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「農村生活改善協力のあり方に関する研究」検討会
報告書(第1分冊)
2 0 02 年 3 月
国際協力事業団
№
農調計 J R序 文
開 発 途 上 国 の 農 業 ・ 農 村 開 発 に 当 た っ て は 、 貧 困 軽 減 や 社 会 ・ ジ ェ ン ダ ー 配 慮 に 資 す る た め の 農 村 生 活 向 上 の 必 要 性 が 年 々 高 ま っ て き て お り ま す 。 一 方 、 戦 後 日 本 の 農 村 で 実 践 さ れ た 生 活 改 善 普 及 事 業 は 、 生 活 技 術 の 向 上 に 大 き な 成 果 を あ げ る と と も に 、 農 村 婦 人 の 地 位 向 上 に 貢 献 し て き ま し た 。 こ の 生 活 改 善 普 及 活 動(特 に 戦 後 の 25 年 間 ) に 利 用 さ れ た 素 材 、 従 事 し た 人 材 は 、 今 も っ て 現 在 の 開 発 途 上 国 に お け る 農 業 ・ 農 村 開 発 に 有 効 活 用 し う る も の が 少 な く あ り ま せ ん 。 こ れ ら 素 材 ・ 人 材 は 派 遣 専 門 家 の 協 力 現 場 や 研 修 員 の 我 が 国 で の 受 入 研 修に 有 効 利 用 さ れ る だ け で な く 、 専 門 家 の 派 遣 前 研 修 な ど に も 活 用 さ れ る こ と が 期 待 さ れ て お り ま す 。 し か し 、 素 材 は 時 の 推 移 と と も に 散 逸 し つ つ あ り 、 ま た 、 生 活 改 良 普 及 員 な ど 普 及 活 動 に 従 事 し た 人 々 が 引 退 し て 普 及 技 術 や 経 験 の 消 滅 が 始 ま っ て お り ま す 。 こ の た め 、 当 事 業 団 は 、 素 材 が 失 わ れ る 前 に 収 集 ・ 整 理 し 、 利 用 可 能 な 素 材 と し て 取 り ま と め る と と も に 、 戦 後 日 本 の 生 活 改 善 普 及 活 動 を 体 系 化 し 、 農 村 生 活 改 善 普 及 分 野 の 技 術 協 力 に 資 す る た め 、 社 団 法 人 国 際 農 林 業 協 力 協 会 に 業 務 委 託 し て 検 討 を 進 め て き ま し た 。 本 報 告 書 は 、 こ れ ら の 検 討 結 果 を 取 り ま と め た も の で 、 報 告 書 、 イ ン タ ビ ュ ー 報 告 概 要 及 び 検 討 会 議 事 概 要 の 3 分 冊 で 構 成 さ れ て お り ま す 。 本 報 告 書 が 広 く 関 係 者 に 活 用 さ れ る こ と を 願 い ま す 。 最 後 に 、 本 検 討 事 業 に ご 指 導 、 ご 協 力 を 頂 い た 日 本 貿 易 振 興 会 ア ジ ア 経 済 研 究 所 経 済 協 力 研 究 部 主 任 研 究 員 佐 藤 寛 氏 を 始 め と す る 検 討 委 員 、 ワ ー キ ン グ グ ル ー プ の メ ン バ ー 、 農 林 水 産 省 、 検 討 会 に ご 出 席 し て 報 告 頂 い た 関 係 者 、 現 地 調 査 で イ ン タ ビ ュ ー に ご 協 力 頂 い た 関 係 者 等 多 数 の ご 協 力 を 頂 き ま し た が 、 関 係 者 の 皆 様 に 心 か ら 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 平 成 14 年 3 月 国際協力事業団 農 林 水 産 開 発 調 査 部 部 長 西 牧 隆 壯目 次
序 文
Ⅰ. 戦後日本の生活改善と途上国の農村開発に関する研究報告
第1章 「農村生活改善」研究の意義と課題………佐藤 寛
1
第2章 近代日本農村史における生活改善運動と
戦後の農村生活改善………水野正己
14
第3章 考える農民育成を目指して
∼戦後日本の生活改善普及運動∼………太田美帆
23
第4章 改善の思想………渡辺雅夫
29
第5章 普及技術について
∼生活改良普及員が駆使した
手法とアプローチ∼………高岡ミA子
36
第6章 生活改善グループ組織化に関する考察・序説
∼生活改善グループ形成期における
農村女性の意識醸成∼
………池野雅文
71
第7章 集落インフラと「考える農民」
∼集落開発センターの事例から∼………西潟範子
78
第8章 都道府県における研修員受け入れの現状について………矢敷裕子
82
Ⅱ.資料編
1.収集資料………109
2.スライド………136
「ある生活改良普及員の一日」
3.ビデオ………146
「明日をつくる人々」
「生活と水」
参考資料
農村生活改善協力のあり方に関する研究検討会委員等名簿……… 158
農村生活改善協力のあり方に関する研究に係る
ワーキンググループ編成……… 159
Ⅲ.インタビュー議事録(第2分冊)
Ⅳ.検討会議事録(第3分冊)
Ⅰ.戦後日本の生活改善と途上国の農村開発
第1章 「農村生活改善」研究の意義と課題
日本貿易振興会アジア経済研究所 経済協力研究部 主任研究員 佐藤 寛 1 . 成 功 し た 農 村 開 発 事 例 と し て の 生 活 改 善 運 動 日本は、現在の主要援助供与国の中で、唯一「開発援助を受けた歴史」、「途上国であっ た歴史」を持つ国である*1。この「途上国であった」というユニークな歴史をもつドナー として、日本は現在の途上国の開発援助、特に農村生活の改善のためにどのような貢献が できるのかを問い直そう、というのが本研究の基本的な問題関心である。 日本が経てきた開発経験の中でも特に第二次世界大戦の終了(1945 年)に始まる約 20 年間の経験∼飢餓・極貧状態からスタートして徐々に経済発展を加速させ、結果として多 くの国民がその経済的便益を享受出来るようになったことは注目に値する。この 20 年間 に日本はどのような経路をたどって、「貧困からの脱出」を成し遂げたのだろうか。 この「日本の奇跡」を単にマクロ経済の発展にもとめる説明は正しくない、と我々は考 えている。いかに急速な経済発展に成功しても、それが貧困の撲滅に自動的には結びつか ない例を、我々は過去 20 年間の間に東アジアにおいて数多く目にしてきた。では、何が 「鍵」なのか。 戦後日本の経済・社会発展の軌跡は、その「社会開発」のあり方、それもとりわけ貧し い農村部における様々な生活改善の営みの積み重ねの上にのみ可能であった、というのが 我々の仮説である。そしてこの時期の日本の農村部における社会開発のキーワードが「生 活改善」であった。 終戦直後の国家目標は、食料の確保、衛生状況の改善、崩壊した軍国主義体制に変わる 「民主国家」の建設であった。こうした目標に向けて、中央政府、地方政府(県行政)、そ して農村コミュニティーに至るまで、すべての国民が文字通り全力で取り組んだ果実が、 20 年後に「高度経済成長」として結実したと考えていいだろう。もちろんこの過程の中で 都市人口の肥大、公害、環境破壊、農村の過疎化などの副作用はあったが、日本の庶民が 「貧困からの脱出」に成功し、「衣食住」の心配なしに暮らせる生活を獲得したことは紛れ もない事実である。 それでは、「貧困撲滅」を究極目標に掲げながら、なかなか思うような成果をあげられな い現代の開発援助の現場に、日本の経験はどのような教訓をもたらすことが出来るのだろ うか。もちろん、時代背景も文化も異なる日本の経験が、現在の途上国の農村開発にその まま適用できると考えるのは乱暴である。経済的に壊滅していたとしても当時の日本が持 っていた人的資源、行政の能力、それまでの近代化の歴史、当時の先進国との間の技術的 格差の程度など、現在の途上国に比べて有利な点ももちろんあったことは事実である。し かしながら、共通点も多い。特に、連合国軍総司令部(GHQ)の指導によって「農村・ 農民の民主化」という日本の社会状況とは無関係な課題が突然課されたこと、そして、やはりGHQの命令によって「生活改良・農業改良普及員」という日本の農政とは無関係な 制度が導入されたことは、今日の国際協力にもつながる「外部者の介入による農村開発」 ときわめて近い構造の出来事であった。また、特に戦争直後の数年間は緊急食料輸入や衣 類・ミルクなどの物資を海外から援助してもらうことなしには日本は生き延びることが出 来なかった。当時の日本は、海外のNGOからも、ユニセフなどの国連機関からも、また 世界銀行からも援助を受けていたのである*2。このような点に着目すれば、「被援助国であ った日本」の農村開発の経験を振り返ることの意味が明らかになるだろう。貧困削減を目 指して、現代の途上国において様々な形で試みられている「農村開発」に、「生活改善」の 経験は多くのヒントを提供してくれるのではないだろうか。 *1 単なる経済援助という意味では、第二次世界大戦後の「マーシャル計画」は米国から 欧州各国への援助であるが、これはその名の示すとおり「復興資金」であり、開発の方向 性をドナーが規定するという意味での「開発援助」とは異なるものとして扱う。 *2 それ以外にも米国政府からの援助資金として、主として食料輸入に充てられたガリオ ア(GARIOA=占領地域救済)資金、主として工業機械等に充てられたエロア(EROA= 占領地域経済復興援助)資金の2つがあった。ただし、これら援助は贈与ではなく、後に 返済を要求された。(岸康彦『食と農の戦後史』p.26) 2 . 普 及 制 度 の 誕 生 と そ の 概 要 (1)マイナスからのスタート 男手を軍隊に取られたために農地の維持に十分な労働力を確保できず、生産力を低下さ せた農村部、戦争末期の度重なる空襲と原爆投下によって工業生産力や社会インフラを破 壊された都市部、これが敗戦を受け入れた 1945 年夏の日本の国土であった。そして、貧困 と飢餓にさいなまれる国民の群がその国土に残されたもののすべてであった。 このときの日本は、現在多くの途上国の貧困地域がかかえている食料不足・栄養不良・ 健康悪化・劣悪な衛生といった、ほとんどすべての問題を抱えていたばかりではなく、敗 戦・占領という精神的屈辱さえもが加わっていた。 この疲弊した国土に、戦地・旧植民地から続々と帰国する復員兵・引き揚げ者が流入し てきた。そしてこれに戦後の結婚ラッシュが加わって、人口は急激にふくれあがることに なる。その一方で農業生産は、必要な農具、農機具、肥料の不足からなかなか増加せず、 天候不順もあって 1945 年、46 年には深刻な食料不足が全国を襲ったのである。この「食 料難」は過酷を極め、現実に栄養失調による死亡者が続出し、*3 当時の乳幼児死亡率は都 市・農村ともに極めて高かった。一方、長期間の戦時経済体制のために治水・防災投資が おろそかになっていた結果、戦後 10 年あまりの間は毎年夏に台風などによる多くの被害 者を出した。また、引き揚げ者などによって熱帯地方から持ち帰られた伝染病もしばしば 大流行して多くの命を奪ったのである。 *3 米は配給制度によっていたが、ひとりあたりの配給米では必要量に足りず、また遅配・
欠配も多かった。この食料不足の当時でも「闇米」は存在し、都市の人々は衣類・財産を 農村に持っていって闇米(当時すべての米は配給のために供出しなければならなかった) と交換していた。しかし、この闇米を利用することを潔しとせず、その結果栄養失調によ って衰弱死する人もでた。有名なのは 1945 年の高校教師の事例と 1947 年の東京地裁判事 山口忠良の事例である、山口の事例は「法の番人の悲劇」として報道された。(『食と農の 戦後史』p.17)。「朝日新聞」1947.11.5 (2)農村民主化と普及制度の誕生 こうした中で日本はアメリカを主体とする連合国の占領下に入り、GHQが、日本政府 の上に権力者として君臨する7年間が始まった。アメリカの占領政策は日本が将来的にア メリカの脅威にならないように改造することにあった。そしてそれはアメリカ合衆国に範 を取った日本社会の「民主化」によって可能になる、と考えられた。こうして、日本社会 の民主化のために憲法改正、軍隊の解散と軍備の放棄、婦人参政権の付与、旧財閥の解体、 教育制度改革など一連の民主化政策が次々と打ち出されたが、日本が真の民主的社会にな るためには、この民主化の波が当時の人口の7割が居住する農村部に及ばなければならな い、とGHQは考えた。こうして農村社会を根底から改革すべく「農地解放」、「農業協同 組合の設立」そして「農業改良普及事業の開始」という戦後農村の三大改革*4 もまた、矢 継ぎ早に実施された。 農業改良助長法を受けて、各県は農業改良普及所を設置し、ここに農業改良普及員(農 業技術・農業生産の指導を受け持つ。主として男性)と生活改良普及員(農村生活の改善 を受け持つ。すべて女性)の二種類の普及員を配置することになった。実際に普及員が採 用され、普及活動が始まったのは 1949 年4月以降である。そして、戦後の生活改善運動の 中核を担ったのは、新たに誕生したこの女性の「生活改良普及員」たちであった。 *4 「第二次農地改革(自作農創設特別措置法、農地調整法改正)」は 1946 年、「農業協同 組合法」は 1947 年、「農業改良助長法」は 1948 年にそれぞれ成立。これら三大改革は、農 村民主化のためには自作農の創設が不可欠であるとの認識のもとに、まず農地解放して自 作農を生み出し、その自作農が自立的な経営を営めずに田畑を売り払うような事態になら ないよう、支え合うために農協が必要であり、また個々の農民に必要な知識・技術を教え るために普及制度が必要である、という関係になっていた。 3 . 生 活 改 良 普 及 の 理 念 戦時中の軍国主義政権に変わって権力者として占領地日本に新たに君臨したアメリカ合 衆国の連合国軍総司令官マッカーサー元帥は、日本再建の柱に「民主化」を据え、それを 都市のみならず、人口の7割を占める全国の農村の津々浦々にまで浸透させることが必要 であると考えた。そして、因習と旧来の社会構造を温存している農村を民主化するために は通常のやり方では不可能であり、これまで最も虐げられていた女性にターゲットを絞り、 彼女らの「解放」のエネルギーを社会変革に活用しようとした。そのための最も明確な手
段として農村女性を対象とする「生活改良普及員」の制度を取り入れたのである。 当時の日本においては、「民主化」は神の声であり、このスローガンに対して正面から反 駁することが出来るものはなかった。従って女性たちに働きかけるときにこのスローガン は、問答無用の正統性を与えたのである。 とはいえ、女性の意識改革、農村の意識改革は一朝一夕に成し遂げられるものではない。 「民主化」イデオロギー以外にも生活改善を行う理由づけが必要であった。そして当時誰 もが合意する国家目標としての「食料増産」があった。都市で多くの栄養失調死が発生し、 都市から農村への食料買い出し列車が満員の人々を運ぶ「食料難」を乗り切るため、「食料 増産」とりわけ「米の増産」が何よりも必要であった。 食料の増産には、農業労働力が不可欠であり、その農業労働力が健康であることが増産 の鍵になる。従って農村の生活が明るく健康的であることは、日本の農業にとって死活的 に重要である、との理由づけが農業技術、生産技術を教える「農業改良普及員」とならん で「生活改良普及員」が必要であることを説得するロジックとなり、「生産」と「生活」は 車の両輪である、という言説が盛んに用いられることになったのである。 また、社会福祉的な視点からも、農村と都市の生活格差は明らかであり、当時の農村の 生活は電気こそ部分的に存在したとしても、水道、ガスなどはほとんどなく、川や泉など からの水汲み、薪集めを必要とするカマドを利用しての炊事など、女性の家事労働を取り 巻く環境は劣悪であったから、こうした女性たちの生活改善を目指すことは、社会的公正 の視点からも正当化されうるものであった。ただし、そのために必要な経済的資源の余裕 がどこにもなかったのである。 そこで、農村の経済自立化もまた、生活改善の目標とされた。精神的な意味での「主体 形成」、経済的な意味での「経済自立化」は政治的な意味での「民主化」と軌を一にするス ローガンであった。 この精神的な意味での「主体形成」は、農業改良普及事業全体の目標として掲げられた 「考える農民をつくる」という言葉によって表される。これは、GHQが押し進めた教育 改革における「考える生徒を育てる」と同じ発想である。この意味で「生活改善事業」は 「成人教育」、「社会教育」としての位置づけを持っていたのである。*5 *5 初代農林省生活改善課長山本松代は「・・・アメリカの思想が入って、広い意味で農 業と生活の改善というのを、成人教育のプログラムにのせなければいけない、というのが GHQの考え方で・・・」と語っている。(西清子編『占領下の日本婦人生活』p.187) 4 . 生 活 改 良 普 及 事 業 の 戦 略 (1)生活改良普及員 生活改善運動の成功の最も大きな要因は、生活改良普及員となった女性たちの献身的と も言える活動であった。閉鎖的な農村社会を歩き回り、時には農村に泊まり込むなどして 農村女性を力づけようとした彼女たちなしには、生活改善は達成されなかったであろう。 本家のアメリカの制度では家政学を学んだ女性が生活改良普及員になることが出来るのだ
が、当時の日本では家政学の高等教育機関はほとんどなかったため、1949 年に普及事業が 本格的にスタートしたとき新たにリクルートされた生活改良普及員は、教員や栄養士の資 格のあるものがほとんどであった。女性である生活改良普及員(以後「生改」)は男性であ る農業改良普及員(以後「農改」)とともに普及事業に当たるのだが、農業に関する具体的 な技術と知識を持つ農改に比べて、生改は具体的な技術は何もなく、また対象が「生活」 という漠然としたものであったために、どのように普及事業に取り組めばよいのかに、大 きなとまどいがあり、また農改からの理解も得られにくかったという。 こうして生改自身が教えるべき技術を持たなかったことと、「考える農民をつくる」とい う目標とが相まって、かなり意図的に「ボトムアップ手法」が取られたのである。民主的 ということは、すべての人が意見を表明し、多くの人の合意のもとに何らかの行動が決定 されていくことを意味した。普及員は、村の女性たちに比べて比較的教育程度が高い場合 が多く、「先生」と呼ばれることが多かったが、決して高圧的、指導的態度を取らないよう に指示され、僻村に行く場合には農家に泊まり込むなどして村人との信頼関係構築に努め たのである。このため、「まず村を歩き回り、女性と話をし、村の生活を把握する」という まさにフィールドワークの原型のような活動を繰り返すことになる(現在の青年海外協力 隊の「村落開発普及員」も同じような経験をしているのではないだろうか)。 生改の役割は、決して女性たちの「指導者」になることではなかった。普及員は、日常 生活にある様々な問題点を女性たち自身が気づいていき、これを問題として認識するまで の、「ファシリテーター」の役割を果たすことが期待されていた。もちろん「改良カマド」、 「改良作業着」、「栄養価のある料理」などの新しい工夫を紹介はするが、それは女性たち が現在のカマドの問題点、作業衣の不便さ、日々の食事の問題点などに気づいて、改善の 方向を模索し始めてからのことであり、はじめから「カマドの改善が必要である」と押し つけたのではない。 また、普及員は生活全般に関するすべての知識を持っているわけではないので、必要な 知識・技術を農改や他の行政機関から仕入れてきて紹介したり、他の集落で行われている 生活改善の試みを紹介したりする「仲介者」としての機能も担っていた。農業技術につい てはこのような機能を持つ人は戦前から存在したが*6、生活技術に関しては女性が農村部 を自由に移動することが少ない時には、なかなか情報が伝わりにくいものである。自転車 という近代的な道具を与えられた生改は、農村部の女性コミュニティーの間を自由に飛び 回る蝶のような位置付けであったとも言えよう。 こうした生改を後方支援する目的で県ごとに「専門技術員」が配置され、衣、食、住、 普及技術のそれぞれの専門知識を身につけ、生改に対してアドバイスをする体制が整えら れると共に、これら専門技術員は定期的に東京で研修を受けることになった。東京の農林 省にあって全国に向かって普及方法についての指示を出したのは生活改善課であった。 GHQ 天然資源局の指示で 1948 年夏に設置された生活改善課の初代課長に就任したのは、 戦前ワシントン州立大学に留学し家政学を修めていた大森(結婚後山本)松代であった。 GHQ が彼女に期待したのはアメリカ式の教育的普及システムを日本にも導入することで あった。山本は東京での研修では新任普及員たちにアメリカ式の生活をたたき込むなどユ
ニークな指導をしたが、山本以降の歴代生活改善課長(すべて女性)たちも、日本の教育 学、社会学などの学者を動員して、日本の風土にあった普及方法の開発に努めた*7。 農林省の事業に、技術畑でない学者の応援を頼むことはおそらくそれまでは考えられな いことであったろうが、「生活」という未知の分野を取り込んでしまった農林省の中の、そ こは一種の聖域となっていたのかもしれない。 しかし、このような中央からの統一された指導を末端の普及員がそのまま実践したので はない。南北に長い日本列島では気候と同様農業の内容も異なるし、西日本と東日本では 農村の成り立ちも異なっている。このため、県レベル・現場レベルでは中央の指示を踏ま えつつも、生改たちは自分たちの実情にあった形にローカライゼーションしていったので ある。*8 *6 民俗学者で、自身も山口の農家の出身であった宮本常一は戦中から戦後の一時期、各 地の農民に農業技術を指導して歩いたことがある。このとき宮本は「新しい技術を学ぶの はたのしいことであり、実に多くを教えられた。そしてその技術をまだおこなわれていな い人々のところへいって伝達する。それは大変喜ばれた。伝書鳩のようなものであった」 と記している。(宮本常一『民俗学の旅』p.128 講談社学術文庫) *7 教育学では東京教育大学の梅根悟、社会学では東京大学の青井和夫、松原治郎なども こうした研修の講師として招かれ、普及員のための教材作りにも協力している。 *8 例えば、岐阜県の生改・専門技術員を歴任した加藤貴志江のインタビュー記録(本書 インタビュー編)参照。 (2)行政の支援 普及事業は農林省と各都道府県がその経費を折半する事業であり、中央からの統一的な 指示、指導がある一方で、生活改善のために県単位の独自の事業も県財政の許す範囲の中 で行われた。普及員(農改・生改とも)は県の農林部に属し、県内の普及所を数年単位で ローテーションして回る。当初農改の方が圧倒的に数が多く、各自然村(町村合併前の旧 村)に一名程度配置されていた(普及所のない村では「駐在所」という施設があったり、 単に民家を間借りしたりして住み着いていた)が、生改は当初県に数名程度で、普及所(お よそ郡単位)に1、2名であったから、村に出かけていくのも大変であった。 このため、はじめは村に駐在している農改の持っている人脈・知識に頼り、村のおもだ った人に会い、男性中心の農談会などに参加して村の男性たちにまず生改の存在を知って もらうことから始めた。概して町村役場の対応は積極的で、様々な支援を仰ぐことが出来 たという。 移動手段としては農改と共に当初「緑の自転車」があてがわれた。当時の農村では女性 が自転車に乗ること自体が珍しく、「白い自転車」に乗った保健婦とともに、農村に「モダ ン」を持ち込む先兵となった。後にこれは「スクーター」となり、これもまた農村女性に とっては憧れの対象となるのである(ガソリン代は公費であり、普及員によるこうしたス クーターの私用はほとんどなかったという)。
また、やや時代が下るが食料増産に目処がつき、県財政も安定してきた 1960 年代に入る と、村の公民館建設や台所改善などに県から無利子で融資される制度が整備され、一気に 生活環境の改善が進むが、こうした県行政のバックアップは生改の活動の成果を促進する 機能を果たした。いずれにせよ、研修を実施し、自転車やスクーターを提供し、生活改善 資金を用立てるなどした行政の積極的なコミットメントは、生活改善運動の成功に大きく 寄与したことは間違いない。 5 .「 改 善 」 の 発 想 生活改善普及の特徴の一つに、「なるべくお金をかけない」、「手元にある資源を工夫す る」ということがある。それは、当時の農村社会(日本社会全体もそうであったが)の資 源不足、資金不足の中で新しいことをするのに新たな資材や、追加的な支出があっては多 くの貧しい農民には実行不可能なこととして敬遠されてしまうからであった。 多くの地域での生活改善事業のエントリーポイントが「カマド改善」であったのは、粘 土といくらかのブロックがあれば作れる、という「省資源」的な施設改善であったからで もある。生改はさらに、施工費を節約するために自らが左官屋について、カマドの壁塗り の技術を学び、またカンナ掛けの実習もして、自力でカマドや流し台を据え付けられるよ うに教育されたのである。このような「手作りカマド」は、農家の主婦ひとりひとりの体 格にあった高さのカマドや流しを作ることが出来るという利点もまた持っていた。 作業衣の改善もまた、古くなった着物をほどいて縫い直すことが基本であり、栄養改善 のために導入される新しいメニューでも出来る限り地元で採れる野菜などを活用する献立 が工夫されたのである。 この点、現在の途上国でおこなわれる農村開発では、ドナーが持ち込む「セット」、「キ ット」として標準化された「改良カマド」が持ち込まれることが多いのと対照的である。 これ以外にも住まいの改善には様々な「工夫」が見られ、これは手先の器用な日本人の 特質でもあるかもしれないが、身近にあるもので生活を「改善」していくという思想は、 後の日本型工場管理システムとしての「カイゼン」にもつながる発想として興味深い。*9 *9 本報告書所収、渡辺雅夫論文参照。 6 . 参 加 型 ・ マ ル チ セ ク タ ー 開 発 農村生活の改善というとややもすると農林省が行った「生活改良普及事業」だけがその 研究対象であると誤解されることがある。たしかに「生活改善」の主たる働きかけは農林 省と各都道府県によって全国に配置された女性の生改さんたちによって担われた。しかし ながら我々の研究対象は「生活改善運動」である。 あえて「運動」と呼ぶのは、実際に当時の農村で行われていた種々の「改善」、「開発」 の動きは単に農林省の事業によって引き起こされたもののみではなく、厚生省管轄下の「栄 養改善」、「産児制限」、「母子健康」、文部省管轄下の「社会教育」、「新生活運動」、それ以 外にも自治体が中心となって推進した「環境衛生」などをも含んでおり、「生活改善」は一
種の国民的スローガンであったからである。 そして、それぞれの活動には、栄養改善であれば保健所の栄養士や、村人から選ばれて 食生活改良推進員(ボランティアである)、産児制限なら「母子愛育班」の班員(これもボ ランティアである)、母子保健であれば保健婦、青少年活動では4H クラブ*10や生活学級 などの担い手がおり、村人の自主的な発意による活動があちらこちらでおこなわれていた。 そしてまた、生改は活動内容によっては保健婦と協力して健康診断に相乗りしたり、栄養 士と一緒にキッチンカー(栄養改善車)に乗って料理講習をしたり、公民館の社会教育主 事の協力を得て、社会学級で問題提起をしたり、4H クラブのキャンプに参加したりした のである。 それはまさに「総合的農村開発」実験であったし、行政にも庶民にも利用可能な資源・ 資金が限られている中で、住民参加によって目的を達成しようとする「参加型」開発の模 索でもあった。*11 そして、こうした「生活改善」の実績は様々なルートで報告され、全国レベルのコンテ ストに推挙されて出かけ、優秀なグループや集落は、総理大臣、農林大臣、新聞社などに よって顕彰された。*12 *10 農村青少年を育成するための地域クラブ。アメリカが発祥地である。4H とはヘッド、 ハンド、ハート、ヘルスの頭文字である。そして、この4H クラブの指導育成はなぜか農 林省の所管であり、生改・農改ともに地域の4H クラブの指導者として働いていた。 *11 これ以外にも特に「ハエとカをなくす運動」などの環境衛生活動には、月に一回の殺虫 剤噴霧など保健所の指導の下、婦人会、青年団が主体となって参加型の活動にとり組んだ。 *12 これ以外にも健康分野では厚生省が、「共同作業」で目覚ましい成果をあげた村には 労働省が、「意識改革」に目覚ましい成果をあげた村には「新生活協会」などが同様な表彰 をおこなった。こうしたコンテスト形式によって、活動している人々に張り合いと名誉を 与える戦略も有効に機能したが、これはアメリカの方式というよりも戦前からある日本的 な制度(優秀な学業を修めた藩士には藩主から褒美が出たり、親孝行で有名な子供に将軍 から青差し一貫文が与えられたりというような仕組みは江戸時代から存在した)であるの かもしれない。 7 . 受 け 皿 グ ル ー プ 生活改善運動の成功に寄与した今ひとつの特徴的な戦略は、「グループ活動の奨励」であ る。様々な生活改善活動に取り組むときに、個人個人で実行するよりもグループで実行し た方が有効である、という経験則は当然あるがそれ以外にも「態度変容は人の中で起こる」、 「ひとりで出来ないことも、グループで力を合わせれば可能になる」、「集まって話をする こと自体が力づけになった」などという声が、当時のグループ員の口から異口同音に発せ られる。 実際にカマド改善など個別対応のエントリーポイントを通過したあとに試みられたこと が多いのは、農繁期の共同炊事・共同保育所である。農繁期には農家の主婦は普段より過
重な労働をしなければならないばかりではなく、手伝いに来る人々も含めて普段よりも大 人数の食事を用意しなければならない。しかしそのための時間とエネルギーがないために 「米、みそ汁、漬け物」の「ばっかり食」になって、農繁期に体重減少、栄養不良が頻発 するという事実があった。また農繁期には親の目が届かないために田畑に放置される乳幼 児の事故が増えるという事実も指摘されていた。これを踏まえて、村の非農家の主婦など に依頼して大人数の食事を共同調理してもらうことで、農家の主婦は農作業に専念できる ばかりでなく、栄養価の高い手の込んだ料理を食べることが出来る。同様に、女子青年部 の人に保母さん代わりになってもらって昼間子供を預かってもらうことで、安心して農作 業に専念できる。こうした企画や調整を生改は率先して行ったのである。 また、全戸強制参加の「婦人会」とは別に「気のあったもの同士」が集まって「生活改 善グループ」を作り、生改指導の下に「料理講習」、「食品加工」、「作業衣づくり」などに 取り組む人々も増えた。 一方、台所改善にはそれなりの経費がかかることから、グループをつくって無尽講をし たり、共同してニワトリを飼って「卵貯金」をしたり、グループでまとめて薪運びのアル バイトをしたり、というような形で必要な資金を調達する試みも盛んに行われた。これら は個々人では自分の自由になる金を持つことが出来ない農村女性の共同防衛戦略であった と捉えることも出来よう。 生改の側からすれば、対象女性をグループ化することで、そのリーダーに対して適切な 指導をすれば、グループ員にもその効果が及ぶという波及効果があり、同じ労力でより広 範囲の人々に働きかけられるというメリットもあってグループ化を促進したという経緯も あろう。この点に関しては「伝達指導」あるいは「復伝」というシステムが注目される。 これは、グループのリーダーが近隣の町などで開催される「料理講習会」、「栄養講習会」 にグループを代表して参加した場合、その成果を必ずグループ員に伝達しなければならな い、という規範である。ある程度の距離のある町に出かけるとなればそれなりに交通費も 必要であるし、農作業を休むことの機会費用の損失もある。その一方で、町に出ることは 娯楽の少ない農村女性にとっては特権的なイベントでもある。途上国などではグループの リーダーが情報や知識を独占してしまい、他の平メンバーには伝わらないことが多いのに 対して、日本ではリーダーの義務としてこの「復伝」が求められていたことは興味深い。 特定の人に講習や研修旅行の機会が集中したとしても、他のメンバーは「私より、あんた の方がちゃん聞いてくるから、帰ってから教えてもらった方がいい」という合理的選択を している場合もある。グループの運営が民主的であるかどうかを表面的な「平等」では判 断できない理由がここにもあるように思われる。 なお、生活改善グループの結成を生改は促すが、当初は既存の女性組織(婦人会、農協 婦人部など)からの抵抗があったという。これら組織は村の長老格の女性がその組織を把 握している場合が多く、新しい試みや村の伝統を変更するような活動にはどうしても消極 的になりがちである。従って、生改はこうした既存の女性リーダーに対する説得にも力を 注がなければならないこともあったという。ただし、生活改善グループの活動に対する認 知が高まると、婦人会長と生活改善グループの長とが同一人物というケースもしばしば発
生した。これに農協婦人部長を加えて「3つのタスキ」を同時にかける人も少なくなかっ たようである。
8 . 外 部 資 源 の 活 用
これ以外にも戦後日本の生活改善運動において注目すべき点の一つに、海外援助などの 外部資源の有効活用があげられる。主として終戦直後の混乱期の緊急救援としてアメリカ などから送り込まれたLARA物資(Licensed Agency for Relief of Asia)はその第一船が 1946 年 11 月に到着したが、同年のクリスマスにその食料を用いて、東京の永田国民小学 校で試験給食が開始され、児童の栄養補給に有効活用された。*13 また、1949 年9月から 1964 年までの15 年間にわたってユニセフからの支援物資が供給 され続けるが、特に脱脂粉乳が「ユニセフミルク」として各地で栄養補給用に配布された ことは、様々な記録フィルムなどに記録されている。この配給は母子愛育会などの住民組 織を経由して行われたが、必ずしもすべての人に行き渡るほどの量はなかったので、配分 方法は住民組織に委ねられ話し合いによって「必要な人に優先的に」配布されるメカニズ ムがかなり機能していたようである。 また、栄養改善に威力を発揮したキッチンカーの購入資金は、もともとアメリカの食料 援助(1954 年農産物貿易促進援助法)によって日本に「援助」されたアメリカの余剰小麦 の代価として日本円で日本政府によって積み立てられた資金を利用したものである。この 法律は PL480 と呼ばれるが、これは現在日本が途上国に対して行っている食糧増産援助 (KR2)で相手国に義務づけられている「内貨積み立て」の仕組みの原型である。 当時厚生省は全国的な栄養改善の必要を感じており、そのために必要な栄養改善車のア イデアも既にできあがっていたが、財政難を理由に大蔵省は予算をつけてくれなかった。 そこで余剰小麦の販路を求めてアプローチしてきた米国オレゴン州小麦生産者組合からの 申し出を受け入れたのである。米国の組織が間に入らなければこの内貨積み立て金には手 がつけられなかったからである。このように、日本政府はさしのべられる海外からの援助 を最大限有効に活用しようと試みた。ただし、キッチンカーの運営については米国の介入 は一切なく、厚生省から管理を委託された「日本食生活協会」が 12 台のキッチンカーを 全国の都道府県に順番に貸与するマネジメントを行った。 *13 LARAは、13 のNGOの連合体であった。『食と農の戦後史』pp.27-29 9 . 今 後 の 研 究 課 題 このように第二次世界大戦敗戦(1945 年)直後から高度経済成長期にさしかかる時期 (1965 年頃)までの 20 年間に日本の農村で行われていた様々な「生活改善」の動きは、 その多くがまさに現在の途上国で取り組まれている「貧困削減」、「農村開発」、「参加型開 発」そのものであった。 我々がこの時期の「生活改善運動」に注目する理由はそればかりではない。日本は1945 年から 1952 年まで7年間にわたる「占領」を経験した。そして「民主化」という目標は
GHQ によって、日本国民の意思とは無関係に設定されたものである。またその目的を達成 するための手段として選ばれた「普及制度」も、アメリカの制度を模して半ば強制的に移 植されたものである。 この「外部者による開発目標の設定」、「外部者によって導入された制度」という点にお いて、当時の日本の状況は、今日の援助を受け入れる途上国の状況と共通するものがある。 加えて「民主化」は今日途上国に課されている課題そのものである。 現在の途上国が「外部者によって設定された目標を、外部者によって持ち込まれた制度 を活用して達成する」という課題になかなか成功していないにもかかわらず、日本がこの 試みに成功したとすれば、それはいったいなぜなのか。途上国の現実と、日本の経験との 違いはどこにあるのか。この点を明らかにすることは、今後の我々に課された課題である。 (1)第一の仮説 現時点での我々の仮説は、日本は「外部者によって設定された課題」を自分たちの都合 の良いように「解釈し」、持ち込まれた制度を「土着化」することに成功したのではないか、 というものである。もしそうであれば、どのようにして「外部者の持ち込んだ制度」を土 着化したのか、そのプロセスを明らかにする必要がある。この問題を解き明かすことが出 来れば、それは今後の農村開発にとって実践的な貢献となりうるだろう。日本の経験の中 に、現在の途上国が異質な制度を「土着化」していくヒントが見いだせるのではないだろ うか。 開発とは「異質」(alien)な制度を自らの中に取り込んでいくプロセスである。それは単 に技術や制度の模倣によって成り立つものではない。日本の成功が、このプロセスを解き 明かすための多くのヒントを内包していると我々は考えており、それ故に開発学の中で日 本の事例が十分に検討されてこなかった、これまでの開発学に再考を迫る必要があるだろ う。 (2)第二の仮説 生活改善運動を社会開発の文脈で捉え直す今ひとつの意義は、「経済開発」との関連にお いてである。ややもすると社会開発論は、「経済開発」の否定にその正統性の根拠をおいて いるかに見える。しかしながら、われわれは経済開発それ自体が目標として、また手段と して常に不適切であるとは考えていない。経済開発の成果が不均等にしか人々の間に行き 渡らないことが、貧困削減に寄与しない原因である、と考えられる。1980 年代の「東アジ アの奇跡」は、ある意味で日本の高度成長をモデルとした経済開発の成功であった。にも かかわらず、貧富の差が拡大し、全体としての厚生が高まらなかったのはなぜか。我々の 第二の仮説は、日本が高度成長の果実を急速に、かつ、かなりの程度均等に行き渡らせる ことが出来たのは高度成長の前 20 年間の「生活改善運動」という社会開発がその下地を 準備したからである、というものである。 このように、戦後日本の生活改善運動には、貧困からの脱出、農村開発、参加型開発な ど、現代の途上国がかかえている課題に対する様々なヒントがあふれている。
我々の研究は、今後この「総合的農村開発」としての生活改善運動における普遍的要因 の抽出と、成功に導いた日本の固有要因の分析、そして現代の途上国における再現可能性 の模索などを目指していきたい。 【戦後日本の生活改善運動を理解するための基本文献】 ・生活全般 無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫 1995 (初版・青銅社版 1951 年) 大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書(青版)301 昭和 33 年 農林省振興局生活改善課編『農家生活白書』昭和37 年・(生改 2001-103) ・生活改善の思想 今和次郎「生活病理学」『今和次郎集・生活学』ドメス出版 1971 pp.399-478 今和次郎「生活改善論」『今和次郎集・家政学』ドメス出版 1971 pp.445-503 山本松代(証言)「生活改善と農村婦人の解放」西清子編『占領下の日本婦人政策』ドメ ス出版 1985 pp.183-194 ・人口・産児制限・受胎調節 西内正彦 連載「日本のリプロダクティブ・ヘルス/ライツのあけぼの」『世界と人口』2001/1-10・ジ ョイセフ) ・栄養改善 (財)日本食生活協会『栄養指導車のあゆみ』1961(パンフレット) 岸康彦『食と農の戦後史』日本経済新聞社 1996 ・健康改善 菊地武雄『自分たちで生命を守った村』岩波新書(青版)668 1968 年(沢内村) 松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫 連載「衛生指導員ものがたり∼八千穂村健康管理」 佐久総合病院広報「農民とともに」 2000 年 4 月∼02 年 2 月 NHK『プロジェクトX 医師たちは走った∼医療革命集団検診∼』2002/1/24 放映 ・「蚊とハエのいない村」運動 須川豊・橋本正巳『蚊とハエのいない生活∼健康な明るい生活の第一歩』 (財)日本公衆衛生協会 昭和28 年 厚生省公衆衛生局環境衛生部「蚊とはえ駆除事例集」 昭和34 年 ・新生活運動 平岩八郎「新生活現地報告 成果を上げた婦人の目覚め-茨城県西茨城郡笠間町を訪ねて」 (財)新生活運動協会 昭和32 年 ・母子保健 ビデオ鹿児島県広報課 「明日をつくる人々」昭和32 年 中村安秀 ・公衆衛生 丸井英二 連載「戦後日本の公衆衛生(19-24)」『保健の科学』1991/12-1992/5 ・普及手法
梅根悟『問題解決学習』成文堂新光社 昭和 29 年 (生改 2001-20) 浜田陽太郎監修『これからの普及手法をどうすすめるか』1987(社)農山漁家生活改善 研究会 ・また、生活改善のケーススタディーとしては愛知県七郷一色村婦人会を取り上げた、 吉田豊『経済開発と生活改善』筑波書房 1992 がある。 ・このほか、社会教育、PTA(1947 年に GHQ−CIE(民間情報教育局)の指示で誕 生)、結核対策などについても適当な入門書があると思われる。順次検索していきたい。
第2章 近代日本農村史における生活改善運動と戦後の農村生活改善
農林水産省農林水産政策研究所 国際政策部長 水野正己 1. 近 代 日 本 農 村 史 に お け る 生 活 改 善 運 動 の 概 要 日本の農村地域においては、幕末・明治初期から、大正、昭和戦前期、そして戦後の高 度経済成長期までの時期(1961年の農業基本法以前を想定)に、さまざまな内容と形式で 生活改善、または生活改善の要素を含む運動(以下、ひとまとめにして「生活改善運動」 という。)が、少なからず行われてきた。もちろん、すべての運動において生活改善とい う用語が用いられていたわけでは必ずしもない。その中の代表的なものを列挙すれば、お よそ以下のようである。 ①報徳社運動(幕末∼明治期) ②町村是調査運動(明治20年代、30年代) ③地方改良運動(明治40年代以降) ④農村経済更正運動(昭和恐慌期) ⑤戦時動員体制下の生活改善(戦時期) ⑥戦後農村生活改善運動(戦後復興期) これらの生活改善運動には、以下のような5つの特徴がみられる。 まず第1に、すべての生活改善運動が社会の混乱、不安定期の農村を対象にして、運動 が展開されてきたことである。例えば、報徳社運動は幕末・明治維新を含む日本社会の一大 変動期に拡大した。報徳の村として最もよく知られている村のひとつである静岡県の庵原 村(現静岡市庵原町)の場合、幕末期の商品経済の浸透、維新後の不平等条約に基づく貿 易自由化による影響、その結果としての明治初期の恐慌による疲弊から立ち上がる農村再 興運動に報徳の仕法が導入された。町村是運動および地方改良運動は、それぞれ西南戦争 および日露戦争後の国家体制の再建・基盤強化を背景にもつ産業振興・地方振興計画運動 という性格を有する。農山漁村を対象にして1932年から1941年の約9年間にわたって展開 された農村経済更正運動と、それに続く戦時体制下の生活改善は、昭和恐慌や国家総動員 体制といった文字どおり農村経済の疲弊・混乱期の運動であった。戦後の農村生活改善運 動についても、戦後農業の3大改革の一環として着手され、少なくとも初期段階は戦後の 社会混乱・経済復興期に取り組まれた運動といえる。 第2に、運動全体における生産と生活改善あるいは生活改善の要素との関係性に関する 特徴である。報徳社運動においては、二宮尊徳による報徳の四綱領(至誠、勤労、分度、 推譲)および報徳の仕法に基づく報徳の運動が展開される。この場合、生産と生活とは決 して分離して把握することはなされず、従って、生活改善がすべての活動と一体的に取り 組まれたと考えることができる。強いていえば、報徳の四綱領のうち生活改善に関係する ものは分度および推譲ということになろうか。至誠と勤労は、産業運動、農村自治、系統農会運動という性格から、農事改良、すなわち経済事業の振興により傾斜していた。この ため、生活改善の要素は、風俗矯正(改良)、勤倹貯蓄といった精神的運動の色合いが濃 かった。ただし、衛生事業については、伝染病対策のため、明治期から取り組まれていた ことを付け加えておく。総じて、生産の確保・増加のための生活改善という位置づけがな され、その結果、勤倹、節約、修身、道徳、倫理、消費悪徳といった要素が行政指導の下 に前面に押し出されることになる。このことは、特に、農村経済更正運動および戦時動員 体制下の生活改善において著しい。 第3に、運動としての性格に関する特徴である。明治期の報徳社運動については、一般 に農村地域のリーダー(地主層)によって報徳の仕法が導入されたとみられる。それ以外 は、政府の政策として展開された。従って、上から降ろされた政策が配達され、それを下 から受け取り、自らのニーズに翻訳し、適合させる受け皿組織とその機能が重要になる。 また、人間生活には個別的側面と集団的側面があり、特に後者の側面に関わる生活ニーズ の充足は、より大きな資源、外部の技術、資本、集合的行動などが要求されることも、こ の受け皿組織を必要とする要因である。そして、この両者が一致点をみいだす限りにおい て、運動としての性格を獲得して展開してきたのではないだろうか。 第4に、運動において取り組まれた生活改善活動の諸要素の継承である。全国的規模で 取り組まれた農村経済更正運動や戦時体制下の生活改善は、託児所、共同炊事、共同浴場、 共同娯楽、かまど改善、保存食、栄養、母子保健、冠婚葬祭簡素化などの活動を要素とし て持っている。これらはすべて、戦後の生活改善にも活動のメニューとして取り込まれた。 もちろん、同一名称の活動メニューといっても、時代的、地域的な差異が当然あることに 注意しなければならない。 第5に、運動の経験が農村と農家にもたらした長期的効果である。報徳の村として知ら れる庵原村は、1世紀を超えてかつての運動の成果を引き継いできたとされる。また、各 地域に展開した報徳社運動の村々は、後に産業組合の母体となり、また戦後に農業協同組 合として展開しているものが多い。農村経済更正運動の模範村として知られた山形県西目 村(現西目町)は、現在の地域振興に過去の経験がいかんなく発揮されている。戦後の生 活改善運動にいたっては、すでに半世紀の歴史を獲得しているが、この運動を通じて形成 され、また運動を直接的に担ってきた農家主婦のグループとその成員は、集団としてもま た個人としても、現在のむらおこし、まちおこしの中心的存在となって活躍しており、こ れらの女性たちを抜きにして日本農村の活性化、持続性、未来は考えられないほどである。 むらづくり、まちづくりの経験を通じて形成・強化されてきた人的資本や社会関係資本の なせる業といえよう。 2. 農 村 経 済 更 正 運 動 の 生 活 改 善 つぎに、戦前期の日本農村において全国的規模で展開された農村経済更正運動における 生活改善について略述する。これは、戦後の生活改善運動の理解に不可欠と考えられるか らである。この農村経済更正運動は、昭和恐慌期に農林省が時局匡救農業土木事業および 米穀臨時措置とともに打ち出した、農山漁村経済更正計画に基づいて行なわれた政策対応
に基づいている。それは、経済更正の指定を受けた町村に対して自らの地域の経済更生計 画の策定を求めた。 この更生計画の一要素として、経済の改善とならんで農村教育、衛生、生活改善が位置 づけられていた。そして、生活改善の内容としては、農村衛生分野として、共同水道、医 療施設、台所改善、厠(かわや)の改善などが含まれ、農村生活分野として、住宅改善、 集会所、簡易図書館、慰安施設、農村公休日の設定などが含まれていた。しかしながら、 更正運動における生活改善は、疲弊した農村経済への対応を最優先することが国策であっ たため、一方の農村収入増加の大命題に対する他方における支出節約のひとつの柱に過ぎ なかった。つまり、生活改善により節約を果たし、副業を含めた収入増加との差額を少し でも多くして、農家負債整理や農村救済を図ろうとした。 従って、更正運動における生活改善は衣食住については、標準生活を基準に節約、自制 がうたわれた。その結果、冠婚葬祭は格好の節約対象にされ、礼式標準を設定して費用節 約が推し進められた。この時期に政策側が提起した生活改善においては、生活の質的向上、 生活主体の形成、生活それ自身を楽しむという基本的な人間的要素への配慮が本来的に欠 如していたといってよい。 3. 戦 後 の 生 活 改 善 運 動 (1) 生活改善事業の概略 ① 生活改善事業の端緒 第二次大戦直後の日本農業に対して連合軍総司令部の指示・指導のもとに展開された政 策は、「農村民主化」の名のもとに推進された。それは、農地改革の断行、農業協同組合 の設立、そして農業普及制度の導入から構成されていた。この最後の農業普及は、農業改 良助長法(昭和23年)に基づき、農業および農民生活に対する科学的技術および知識の普 及を目指していた。そして、普及事業では、農業改良、生活改善と並んで、農村青少年ク ラブ活動の育成を三つの柱として進められた。農家の生活改善は、農家の生活技術の向上 を通じて、「農家の生活をよりよくし、考える農民を育成していく」ことが目的とされた。 その背景には「従来の生産さえ向上すればおのずと生活が向上するという生産中心の考え 方ではなく、生産向上と生活向上は対等の関係にあり、生活問題の解決や向上が生産活動 の向上にもつながるという考え方」があった。 以上の目的達成のため、農業改良助長法(昭和27年一部改正)は「農村の第一線に配置 される改良普及員の任務についても、あらゆる機会に、その受持区域内の農家の間を巡回 し、農業上の改良や生活改善上必要な知識や技術を伝えたり、農家の相談相手になるよう 強く指示、伝達」するとした。これは、「この事業の精神が従来の補助金と権力による天 下り式の農業技術指導を反省し、技術指導を通じ(た)自主的農民の育成、農民の教育に あること強く打出してい」たことの表れである。そのため、普及事業は食料供出とは一線 を画して実施され、またラジオ放送や印刷物の配布による事業の「普及」が試みられた。 農林省(当時)の生活改善事業は、農業改良普及事業の一環として位置づけられたので はあるが、食料増産という国民的課題に対応して、農業改良普及の方が組織体制の面にお
いても、農業政策との関連性の面においても、またさらに研究部門との連携の面において も拡充強化が進められた。これに対して、生活改善は制度的な新しさも関係して、その組 織体制の整備には時間を要したのであり、また試験研究機関や大学との連携は農業改良普 及と比較してみれば極めて不充分なものであった。 ② 生活改善事業の展開 生活改善の組織的展開過程は、体制整備の段階から3期に区分される。すなわち、①小 地区期(1951∼57年、昭和26∼32年)、②中地区期(1958∼64年、昭和33∼39年)、③広 域期(1965∼68年、昭和40∼43年)である。 小地区期とは、農業改良普及員を市町村ごとに配置していたためにつけられた呼称であ り、生活改良普及員は定員の増加が図られたとはいえ、1957年度に県平均で33人にとどま り、1人当たり担当町村数では2.5町村、同じく1人当たり担当農家戸数では4000戸であっ た。この時期には、生活改善の何たるかを生活改良普及員自身が農家生活の実態把握の中 から見つけ出し、苦闘しながら活動を形成していったとされる。この暗中模索の過程から、 個別農家を対象とした活動よりも、グループを育成しそれを対象に指導を集中する濃密指 導方式が考案され、また生活改良普及員同士の経験交流が生活改善の重要な情報源のひと つになった。主な活動の領域としては、住宅設備の改善では、かまど、台所、給水設備、 風呂の改善などが、食生活の改善では、農繁期の保存食、粉食の普及、小家畜の飼育など が、また作業衣の改良や蝿蚊の共同駆除などが広く取り組まれた。 生活改良普及員を技術的側面から援助する専門技術員は、普及制度発足の翌年の1949(昭 和24)年から置かれていたが、その後しだいに拡充され、1954(昭和29)年からは各都道 府県に2人となり、生活技術担当と普及方法(後に普及指導活動)を分掌した。 中地区期の名称は、昭和33年に農業改良助長法が改正され、全国に1586カ所の普及所が 設けられ、それを拠点に普及活動が進められたことによる。また、この時期は、いわゆる 基本法農政の開始期と重なる。農工間の所得格差の拡大を基本要因とする農業労働力の減 少、兼業化、農業労働の女性化や老人化、農村若年層の都市流出の結果、農家の主婦層の 労働過重、健康障害、生活の粗放化などが大きな問題となり、生活改善活動は「農民の栄 養の確保、特に健康水準の向上」を大きく取り上げるに至った。この時期は、生活改善グ ループ数も増加し、昭和39年には1万4927グループ、総参加人数は30万人を超えた。この時 期の最終年(1964年)には、農業改良資金制度(1951年創設)のなかに農家生活改善資金 が設けられ、農業者またはその組織する団体に無利子資金を提供する途が開かれた。 広域期には、農村経済圏域の拡大に対応して普及組織の広域体制化が進められた。農村 人口の流出、農村の都市化、兼業の深化、出稼ぎの恒常化、農業後継者問題の台頭を背景 に、農山漁家の健康生活、農家婦人の労働過重、農村生活環境整備の遅れ、農村生活の魅 力の増進が謳われ、都市並みの生活基盤整備、道路、上下水道、公共施設、衛生・福祉・ 文化的施設整備が図られる一方、農山漁家健康生活管理特別事業や家族労働適正化特別事 業などが生活改善事業として導入された。また、個々の農家生活のみならず、地域社会生 活の改善についても事業対象に取りこまれた。 ③ 初期の生活改善事業の実績
生活改善活動の初期の成果を概観しておくと、生活改善グループの組織状況については、 1956(昭和31)年3月末の時点で全国で5461グループ(13万992名)となっている。これら のグループが取り組んでいる改善内容は、グループ数の順位で第1位がかまど改善、第2 位が保存食の利用、第3位が改良作業衣の着用であった。 このうち、かまどの改善については、1956(昭和31)年度の全国調査結果によると、「す でに改良した農家」が220万戸(全農家戸数582万戸の38%)、「生活改善活動の導入以降 に改善した農家」が158万戸(同じく27%)、「向こう1カ年以内に改善するつもり」の農 家が147万戸(同じく25%)であった。また、かまどの改善率には地域差も強くみられ、東 北、関東、北陸で低く(20%台)、最高は東海の70%、中国、四国では50%であった。生 活改良普及員1人当たりの担当農家戸数の少ない府県ほど、かまど改善率が高い傾向がみ られた。また、東海や四国の一部では1948(昭和23)年までにかまどの改善を行っていた 農家の割合が高かった(東海の平均で40%強)。 生活改良普及活動を通じたグループ員に対する教育的効果について、つぎのような指摘 が興味を引く。すなわち、生活改善活動の始めには、参加農家の間には「はっきりした目 的を持って集まってくる人が少ない。会合には人に言われたり、頼まれたり、時には義理 で出席する。自分の家の必要、不必要に拘らず、新しいもの、高度なものを求める。習っ た技術を家で実行しようとしない。見栄や競争で改善する。リーダーや姑さんに気がねが 多い。発言する人が少なく、一部の特定の人だけが発言する。よいことは自分でだけ知っ ていたい。お金がないと改善できない」といった態度がみられた。しかし、これが生活改 善普及活動への参加の度合いが進むに連れて、「自分の家に必要な、或いは適した技術を 習いたがる。習った技術は必ず家で応用してみる。自分達の持っている技術を教え合う。 技術が豊かに、しかも正確になって来る。技術に自信を持ってくる。」さらには、「話合 いが上手になって来る。人の噂やかげ口が少なくなって来る。身分や家柄にこだわること が少なくなる。物ごとを自分で判断するようになる。自分たちの生活の中から問題をみつ けるようになる。何ごとも皆が力を出し合って解決しようとする。集落や村の問題に関心 を持つようになる」といった積極的な態度へと変化してきたという。こうした点に、戦後 の農村民主化が目指し、生活改善を通じて達成されたものの一端が窺われるように思われ る。 (2) 戦後日本の生活改善運動の特質 生活改善それ自身は長い歴史を有していることは先述した通りであるが、戦後の生活改 善は本稿の最初の節で取り上げたその他の生活改善運動と異なり、もともと占領政策の一 環として導入されたのであり、いわば輸入されたエキゾチックな政策に基づいていた。こ の点で、極めて特異な性格を有していたが、日本農村社会に展開されて行く過程で中央に おける輸入政策の国内地方への同化、すなわち日本化が進行した。しかしながら、農村や 農民の方からみれば、戦前期に生活改善の先行経験がある程度に存在していたため、それ ほど違和感なく受け入れられたように思われる。では、この戦後の生活改善運動、特にそ の初期の十数年間の特徴は何であったか。現在の開発途上国の農村開発問題との関連でい
くつか指摘しておくことにする。 まず、第1に、戦後の農村生活改善運動は、その多くを生活改良普及員の活動と努力と に負うところが極めて大である。生活改良普及委員は最近までその全部が女性によって担 われていた。彼女たちは、極めて高い使命感に立ち、戦後復興期の農村に飛び込み、暗中 模索の中から生活改善運動の地平を開拓して行った。彼女たちは、新しいアイデア、生活 技術、情報に支えられて、農村生活改善のファシリテーター機能を極めて創造的に果たし た。 第2に、この生活改善運動で取り組まれた事業、活動は、徹底した農村・農家生活の現 場から発想され、農家生活の現状把握の調査とその結果に基づいて展開された。つまり、 徹底した現場主義に立っていたのである。 第3に、具体的な改善の積み重ねが重視され、それを計画的に達成して行くアプローチ が採られた。この実利主義は、参加した農家主婦自身はもとより、農家家族員、特に彼女 達の夫および舅と姑の生活改善活動に対する理解と支持を高めるとともに、嫁(彼女達) の生活改善グループ活動への参加の容認を促した。 第4に、この生活改善運動は、初期の段階には、いわゆる補助金制度が整備されていな かったことが幸いして、農家の現場の生活問題に対して外部の手段を通じた置き換えによ る解決ではなく、すでに具体的に存在しているものの「改善」による解決を強く指向して いた。 第5に、この生活改善運動の具体的な活動の過程を重視し、問題解決の手法を導入して、 農家主婦層に対して創造的な問題解決体験の機会をもたらした。この過程で成長した農家 主婦層は、現在までその活動経験を継承し、さらに開花させ、現在の全国津々浦々でのむ らづくり、まちづくりの中心主体に成長した。 第6に、この生活改善運動は、農家の主婦を個人として捉え、彼女達を小人数のグルー プに組織して取り組まれた。生活改善グループと呼ばれる小集団による活動は、生活改善 活動それ自身の継続ばかりでなく、集団の成員の人間的成長、さらには生活改良普及員自 身の成長を支えるものでもあった。 第7に、この生活改善運動は、その展開過程の中で、さまざまな参加型農村開発手法を 創出し、工夫し、改善し、普及させた。この中には、最近の途上国開発研究で盛んに論じ られるさまざまな参加型開発・調査手法(例えば、PRA)を先取りしたものが数多くみられ る。しかしながら、これまで外国に紹介されることがなかったことから、極めて残念なこ とながら、日本各地に埋もれたままの状態になっている。 最後に、戦後の農村生活改善運動は、農林水産省の政策の長期的な関与とその行政の中 心的担い手として中央のみならず、都道府県段階の官僚機構の中で優れた女性の人材を得 た。この都道府県段階での有能な女性官僚の創造的な取り組みなくして、戦後生活改善の 普及・定着は不可能であったといっても過言でない。 4. 農 村 開 発 問 題 へ の イ ン プ リ ケ ー シ ョ ン 戦後日本の生活改善はすでに半世紀を超える歴史を有するが、これは歴史としては中途