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WORKING PAPER SERIES Masahiko Ota Graduate Student of Commerce and Management, Hitotsubashi University The Role of Zaikai-Jin in Entrepreneurship: Tai

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WORKING PAPER SERIES

太田

雅彦

財界人の企業家活動

―石坂泰三と土光敏夫―

(日本の企業家活動シリーズ No.44)

2007/03/20

No. 32

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WORKING PAPER SERIES

Masahiko Ota

Graduate Student of Commerce and Management, Hitotsubashi University

The Role of “Zaikai-Jin” in Entrepreneurship:

Taizou Ishizaka and Toshio Dokou

(Series of Entrepreneurship in Japan No.44)

March 20, 2007

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財 界 人の 企 業 家 活 動

―石 坂 泰 三 と 土 光 敏 夫 ―

太 田 雅 彦 はじめに 1979 年、エズラ・ヴ ォーゲ ルの『 ジャ パン・アズ・ナンバ ー・ワ ン』がベ スト セ ラ ー と な っ た 。「 日 本 の 制 度 が ア メ リ カ の 最 良 の 鏡 と な る 」と ま で 、褒 め 称 え ら れ た 。 敗 戦 で 国 富 の 四 分 の 一 を 失 い 焦 土 と 化 し た 日 本 が 、 そ の 後 、 世 界 に も 稀 と も い わ れ る 戦 後 の 経 済 復 興 と そ れ に 続 く 高 度 経 済 成 長 を 遂 げ た の で あ る 。 そ の 過 程 に つ い て は 、 傾 斜 生 産 方 式 に 始 ま る 政 府 の 産 業 政 策 あ る い は マ ク ロ 経 済 政 策 の 妥 当 性 を 説 く も の 、 終 身 雇 用 ・ 年 功 序 列 制 賃 金 ・ 企 業 内 組 合 と い っ た 企 業 経 営 の ミ ク ロ 的 要 因 を 強 調 す る も の 、 あ る い は 旧 社 会 主 義 国 を モ デ ル と し た 戦 時 経 済 統 制 下 で の 経 済 運 営 シ ス テ ム が 花 開 い た 結 果 だ と い う 見 解 な ど が あ る 。 し か し な が ら 、 こ う し た 経 済 成 長 や 経 営 発 展 が 従 来 の 慣 行 や 常 識 、 あ る い は 規 制 を 打 ち 破 っ て 実 現 さ れ た イ ノ ベ ー シ ョ ン の 軌 跡 で あ る と い う 観 点 か ら み る な ら ば 、 自 ら が 属 す る 企 業 に お い て 事 業 革 新 を 遂 行 す る こ と を 通 じ て 産 業 界 に お け る リ ー ダ ー の 地 位 を 獲 得 す る こ と で 、 さ ら に は 経 済 界 全 体 と し て の 利 益 を 最 大 化 す る こ と で 、 こ う し た 高 度 経 済 成 長 を 実 現 し て き た 経 営 者 た ち の 企 業 家 精 神 に つ い て 言 及 す る こ と が 肝 要 と な る 。 そ し て 、 そ こ で は 政 治 に 働 き か け る こ と で 、 個 別 企 業 の 枠 に 留 ま ら な い 経 済 界 全 体 の 利 益 を 実 現 し よ う と し て き た 「 財 界 」( 菊 池 [2005]) として の役 割 を評価 する ことも 必要 となろ う。 戦 後 か ら 1970 年代 までの 代表 的な財 界人 を挙げ るな らば、 石坂 泰三と 土光 敏 夫 の 二 人 の 経 団 連 会 長 で あ る こ と は 衆 目 の 一 致 す る と こ ろ で あ る 。石 坂 は 昭 和 30 年 代 を 通 じ て 第 二 代 会 長 と し て 経 団 連 会 長 で あ り 続 け た 。 戦 後 の 東 芝 の 再 建 に 立 ち は だ か っ た 労 使 紛 争 に 目 途 を つ け た 後 、 戦 後 日 本 の 新 た な 目 標 で あ っ た 生 産 性 向 上 と 国 際 化 を 掲 げ て 、 日 本 の 高 度 成 長 時 代 を 実 現 な さ し め た 。 ま た 、 土 光 は 奇 し く も 石 坂 と 同 じ 東 芝 を 昭 和 40 年 不況 後の 経営不 振か ら立ち 直ら せ、昭和 40 年 代 末 か ら 第 四 代 会 長 を 務 め 、 オ イ ル シ ョ ッ ク 後 の 行 政 改 革 期 の 財 界 の リ ー ダ ー と し て 活 躍 し た 。 二 人 は 、 戦 後 労 働 問 題 を は じ め と す る 経 営 上 の 諸 困 難 に よ っ て 再 建 が 危 ぶ ま れ て い た 戦 前 か ら の 大 会 社 ・ 東 芝 、 石 川 島 重 工 業 の 再 建 に 成 功 す る こ と で 頭 角 を 現 し た 、 創 業 者 で も 所 有 者 で も な い 専 門 経 営 者 で あ る 。 本 稿 で は 、 戦 後 日 本 経 済 界 の 傑 出 し た リ ー ダ ー で あ っ た 石 坂 、 土 光 の 二 人 に 焦 点 を 当 て る こ と で 、 彼 ら の 発 揮 し た 強 い リ ー ダ ー シ ッ プ の 源 を 探 る 。 二 人 の 経 歴 と 人 間 形 成 、 そ し て 専 門 経 営 者 と し て の ビ ジ ネ ス 生 活 を た ど っ た 上 で 、 企 業 再 生 の 意 思 決 定 と 行 動 、 さ ら に は 財 界 人 と し て の 思 考 と 行 動 に つ い て 、 そ し て そ の 礎 と な っ た 思 想 と 信 条 に つ い て 考 察 す る 。

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石 坂 泰 三

財 界 総 理

のアスピレーション ―

[冊子 には 「石 坂泰 三」 の写真 を掲 載] 石 坂 泰 三 略 年 譜 1886(明治 19) 年 0 歳 東京 都下 谷区 ( 現・台 東区 )生ま れ 1911( 明治 44) 年 25 歳 東京 帝国 大学 法 科(現 ・東 京大学 法学 部)卒 業 逓 信 省 に 入 省 1915(大正 4)年 29 歳 第一 生命 に入 社 1916(大正 5)年 30 歳 生命 保険 事業 視 察のた め、 欧米諸 国を 歴訪 1920(大正 9)年 34 歳 第一 生命 、取 締 役支配 人に 就任 1934(昭和 9)年 48 歳 第一 生命 、専 務 取締役 に就 任 1938(昭和 13) 年 52 歳 第一 生命 、社 長 に就任 1946(昭和 21) 年 60 歳 第一 生命 、社 長 を退任 1949(昭和 24) 年 63 歳 東芝 、社 長に 就 任 1956(昭和 31) 年 70 歳 経団 連、 会長 に 就任( ∼1968) 1957(昭和 32) 年 71 歳 東芝 、会 長に 就 任 1964(昭和 39) 年 78 歳 ボー イス カウ ト 日本連 盟、 総裁に 就任 1965(昭和 40) 年 79 歳 東芝 、会 長を 退 任 1965(昭和 40) 年 79 歳 日本 万国 博覧 会 、会長 に就 任 1975(昭和 50) 年 89 歳 死去

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第 二 次 世 界 大 戦 後 の 日 本 最 大 の 労 働 争 議 の 一 つ と い わ れ る 東 芝 の 争 議 を 解 決 し た 社 長 と し て 、 そ の 後 経 済 団 体 連 合 会 ( 以 下 、 経 団 連 と 略 ) 会 長 と し て 活 躍 し 、 財 界 総 理 と し て そ の 晩 年 の 活 躍 が 有 名 な 石 坂 泰 三 で あ る 。 役 人 嫌 い で 鳴 ら し た 石 坂 で も あ る が 、 も と も と は 逓 信 省 ( ∼ 郵 政 省 、 現 ・ 総 務 省 ) の 官 僚 だ っ た 。 そ の 後 、 生 命 保 険 業 勃 興 期 の 第 一 生 命 へ と 転 進 し 、 専 門 経 営 者 と し て 長 く 生 命 保 険 会 社 の 経 営 に あ た っ て い た 。 ま た 、 政 治 家 嫌 い で も 有 名 だ っ た 。 経 団 連 会 長 時 代 に は 、 経 団 連 会 館 建 設 の た め の 国 有 地 払 い 下 げ を 巡 っ て 当 時 の 大 蔵 大 臣 ・ 水 田 三 喜 男 の 煮 え 切 ら な い 態 度 に 「 も う 、 き み な ん か に 頼 ま な い ! 」( 城 山[1995]24 頁 ) と 雷 を 落 と し た と い う エ ピ ソ ー ド も あ る 。 相 手 の 年 齢 や 肩 書 に 拘 わ ら ず 筋 の 通 ら な い こ と に は 一 切 妥 協 し な い 石 坂 で あ っ た が 、 そ の 一 方 で は 日 本 銀 行 総 裁 や 国 鉄 総 裁 、 さ ら に は 大 蔵 大 臣 へ の 就 任 を 請 わ れ る な ど 官 職 へ の 要 請 も 絶 え 間 な か っ た 。 そ ん な 石 坂 の 出 身 や 学 歴 は 、 そ れ を 一 瞥 す る だ け で あ る な ら ば 、 明 治 ・ 大 正 期 の 典 型 的 な エ リ ー ト 層 の 持 つ も の で あ る が 、 そ の 内 実 は け っ し て 恵 ま れ た も の で は な か っ た 。 1 . 専 門 経 営 者への道 程 石 坂 泰 三 は 、1886(明 治 19)年、 東京 ・下谷 に6人 兄弟 の三男 とし て生ま れた。 父・石 坂 義 雄 は 、埼 玉 県 の 由 緒 あ る 家 庭 の 出 身 で あ っ た が 、父 が 漢 学 を 教 え 、母 ・ こ と が 針 仕 事 を し な が ら 生 計 を 立 て て い た 東 京 で の 石 坂 一 家 の 暮 ら し ぶ り は け っ し て 豊 か な も の で は な か っ た 。 後 に 陸 軍 少 将 と な る 長 兄 ・ 弘 毅 は 学 費 が 官 費 で 賄 わ れ る 士 官 学 校 に 進 み 、 次 兄 ・ 定 義 は 丁 稚 奉 公 に 出 さ れ て い た 。 目 が 悪 い た め に 士 官 学 校 へ の 進 学 が 望 め な い 石 坂 は 、 小 学 校 を 終 え る と 旧 制 府 立 四 中 ( 現 ・ 東 京 都 立 戸 山 高 校 ) を 受 験 す る が 失 敗 、 や は り 丁 稚 奉 公 へ 出 さ れ る と こ ろ で あ っ た 。 両 親 に 泣 い て す が っ た と い う 石 坂 自 身 に よ る 必 死 の 懇 願 と 兄 ・ 弘 毅 の と り な し と が 奏 功 し 、 翌 年 、 旧 制 府 立 一 中 ( 現 ・ 東 京 都 立 日 比 谷 高 校 ) を 受 験 す る こ と を 許 さ れ 、 合 格 す る 。 そ し て 、 中 学 進 学 の 意 味 を 周 囲 に 認 め て も ら う た め に も 「 ク ソ ま じ め に 勉 強 し た 」( 城 山[1995]43 頁 )と いう石 坂は 、16 0人 中7位 の成 績で 府 立 一 中 を 卒 業 し 、1904(明治 37)年旧 制第一 高等学 校へ と進学 する 。 石 坂 の 高 校 進 学 後 も 一 家 の 暮 ら し ぶ り に は 大 き な 変 わ り は な か っ た 。 寮 に 住 む こ と と な っ た 石 坂 は 、 高 校 在 学 中 の 3 年間 を一着 だけ の制服 で過 ごした とい う。 し か し な が ら 、そ の 高 校 生 活 は 後 に 自 ら 、「 高 等 学 校 で の 三 年 間 は 私 の 生 涯 を 通 じ て 最 も 印 象 的 な も の だ っ た 」( 石 坂[1957]300 頁)と 語る ほど に充実 したも のだ っ た 。 こ こ で は 、 無 教 会 派 の ク リ ス チ ャ ン 、 内 村 鑑 三 に 出 会 う こ と に な る 。 内 村 の 聖 書 研 究 会 に 入 会 し て 直 接 師 事 し 得 た こ と は 、 入 信 し て ク リ ス チ ャ ン に こ そ な ら な か っ た も の の 、 石 坂 に と っ て 後 半 生 の 人 生 観 に 大 き な 影 響 を 受 け る 出 来 事 だ っ

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た 。ま た 、「 そ の 高 等 学 校 の 制 度 が な く な っ た の は 、日 本 の 教 育 上 の 大 き な 損 失 だ っ た と 考 え て い る 」( 石 坂[1957]300 頁) と 嘆いて いる が、早 くも 1950 年代の 時 点 で 、 制 度 変 更 が 教 養 教 育 の 欠 如 を 招 き 、 将 来 の 日 本 に 禍 根 を 残 す の で は と 憂 慮 し て い る 点 は ま さ に 慧 眼 と い え よ う 。 一 高 か ら 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 ( 現 ・ 東 京 大 学 法 学 部 ) 独 法 科 に 進 学 し た 石 坂 は 、1911(明治 44 年 )高 等文官 試験 に合格 し、大学卒 業と 同時に 逓信 省に入 省す る。 当 時 の 東 大 法 学 部 卒 、 高 等 文 官 試 験 合 格 の 学 生 た ち に と っ て は 大 蔵 省 や 内 務 省 に 進 む こ と が エ リ ー ト の 証 し で あ っ た が 、 石 坂 は 序 列 上 位 で の 入 省 の 方 が 出 世 が 確 実 と 考 え 、 逓 信 省 を 選 ん だ の だ っ た 。13(大 正 2 年)、官 吏の娘 ・ 織田雪 子と 結婚 す る 。 し か し 、 入 省 か ら 四 年 、 部 下 の 不 祥 事 か ら 譴 責 処 分 を 受 け た こ と も あ り 、 官 僚 と し て の 将 来 に 疑 問 を 感 じ 始 め て い た 頃 、 第 一 生 命 創 業 者 矢 野 恒 太 か ら 石 坂 の 上 司 で あ る 貯 金 局 長 下 村 宏 の も と に 石 坂 の 引 き 抜 き の 話 が 持 ち 込 ま れ た 。 当 時 の 第 一 生 命 は 、外 務 員 も 含 め て 社 員 は お よ そ 七 十 人 、40 社ほ ど ある生 命保 険 会 社 の 中 で も 十 二 、 三 位 の 会 社 に 過 ぎ な か っ た が 、 外 遊 を さ せ 、 社 の 後 継 者 に す る と い う の が 矢 野 が 石 坂 に 出 し た 条 件 だ っ た 。1915(大 正 4)年 、 妻・ 雪子 の反 対 は あ っ た も の の 、 最 終 的 に は 逓 信 省 を 退 官 、 第 一 生 命 に 入 社 し 、 矢 野 の 秘 書 役 と な っ た 。 逓 信 省 で は 入 省 直 後 か ら 高 級 官 僚 と し て 部 下 か ら 世 話 を さ れ る こ と に 慣 れ き っ て い た 石 坂 に と っ て 、 実 質 は 社 長 の 雑 用 係 と い う 秘 書 役 の 仕 事 と 文 房 具 で す ら 自 費 で 調 達 す る と い う 小 さ な 民 間 企 業 の 社 風 に 当 惑 し た 様 子 も 窺 え る 。 入 社 か ら 一 年 経 っ た 1916(大正 5)年、入 社時 の約 束通り 石坂は 外遊 に出る 。二 年間を かけ て、 ア メ リ カ 、 イ ギ リ ス 、 ド イ ツ の 保 険 業 を 学 ぼ う と い う こ の 外 遊 で あ っ た が 、 折 か ら の 第 一 次 世 界 大 戦 が 激 化 し 、 結 局 は ド イ ツ に は 行 け ず じ ま い と な り 、 一 年 間 余 り で 当 て 外 れ の 帰 国 と な っ た 。 帰 国 し た 石 坂 は 、 支 配 人 心 得 と な り 、 そ の 一 年 半 後 に は 支 配 人 、 さ ら に そ の 二 年 半 後 に は 取 締 役 支 配 人 へ と そ こ そ こ に 順 調 な 出 世 街 道 を 歩 む こ と と な る 。 当 時 の 第 一 生 命 の 社 外 取 締 役 た ち は 大 物 揃 い だ っ た 。 服 部 時 計 店 の 創 業 者 ・ 服 部 金 太 郎 、 日 本 陶 器 、 日 本 碍 子 の 創 業 者 ・ 森 村 一 左 衛 門 、 そ し て 阪 急 電 鉄 の 創 始 者 ・ 小 林 一 三 な ど と い っ た 人 物 た ち で あ る 。 支 配 人 と し て の 石 坂 は 、 社 長 の 矢 野 か ら だ け で な く こ れ ら の 面 々 か ら も 、 企 業 経 営 の イ ロ ハ を 学 ぶ 日 々 だ っ た 。 一 流 の 実 業 家 で あ る 社 外 取 締 役 た ち に 敬 服 し 、 戦 後 の 内 部 昇 進 者 が 過 半 を 占 め る 取 締 役 会 の 構 成 を 「 ナ ン セ ン ス 」( 石 坂[1957]315 頁 ) だとも 批判 してい る。 矢 野 と 石 坂 の コ ン ビ が 率 い た 第 一 生 命 は 、 都 市 の サ ラ リ ー マ ン 層 を 対 象 と し た 合 理 的 か つ 積 極 的 な 経 営 を 相 互 主 義 の 下 に 推 進 し 、 昭 和 に 入 る と 日 本 生 命 に 次 ぐ 第 2 位 の 生 命 保 険 会 社 へ と 成 長 し た 。 資 金 の 運 用 に 関 し て は 、 慎 重 か つ 保 守 的 で は あ っ た が 、 東 芝 の よ う な 優 良 企 業 に は す す ん で 融 資 し て い た 。 し か し な が ら 、

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取 締 役 で あ っ た と は い え 、 矢 野 の 忠 実 な 支 配 人 に 過 ぎ な か っ た 石 坂 の そ の 後 の 昇 進 は 当 時 の 同 世 代 の エ リ ー ト た ち と 較 べ て 必 ず し も 早 く は な く 、 専 務 取 締 役 に な る の は1934(昭 和 9)年、ようや く社 長とな るの は 1938(昭 和 13)年のこ とであ った 。 社 長 に は な っ た も の の 、 す で に 始 ま っ て い た 日 中 戦 争 は ま も な く 太 平 洋 戦 争 へ と 拡 大 し 、 戦 時 統 制 が 強 化 の 一 途 を 辿 る た め 、 経 営 者 と し て の 手 腕 を 存 分 に 発 揮 す る こ と な く 、終 戦 を 迎 え る 。1946(昭和 21)年の年 明け 早々に は会 長の矢 野に 従 っ て 第 一 生 命 の 社 長 を 辞 任 す る も の の 、 G H Q の パ ー ジ の 対 象 と な り 追 放 仮 指 令 を 受 け る 身 と な っ た 。こ れ は 、石 坂 の 長 男 ・ 一 義 の 尽 力 も あ り 、48(昭和 23)年 に は 追 放 解 除 と な る が 、 石 坂 の 去 っ た 第 一 生 命 は 、 財 務 体 質 の 強 い 優 良 会 社 で あ っ た こ と が 逆 に 災 い し て 労 使 紛 争 が 絶 え な か っ た だ け で な く 、 新 し い 世 代 の 会 社 幹 部 た ち に と っ て 前 社 長 は 疎 ま し い 存 在 で あ り 、復 帰 も ま ま な ら な か っ た 。こ の 頃 、 次 男 ・ 泰 介 の 戦 死 の 知 ら せ も 届 く 。 財 産 税 の 負 担 な ど も 降 り か か り 、 生 活 は 困 窮 し 失 意 の 日 々 を 送 る こ と と な る 。 石 坂 泰 三 が そ の 存 在 を 経 済 界 に 強 く 認 識 さ せ る の は 、 こ の 二 年 間 の 浪 人 生 活 を 経 て か ら 後 の こ と と な る 。 2 . 東 芝の 社 長として 石 坂 泰 三 に 転 機 が 訪 れ る の は 、1948(昭和 23)年の夏 にな ってか らの ことで ある 。 帝 国 銀 行 ( ∼ 三 井 銀 行 、 現 ・ 三 井 住 友 銀 行 ) 社 長 ・ 佐 藤 喜 一 郎 と 東 芝 社 長 ・ 津 守 豊 治 か ら 、 激 し い 労 使 紛 争 に 苦 し む 東 芝 の 再 建 を 請 わ れ た の で あ っ た 。 戦 前 、 東 芝 は 日 本 最 大 の 総 合 電 機 メ ー カ ー で あ っ た が 、 戦 時 中 に 軍 部 か ら の 要 請 を 受 け て 膨 張 を 続 け て お り 、大 幅 な 合 理 化 が 不 可 避 の 状 況 に あ っ た 。一 方 で は 、 時 代 背 景 も あ っ て 尖 鋭 化 し た 労 働 組 合 と の 紛 争 は 泥 沼 化 し て お り 、 そ の 収 拾 に は 困 難 を 極 め る こ と が 予 想 さ れ 、 国 鉄 争 議 と と も に そ の 帰 趨 は 世 間 の 注 目 を 集 め る と こ ろ で あ っ た 。 石 坂 が 再 建 を 託 さ れ た 東 芝 は 、 大 量 の 人 員 整 理 か 、 さ も な く ば 大 型 倒 産 か の 瀬 戸 際 に 立 た さ れ て い た の で あ る 。 当 初 は 、 会 長 に と い う こ と で 東 芝 入 り し た 石 坂 で あ っ た が 、 ド ッ ジ ラ イ ン の 実 施 な ど も あ り 、事 態 は 一 刻 の 猶 予 も 許 さ な い 状 況 と な り 、1949(昭 和 24)年 4月 5 日 、 自 ら が 社 長 と な り 難 題 に 立 ち 向 か う こ と と な っ た 。 社 長 就 任 に あ た っ て は 、 ① 経 営 組 織 の 改 革 と 人 事 の 刷 新 、 ② 過 剰 人 員 の 整 理 、 ③ 合 理 化 の た め の 資 金 調 達 と 設 備 の 更 新 、 ④ ア メ リ カ の ゼ ネ ラ ル ・ エ レ ク ト リ ッ ク ( G E ) 社 と の 関 係 修 復 の 4 項 目 を 石 坂 は 再 建 の た め の 重 要 優 先 事 項 と し て 掲 げ た 。 勿 論 、 最 優 先 事 項 は 全 従 業 員 数 の 2 割 を 超 え る 人 員 整 理 の 実 行 で あ っ た 。6 月 に は 、「 全 東 芝 従 業 員 諸 君 に 告 ぐ 」( 東 芝[1963]311 頁 )と の社長 名の 文書を 配布 し、協 力を 求めた 。 「 こ の 整 備 改 革 は 決 し て 容 易 な る わ ざ で は な く 、従 業 員 諸 君 一 同 の 協 力 を 得 な け れ ば な ら ぬ こ と は 当 然 で あ る 。整 備 は 決 し て 人 員 の 整 理 の み を 以 っ て 終 わ る も の で は な い 。 生 産 、 営 業 、 管 理 、 組 織 の 改 善 や 計 画 の 徹 底

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的 合 理 化 は 勿 論 、終 戦 後 と か く 弛 緩 せ る 人 心 の 緊 張 感 等 は 夫 れ 以 上 に 必 要 で あ る 。 若 し 夫 れ 、 従 業 員 に し て そ の 職 責 を 全 う し 得 ず 、 業 務 上 の 統 率 力 を 欠 如 す る が 如 き あ れ ば 、 直 ち に 粛 清 す べ き で あ る 。 従 業 員 諸 君 、 我 々 は 伸 び ん と す れ ば 先 ず 縮 ま る こ と を 要 す る 。余 は 就 任 早 々 こ の 再 建 に 直 面 し 多 少 な り と も 犠 牲 者 を 出 す こ と は 甚 々 忍 び 得 ざ る 処 な る も 、大 局 上 こ の ほ か に 途 な き を 確 信 す る 以 上 、諸 君 に 於 い て も 能 く こ の 事 態 を 認 識 し 協 力 せ ら れ ん こ と を 切 に 希 望 す る 次 第 で あ る 。」( 筆 者 抜 粋 ) 紛 糾 が 予 想 さ れ た 労 使 間 の 団 体 交 渉 は 、 7 月 5 日 に 始 ま っ た 。 連 続 し て 持 た れ た 交 渉 に 社 長 の 石 坂 自 身 が 必 ず 出 席 し た こ と も あ る が 、 紛 争 そ の も の が 意 外 な 展 開 を 見 せ る こ と と な る 。 7 月 7 日 に 下 山 事 件 が 起 き る と 、 G H Q も 労 働 運 動 へ の 監 視 を 強 め る と と も に 、世 論 も 微 妙 に 変 化 し て い っ た( 安 原[1985])。結局 、7 月 末 に は 退 職 希 望 者 数 が 整 理 人 員 の 9 割 を 超 え る こ と と な っ た 。 こ の 年 の 12 月 10 日 、 労 組 と の 間 で 協 定 書 に 正 式 調 印 し 、 東 芝 の 大 争 議 に は 終 止 符 が 打 た れ た 。 そ し て 、帝 国 銀 行 を 中 心 と し た 協 調 融 資 を も と に 設 備 投 資 を 本 格 化 さ せ る 中 で 、 1950(昭和 25)年に 朝鮮 戦争が 勃発 する。特 需 ブーム が到 来し、東 芝 の再建 には 追 い 風 が 吹 く 。50(昭 和 25)年 下期 には念 願の 黒字を 達成 し、 翌 51(昭和 26)年 上期 に は 復 配 す る 。1949(昭和 24)年 12 月 に企 業再建 整備 法の許 可を 得て再 出発 した 石 坂 の 率 い る 東 芝 は 、わ ず か 三 年 後 の 52(昭 和 27)年 上期 には 売上 100 億円 を達 成 、 二 割 配 当 を 実 施 す る に 至 る 。 石 坂 の 再 建 が 成 功 し た の で あ っ た 。 時 の 総 理 大 臣 、 吉 田 茂 か ら 思 い も か け ぬ 「 必 進 展 」 の 直 筆 の 手 紙 を 受 け 取 る の も こ の 頃 、1953(昭和 28)年 5月の こと であ っ た。内容 は、石 坂に 大 蔵大臣 就任 を 図1. 東芝の売上高と当期利益 0 50000 100000 150000 200000 250000 300000 昭和25年度昭和27年度昭和29年度昭和31年度昭和33年度昭和35年度昭和37年度昭和39年度 売上高(百万円) -5000 0 5000 10000 15000 20000 25000 当期利益(百万円) 出 所 : 東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社 編[1963]『東 京 芝浦電 気株 式会社 八十 五年史 』、 東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社 編[1977]『東芝 百年 史 』より 筆者 作成

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依 頼 す る と い う も の で あ っ た が 、 こ の こ と に つ い て 石 坂 自 身 は 一 切 明 ら か に し て い な い 。「 必 進 展 」だ っ た と い う こ と も あ り 、手 紙 そ の も の の 存 在 す ら も 石 坂 の 没 後 に な っ て か ら 判 明 し た も の で あ る 。 そ の 後 も 、東 芝 の 業 績 は 順 調 に 推 移 す る 。1955(昭和 30)年に は水車 タービ ンの 製 造 会 社 ・ 電 業 社 機 械 製 作 所 を 東 芝 に 合 併 し 、 そ の 成 長 を 決 定 的 な も の に す る 。 ま た 、 既 に 石 坂 が 会 長 に 就 任 後 の こ と と な る が 石 川 島 芝 浦 タ ー ビ ン を 合 併 し 、 火 力 発 電 機 部 門 に お い て も 、東 芝 の 地 位 を 磐 石 な も の と す る こ と に 成 功 す る 。な お 、 石 川 島 芝 浦 タ ー ビ ン を 合 併 す る 過 程 で は 、 石 坂 は 石 川 島 重 工 業 の 再 建 に 獅 子 奮 迅 の 活 躍 を す る 土 光 敏 夫 と 出 会 っ て い る 。 後 に 、 東 芝 の 社 長 に 、 さ ら に は 経 団 連 の 会 長 に と 土 光 を 引 き 出 す こ と に な る 出 会 い だ っ た 。 3 . 『財 界 総 理』 1955(昭和 30)年、日 本 生産性 本部 の初代 会長 に就任 する のに続 き、翌年に は経 団 連 会 長 に 就 任 す る 。 後 世 に ま で 財 界 総 理 の 名 の 下 に 語 ら れ る 国 際 派 の 財 界 リ ー ダ ー の 誕 生 で あ る 。 石 坂 泰 三 は 、 財 界 の リ ー ダ ー と な る こ と 自 体 に 野 心 は 無 か っ た が 、 戦 前 か ら 戦 争 と 統 制 に は 批 判 的 で あ り 、 そ の 地 位 に 就 く や 競 争 力 の 強 化 を 通 じ た 日 本 経 済 の 自 由 化 ・ 国 際 化 を 目 指 し て 邁 進 す る 。 経 団 連 会 長 就 任 後 、 初 め て の 記 者 会 見 で 、 石 坂 は 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「 経 済 の 基 本 は 、ま ず 豊 か に な る こ と 。日 本 経 済 の ポ テ ン シ ャ テ ィ リ テ ィ ー を 信 じ 、 拡 大 に 全 力 を 注 ぐ と 同 時 に 、 経 済 秩 序 、 道 義 、 企 業 モ ラ ル の 確 立 を 図 る 。」、「 政 界 に 対 し て 財 界 の 自 主 性 を 確 立 す る 」、「 外 国 人 が 四 十 億 、 五 十 億 の 株 を 取 得 し て も た い し た こ と で は な い 。 制 限 を 撤 廃 し て 堂 々 と や る べ き で あ る 」( 城 山[1995]164 頁) 日 本 経 済 の 活 力 を 信 じ た 上 で の 自 由 化 を も 恐 れ ぬ 発 言 で あ っ た 。 昭 和 3 0 年 代 前 半 の 日 本 で は 、 経 済 そ の も の は よ う や く 戦 前 水 準 に 復 興 し て き た も の の 、 そ の 国 際 競 争 力 は 極 め て 脆 弱 な も の だ と 考 え ら れ て い た 。 日 本 経 済 の 継 続 的 な 成 長 の た め に は 、 当 面 の 間 、 政 府 に よ る 手 厚 い 保 護 と 助 成 が 必 要 だ と い う 考 え が 趨 勢 で あ っ た 。 こ れ に 対 し て 、 石 坂 は 産 業 保 護 政 策 か ら の 脱 却 、 資 本 ・ 技 術 の 自 由 化 、 国 際 収 支 不 均 衡 の 是 正 な ど 、今 日 の 礎 と な る 路 線 を 打 ち 出 し て い っ た の で あ っ た 。 石 坂 は 技 術 自 体 に は さ ほ ど 造 詣 が 深 い と い う こ と で は な か っ た が 、 東 芝 の 社 長 と し て G E な ど 欧 米 メ ー カ ー と 仕 事 を し て い た 石 坂 は 、 す で に 日 本 の 技 術 陣 の レ ベ ル が 外 資 に 簡 単 に 駆 逐 さ れ る ほ ど 貧 弱 で は な い と い う こ と を 十 二 分 に 認 識 し て い た の で あ る 。 そ し て 、石 坂 は 産 業 界 あ げ て の 生 産 性 向 上 運 動 に も 早 く か ら そ の 効 果 を 理 解 し 、 積 極 的 に 取 り 組 ん だ 。1955(昭和 30)年に は、団長と して 当時の 労・使・学 識の最 高 権 威 者 で 編 成 さ れ た 「 ト ッ プ ・ マ ネ ジ メ ン ト 視 察 団 」 を 率 い て 訪 米 し 、 そ の 意

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表 1 経 団 連 ・ 歴 代 会 長

出 所 : 社 団 法 人 日 本 経 済 団 体 連 合 会 ホ ー ム ペ ー ジ よ り 筆 者 作 成

会 長 ( 就 任 時 役 職 )

在 任 期 間

石 川 一 郎 ( 日 産 化 学 工 業 社 長 ) 1948 年 3 月 16 日 ∼ 1956 年 2 月 21 日 石 坂 泰 三 ( 東 京 芝 浦 電 気 社 長 ) 1956 年 2 月 21 日 ∼ 1968 年 5 月 24 日 植 村 甲 午 郎 ( 経 団 連 事 務 局 ) 1968 年 5 月 24 日 ∼ 1974 年 5 月 24 日 土 光 敏 夫 ( 東 京 芝 浦 電 気 会 長 ) 1974 年 5 月 24 日 ∼ 1980 年 5 月 23 日 稲 山 嘉 寛 ( 新 日 本 製 鐵 会 長 ) 1980 年 5 月 23 日 ∼ 1986 年 5 月 28 日 斎 藤 英 四 郎 ( 新 日 本 製 鐵 会 長 ) 1986 年 5 月 28 日 ∼ 1990 年 12 月 21 日 平 岩 外 四 ( 東 京 電 力 会 長 ) 1990 年 12 月 21 日 ∼ 1994 年 5 月 27 日 豊 田 章 一 郎 ( ト ヨ タ 自 動 車 会 長 ) 1994 年 5 月 27 日 ∼ 1998 年 5 月 26 日 今 井 敬 ( 新 日 本 製 鐵 社 長 ) 1998 年 5 月 26 日 ∼ 2002 年 5 月 28 日 義 は 歴 史 的 に も 高 く 評 価 さ れ て い る 。こ の 視 察 団 で は 、40 日間 にわ たり企業 13、 大 学 2 、団 体 3 、官 庁 4 を 訪 問 し 、80 人 から インタ ビュ ーを行 った 。こ うし て吸 収 さ れ た ア メ リ カ の 科 学 的 経 営 手 法 は 、 後 に ヨ ー ロ ッ パ の 生 産 性 運 動 か ら 学 ん だ 人 間 尊 重 の 理 念 と 合 わ せ て 、 日 本 独 自 の 経 営 ス タ イ ル 、 い わ ゆ る 「 日 本 的 経 営 」 や 「 日 本 的 労 使 関 係 」 の 創 出 へ と 結 び 付 く こ と と な る 。 こ れ ら は 、 現 場 、 特 に 人 の 能 力 を 高 め る こ と で 高 い 生 産 性 を 実 現 し 、長 期 的 な 日 本 の 国 際 競 争 力 を 強 化 し 、 現 在 の 日 本 経 済 を 築 く 基 盤 と も な っ た 。 ま た 、 自 由 経 済 の メ カ ニ ズ ム を 信 奉 す る 石 坂 は 、 政 府 に よ る 保 護 ・ 干 渉 や 業 界 に よ る 自 主 規 制 を 経 済 の 活 力 を 削 ぐ 行 為 で あ る と し て 嫌 っ た 。 池 田 勇 人 内 閣 の 時 代 に は 、 低 金 利 政 策 を 維 持 し た ま ま 設 備 投 資 を 削 減 さ せ よ う と す る 日 銀 総 裁 と 対 立 し た 。「 公 定 歩 合 を 動 か せ ば 、政 府 の 低 金 利 政 策 は 破 綻 し た こ と に な り 、池 田 内 閣 に 致 命 傷 を 負 わ せ る 」 と い う 意 見 に 対 し て 、「 池 田 内 閣 と 日 本 と ど っ ち が 大 事 だ 。」と 即 答 し て い る 。石 坂 と 池 田 総 理 と は 、高 度 成 長 優 先 と い う 点 で 、そ れ ま で 蜜 月 だ と い わ れ る ほ ど の 関 係 で あ っ た 。 石 坂 の 池 田 へ の 高 い 評 価 と 親 密 度 が 広 く 知 ら れ て い た だ け に 、 こ の 一 件 は 石 坂 の 権 威 を さ ら に 高 め る こ と と な っ た 。 一 方 で 、 経 団 連 会 長 就 任 後 ま も な く 起 こ っ た 日 本 資 本 に よ る 中 東 で の 石 油 開 発

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へ の 関 与 に つ い て は 、 大 き な 波 紋 を 呼 ん だ 。 山 下 太 郎 が 利 権 獲 得 に 成 功 し た サ ウ ジ で 海 底 油 田 採 掘 を す る 会 社 ・ ア ラ ビ ア 石 油 の 発 起 人 を 引 き 受 け た の で あ る 。 山 下 は 毀 誉 褒 貶 の 多 い 人 物 で 、 批 判 も 多 か っ た 。 試 掘 成 功 の 可 能 性 に つ い て も 、 当 時 の 学 会 の 権 威 で あ っ た 脇 村 義 太 郎 ・ 東 京 大 学 教 授 は 否 定 的 な 意 見 で あ り 、 山 下 支 援 は 石 坂 の 晩 節 を 汚 す と ま で い わ れ た 。 し か し 、 日 本 が 第 二 次 世 界 大 戦 に 突 入 し た の は 石 油 が 無 か っ た た め だ と い う の が 持 論 の 石 坂 に は 、 た と え リ ス ク が あ っ て も 、 民 族 資 本 に よ る 資 源 開 発 は 歓 迎 す べ き も の で あ り 、 結 局 石 坂 は ア ラ ビ ア 石 油 の 会 長 就 任 を 引 き 受 け た ば か り で な く 、個 人 保 証 ま で し て 支 援 し た 。1960(昭 和 35)年、1月 に第 一 号油井 、4月に は第 二 号油井 が油 層を掘 り当 てる 。日 本に と っ て 一 番 不 足 し て い る 、 一 番 必 要 と す る 資 源 を 手 に 入 れ る こ と に も 成 功 し た 。 国 際 派 と し て の 真 骨 頂 は 、1970(昭和 45)年に 大阪で 開催 された アジ ア初の 日本 万 国 博 覧 会 ・ 会 長 と し て 発 揮 さ れ た 。 国 家 的 行 事 で あ る と は い え 、 成 功 し た と こ ろ で 会 長 に は 何 の メ リ ッ ト も な い 大 役 は 誰 も 引 き 受 け よ う と は し な か っ た の で あ る 。 し か し 、 石 坂 に と っ て は 、 高 度 経 済 成 長 を 成 し 遂 げ 経 済 大 国 と な っ た 日 本 の シ ン ボ ル 的 な 意 義 を も つ イ ベ ン ト を 失 敗 に 終 わ ら せ る わ け に は い か な か っ た の で あ る 。70(昭和 45)年 9 月、万博 史上最 多の 入 場者を 集め た日本 万国 博覧会 は 、万 博 史 上 初 の 黒 字 を 計 上 し て 閉 幕 し た 。 日 本 の 成 長 と 繁 栄 を 世 界 の 檜 舞 台 で 見 事 に 証 明 し た の だ っ た 。68(昭和 43)年、経団連 会長 はすで に6 期にし て退 任して いた。 石 坂 の 没 後 に な っ て 見 つ か っ た 報 告 書 が あ る 。「 日 本 万 国 博 覧 会 政 府 公 式 記 録 」と 題 す る 報 告 書 の 裏 表 紙 に は 、自 筆 で『 感 想 』な る 文 章 が 書 き 残 さ れ て い た 。 生 涯 最 後 の 仕 事 と し て 身 を 投 げ 打 っ て 働 い た 万 博 会 長 と し て の 偽 ら ざ る 心 境 で あ る 。 誰 に 打 ち 明 け る で も な く 、 政 治 家 嫌 い 、 官 僚 嫌 い の 憤 懣 が 記 し て あ っ た 。 「 一 体 こ の 博 覧 会 の 主 体 は 誰 だ っ た の だ ろ う 。此 の 政 府 記 録 に よ れ ば 総 て 政 府 当 事 者 に よ っ て な さ れ 、万 博 協 会 は 殆 ど 何 も し な か っ た 様 に 見 え る と 云 っ て も 過 言 で は な い か も 知 れ な い 。・ ・ ・ 私 と し て は 聊 か 、 否 、 大 い に 不 満 で あ る 。・ ・ ・ 甚 だ 不 満 で あ る 事 を 率 直 に 後 々 の た め 記 録 す る 次 第 で あ る 。 日 本 万 博 協 会 会 長 石 坂 泰 三 」( 城 山[1995]299 頁 、筆 者 抜 粋 ) 1975(昭和 50)年 3 月 9 日、石坂は 死去 する 。土光敏 夫が 委員長 を務 めた葬 儀は 武 道 館 で 行 な わ れ た が 、 弔 辞 は 土 光 の み だ っ た 。 会 場 で は ボ ー イ ス カ ウ ト の 少 年 た ち が き び き び と 整 理 に 当 た っ て い た 。最 晩 年 の 石 坂 は ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に 情 熱 を 注 ぐ 溌 剌 と し た ボ ー イ ス カ ウ ト の 少 年 た ち と 成 長 す る 日 本 経 済 の 姿 を 重 ね て い た の か 、 次 代 を 担 う 子 供 の 育 成 に も 心 を 砕 い て い た 。 そ し て 、 没 後 、 石 坂 の 功 績 に 対 し て は 大 勲 位 を 贈 る べ き だ と の 意 見 が あ り 、一 度 は 三 木 武 夫 総 理 も 同 意 す る 。 だ が 、 気 骨 の 人 ・ 石 坂 に 対 し 、 官 は 「 民 間 人 に そ の 前 例 な し 」 と 最 後 に 然 る べ く 報 い た の で あ っ た 。

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土 光 敏 夫

ミ スター合 理 化

のエンジニア魂 ―

[冊子 には 「土 光敏 夫」 の写真 を掲 載] 土 光 敏 夫 略 年 譜 1896(明治 29) 年 0 歳 岡山 県御 津郡 ( 現・岡 山市 )生ま れ 1920(大正 9)年 24 歳 東京 高等 工業 学 校機械 科( 現・東 京工 業大学 )卒 業 石川 島造船 所に 入社 1922(大正 11) 年 26 歳 スイ ス・ チュ ー リヒの エッ シャー ウイ ス社に 留学 1937(昭和 12) 年 41 歳 石川 島芝 浦タ ー ビン、 取締 役に就 任 1946(昭和 21) 年 50 歳 石川 島芝 浦タ ー ビン、 社長 に就任 1950(昭和 25) 年 54 歳 石川 島重 工業 、 社長に 就任 1954(昭和 29) 年 58 歳 造船 疑獄 で、 逮 捕 1960(昭和 35) 年 64 歳 播磨 造船 所と 合 併し石 川島 播磨重 工業 、社長 に就 任 1964(昭和 39) 年 68 歳 石川 島播 磨重 工 業、社 長を 退任 1965(昭和 40) 年 69 歳 東芝 、社 長に 就 任 1972(昭和 47) 年 76 歳 東芝 、会 長に 就 任 1974(昭和 49) 年 78 歳 経団 連、 会長 に 就任( ∼1980) 1976(昭和 51) 年 80 歳 東芝 、会 長を 退 任 1981(昭和 56) 年 85 歳 第二 次臨 時行 政 調査会 、会 長に就 任 1988(昭和 63) 年 91 歳 死去

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第 二 次 臨 時 行 政 調 査 会 ( 以 下 、 臨 調 と 略 ) 会 長 と し て 、 そ の 質 素 な 暮 ら し ぶ り か ら メ ザ シ の 土 光 さ ん な ど と 呼 ば れ 、 日 本 中 か ら 広 く 慕 わ れ た 土 光 敏 夫 で あ る 。 石 油 危 機 後 の 調 整 期 に 経 済 団 体 連 合 会 ( 以 下 、 経 団 連 と 略 ) 会 長 と し て 、 日 本 経 済 を 「 省 資 源 」、「 省 エ ネ 」、「 省 力 」 へ と 大 き く 方 向 転 換 さ せ る 旗 振 り 役 を 務 め 、 さ ら に は 臨 調 会 長 と し て 国 鉄 、 電 電 公 社 の 民 営 化 へ の 道 す じ を つ け る な ど の 行 政 改 革 の 推 進 者 と し て の 晩 年 の 活 躍 が 有 名 な 土 光 で あ る が 、 も と も と は タ ー ビ ン 設 計 一 筋 の エ ン ジ ニ ア だ っ た 。 石 川 島 播 磨 重 工 業 の 前 身 で あ る 東 京 石 川 島 造 船 所 に 就 職 し て 4 5 年 間 務 め 上 げ た 後 、 東 芝 会 長 で あ っ た 石 坂 泰 三 の 強 い 推 薦 で 減 配 続 き で 経 営 不 振 に 陥 っ て い た 東 芝 の 社 長 に 就 任 し た 。 そ の ト ッ プ ・ セ ー ル ス ぶ り か ら 、石 川 島 播 磨 重 工 業・社 長 の 時 代 に は ミ ス タ ー・ダ ン ピ ン グ 、東 芝・社 長 の 時 代 に は 土 光突 撃体制 など と異 名を 取るほ どの モーレ ツ経 営者で あっ た。 そ の 一 方 で 、 経 営 者 ・ 土 光 敏 夫 を 理 解 す る 上 で 、 エ ン ジ ニ ア と し て の 合 理 性 と 仏 教 へ の 深 い 帰 依 に つ い て 無 視 す る こ と は で き な い 。 ミ ス タ ー 合 理 化 と も 渾 名 さ れ た 土 光 は 、「 設 計 を 長 く 手 が け て い る と 、お か し な 部 分 は す ぐ わ か る 。設 計 は 、 A か ら 始 め て Z に 至 る ま で 、 一 つ 一 つ 、 合 理 的 に き ち ん と 積 み 重 ね る 。 一 ヵ 所 で も い い 加 減 な 部 分 や ゴ マ 化 し は き か な い 。 そ う い う 手 続 き や プ ロ セ ス を 永 年 経 験 し て い る の で 」( 土 光[1982]391 頁 )と説明 し、 無 私の人 との信 頼 に対し ては 、 「『 個 人 は 質 素 に 、社 会 は 豊 か に 』と い う 母 の 教 え を 忠 実 に 守 っ た 」( 小 島[2006]23 頁 ) だ け と 答 え て い る 。 1 . 専 門 経 営 者への道 程 土 光 敏 夫 は 、1896(明 治 29)年 、岡 山県 御津 郡大野 村( 現・岡山市 大野辻 )に 6 人 兄 弟 の 次 男 と し て 生 ま れ た 。 長 男 が 一 歳 で 病 死 し て い る た め 、 実 質 的 な 長 男 と し て 育 っ た 。 総 本 家 は 三 百 町 歩 も の 土 地 持 ち で 、 代 々 庄 屋 を 務 め た り 、 明 治 に な っ て か ら は 村 長 を し た 者 も い た 。 父 ・ 菊 次 郎 の 兄 が 継 い だ 本 家 も 百 町 歩 ほ ど の 土 地 持 ち で あ っ た が 、 土 光 家 そ の も の は 、「 中 の 上 く ら い の 農 家 」( 土 光[1982]348 頁 ) だ っ た と い う 。 菊 次 郎 は 三 男 で あ っ た た め 、 形 式 的 に 一 族 の 未 亡 人 ま ち の 養 子 と な っ て い る 。 当 時 の 長 男 に は 何 か と 便 益 が あ っ た か ら で あ ろ う 。 一 方 で 、 後 に 学 校 法 人 ・ 橘 学 苑 の 創 立 者 と な る 母 ・ 登 美 は 子 育 て に 胎 教 を 取 り 入 れ た り 、 病 気 の と き に は 現 代 医 学 を 頼 る な ど 、当 時 と し て は 進 取 の 気 概 に 富 ん だ 女 性 だ っ た 。 岡 山 一 帯 は 、 備 前 法 華 と い わ れ る 日 蓮 宗 の 信 仰 厚 い 地 域 で あ る 。土 光 の 両 親 も そ の 例 に も れ ず 熱 心 な 信 者 で 、 物 心 つ い て か ら は 土 光 も 両 親 と と も に 法 華 経 を 唱 え さ せ ら れ た と い う 。 父 ・ 菊 次 郎 は 信 心 も 厚 く 、 村 人 か ら 「 ホ ト ケ の 菊 次 郎 さ ん 」 と 呼 ば れ る ほ ど 信 用 も 集 め て い た が 、 生 来 頑 健 な 体 で は な く 、 父 親 か ら 譲 り 受 け た お よ そ 一 町 歩 の 田 畑 を 小 作 に 出 し 、 街 と 近 隣 の 農 家 と の 間 で 米 や 肥 料 な ど を 扱 う 小 売 り 卸 を 家 業 と し て 営 ん で い た 。 自 宅 の 前 か ら 岡 山 の 中 心 部 に 通 じ る 掘

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割 に 小 舟 を 浮 か べ 、 こ れ を 陸 上 か ら 綱 で 曳 く と い う の が 運 搬 手 段 で あ っ た 。 往 路 に は 米 を 、 帰 路 に は 肥 を 積 ん で 、 徒 歩 で 往 復 二 時 間 の 道 の り を 肩 に 綱 を か け て 曳 く の で あ る 。 長 男 で あ る 土 光 も 、 こ の 仕 事 を よ く 手 伝 っ た 。 尋 常 小 学 校 を 終 え た 土 光 は 、 県 立 岡 山 中 学 を 受 験 し て 失 敗 す る 。 こ の 後 、 尋 常 高 等 科 に 進 み 、 合 計 三 回 受 験 す る が す べ て 失 敗 し 、 県 立 を 諦 め 私 立 の 関 西 中 学 に 進 学 す る 。 関 西 中 学 は 教 育 熱 心 な 学 校 と し て 定 評 が あ り 、 こ こ で 向 学 心 に 目 覚 め た 土 光 は 優 秀 な 成 績 で 卒 業 す る 。し か し 、「 な ん の 心 配 な く 上 級 学 校 へ 進 め る ほ ど 裕 福 で は な か っ た 」( 土 光[1982]353 頁 )た め、大 学進 学で はなく 早く社 会に 出る こ と の で き る 専 門 学 校 進 学 を 選 択 す る 。 そ こ で 、 理 数 系 が 得 意 で あ る こ と か ら 高 等 工 業 を 目 指 す こ と と し 、そ の 最 難 関 校・東 京 高 等 工 業 学 校( 現・東 京 工 業 大 学 ) 機 械 科 を 受 験 す る が 、 こ こ で も 不 合 格 と な る 。 故 郷 の 小 学 校 で 代 用 教 員 を し な が ら 受 験 勉 強 に 励 み 、 翌 1917(大正 6)年、 今度 はトッ プで 合格す る。 日 本 の 工 業 教 育 の 始 祖 と い わ れ る 手 島 精 一 が 立 て た 東 京 高 等 工 業 学 校 の 教 育 方 針 は 、 無 試 験 、 無 採 点 、 無 賞 罰 で あ る 一 方 、 机 上 の 理 論 よ り も 「 実 践 で 役 立 つ 技 術 」 を と い う も の で 、 作 業 服 に 身 を 包 ん だ 土 光 も 徹 底 的 に 鍛 え ら れ た 。 母 ・ 登 美 は 、「 一 年 に 一 反 ず つ 土 地 を 売 っ て 、敏 夫 の 学 費 に 充 て て や る 」と 言 っ て 送 り 出 し て く れ た も の の 、 周 囲 の 抵 抗 も か な り あ っ た ら し く 、 三 年 間 の 高 校 生 活 は 読 書 と 実 験 と ア ル バ イ ト に 明 け 暮 れ る と い う 慎 ま し い も の だ っ た 。 若 き 日 の 土 光 の さ さ や か な 楽 し み は 、 ボ ー ト の 応 援 と 寄 席 通 い 、 そ し て そ の 帰 途 に 食 べ る 桜 も ち と 立 ち 食 い の す し だ っ た 。 1920(大 正 9)年 、東 京 高工 を卒 業し 、 東京 石 川島 造船 所に 就 職す る 。ち ょう ど 第 一 次 世 界 大 戦 の 好 況 の 反 動 を 受 け た 大 不 況 期 で あ っ た が 、 専 門 技 術 を 持 つ 蔵 前 ( 東 京 高 工 の 通 称 )出 は 引 く 手 あ ま た で あ っ た 。生 長 を 務 め て い た と い う 責 任 感 か ら 同 級 生 の 落 ち 着 き 先 を 見 送 っ た 後 の 選 択 で あ る 。 当 時 の 学 生 に 人 気 の 満 鉄 の 初 任 給 が 2 0 0 円 だ っ た の に 比 べ 、石 川 島 は 4 5 円 と 低 か っ た が 、「 技 術 屋 と し て い か し て く れ る な ら 、選 り 好 み は し な い つ も り で い た 」( 土 光[1982]369 頁 )と 振 り 返 っ て い る 。 東 京 石 川 島 造 船 所 は 、 当 時 と し て は 非 常 に ユ ニ ー ク な 経 営 を し て い る 会 社 だ っ た 。 造 船 所 と い う 社 名 で は あ っ た が 、ボ イ ラ ー 、発 電 機 、蒸 気 機 関 や 製 糸 機 械 な ど 機 械 製 造 の 分 野 に 多 角 化 し て お り 、 土 光 が 配 属 さ れ た の も タ ー ビ ン の 設 計 部 門 だ っ た 。「 月 給 を も ら う た め だ け な ら 来 る な 、仕 事 を 趣 味 と す る 奴 だ け 来 い 」と い う 雰 囲 気 の 職 場 は 楽 し か っ た も の の 、 ド イ ツ 語 の 科 学 雑 誌 や 資 料 に 向 か い な が ら の タ ー ビ ン 設 計 の 毎 日 は 睡 眠 時 間 が 五 時 間 し か 取 れ な い 日 々 で も あ っ た 。 入 社 か ら 一 年 半 後 の 1922(大正 11)年 、土 光はス イ スのエ ッシ ャーウ イス 社への 研究 留 学 を 命 じ ら れ る 。 二 年 半 に 及 ぶ ス イ ス 滞 在 は 現 地 の 技 師 た ち と 議 論 し 、 現 場 で 油 に ま み れ て 働 く と い う 充 実 し た も の で あ っ た 。 帰 国 後 、 土 光 は 石 川 島 の 取 締 役 ・

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栗 田 金 太 郎 の 長 女 ・ 直 子 と 結 婚 す る 。 こ の 頃 か ら す で に 土 光 は 、 日 本 の 技 術 は 優 秀 で あ る と 考 え て い る 。 も ち ろ ん 、 そ れ は 言 葉 に は 尽 く せ な い 先 人 た ち の 研 鑽 の た ま も の で あ る こ と を 認 識 し た 上 で 、 「 外 国 製 だ っ て 、驚 く ほ ど 優 秀 な も の は 少 な い 」と 感 じ て い た の で あ る 。1930(昭 和 5)年、2 万5 千キ ロ ワット (八 幡製 鉄)、33(昭和 8)年、 5万 3千 キ ロワッ ト(尼 崎 発 電 所)と、土 光は 次 々に記 録的 な大型 機を 製作し た。そ して、芝 浦製 作 所 (現 ・ 東 芝)との 共同 出資 で石 川島芝 浦タ ービン が設 立され ると 技術部 長 、後に取 締役 と な る 。 間 も な く 、 第 二 次 世 界 大 戦 が 始 ま る と 、 石 川 島 芝 浦 タ ー ビ ン は 軍 需 工 場 に 指 定 さ れ 、航 空 機 用 の 排 ガ ス タ ー ビ ン や 過 給 機 な ど を 製 造 す る 。戦 況 の 悪 化 と と も に 、 工 場 は 戦 災 で 痛 め つ け ら れ 、 熟 練 工 は 召 集 さ れ 、 作 業 能 率 も 落 ち て い っ た 。 終 戦 を 迎 え て 、 工 場 再 建 に 奔 走 し て い る と 、 今 度 は パ ー ジ に よ っ て ト ッ プ が 追 放 さ れ る 。46(昭和 21)年 、土 光は石 川島 芝浦タ ービ ンの社 長に 就任し た。50歳 のと き で あ っ た 。 鍋 や 釜 の 類 を 作 っ て 、 ま ず は 従 業 員 の 生 活 を 確 保 し た が 、 社 長 と し て 土 光 が 一 番 苦 労 を し た の は 資 金 繰 り だ っ た 。 猛 烈 な イ ン フ レ に 加 え て 、 ド ッ ジ ・ ラ イ ン で あ る 。 銀 行 に は 融 資 を 、 通 産 省(現 ・ 経 済 産 業 省 )に は 補 助 金 を 求 め て 、 目 的 が 遂 げ ら れ る ま で 引 き 下 が ら な か っ た 。 土 光 の 努 力 の 甲 斐 も あ り 、 石 川 島 芝 浦 タ ー ビ ン は 親 会 社 で あ る 石 川 島 重 工 業(石 川 島 造 船 所 を 改 称 )よ り 早 く 立 ち 直 る こ と が 出 来 た 。 転 機 は 、1950(昭和 25)年に訪 れた。巨額 の赤 字を出 し、経 営危 機に 陥って いた 石 川 島 重 工 業 に 社 長 と し て 呼 び 戻 さ れ た の で あ る 。 就 任 は 、 6 月 24 日。 朝鮮 戦 争 の 始 ま る 前 日 の こ と で あ っ た 。 エ ン ジ ニ ア と し て の 合 理 性 を も っ て 提 出 さ れ た 稟 議 書 や 企 画 書 を 徹 底 的 に チ ェ ッ ク す る 。 す る と 、 そ の 過 程 で 経 費 は 大 幅 に 削 減 さ れ て い っ た の で あ る 。 日 本 一 の ケ チ 会 社 と い う 評 判 に 浴 す る ほ ど の も の で あ っ た 。 そ し て 、 特 需 ブ ー ム に 乗 っ て 業 績 も 急 回 復 す る 。 本 人 は 幸 運 だ と 謙 遜 す る が 、 石 坂 泰 三 を し て 「 経 営 者 は ラ ッ キ ー な 男 で な け れ ば な ら な い 」 と 言 わ さ し め る 所 以 で あ る 。 し か し 、 人 生 に は 落 と し 穴 も あ っ た 。 朝 鮮 戦 争 の 休 戦 で 造 船 不 況 が 訪 れ る と 、 政 府 か ら の 利 子 補 給 を め ぐ っ て 巨 額 の リ ベ ー ト が 政 界 に 還 流 し た と す る 造 船 疑 獄 が 発 覚 し た 。 造 船 会 社 社 長 の 一 人 と し て 土 光 も 逮 捕 さ れ た の で あ る 。 後 に 検 事 総 長 と な る 伊 藤 栄 樹 が 担 当 検 事 と し て 土 光 の 取 調 べ に あ た っ た が 、 そ の 質 素 な 暮 ら し ぶ り と 毅 然 と し た 態 度 に は 土 光 の 無 罪 を 直 観 し た だ け で な く 、「 あ の 人 は も っ と 偉 く な る 」 と 予 感 さ せ た と い う 。 結 果 は も ち ろ ん 不 起 訴 と な っ た が 、 二 十 日 間 の 拘 留 生 活 を 余 儀 な く さ れ 、 土 光 は 「 つ ね に 身 ぎ れ い に し 、 し っ か り と し た 生 き 方 を し て お か ね ば な ら な い 」( 土 光[1982]394 頁)と 自らを 戒め て いる。 あ ら ぬ 嫌 疑 を 受 け て 、 疑 獄 事 件 に 巻 き 込 ま れ る と い う 想 定 外 の ア ク シ デ ン ト も

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あ っ た が 、石 川 島 重 工 業 の 社 長 と し て の 土 光 の 仕 事 振 り は 充 実 し た も の で あ っ た 。 造 船 不 況 に 苦 し む 石 川 島 重 工 業 を 救 っ た の は 、 海 外 か ら の 受 注 、 特 に ブ ラ ジ ル と の 取 引 だ っ た 。 石 川 島 重 工 業 と ブ ラ ジ ル と の 関 係 は 1950(昭和 25)年に始 まっ た も の で 、 ま ず 「 サ ル テ プ ラ ン 」 と い う ブ ラ ジ ル の プ ロ ジ ェ ク ト の 一 環 で 3 隻 の タ ン カ ー を 受 注 し た 。こ れ ら の 船 は 翌 年 に か け て 納 入 さ れ る が 、 船 台 に 一 隻 も 影 な し と ま で い わ れ た 状 況 の 中 で 、 貴 重 な 注 文 で あ っ た 。 こ れ を 機 に 、 ブ ラ ジ ル と の 関 係 も 拡 大 す る 。 海 軍 か ら 貨 物 船 兼 輸 送 船 2 隻 を 受 注 、54(昭和 29)年 に納 入する が、こ の船 が運 航中に 操船 ミスか ら岸 壁に衝 突し た。 と こ ろ が 、 コ ン ク リ ー ト 製 の 岸 壁 こ そ 壊 れ た も の の 、 船 の 方 は ビ ク と も し な か っ た こ と か ら 石 川 島 重 工 業 の 技 術 が 高 く 評 価 さ れ る こ と と な り 、 後 に ブ ラ ジ ル 海 軍 工 廠 と の 技 術 提 携 や 施 設 拡 充 工 事 の 受 注 へ と 繋 が る 。 こ れ ら は さ ら に 発 展 し て 、 ブ ラ ジ ル 政 府 か ら 造 船 所 建 設 の プ ロ ジ ェ ク ト が 持 ち 込 ま れ る 。 日 ・ 伯 両 国 で の 反 対 運 動 も あ っ た が 、58(昭和 33)年 、石 川島 ブ ラジル 造船 所(通 称・ イシブ ラス ) が 設 立 さ れ る 。61(昭 和 36)年 に建 造第 一号 船を送 り出 すこと にな るイシ ブラ スは、 や が て 中 南 米 一 の 造 船 所 へ と 発 展 し て い く が 、 現 地 で は 「 イ シ コ ー ラ ( 石 川 島 学 校 )」と も 呼 ば れ て 技 術 者 養 成 と い う 観 点 か ら も ブ ラ ジ ル の 発 展 に 貢 献 し た 。こ の よ う な ブ ラ ジ ル と の つ き あ い の 中 で 、 土 光 は 移 住 の 夢 を 育 ん だ の で あ る 。 ま た 、 ゼ ネ ラ ル ・ エ レ ク ト リ ッ ク ( G E ) 社 か ら 航 空 機 用 ガ ス タ ー ビ ン 、 船 舶 用 ガ ス タ ー ビ ン の 技 術 を 導 入 す る な ど 、 国 外 か ら 最 新 式 の 技 術 を 導 入 し て 技 術 力 を 向 上 さ せ る こ と に も 積 極 的 に 取 り 組 ん だ 。 一 方 で 、 国 内 で は 大 型 合 併 を 実 現 さ せ る こ と で 競 争 力 の 強 化 に も 努 め て い る 。1960(昭和 35)年の播 磨造 船所と の合 併 で あ る 。 当 時 、 陸 上 部 門 が 8 割 の 売 上 を 担 っ て い た 石 川 島 重 工 業 で あ る が 、 土 光 は 造 船 会 社 と し て 「 ゆ く ゆ く は 十 万 ト ン 以 上 の 大 型 船 必 至 と み て い た 」( 土 光 [1982]400 頁)。し かし 、隅田 川河 口と いう立 地条件 から 大型タ ンカ ー建造 の設 備 を 持 つ こ と が 制 約 さ れ て い た の で あ る 。 片 や 、 造 船 比 率 が 9 割 を 超 え る 播 磨 造 船 所 は 折 か ら の 造 船 不 況 で 売 上 が 半 分 以 下 に 落 ち 込 み 、 陸 上 部 門 へ の 進 出 を 図 っ て い る と こ ろ で あ っ た 。 相 互 補 完 性 の 高 い 大 型 合 併 は こ う し て 成 立 し 、 土 光 は 新 会 社 ・ 石 川 島 播 磨 重 工 業 ( I H I ) の 社 長 と な っ た の で あ る 。 播 磨 造 船 所 に は 、 真 藤 恒 ( 後 に 、 I H I 社 長 、 N T T 社 長 ) と い う 天 才 エ ン ジ ニ ア が い た 。 戦 時 中 に 海 軍 艦 政 本 部 へ と 移 籍 し 、 戦 後 は 、 広 島 に あ る N B C 呉 造 船 所 で 活 躍 し て い た 真 藤 を 、 土 光 は 合 併 と 同 時 に 東 京 へ と 呼 び 寄 せ た 。 真 藤 は 船 舶 を 球 状 に す る こ と で 鋼 材 の 使 用 量 を 削 減 す る 経 済 船 型 と い う 画 期 的 な 考 案 を 実 現 し た 。 ま た 、 船 体 を ブ ロ ッ ク ご と に ユ ニ ッ ト 化 し た り 、 配 管 パ イ プ を 曲 げ る 角 度 を 統 一 す る こ と で 部 品 点 数 を 減 ら し た り す る な ど 、 そ れ ま で の 固 定 概 念 を 打 ち 破 る こ と で 、低 コ ス ト で の 船 舶 建 造 を 可 能 に し た 。1963(昭和 38)年、石川 島 播 磨 重 工 業 は 、 建 造 数 2 0 隻 、 4 5 万 9 0 7 0 総 ト ン を 進 水 さ せ 、 造 船 世 界 一

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の 座 を 射 止 め る こ と と な る 。 社 長 自 ら が ト ッ プ ・ セ ー ル ス し た こ と も あ っ て 、 土 光 が ミ ス タ ー ・ ダ ン ピ ン グ と の 異 名 を 取 り 、 あ ら ぬ 誤 解 を 招 い た の も こ の 頃 の こ と で あ っ た 。 ち な み に 、 土 光 は 低 コ ス ト の 船 を 開 発 し て 受 注 競 争 に 勝 っ た の で あ り 、「 決 し て 、赤 字 受 注 は し て い な い 」( 土 光[1982]408 頁)と反 論して いる 。 1964(昭和 39)年、土光 は「思い 残す こと もな く」十四 年間 余り 座り つづけ た社 長 の 椅 子 を 田 口 連 三 に 譲 る 。 余 生 は 、 妻 と 二 人 で 畑 を 耕 し な が ら 送 ろ う と ブ ラ ジ ル に 土 地 を 探 す の で あ っ た 。 4 . 東 芝の 社 長として 新 た な 転 機 を 土 光 敏 夫 に も た ら し た の は 、 土 光 が 「 知 識 の 深 さ 、 人 間 の 幅 の 広 さ 、人 を 見 る 目 、す ば ら し い 大 局 観 な ど 、学 ぶ こ と は 、な に も か も で あ っ た 」( 土 光[1982]419 頁) と尊 敬する 第二 代経団 連会 長で同 時に 東芝・ 会長 を務め てい た 石 坂 泰 三 だ っ た 。 業 績 が 振 る わ ず 、 減 配 が 続 く 東 芝 の 建 て 直 し を 懇 請 さ れ た の で あ る 。 1965(昭和 40)年、土光 は東芝 の社 長に就 任す る。就任 後す ぐに、や やもす ると 名 門 意 識 が 強 く 、覇 気 に 乏 し い 東 芝 の 社 員 た ち に 、「 一 般 社 員 は 、こ れ ま で よ り 三 倍 頭 を 使 え 、 重 役 は 十 倍 働 く 、 私 は そ れ 以 上 に 働 く 」 と 檄 を 飛 ば す 。 実 際 に 、 自 ら は 毎 朝 七 時 半 に は 出 社 し 、 初 出 社 の 日 に は 受 付 で 「 ど な た で し ょ う か ? 」、「 こ ん ど 御 社 の 社 長 に 就 き ま し た 土 光 と い う 者 で す 。」と の 珍 妙 な や り 取 り が 交 わ さ れ た と い う エ ピ ソ ー ド も 残 っ て い る 。 東 芝 で の 土 光 は 、 ま ず 「 チ ャ レ ン ジ ・ レ ス ポ ン ス 経 営 」 を 標 榜 し 社 員 の 意 識 改 図2. 東芝の売上高と当期利益 0 100000 200000 300000 400000 500000 600000 700000 昭和39年度昭和40年度昭和41年度昭和42年度昭和43年度昭和44年度昭和45年度昭和46年度昭和47年度 売上高(百万円) 0 5000 10000 15000 20000 25000 当期利益(百万円) 出 所 : 東 京 芝 浦 電 気 株 式 会 社 編[1977]『東 芝 百年史 』よ り筆者 作成

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革 を 求 め る と と も に 、 機 構 改 革 を 行 っ て 権 限 委 譲 を 行 う と と も に 意 思 決 定 の 迅 速 化 を 図 る ( 東 芝[1977])。「チ ャ レ ンジ ・ レス ポン ス 」 とは 、 権限 を 事業 部 に 全面 的 に 委 譲 す る が 、 目 標 を 達 成 出 来 な か っ た と き 、 な ぜ 出 来 な か っ た の か の 説 明 を 要 求 ( チ ャ レ ン ジ ) し 、 同 時 に 素 早 い 反 応 ( レ ス ポ ン ス ) を 求 め る 、 と い う デ ィ ス カ ッ シ ョ ン の シ ス テ ム で あ る 。 土 光 は こ の シ ス テ ム を 、 社 長 と 事 業 部 間 の も の だ け で な く 、 す べ て の 社 員 間 で の 関 係 に も 応 用 す る こ と で 、 最 終 的 な 責 任 は ト ッ プ が と る も の の 、 仕 事 の 上 で は 社 長 も 社 員 も 同 格 な の だ と い う 意 識 付 け を も 狙 っ て い た 。 そ し て 、 現 場 を 重 視 し た 。 当 時 の 東 芝 は 、 全 国 に 三 十 を 超 え る 工 場 や 営 業 所 を 持 っ て い た が 、 実 態 を 把 握 す る た め に と 、 仕 事 の 合 間 を ぬ っ て 夜 行 列 車 を 利 用 し て 全 国 を 行 脚 し た 。 エ ン ジ ニ ア 出 身 の 土 光 に と っ て は 、 現 場 の 従 業 員 と 話 し 合 う こ と 自 体 が 、 と て も 楽 し み な こ と で あ っ た が 、 ト ッ プ が 訪 れ る こ と な ど 滅 多 に 無 か っ た 各 工 場 か ら は 熱 烈 に 歓 迎 さ れ た 。 も っ と も 、 現 場 が 一 番 驚 か さ れ た の は 、 設 計 か ら 製 図 、 製 品 化 に 至 る ま で 問 題 点 を 的 確 に 把 握 す る 、 あ ら ゆ る 技 術 に 通 暁 す る 土 光 の 知 識 の 豊 富 さ で あ っ た 。 ま た 、 営 業 面 で は 、 社 長 も 社 員 も 皆 同 格 で あ る こ と を 率 先 垂 範 し て 実 行 し 、 石 川 島 播 磨 重 工 業 時 代 と 同 様 に 社 長 セ ー ル ス も 続 け た 。要 望 が あ れ ば 、「 部 下 か ら の チ ャ レ ン ジ な の だ か ら 、私 は 黙 っ て レ ス ポ ン ス す る 」( 土 光[1982]414 頁)と 語っ ている 。 そ う し て い る と 、 土 光 に ま た も や 幸 運 の 女 神 が 微 笑 む 。 社 長 就 任 後 、 間 も な く 「 い ざ な ぎ 景 気 」 が 到 来 す る の だ っ た 。 こ の 好 況 の 波 に も 乗 っ て 、 土 光 率 い る 東 芝 の 業 績 も 急 激 に 回 復 す る 。1967(昭和 42)年 3月期 には 当期利 益3 3億円 を計 上 し 、増 配 を 果 た す 。以 後 、二 年 連 続 で 増 配 し 、69(昭和 44)年 9月 期 には1 割2分 配 当(半期 )を 実現 し、同下期 には 売上高 が 2869 億円と 過去最 高と な り、当 期利 益 も 1 0 2 億 円 を 計 上 す る 。 ち な み に 、 年 間 売 上 高 で も 五 千 億 円 を 超 え 、 半 期 決 算 で 8 期 連 続 の 増 収 増 益 を 記 録 し た 。 1972(昭和 47)年 、本 人曰く 、「当 初、 考え ていた より は長い 年月 が経過 した 」 が 、「 も う 東 芝 は 大 丈 夫 と い う 見 通 し が 持 て た の で 」( 土 光[1982]417 頁 )、東 芝 ・ 社 長 を 退 任 す る 。土 光 の 再 建 は 、ま た し て も 成 功 を 収 め た の だ っ た 。 ミ ス タ ー 合 理 化 の 面 目 躍 如 で あ る 。 5 . 『メザシの土 光さん』 1974(昭和 49)年、土光 敏夫は 経団 連・第 四代 会長に 就任 する。すで に、八 十歳 で あ っ た 。 土 光 は 、 経 団 連 ・ 会 長 退 任 時 の 石 坂 泰 三 か ら 指 示 さ れ て そ の 6 年 前 か ら 副 会 長 を 務 め て い た が 、 会 長 就 任 に あ た っ て も 再 び 石 坂 の 強 い 推 薦 が あ っ た と 言 わ れ て い る 。 石 坂 本 人 は 、 公 式 に は 「 ブ ラ ジ ル で 牧 場 を や り た い と い っ て い る か ら 好 き に さ せ れ ば い い 」 と 発 言 し て い る が 、 ま た し て も 石 坂 の 介 入 で 土 光 の ブ

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ラ ジ ル 行 き は 叶 わ ぬ こ と と な る 。会 長 就 任 前 後 、「 石 坂 泰 三 」と い う 答 を 期 待 し た 記 者 た ち か ら の 「 尊 敬 す る 人 物 は ? 」 と い う 質 問 が よ く 出 た 。 こ れ に 対 し て 、 土 光 は 「 特 に こ れ と い っ た 尊 敬 す る 人 物 は こ し ら え な い こ と に し て い る 」 と 答 え て い る が 、「 石 坂 は ? 」と 聞 か れ る と 、素 直 に「 特 別 に 好 き な 人 で 、私 は こ の 人 に ど れ だ け 教 わ っ た か 、 は か り 知 れ な い 」( 土 光[1982]418 頁)と 答え ている 。 土 光 が 経 団 連 の 会 長 に な っ た の は 、 前 年 に 起 き た 石 油 シ ョ ッ ク に 加 え て ロ ッ キ ー ド 事 件 が 発 生 す る と い う 経 済 乱 世 と も い え る 時 代 で あ っ た 。 石 油 シ ョ ッ ク に 意 気 消 沈 す る 経 営 者 と ロ ッ キ ー ド 事 件 に か か り き り の 政 界 を 相 手 に 、 土 光 は 行 動 す る 経 団 連 の 旗 を 掲 げ て 全 国 を 行 脚 し 、「 省 エ ネ ル ギ ー 」、「 省 力 化 」経 営 を 提 唱 す る と と も に 自 民 党 幹 部 や 関 係 官 庁 に も 精 力 的 に 進 言 と 要 望 を 繰 り 返 す 。 当 時 、 自 民 党 副 総 裁 で 経 済 企 画 庁 長 官 を 務 め て い た 福 田 赳 夫 は 、「 ド コ ウ(土光)さん では な く て 、ド ゴ ウ(怒 号)さんだ 」と 述懐し てい る。政 治献 金につ いて も、「 保守党 が 正 道 を 歩 ん で も ら い た い が た め に 、正 論 を 」( 土 光[1982]423 頁)吐 く。政治 献金 を 個 人 の レ ベ ル で と い う 主 張 は 、「 政 治 オ ン チ 」、「 書 生 っ ぽ 」と の 批 判 も 浴 び る が 、 少 な く と も 世 論 は 土 光 を 支 持 す る の で あ っ た 。 1980(昭和 55)年 、土 光 は経団 連・ 会長を 稲山 嘉寛(当時 ・新 日本 製鉄 会長)に譲 り 、 退 任 す る 。 し か し な が ら 、「 楽 し い 余 生 は ま た 遠 い 夢 と な っ た 」 の で あ っ た 。 経 団 連・会 長 と し て 行 政 改 革 の 必 要 性 を 訴 え て い た 土 光 が 、行 政 管 理 庁 長 官(当時 ) の 中 曽 根 康 弘 に 臨 調 会 長 就 任 を 口 説 か れ る 。 格 好 の シ ン ボ ル だ っ た の で あ る 。 鈴 木 善 幸 総 理(当 時)から も要請 され 、引き 受け ること とな る。 メザ シの土 光さ ん を 一 躍 有 名 に し た N H K の テ レ ビ 番 組 『 八 五 歳 の 執 念 行 革 の 顔 土 光 敏 夫 』 が 放 映 さ れ る の は 、翌 々82(昭和 57)年の ことで ある。当時 、行政 改革 は景気 を悪 く す る と 非 難 す る 声 も 大 き か っ た こ と か ら 、 臨 調 会 長 の 清 新 さ を P R す る た め も あ り 、 や む な く 取 材 に 応 じ た の で あ っ た 。 経 済 界 の 大 物 と し て の 華 麗 な 経 歴 と そ の 慎 ま し い 生 活 ぶ り の ギ ャ ッ プ が 反 響 を 呼 び 、 臨 調 、 ひ い て は 行 政 改 革 へ の 国 民 か ら の 大 き な 信 頼 を 勝 ち 取 る に 至 っ た の だ っ た ( 中 曽 根[1996])。 1986(昭和 61)年 、二年 間の臨 調会 長とそ の後 三年間 の臨 時行政 改革 推進審 議会 (通称・行革 審)会長を 勤め上 げた 土光は 、「 国民の 皆様 へ」と題 す るメッ セー ジを 添 え て 引 退 す る 。 「 私 自 身 は 、2 1 世 紀 の 日 本 を 見 る こ と は な い で あ り ま し ょ う 。し か し 、 新 し い 世 代 で あ る 、 私 達 の 孫 や 曾 孫 の 時 代 に 、 我 が 国 が 活 力 に 富 ん だ 明 る い 社 会 で あ り 、 国 際 的 に も 立 派 な 国 で あ る こ と を 、 心 か ら 願 わ ず に は い ら れ な い の で あ り ま す 。」 そ の 年 の 秋 、 土 光 は 尊 敬 し て や ま な い 石 坂 泰 三 も 没 後 に な っ て し か 成 し 遂 げ る こ と が で き な か っ た 栄 誉 に 浴 す る 。 民 間 人 と し て は 初 の 生 前 受 賞 と な る 勲 一 等 旭 日 桐 花 大 授 賞 を 受 け た の で あ っ た 。

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おわりに 石 坂 泰 三 と 土 光 敏 夫 は 、 と も に 東 芝 の 社 長 経 験 者 で 経 団 連 会 長 も 務 め た 。 豊 富 な ビ ジ ネ ス 経 験 と そ の 能 力 ゆ え に 晩 年 に は 財 界 人 と し て だ け で な く 、政 財 界 の「 ご 意 見 番 」 と し て も 重 要 な 役 割 を 果 た し た 。 や や も す れ ば 、 経 営 者 と し て の そ の 経 歴 と 、 政 財 界 へ の 大 き な 影 響 力 ゆ え 、 た だ た だ 偉 大 な 人 物 で あ っ た と の 前 提 で み な さ れ る こ と が 多 い 。 し か し 、 実 際 に は 二 人 と も 決 し て 恵 ま れ た 出 身 や 経 歴 の 持 ち 主 で は な い こ と が わ か っ た 。 彼 ら の 発 揮 し た リ ー ダ ー シ ッ プ は 、 ア メ リ カ 的 な 産 業 の 統 帥 と し て の も の で も 、 イ ギ リ ス 的 な 誇 り 高 き 紳 士 と し て の も の で も な か っ た 。 ど ち ら か と 言 う な ら ば 、 二 人 は 日 本 の 経 営 の 伝 統 に 即 し た 、 産 業 人 と し て の 強 い 人 格 の 持 ち 主 で あ る こ と が 、 そ の 特 徴 と い え よ う 。 二 人 の 出 自 や 経 歴 に つ い て だ け 見 る な ら ば 、 東 京 出 身 と 地 方 出 身 、 帝 国 大 学 卒 の エ リ ー ト 官 僚 と 高 等 工 業 学 校 卒 の エ ン ジ ニ ア 、 で あ る な ど 大 き く 異 な る 点 が 多 く 、 経 営 者 と し て の タ イ プ と い う 点 に お い て も そ の リ ー ダ ー シ ッ プ の 発 揮 の し か た な ど 相 違 は 大 き い 。 と こ ろ が 、 よ り 本 質 的 な 側 面 、 す な わ ち 人 間 的 な 部 分 に 注 目 す る な ら ば 、 石 坂 、 土 光 と も に 、 我 執 を 離 れ て 、 誠 実 で 、 金 銭 的 に も 恬 淡 と し て い た と こ ろ な ど 共 通 点 も 多 い 。 二 人 は と も に 、 企 業 の 創 業 者 で も 、 所 有 者 で も な い 専 門 経 営 者 で あ っ た が 、 経 営 危 機 に 陥 っ て い た 東 芝 を 再 建 す る こ と を き っ か け に し て 、 そ の リ ー ダ ー シ ッ プ を 確 固 と し た も の に し 、 後 に 財 界 の 指 導 者 と し て 活 躍 す る の で あ る 。 戦 後 日 本 の 経 営 発 展 に 目 を は せ た と き 、 そ れ が 、 ① 終 身 雇 用 ・ 年 功 制 賃 金 ・ 企 業 内 組 合 と い う 制 度 に 裏 付 け ら れ た 企 業 内 部 の 慣 行 、 ② 社 長 を 頂 点 と し た 内 部 昇 進 に よ る 従 業 員 中 心 の コ ー ポ レ ー ト ・ ガ ヴ ァ ナ ン ス 、 ③ 特 定 の 金 融 機 関 あ る い は 企 業 グ ル ー プ 間 で 行 な わ れ る 資 金 調 達 と 株 式 持 合 い 、 ④ ア ッ セ ン ブ ラ ー と サ プ ラ イ ヤ ー と の 長 期 的 な 相 対 取 引 、 に そ の 多 く を 負 っ て い る ( 米 倉[1995])こ と は明 ら か で あ る 。 同 時 に 、 第 二 次 世 界 大 戦 後 の 民 主 主 義 と 資 本 主 義 を 謳 う 各 国 の 経 済 成 長 と そ の 経 営 発 展 を み た と き 、そ こ に は ア メ リ カ と い う 戦 勝 国 の 存 在 と ド ル と い う す べ て の 発 展 途 上 国 に と っ て ほ ぼ 同 質 の 援 助 が あ っ た こ と も 否 定 で き な い 。 そ れ に も 関 わ ら ず 、 各 国 は そ れ ぞ れ 多 様 な 復 興 と 発 展 の 道 を 歩 ん で き た 。 そ れ ぞ れ の 国 々 が も つ 歴 史 や 社 会 の 状 況 が 異 な る と い う こ と は 、 そ こ に 現 出 す る 経 済 主 体 が 多 様 性 を も つ こ と を 意 味 す る と と も に 、 そ れ ぞ れ の 経 済 発 展 を 牽 引 し て き た リ ー ダ ー の 人 間 的 な 要 素 も 重 要 と な る ( 中 川[1981])の で ある 。 石 坂泰 三 や 土 光 敏 夫 は 、 そ の 人 格 と ビ ジ ネ ス 経 験 を 通 し て こ う し た 日 本 の 経 営 や 経 済 社 会 の 本 質 的 な 側 面 を よ く 理 解 し て い た か ら こ そ 、 戦 後 日 本 の 財 界 人 の 中 で も 代 表 的 と も い え る リ ー ダ ー シ ッ プ を 発 揮 し 、 そ の 大 き な 業 績 を 上 げ る こ と が で き た の で あ る 。 シ ュ ム ペ ー タ ー は 、 企 業 家 と は 「 新 結 合 を み ず か ら の 職 能 と し 、 そ の 遂 行 に 当 た っ て 能 動 的 要 素 と な る 経 済 主 体 」( シ ュ ム ペ ー タ ー[1934]111 頁)だと 定

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義 す る 。 日 本 株 式 会 社 と い う 視 点 に 立 っ て み た と き 、戦 後 日 本 の 経 営 発 展 に お い て 石 坂 と 土 光 の 二 人 が 果 た し た 役 割 は ま さ に 企 業 家 の 役 割 そ の も の で あ っ た と い え よ う 。

参 考 文 献

○ テ ーマに つい て

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The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY

〒102-8160 東 京 都 千 代 田 区 富 士 見 2-17-1

TEL: 03(3264)9420 FAX: 03(3264)4690 URL: http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/ E-m a i l: c bi r@a dm. hos e i .a c . jp

表 1   経 団 連 ・ 歴 代 会 長 出 所 : 社 団 法 人 日 本 経 済 団 体 連 合 会 ホ ー ム ペ ー ジ よ り 筆 者 作 成会 長 ( 就 任 時 役 職 )  在 任 期 間  石 川  一 郎 ( 日 産 化 学 工 業 社 長 )      1948 年 3 月 16 日 〜 1956 年 2 月 21 日  石 坂  泰 三 ( 東 京 芝 浦 電 気 社 長 )     1956 年 2 月 21 日 〜 1968 年 5 月 24 日 植 村  甲 午 郎 ( 経

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