• 検索結果がありません。

へルマン・ヘッセの『デーミアン』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "へルマン・ヘッセの『デーミアン』"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

武 田 修 士 ツCとヽ (昭和56年 5月14日受理) ま え お き この作 品が第一次大戦後 の1919年 にエー ミール・ ジ ンク レー アの匿名 で発表 された とき

,逸

速 く これ に接 して

,作

者 がヘ ル マ ン・ ヘ ッセで あ るこ とを見 抜 いた一人 に

,心

理学者 の C・ G・ ユ ング が い る。ユ ングは『デー ミア ン』 を読 んで深 く心 を動 か され

,次

の よ うな感謝 の言葉 を作者 に寄せ た。 《私 は本 当に心か らあなたの完壁で もあ り真実で もあ る御本 『デー ミア ン』 に対 してお礼 を申さ ずにはい られ ませ ん。た しかに

,私

があなたの匿名 を破 ります ことは

,た

いへん厚か ましくず うず うしい ことではあ りますが,私はこの本 を読んだ とき,この本 はどういうふ うにしてかルツェル ン(り を経由 して来たにちがいない, とい う気が したのです。(・…・・)ち ょうど小 さなクナ ウエルが ジンク レーアの ところに再三押掛 けて きた ように

,今

日の人間の暗愚化 と救 いようのない頑迷 とが また し て も私 の ところに押掛 けて きた ときに

,

この本 は私の ところへや ってきました。 それで

,あ

なたの 御本 は

,嵐

の夜 を照 らす燈台の光の ような効果 を私 に与 えました。②》 言 うまで もな く

,当

時 この小説 を読 んで強 く心 を打たれたのは

,こ

の作品に直接影響 を及 ばして いると思われるこの心理学者だけではなかった。実に多数の読者が感動 したのであった。作者 と同 世代 の作家 トーマス・マンもその一人で

,マ

ンはこの小説 を読 む とただちに,「エー ミール・ ジンク レーア とは何者 なのか?」と出版社 に問い合わせ る0ほ どに心 を動か された。マ ンは後年 この小説 に ついて短 いエ ッセーを書 いたが

,そ

の中に次のようた言葉が読 まれ る。 《第一次大戦直後 に

,一

種神秘的なジンクレーアの『デー ミアン』が惹起 こした電撃的効果 は, 忘れ られない。 それは

,恐

ろしいばか りの正確 さで時代 の神経 を射 当て

,自

分達の中か ら自分たち の生の深奥 を告知す る者が現われた と思 い込 んだすべての青年達 を(・……)狂喜 させ,感謝 させた。①》 ユ ングの感謝の言葉 といい

,マ

ンの追懐 の言 といい

,

この小説が

,当

時の読者 に とって

,ど

のよ うな意味 を持つ作品であったかが窺い知 られる。つ まりそれは

,単

に一人の若者の短 い半生 を描 い た興味 ある小説作品 というにとどまらず

,当

時の人間の生の問題の核心 を衝 き

,同

時 に,「もう一つ

(2)

176 武 別 の生の可能性0」 を暗示 し得た作品だ ったのである。だか らこそ この本 は

,ユ

ングに「嵐 の夜 を照 らす燈台の光の ような効果 を与 え」たのであ り

,当

時の青年たちに「 自分たちの中か ら自分 たちの 生の深奥 を告知する者が現われた と思い込」 ませ

,彼

らを「狂喜 させ

,感

謝 させた」のであ ろう。 そして

,こ

の作品の持つ このような意味合 は

,現

在 もなお少 しも変 っていないように思われ る。 なぜな ら

,一

この作品の中で言われているように司 々 は「百年以上 ものあいだ (……

)た

だひ たす ら研究 し

,工

場 を建 ててきた」が

,そ

してまた,「一人の人間 を殺すのに幾 グラムの火薬 がい る かは

,正

確 に知 っている」が

,し

か し依然 として我々 は「神 にどのように祈れ ばよいか

,知

らないJ か らであ り,「どうした ら一時間満足 した気持でい られるかす ら知 らない。七 か らである。 1 『デー ミアン』 と同時代の作品で

,

この作 同様広 く読者 に迎 えられた問題作 に

,

トーマス・ マン の『魔 の山』がある。 これは千ページに も及ぶ力作長編 だが

,物

語の設定年代 は

,第

一次大戦前の 数年間であ り,『デー ミア ン』のそれ とほぼ完全 に一致 している。 この大作 をマ ンは第一次大戦前 に 構想着手 し

,大

戦 中は

,己

れの金存在 を賭 けて時代 の焦眉の問題 と取組 んだ悪戦苦闘の書 『非政治 的人間の考察』の執筆 その他で長 く中断 しなが らも

,戦

後稿 を続 け

,構

想か ら十年余ののち

,1924

年 に発表 した。 この作 をひ とことで概括すれば

,ヨ

ーロッパ近代 の基盤 を成す諸思想 を総点検 し, 新たな生の意味 を探 り出そ うとい う意図を持 った作品だ ということができるであろう。 さて

,こ

の大作の山場

,少

な くとも山場の一つを成 しているのは

,第

六部の「雪」 と題 された美 しい一章 である。 ここで

,主

人公の青年 は

,冬

のある日

,ス

キーで山中深 くはいって行 くのだが, 途中で激 しい吹雪 に襲われ

,難

行苦行の末疲労困億 して

,山

中の乾車置場に一時待避す る。 そ して 青年 は

,

この小屋の軒下 に

,ス

キー をはいた ままもたれかか りなが ら

,疲

労のため

,短

いが深 い眠 りに陥 り

,

この とき

,意

味深い夢 を見 るのである。 初 めに

,樹

,緑

あふれ るた くさんの樹木が見 えて くる。そして,う っとりす るようないい香 り。 向 うには光輝 く海

,壮

麗 な虹が見 える。愛 らしい鳥の声が聞 こえる。それは南国の こよな く美 しい 入江である。海辺では大勢の若者たちが遊 んでいる。ある者 は馬 を駆 り,あ る者 は弓 をひいている。 いかに もすがすが しい。一群の少女たちが楽 しく踊 っている。 この上 な く愛 らしい。若い男女がむ つ まじ く語 らっている。 そ して

,彼

ら「太陽の子 ら」が示す親愛のそぶ り。堅苦 しくない礼儀正 し さ。品位。一 この生命の充浴 した美 しい眺めに青年 は夢の中で心か ら感動する。 しか し

,

この入江 を見下す丘陵の中腹 にすわっていた彼が

,あ

る切 っ掛 けで

,目

を後方 に転ず る と

,夢

の場面 は一転 し

,そ

こには古びた神殿があ り

,彼

,そ

の神殿 の中にはいって行 かず にはい られな くな るのである。すると,そ こでは血 も凍 るような恐 ろしい場面が展開されている

,つ

ま り, 魔女 に も似た醜い老婆が二人

,暗

闇の中でゆらめ く火皿の火 に照 らされなが ら

,幼

児 を引 き裂 き,

(3)

これをむさば り食 らっているのである。恐怖 に金縛 りになった主人公 は「両眼 をおおいたかったが おおえず」「逃 げ出 したかったが

,逃

げられな」い。 しか し

,気

づいた老婆たちに湿猥 な言葉でのの しられて

,死

物狂 いで逃 げ出す却 分 手短かには正確 に紹介で きない この魅力的で恐 ろしい夢が象徴的に表わ しているのは,「人間」と 「人間共同体」の本来的な姿であることは

,前

後 の叙述か らも明 らかである。 そしてそれ は

,光

と 影

,生

と死

,善

と悪

,神

的な もの と悪魔的 な もの

,つ

まり

,二

つの相対立す る要素 を含んでいる。 そして

,こ

のような人間 と人間社会の状態 に対 して取 る主人公 の態度 は

,両

要素 を単 なる対立 とし て退 けず,(「死 と生 (……

)こ

れは果 して矛盾す るものであろうか

?(…

)死

の放埓 は生の中に あ り

,そ

れな くしては生 が生で はな くなるであろう°り 対立 を越 えた ところに己れの立場 を築 こう とするものである。そして,この作品全体が目指 しているの も

,一

この小説 を理念的に見れば薪 終的には

,こ

の態度の確立であ ると言えよう。 こう見て くれば

,既

に『デー ミア ン』の読者は

,

このはなはだ趣 の異 なる二作品に

,あ

る強い内 的関連のあることを推察 されるであろう。 つまり,『デー ミアン』は「二つの世界」と題する章か ら 始 まるのだが

,こ

こで言 う「二つの世界」 とは

,ほ

かで もない

,善

なるもの

,光,神

聖なものか ら 成 る「明 るい世界」 と

,悪

なるもの

,影,不

無味な ものの住 む「別 の世界」の謂なのであ り

,そ

し て,『魔の山』 において と同様,『デー ミアン』 において も最終的に目指 され るのは

,

この相対立す る二世界を

,人

間 と人間社会 を構成 する必須の もの として

,直

視 し

,

この相対立 した ものの統合の 上 に

,新

しい「生の可能性」 を打 ち開 くことであるように思われ るか らである。例 えばデー ミアン は

,キ

リス ト教の神の一面性 を指摘 しなが ら

,次

のように言 う一 《問題 はこうだ。 つ ま り

,新

約 と旧約の この神全体 は

,た

しかに

,す

ば らしい ものではある。 し か し

,そ

れが本来表わすべ きものを表わ してはいない。 この神 は善 なるもの

,高

貴 なるもの

,父

性 的な もの

,美

しく高 きところにあるもの

,そ

して また

,感

傷的な ものである。 これ も結構だ

/し

か し

,世

界 は別の ものか らもで きている。 ところが

,こ

ちらの方 はすべてあっさ り

,悪

魔のせいにさ れてい る。世界の こち ら側全体

,

この半分全体が隠蔽 され

,黙

殺 されている。人々 は神 をあ らゆる 生命の父 と称揚 してお きなが ら

,一

,生

命 の基盤たる性生活の全体 を

,あ

っさ り黙殺 し

,場

合 に よっては

,悪

魔の仕業

,罪

深い ことだ と説明 している。ぼ くは人が このエホバの神 を崇めるのに全 然反対 しない。電末 も。 しか しぼ くは

,我

々 はすべてを崇 め

,尊

重 しなけれ ばならない

,

と思 う。 世界全体 を。 この人工的に切離 された公認の半分だけではな く

/そ

うなれば

,我

々 は神の礼拝 と並 んで悪魔の礼拝 をも行 なわねばならないだ ろう。 そうして こそ正 しい とぼ くは思 う。 あるいは

,悪

魔 をも内に含む神 を創造 しなければな らない。 この世の 自然な ことが起 こるとき

,そ

の前で目をつ ぶ る必要のない神 を造 らなければな らない。やり

さて,我 々がここで注目するのは,こ の同世代に属する二人の作家が,ほ ぼ同じ時期に,つ まり

,

(4)

178 武

第一次大戦前後の時期 に

,同

様 に「時代」 と激 しく衝突 し

,そ

こにおける苦闘の中か ら

,同

様 に作 風 の転 回を示す重要な作品において

,極

めて類似 した (というのが言 いす ぎであれば

,ほ

ぼ同方向 を志向する

)人

間観・世界観 を呈示 していることである。そしてそれは

,上

に大 まかに見た ように,

(そして

,以

下の論述の中心問題 となるであろうように,)ネ申聖な ものか ら邪悪 な ものまでの生の金 体 を直視 し

,相

対立す る要素の統合の上 に

,い

わば「生のダイナ ミクス Dynamik des LebenS」 回復 しようとする考 えであ ると言 ってよいであろう。 ここで興味深いのは

,

この考 えが

,マ

ンにおいて もヘ ッセにおいて も

,

ともに夢 と関連 している ことである。上 に見た『魔 の山』の主人公ハ ンス・ カス トルプの夢が

,作

者 自身の夢 を素材 に した ものであるか どうかは分か らない。 しか し

,そ

の ことよ り

,こ

の場合 に注 目しなければな らないの は

,作

者が まさに作品の中心理念

,あ

るいは

,中

心理念の一つを夢の形で呈示 しているということ であ り

,更

にまた

,こ

の夢 を見 る主人公が

,山

中で激 しい吹雪に襲われ

,疲

労困悠 して山小屋の軒 下に避難 しているとい う危機的状況 にある

,

とい う点である。なぜ作者 はこの ような状況設定 を必 要 としたのか。言 うまで もな くそれは

,

この大作の中心理念 を展開す るのに「単純 な」青年ハ ンス・ カス トルプの意識状態 は不都合であ り

,ま

,夢

であっても

,日

常的状況でひんぱんに見 られ る個 人的な事柄 にかかわる夢で は

,や

は り役 に立たなかったか らである。示 され る理念が普遍的な もの であることを主張す るためには

,こ

れを展開 してみせ る夢 は

,所

謂「大夢 gr08er Traum」 でなけ ればならない。 そして

,そ

うい う夢が生み出され るのは

,し

ば しば

,人

が生命 の危険 を覚 えるよう な危機的状況 においてである― 。そして

,こ

の主人公の危機状況 は

,

トーマス。マンが第一次大戦 中に見舞われた精神的危機状況 を比喩的に写 し取 っている,と見 ることがで きるので はあるまいか。 つま り,『魔 の山』において展開 された人間・世界認識 は一 それはあの夢の中で凝縮 して表わされ ている一 ちょうどハ ンス・カス トルプが,山中で吹雪に襲われ るという危機的状況で見た夢の中で, 「人間」 と人間の「共同体

Jに

ついての理念 を獲得 したように

,作

者 の第一次大戦中における精神 的危機・苦悩の中か ら掴 み取 られた

,

と見 ることができるのではあるまいか。 一方,『デー ミアン』の「二つの世界」の認識 も

,ま

さにヘ ッセの危機的状況か ら

,そ

れ も疑 いな く夢 を主たる手がか りとして得 られた ものである。つまリヘ ッセは

,第

一次大戦中

,こ

の「大いな る時代grOse Zeit」 との衝突

,家

庭の崩壊等に見舞われて病付 き

,な

かんず く神経 をや られて

,ユ

ング派分析医のJ・ B・ ラング博士の主宰 する病院 に入院 し

,

この医師か ら60回に及ぶ分析 を受 け た(1° 。 そして

,こ

の経験 を上台 として『デー ミア ン』が書かれた ことは

,周

知 の通 りなのである(lD。 こう見て くると

,そ

して今

,西

欧における「現代

Jを

,第

一次大戦以後 の時代 と規定するな ら, まさに現代 とい う時代 の幕が切 って落 とされん とする時 にあたって

,二

人の作家 は

,同

様 に精神の 危機状 況 に追 いこまれ,そ の苦悩の底 か ら,相対立する要素 を含 む人間 と世界の全体像 を掴み取 り, この全体像の認識か ら

,い

わば「生のダイナ ミクス」 を回復せん と願 った

,

とい うことになる。そ して

,二

人の認識の獲得あ るいはその表明が

,と

もに夢 を通 してなされてい ることは

,彼

らの直面 士 心 修

(5)

した危機状況が

,日

常的意識状態 を突崩すほどの ものであった ことを明示あるいは暗示 している。 ここに

,こ

の二人 の極 めてす ぐれた作家が

,同

様 に

,西

欧の近代精神史上 の大問題 と対面 してい ることは明 らかであろう。それは

,一

西欧近代 の精神史 に関す る議論のあるところで しば しば指摘 され るように(姥 代 とい う人間中心主義の時代 の進展 とともに起 こった

,人

間の生の一面化,断 片化

,皮

相化

,あ

るいは

,宗

教的感情 の貧困化の問題 である。(これを裏返 して言 えば

,一

面化

,断

片化 した生の

,あ

るイデオロギー

,あ

る強大 な指導者等の触発物 による凶暴化

,野

蛮化の問題 であ る。

)こ

の ような生の傾向の発生過程 あるいは原因。理由をどう考 えるかは

,大

なる議論のある とこ ろだが

,

この問題 に

,西

欧近代の標章 とで も言 うべ き科学主義 とキ リス ト教が深 くかかわっている ことは,異論 の余地がないであろう。換言すれば

,近

代の合理主義的理性 の無批判 な信仰 と,キ リス ト教の世俗化あるいは宗教 のキ リス ト教 による一元化 (異教的要素の追放)の問題 である(19ち マ ン , ヘ ッセ

,

この二人の作家が

,第

一次大戦 とい う大事件 との遭遇 をきっかけにして

,い

わば全身 をも って対決 したの も

,ま

さにこの問題 であった。 そ して

,彼

ら自身が身体・精神の変調 を来たすほ ど の危機状況に陥った とい うのは

,そ

れが他人の問題 ではな く

,己

れ自身 も

,そ

の言 うところの「合 理主義的理性」 を身につけ

,そ

の「一面的生」 を生 きているという抜 き差 しな らぬ側面のあった こ との証左であろう。 ところで

,こ

こで見落せないの は

,マ

ンにおいて もヘ ッセにおいて も

,目

指 された ものが「生の ダイナ ミクス」の回復

,つ

まりは

,人

間の生の新たな意味合の発見であった として も

,そ

れは

,人

間の善 なる面

,高

貴 なる面 を希求するというような単純 な形で示 され るもので は全然 ない

,

という ことである。マ ンにおいて も

,そ

して

,特

にヘ ッセにおいては

,真

に生 きた生の意味の探求 は

,ま

ず何 よ りも

,人

間 と世界の本源 に存す るその一面 としての醜悪なるものの直視か ら始 まる

,と

い う 主張があるように思われ る。ハ ンス・ カス トルプが

,あ

の「大いなる夢」の中で

,身

の毛 もよだつ 場面 に際会 して,「両眼 をおおいたかったがおおえなかった」のは

,

この点 を暗示 しているのではあ るまいか。一方

,デ

ー ミア ンが今言 った主張 を

,ほ

とん どそのまま述べ るのは

,先

に見た通 りなの である。 ヘルマ ン・ ヘ ッセ40歳の力作 『デー ミアン』の持つ中心問題 と

,そ

の背景 にある精神状況 とを暗 示 しようとして,『魔の山』とこお ける主人公の見 る一つの夢 を引合 に出す ことか ら話 を始 めたが

,こ

のあた りで

,こ

の作品の内部 に立入 って

,よ

り詳細 な検討 を加 えてみることに しよう。 2 この作 品 を支 える基本 的認識

,少

な くとも基本 的認識 の一 つ は

,先

に示 した デー ミア ンの言 に集 約 され る もので あ る と言 って よか ろ うが

,こ

の作 品 はあ る認識 か ら出発 して何事 か を語 ろ う とす る もので はない。 そ うで はな くて

,あ

る具体 的 な事件 か ら出発 し

,何

らか の認識 に到達 す る と

,そ

(6)

180 を再 び

,い

わば生の うちに返す― この運動 を繰返すのである。つまり

,一

人の人間の自己発見の過 碍 を語 ろうとす るのだが

,こ

の過程 は極 めて個性的な ものであると同時 に

,

この上 ない普遍性 を獲 得 しているように思われて

,我

々 に

,こ

の過程 において現われ る様々な問題 の聞明を強いるのであ る。我々 はこの過程 を逐一追跡す る煩 いを避 けたい と思 うが

,少

な くとも

,

この 自己発見の物語の 発端 を成す事件だけは詳 しく見 てお く必要がある。 そこか ら我々は

,

この作 品における幾つかの重 要な問題の所在 を知 り

,具

体的な検討 を力日えてい く手がか りを得 ることがで きるように思われ るか らである。 それは

,主

人公エー ミール・ ジンクレーアの十歳の折 の出来事である。 エー ミールは「明るい世界」― そこには「ゆるしとよき志

,愛

と尊敬

,聖

書の言葉 と叡知があっ た°つ」―― に住 む良家の少年だが

,あ

る日

,彼

,同

年輩 の仲間 と遊 んでいると

,二

つ三つ年長の悪 童が一人 これに加わる。 このフランツ・クローマーをエー ミールは「恐れていた。9。 」 それは

,ク

ロ ーマーが「別 の世界か ら来た。6も 者であるか らである。 その うち彼 らは

,各

,こ

れ まで自分のや らか した武勇伝の数々 を自慢 しあ う。エー ミール も「ただ不安 に駆 られて(1つ

J,つ

まり

,黙

っていて クローマーに碗 まれるのを恐れて

,皆

の前で

,

リンゴを盗んだ話 をでっちあげる。 ところがクロー マーは

,こ

の大掛 りな盗 っ人話の真実であることを誓わせ て

,こ

れを種 に

,エ

ー ミールをいわば小 さな悪の世界へ,「別の世界」へ引招 りこんで しまうのである。か くして

,エ

ー ミールの苦悩の 日々 が始 まる一― さて

,こ

の クローマー事件 に関 して注意すべ き幾つかの点があるが

,そ

の第一 は

,少

年エー ミニ ルが

,ク

ローマーの恐喝を両親 に訴 え

,両

親の力 を借 りて この災いか ら逃れ ようとは

,決

して しな いことである。 この誘惑を少年は強 く感ずるのだが

,彼

は自分が決 して「そうは しないであろうこ とをよ く知 って(481」 ぃる。 なぜな ら

;

この災いは彼 に とって運命的な出来事であ り

,そ

の ことを十 歳の少年 は直覚 しているか らである。「いまは一つの秘密 を,自分ひ とりで

,自

分 だけでなめ尽 くさ ねばな らない一つの罪 を

,持

っているのだ ということをぼ くは知 っていた(D)。 」 人類が歴史 の初めに失楽園神話 を持 つように

,一

個の人間 もその真 に「人間」 になる最初の過程 において失楽園神話 を持つ。 リンゴを盗 む話か ら始 まったクローマー事件が

,エ

ー ミール・ ジンク レーアの失楽園神話であることは言を倹たない。そして,ア ーダム と工∵ヴァの物語が示すように, それは

,楽

園におけるいわば無認識の生活か ら

,善

悪 を区別する認識 を持つ生活への転 回を語 る物 語である。で は

,エ

ー ミールには

,い

かなる認識が どのように訪れたか。 クローマーの手中に落 ちたその 日

,重

大 な罪 を犯 した思いに圧倒 されなが ら

,両

親のいる居間に はいってきたエー ミールを見て

,父

は小言 を言 う。 しか し

,そ

れは少年の犯 した罪 を指 しての こと ではな く

,見

当違 いもはなはだ しいことに

,濡

れている靴 を とがめたのであった。エー ミールは心 密かにその小言 を自分の犯 した罪 に結 びつけて聞いている。そしてその とき,「奇妙 に新 しい感情°O七

(7)

が少年の心 を閃光の ごとく貫 くのである。 《(それ は

)逆

針 に満 ちた邪悪で鋭利 な感情であった。父 よ りぼ くの方が上だぞ/と感 じたのだ。 一瞬間

,父

の不明 に対 して一種 の軽蔑の念 をおぼえ

,濡

れた靴 についての小言など取 るに足 りない ことに思われた。「本当の ことを知 った ら/」とぼ くは考 え

,本

当は殺人 を白状 しなければな らない のに

,パ

ンをひ とつ盗 んだ といって問い質 されてい る犯人の ような気が した。それは醜 く心 に逆 ら う感情だった。 しか し

,そ

れは力強 く

,あ

る深い魅力 を持 ってお り

,そ

れで

,ほ

かの どの考 えよ り しっか りと

,ぼ

くをぼ くの秘密

,ぼ

くの罪 に結びつけた。(・・…・)それは父の神聖 さにはいった最初 の裂 け目であった似ち》 十歳のエー ミール・ジンクレーアがクローマー事件か ら得た認識 は

,ま

ず何 よ りも, この世 には, 両親 に代表 され る善 なるもの

,光 ,神

聖 なるもの

,つ

ま り,「明 るい世界」のみな らず

,他

方 に

,フ

ランツ・クローマーの顔 をした「別の世界」

,悪

なる世界があるのだ

,

とい う認識であった といつて よいであろう。 しか し

,そ

れのみではなかった。聖書 におけるアーダム とエーヴァの

,善

悪の木 の 実を食べ るとい う行為が

,一

つの堕落 を意味 した ように

,エ

ー ミールの認識 に もある堕落 した趣, あるいまわ しい洞察が付随 していた。それは

,悪

,例

えば

,フ

ランツ・ クローマー として自分の 外部 にあるのみな らず

,自

分の裡 にもある

,自

分 もまた悪 を所有 してい る

,

という認識であ り

,そ

れは「ある奇妙 に新 しい感情」として少年の心 を打 ったのであった。罪 を必巳した自分が,「明 るい世 界」に住んで罪 を知 らない父 よ り優越 していると感ず る/これは

,自

分 自身 これ まで「明 るい世界」 の住人であった少年 にとって

,強

く心に逆 らうもののあった ことは当然だが

,重

要なのは

,少

年が ここで

,悪

にはある力強 さがある,「ある深い魅力」があることを全身 をもって感 じ取った ことであ る。 この作品の根底 には

,人

間の生 と世界 に対す る真の洞察 を得て

,新

しい生の可能性 を獲得せん と 願 うもののあることを先 に述べたが

,上

に見た十歳 のエー ミール・ ジンクレーアのいわば感覚的認 識が

,こ

の中心問題 と直接つなが るものであることは言 うまで もない。 しか し

,

この点 を検討す る 前に

,ク

ローマー事件の成行 きをもうしば らく辿 ってみよう。 3 瑣細 な こ とか らク ロー マーの手 中 に陥 ったエ ー ミー ル は

,こ

の 「悪魔 」へ の隷従 を強 い られ なが ら

,苦

悩 の数週 間 をす ごす。 しか し

,あ

る 日

,

この苦悩 か らの救 いが,「 全 く思 いが けぬ方面 か ら」 や って くる。 それ は次 の ような次第 で ある。

最近

,エ

ー ミールの学校に一人の年長の少年が転校して来た。マックス・デーミアンである。こ

の大人びた生徒は「あらゆる点で皆とは異なってい°

2ち

る。ある日

,何

らかの理由で

,デ

ー ミアン

のクラスも

,下

級生であるエー ミール達の大きな教室でいっしょに勉強することになる。エー ミー

(8)

182 ルたちは聖書物語 の時間で

,先

生か ら「カイ ンとアーベルの物語」 を聞か され る。一方

,デ

ー ミア ンのクラスには作文の課題が与 え られる。そしてエー ミールは

,自

分の課題 に一個の「研究者の よ うに」取 り組 むデー ミアンを

,あ

る反撥 を感 じなが らも

,見

ずにはい られない。 さて

,こ

の 日の帰 り道

,デ

ー ミア ンの方か ら声 をかけられてエー ミールは

,こ

の妙に気 になる少 年 と初 めて話 を交わす ことになる。話題の中心 となったのは

,そ

の 日の授業で聞いたカインとアー ベルの物語である。デー ミアンは言 う,「ぼ くたちが習 うたいていの ことは

,た

しかに

,全

く本 当で 正 しい。 しか し

,何

で も先生 とは別 なように見 ることもで きる。 そして

,そ

うす ると

,た

いてい, はるかに良い意味 を持つようになるんだ99。 」と。 そ して

,カ

インとアーベルの物語 も同様 だ と言 う のである。デー ミアンの この物語 に対する疑惑 は

,こ

の聖書創世記第四章第一節か ら十六節 までの 短 い話の中の後半部

,主

がカインを弟アーベル殺 しの罰 として地の放浪者 としてお きなが ら

,一

方 では

,今

は意気地 をな くしたカインを人々が殺 さないよう

,彼

に しるしをつ け,「カインを殺す者 は 誰で も七倍 の復讐 を受 ける°4ち ょぅに取計 らっている点に向 けられ る。興味 を引かれたエー ミール は

,そ

こで

,こ

の物語 に対 して どんな違った解釈 がで きるのか と問 う。 そ して

,デ

ー ミアンの行 う カイ ン物語解釈 は

,エ

ー ミールを心底か ら驚かすに足 るものである。 《まず在 って

,物

語 の発端 となったのは

,あ

の しるしだったんだ。 まず

,顔

に他人 を不安 にす る ものを持 っている男がいたんだ。人々にはこの男 に手 を出す勇気 はなかった。 この男 とその子孫た ちは人々 を畏怖 させた。たぶん

,い

,ま

ちがいな く

,そ

れは しか し

,実

際 に郵便 スタンプみたい な しるしが額 についていたんじゃない。(・…・・)むしろそれ は

,何

かほ とん ど気づかれ得ないような 不気味 なもの

,人

々が慣れているよ りも少 しばか りよけいな才智

,大

胆 さがその目差 に光 っている といったようなことだったんだ。この男は力 を持 っていた。この男 を人々は恐れた。そこで男 は「 し るし」 を持 っているということになった。 これを人々 は自分たちの好 きなように説明することがで きた。 そして,「世 の人々」というものはいつ も

,自

分 に好都合で

,自

分 をよしとす るものを好 む も のだ。人々 はカイ ンの子孫 を恐れていた。そこで彼 らは「 しるし」 を持 っているということになっ た。 そして人々 は, この しるしを

,そ

れが本来表わ しているもの

,つ

ま り

,す

ぐれた しるしと取 ら ないで

,そ

の反対物 と説明 したんだ。人々 は

,あ

の しるしを付 けている奴 らは不気味だ,と言 った。 そ して

,実

際その通 りだった。勇気 と性格 とを持 っている人間 は

,他

の人々 に とっては

,い

つ もひ ど く不気味だ。恐れ を知 らぬ不気味 な一族がそこらを徘徊 しているのは

,全

く不都合なことだった。 そこで人々 は,この一族 に報復 し,さんざんなめた恐怖 に対 して少 しばか りつ ぐないをつけようとし て,こ の一族 にあだ名 を付 け

,作

り話 を くっつけたんだ。9。 》 「要す るに」とデー ミアンは言 う,「あのカイ ンとい う男 はすば らしいやつだった」,「一人 の強い 男が一人の弱虫 を打 ち殺 したのだ°°」 と。 このデー ミア ンのカイン物語の解釈がエー ミールを「仰天」 させ るのは

,そ

れが

,

この聖書物語 に対す る正統的・ 伝統的な解釈の完全 な転倒 を意味す るものであるか らであることは言 うまで もな 士 心

(9)

い。デー ミアンの言 う通 りだ とすれば,「人殺 しは誰 も,自分 を神の寵児だ と言 いはることがで きる であろう9° 。」だ とすれば

,

この聖書の神 は何か まちがいを犯 した ことにな り

,唯

―の正 しい神では な くなって しまう。 これは愚劣で無意味 なことだ

/敬

虔 な両親の子であるエー ミールは

,デ

ー ミア ンの話 を神を冒漬す るふ とどきな話 として

,何

として も否定 したい。しか し

,そ

れにもかかわ らず, 彼にはたち まちクローマーの手 中に陥った 日

,家

に帰 って父に対 して感 じたあの一瞬の優越 の感情 が思 い出 されるのである。あの ときエー ミールは,「父 と父の明 るい世界 と叡知 とを突然見抜 き

,軽

蔑 した」のだった。「そうだ

,あ

の ときぼ くは

,自

分 自身がカインであ り

,

しるしを帯 びていたのだ が

,こ

の しるしは汚名で はな く

,す

ぐれた しるしなのだ

,そ

して自分 は己れの悪意 と不幸 とによっ て

,父

よ り

,善

良で敬虔 な人々 よ り高い ところにいるのだ

,

と思い こんだのだ9°。」 こうして

,デ

ー ミアンのカイン物語解釈 に触発 されて

,エ

ー ミールの心 に浮かびあが つて くる考 えや疑間 は

,尽

きるところを知 らない。 それは

,最

初 の一晩 は

,ク

ローマー事件の渦中にあるエー ミールか ら

,こ

の「悪魔」の ことを完全 に忘れさせて しまうほどである。 《いわば泉に石が落ちたのだ った。 その泉 とはぼ くの若 い魂であった。 そ して

,そ

の後長 い間, 非常 に長 い期間

,こ

のカインと殺人 としるしの ことは

,ぼ

くの認識

,疑

,批

判 のすべての試みの 出発点 となった99。》 さて

,我

々 は先 に

,こ

の作品の精神的背景 として

,近

代 における合理主義的理性 の無批判 な信仰 とキ リス ト教の世俗化

,あ

るいは

,宗

教のキ リス ト教 による一元化の徹底 (異教的要素の追放

)故

,人

間の生の全体像 に対す る洞察力が失なわれ

,人

間の生がはなはだ しく平板化

,一

面化 した と` い う問題 があることを推測 しておいたが

,こ

の観点か ら

,上

に述べたエー ミールの自己認識

,デ

ー ミアンのカイン解釈 を見 てみれ ば

,そ

れ らは

,こ

の問題 に対する真正面か らの取組 みを示す もので あることは明瞭であろう。 そ して

,こ

こで もマンの『魔の山』 を引合 に出すなら

,こ

の大作が如上 の問題 の どちらか と言 えば合理主義的理性信仰の問題の側面 に

,よ

り多 く理智的姿勢で取 り組 んで いるのに対 して,『デー ミア ン』は

,同

じ問題の

,キ

リス ト教が直接 かかわ る側面 に

,多

分 に宗教的 態度で取組 んでいると言 えるであろう。 このような観点か ら,こ こで

,エ

ー ミールの最初の運命的な体験 を多少詳細 に見てみ ると,まず, エー ミールの父親 は

,聖

書の神エホバの現世 における体現者

,あ

るいは

,伝

統的なキ リス ト教支配 の世界の代表者の役割 を担 っている者 とみなされ る。エー ミールが例の瞬間父 に対 していだいた優 越感 とは

,悪

を知 らぬ

,あ

るいは

,悪

を排除す る聖書の神に対する

,悪

を己れ 自身所有 しているこ とを知 っている者の優越感 ではないか。 ここで思い出 されるのは

,エ

ー ミールがある日父親 に

,先

に示 したデー ミアンのカイン物語解釈 について問い質 した とき

,父

親の取 った態度であ る。父 はデ ー ミアンの解釈 を,原始 キ リス ト教時代 に現われた宗〕特― その中の一つはキ リス ト教の異端で,「カ イ ン派」という一 の「気違い じみた教義」にもとづ くものであると教 え

,エ

ー ミールに

,そ

ういう

(10)

184 考 え方 をしないよう「真剣に戒 めた」 のであった°°。 この態度 は

,エ

ー ミールの父親の今見た象徴 的役割 を裏書 きしているのみな らず

,こ

の作品の持つ基本構造 をも暗示 しているように思われる。 つ まり

,

この物語 は

,先

に見 たデー ミア ンの持つ認識の方向へ展開 して行 くのだが

,そ

の認識 は, エー ミールに対する父親の教示が示 しているように

,あ

る「異端」の教 え と極 めて近 い関係 にある ものであ り

,

これが

,伝

統的・正統的 なキ リス ト教世界の考 え方 と対決 している

,

とい うのが この 作品の基本構造ではないか と思われ るのである。 この基本構造 を支持す る要素は

,ク

ローマー事件の中にほかにも見い出 される。 それは

,恐

喝 さ れたエー ミールが初めてクローマーに金 を渡す約束の時間が

,10時

で もな く

,12時

で もな く,「11」 時だ という点である。 ウーヴェ・ヴォルフが指摘 しているように

,こ

れは「偶然ではない」。なぜな らば,「数 《11》 は

,数

象徴 において

,ま

,教

父たちの教 えにおいて

,こ

れが 〈モーゼの10誠〉の 数 としての 《10》 を越 えているとい う理由で

,罪

を意味 している°ゆ

Jか

らである。更 にまた

,エ

ミール とクローマーが初 めて「取引 き」する場所が

,未

だ完成 していない新築の家であるとい う点 も

,同

じ観点か ら

,注

目しておいてよいであろう。 なぜな ら

,今

,明

」の世界か ら来 た」クローマー と「取引 き」 しようとしているエー ミールは

,伝

統的キ リス ト教支配の世界

=「

明 るい世界

Jを

出 て

,別

の新 しい世界ヘー歩踏み出そ うとしているか らであ り

,一

方,「家」が

,夢

象徴 において

,そ

の人間の「人格 PersonlichkeitJ,ぁ るいは

,そ

の人 自身 を表わす ことがあるとい う事実が

,知

られ てい るか らである°か。 この ように見 て くるとき

,こ

の作品が,「キ リス ト教の世俗化

,あ

るいは

,宗

教のキ リス ト教 によ る一元化の徹底 (異教・ 異端的要素の追放

)に

基づ く人間の生の平板化

,一

面化 (あるいは

,宗

教 的感情の貧困化)Jの問題 をどう捉 えているかは

,既

にほぼ明 らかであろう。tt「ち

,ひ

とことで言 え ば

,

この作品は

,如

上の問題の核心 は

,人

間の行 う「悪」 を何 と見

,こ

れ とどう対処 す るか という 難題 であると洞察 し

,こ

の「悪

Jの

問題 と正面か ら取組 もうとしているのである。 そ して

,こ

の取 組 みへのいわば絶対無比の手がか りとして一 これは物語の進展 とともにいよいよ明瞭になって くる が 一暉や専暑

q体

硲 というものを重要視 している

,

とい うことが注意 されねばな らないであろう。 換言すれば

,

この作品はこう主張 してい るとも言 えよう

,即

,人

,己

れの現 に経験 していると ころを

,偏

見のない眼で凝視 し,そ こか ら露わになって くる否定 しようのない人間の本性 に即 して, 伝統的なキ リス ト教教義や生 き方 を再検討 しなければならない

,

と。9。 別の観点 に立 てば

,

ここで問題 になっている一つの ことは

,正

統的なキ リス ト教教義が,「悪」の 存在 を

,正

面 きってはかつて一度 も認 めた ことがない, という事実である。0, とも言 えよう。 キ リ ス ト教の「悪」 に対する態度・ 見解は,「悪 とは善の欠如pr atio boniでぁる」 とい う命題 によ く 表われてい るとみてよいであろう。9。 つ ま りそれは ,「悪」を

,ひ

とつの絶対的現実 とは認 めず

,絶

対的存在 としての善 (神

)を

倹 っては じめて問題 とされるような何かある相対的な もの

,

とい うこ 士 心

(11)

とであろう。 ひ とことで言 えば

,正

統的キ リス ト教 は

,本

質的な意味では「悪」 を知 らないのであ る。ち ょうどこの作品における「明 るい世界」

,あ

るいは

,エ

ー ミールの父親がそうであるように。 しか し

,

この作品の認識 によれば,「悪」 は厳然 として存在する

,例

えば

,フ

ランツ・クローマー として。否

,そ

れは,「明 るい世界」に育 ったエー ミールの内に も厳存 している。 しか し

,こ

の事実 を「明 るい世界」は直視 しようとしない。おそ らく

,ま

さにそれ故 に,「明 るい世界」の代表者た る エー ミールの父親 は,「悪魔」クローマーに捕 え られたエー ミールを

,本

質的な意味では全 く救助す ることがで きないのである。 ちなみに

,こ

のクローマー事件 におけるエー ミールの父親 の無能 は

,彼

が「明るい世界」=「伝統 的キ リス ト教支配 の世界」の代表者 とみ られ るとき

,西

欧近代及び現代 においてキ リス ト教が果た した,そ して今後果たす役割 に関 して,ある独 自な見解のあることを暗示 しているように思われ る。 つ ま り

,そ

れは

,い

,(こ

の作品成立の外的契機 ともなった)欧州大戦 を

,科

学主義 と人間中心主 義の時代たる西欧近代の一つの帰結 と捉 えるな ら

,

ここに至 った人間 と世界 の救出は

,ち

ょうどエ ー ミールの父親の ように

,悪

を知 らない

,あ

るいは

,悪

を排除す る正統的キ リス ト教教義・倫理・ 道徳の力では

,不

可能なのではないか,そ してまた,ヨ ーロ ッパ ニキ ウス ト教世界の人間が

,欧

州大 戦のような「悪魔の所業」にも似た大殺貌戦 を行 なうに至 った とい うの も

,ほ

かで もない

,悪

を常 に自分の外部 に見て

,こ

れを己が内にも見

,対

決す ることを怠った ところに

,そ

の真の原因が ある のではないか― このような見解のあることを暗示 しているように思われ る。 ここで我々 は再度 クローマー事件 に返 らねばな らない。エー ミールは

,た

しかに,「悪魔」クロー マーの手中に陥 ることによって「悪」「悪なる世界」の存在 を全身 を持 って知 り

,そ

して また,「悪」 はある力強 さ,「ある深い魅力」を持 っていることをも知 った。物語 はこのエー ミールの体験 の方向 へ と展開 してい くことは

,言

うまで もない。 しか し

,看

過 してな らないのは

,エ

ー ミール に とって クローマー 自身 は

,依

然 として「打ち殺 し」てで もその手 中か ら脱 しなければならない「悪魔」で あることにかかわ りはない, とい うことである。6ち

_ミ

ールに とってクローマーが「悪魔」だ と いうのは

,ク

ローマーがいわば全身 を「悪」 によって捕 えられてお り

,自

己の内にただ「悪」のみ しか所有 していないか らである。つ まり

,こ

の作品は,「悪」「悪なる世界

Jを

一つの絶対的現実 と 認め

,ま

た,「悪」にはある力強 さがあ り

,こ

れが「生のダイナ ミクス」を回復する重要な手がか り, 少な くとも

,重

要な手がか りの一つであることを示唆す るものだが

,決

して「悪」 その もの を

,そ

れだけで是認 しようなどとはしていないのである。逆 に

,こ

の「悪」 に対抗す る力 を持たぬ者が こ れに捕 えられ ると

,そ

の生 は破壊 されて行 くことを

,ク

ローマー事件のエー ミールの姿はよ く示 し てい る。 あ る 日

,ク

ローマー は突然エ ー ミールか ら身 を引 く。 しか し

,そ

れ はエ ー ミール 自身 の力 に よる

(12)

186 もの で はな く

,デ

ー ミア ンの働 きか けに よるもので あった。 問題 は残 ったので あ る。 4 作品の根底 において,「近代」 という時代の進展 とともに起 こった「生の一面化・平板化

,あ

るい は

,宗

教的感情 の貧困化」の問題 と取組 み,「生のダイナ ミクス」を

,つ

まりは

,人

間の生の意味合 を回復

,発

見せ ん と願 っていると思われ るこの小説が

,正

面 において描 くのは

,先

にも言ったよう に

,一

人の青年の 自己発見の過程である。 ところで

,こ

の過程 を描 くの に

,こ

の作品は

,作

者の体験 を別 にすれば

,多

くの素材 を聖書 に求 め,これを主軸 にして物語 を展開 している。それは

,第

一章の主た る内容であるクローマー事件が, エー ミールの失楽園物語であること,「カインJと題 された第二章 では文字通 り聖書創世記中のカイ ンとアーベルの物語がテーマ とされてい ること

,そ

して

,第

二章 のキ リス トとともに処刑 された盗 賊Schacherの話

,第

六章 における主人公の「ヤ

Fぞ

?諄

k心

,第

七章 と八章 (終章

)に

おける干て ヴァ夫人 の登場 とその象徴的形姿

,

と見ただけで も明 らかである。 しか し

,

ここで も重要 なの は, この作品が

,こ

れ ら聖書か らの素材 を物語の展開 に利用す るに際 して

,

これ らの聖書物語

,あ

るい は

,聖

書の登場人物 に

,多

くの場合

,新

たな解釈の光 を当てつつ

,あ

るいは

,そ

れ らとほとん ど対 決す るような構 えで

,

これを作品の うちに取 り入れてい ることである。 これ まで見た ところでは, 最初 に引用 したデー ミアンの言葉

,エ

ー ミールの失楽園物語 としてのクローマー事件の取扱い方, カイン物語 に対するデー ミアンの解釈 は

,そ

れをよく示 していると言 えよう。 そして, このように して出来上がっているこの作品の基本構造線 を

,い

わば独 自の形 に絢合わせ

,独

自の色彩 に染めあ げているのは,「アブラクサス

=エ

ーヴァ神」と呼んでよい神あるいは神的イメージをめ ぐる出来事 であ り

,追

憶であ り

,夢

であ り

,認

識であろう。 神「 アブラクサス」の名が露わにされるのは

,物

語の半ば

,主

人公のギュムナージウム時代 に属 す ることだが

,こ

の神 に直接連 なる出来事 は

,こ

の物語の発端 を成すクローマー事件 の渦中にあっ たジンクレーアにデー ミアンが初 めて近附いて来 た とき既 に語 られている。 それは

,デ

ー ミア ンが ジンクレーアの家のアーチ型門の上 に,「要石 として」つけられた「一種 の紋章」を問題にするとき である。この ときジンクレーアは

,デ

ー ミアンが何 の ことを言 っているのかす ぐには見当がつかず, デー ミアンが

,ジ

ンクレーア本人 よ リジンクレーアの家の ことをよ く知 っているらしいのに驚 くの だが

,デ

ー ミアンはこの紋章の鳥 を「ハイタカ」だ という°つ。 この「ハイタカ」が

,実

,神

「 ア ブラクサス」 を象徴的 に表わす鳥

,あ

の「アブラクサスヘ向って飛ぶ」鳥であることは言 うまで も ない。9。 だか らこそデー ミアンはこの紋章の鳥に関心 を持 ち

,の

ちには

,彼

がジンクレーアの家の 前に立 って

,こ

の鳥 をスケ ッチす る姿 さえ見 られ るのである。 しか し

,

この時期 のジンクレーアに は

,こ

の「資金色」の鳥の持つ意味 は

,勿

,感

得 されないままである。 修

(13)

この紋章の鳥が

,あ

る意味深 さを持 ってジンクレーアに再度意識 され るのは

,彼

が「暗い世界」 に落 ちこみ

,放

蕩無頼の幾月か を過 したのち,「ベ ア トリーチェ」との出会いをきっか けに

,新

たに 自己の道へ立返 り

,己

れの内面 を凝視す る毎 日を続 けているある日の夜 の夢 を通 してである。 この 夢 に

,デ

ー ミアンと紋章の鳥があ らわれ

,デ

ー ミアンはジンクレーアに,この鳥 を食 え と強要す る。 ジンクレーアがそうす ると

,呑

込 まれた鳥 はジンクレーアの身中で活動 を始 め

,内

部 か ら彼の身体 を食 い減 らしだす。ジンクレーアは死 ぬほどの恐怖 に満た されて目をさます。 そ して彼 は

,

この紋 章の鳥,「鋭 い精憚 なハイタカの頭 をした猛禽」が地球 の中か ら抜 け出ようとしてい る絵 を描 いて, 宛先の分 か らぬデー ミアンヘ と向 けて発送するのである°9ち しば らくして

,返

辞が「不思議極 まる方法で」や って来 る。そして

,そ

こには

,こ

う書かれてい る一― 《鳥 は卵か らぬけ出ようともが く。卵 は世界 だ。生 まれ出ようとす る者は世界 を破壊 しなければ な らぬ。鳥 は神へ向って飛ぶ。 その神の名 はアブラクサス“°。》 更 にジンクレーアは,「偶然 に」

,こ

の返辞 を受取 ったの と同時 に

,こ

の「アブラクサス

Jが

「神 的な もの と悪魔的なものを結合す るとい う

,象

徴的な使命 を持つ神の名に1も でぁ ることを聞 き知 る ことになる一 。 こうして我々はここで再 び

,こ

の作品の主要モチーフである「二つの世界

J認

識 に出会 うわ けだ が

,神

「アブラクサス」が

,そ

の本質 において

,こ

の神の名が露わになった と同 じ時期以降繰返 し ジンクレーアを訪れ る夢 に現われ るあの「大柄で力強いり」女性

,ジ

ンクレーアに とって「母」「恋 人」「悪魔」「娼婦」 そして「殺人者」である・°「太母 エーヴァgroSe Mutter Eva」 (と呼んでよか ろう

)と

同 じものであることを考 え合わせれば

,こ

の「アブラクサス

=エ

ーヴア

J神

,い

わばこ の作品建築の「要石」 となっていることはまちがいないであろう。作品の成立 という観点か ら言 え ば

,

この神的イメージが作者に把握 されてはじめて

,こ

の作品は書かれ得た ものであろう。 ここで しば らく作品の外 に出ることになるが, この作品の読者の うちには, この神「アブラクサ ス

=エ

ーヴァ」 は

,全

く作者の創作 になるものであると思 いこんでい る向 もあ るので はないか と思 われ る。 しか し

,そ

うではないのである。 この点に関 して多少検討 を加 えてお きたい。 「アブラクサス Abraxas」 とい う名の神

,あ

るいは

,こ

の言葉 のそ もそ もの出所 は

,は

っきりし ない “°。しかし,紀元二世紀 ごろに実在 したグノーシス主義者GnOstikerバジ リデスBasilidesの思 想大系の中で

,こ

のアブラクサスが重要な位置 を占めていた らしい ことは

,よ

く知 られた ことであ る。で は

,ヘ

ッセはバジ リデスを問題 にした教父達の著作 を読んだのであろうか“9。 あるいはそう か もしれない “°。 しか し

,ヘ

ッセが「 アブラクサス」の名 を知 ったのは

,お

そ らく

,C・

G・ ユ ン グの『死者への七つの語 らい

VI SERMONES AD MORTUOS』

を通 してであ ろう。 というのは, この書 は『デー ミアン』が書かれ る前年 (1916年

)に

私家版 としてユングの知人 に配布 されたのだ

(14)

188

,当

時ヘ ッセの主治医であ り

,ユ

ングの弟子 に して

,か

,グ

ノーシス主義 に特別 の関心 を抱 い ていたJ・ B・ ラング もこの本 を贈 られたにちがいな く

,そ

して

,ヘ

ッセがラングか ら60回に及ぶ 分析 を受 けるあいだに

,こ

の本 の ことが話題 になった ことは

,ほ

ぼ まちがいない ように思われ るか らである1471。 言 うまで もな く,『死者への七 つの語 らい』では「 アブラクサス」が極 めて重要 な役割 を演 じている。 興味深い ことに,『死者への七つの語 らい』 には著者名 としてユングの名 はな く,「東洋が西洋に 接す る町ア レキサ ン ドリアのバ ジ リデス」 の名がされている。 この小冊子 は

,ユ

ングの自伝 の記 述 に従 えば “

0,ユ

ング自身のほ とん ど異常 とも思えるような心的経験 をその まま写 し取 った もので あるが

,こ

の書 に

,ほ

かで もないバジ リデスの名が冠せ られた というのは

,

この奇妙 な小冊子の内 容が

,も

しどこかに類似物 を持 っているとす るなら

,古

代教父たちの著作 を通 じてわずかに知 られ るこのグノー シス主義者の思想以外 には考 えられなかったか らであろう。 グノー シス主義者バ ジ リデスの思想がいったいいかなるものか

,ま

,独

特の認識法 と言われ る グノー シス GnOsisと はどのような ものか

,更

,歴

史上の所謂 グノーシス主義 GnOstizismusと は いかなる内容 を持つ宗派 (宗教

)だ

ったのか

,こ

れ らの点 について

,

この小論 において

,細

かに論 ずる余裕 はない “働。 しか し

,最

近の研究では

,必

ず しもキ リス ト教の異端ではな く

,少

な くともそ の最初の発生時においては独立 した宗教であった とされる °グノーシス主義が

,古

代 の宗教世界 に おいて

,キ

リス ト教諸派の中の一つの「異端Jと して

,正

統派か ら激 しく攻撃否定 され

,判

語の 中でジンクレーアの父親 も言っているように6嵯―少 な くとも表面上 は完全に消滅 した宗派 (宗教) であるということは

,言

っておかねばな らないであろう。つ まり, この宗派

,あ

るいは

,広

くグノ ーシス的考 え方・ 生 き方は

,古

代か ら現代 までの長 い西欧の精神的・ 宗教的潮流の中で

,正

当な取 扱 いをほ とん ど受 けた ことがない ものだ とい うことである。この点は看過 され得ない。というのは, ユ ングの『死者への七つの語 らい』は

,ほ

かで もない

,正

統派キ リス ト教の立場 か らすれば「異端」 の徒 として否定 されるべ きグノー シス主義者バ ジ リデスが,★ 又会 ヽ黎律である死者たちに教 えを説 くとい う一般 には受 け入れ難 い形式 を取 っているか らである。(この書の書出 しはこうなっている一 《死者たちがェルサ レムか ら帰 って来た。彼 らはそこで彼 らが捜 したものを見 出せなかったのだ。 彼 らは私 の ところに入来 を切 に請 い

,私

に教 えを求めた。そ こで私 は彼 らにこう教 えた。(。,…・)1521》 ― そ して

,こ

の「死者たち」がキ リス ト教徒であることは

,書

中に明言 され ている・ 3っ この不思議 な書物が取 っているこの形式一 つまり

,グ

ノー シス主義者がキ リス ト教徒 に教 える, とい うこの形式― は,我々が今問題 に している作品の先述 した基本構造 と作者の来歴 とを考 え合わ せ るとき

,示

唆するものがある。 それはつ まり

,ヘ

ッセは当時 において も稀 なほどの敬虔 なキ リス ト教徒の家庭 に育 ったのであるが

,一

方『デー ミアン』の基本構造 は

,既

に見 たように

,少

な くと も作品の前半部 においては明瞭 に

,異

端的な考 え方・ 生 き方 と正統的 。伝統的なキ リス ト教教義 と の対決 とい う形 をとっている

,

という点 に関 してである。即 ち,『デー ミアン』はグノー シス主義 の 修

(15)

書『七 つの語 らい』 といわば同 じ方向をむいた作品 と言 えるのであ り

,こ

こに

,伝

統的なキ リス ト 教支配 の世界

=「

明 るい世界」 を出て

,グ

ノーシス的世界

=「

もう一つ別 の世界」へ踏み込 んで行 くヘ ッセの精神の一大転 回の劇があった ことが推測 され るわけである。 そして

,こ

の「死 と再生」 の ドラマが展開 されたのが

,第

一次大戦中

,自

己の精神的基盤が崩壊 し

,神

経 をや られて

,J・

B・ ラングによって精神分析 を受 けた時期であることは

,言

うまで もない。 おそらく

,こ

の悪戦苦闘の 一時期 に

,ユ

ングの『死者への七つの語 らい』 はヘ ッセの心 を強 く捉 え

,ヘ

ッセの「再生」 に一役 かった もの と思われ る。それは,『デー ミアン』における「アブラクサス」 と『七つの語 らい』に見 られ る「アブラクサス」の極端 な類似性 を見れば

,更

によ く推測 され得 る。以下,『七つの語 らい』 か ら「 アブラクサス」 に関す る部分 を

,ご

くわずかだけ引用 してみる。 《神 と悪魔 は充実 と空虚,生産 と破壊 とによって区別 される。しか し,「作用するもの Das Wirkende」 は両者 に共通である。「作用す るもの」 は両者 を結びつける。 それ故,「作用す るもの」 は両者 を越 えた ところにあ り

,神

の上 にいる神である。 というのは

,そ

れ はまさにその作用 によって充満 と空 虚 を一つにす るか らである。 これは

,汝

らが知 らない神である。 というのは

,人

間たちはこの神 を忘れたか らである。我々 は この神 をその本来の名でアブラクサス と呼ぼ う。 この者 は神 と悪魔 よ り更 に規定 されない も、のであ る。(………) アブラクサスは認知 することの難 しい神である。 アブラクサスの力 は最大 である。 それは

,人

間 がその力 を見 ることがで きないか らである。人間 は太陽 に最高善 を

,悪

魔 に最低悪 を見 るが

,ア

ブ ラクサスには

,あ

らゆる点で規定 されない生命

,即

,善

と悪 との母 を見 る。(………・) 神・ 太陽が語 るものは生命であ り, 悪魔が語 るものは死 である。 しか し

,ア

ブラクサスは

,生

命であると同時 に死であるところの ことば

,尊

敬 に値 し

,か

,呪

われた ことばを語 る。 アブラクサスは同 じ言葉

,同

じ行為で

,真

と偽 を

,善

と悪 を

,明

と暗 とを産 み出す。 それ故

,ア

ブラクサスは恐 ろしい。 アグラクサスは

,餌

食 となるものを打倒す瞬間のライオ ンの ように素晴 らしい。アブラクサスは 春の日の ように美 しい。(・……・・) アグラクサスは原初の両性具有der Hermaphroditで あ る。(・・…・…) アブラクサスは愛であ り

,愛

の殺害 である。 アブラクサスは聖者であ り

,そ

の裏切者である。(・………)°つ》 一方,『デー ミアン』の「アブラクサス」が「神的な もの と悪魔 的な ものを結合するという

,象

徴 的な使命 を持つ神の名」であることは既に見た通 りである。次 に引用す るのは

,ジ

ンクレーアが繰 返 し見 る例 の夢 あるいは「内面的映像

Jと

「アブラクサス」 との関連 を述べ る くだ りである。

(16)

190 武 《法悦 と恐怖

,男

と女 とが混 じ

,こ

の上 な く神聖なもの とこの上 な く醜悪な ものが互いにか らみ あい

,深

い罪があ どけない無邪気 によって震 えている一 ぼ くの愛の夢の像 はそういうふ うだった。 そして,アブラクサス もそうい うふ うだった。愛 は もはや

,ぼ

くが不安 な思いで初め感 じたように, 動物的に暗い衝動ではなかった。 それはまた

,ぼ

くがベア トリーチェの像 に捧 げた ような

,敬

虔 に 精神化 された崇拝で もなかった。それは両方であった。両方であ り

,更

にそれ以上の ものであった。 それは天使 に して悪魔であ り

,一

身に して男 と女であ り

,人

間であ り獣

,最

高善であ り極悪であっ た°9。 》 両作品における「 アブラクサス」像の類似性

,あ

るいは

,一

致 は

,明

白であろう。 さて

,こ

の「アブラクサス」の姿が

,こ

の物語 において

,ジ

ンクレーア とデー ミアンの最初の出 会いの時か らエーヴァ夫人の登場する七章そ して終章 (八章)に至 るまで

,ほ

とん ど全体 に渡 って, ある時 は暗示的な姿で

,あ

る時 は直接名指 されて

,更

にあるときは「太母エーヴァ」の姿に変容 し て

,現

われていることは

,先

に も述べた通 りだが

,こ

こでの問題 の中心 は

,ヘ

ッセの描 く「アブラ クサス

J像

が誰か らどのような影響 を受けた ものか というような ところにあるのでは決 してない。 それよ りむ しろ

,

この

,今,我

々が問題 にしている作品の「要石」 となっている神的イメージが, 先 にも触れたように

,作

者の崩壊 した精神基盤の再建過程で生 み出された ものであるということ, そ して

,こ

の神的形姿は

,ま

さに,「明 るい世界」

=「

伝統的なキ リス ト教支配 の世界」に住み「敬 虔 な」生活 を送 っている人々

,例

えば

,ジ

ンクレーアの両親 な ら断 じて拒否す るような性格 を持 っ た神のイメージである

,

という点 にこそ注 目すべ きであろう。 この作品には,「ぼ くはただ,自 分の内か らおのず と出て こようとした ものを生 きてみようとした にす ぎない。 それが何故 こんなに困難 だったのだろう6° 。」 とい う題辞が付 されている。ヘ ッセは, 先 に も述べたように

,大

戦 中の1916年 5月 か ら一年以上 に渡 って通計60回に及ぶ精神分析 を受 けた が

,こ

の分析 を受 けていた当時のヘ ッセの心構 えこそまさに「 ただ 自分の内か らおのず と出て くる ものを

,生

きてみよう」 とするものであったであろう。 そ して

,ヘ

ッセが この とき自分の内部 に見 出 した ものは

,予

想 をはるかに越 えるほ どの「大 きな無秩序60」 であった。次 に引用するのは

,こ

の時期のことを数年後 に振返 ってみたヘ ッセ自身の言葉 である。 《結局

,病

気で

,苦

しみのため半ぼ気の狂 った私 は

,私

自身に返 り

,そ

して

,今 ,私

自身の心 を 整理 しなければな りませ んで した。何 よ りも

,私

が以前欺 き去 っていた もの

,さ

もなければ

,言

わ ずに隠 していた ものすべてをよく見

,認

知 しなければな りませんで した。私の内部のすべての混沌 とした もの

,野

蛮な もの

,本

能的なもの,「悪なるもの」を。私 はそのために

,私

の以前の美 しい調 和の とれた文体 を失 いました。私 は新 しい調子 を捜 さねばな りませんで した。私 は

,私

自身の内部 修

(17)

のすべての未解放の もの,原初的な もの と血み どろの戦 いをしなければな りませんで した一 それ ら を根絶や しにするためではな く

,そ

れ らを理解す るために (……)6°。》 当時において も最 も信仰 に篤 い

,最

も敬虔 な家庭 に育 ったヘ ッセの所謂 「無意識」 には

,無

視 さ れ

,追

い払われ,「抑圧」された ものが厚い層 を成 していたであろう。先 に引用 したデー ミアンの言 葉 に見 られ る性生活 に対する言及

,父

親殺 しの夢

,禁

欲のためにほ とん ど狂気 の相 を帯 びた少年 ク ナウエル

,こ

れ らはすべて

,ヘ

ッセが 自己の心の深部 を凝視す るところか ら得た 自己批評の言であ り

,自

己の秘密の心的経験 であ り

,も

う一つの 自己の姿であろう。 しか し

,

これ らはおそ らく

,当

時のヘ ッセの内的経験の見易い部分 である。 ヘ ッセに とって当時の精神分析体験が何か決定的な意味 を持 った とすれば

,そ

れはヘ ッセが この 行為 を通 して

,聖

書の神 とは異 なる々で卿

?押

々尊で'い

?琴

部 に牽早 ヤ々

,と

い う点 においてであ ろう。 そして

,こ

の神 こそ

,あ

えて名 づけれ ば,「アブラクサス」あるいは「エーヴア」と呼ばるべ きものであった。 言 うまで もな くこれは推測だが

,こ

う考 えなければ

,ヘ

ッセ自身の現実の体験 と夢 を上台に して 成 る作品の中で,「アブラクサス三エーヴァ」の形姿がその中心 に据 えられている理 由は

,全

く不明 になる。ヘ ッセ自身に「アブラクサス」 という言葉 も

,

この神の何たるか も知 られていなかった ろ うが

,ヘ

ッセの夢 は

,ア

ブラクサス的形姿 を一 それが どのようなものであれす 産み出 し

,お

そ ら く

,そ

れが

,の

ちにユ ングの 『七 つの語 らい』 あるいは

,そ

の他の文献 によって,「アブラクサス」 の名が与 え られたのだ と思われ る。 そして

,こ

の「アブラクサス」 において重要なのは

,繰

返す ことになるが

,

この神が「神的な も の と悪魔的な ものを結合する」 もの,「天使 にして悪魔であ り

,一

身に して男 と女 であ り,(・・…・) 最高善であ り極悪」なるものであるとい う点である。ヘ ッセが伝統的なキ リス ト教信仰世界の中で も最 も敬虔 な家庭 に育 った,と い うことか ら推測 され るように

,ヘ

ッセに とって,「ネ申的な もの」「天 使」「男性的な もの」(キリス ト教の神

,あ

るいは

,三

位一体 には

,全

く女性的要素がない),「善 な るもの」の方 は

,熟

知 した ものであった。つまり

,ち

ょうどエー ミールに とってそ うであつた よう に

,ヘ

ッセに とって も「 この (明るい

)世

界 は(・…・・

)大

部分 な じみ深い もので あった °9。 」それ故, 「悪魔 的な もの」「獣的な もの」「女性的な もの」 を

,自

分の心の深奥において

,つ

ま り

,自

分の夢 の描 く神的形姿の中に見い出 し

,こ

れ を己れの「神」の本質的一面 として認知す ることは

,決

して 全 く心の抵抗のない もので はなかった。それは先のヘ ッセの言葉が示 している通 りである。しか し, それは疑 い もな くヘ ッセ自身の心が産 み出 した もの

,あ

るいは

,少

な くともヘ ッセの心 を通 して産 み出 された ものであった。だ とした ら, これを

,自

分の もの

,あ

るいは

,自

分 もかかわ るもの とし て認 めないわ けにはいかなかったはずである。そしておそ らく

,こ

の自己の内心の凝視 と

,そ

こに 産 み出 される醜悪なるイメージ との格闘 を通 して

,ヘ

ッセが,自己の本質的一面 として

,ひ

いては, 人間に普遍的な一側面 として,「悪 なるもの」の存在 を認知 した とき

,ヘ

ッセは

,人

間 と世界の全体

参照

関連したドキュメント

90年代に入ってから,クラブをめぐって新たな動きがみられるようになっている。それは,従来の

上げ 5 が、他のものと大きく異なっていた。前 時代的ともいえる、国際ゴシック様式に戻るか

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

いられる。ボディメカニクスとは、人間の骨格や

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

 Rule F 42は、GISC がその目的を達成し、GISC の会員となるか会員の

法制史研究の立場から古代法と近代法とを比較する場合には,幾多の特徴