アングロ・サクソン人早期社会組織の一側面――イ
ンガス定住を中心に――
著者
原 征明
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
69
ページ
23-46
発行年
1975-12-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024418/
イングランドにおける特に早期アングロ・サクソン社会に関する研究領域にあっては、わが国でも最近一・二年の 間に、私の知るところ例えば青山吉信教授の著書﹃アングロⅡサクソン社会の研究﹄︵山川出版社・昭和四九年︶に 次いで、黒須徹教授の﹃イネ法典の社会経済史的研究﹄︵宝文堂・昭和五○年︶が公刊されるに至った。また、その 他の先学諸氏によるいくつかの関係論文もみられたのであって、この領域について少しく関心をもつ私は、そうした ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 二 三 四三一一 、 、 、 、
アングロ。サクソン人早期社会組織の一側面
一 、 は し が き はしがき 移住定着過程に関する若干の整理 移住定着期の社会組織とインガス地名 インガス地名の発生とアングロ・サクソン早期家族形態について l結びにかえてI 目 次lインガス定住を中心にI
原
征
明
1そもそも、当面の毒察対象であるアングロ・サクソン人︵脾岳さ︲普関8m︶は、ローマ人によるプリタニア支配時代 の終了後いわば大挙して大陸から到来し、この島の先住者を抑えつつ新たな定住を開始するに至った主たる櫛成者、 即ちアングル人ならびにサクソン人であるが、この他、研究史上では種々の点で論議があるもののベーダ︵屏号︶ ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 二 四 労作を通じて刺激を与えられ且っまた多くの点で教えられるところがあった。 さて、本稿の目的もアングロ・サクソン人の早期社会組織について、その基本的特質をいささか検討することにあ るのだが、私はそれをいわゆるインガス地名によって示される定住形態という一側面からとらえておくことを当面の 直接課題とするものである。もちろん、こうした問題は単に地名学的研究からの接近のみにより十分な解明がなされ うると考えられるものでなく、諸研究分野の成果をふまえた総合的な検討を必要とされている。従って、本稿での見 方はごく限られた性格のものにすぎないかも知れないが、私はかって接する機会を得たインガス地名に関する新説か ら少なからず重要で示唆にとむ指摘を与えられたので、さしあたりそれをふまえ右の関心事を不十分ながら整理して おくものである。その場合、ほぼ五世紀中葉以降にはじまるイングランドのアングロ・サクソン人早期社会を、彼ら が到来したまさしく最早期に属する段階と、他方、定住地域の拡張が行なわれた少しく後の段階とに分けて考えてい る。従って、この両段階の間にはアングロ・サクソン人の社会組織上、何らかの変化ないし発展があったという見方 をとることにしたい。なお、問題の性質上アングロ・サクソン人のイングランドへの移住定着過程についても簸小限 度ふれておく必要があるので、先ずそれを概観することからはじめることにする。
二、移住定着過程に関する若干の整理
︵ ■ 且 ︶ が語るところによれば、いわゆるジュート人︵旨瀞、︶もこれに加わっていたものとみなされる。さらに、六世紀ピ ザンッの歴史家プロコピウス︵印08凰吊︶は、プリタニアの住民として大陸のフリージア人︵蜀凰の冨己の︶をあげて ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ いるといわれるのであるが、この点イングランド東部における地名学的証拠をふまえると、彼らも前述のアングロ・ サクソン人と共に到来したことはおよそ確実である。 次に、今日までの考古学的研究成果によると、そもそもアングル人は大陸のシユレスヴィッヒ︵牌皀冊憩侭︶を、 ︵ 川 暗 ︶ また、サクソン人は西ホルスタイン︵雲①駕露皇駕璽己地方をその原住地にしていたと考えられるのであるが、勿論 このことは彼らが移住定若を開始する直前まで、その地にとどまっていたということを意味するものでない。即ち、 ︵ 5 ︶ サクソン人は遅くとも三世紀中葉頃までに、エルベ河口からウェーゼル︵葛①m胃︶河口方面に広がり、さらにまた、 その後当時フリージア人が居住していたライン︵詞胃目︶河口に至る海岸地方に進出し、他方、アングル人も既にそ の原住地を離れて南下し、若干の部族的特質をとどめつつも、しばしばその多く鱗サクソン人と混婿鞍いし彼らと同 ︵ 6 ︶ じ地方に居住する状態にあったと思われる。 ところで、アングロ・サクソン人がいつ如何なる事情にもとづいて、大陸からの移住定着を開始するに至ったの かという問題である。この点に関しては、前記べiダによる﹃教会史﹄や﹃アングロ・サクソン年代記﹄︵跨届さ︲ 牌×C己○ずg冒匡①︶など、当時の様子を伝える歴史記述によるならば、時期的にはそれが五世紀中葉︵四四九年︶ 以降のことに属し、またその際彼らはブリタニァのく日毎鴨目なる王の要請で、スコト人命8露︶・ピクト人 ︵国凰、︶など北方からの蛮族に対抗するための傭兵としてさしあたり迎えられ、その代償として居住地を与えられ たのであるが、この島の肥沃さが故国に伝えられると到来者の数も増大し、やがて盟約者に武器をむけはじめ、いわ ︵ 7 ︶ ぱ新たな侵略者になった、というのである。 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 畑 環 揮 の 一 側 面 二 五 3
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 二 六 勿論われわれは、このような歴史記述をもって単なる伝説にすぎぬとみなすものではないが、しかし、アングロ・サ クソン人の大規模ないわば﹁民族移動﹂を考えるにあたっては、少なくともその背後に横たわる次の事捕を無視して はならない.即ち、歴史時代︵函酎8国。醇鴨︶に入ってから、ョ1口シバ大陸では海岸地方で生じた地殻沈降とそ れに伴なう海浸作用があったといわれるが、おそらく彼らはその影響をうけ、他方、彼ら自身の中における人口増加 ︵ a 回 ︶ やフン族による圧迫もあったとみられる背景の下で、経済上大いに土地不足をきたしていたと思われることである。 また、移住定着の時期そのものに関しても、先の歴史記述では五世紀中葉以降に属するが、そもそも大陸と接近する プリタニァの地理的状況をふまえれば、本格的な定着に先立って早くからいわば海賊的な侵入をくり返したり、ある いは既にローマ顕隊の一部を構成したゲルマン人として、その到来があったと見るべきだろう。因みに、イングラン ド東部・南部海岸、即ちノーフォークの国Hg恩駕閏からハンプシャーの習算号の黒胃に至る地帯はサクソン・シ ョア︵瀞閏呂望目巴とも呼ばれる所であって、ここには既にローマン・プリテン時代の支配者が悪奪期のローマ構 力から自らを守る目的で多くの要塞を栂築しているが、それはやがてサクソン人の襲撃に対する防衛体系として役立 また、最近の研究肋向によれば、ローマ時代の碑文・文献が再吟味された結果、既に三世紀の初頭以来フリージア ︵ 加 ︶ 人や東ゲルマンのプルグント人當国侭匡口時巳をはじめとし、相当数が軍人としてこの島に導入され存在したこと が強調されるに至っている。さらに、考古学的側閲からもイングランド東部・南部にみられる四’五世紀の横墓から の副葬品が大陸ガリア・ラインラント出土のローマ軍を構成したゲルマン人の装備と同一である点で、当時既にゲル ︵ 皿 ︶ マン人が軍隊として到来し存在していたこと那推測されている、という。 ところで、移住定着期にあるアングロ・サクソン人はイングランドの如何なる侵入コースを辿って、どこをその早 ︵ 9 ︶ てられているのである。
期の定住地として選択する傾向にあったかということについて、われわれはこの時期に関わる二つの証拠の分布状態 、 、 、 によって、さしあたり概括的にではあるが整理しておくことにする。 即ちそれは、一つにはアングロ・サクソン人定住の最も初期からのものであると考えられてきたところのインガス 地名︵山積富蜘已四月︲目日①︶の分布状態であり、また他の一つは異教時代における彼らの埋葬地︵g凰巴。厨恩︶な いし共同墓地︵5日①冨塁︶の分布状態によってである。もっとも、この両者の証拠は詳細にみるとその分布地点に しばしば不一致があるといわれるのであって、本稿でも後でその意味するところにふれるのであるが、にもかかわら ずこれら二つの系統の証拠の分布を地図上で総合的に観察するならば、当面の目的にかなうものと思われる。 そこで先ず、一般に早期定住に関わるといわれてきたインガス地名の分布を検討すると、それがとりわけイングラ ンドの東部ならびに南東部の海岸寄りの地域で多数みられ、また一般に西方へと向うにしたがって減少することであ ︵ 蛇 ︶ る。さらにまた、この地名はハンパー︵顧匡白冨○河、ウーズ︵○房$河、テムズ︵目冨冒勝︶河をはじめとし、 ︵ 肥 ︶ その他主要な諸河川とその支流に沿ったところで集中的に分布する傾向にある。他方、移住定蒲期におけるアングロ ・サクゾン人の埋葬地ないし共同墓地の分布に関しても、勿論ある地域ではそれのみが多く発見される場合があるも ︵ M ︶ のの概して前述の地名分布と同様の傾向にあることが指摘されるのである。 かくして、地名学・考古学的証拠にもとづいてその侵入の.Iスをみるならば、アングロ・サクソン人はイングラ ンドの東部から南部に至る海岸より上陸し、前述のごとき主要な諸河川沿いに内陸へと到達したこと、また、これら の諸河川とその支流の周辺は彼らの定住地としても有利な自然的条件を備えていたことになる。即ちそれは、こうし た諸河川ないし水流の周辺謀lとりわけ、テムズ河上流渓谷に象徴されるがl程よい湿気を含んだ砂地、あるい は水はけの良好な砂礫地︵腎煙く色︶にめぐまれることが多く、そのことが彼らの排水農耕と相俟って、さしあたり早 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 二 七 5
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 銅 涛 鰍 の 一 側 面 二 八 6 期定住に恰好な地理的環境を形成することが比較的多くあったからでもあるだろう. 因みに、アングロ・サクソン人の早期定住地に関わる地名学・考古学的証拠分布のほぼ全体を包含するといえると ︵ 鴫 ︶ ころのいわゆる﹁低地地域﹂では、砂地や砂礫地はもとより、チョーク︵、冨房︶または石灰質など軽土層が比較的多 くみられるが、そうしたところはアングロ・サクソン人に限らず先史ならびに歴史時代早期に属する先住者にとって ︵ 脳 ︶ も、しばしば最も好適な可住地であったのである。なお、付言するならば、内陸へと侵入するアングロ・サクソン人 が水流の他に例えばイクニルド・ウェイ会鼻昌①毎超喝︶など旧来よりあった道路を利用した可能性もあることが ところで、考古学者リーズa・弓.F①号︶は、かってアングロ・サクソン人の共同墓地がローマの道路網には分 、 、 ︵ ” ︶ 布せず、また、ローマ人の都市をも回避していると述べたのである。この点は、ウールドリッジ命・葛.弓8匡吋冨鳴︶ の解釈においても同様であるが、彼も早期アングロ・サクソン人の異教埋葬地分布の顕著な特徴として、ケントなら ︵ 肥 ︶ びにノーサンプリアを除くと、それがテムズ・ハンーハー両河の間ではローマン・ロードを回避することを指摘した。 これはおそらく、そもそもローマの道路体系が優れて霞事的性格をおびたものであり、概してほぼ直線的にイングラ ンドの諸地域を通過し、アングロ・サクソン人のいわば農業的定住に有利な自然的条件を与える場所をそれることが 多かった点に、その主たる理由があると思われる。ただし、埋葬地の分布に以上のような傾向があるというものの、 先のウールドリッジが示すように、この原則から外れる事例も依然として存在することは見逃されてならない。因み に、ドウンシー︵氏.。.富.ロ豊胃畠︶もまた、早期アングロ・サクソン人の埋葬地が特にリンヵンシャーでは主要 ︵ 岨 ︶ なローマン・ロードに沿う戦略的要地に点在することを明らかにした。 次に、埋葬地ないし共同墓地の分布にみる限り、それが前述のようにアングロ・サクソン人の水系に沿った農耕的 指摘されてよいだろう。
定住の初期的展開を想定せしめるが、しかしこのことは、移住定着期における彼らが、他方においてローマン・プリ テン時代の都市と全く無縁の存在であったことを必らずしも意味するものでないだろう。即ち、そもそもアングロ・ サクソン人は都市での居住をきらい、いわば旧来よりの都市的生活と断絶し、それを破壊しさる傾向にあったとみな ︵ 知 ︶ されてきたのであり、この点例えばマイヤーズQ,z・炉︵冨冑蝦︶によっても強調されたのであるが、以下に掲げ る若干の例証は、少しくその修正を余儀なくさせるかも知れない。先ず、カンタベリー︵・目蔚吋9塁︶の事例であ るが、ここで一九四四年以降に行なわれた戦災地区における発堀調査の結果、二年後にその一角からローマ末期の手 製陶器と共に、早期サクソン人定住の遺物︵Ⅱサクソン型陶器の破片︶が発見されたことにより、発堀調査委員会は ︵ 瓢 ︶ 五’六世紀の混乱期を通じて少なくとも当該都市での居住放棄は認められないことを結論した、という。 さらに、ロンドンに関しても四○○年’六○○年にわたり、アングロ・サクソン人到来の結果としての都市居住の 完全な断絶はなかったとみられる。即ち、ブレィァ亀.函.囚画時︶が述べるところによると、ここからも考古学的に ︵ 蛇 ︶ みてローマン・プリテン時代末期以降における都市居住の連続性を示す積極的な証拠が得られているという。 さて、本節最後にではあるが、われわれは以上のようなアングロ・サクソン人の大陸よりの移住定着過程との関連 で、少なくとも次の点に留意しておかねばならない。即ちそれは、彼らが新たな地に定住を展開していく過程そのも のは、もとより容易に達成されなかったということである。因みに、このことは﹃アングロ・サクソン年代記﹄にみ ︵ 露 ︶ られる先住者達との一連の戦闘状態の記録によっても明らかであるが、そもそも彼らが先住者達による執渤な抵抗を 排除して漸次その支配を確立する際に、少なくとも一世紀余りの期間を要したと考えられるのである。 ︵1︶層:ゞ題いき、鳶陣鼻吻意農3⑦︵畠酎垂電哩ミ慧尋畠、鼠.長友栄三郎訳﹃イギリス教会史﹄三七’三八頁参照。 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 二 九 7
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 三 ○ ︵2︶旦.ロ.富.君﹄厨。弓、弓声①餌固唾。lの幽問。口的.忌電ゞ官望・︾刃富.鷺の。g弓”シ當哩。Iゆぃ問。自国目巴騨口具屠設”でp今餌 ︵3︶イングランドの東部では、零軒鳥¥尊割櫓、単騨国など明らかにフリージア人の存在を示す語に由来する地名ボ散見される。 例えばサフォークの野罷gP呼再。弓.また、リンカンシャーの卑甫印g冒准どがそれであり、これらは共に量旨吋日牌の且 具印画閏。即葛を意味する初期の地名形態といわれている。具.尻.o韓国①g邑.両ロ昌骨国肖③z騨日$]居留︸ロ圏・︾の﹄◆ 。 。 且 ⑮ 翠 同 ロ 哩 厨 写 璽 閏 。 ⑮ I z 画 自 ⑩ 印 画 国 Q 弓 昏 風 ﹃ ○ ユ 唱 口 “ 、 邑 国 ︾ ご p 国 干 届 騨 、 嗣 国 . 国 毎 吋 . 詞 。 日 騨 目 国 風 雷 旨 角 口 旦 固 幽 吋 毎 両 。 輌 冒 口 旦 設 国 . 。 . ’ P ◆ 己 . 雪 ︼ 、 ] 患 寧 ロ ョ P ︵ 4 ︶ 島 . 罰 . 四 . 西 。 □ ぬ 置 冒 ︸ 毎 国 勝 g ご 具 計 匿 の P 口 哩 。 1 , 弾 閑 。 弓 的 . 壗 電 ↓ ご 巳 ◆ 岸 p P 7 蝉 、 騨 弓 . F ⑮ ③ 口 酔 喝 画 の シ 射 、 冒 騨 ① 。 ざ 晦 望 畠爵⑩P畠ざ︲留肖o国肝昌の目⑮国威.届弓.層.雪I雷.また、拙稿﹁移勤・定住期におけるアングロ・サクソン人の初期 的動向’一つの覚え書きl﹂︵﹃東北学院大学論集﹄経済学・第六四号所収︶参照. ︵5︶凰.宛.。。。罠口唄さ且陣曽z・伊.冨胃①的.”o日“ロ国風冨言画邑旦呂①両口哩冨ごい①蔓③目⑩国酎、岳笥︵蔚画唇認︶ 己 亨 駕 甲 駕 P ︸ 宅 . 閏 . 国 巴 吋 ゞ 鈩 弓 冒 耳 。 ロ 昼 呂 ざ 邑 冨 シ ロ 巴 C l 、 騨 閏 。 再 固 冒 哩 画 毎 塁 届 曾 、 ロ ロ ? 弓 . ︵6︶大野真弓編﹃イギリス史﹄三三頁、三好洋子﹃イングランド王国の成立﹄三九頁、青山吉信﹃アングロⅡサクソン社会の ︵8︶今井豊志喜﹃英国社会史﹄︵上︶二○頁、田中正装﹁初期アングロⅡサクソン社会の基本榊造﹂︵﹃社会経済史大系Ⅱ・ 中世前期﹄所収︶二二六頁、同﹃イングランド封建制の形成﹄八五頁参照. ︵ 9 ︶ 具 . z o 愚 ← 閑 ⑳ ○ ず 酋 今 a n 震 ○ ⑩ 岸 弓 国 己 冨 旨 ◆ 電 ② ゴ ロ 岬 卸 ︵血︶禽.西.句.宛.甸冒蔚昌含鼻︶・弓ロ①瞬胃胃富国閏酎8国自国ロ函冨口Q四国邑亀己舟、弓畠﹄.国︾電圏.ロ鵠切繁﹄国顛、国置賃 詞。。苗宮国風冨冒四画旦固四門毎両国哩凹邑口割国.○・l餌″己.電号]鵲騨己ロ﹂sl]露. ︵ 皿 ︶ 呉 堅 蝕 君 丙 勝 か ] 旨 口 昌 目 頭 ・ の 0 画 討 勗 凹 昌 邑 静 量 曾 岬 旨 国 風 冨 冒 ︾ 両 。 目 爵 9 句 風 忌 ○ ⑪ 胃 昌 乱 ︸ 貰 腐 爵 甦 ミ ン 恩 屋 尉 ○ 冨 喝 零 く ゞ 岳 臼 . 青 山 吉 信 、 前 掲 書 、 三 二 四 頁 参 照 。 ︵ 岨 ︶ 少 冨 畏 句 曾 陣 再 冨 . 聾 ⑯ 目 。 国 ︵ 且 、 露 ︶ 、 冒 時 呂 匡 3 5 国 冨 晉 ② 曾 葛 喝 負 同 畠 胃 底 国 騨 8 1 z 輯 自 ⑮ “ ︺ 思 瞳 ︾ 石 垣 印 ? 患 . 研 究 ﹄ 三 一 重 ︵ 7 ︶ 国 ① 色 P 。 琶 胃 四 劃 騨 壷 己 △ 昌 四 三二九頁参照。 畠.↓一?侭︲罰.前掲邦訳三六’三八頁。⑦.z、⑦胃曽C愚君畠↓胃.陣2,]弓胃跨呂さ由騨間。ロ。耳目ざ訂.
EngijsIz脚回“-Ⅳ"ieS""y,v01、 1, part. 1. (S) cf.A.H、Smith(ed.),EnglishPlace-NameElements,part1,Map4,DistributicnofPlace-Namein-ING. E"g"sh〃α“一ハノ迩加EsDcicry,v01.XXV1.,K_CamerOn,".“.,pp. 6771. (2) E.T.Leeds, 0p. c"., p.19,Figl,.R.G.Collingwcod&J.N、L.Myres, 0p. 亡".,MapXa,Xb.,P.H.Blair, Dp.".,p, 175. (閏) 'je碧鴬逆′圏鞍、−,,>、キー署霞′ へ一K・ 'い、rlドヤハ恥(NorthRiding) -AJr,I1、く(Durham)e騨酷且単廻+、蝿 1卜¥一.K(Tees)罵亘』J′ 1卜記、指入,入キーQH,牛」 (Exe)雇口如埋塒蕊や固扣暴投.い=、昂1 1トe慨騒・腰鴇細輻卜・田号 閂轤′淀惑鞠’ l 1」f]唾・cf.GrahamClark,PrehistoricEngland>1948,p.6ff.,G、0.Sayles,TheMedievalFoun-dationsofEngland, 1956, Introdution, pp.xiii-xv.,RG・Coningwccd&J.N.LMyres,pP. c", pp. 1-7. (富)骨噛鯉1 『郷園田<e碧鬮朴霊世牌』 1K腿総竪。 (S) cf.E_T,Leeds,0P.".,pp、 17-18. (B) S、W、Wcoldridge,TheAnglo-SaxonSettlement,p、 104,H、CDarIW(ed.),A〃鰯sj"j"JG"g7g"yo/E"9liz" ba/brEA.D. 1800, 1936, p. 104. (S) cf.K、D.M.Dauncey。 .TheStrategyofAnglo-SaxonInvation,'A'"9z@jjy,XLI, 1942, pp、 51f、 摩ヨ+皿胆′渥騨律11 111i l l睡総畦° (S) cf.R.G.Collingwocd&J.N.L,Myres,cP.E",, p, 444. (S) S.Frere,RomanCanterbuIy.1958,CanterburyExcavationComittee. l瓜叫1 「蕊搭謀edt、入坐′¥一K一・ト入 、=ト」 (『皿但計醒鰕惑』紙1 1中碇竪) 1 1<目−1 1<縛匝総霞。 (g) cf.P.H.Blair,AnlntroductiontoAnglo--SaxonEngland, 1960,pp、 279-280. (R) G.N・Garmonsway。 tr.&ed.,D". c"., pp、 12-21. “ トハ、n.中、、肴、入‐<叫療韓噸巽蕊el軍哩 11 1 1
歴史記述が語る五世紀中葉︵四四九年︶以前にも、アングロ・サクソン人ないしゲルマン人のプリタニア到来が多 かれ少なかれあったとみられることは既に述べたところである。しかし、彼らの移住定着が開始されるに至っても、 歴史記述によると、当初はそれがおそらく少数の首長を中心に構成されたいわば本来相互に無関係な個別的小戦士集 団︵Ⅱ従士団︶による侵略的な到来の形をとっていたことがうかがえる。というのは、そのような事実が断続的にで はあれ比較的長期間にわたって存在したことを﹃アングロ・サクソン年代記﹄は伝えているからである。 即ち、⑩ヘンゲスト︵閏g帰駕︶とホルサ︵題目圏︶が三隻の船で︹ケントの︺エブスフリート︵国呂呉庸騨︶に到 来したこと︵四四九年︶、②エレや由胃︶とその三人の子供︵Ⅱ。望ョ圏︺葛庸ロ。言い。”“四︶が︹サシックス海 岸の︺︵鱈営農鴎ミ国と呼ばれる所へ三隻の船で来襲︵四七七年︶、③ケルディック︵○国&巳し﹂その子キュンリク 台冒吋胃︶なる二人のアルダーマン︵ミミ、蚤画誌︶が五隻の船で︹サシックスの︺騨黄島罵吻亀画へ到来したこと︵四 九五年︶、卿ボルト亀○風︶とその子ビエダ︵囚且四︶、メグラ︵冨蹄哩画︶が二隻の船で︹ハンプシャーの︺ポーッ マス︵蝉ミ鴎営鼠婁習風、目呂吾︶へ到来︵五○一年︶、⑤ウエスト・サクソンのストゥフ︵稗員︶とウィフトガル ︵竃曽侭胃︶が三隻の船をもって︹サシヅクスの︺○亀畠、鴎ミ白に到来したこと︵五一四年︶が記録されておる。そ ︵ 1 人 ︶ してこれらの者達は、いずれも先住者達と交戦し、それらを殺識ないし放逐したと語られているのである。 もちろんこの場合、そうした個別的小戦士集団による侵略的な到来が、年代記では今みたように地域的にはイング ランドの南東部ないし南部の、しかもごく限られた場所で行なわれたことを伝えているにすぎない。従って、現実的 アングロ・サクソン人早期社会知曝騨の一側面
三、移住定着期の社会組織とインガス地名
一一一一一しかし、それはともかくとして、アングロ・サクソン人の到来が単なる個別的小戦士集団の侵略によって終了する のではなく、おそらくそれに引続いて行なわれた大多数の者達のイングランドへの移住定着があったというならば、 われわれにおける当面の関心事はそれらの者達がいかなる形をもって到来したのか、ということ鞍のである。因みに このことは、当時の先住者、即ち圧倒的な数のブリトン人ないしケルト人による執勤な抵抗を排除しつつ、彼らアン ︵ 句 岳 ﹀ グロ・サクソン人による新たな体制を漸次確立していく過程そのものが、前述のごとき比較的小規模の従士団ないし 戦士団による散発的な侵略のみをもってしては、およそその遂行が不可能であったと思われることとも関連させるな ら、少なからず重要な意味を有するだろう. さて、移住定著期のアングロ・サクソン人の社会組織に関していうならば、彼らの内部において徐々にではあるが 階層分化が進展していたという事実は否定され得ない。従って、一方においては何らかの意味で半ば出生貴族的性格 ︵ 勾 丑 ︶ を有する者達がおり、他方、隷属的な身分に属する者も既に多かれ少なかれ存在していたと考えられるのである。 また、アングロ・サクソン人の移住定着が大陸から海を越えて行なわれる特異なものであっただけに、その過程を ︵ 4 ︶ 通じて血縁的紐帯は多かれ少なかれ弛緩させられたことも考えられるのであるが、しかし彼らの社会にあって、いわ ゆる氏族制的な諸特徴がいまだ維持されていたことは確かである。 ただ、大陸からの移住定着という当面の事態に則してみるならば、彼らの社会組織はともかくもそうした過程に適 合する形に編成された大小の集団をなし、しかもその中では戦闘能力を有する者が重要な役割を担っていたことと思 、 岸地帯でもそうした動向がありはしなかったのかと考えれば、それを記録しないことは少しく奇異に思われなくもな 可能性からいうと、考古学的証拠l例えば初期の埋葬地ないし共同墓地l︲Iが多数分布するようなその他の東部海 D LV アングロ・サクソン人早期社会組織の一側面 一一一一一一 11
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 三 四 われる。つまり、おそらくこのような人的集団にあっては、当時すでにその地位が世襲化されていた族長ないし首長 ︵自髄ミ蒼塁らが同時にまた優れて軍事的指導者たるにふさわしい能力を備えた者として先頭にたち、その下にい わば彼の仲間︵8蒼醗︶的な戦士階層︵鷺亀罫︶が思従し、それに一般の農民や一部の隷屈者が加わる、という性質 のものであったろう。もちろんその場合、移住定藩過程において形成されたアングロ・サクソン人の集団が、およそ こうした構成を有したとはいえ、農民層がそれ自体、イングランドに到着後、先住者達との戦闘と全く無縁な存在で あったとは考えられない。彼らは、やがてその本来の姿たる農耕定住を開始するに至ったとはいうものの、当面する 特殊事情の下にあって、おそらく成人に達した男子であるならば自ら何らかの武器をとり戦闘に加わる能力をもち、 ︵ 5 ︶ また実際に多かれ少なかれ戦ったものとみなされる。しかしいかなる場合でも、その最前線がすぐれた装備と訓練を 身につけた戦士層によって形成されたことは確実だろう。いずれにせよ、アングロ・サクソン人の集団による移住定 着過程は、それが先住者達との絶えざる戦闘を伴なう限りにおいて、彼らの社会組織における軍事的意義の強化をも たらさざるを得准かつたのである。 そこで、このことを彼らの定住形態と関連させて考えるならば、先ず前述の族長ないし首長の場合には、おそらく 多かれ少なかれ戦士達をしたがえて、軍事的情勢に配慮してそれに最適な場所を居住地と定めたろう。 また、イェシース慮鵠韓芭と呼ばれる戦士階層は、定着後に大なる所領を持つに至ったいわば豪族的存在であつ ︵凸U︶ たといわれるが、それも当時彼らが有した軍事的優越性が反映された、いわば先占的な土地取得を意味するものと思 われる。もちろん彼らの場合にも、その実力にもとづいて自らの周辺を防術したのである。 ︵ 円 f ︶ ところで、早期アングロ・サクソン・イングランドにおける、いわば﹁社会の中堅﹂的存在を形成したとみられる 農民層ないし一般自由民︵愚ミ・の定住形態に関しては、通説によると、自らがその成員として所属する当該社会
︵ ⑤ D ︶ きた。 ところで、地名研究︵解釈︶史上では古くケンブル。︲塁.侭①目匡$やヴィノグラドフ︵勺.く旨凋冨号露︶のそ ︵ 、 ︶ ︵ 、 ︶ れにまで遡りうる、このようなインガス地名の解釈に対して、その後これを懐疑的とする諸説が拾頭し、近年インガ ス地名がむしろ主従団的性格をもつ定住との関連において強調されてきていることが注目されるのである。例えば、 スミス︵P出◆切目岸巴はインガス・ネームがそもそも首長とその家族、及び屋従者・従属者からなる人々の集団を ︵ 岨 ︶ 意味し、次いでその集団によって占められた地域の名称︵Ⅱ地名︶になったのである、という。また、エクウォール ︵ 画 ︶ 宙・固丙雪邑︶の主張するところもそれと同様の趣旨である。従って、もしこのようにインガス地名がそもそも主従団 的定住の証拠であるとする右の見解が妥当するならば、それを行なった現実の担い手は、通説のいう農民層︵らき里︶ ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 三 五 さて、これを地名学的解釈との関連でみると、そもそも通説にいうこのような同族血縁集団による定住を示すとい われてきたものとして、いわゆるインガス地名︵︲雷習い且胃?冨日eなるものがある。即ちそれは、特定のパーソ ナル・ネームを語頭にもち、オールド・イングリッシュの︲旨胸の複数形↑︲鴬驚蛇が結合した構造の地名であって、 イングランドに多数みられるこのインガス地名は、その語頭の者を共通の祖先とみなす大小の同族血縁集団に由来す る、アングロ・サクソン人の早期定住を示す例証であるといわれてきたのである。もちろん、インガス地名をその全 べてが例外なくこうした意味のものとして把握することはできない。即ち、若干のものにはその地域の自然的︵Ⅱ地 ︵ q ︾ ︶ 理的︶特徴を示す語と結合して形成されたとみられる場合もあるからである。例えば、この種のものとしてグロース ターシャーのあく9首晩などをあげることができるが、それは﹁アヴォン洞近傍の者達﹂を意味しているといわれて の基礎的構成単位、即ちメーズ︵雪国侭尋︶と呼ばれる血縁︵親族︶団体ごとに村落的定住を開始したと考えられて いる、 13
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 繊 の 一 側 面 三 六 というよりも、われわれが既にみた族長ないし首長︵爵鼬胃蒼亀営︶および戦士階届碕豊爵︶であったことを意味 するだろう。しかし、それだけにとどまったのだろうか。あるいはまた他方、少なくとも地名学的にみる限り早期ア ングロ・サクソン社会には、はたして農民の同族血縁集団的な定住形態が存在しなかったということなのであろう か。そのようには思われない。というよりも、われわれはイングランドにあって相当多数のインガス地名が分布する 事実をふまえると、むしろ次のことが想定されうるのではないかと考えるのである。 即ちそれは、そもそも同族血縁集団による定住が事実存在し、それを当初の基礎とし、その後における経済的発展 l開墾・植民などによる定住地の拡張lに媒介され、いわばロードとマンなる新たな社会的関係が発生し、まさ しくそうした事態に照応するものとして今やインガス定住地名の形成が促され助長される可能性のあることである。 そこで、以下われわれはこのことを間接的に示唆したと思われる地名学的研究上の新説について少しくふれてお さて、インガス地名によって示される定住形態の解釈を酌ぐっては、既述のような諸説がみられたといえようが、 しかしそれとは別に、ともかくもこの地名形態はそれ自体アングロ・サクソン人の溌早期定住に関わる証拠であると ︵ Ⅲ ︶ いう点で、地名学の領域ではこれまで一般的な合意が得られていたと思われる。それは要するに、前節でみた通りこ のインガス地名の分布地域を、他方、移住定着期に関する考古学的な証拠たる異教時代の埋葬地ないし共同墓地の分 布地域と対比する際に、この両者が多分に重複する傾向を示していたからなのである。もちろん、この両者の証拠を 、 、 、 、 詳細につきあわせるとき、そこにしばしば分布地点の正確な一致がみられない現象があったということは、これまで 知られていなかったわけでない。ただその場合、この不一致の現象に閲する積極的な意味づけが、いわばアングロ・ サクソン人の早期定住との関連で十分になされてはいなかった、ということなのである。 < 0 14
︵ 幅 ︶ ところが、最近になってこの問題と本格的にとりくむ試みが、ドジソン。、三・ロ呂鴇目︶によって行なわれ、且 つまた彼によってインガス地名に対する新たな解釈が与えられるに至った。因みに、私も以前ドジソンの研究に関し ︵ 塒 ︶ 紹介・整理する機会を得たのだが、彼はイングランドの南東部諸地域に限定した詳細なる検討にもとづいて、要する にインガス地名がそもそもアングロ・サクソン人の最早期定住の証拠であるとみなしてきた旧来の解釈といささか異 、 、 そして、このような地名形態は、むしろ移住定着期より少し遅れて進行する植民の段階において流行すること、換 言するなら、一般にそうしたいわば社会的変化ないし経済的な発展過程の結果と結びつけられる証拠をあらわすかも 知れないのだ、ということを提起した。 しからぱ、それはいかなる意味においてなのか。この点、私は既に紹介稿で整理しておいたので重複は避けたい が、当面の問題と関連するので以下必要と思われる要点のみを述べておくことにする。 さて、ドジソンにおいても、インガス地名がアングロ・サクソン人の定住地ないしはそれと何らかの関係があった 地域に展開されたコミュニティの名称であること、また多くの場合それがその定住地ないしコミュニティの現実の創 始者または創始者と想定される者のパーソナル・ネームの上に形成される櫛造のものであり、且つ浜たこの形態の地 ︵ ” ︶ 、 、 、 、 、 名が使用された一時期が確かに存在したと考えられている点、通説と同様である。なお、今ここで多くの場合⋮⋮云 々と述べたのは、インガス地名にはパーソナル・ネームに由来せぬもの︵Ⅱ非人名インガス地名︶の存在することも ところが彼は、そのような地名の帰属する時期がはたしてアングロ・サクソン人の移住定藩の殻早期局面に遡って 位侭づけられうるのかということをそれ自体問題視し、その積極的な裏づけをイングランドの南東部諸州について吟 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 姻 撰 職 の 一 側 面 三 七 意味されているのである。 なる見方をとるに至った。 15
たな定住に対してインガス ︵ 的 ︶ 唆する、と述べたのである。 以上、われわれはドジソンの所説を要約的にたどってみた。もちろん、彼が対象とした領域は既述の通りイングラ ンドの南東部諸州に限られているわけで、これを無条件的に他の諸地域全体にあてはめることは多かれ少なかれ危険 であるかも知れない。しかし、それにもかかわらず、この研究は従来のインガス地名に対する考え方と異なって、考 古学的証拠との乖離をふまえ、それを植民過程との関わりで捉えた点、早期アングロ・サクソン人の社会組織を理解 する上で傾聴に値いすると思われる。因みに、ドジソンも最早期の考古学的証拠と一致するインガス地名、また、非 人名インガス地名の存在を全く否定したのではない。おそらく、それが少なくとも戦士階層以上の者による軍事的な いし主従団的定住を示すであろうことについては既述の通りである。 しからぱ、一体植民過程と併行してその形成が促されるとみたインガス地名と結びつく新たな社会的変化ないし発 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 里 蠅 蝿 軒 蓉 謂 鴫 揮 の 一 側 面 三 八 味した。即ちそれ睦インガス地名と異教時代の埋葬地点e摺呂9国巴凰蔚︶との地図上における詳細な比較検 肘によるものであるが、その結果、両者の証拠の正確な関係が少なくとも地理的にいささか乖離することを、より 、 、 、 ︵ 肥 ︶ 一般的な形で明らかにしたのである。換言すれば、なるほど両者の地理的関係が一致する事例も一部あるものの、む しろインガス地名はアングロ・サクソン人が移住定着期に占めた最初の場所からやや離れ、移動した地域における定 、 、 住と結びつけて考えられること、同時に、そのような移動はそもそも定住がそれ自体移住領域から拡張しつつあった 時、即ち移住後の第二次的な局面に流行した現象とみなされることを主張する。 、 、 従 っ て 、 イ ン ガ ス 地 名 に よ っ て 示 さ れ る 社 会 組 織 も 、 む し ろ 移 住 後 の 植 民 ︵ Ⅱ 移 住 者 に よ っ て 占 め ら れ た 領 域 を こ える定住地の拡張、含韓①目ざロ具附鳶毎日2cの段階に出現するのであり、まさしくそのような時期における新 たな定住に対してインガス・ネームが付与されたとし、南東部諸州の証拠はその時期の開始が六世紀にあることを示
展とは何か。以下、それについて次節で少しく考察し、本稿の結びにかえることにする。 ︵5︶永井一郎﹁アングロ・サクソン農民の班役参加について﹂︵﹃社会経済史学﹄三六巻一号所収︶五八’五九頁参照. ︵6︶昌“函◆殉.5.吋ロ︾の①里廿冨四コQ、冒扁硬弓冒鈩回唱Cl印陣閏。弓同国哩凹画○時。昌蒔日①、①弓①胃きざ庁豈の日①ロ票︺。、ロ目笥雪国雷 同誌醤罫闇思ミ詩ミ騨亀“ごゞご畠.F〆〆¥竃訊.己國忠烏,青山吉偏﹁イェシースについて﹂︵﹃史学雑誌﹄七○編二○号所 収 ︶ 、 同 ﹃ ア ン グ ロ Ⅱ サ ク ソ ン 社 会 の 研 究 ﹄ 一 ○ 八 頁 以 下 参 照 。 ︵ 7 ︶ 田 中 正 義 、 前 掲 書 八 四 頁 。 ︵8︶].富、因の昌匡の,日丘①⑳騨閤。。冒国口哩色.gエ吊豈翼。﹃廷︵員尋、吊澤鷺一尋○ミ苫尊さ封建魚ミ罫鴬︽馨ら弔寺里︵員負、罫鞄乏。、導昌誌 9愚罵良鵠お・ぐ巳.号9.画鵠廟:も.く冒畠愚:融弓肩⑦3君曽具二吊筥ど弓試馬震一己]駅、屈騨田中正義、前 ︹ ご 韓 心 匿 い い 、 輩 目 的 ﹄ や ﹃ ぐ ﹄ 垣 争 や ︸ ご む . ﹄ ︽ − 吟 ③ 。 ︵3︶田中正義﹃イングランド封建制の形成﹄七六、八三頁全 呼 び う る か 否 か は 、 こ の 場 合 別 の 問 題 で あ る . ︵4︶この点を強調しておられるのは例えば青山教授である。 八 三 頁 参 ︵ 1 ︶ の . z , ⑦ 肖 日 。 扇 弓 凹 韻 胃 . 陣 ② 旦 門 茸 ① シ 冒 哩 ? 、 色 閑 。 国 O 膏 3 昌 巳 印 ↑ 届 鬮 、 己 p 馬 l 扇 、 ︵2︶この点は、﹃年代記﹄に頻出する五世紀中葉以降六世紀末までの間のプリント人との交戦の記録、あるいはまた、ケルト 系地名の分布状態からも推測される。畠.の.z・○胃目。口め君葛ゞ尋鼠ゞ目.儲︲陰。.︻.O四目閂。国↑両国蚤昏国四8z“冒儲↓ ︵ 9 ︶ 可 . 富 . 切 蔚 。 g 昌 醇 国 哩 。 1 m 四 閏 。 ロ 両 国 駒 宮 口 具 唇 霞 ︾ ロ 望 今 ︵蝿︶︺.富↓観①昌璽企。賢旦か弓.ご旨。輌愚空。農ご竜..p]ら。陣の:‘ワ隈騨。。冨屋. ︵ 、 ︶ ] ・ 国 . 両 。 宮 口 9 円 可 ⑮ 印 騨 匡 曾 目 の ロ 詩 昌 号 、 め 。 具 ヨ 由 コ ユ 同 騨 牌 、 鼬 x C 国 叩 ﹄ 司 鳶 。 。 爵 ミ ミ 時 。 、 伊 ○ 苫 負 。 再 S ミ C 罫 罰 鞠 置 昌 畠 ↑ 扇 邉 . ︾ 再 思 . 詞 ① 釦 目 翠 臼 茸 ② ○ 国 哩 目 畠 両 国 唾 ︸ 号 国 四 口 ① l z 四 目 ③ 、 ] 雷 曾 ︾ も ロ ] 呂 嶺 . ゞ 両 . 題 ↓ 画 ロ ユ 輌 冨 曰 、 シ 困 蔚 9 国 具 シ 冒 哩 。 l 切 凹 H C p 騨 轌 ② 引 く 巳 . 畳 己 や 曾 争 l 曽 剴 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 三 九 照 □ 掲番八四’八五頁。 照 。 腎山吉信﹃アングロⅡサクソン社会の研究﹄三五二−三五三頁参 、 、 、 とはいえ、こうした関係をもって教授のいうように封建的と 17
われわれは先に、インガス地名によって示される定住の一部が、アングロ・サクソン人の移住定着期における族長 ないし首長︵圏盈ミ蒼薗苫邑や戦士層侭鴎麓sによって行なわれたことを認めつつも、しかしながら他方、イング ランドにおけるこの地名の分布状態ないしその数からみて、それによって示される定住が単に軍事的性格を主たる特 徴とする主従団︵Ⅱ従士団︶の場合にのみ限定され得ないという見地から、むしろ同族血縁集団的定住を当初の基礎 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 四 ○ ︵吃︶亀.シ、国.留昌藤.・国騨8︲z画目⑮““且シご笹。︲静xo画鼎昌①目①目、尋。§皇穏旦画豊騨﹄︵︾負号ご⋮洪昌、届段.ロロ ョ 麓 青 山 吉 信 、 前 掲 詩 三 五 二 頁 参 照 。 ︵蝿︶亀、固両訂固四房両目哩冒可国幽、①lz型ョ①“冒山z⑦ゞF匡口旦岬。Qの巳︾雷篭.ロロ]屋廟. ︵ M ︶ 亀 ” 餌 . 冨 蝕 笥 閏 昨 詞 冨 . 鷺 ① 口 3 回 ︵ 巾 号 ・ ︶ ゞ 冒 茸 且 月 蝕 。 己 8 夢 ① ⑳ 胃 ご 亀 昌 国 . 巴 豚 壹 国 肖 ? z 凹 目 ① 印 、 思 腱 ¥ p 認 . 圃邑哩蔚写勺冨。の−z鼬目⑬印。a②噂.ご皇﹄、己“算.号 ︵崎︶︺.富.ロ。q鴨。回]︽s壷①堕函昌睡。騨画。③具計写②ロ房胃号員さ口島許す⑱同邑巴雷声国騨。①lz騨昌①印旨1ミ函為吻マーミ叱画l旨⑮ロ匡菩l B ■ ⑮ “ 稗 国 畠 冨 目 響 ︾ 電 員 電 員 ﹄ 電 尋 閏 8 さ 亀 ↓ く 呂 閏 . 届 霞 . ︵班︶拙稿、J・M・ドジゾン﹁南東部イングランドにおける−ミ習い雲lミ贈︲地名分布の意味﹂に関するノート、lアングロ ・サクソン人初期定住との関連でI︵﹃東北学院大学捕集﹄経済学・第六六号所収︶ ︵”︶鴬冨.ロ呂鴨C国.§・ミ..つい ヘヘヘ 191817 曹画営 島.、歎只尋己pml園・ 亀.一甑冥・頁︶.扇l弓
四、インガス地名の発生とアングロ・サクソン早期家族形態について
l結びにかえてI
として、その後における経済的発展との関連で発生する新たな社会的関係の存在を想定し、それに対応してインガス 也名が形成される可能性のあることを考えた。 そして、このことを示唆する一つの例証として、インガス地名がそもそもアングロ・サクソン・イングランドに おける鹸早期のものでなく、むしろ一般にそれが六世紀に始まる第二吹的植民の段階に属する地名となすドジソン 色,富.ロ。岳g己の新説をとりあげたのであった。従って、このことが支持されうるとするならば、アングロ・サ クソン人の移住定着期に通説のいう同族血縁集団的な定住があったとしても、その最早期の在り方と、他方、植民に 象徴されるいわば生産力発展を媒介とし、その下でインガス地名が形成されてくる時期のそれとの間には、彼らの社 会組織上そこに何らかの変化があるものとみなさざるをえないだろう。そこで、われわれは以下そのような変化の具 体的内容を、いま早期アングロ・サクソン社会における家族形態如何との関連において捉えておきたいと考える。 さて通説によれば、早期アングロ・サクソン社会のいわば基礎的構成単位をなしたといわれる既述の﹁メイズ﹂ ︵営画侭爵︶は、それが既に若干の﹁家族﹂集団を分出せしめつつあり、且つまた、同一祖先より出たと信ずるその ︵ 君 几 ︶ ような家族が地縁関係にもとづいて一個の共同体を構成、今や一つ場所に村落を形成して定着していた、とされてき 七生。 さらにまた、こうした同族血縁的集団を構成するものとしての右の家族そのものの具体的規模ないし性格に関し ては通説にあっても一致は必らずしもみられないといわれている。即ち、先ずその大きさについてメイトランド ︵ ワ 学 ︶ 角.葛.冨鼬三目eやステントン急.富.陣目ざ目︶は、一般に小家族を想定する傾向にあり、他方、ヴィノグラド ︵ 3 ︶ フ亀.く旨農園号顛︶やジョリフQ駒.少.]昌罵巴の場合には複合的な大家族を考えている、というようにである。 ただ、ここで注目されることは、わが国の田中正義教授によって、アング回・サクソン社会の家族がその始源期 ア ン グ 回 ・ サ ク ソ ン 人 早 期 会 会 期 蝿 概 の 一 側 面 四 一 19
ところで、このような家族形態は、もとより近代の個別家族や封建制的な直系家族︵Ⅱ家父長制小家族︶と比較す るならば、しばしば三世代にわたる成員を包含し、なおかつ旧来よりの血縁的関係を残存せしめてはいるものの、む しろその基本的特徴は家長︵函豐:①q︶の権威と専有楠が今やより本質的なものとしてあらわれ、それ自体重要な ︵ F D ︶ 意味をもつに至っているところの家族形態だといえよう。即ちウェーバー︵富.葛g閏︶の言葉を借りるなら、あた かも専有l妻子・奴隷・家畜・労働用具におよぶlが全く一個人、つまり家父長にのみ帰属せしめられているよ うな、まさしく絶対的・終身的かつ世襲的な者の存在によって特徴づけられていることなのである。あるいはまた、 エンゲルス︵可。駒ロ鳴豚︶によって述べられた樺に、このような家族形態は﹁多数の自由人と非自由人とを蒙父椎力 ︵ R b ︶ のもとに組織すること﹂を特徴とするから、今やそれが一つの労働組織としても相当の自立性を有していると思われ 従って、その歴史的位瞳づけに関していうならば、土地耕作の意義が高まって多かれ少なかれ土地私有制が形成さ れるに至る段階にあらわれてくる家族形纈晦であるとみなしうる。また付言するならば、この家族形態において非自由 人lしばしば奴隷身分の者lが包含されるようになっているということは、彼らを労働力として利用しうるとこ ろの一定の社会的生産力の発達がそこに存在するからなのである。 いずれにせよ、いわゆる﹁家父長制大家族﹂なるものを以上のような性格のものとしてとらえうるとし、われわれ があるように思われる。 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 鍋 曝 蠅 の 一 側 面 四 二 ︵ Ⅱ す ︶ ︵Ⅱ最早期︶より﹁父家長制大家族﹂として存在したということが明示された点なのである。しからぱ、われわれも それに従って、アングロ・サクソン社会の始源期に﹁メイズ﹂より分出せる家族を﹁父家長制大家族﹂ないし﹁家父 長制大家族﹂︵忌日目呂昌段胃。g器営日豊eであったと理解してよいのだろうか。この点、少しく検討の余地 ることなのである。
がこれを当面のアングロ・サクソン人社会との関連でみるならば、おそらくそれは彼らがイングランドに移住定藩を 行なった最早期の段階から既にみられたというものでなく、むしろその後まもなく二次的に定住地を拡張していく過 程︵Ⅱ植民︶において、他方、多かれ少なかれ先住者達を自らの下に吸収しつつ発達せしめていったところの家族形 態であるとみなすこと渉妥当ではなかろうか。 とするならば、最早期においてメイズを構成した家族集団は、一体いかなる形態のものとして理解されうるのか、と いうことである。そしてこの点に関しわれわれは、それを従前より﹁世帯共同体﹂︵函呂摺go閉gm8呉骨↓宮畠①︲ ︵ 弓 f ︶ 8日目自己噂︶であると述べてきた黒須徹教授の主張を、ここに改めて強調すべき必要があるだろう。即ち、この ﹁世帯共同体﹂なるものは、元来コヴァレフスキー︵宮.謡。畠庸ぐ爵邑などの所説を踏襲したエンゲルスにより、 それが一人の父から出た数世代の子孫とその妻たちを包含する単位集団であり、しかも過渡的性格のものとして位侭 ︵ 8 ︶ づけられたのであるが、教授はこれを他方、シーボーム角.艀①g産日︶が用いたところの冒房?8日日匡凰ごな る概念に対応させることにより、早期アングロ・サクソン社会の定住形態の理解に役立てたのである。シーポームが 用いた冒扁?8日日巨昌唇なる概念およびこれによってとらえられる定住についていうと、それは先ず彼が比較史 的立場から早期時代の部族的特徴を残存させていた後世ウェールズの弓里湧ないし。﹃罵電絶という家族土地保有形 態からひきだしたものであった。つまり曽祖父にはじまり四世代にわたる子孫達からなる家族集団が、当初は共同の 土地保有︵冒昌冒巨己巴という形で冒易?8日目巨昌噂を維持しながら、しかも子供達の世帯がやがて独立して 個別的耕作を行ない、末子の世帯によって相続されることになる父親の家屋敷を中心にして相互にルiズな集落を作 ︵ Q 凶 ︶ っていくという定住の在り方であった。 もちろん、研究史上においてはシーボームの業績も全体として今日いわば古典的部類に属し、従っていくつかの点 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 鍋 瞭 職 の 一 側 面 四 三 21
ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 四 四 で修正されるべき部分堺あるといわれてきたことは周知の通りである。ただ、当面の問題であるアングロ・サクソン 人の、特に最早期にメイズを構成していたとみなされるところの家族集団に関し、それを既述の理由でいまだ﹁家父 長制大家族﹂には至らない形態であったとみる限り、われわれには先のエンゲルスや今みたシーポームによる右の ﹁世帯共同体﹂的な在り方こそが、むしろ一般的であり、より現実的な状況を説明しているように思われる。 換言すれば、アングロ・サクソン人の移住定着期において、まさしく当該社会の中堅的存在をなしていたと通説で 述べられてきたところの農民層︵恩ミ轡は、いわばこのような定住形態を広範に展開していた主体であったという もちろん、この世帯共同体は漸次その構成員が世代ごとに分裂をし、やがて新しい戸曾目印:asを独立させて いく可能性をもった過渡的形態であったのである。 そしてこのような分裂が行なわれる過程は、彼らがイングランドに移住定着をした晶早期から後の植民段階におけ る定住地の拡張に対応する、世帯共同体そのものの変化ないしは社会的発展を意味するものであったとみられよう。 ただし、ここで注目されるべき点は、この世帯共同体において末子が父親の家屋敷を相続することになるという限り で、その世帯が多分に経済的にも能力ある有力者として、定住地拡張における中心的な、あるいはまた指導者的な存 在としての役割をしばしば担ってくるものと考えられることである。 また他方、世帯共同体を当初の基礎として分裂発展していくこのような歴史的過程は、あくまでも定住地の拡張 ︵Ⅱ植民︶が地理的に許容され成功する場合にこそ明確な形をとって現われると思われるから、この条件やその他の 状況次第では植民の失敗などにより、やがて没落ないし貧困化していく者達をそこから生み出す場合もあるだろう。 かくしてそれらの者達は、遅かれ早かれ経済的な能力をもつ旧来の中心的世帯に保謹をあおいだり、またその他の有 ことになるだろう。
力者に対する従属関係を余儀なくされるのである。 さて、われわれは以上のことをふまえ、再びここでインガス地名との関連を述べ本稿を結幕ことにする。そもそ も、インガス地名のうちその一部はアングロ・サクソン人の最早期社会に属するものもあったが、それは既述の通 り、いわば彼らの移住定着過程における族長ないし首長、および戦士層によるまさしく軍事的色彩の濃い主従団的定 住を示す証拠であったろう。しかしこの地名の多くは、先のドジソンが主張したように、時期的にはむしろその後に おける植民過程に伴なって発生する形態でありえた。従って、このようなインガス地名発生の歴史的背景として、わ れわれはそれに関わる何らかの社会的変化ないし発展が存在していたとみなしうる。これを早期アングロ・サクソン 人社会における家族形態の如何という問鼬においてとらえると、彼らは当初からいわゆる家父長制大家族を形成して いたのではなく、むしろ世帯共同体としてその定住を磨く展開したということである。しかし、この過渡的形態はや がて定住地の拡張︵Ⅱ植民︶において漸次分裂をし、その際おそらく経済的にも指導者的な役割を担うに足る有力者 を中心として、今や新たなコミョーティが形成されるに至った。つまり、このコミュニティはそうした過程において 生じた有力者をしばしば創始者とするものであり、この者のパーソナル・ネームがインガス地名に反映することとな ったと思われる。われわれは、インガス地名の発生が、まさしくそのような状況を現実の土台にしていたということ を考慮しなければならないだろう。 ︵ 3 ︶ 畠 . 掴 く 盲 。 曾 騨 ロ 。 鼠 5 コ ① の 3 毎 菩 旦 暮 ① 冨 騨 目 。 同 、 喝 置 、 ロ ロ 臆 ] ゆ ] ・ 画 醇 . 菅 罠 廟 巾 ︾ 弓 冒 o o p 禺 言 量 。 国 昌 里 “ g 噂 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 組 織 の 一 側 面 四 五 ︵1︶ ︵ 2 ︶ 畳垣、軌弓畠︶句、函骨哩帛 例えば田中正鵜﹃イングランド封建制の形成﹄八六頁参照。 具 . 同 君 . 冨 里 竺 凹 画 昌 ご ロ 日 ① 凰 宙 唱 騨 弓 丙 四 口 Q 切 亀 。 冒 具 邑 隠 、 己 回 畠 科 望 P ﹄ 可 . 言 . 鷲 ⑦ 昌 冒 ︺ ” シ 自 彊 。 I ② 四 槻 。 ロ 回 口 哩 曲 口 宴 23
︵7︶黒須徹﹁ゥエスト・サクソン人社会の初期構造﹂︵ご︵﹃東北学院大学論集﹂経済学・第四四号所収︶、および同﹁ア ングロ・サクソン族の初期定住形態について﹂lウェスト・サクソン族を一例としてI︵﹃社会経済史学﹂第二九巻四 ・五号所収︶参照。また、この見解は同氏によって最近公刊された著作﹃イネ法典の社会経済史的研究﹄︵昭和五○年、宝 文堂出版︶においても明示されたが、私は本稿の作成にあたっても同番を通じて教えられるところ那多かつた。 ︵8︶詞団員里印、前掲邦訳七八、一八九頁参照. ︵9︶具.可、印#gゴョ↓目胃国画嘗呂く昌畠①Oo日日匡昌噂、電蹟ゞ弓皀麓︲電回誤居黒須徹、前掲論文参照。 ︵6︶詞国眉①履己巾司ご蹄胃匡掲号印両由日罠の、号い卑弓凹蔚侭の回冨日印.E呂号い鷺患鯨、儲鷺.戸原四郎訳﹃家族・私有財 ︵5︶塁騨汽葛①冨笥.君苛厨。冨胃鴨、o三・胃①、黒正・青山訳ヨ般経済史要論﹄上巻、一三三頁参照。 ︵ 4 ︶ 田 中 正 義 、 ︾ 三 八 三 頁 参 照 。 前 ○帛夛白伯旦爾く画一両国晩一色ロ且 の研究﹄三四五頁参照。 産・国家の起源﹄七六頁。 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 早 期 社 会 紐 織 の 一 側 面 四 六 型 誤伯豊⑮ぐ巴国侭盲且時。昌昏①国弓昌吾辞豊①目①目8辰器︾ご亀.。p岬顛.青山吉信﹃アングロⅡサクソン社会 掲書八七頁、同﹁アングロⅡサクソンの社会とその封建化﹂︵岩波﹃世界睡史﹄七・中世1所収︶三八二I