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T.H.グリーンの理想主義的自由主義 : 古典的自由主義の転回

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(1)Title. T.H.グリーンの理想主義的自由主義 : 古典的自由主義の転回. Author(s). 吉崎, 祥司. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 48(1): 25-40. Issue Date. 1997-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2102. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第48巻 第1号 lofHokka i do Un i i i Sec Journa tyofEduca i t t Ver s on( on1B)VOL48 ‐1 ,No. 平成9年8月 Au仰s t ,1997. T.H.グリ ー ンの理想主義的自由主 義 - 古典的自由主義の転回 - 吉. 崎. 祥. 司. 北海道教育大学岩見沢枝社会学研究室. はじめに 小 稿 は, イ ギリ ス 理想 主 義 の 代 表 的 思 想 家 トー マス ・ ヒ ル ・ グリ ー ン (Thoma ) の 主 と して l IGreen sHi. 社会・政治理論の概括を試みようとするものである。 古典的自由主義の転回基軸としてのグリーンという定 説は, 近年の研究のなかで少なからず揺らいでおり, その思想の評価は今日 より慎重でなければならない , だろうが, イギリスを中心と した自由主義思想史の鳥職図上の位置づけという視点においては やはり 消 , , 極的自由から積極的自由への, 自由放任主義から干渉主義への 個人主義からある種の集団 (集産) 主義 , ( l l i i t co ec v sm) へ の 自由主 義 の 転 轍 手 と しての グリ ー ンという 地 歩 は動 かな いも の のよう に思 わ れる。. グリーン思想は, 多少とも錯雑 した論理構成や諸命題の両義性ないし振幅の大きさ 折衷性や暖昧さ 分 , , 析的厳密さの欠如などのために, 整理するすることが必ずしも容易 ではない (そのことがグリーン像の揺れ を招 く も と にも な っ て いる)。 グリ ー ンの 論 旨につ い て あ らか じめ 以 下の よう な見 通 しをつ けてお こう , 。. ①グリーンの出発点, 現実的前提は,19世紀後半 「黄金時代」 以降のイギリス社会を覆っ た特権と不自由 , , 失業と貧困, 無知と退廃に対する道徳的憤りである。 ② 理想 主 義 者 グリ ー ン に と っ て 人 間 の最 高 の 目 的 は 「人 格 の 完 成 (er i t e c onofhumancharacter) で あ 」 p f ,. る (とりわけカントの影響)。 そのさい, 本質的に共同的な存在としての人間にあっ て 人格的完成は , , 他 者 にお ける そ の成 就 を も不 可 欠の も の と して いる 。 ③ そう した 人 格 的 自 己 実現 ( l f ) を 可 能 にする も の こそ 「自由」 である 0 S ミ ル の継 承 者 と し l i i se ‐ r ea s ng , .‐ て の グリ ー ン)。 自 由 と は た んなる 「拘 束の 欠如」 (消 極 的 自 由) で は ない , 。. ④諸個人の人格的完成の条件である自由は, しかし 現実にはしばしば制限されており その制限の克服(障 , , 害の除去) は多くの場合個人的努力 の範囲を超えている 。 ⑤かくして国家の介入が期待されるが 国家の市民生活への干渉は 時代の支配的思想たる古典的自由主義 , , ロ ( ックからベンサムまでの, 古典派経済学をを含む自由主義的諸思潮) によっ て忌避されていた 。 ⑥しかし, ヘーゲルの 国家論などを介して再考するならば 国家はたんに権力的抑圧の機関にすぎないのも , の で なく (そう した 傾 向 性 をも つ こ と は疑 い な い と しても) 同 時 に 「共 通 善 ( ) をも体現 一 commongood , して いる も の であ り, 国家 そ れ自 体 がで はな い が そ の機 能 にお い て価 値 をも つ も の であ る , 。. ⑦ちなみ に, 「共通善一 とは人間的人格の相互的形成という 目標を示すが その実現を担保するのは それ , , ゆえ, 一面では最高の価値理念が社会制度に具体化されたもの・いわば相対的善と しての国家 (ヘーゲル の援用) であるが, しかしまた市民の側の自発的な意志 積極的な参加がなければ存在 しないものである , 。 ⑧古典的自由主義は, そう した国家の機能的価値を認めず 自由をもっ ぱら諸個 人の (たんなる) 自己決定 , とみなすことによって, かえっ て社会的分裂と (多数者における) 自由の抑圧をもたらしてきた 。 25.

(3) . 吉. 崎 祥 司. ⑨かくして, 古典的自由主義の自由放任主義, 個人主義が, 万人の平等な人格形成という観点から修正され なければならない。 諸個人の人格的自己実現を保障する現実的条件の整備のために国家的介入が要請され る (ちなみに, 国家の積極的干渉の具体的表現が権利の確保である)。 ⑩ミルによる, 個人の行為の 「自己に関係する領域」 と 「他者に関係する領域」 との区分は現実的には無意 味であり, むしろすべての行為が 「他者に関係する領域」 として, したがって他者との関係で制限されう ) や 「所 有 f t rac る も の と して, と らえ ら れな け れ ばな らな い。 そ の 限り, 「契 約 の 自 由」 ( r eedomofcont 権 の 自 由」 と いえ ども例 外 で はな い。. ⑪ただし, 国家干渉はあくまでも限定的であり, 各個人の人格的形成を可能とする諸条件の整備という限度 を越える政府介入は, 家父長的支配・国家権力の濫用にほかならない。そのような不当な干渉に対しては, (政府によるいわれのない権利侵害や自由抑圧に対する と同様) 抵抗権が生ずる余地がある。. 1. グリーン思想の諸前提 9世紀の最後の4半世紀のイギリス社会の状況, とく に下層の グリーン思想の現実的前提は, もとより, 1 「 民衆の惨状であっ た。恐慌, 倒産, 失業, 貧困などの諸矛盾の激化o深刻化, 労働組合運動の新たな展開( 新 ) や 「社 会主 義 の 復 活」 を 生 み 出 さ ず に は い な か っ た 「市 場 の失 敗」 = レ ッ セ・ フ ェ ー ル のも た 組 合主 義」. らした荒廃は, もはやいかなる合理化も糊塗も許さぬものであった。 グリーンの下層民衆・労働者に対する 改革志 同情 (そして無知と怠惰, 堕落へのいらだち) , 少数特権層への道徳的非難, 社会的・精神的貧困の 向と不平等の是正要求には, (その語調の強さが必ずしも一貫せず, 改革構想も 「現実的に」 緩和されてし まうとはいえ) 疑いないものがある。 かくして, 一部の特権を容認し,下層の民衆とくに労働者の窮状を放置しておくことは不道徳でさえある。 グリ ー ン 思想のいわば人格的前提をなすのは, 多数者の犠牲の上に少数者の富裕が築かれ, 社会的分裂と困 難が極まっ ているにも かかわらず, 時代の有力思潮がそうした状況を容認している限り, 自らが改革者でな 「改革者である われわれ」 ) という 「改革に対する人間的責任」 感である。 転換期の理論的 ければならない ( 営為がしばしばそうでるように, 19世紀末の社会状況を打開すべく, 自らの上層の出目にある種の道徳的後 ろめたさを感じないではいない良心的な大学人や知識人たちが, 社会変革に情熱を傾けたことは想像に難く ない。 わけてもグリーンは, 「愛と信頼のキリスト教的共同体」 に希望 を託す敬度な信仰者でもあっ た。 その政治・社会理論の不徹底や妥協性にもかかわらぬグリーン思想の広範で持続的な影響力は, こうして ま ず, 「貧 民 の負 担 と なる 租 税 を 6 ペ ンス 増 す ぐら い な ら, イ ギリ ス 国 旗 に泥 を 塗 らせ よ」 (WorksofTho‐ ) l D,Momo i leship t l I Green,by R‐L‐Net r mas Hi . .I ‐xx ,vo ,p. とま で言う, か れの 社 会 的不 正 義 に対す る 激 し. い道徳的義憤, 誠実な社会的良心, 社会改革への強固な意志に発するものであろう。 グリ ー ン 理 論 に思 想 的前 提 を 提 供 した の が, とく にカ ン トと ヘー ゲ ル, そ してj .ミ ル で あ っ た こ と に .S つ い て は多 言 を 要 しな い だ ろう。 「ス コ ッ トラ ン ド学 派」 か ら 「オクス フォ ー ド運動」 に い たるイ ギリ ス 理 想 主 義 の 興 隆は, プラ トンとアリ ス トテ レス へ の 関 心 の高 まり と, カ ン トお よ びヘー ゲルの思想 の導 入 を背 だ グリ ー ン は, カ ン トか らは 主 と して 景 と してい た。 B ‐ジ ャ ウ エ ッ トら をつう じて こ れ ら の哲 学 に親 しん. 目的としての 「人格」 の概念を, ヘーゲルからは 「国家」 の道徳的積 極性の理論を摂取した (ただしヘーゲ 「イ ル国家論の受容は, グリーンの場合, B .ボザンケッ トら他の理想主義者たちとも違っ て, 少なからず ギリ ス 的」 であ っ た)。 そ して グリ ー ンは, 先 達 のミ ル か ら 「自 由」 概 念 の 再 構 成 につ い て, そ の必 要 と 基. 本方向に関する認識を継承した。 すでにミルは, 人間の目的を自己の人格的完成にもとめ, 自由をそうした 道徳的に成熟した人間の固有の属 生とみな してい た。そ してその 自 由は, た ん に個 人的 である ばかり で なく, 26.

(4) . T .H .グリーンの理想主義的自由主義. 社会的な善でもあった。 また, 政治権力ははなはだ疑わ しいものではありながらも 真に自由な社会におけ , る国家は, 一定の積極的機能をもっ ているかあるいはそう期待されるものでもあった 。. 2. 最高の目的としての 「人格の完成」 とこ ろ で, グリ ー ンにと っ て と り わ け耐 え がたい の は 下層 民 衆の 生 活 上 の悲 惨も さり な がら そ の生 活 , ,. 苦によって人びとが自らの人格的自己形成を妨げられていることであっ た 理想主義者 グリーンにあって 。 , 人間の目的は 「人格の完成」 人格的自 己実現であ 他のすべ り, てはこの価値に準じる。 , 「わ れわ れの 究 極 的な価 値 基準 は 人格 的( )価 値 の 理想 である。他 のすべ ての価 値 は 人 間( l sona ) per r , son pe ,. のための, 人間のもつ, 人間のなかにある価値にたいして相対的である 国家や社会 人類の進歩や改善や 。 , 発展について語ることは, それが人間のより大きな価値 に関係しないならば 意味のない言葉を語る こ とで ,. ある」 (T. H- Green,Prolegomenato Ethics,S‐184.)① 「人 格 の 成 長 (d l ) eveopmentofcharact er. 一 個人の完成が社会の完成でもあり, 社会の完成は個人の. 完 成 で もある - - が 人 間 に と っ て の唯 一 の 絶対 的・ 本質 的価 値 の対 象 である ( b i )。 d 」 i .薄‐247 . グリ ー ン に と っ て, 「意 識 的 に自 己を 目 的 た ら しめる 主 体 の 能力 と して の 人 格の 実 現 と いう 目標 へ の接 」. 近に, 人間性の本質がある。 いいかえれば 可能な限り自己の人間性を完成させること が 「善 (o )で , 一 god ある。そして,人間にはそのような善,道徳的価値に到達しようとする特質・自然成長的能力が備わっ ている 。 そのさい,ところで,人格の実現ないし完成は他人とともに達成するのでなければ不可能なものである( 「人 間存在の法則」 )。人間的人格の相互的形成というこの目標は したがっ て「共通善一という概念で表現される , 。 というのも, 人格的実現という目的の追求は個人主義的なものたりえず 本源的に共同的なものであるがゆ , えに, この目的の追求は現実的には 「共通善一 の実現をめざすことにほかならないからである そして 「共 。 , 通善」 の実現を担保するものは市民の自発的な意志・積極的な参加と 国家である (個人にも全体にも共通 , した善が存在する)。 「……それを追求 しうるすべ ての人に真 に共通な唯一の善は 善であろうと する普遍的意志 -- 自分自 , 身の人格と他人の人格における人間性を最高最善のも の ( he mostandbestofhumani ) た ら しめ よう と t t y す る 各 人 の側 の 確 固 たる 性向 ( l i t t t eddisposi ibid.,S‐244.)。 s e on) - - の な か に 存 す る」 ( こう して,「そ の 時代 の道 徳 を改 善する 者 は 多 少 なり と も 理 想主 義 者 でな け れ ばな ら な い ( b i d‐,S.299. ) ‐ , 」i. として人間的人格の形成という目的が高唱される のであるが 人間と社会の道徳的改善こそが至高の目標で , あるとする理想主義的主張のもとで 社会的現実の具体的改革がやがて二義的な意味をしかもちえないもの , と な っ ていく こ とも 留 意 さ れて い な けれ ば な らな い だろう 。. 3. 「自由」 観念の改変 さ て, 人格 的 自 己実 現 を 可 能 にする も の こ そ 「自 由 であ っ た 」 , 。. 「われわれが自由を語る場合 その真の意味を注意深く考察しなければな らない。 われわれはそれをたん , に制限や強制からの自由とは考えない。 またそれはたんに好むことを好きなよう に行うことでもな い。 さら に, 一人または一団の人びとが他人の自由を犠牲 にして享受できる自由を意味するものでもない われわれ 。 が高く評価すべきものとしての自由を語る場合 積極的な力 あるいは 為しまたは享受するに値すること , , , を為しまたは享受する能力, しかもそれは 他人ととともに為しまた享受する能力を意味するのである 自 , 。 由とはかれの仲間によってかれに与えられた助力や保障を通じて行使する力であり 反対にかれがかれらを , 27.

(5) . 吉. 崎 祥 司. )。 l 保 障す る ため に助力 す る力 であ る」 (Works . ‐370~1 ‐ 皿,pp ,vo. 自由とはたんなる 「強制の欠如」 (消極的自由) でも, 自由放任の放惑でもない。 また他者を犠牲にする ことでえられる 自由は, 「真の自由」 ではない。 自由とは, 他者とともに, 一定の道徳的価値を志向する能 動的な力の行使としての積極的自由 (自己の意志を実現することまたは実現しうる状態) である。 すなわち, 自由は, しばしば無内容で抽象的なそれ自体, たんなる形式においてではなく, 人間的人格の 「 完成に資すべきもの, 人間と社会の道徳的形成にとっ ての必須条件として意義をもつ。 ひとが自己の欲す ることを自分で為すあらゆる形態の自由は, 目的に対する手段と してのみ価値をもつ。 その目的こそわたく しが積極的な意味で自由とよぶものである。 いいかえれば, それは共通善に貢献するためにすべての人びと の力 を等しく解放することである。 だれも, このような目的と相容れないような方法で, 自らが欲する こと )。 i d i b を為す 権利 はも っ てい な い」 ( ‐ .372 . ,p. 「 自由とは, たんなる自己決定, 選好にもとづく行為ではなく, そこでの 「選好の本質」 選好された対象 の種類」 こそが重要な, 「特殊な種類の自己決定」 であり, 人間としての真の自由は, 端的には, 人格の完 成に貢献する目的を実現するところにのみ存在する。 そして, そのような自由は強者の特権であってはなら ず, すべての人間における人格的成長を可能にするものでなけれ ばならない。 自由は排他的なもの, たんな る個人的なものでなく, 万人の道徳的形成という目標を根底においた, 他者とともにキテ使しかつ享受しうる 平等な, 相互 (承認) 的な力であり状態である。 というのも, 人格の完成は他者とともに実現するのでなけ れば不可能なものであった。 さらに, 自由が, 原子論的個人主義における ような孤立した自由ではなく, こ うしてつねに他者に媒介されたもの, 他者との相互(承認)関係におかれたものである なら, ルソーとちがっ て, ひとは, いわ ば 「他者が自由である ために強制されうる」。 すなわち, 他者の自由への干渉を阻止する ために拘束が課せられる。 総じて, グリーンによる古典的自由主義の批判は, 自由主義がその当初の意義, すなわち自由と平等, 権 利の実現と拡大という批判的意義を失いつつある点に向けられている。 極端な個人主義に陥った社会契約論 は, 他者と分離された原子論的個人の自己目的(自己決定)の追求こそを人間の目標とみなすことによって, 社会性と道徳性の剥 落を招いた。 自由の, たんなる 「拘束の不在」 としての消極的, 無内容的規定が, 強者 の み にお ける 自 由の特 権化 と多 数者 の 困苦 を帰結 したの である。 いい かえ れ ば, レ ッ セ ・ フ ェ ー ルの 無制 限. な競争が人 びとの自己達成のための条件を阻害し,社会的・精神的生活の荒廃と堕落を生みだした。そして, 非道徳的な自己目的の追求をも快楽=善として肯定する功利主義の現世的幸福観は, 自由主義を支えていた 「道徳的自由」 の意識 (近代的自由主義はまずもって宗教的, 道徳的自由の要求としてはじまっ た) の決定 的な希薄化をもたらし, かくして, 功利主義を経由することによって自由主義はそれ自体崩壊の危機に瀕す 「 ることとなっ た。 しかもなお, 権力に対する拘束の正当化理由がもっ ぱら自由にもとめられ, それが いま 「 や社会改革に対抗するほとんど唯一の理由となっている」 とするなら, そうした 自由」 観念を中核とする 古典的自由主義は変更されなければならない。 れつつある自由主義の批判性と道徳性が回復され それゆえ, J .S .ミルがつけた先鞭にならっ て, 毅損さ なけれ ばならなかった。 そのさい, 人格の十全な発展のための条件を社会の中に確立する という グリーンの 主要関心事を阻んでいる自由主義の要素こそ, 消極的自由であり, 自由放任主義であり, そして個人主義で あ っ た。 19世 紀後半 のイ ギリ ス にお ける 「社 会 問題」 の 噴出 は, この よう なイ デオロ ギー 的背景 に お い て 生. じてきたものにほかならなかったであろう。 かくして, 消極的自由から積極的自由への, 自由放任主義から 「 干渉主義への,個人主義から集団主義への自由主義の転回は,一方においては, 古典的自由主義の存続条件」 が現実的にも (構造的失業から生活苦にいたる深刻な社会問題の生起) ~思想的にも崩壊しつつある こと, 他方において, 労働組合その他による集団主義的行動様式の実質と意義が, プロレタリアートの参政権要求 28.

(6) . T .H .グリーンの理想主義的自由主義. およびその獲得 に象徴される民主主義の本格化と併せて, 社会的に浸透しまた承認されはじめたこと そし , てグリーンを先駆けとして, 社会契約論や功利主義など既成理論にとってかわって時代を主導しうる思想が 形成 さ れる に至 っ たこ と, な どによ っ て も た ら さ れた。. 4. 人間の共同存在性 さ て, グ リ ー ン 思想の根底を貫通しているのは. , 本質的に共同的・社会的存在と しての人間という人間‐ 社会観であり, 「自由」 についても, 人間の社会性・共同存在性に関する強い確信が前提されている 。 原理的に孤絶した, ただ取引的関係 においてのみ他者と外的に関係するにすぎない原子論的個人とちがっ て,グリーンにおいて,人間は,他者との交流をとおしてはじめて道徳的存在へ成長しうる共同的存在である 。 「能力が現実化され われわれが真 に人格として生きるのは 相互にたんなる手段と してではなく目的とし , , て 承 認 しあ い, かく して 相 互 に 要 求 を も つ, 人 びと の 交 わ り ( ) に つ い て の み で あ る」 ( int pro ercourse 一 1 )。 人 間 は, 相 互 に独 立 に, 分離 して併 存 する の で はなく そ の な か で は じめ て永 続 的な生 egomena→S .183 ‐ ,. を獲得しうるような, 有機的な依存関係, 共同体的な結合のもとにある。 それが人間存在の本質である そ 。 して, 人間 性 の このよう な あり よう を 現実 に担 保する の は 「承認」 ( ) の 概 念 である。 そ こ では, i i t r e cogn on ,. 自由放任主義の放縦とはちがって, 個人の自己決定が人びとの賛同を得られるものかどうか 自由の行使が , 個人のたんなる利己主義にとどまらず社会的善に連接するものかどうか 個人の権利の実現が共通善に貢献 , する も のと な っ て いる か どう か な どにつ い ての 「相 互 承 認」 性 が 個 人 の行為 の 公準 と なる イ ギリ ス の , 。 ,. 少なくとも近代 思想は, かつてこのような人間把握や承認概念をもっ たことはなかった。 人間は本源的に社 会的存在であり, 隣人への関心, 他人への配慮を刻印されているのである 。 「と ころ で 人 間の精神 が た だ人 間の な かに 人 間をつう じての み 実 さ れる と 現 いう 場 合, … …つ ね に肝 , ,. に銘じておかなければならないのは, この実現と完成はただ社会のなかで社会をつじてのみ為しうるという こ とを否 定 して いる ので なく 肯 定 して いる と いう こ と である 社 会 がな けれ ば人 間は存 在 しない こ の こ , 。 。. とは, 人間がいな けれ ば, すなわち自己を客観化する行為者 がいなければ われわれが知っているような社 , 会が存在しないのと同様に, 真実である。 そのような社会は人間相互の承認 人間としての相互の関心に基 , 礎 づ けら れ て いる。」「た だ社 会 をつう じて のみ ひと は 自 己 の 行為 の 目 的 と して の 自 己自 身 につ い ての 観 念 , , ,. 自己のより良い状態についての観念に影響を与えることができる 視覚や聴覚のない人間にとっ て空間が無 。 意味である と同じように, 社会がな ければそれらの観念は意 味がなくなる であろう ( b i山S )。 「こう 」 i .190 . して人間の精神はそれぞれの人格においてのみ自らを実現しあるいはその観念を完成させることができると いうことも, それが社会をつうじてのみそのように為しうるということも等 しく真理である というのも 。 , 社会は人格の発展の条件だからである。 しかし社会の機能はそれぞれの個人の発展にあるのだから 社会に , おける人間精神の実現は, その機能が遂行される程度に応じて達成されるのである ( i b d SI91) 」 i ‐。. 個人は社会をつうじてのみ, その人間的実質を獲得できる そのようなものとして 社会は固有の独自の 。 , 意義をもっ ており, しかも社会が, 個人が人格的存在たりうる条件とされ また個人と社会の成熟が相即的 , なものとみなされるかぎり,社会は,唯名論的社会概念とは異なって 個人と同様の意義を有するものである , 。 J‐ ロバー ツ がいうよう に, 「社会生活は個人の活動の必然的な背景であるから 個人は他者との関係をも , 考えかれらの完成を欲することな しには 自分 自身を個と考えることができない と確信するがゆえに , 」② , グリーンにあっ て人間は本質的に社会的・共同的なものである 。 したがっ てまた, この社会性・共同性の維持のためには 人びとは一定の拘束を是認しなければならない , 。 すなわち, すべての人間が自由であるためには, 各人は 社会的存在と しての当然の制約 (このばあい具体 , 29.

(7) . 吉. 崎 祥. 司. 的には国家干渉) を甘受しなければならない。 特定の人間や集団の自由が特権化しているなら, それは当然 制限されるべきである。 すなわち, 少数者の地位の上昇が明らかに多数者のそれの下落にもとづいている場 合, 弱者を犠牲にして自己の強化を図る場合, そこでの 「少数者」 や 「強者」 の自由は法律によって制限さ れる。 特権化した自由の制限と同時に, すべての人間に 「自己を実現できる状態」 を保障することが必要で ある。 かくして, この一般原則にもとづいて, 理由のある国家干渉が正当化される。. 5. 国家干渉 国家干渉・国家の積極性の要求は, こう して, 人格の完成という理想主義的要請に発するものであると同 時に, 下層の悲惨の救済という, すぐれて現実的な要求にもとづくものである。 現実的には, 自由放任主義 がもたらしている社会的分裂と荒廃, 多数者の苦難が, 思想的には, そうした現実を許容しあるいは導いて もきた自由主義という時代の支配的思潮の退廃 が, グリーンをして国家の介入の必要性を説かせる。 種々の 「障害」 が, 人びと, とりわけ労働者家族の人格的自己実現を阻んでいる。 たとえば教育の不在が 民衆の子弟の発達を, 長時間の苛酷な労働がなかでも婦女子の人格形成を, 飲酒による瀬堕と浪費が労働者 の道徳的成長を妨げており, 個々の個人がこれに対処するのは至難である。 それゆえ, 諸個人の人格形成に ) の ため に, 国家の 介入 が期 待 さ れている。 l と っ て の こ れらの 「障 害 の 除去」 ( lofobs t a c e s r emova. しかし, 古典的自由主義の (消極的自由と表裏をなす) 基本的命題は, 国家権力の干渉の拒否ないし可能 な限りの回避であっ た。 もちろん, ロックからベンサムにいたるまで (古典派経済学者を含めて) , 社会的 な必要・目的にもとづく国家の市民生活への介入, 障害の除去の機能があらゆる場面で徹底的に拒否された わけではない。とく にベンサムら「哲学的急進派」は社会立法による 改革の先鋭な要求者ともみなされてきた。 しかし, 古典的自由主義における国家干渉はあくまでも断片的・一時的, 限定的・部分的であり (ただし, 34年救貧法改定がそうであったよ その範囲内で強権的であることを排除しないし, ベ ンサミストの改革はi8 うにもちろんすこぶる 「自由主義的」 なものであっ た) , 原則的には否定されている。 とりわけ, 市場への 介入は峻拒されてきた。 だ が, レ ッ セ・ フ ェ ー ル の結 果 と して の惨 傭 たる 現 状 が, も はやそ の 放 置 を 許さ ず, な ん らか の公 的 介入. を求めているとすれば, 古典的自由主義の自由放任主義および国家権力の極小化という命題は変更されざる をえない。 国家介入の正当化・国家の積極性の正当化のためには, したがっ て, 近代イギリスに伝統的な消 極的な国家観が修正されなければならない。 かくして, もとよりその権力的性向は否定すべくもないとしても, しかし, 国家をもっ ぱら個人抑圧的な 権力機構とみなすことは誤っており, 個人と国家を抽象的に対立させる こと正しくない。 古典的自由主義者 の想定とはちがっ て, 国家の本質は必ずしも強制や抑圧にあるわけではなく, 国家は本来 「共通善」 を体現 しうる共同体でもあっ て, 権力と個人は共通善を媒介に相互に補完しあうものである。 「国家は共通善を促 )。 した が っ て, 国家 が行 使す る 干 渉や i lob i i l i t t i i l 進 す る ため の 制 度 で あ る」 (Pr ca on nc esofPol ga p . .124 ,S. 保護のための 「力は, 道徳的存在としての人間の使命の達成に必要であり, 自分自身および他者における完 )。 i b i d ) を発展 させる という 仕事 に有効 に献 身する の に必 要で ある」 ( 全な人格 ( f t tchara r .義.23 - c e e c per. 「なるほど 道徳的善を直接に助長する ことは国家の任務ではない。 なぜなら, 道徳的善の善たる性質上, , 国家がこれを行うことは不可能であるからである。 しかし, それを欠くために人間の能力の自由な発揮が不 )。 l 可 能 になる よう な条 件 を 保持する こ とは, ま さ に国家 の任 務であ る」 (Works . .374 ‐ .皿,p ,vo. ただし, ひとつの道徳的組織体とはいっても, 国家は, それ自体が最高善や最高目的といったものなので はなく, あくまでも, 人格の完成に奉仕する手段的機能をもつものとして, いわ ば相対的善, 相対的価値と 30.

(8) . T ‐H ‐グリーンの理想主義的自由主義. して承認されているにすぎない (ヘーゲル国家論との相違)。 と ころ で, 万 人の 人 格的 完成 を 目 的 と す る 「共 通 善一 は も っ ぱら 国家 にの み体 現さ れて いる ので はなく , ,. 「共通善一 の実現は 国家を構成する市民の共同性志向および自発的 積極的な参加と相互媒介的・相互補 , , 完的である。 共通善は国家の要請と, それに呼応する市民の自主的で能動的な行為とが相僕っ てはじめて成. 立する。 市民の参加のない 国家の介入は, 強権的な家 父長的政治ないし父権的温情主義 ( lgovern‐ t e rna pa ) をしか結果しないだろう。 むしろ, 市民としての積極性こそが 自尊と他者の尊敬とを結合した 「社 t me n , 会 秩序」 と 「真 の道 徳」 の 維 持 を 可 能 に し 市 民 と して の 「参加」 こ そ が 「社 会 的 に一 体 化 した 国民 ( ‐ , 」 so ia l ly uni ) を 形成 する の である。③ t l c edpe op e. 「改 革 者 である わ れわ れは つ ね に国民 の 参 政権 そ れ 自体 が目 的 である と 主張 している , 。 そう い っ て 笑わ. れるならば, 市民権のみが人間を道徳人たらしめ 市民権のみが他人を尊敬する真の基礎である自尊心を与 , え, それがなくては継続的な社 会秩序も真の道徳もありえない とわれわれはいうだろう もし国民の参政 , 。 権の付与からいかなる結果を見通せるかを尋ねられるならば そのことは現在の問題でないと答えざるをえ , ない。 ただいえることは, 人間の脚を自由にさせよ そうすればかれがどう歩むかを思索する時がくる と , , い う こ と で あ る」 ( ibid→vo l i )。 i- r . 皿 , Memo ,p‐xxi. たとえば労働者が市民としての同質性の獲得に至るには 国家による障害の除去 (この場合は制限選挙権 , の 是正) と とも に,「雇 い 人 根 性」(nunkey i sm) を 克服 する と いう, か れら 自 身の 自 発的 な 努力 が期 待 さ れる。. 6. 権利 こう して, 「共通善一 を体現するものとしての資格において 国家の積極的干渉が承認される その具体 , 。 的な表現が 「権利」 の確保であり, 国家の機能は なんらかの特別の権利の保護ではなく 「あらゆる権利 , , を平等 に保障すること」 にある。 いいかえれば 「国家は だれも他者の犠牲のうえに獲得することがない , , よう,全体としても しくは体系としてのその成員の権利を維持することにおいてそれがはたす機能によっ て , 国家 た ら しめ ら れる」 (ob l i i )。 t on S ga ‐132 .. その国家が保障する権利は, 「道徳的存在と しての人間の使命の達成」 のために 「自己および他人の完全 , な人格の発展への有効な貢献」 のために必要なのであっ た いいかえれば 「権利が存在すべきである のは 。 , , 道徳的人格 -- 共通善を自己のものとする個人の側の能力 -- が発展させられるべきだからである そし 。 て, 道徳的人格は, 権利をつう じて, すなわち 共通善に貢献するお互いの力 の社会の成員 による承認 およ , びこ の 承 認 による そう した力 の 規制 を つう じ て発展 させ ら れる の であ る ( b i )。 d 」 i . ‐26 ‐ ,S. こう して, 権利は道徳的能力の発展への寄与においてのみ正当化される そのさい 「権利 の本質は自己 。 , と他人が共存することにある」。 すなわち 自己の人格の完成のためのものである権利は 同時に他者の人 , , 格の完成を条件にしており, 他者の存在 共同体の存在を前提している それというのも 権利は社会関係 , 。 , のみから派生するものであり, 権利の相互承認は 他人との関係を意識することから生ずるものだっ たから , である (契約論的な天賦の権利への不同意)。 「権利は承認によって作られる 。. … 思考だけによっ て作ら. れる よう な 権利 は存 在 しな い。人 びと がお 互 い につ い て もつ な んら かの観 念 に 由来 しな い 権利 は存 在 しな い 」 「社 会 によ っ て 承 認 さ れた力 である と はす な わち ( i i b d 1 ) 権利 3 6 が & . . ‐。 」 , 権利 が他 人 と の平 等 性 ・相 互 性 にお いて の み 承 認 さ れる こ と の謂 い にほ か な らな い 特 権 が排 除さ れな け れ ばな らな い こと は 無 論であ 。 , る。. かくして, 国家の役割は, 人びとの人格的発展のための自由を権利と して確保し 自己実現にとっ ての障 , 害を立法等の措置によっ て除去することである。 たとえば 子どもや女性 労働者の人間的発達のための義 , , 31.

(9) . 吉. 崎 祥 司. 務教育普遍化の要求 (教育法) , 労働災害からの救済 (雇主 , 労働時間・労働条件の規制 (労働法, 工場法) 等々。 責任法) , 土地制度改革要求 (土地法), アルコール規制 (酒類販売規制法) , 公害排除 (公衆衛生法). 7. 国家干渉の限界 ただしこの干渉は, あくまでも諸個人の人格的実現にとっての 「諸障害の排除」 に限定されなければなら ない。 そのことは, 宗教的自由の抑圧や特定道徳の強要な ど, 思想一般の領域での自由の侵害ををこととし てきた国家の歴史に鑑みても明らかである。 いかえれば, 国家干渉は, 個人の活動領域のうちの 「外的行為」 ) へ の 介入 は許さ れな い。 国 f i i ( ) に 対 する も の に 限ら れね ばな らず, 「内 的生 活」 ( nnerl e la i t c ons ext erna. 家干渉は, 第一義的には, 「自助」 努力・個人の自発性の尊重 を前提とする, 諸個人の人格発展にとっ ての 障害の除去に限られね ばならない。④ この限度を越えた干渉 (家父長的政治) は, 誤った道徳観にもとづいており, かえって市民の道徳的活動 の余地を狭め人格的成長を阻止するものであって, そのような不当な行為・権力の濫用 を行う政府 (それは もはや 「真の政府」 の名に値しない) に対しては, 厳格な条件 (実際上はその行使が不可能になりそうな4 つの条件)⑤つきながら, 抵抗権ないし抵抗義務が生じる。 「政府の真の機能は そこで道徳が可能になるような条件を維持することであり, そして道徳は自己自身 , に課した義務を公平無私に遂行する ことであるので, “パターナルな政府” は, 義務をみずからに課すため の余地と, 公平無私な動機の活動のための余地を狭めることによって, せいぜい道徳を不可能にするにすぎ な い」 ( i d i b .)。 .義.18. もっ とも,取り除かれるべき「諸障害」は現実の歴史的社会的な諸状況,諸条件によって異なるものであり, グリーンが挙げている (前述のような) 障害は, 存外広範囲に (アルコール販売規制など, 「内的生活」 に 関与するかもしれない一部 「道徳的規制」 も含めて) わたっている。 「……国家 すなわち法律を通じて行為する共同体の効果的活動は, 真の市民性の習性を促進するために, , 必然的に障害の除去に限定されるべきである。 しかし, たいていの国家がこれまで怠ってきた多くのこと, 一見して道徳的義務を強制するようにみえる多くのことが, この名目のもとに含まれるかもしれないし, ま l i i た含ま れな けれ ばな らな い」 (ob t on S ga ‐)。 ‐209. ‐ こう して, 下層の民衆, 労働者や小作人, 女性や子 どもがおかれている劣悪な条件の (少なくとも) 緩和,. 資本家や地主の特権的排他的自由の制限 (実質上はそれほど強いものでないことについては後述) , とりわ け労働 者その他下層の民衆の自由や権利の確保な ど, 比較的広い領域で社会立法等による干渉が要求されま た容認される。「自助」 と 「自侍」 への期待にもかかわらず,「自助の無力」 という現実もまた否定しえなかっ たからである。 自助はそれが可能なら些かも書かでないが, 社会がそのような条件を達成するまでは, 国家 による保障 が避けられないものとなる。 その限り, 国家干渉は原則的かつ積極的に承認されるべきであり, 国家の能動的活動が擁護されなければならない。 自由主義は, そのような積極的な社会改良を推進する思想 としても再定義されなけれ ばならないのである。. 8. 経済的自由の制限とその不徹底 「 さ て, こう して, 「障 害」 となる か ぎり, 一 般 に 「自 己の 欲する こ とを 自 分でなす 自 由」 はもち ろ ん, 取. ) なども無制約でなく, 制限される。 というのも, それらの自由は 「目的に対 f 引 の 自 由」 ( r e re edom oft ad する手段としてのみ価値を有する」 のであっ た。 くりかえせば, この目的とは 「共通善に貢献する ためにす 32.

(10) . T ‐H ‐グリーンの理想主義的自由主義. べ ての 人 びと の力 を等 しく 解 放する こ とであ る。 この 目 的 に相 容 れな い方 法 で, み ず か ら が欲する こ と を為 す 権利 はも っ て いな い」 (前 出) の であ っ た。. しかし, 個人の自由な努力 (創意や才覚) が自然への人間の支配力を高める条件であり, 個人的才能と活 力にもとづいて拡大された商品は, 当人の利益ばかりでなく分配を通じて 「共通善一 にも貢献しているとい う理由で 「取引の自由」 が, また, 国家は 「相続された富に与える保証のゆえに, 租税によってある積極的 な 返 礼 を 手 にする」 ( ) と いう 理 由 で 「遺贈 の 自 由」 ( i i ) が是 認さ れる な ど, b d S f t r eedom ofbeques . ‐224. 財産の不平等が容認されていき, 具体的な検討にさいしては, グリーンは首尾一貫せず, しばしば不徹底で 妥協的であり, 弁護論的でさえある。 古典的自由主義の核心たる 「所有権の自由」 (これこそ国家干渉をめぐる真の争点であっ た) といえども 例外ではない。 グリーンによれば, まず, 他者を犠牲にした所有の自由はありえず, その限り, 所有権は制 限されなければならない。 他のすべての権利と同様, 所有権も本来は 「自由な道徳生活に対するあらゆる制 限から個人を解放し,そのために必要な手段を個人に提供する」目的を有するものとして保障されるのであっ た。 しかし, 大多数がそれを 「所有することができない状態」 にあるのが現状であり, 労働者は 「財産の所 有 が奉 仕 す べ き 倫 理 的 目 的 に 関 して い え ば, 全く 財 産 権 を 否 定 さ れ て いる に 等 しい」 ( )。 こ の i bi dりS .220 .. ように, 万人に付与されなければならないという権利の本質的要請が満たされないならば, もはやそのよう な権利が存続するいわれはないだろう。 「一人の人間による財産の所有が他人の財産の所有を妨げるとき 一団の人間が みずからの意志を実現 , , する手段を獲得しかつ維持する力 によっ て, 他人がその力を実際上否定されるような方法で, 保障されると き, そのようなときにのみ財産はその観念と一致しない方法で保持されているのであって, もし可能なら取 り 除か れる べ きも の である。 そ の 場 合 こそ, “財 産 は窃 盗 であ る” とい っ て よ い だ ろう」 ( )。 i b i d一S .221 .. とはいえしかし,各人の能力の違いによる努力の結果としてのそれなりの不平等は許容されるべきであり , また 「社会的機能」 (職業) の選択とそのための手段の獲得は, たとえ不平等を生みだすとしても 「人格の , 達成という最高の目的」 に適うがゆえに, 各人に委ねるべきである。 「自然の征服が 代表的には 自由で種々の才能を授けられた個人の努力 によるものとみなされるなら , , , 財産は不平等であるにちがいない。 財産を, 個人が社会的機能を遂行する手段と考えたとしても 同様にそ , う であ る にち がい な い。 アリ ス トテ レス か ら学 ぶ こ と がで きる よう に 個 人の 社 会 的 機能 は異な っ てお り , ,. そしてその機能の遂行のために必要な手段も異なるのである」 ( )。 i b i dS ‐223 . 多少の不平等には理由もあり, またそれなりの意味もあるのであって そう した格差の解消は問題となり , えない。 という のも貧富は必ずしも対立関係にあるわけでなく, 経済成長によっ て解消されうるものだから である。 「一 人 の 人 間 の富 の増 加 は, 必 ず しも 他 の 人 の富 の 減 少 を 意 味する も ので はな い」 ( )。 i b i dり& 226 ‐. 他者を犠牲 にして富を築いているわけでないとすれば, 所有権を制限する理由はない ! 「特別 の 取 り 締ま り ( グリ ー ン が攻 撃 して や ま な か っ た 土 地 の専 有 に 関 して も 当 初 の 激 しい 語 勢 ( spe ‐ , ia ic ) の要 求 かか わ ) にも l ら は以 t ず 帰 結 よう c 下 の である。 onr o」 , 「労働 と 資 本 の 支 出 か ら生 み ださ れる 価 値 と は全く 異 な た 土 地 の価 値 にお ける ”不 労 所得“ ( っ , unea rn ‐ ) を 国家 が専 有 す べ き で あ る と いう 提 案 - - そ の 1 と 自 体 は十 分 に公 正 で あ る と して も - - edi ncrement. に対しては, 稼働所得と不労所得の関係が非常に複雑なので, 後者を国家に専有させるシス テムが 土地を , 最大限に活用しようとする個人への刺激を減殺し, そして結局社会に土地が奉仕する可能性を減少させるこ とな しには, ほとんど確立されえないという 大きな反対がある」 ( )。 i b i 32 d , ‐ ‐2 . ,S 地主階級に対するたたかいも, それゆえ, 土地私有制度の全面的否定などではもちろんなく ただ大土地 , の分割, 小作人の自作農化, 小作権保障などの要求にとどまる。 33.

(11) . 吉. 崎 祥. 司. こう して, 国家干渉の容認とはいっても, 労働者その他下層民衆とその家族の生活・労働条件の改善とい う領域を除けば, 実際上は, 所有権をはじめとして, 現実の社会的, 経済的諸関係に対するそれほど強い規 制が求められているわけではない。 障害の除去とはいっても, それは多く精神的制限の除去に限られ, 物質 的制約については事実上除外されていく。 とはいえしかし, 合法的な所有権といえども不可侵ではないこと, 財産の所有がそれ本来の目的 (諸個人 の人格的完成の基礎としての所有) に違背する場合, 国家はそうした状況を矯正することができるし, また しなけれ ばならないこと, 市民的な共同体の形成を妨げるような所有権の主張 (たとえば累進課税や労働立 法の拒否) は排除されなければならないこと等の主張において, グリーンが自由主義思想の画期的転換をな しとげたことは疑いない。 その理論の抽象性, 道徳主義的偏奇, 両義的性格に少なからぬ問題性が含まれて いる と しても, その こ と は, 新自 由主 義 の 強力 な 理 論的 基 礎の 一つ となり, リ ベ ラ ル・リ フォ ーム か ら, さ. らには福祉国家の形成にいたるまで, 自由主義思想の枠内における社会改革構想の基本枠組みを提示したグ リーン思想の歴史的意義を低めるものではないだろう。. 9. 資本主義の体制内的改良と平等の精神的追求 ともあれ, プロレタリアートの苦難が, 「個人的所有権の維持およ びその結果としての資本の無制限な蓄 ) こ と は た しか である。 「プロ レタリ ア ー トの 存 在 は 文 明 史 の 積 に必 然 的 な 関係 を も た な い」 ( i d bi . .228 . ,S 失 敗のイ ン デ ッ クス で ある」 と はい え, プロ レタリ ア ー トはそ の起源 を, 資 本主義 に で は なく, そ れ に先行. ), 資本主義体制を全的に否定する理由はない。 たしかに, する時代の土地制度にもつがゆえに ( i b i d ‐ 一巻227 他者の権利や享受に対する 「障害」 は取り除かれなければならず, その面での改革立法等も必要である が, 上昇的資本主義において 「富の蓄積には, ……だれか他の人にとっての所有の可能性を減少させるような傾 向 は な い」 ( )⑥の であ る。 なる ほ ど, と り わ け下層 の 民 衆 の も と に顕 現 して いる と は い え, しか i b i d . .義226. し資本主義にとっては偶然的な, (人格形成にとっ ての) 諸障害の除去こそが課題である。 じっ さい, 本質 的ないし致命的な欠陥や反社会的傾向が資本主義に内在的であるわけではなく, 多少の改良の余地はある と しても, 根底的な体制的変革な どは全く問題となりえない (資本主義体制の擁護・基本的維持)。 それゆえ, 社会主義は一般に拒否される。 物質的平等の実現は必ずしも重要な課題とされず, 競争も, その極端なあり 方は別として, 個人と社会の動機への刺激と活力のためには有益である。 こうして, 堆積する社会的諸矛盾と資本主義との間に本質的連関がないとすれば, しかし, 現前する社会 的分裂と階級的対立を克服する方途は何処に見出されるのか。 グリーンによる問題の解決はこうである。 そ もそも, 物質的平等を追求することなどは不可能なのであり (プロレタリアートの苦難の物質的解決はあり 「 えない) , 物質的善ではなく 競争のありえない唯一の善」 としての道徳的共同体の形成こそが, 国民的和 解と統合を実現し, 社会的困難を解消していく道である, と。 「市民社会は共通善が存在する という観念にもとづいて成立しうるし また成立しているが この観念は , , 社会の恵まれない成員には事実上実現されていないし, それが実現できないのは競争を許すような対象に善 が求められいるからである。 このような対象はすべての人間によっ ては平等に達成されえないような種類の ものである。 この対象を獲得することでのある人の成功は, 他の人の成功とは両立しない。 善として一般に 求められている対象が, 各人の達成または達成への接近がそれ自体他のすべての人による達成に貢献する と Pr le ころの心の状態あるいは性格となるまでは, 社会生活は闘争の生活であり続けなけれ ばならない」 ( o )。 gomena . .意.244. それゆえ, 平等は, 競争的で利害対立的な物質的生活のなかにではなく, 精神の領域に求められなければ 34.

(12) . T ‐H .グリーンの理想主義的自由主義. な らな い。. 「善の追求において利害の競争のありえない唯一の善 それを追求するすべての人間にとっ て真に共通す , る唯一の善は, 善であろうとする普遍的な意志のなかに -- 自己自身および他人の人間性を最大最善にし よう と する 各 人の側 の確 固 と した性質 の な か に - - ある」 ( )。 i i b d .. しかし,利益の競争のない平等の境地,道徳性の地平に,労働者や下層の民衆はいかにして到達しうるのか。 そ れ は, 後 述 のよう に, 教育 と社 会 参加 によ っ て である。. ID . 平等主義 グリーン思想を貫く重要な特質の一つは平等主義である。 グリーンの平等論は, その思想体系の基軸たろ 「人格の完成」 に基礎をもっていた 人間の人格形成は 個人的なものでありえず相互的な 共同の営為で 。 , , なければならなかっ たからであ .る。 理論のそう した中心構造が, グリーン思想の全体に類い稀な平等主義的 性格を与えている。 しかし, そこでの平等は, 基本的には精神的なものの平等であり, そこに究極の価値を みるものであるがゆえに, 物質的平等は相対的に駁められざるをえない。 平等のそう した価値的序列におい 「利 て, それゆえ, すべての人間の人格的完成 にとっ ての必須条件の一つであるはずの物質的平等の要求 ( 害の競争」 あるいは不平等という 「障害」 の除去) は, 論理的には回避または蹟末問題化されることになる。 別様にいえば, 人格の完成の手段としてではあれ, その不可避的な条件であるはずの物質的平等という要求 は後景に退く。 こう して, 平等な道徳的存在としての人間についての強烈な問題意識と物質的不平等の容認 という 理論の歪みが生じる。 そこでは, 共通善という精神的形成が眼目であって, 物質的諸条件の形成は必 ずしも課題とならない。 それゆえ, 平等は現実にはしばしば形式的要求にすぎないものと化す。 グリーンが, 「弱者」 や厳烈な競争からの敗残者の生活や境遇に尋常ならざる 関心と同情を抱いたこと, また労働者の苛酷な労働からの救済と保護にこころをくだいたことは間違いない。 その限り, グリーンは労 働者や下層民衆の生活条件や労働条件の改善と確立を要求し, そのための立法措置の必要も説く (したがっ て, 労働条件や労働災害等については 「契約の自由」 の制限などによる労働者保護を求める)。 そこには, 相互に関心と配慮をもち, 相互承認的であるという共同存在性に由来する, グリーンの人間の本質性把握が 色濃く影を落としており, 平等主義的性格が際立っ ている。 しかし, そこまでであり その範囲を超えての , 平等要求, なかんづく物質的・社会的平等の要求はグリーンの支持を受けない。 競争が支配する その領域で は平等は不可能であっ たからであり, ただ精神世界においてのみ平等は可能なのであっ た。 そして, 労働者が精神世界における平等な存在として伍すための前提は, 政治的社会参加 (参政権の獲得 と行使)およびとくに教育機会の獲得と拡充であった。初等・中等の普通教育の確立は 「真の社会的平等化」 , をもたらすであろう。 それは労働者の財産所有者化を可能にするであろう。 さらに 高等教育の拡充とプロ , レタリアートへの開放は, 学歴の有無・多寡をめぐる分裂を緩和し, かれらを憎悪や社会的ジェラシーから 解放するであろう。 そして, プロレタリ アートへの選挙権の付与ないし拡大は, 政治と社会生活への積極的 参加をもたらし, 教育と相侯って, かれらを市民として (願わくば紳士と して) 形成するであろう。 労働者 の市民化によっ て, 一国は同質的な国民をもつことになり, かくして階級対立と社会分裂は終息に向かう で あろう (市民として解放することによるプロレタリアートの体制内化, それによる社会的矛盾の解決)。. 1 1 . 理論的限界 こう して物質的不平等の克服が断念される限り, グリーン政治理論は, 社会的分裂と多数者の悲惨に良心 35.

(13) . 吉. 崎 祥 司. の痛みを感じないわけにはいかない知識人 (そしてその一種カリスマ的影響のもとにあって社会奉仕的実践 に情熱を傾けた, 未来の指導階層たるオクスフォー ドの学生たち) と, 増大した労働者票の帰趨に神経を尖 らせる自由党の領袖たちはともかく, 何よりもまず生活の苦難に端ぐ労働者・下層民衆の支持を獲得するこ とは困難であったろう。 グリーン理論は, それを担う現実的主体, 広範な実在的な政治勢力を見出すことが できなかったろうし, プロレタリアートの社会主義的部分から 「資本主義的現実からの理論的撤退」 を批判 さ れた のも ゆ え な しと しな い。. しかしまた, グリーン理論は, 「自由主義的言語を拡張することにおいて」⑦, すなわち自由主義の枠内に 干渉主義や集団主義を取り込むことによって, 大きな影響力をもった。 それは, グリーンの後継者たち (新 自由主義者) を介して 「自由党改革」 を導くとともに, フェ ピアン社会主義者から保守党派の改良主義的部 分に及ぶ広い範囲に強いインパクトを与えてきたし, またその理想主義的立場は, イギリス社会理論の一つ の有力な伝統を形成してきた。 この理論は, まさしく 「現状維持と革命的代案との交錯的中間」⑧ として生まれたのであり, しかもたん なる妥協や折衷でなく, 「批判的分析に耐え, 実行も可能な形をもっ た中間」 として提出されたところに大 きな特質をもつ。 その理論の振幅の大きさ, 不徹底性や偏り (市場の温存), 両義性などはすべて, こう し た 「ヴィ ク トリ ア 中期 の 中 間 的性 格」 から発 して いる。 グリ ー ン 理 論の 限界 につ い ては, 次の よう な指摘 がな さ れて き た。. 理論の一般的性格についていえば, 「哲学的明断さと一貫性の欠如」 がみられ, たとえば 「国家と社会, 法と道徳との関係が暖昧」 である。 人間‐社会観についていえば, 一般に 「人間の道徳的行動に対する可能性の過大評価」 があり, 他方 「人 間の利己主義・食欲・攻撃性・暴力・自己欺賄への傾向の過小評価」がある。グリーンの理想主義的資質が, 理性と社会の道徳的形成に関する人間の能力と願望の誇張を許し, 説得と論争による資本主義的矛盾の解決 (とくに中産および上流階級の理性と人間性に訴えての問題解決) を夢想させた。 そして, 社会認識についていえば, 実践的センスは認められる としても, 「資本主義の本質の分析のない 「 「 「 がしろ」 , 産業革命によっ , 富の分配に関する見解の甘さ」 , 現実の経済生活のあまりにもの抽象的単純化」 「 て著しく際立ってきた問題に対する驚くべき的外れの見解」 , 資本主義制度下では労働者階級が人間らしい 生活を営むことができないこと」 すなわち制度による大量の構造的な貧困に関する認識の欠如, さらには利 己主義, 貧欲その他の人間的憎悪と反社会的な行動を助長する, 私的所有と競争にもとづいた経済システム としての 「資本主義の政治的危険性の過小評価」 など, 総じて 「社会・経済問題への鋭い感覚の欠如」 が厳 しく 批判 さ れて いる。. したがっ て, 政治論・国家論についていえば, 一方で, 「国家に対する警戒的態度」 の欠如が 「自由主義 の根幹を脅かす恐れ」 があること, 一般に 「国家の道徳的機能論の旧態性」 あるいは 「倫理的観念の社会・ 政治領域への適用」の単純な直接性・無媒介性が指摘されるとするなら,他方からは,その政府干渉の拡大が, 「大衆や集団の体制内への吸収」 を意図するもの 「大衆の要求の上からのなし崩 し的充足を企図する慈恵 , 的政策の提唱」 であることが指弾される。 社 会 改革 プラ ンに 関 して は, そ れゆ え, グリ ー ンの 真 塾 さ は疑い ない と して も, 一 般 に 「す べ ての 社 会 的. 対立・緊張・悲惨の解決可能性, 社会の完成と永続的平和の可能性」 幻想が批判され, 資本家階級その他上 流階級の理性性への訴えと 「民衆や理性的改革運動の成果に対する楽観」 など, 国家の理想的形態と現実的 形態との等置によるリアリ ズムの喪失およびそれに由来する理論的有効性の消失が論難さ れる。 一見現実主 義的な判断 (敵対的なふるまいによってはえられない, 中・上流階級における支持の獲得と拡大の有効性の 確信) にもとづくものとはいえ, こう した立場の空想性は否定すべくもなく, 本当のところ, 「階級分化, 36.

(14) . T .H .グリーンの理想主義的自由主義. 政治の経済への従属がますます深化しているヨーロッパ における現実主義的選択であるとは 思わ れな い」 の である。. さらに, 教育と参政権をっうじての労働者の市民化という構図や, キリスト教的な 「愛と信頼の精神的共 同体」 という楽天的な確信に潜む 「教育のある階級の, 中産階級の, 家父長主義のにおい」 という階級的限 界がある。 これらの指摘のすべてが, 必ずしも的外れではなく, 多少とも妥当する批判 となっているのは明らかであ ろう。. 12 . グリーン思想の意義 そう したあらゆる問題性にもかかわらず, しかしまた, 自由主義思想史における, グリーン思想の意義は 大きい。 そ れは, な によ りま ず, かつ て 「改 革 と 自由 の 教義」 と して 出発 しな がら, とく に1870年代 以 降, いまや 「反. 動と特権の保塁」 に変質してしまった古典的自由主義を修正し, 自由主義の再構築に向かっての準拠枠を設 定するものであっ た。 グリーンは, 原子論的社会観や非干渉的自由論が現実に生起している諸困難の解決に 堪ええないことを示しつつ, 極端な個人主義と化した契約論やともすると非道徳的快楽主義に堕しかねない 功利主義を放棄して (もちろん, それらの思想における多くの積極的なものをグリーンが高く評価し, 自ら の思想的契機の一部として取り入れている ことはいうまでもない) , 民衆の労働条件や生活条件を改善し, すべての人間の道徳的成長を可能にする ためには積極的自由と国家干渉が必要であることを敢然と主張し た。まさにそのことによって, グリーンの思想は 「移行の時代における自由主義の綱領の表示としての効用」 をもっ たのであり, 崩壊に瀕していた 「自由主義の再建」 の緒 をつけ, 「自由主義的な議論の言語」 を拡張 することによって自由主義の救出を可能にした。 自由主義を再構成することによっ て, そして, 社会改革の 理論的バック ボーンをなし, 後の社会政策の展開からやがては福祉国家にいたる軌道に自由主義を転轍させ た こ と にお い て, グリ ー ンの 意 義 は, そ の 理 論や 立 場 の制約 性や 暖 昧さ の い っ さ い にか かわ らず, 正 当 に評. 価されなければならないものだろう。 たとえ, その国家干渉が不十分で不徹底なものであっ たとしても, 少 なくとも, 一時的・例外的なものにとどまらない国家干渉の原理的, 一般的可能性を開示し, その後の公的 介入 の拡 大 ・増 加 に寄与 したの は グリ ー ンだ っ たの である。. こう して, イギリスを中心とした自由主義思想史の見取り図を描くという視角からは, やはり, 消極的自 由から積極的自由への, 自由放任主義的個人主義から国家干渉的集団主義への, 自由主義の明確な転回をな しと げたグリーンの意義を確認しておく必要がある と考える。 ミルが先鞭をつけた自由主義の旋回を決定的 に方向づけたのがグリーンであることは, 近年のグリーン研究における古典的自由主義者・個人主義者像の 強調 (グリ ー ン理 論の 両 義 性 な い し折 衷 性 が, ネ オ ・リ ベ ラリ ズ ム の 興 隆という イ デオロ ギー 的状 況 の も と で, 「マ ンチ ェ ス タ ー 派 グリ ー ン」 と いう 解 釈 を 可 能 に したの で あ ろう が) にも か か わ らず, 疑 い を い れな いも の であろう。. じじつ, グリーンの理論とともに, 狭濠な個人主義, 原子論的社会把握, 快楽主義的功利, 利己主義的な 権利, 放任主義的競争主義など, 総じていわば唯我独尊主義ともいうべき, それまでの自由主義に付随して いた常識的イメー ジが大きく変わることになっ た。グリーン以降の自由主義者で自由放任主義をとなえた「重 要な一 思想家は, 近年のリバイバルにもかかわらず, 本質的には存在しない。 グリーンはまた, 最終的には精神生活に偏したとはいえ, すべての人間を自らの人格的自己実現をはかり うるものとみなし, そしてそのための諸障害の除去や, 教育および参政権の拡大などを含めた, 人間の平等 37.

(15) . 吉. 崎 祥. 司. 性を強調することによって, それ以後の自由主義が欠くことのできない新しい要件を明示し, 自由主義の民 主主義的基礎の明確化に資した。 先にみたように, 一般的・抽象的次元での平等要求, 道徳的存在としての 人間についての平等主義は強烈でさえあっ た。 たしかに, グリーン理論の眼目は, 共通善という精神的形成 にあっ て, その (前提であるはずの) 物質的諸条件の形成は必ずしも課題とはなっていなかっ た。 強い平等 要求は事実上断念されて, 観念における平等へと雲散霧消する。 それゆえ, グリーン理論の現実的帰結もま たそれほど興味をひくものではない (結局のところ実際生活上の困苦と不平等を不問に付しかねない 「理想 主義」 的平等は, 厳しい資本主義的現実・資本家的強欲と圧制のもとにあるプロレタリアートにとってはむ しろ悪意あるものでさえあるだろう)。 それにもかかわらず, 社会契約論における抽象的な平等や功利主義 におけるともすると算術的な平等からの質的転換をとげた, グリーンにおける人間の平等の高唱と, その平 等感覚の基礎にある人間の共同存在論とはきわめて意味深いものであろう。 人間は根源的に他者に媒介されているものとして, 本質的に他者関与的・配慮的でなければならない。 グ リーンは, このように, 人間の共同存在性と社会的媒介性・相互承認性 (社会は人格発展の条件であった) にくりかえし言及することでまた, 社会を個人と同様に独自の重要な意義をもつもの, あるいは個人に解消 されることのない固有の意義をもつものとして,位置づけた。個人は社会のなかで,社会をつう じてはじめて, 自らを人間として形成しうるものであり, 逆にいえば, それなしには個人が自己を実現することがかなわな いものである。 個人の成熟と社会の熟成は, 手を携えてすすむ。 こう した 「社会」 把握ならびに自己ととも にある他者への関心と配慮の理論化を,イギリス近代思想史にみることはおそらく困難であろう。それは,「民 主主義を批判してやまない民主主義者」 } ‐S .ミルの精神的貴族性と対照するときひときわのものがある。 「社会的承認にもとづく権利」 論も 権利を利己主義的な狭賂性から解き放つ役割を担ったし 所有権等 , , の権利の制限も, その現実的な適用はともかくとして, 近代の 「所有権の神聖」 という ドグマに対する異議 申し立ての理論的根拠を与えるものであろう。 これらは, グリーン思想の, たんなる歴史的寄与にとどまらぬ重要性・達成を物語っているように思われ る。. 13 . 影響 グリ ー ンの 影響 が, 新自 由主 義 者 か ら パー カー, リ ンゼイ ら20世 紀な か ばの思 想 家 にま で い た っ て いる こ. とは良く知られている (保守主義者の一部も例外としない)。 また, 当時の自由党の政策への一般的ではあ るが直接的影響についても少なからず言及されている (たとえば188 5年のチェ ンバレン試案, いわゆる 「未 公 認綱 領」 や, 91年 「ニ ュ ー キ ャッ ス ル綱 領」 か ら 「人 民予 算」 )。 ま た フ ェ ビア ン社 会主 義 者 (とく にウエ ッ. ブら)を特徴づける人格の成長のための「上からの社会政策」や経済理論の基礎に据えられた土地改革論には, グリーンの影が濃厚であり, そのフェ ビアン協会をつう じた労働党への間接的影響もしばしば指摘されてい る。 「最 近50年 の立 法 上 の 主 要な 進 歩 は グリ ー ンの 教 え の 下 にあ っ た」 と いう ラス キ の 言 は, か れ が グリ ー. ンの徒でもあったという一面を勘案しても, 必ずしも過大な評価ではないだろう。 干渉とその限界について の 「慎重な一 (すなわちブルジョア ジーにとっ ても受け入れ可能な) 取り扱いは, 後の福祉国家の政策の基 本的枠組みの範型を示しているのである。 そればかりでなく, 国家干渉が許容されるのは,「道徳的能力」それ自体でなく, それを実現するための「条 件」 の確保のためであり,「政府の真の機能は, そこで道徳が可能になるような生活条件を維持すること」(前 出) で ある と い っ た 考 え 方 あ る い は言 い 回 しは, た と え ば R. ドゥ オー キ ンで わ れ わ れ が馴 染 ん で いる も の で あろう し, ま た 次 の 一節 が コミ ュ ニ タリ ア ンの, た と え ば M‐サ ン デル を祐 悌 とさ せる と す れ ば, グリ ー 38.

参照

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