(分かれ目)であれば、最も緊要で切実なところであるので、もっとも功夫を施さなければ ならないところである。それ故、全体の工夫の中でも、ここにおいて、いっそうの省察を加えるのだ。けれど も、やはり、必ずしも思慮が萌してしまうのを待ってから、それとは別の一つの心によって省察するというわ

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けではない。というのも、全体の工夫は、すでに途切れること無く行われているので、すなわち、ここのとこ ろで、わずかに注意喚起したならば、おのずと遺漏はなくなるのである 。〕 叔恭所論、 似是見熹舊説而有此疑。疑得大概有理、 但曲折処有未尽耳。当時旧説誠為有病、 後来多已改定矣。 大 抵 其 言「 道 不 可 離、 可 離 非 道。 是 故 君 子 戒 慎 乎 其 所 不 睹、 恐 懼 乎 其 所 不 聞 」、 乃 是 徹 頭 徹 尾、 無 時 無 処 不 下 功 夫、 欲 其 無 須 臾 而 離 乎 道 也。 〔「 不 睹 」「 不 聞 」 与「 独 」 字 不 同、 乃 是 言 其 戒 懼 之 至、 無 適 不 然。 雖 是 此 等 耳 目 不 及 無 要 緊 処、 亦 加 照 管。 如 云 聴 於 無 声、 視 於 無 形、 非 謂 所 聞 見 処 却 可 闊 略 而 特 然 於 此 加 功 也。 〕 又 言「 莫 見 乎 隠、 莫 顕 乎 微。 故 君 子 謹 其 独 」、 乃 是 上 文 全 体 工 夫 之 中、 見 得 此 処 是 一 念 起 処、 万 事 根 原、 又 更 緊 切、 故 当 於 此 加 意 省 察、 欲 其 自 隠 而 見、 自 微 而 顕、 皆 無 人 欲 之 私 也。 〔 観 両「 莫 」 字、 此 処 是 念 慮 欲 萌 而 天理人欲之幾、最是緊切、尤不可不下工処。故於全体工夫之中、就此更加省察。然亦非必待其思慮已萌而後 別 以 一 心 察 之。 蓋 全 体 工 夫 既 無 間 断、 即 就 此 処 略 加 提 撕、 便 自 無 透 漏 也。 〕( 「 答 胡 季 隨 第 四 書 」『 朱 子 文 集 』 巻五三) 【参考②】 『中庸或問』の次の二つの問答を参照。──【A】曰、 諸家之說皆以戒謹不睹恐懼不聞、卽爲謹獨之 意。子乃分之以爲兩事 。無乃破碎支離之甚耶。曰、既言道不可離、則是無適而不在矣。而又言莫見乎隱、莫顯 乎微、則是要切之處尤在於隱微也。既言戒謹不睹恐懼不聞、則是無處而不謹矣。又言謹獨、則是其所謹者尤在 於獨也。是固不容於不異矣。若其同爲一事、 則其爲言又何必若是之重複耶。且此書卒章、 潛雖伏矣、 不愧屋漏、 亦兩言之。正與此相首尾。但諸家皆不之察、獨程子嘗有不愧屋漏與謹獨是持養氣象之言、其於二者之閒特加與 字。 是 固 已 分 爲 兩 事、 而 當 時 聽 者 有 未 察 耳。 【 B 】 曰、 子 又 安 知 不 睹 不 聞 之 不 爲 獨 乎。 曰、 其 所 不 睹 不 聞 者、

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己 之 所 不 睹 不 聞 也 。 故 上 言 道 不 可 離、 而 下 言 君 子 自 其 平 常 之 處 無 所 不 用 其 戒 懼、 而 極 言 之 以 至 於 此 也。 獨 者、 人之所不睹不聞也 。故上言莫見乎隱、 莫顯乎微、 而下言君子之所謹者尤在於此幽隱之地也。是其語勢自相唱和、 各有血脈、理甚分明。如曰是兩條者皆爲謹獨之意、則是持守之功、無所施於平常之處、而專在幽隱之閒也。且 雖免於破碎之譏、而其繁複偏滯而無所當亦甚矣。 【参考③】本節の末尾の部分は、 『全集』版と本テキスト( 『新安理學先覺會言』所収本)とでは、 大きく異なっ ている。参考までに、 『全集』版についても、現代語訳しておく。 「晦翁は、 存養と省察とを二つに分けている。 だから、 『不睹不聞』 を自分では気づいていないところみなし、 『独』 を他人が気づいていないところみなして、中和によって位育を分けたのだ。そもそも自分が気づいていないな ら、戒慎恐懼は、何にもとづいて知るというのか。中和位育を分けてしまったならば、天地万物を、何にもと づいて、 二つ(別物)にするのか。これは、 知者[の出現]を待たなくても、 明白である。先師は、 「不睹不聞」 を 道 に 体( あ り よ う ) と し、 戒 慎 恐 懼 を 道 を 修 め る 功 夫 と し た。 「 不 睹 不 聞 」 は 隠 微 な る も の に ほ か な ら ず、 す な わ ち、 所 謂「 独 」 で あ る。 存 養 と 省 察 は 一 つ の 事 で あ り、 中 と 和 と は 一 つ の 道 で あ り、 [ 天 地 が ] 位 す る のと[万物が]育すのとは一つの源泉[に由来するもの]であって、いずれも別々の事柄ではないのだ。 」(原 文「晦翁既分存養省察、故以不睹不聞爲己所不知、獨爲人所不知、而以中和分位育。夫既己所不知矣、戒慎恐 懼、孰從而知之。既分中和位育矣、天地萬物、孰從而二之。此不待知者而辨也。先師則以不睹不聞爲道體、戒 慎恐懼爲脩道之功。不睹不聞即是隱微、 即所謂獨。存省一事、 中和一道、 位育一原、 皆非有二也。 」末尾の「存 省 一 事 」 の 語 に つ い て、 『 伝 習 録 』 上 巻 に、 「 省 察 是 有 事 時 存 養、 存 養 是 無 事 時 省 察。 」 と あ る の を 参 照。 と こ

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ろで、 『新安理學先覺會言』所収のものと、その後の、 『全集』所収のものとの、この部分の大きな異同は何を 意味するのであろうか。基本的には、論旨は変わっていないが、大きな違いは、 『全集』本に無い(削られた) 「中和・位育」の議論が加わっているという点であろう。 至 1 * 於古今學術、尤有關係、不容不辨者、大學為致知、中庸為未發之中。夫良知之與知識、爭若毫釐、究實千里。同 一知也、 如 2 * 此則為良、 如此則為識。良知者、 不由學慮而得、 德性之知、 求諸己也。知識者、 由學慮而得、 聞見之知、 資 于 3 * 外 也。 未 發 之 中、 是 千 古 聖 學 之 的。 不 4 * 可 謂 常 人 倶 有。 中 是 5 * 性 体。 戒 懼 者、 脩 6 * 道 之 功 也。 道 7 * 脩 而 後、 可 以 復 性、 故曰、戒慎恐懼而中和出焉。體用一源。常人喜怒哀樂、多不中節、則可見其未發之中、未能 全 8 * 也。夫良知、 如 9 * 赤日 之 麗 空、 大 陰 五 緯、 猶 將 避 其 光 輝。 況 魑 魅 魍 魎 乎。 未 11 * 發 之 中、 如 11 * 北 極 12 * 之 奠 垣、 七 政 由 之 以 效 靈、 四 時 由 之 以 成 歳、 運乎周天、無一息之停、而實未嘗一息離乎本垣、故謂之未發也。千聖舍此、更無脉路可循、古今學 術 13 * 、尤不容不 辨 14 * 也。    〔 校 注 〕  * 1「 至 於 古 今 學 術、 尤 有 關 係、 不 容 不 辨 者。 大 學 為 致 知、 中 庸 為 未 發 之 中 」 を、 「 至 於 大 學 致 知、 中 庸 未 發 之 中、 此 古 今 學 術、 尤 有 關 係、 不 容 不 辨 者 也( 大 學 の 致 知、 中 庸 の 未 發 の 中 に 至 り て は、 此 れ 古 今 の 學 術、 尤 も 關 係 有 り て、 辨 ぜ ざ る 容 か ら ざ る 者 な り )」 に 作 る。   * 2「 如 此 則 為 良、 如 此 則 為 識 」 の 十 字 無 し。   * 3「 于 」 字 無 し。  * 4「 不 可 謂 常 人 倶 有 」 の 七 字 無 し。   * 5「 是 」 を「 為 」 に 作 る。   * 6「 脩 道 」 の 下 に、 「 復 性 」 の 二 字 有 り。   * 7「 道 脩 而 後 可 以 復 性 」 の 八 字 無 し。   * 8「 全 」 を「 復 」 に 作 る。   * 9「 如 赤 日 之 麗 空 大 陰 五 緯 猶 將 避 其 光 輝、 況魑魅魍魎乎」 字無し。   * 11「未發」 の前に 「即是」 二字有り。   * 11「如」 の上に 「譬」 字有り。   * 12「極」 を 「辰」

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に作る。   * 13「術」の下に「之同異」の三字有り。   * 14「辨」の下に「者」字有り。 古今の學術の、尤も關係有りて、辨ぜざる 容 べ からざる者に至りては、大學にては致知為り、中庸にては未發の中為 り。夫れ良知と知識とは、爭うこと毫釐の若きも、究みは實に千里なり。同じく一つの知なるも、此くの如くなれ ば則ち良と為り、此くの如くなれば則ち識と為る。良知なる者は、學慮に由らずして得、德性の知にして、諸れを 己に求むるなり。知識なる者は、學慮に由りて得、聞見の知にして、諸れを外に資るなり。未發の中は是れ千古聖 學の的なり。常人 倶 つぶ さに有りと謂うべからず。中は是れ性體なり。戒懼なる者は、脩道の功なり。道脩まりて、而 して後に、以て性に復るべし。故に曰く、戒慎恐懼して、中和、 焉 こ れより出づ、と。體用は一源なり。常人の喜怒 哀樂、多むね節に中らざるは、則ち、見つべし、其の未發の中、未だ全き能わざればなり。夫れ良知は、赤日の空 に 麗 つ けば、大陰五緯、猶お將に其の光輝を避けんとするが如し、況んや魑魅魍魎をや。未發の中、譬えば北辰の垣 に 奠 さだ まるがごとし、七政、之に由りて以て靈を效し、四時、之に由りて以て歳を成し、周天に運りて、一息の停ま ること無きも、而れども、實は未だ嘗て一息も本垣を離れず。故に、之を未發と謂うなり。千聖、此を舍てて、更 に脈路の循うべき無し。古今學術、尤も辨ぜざる容からざるなり。 古今の学術で、もっとも重要で、弁別しないわけにはいかないものとなると、 『大学』では致知であり、 『中庸』で は未発の中である。そもそも良知と知識とは、その違いはほんのわずかのように見えるが、その行き着く先は、実 は千里の開きがある。同じく一つの知ではあるが、もとづくところによって、 [良]知ともなれば、 [知]識ともな るのである。良知というものは、 [後天的な]学問や思慮を用いなくても、 [もともと]身についている徳性の知で

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あ り、 こ れ は 自 分 自 身 に 求 め る も の で あ る。 知 識 と い う も の は、 [ 後 天 的 な ] 学 問 や 思 慮 を 用 い る こ と に よ っ て 身 につく聞見の知であり、 外から取り入れて自己の資源とするものである。未発の中は、 千古の聖学[が学ぶ上での] 目標とするものである。普通の人は完全なすがたで持っているわけではない。中は性[本来]の 体 ありよう である。戒懼は 道を修める功夫である。道を修めてこそ、 性(本来の人間性)に復ることができる。だから、 「戒慎恐懼して、 中和、 焉れより出づ」と言うのだ。体用は源は一つである。普通の人々の喜怒哀楽が、おおむね節度にかなっていないこ とからしても、未発の中がまだ完全[に発揮できている]とはいえないことが分かるだろう。そもそ良知は、太陽 が 空 に の ぼ れ ば、 月 と 五 惑 星 は 太 陽 の 光 輝 を 避 け[ て 隠 れ ] る よ う な も の だ、 ま し て や 魑 魅 魍 魎 な ら な お さ ら だ。 未 発 の 中 は、 譬 え て 言 え ば、 北 極 星 が 垣 に 奠 さだ ま っ て い る よ う な も の だ。 [ 日 月 五 星 の ] 七 政 は こ れ を も と に 霊 験 を 現し、 四 き せ つ 時 はこれをもとに一年を構成する。周天を運って、 一 ひといき 息 の間も停止することは無いが、その実、いまだか つて 一 ほ んのわずか 息 の間も自分の領域から逸脱したことはないのだ。だから、これを未発と言うのである。あまたの聖人たち も、これを捨ててしまったら、循うべき 脈 すじみち 路 はまったく無くなる。 [だから、良知と知識の違いは]古今の学術が、 もっとも弁別しないわけにはいかないものなのだ。 〇有關係=この 「関係」 は 「重要性」 の意。 「没有」 「有」 と連用する。   〇良知之與知識= 「良知」 と 「知識」 が似て非なるものであることについて、王畿は繰り返し言及している。例えば、 「別見臺曾子漫語」に、 「良知 與知識、所争只一字、皆不能外于知也。根于良則為徳性之知、因于識則為多學之助。 」。 (『龍溪會語』巻四・第 七 条 ) ま た、 「 予 惟 君 子 之 學、 莫 先 於 辨 志、 莫 要 於 求 端。 …… 端 者、 人 心 之 知、 志 之 所 由 以 辨 也。 夫 志 有 二、 知亦有二、有德性之知、有聞見之知。德性之知、求諸己、所謂良知也。聞見之知、緣於外、所謂知識也。毫厘

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千里、 辨諸此而已 。在昔孔門、 固已有二者之辨矣。孔子曰、 蓋有不知而作之者、 我無是也。言良知無所不知也。 若多聞多見上擇識、 未免從聞見而入、 非其本來之知、 知之次也。以多聞多見爲知之次。知之上者、 非良知而何。 」 (『王畿集』巻二「水西同志會籍」   三六頁) 。「致知議略」に、 「夫良知之與知識、差若毫釐、究實千里。同一知 也、 如 是 則 為 良、 如 是 則 為 識、 如 是 則 為 德 性 之 知、 如 是 則 為 見 聞 之 知、 不 可 以 不 早 辨 也。 良 知 者、 本 心 之 明、 不由學慮而得、先天之學也。知識則不能自信其心、未免假於多學億中之助、而已入於後天矣。良知即是未發之 中、即是發而中節之和。 〔未應非先、已應非後。即寂而感行焉、寂非内也。即感而寂存焉、感非外也。 〕此是千 聖斬關第一義、 所謂無前後内外、 渾然一體者也。若良知之前別求未發、 即是二乘沈空之學。良知之外別求已發、 即是世儒依識之學。或攝感以歸寂、或縁寂以起感、受症雖若不同、其為未得良知之宗、則一而已。 」( 『王畿集』 巻六   *なお、 〔   〕内の二十八字は、王畿の全集本所収の「致知議略」には無いが、 『聶豹集』巻十一の「答 王龍渓」 の中で、 「来書云」 として、 引かれた 「致知議略」 によって補った。拙論 「王畿 「致知議略」 精読」 (『東 洋 大 学 中 国 哲 学 文 学 科 紀 要 』 第 17号、 二 〇 〇 九 ) 参 照。 他 に も、 「 夫 識 與 良 知、 同 出 而 異 名、 所 爭 只 毫 釐。 識 有 分 別、 知 體 渾 然。 識 有 去 來、 知 體 常 寂。 」( 「 與 梅 純 甫 」 同 巻 十 二   三 一 九 頁 )、 ま た、 「 心 之 知、 一 也、 根 於 良則為德性之知、因於識則不免假於多學之助。此回賜之學、所由以分也。果信得良知及時、則知識莫非良知之 用、謂吾心原有本來知識、亦未為不可。不明根因之故、沿習舊見、而遂以知識為良知、 其 謬 奚啻千里而已哉 。」 (「 答 呉 悟 齋 」 同 巻 十   二 四 六 頁 ) な ど 多 数 あ る。   〇 德 性 之 知 / 見 聞 之 知 = 張 載 の『 正 蒙 』 大 心 篇 に、 「 大 其 心則能體天下之物、物有未體、則心為有外。世人之心、止於聞見之狹。聖人盡性、不以見聞梏其心、其視天下 無一物非我、孟子謂盡心則知性知天以此。天大無外、故有外之心、不足以合天心。 見聞之知、乃物交而知、非 德性所知。德性所知、不萌於見聞 。」 (『張載集』 、二四頁)また、程頥(伊川)にも、 「 聞見之知、非徳性之知。

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物交物則知之、 非内也。今之所謂博物多能者、 是也。徳性之知、 不假聞見 。」 (『程氏遺書』巻二十五  『二程集』   三一七頁)という発言が見られる。   〇戒慎恐懼而中和出焉=次の王畿の発言に拠れば、王陽明の語である が、 典 拠 に つ い て は 未 詳。 「 聖 人 之 學、 復 性 而 已 矣。 人 受 天 地 之 中 以 生、 而 萬 物 備 焉。 性 其 生 理、 命 其 所 乗 之 機 也。 故 曰「 天 命 之 謂 性 」。 此 性 命 合 一 之 原 也。 戒 慎 恐 懼、 其 功 也。 不 覩 不 聞、 其 體 也。 良 知 者 性 命 之 則。 知 是知非、而微而顯、即所謂獨也。戒慎恐懼而謹其獨知、則可以復性矣。故存之無不中、而發之無不和、 先師所 謂戒慎恐懼而中和出焉、是也 。中和致則天地位、萬物此育而無外内顯微之間。此聖學之的也。知此則知東廓先 生 所 受 之 學 矣。 ……」 (「 壽 鄒 廓 翁 七 袠 序 」『 王 畿 集 』 巻 十 四、 三 八 八 頁 )。 ま た、 「 中 庸 首 章 解 義 」 に、 「 戒 慎 乎 其所不睹、恐懼乎其所不聞」 、不睹不聞、道之本體、所謂視之而不見、聽之而不聞是也。道虚而已、戒謹恐懼、 修之之功、 無間於動靜。致虚所以立本也、 不睹雖隱、 不聞雖微、 而實莫見莫顯。隱即「費而隱」之隱、 微即「微 之 顯 」 之 微、 莫 見 莫 顯 即 所 謂「 體 物 而 不 可 遺 也 」。 故 「 君 子 必 慎 其 獨 」 者、 申 言 不 可 不 戒 懼 之 意 、 非 加 謹 也。 謹於一念獨知之微、 正所以奉行天教也。未發之中、 性體也、 「有未發之中而後有發而中節之和」 、 道修而性復矣。 戒 懼 慎 獨 而 中 和 出 焉 、 是 也 未 發 之 中 非 對 已 發 而 言、 即 感 而 寂、 非 寂 而 後 生 感 也。 人 者、 天 地 之 心、 萬 物 之 宰、 致 中 和 則 大 本 立 而 達 道 行、 爲 天 地 立 心 而 天 地 於 此 乎 位 矣、 爲 萬 物 作 宰 而 萬 物 於 此 乎 育 矣、 此 修 道 之 極 功 也。 」 (『王畿集』巻八)とある。   〇体用一源=『周易程氏傳』序に「 體用一源 、顯微無間。觀會通以行其典禮、則 辭無所不備。 」( 『二程集』 、 六八九頁)とある。   〇五緯=五つの惑星。 「緯」は、 行星(惑星)の古称。 「行星」 は、 在 天 空 中 依 一 定 軌 道 繞 恆 星 周 圍 運 行 的 星。 如 金 星、 木 星 等。 亦 稱 為「 惑 星 」。   〇 七 政 = 七 曜 に 同 じ。 太 陽 と 月、 そ し て、 金、 木、 水、 火、 土 の 五 星 を 指 す。 『 書 経 』 舜 典 に、 「 在 璿 璣 玉 衡、 以 齊 七 政。 ( 璿 せん 璣 き 、 玉 衡 を 在 あき ら か に し て、 以 て 七 政 を 齊 ととの う。 )」 と あ り、 そ の 集 伝 に、 「 在、 察 也。 美 珠 謂 之 璿。 璣、 機 也。 以 璿 飾 璣。

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所以象天體之轉運也。衡、 橫也。謂衡簫也。以玉爲管、 橫而設之。所以窺璣而齊七政之運行。猶今之渾天儀也。 七政、日月五星也。七者運行於天、有遲有速、有順有逆。猶人君之有政事也 。此言舜初攝位、整理庶務、首察 璿 衡、 以 齊 七 政。 蓋 曆 象 授 時、 所 當 先 也。 」 と あ る。   〇 本 垣 =「 垣 」 は、 中 国 古 代 の 天 文 学 の 概 念 で、 星 空 を区画したうちの一つの単位をいう。例えば、 北辰五星 (「こぐま座」 に相当する星群) は、 他の星のように時々 刻々その場所を変えたり、地平線下に沈んで見えなくなったりするようなことはなく、常に一定の場所にあっ て回転していることを言う。 「三山麗澤録」に、 「北辰、天之樞也。天樞、無時不運、七曜頼以生明、四時頼以 成歳。而未嘗離於本垣。此即思不出其位之義。 」( 『龍溪會語』巻二) 然此特晦翁早年未定之見耳。 迨 1 * 其晩年、超然有得、深悔平時所學、虚内逐外、至 以 2 * 為誑己誑人、 李 3 * 延平嘗令體認未 發 已 4 * 前氣象、 是 5 * 本領工夫、 則 6 * 以為當時貪著訓詁、 未暇究察、 辜負此翁耳。其語象山有云、 所喜邇來功夫、 頗覺省力、 無復向來支離之病。其語門人有云、 向來全体精神、 用在冊子上、 究竟一無實處。只管談王説霸、 別作一項伎倆商量。 諸 凡 7 * 類此者、所謂晩年定論、載在全書、可考見也。 學 8 * 者、徒泥早年未定 之 9 * 見、 瑕 11 * 瑜互相掩覆、使不得爲完璧、其薄 待晦翁亦甚矣。    〔 校 注 〕  * 1「 迨 」 を「 逮 」 に 作 る。   * 2「 以 為 」 を「 謂 」 に 作 る。   * 3「 李 延 平 」 を「 謂 延 平 先 生 」 に 作 る。   * 4「 已 前 」 を「 以 前 」 に 作 る。   * 5「 是 」 の 上 に「 此 」 字 有 り。   * 6「 則 以 為 」 の 三 字 無 し。   * 7「 凡 」 の 下 に「 此 」 字 有 り。   * 8「 學 者 」 の 下 に、 「 蔽 於 舉 業、 無 暇 討 求 全 書 」 の 十 字 有 る。   * 9「 之 見 」 を「 後 見 」 に 作 る。   * 11「瑕瑜」の上に、 「揣摸依仿」の四字有り。

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