ユダヤ人ネットワークの実像と虚像
─「世界イスラエル連合」から『シオンの賢者の議定書』へ─
野村 真理
はじめに ホロコーストまでユダヤ人は、ヨーロッパを中心 に、西はアメリカ、東はユーラシア・ロシア、南は 中東に広がるディアスポラ社会を形成した。そのな かにあって東欧のユダヤ人も、他地域のユダヤ人と 交易や宗教上のネットワークでつながり、交換、交 流した。ユダヤ人の場合、東欧史研究会 2015 年度 大会趣旨説明でいわれた「対象としてのネットワー ク」の事例には事欠かない。しかし、国民国家体制 へと移行しつつあった近現代のヨーロッパにおいて、 彼らが国家を越えてつながるとは、どういうことだっ ただろうか。 ここでは、前半は、1860 年にパリで設立されたユ ダヤ人にとって最初の近代的国際組織である「世界 イスラエル連合 Alliance israélite universelle」をと りあげ、「国際」といえども、その活動は各国ユダヤ 人の事情に強く規定されたものでしかありえなかっ たことを見る。これに対して後半では、そうした実 態に反して非ユダヤ人が、ユダヤ人の国際組織に真 の「国際」の実現、すなわちユダヤ人による世界政 府と世界陰謀の存在を妄想したことを見てゆく。 1. 世界イスラエル連合の設立 第一次世界大戦によって、ロシア帝国とオースト リア=ハンガリー帝国という二つの帝国が崩壊した。 ロシア帝国のあとにエストニア、ラトヴィア、リトア ニアのバルト三国が誕生し、ポーランドが独立を回 復した。旧オーストリア=ハンガリー帝国の版図に 設立されたのが、オーストリア、ハンガリー、チェ コスロヴァキアである。これによってヨーロッパは、 東部地域も含め、国民国家体制へと移行する。その さい新国家の国境は、ほぼ民族の境界にそって引か れたが、複数の民族が混住する東欧では、どのよう に国境を定めても、多数民族の国家に取り込まれる 少数民族の発生を避けることはできない。そのため 第一次世界大戦後のパリ講和会議でも、東欧の国民 国家体制への再編と少数民族の権利保護がセットで あることは強く意識されていた。 しかし、それら新国家で、少数民族の権利保護は 必ずしも当然のことと考えられていたわけではない。 二つの帝国崩壊でユダヤ人をめぐる状況も大きく変 わったが、世界シオニスト機構と東欧の新国家のユ ダヤ人がそれぞれパリ講和会議に代表団を送り、互 いに連携しながら、ユダヤ人を含む少数民族の権利 承認のため、活発なロビー活動を展開したことはよ く知られる。そのこともあってポーランドの反ユダヤ 主義者は、1919 年のポーランド条約における少数民 族保護条項の押しつけはユダヤ・ロビーの仕業であ り、ポーランドの国家主権の侵害であるといって憚 らなかったが、こうしたユダヤ人の国際的連携活動 の出発点は、「世界イスラエル連合」という、文字 通りその名に「世界」を冠した組織に求められる。 略してアリアンスと呼ばれた世界イスラエル連合 の設立を促した事件の一つが、1840 年のダマスカス 事件である。事件は、1840 年 2 月のダマスカスでカ プチン会修道士とその従者が失跡し、カプチン会が 儀式殺人の発生を主張したのに始まった。儀式殺人 とは、ユダヤ人がキリスト教徒を殺し、その血を宗 教儀式に使っているという、中世以来、20 世紀になっ ても広く信じられた作り話である。 当時、シリアは、オスマン帝国から支配を委ねら れたエジプト総督の管轄下にあったが、キリスト教 徒はフランスの保護下におかれていたため、エジプ ト総督とフランス領事が調査に乗り出し、多数のユ ダヤ人が逮捕され、拷問によって儀式殺人の執行と いう偽の自白を強要された。ところが、逮捕された ユダヤ人のなかに、オーストリア帝国民で、オース トリア領事館の保護下にあるユダヤ人がいたため、2015 年度大会 ● ユダヤ人ネットワークの実像と虚像 ─「世界イスラエル連合」から『シオンの賢者の議定書』へ─ ……… 野村 真理 オーストリアが、次いでイギリス、アメリカが逮捕 者の釈放を求め、事件は国際的関心を集めることに なった。とはいえイギリスの介入の目的は、ユダヤ 人の救出というより、シリアでエジプトと組んだフラ ンスの影響力拡大を阻止することにあり、そこで激 突しているのはフランスとイギリスの帝国主義的な 利害関心だった。 これに対してユダヤ人は、いまなお儀式殺人とい う迷信によってユダヤ人迫害が行われていることに 危機感を抱く。フランスとイギリスは帝国主義的利 害において対立関係にあったが、両国のユダヤ人は ユダヤ人の利益でまとまり、フランスの政治家アド ルフ・クレミュー、イギリスの銀行家モーゼス・モ ンテフィオーレ、ドイツのオリエント学者ゾロモン・ ムンクらが中心となり、超国家組織である東方使節 団を結成する。東方使節団はエジプト総督に陳情を 行い、事件の真相解明にはいたらなかったが、勾留 中のユダヤ人で、まだ生きていた者たちの釈放に成 功した。 この成功はヨーロッパのユダヤ人に、同胞救援の ため、国家を越えた連帯が必要であり、また可能で あること、そのような連帯が力をもち、結果を出せ ることを教えた。これが、1860 年のアリアンス設立 につながる(1)。 アリアンスはヨーロッパ各国に支部をおき、メン バーとなったのは、それぞれの国で文化的、社会的 同化を通じて市民権をえた同化ユダヤ人である。ア リアンスの活動目的は、ユダヤ人に対する無知と偏 見との闘争、ユダヤ人の名誉の防衛、ユダヤ人が未 解放の地域においては、ユダヤ人の道徳的、精神的 進歩による──言い換えれば同化による──法的解 放の獲得におかれた。そのさい、ユダヤ人の平等獲 得においてアリアンスが最も気にかけたのが、オス マン帝国支配下のバルカン(2)と、最大規模のユダヤ 人口が集中する地域、すなわちロシア領ポーランド を含むロシアのユダヤ人の状況だった。 では、実際にユダヤ人の解放に関して、アリアン スには何ができたのだろうか。 アリアンスの設立は、ポーランドやロシアのユダ ヤ人に歓迎された。ロシア帝国では、アリアンスが 帝国内に支部をおくことは禁じられたが、個人でメ ンバーになった者はおり、彼らと密接なコンタクトを とることで、アリアンスは現地の情報に通じていた (3)。アリアンスが設立された 1860 年は、63 年のポー ランド 1 月蜂起の前夜にあたる。当時のワルシャワ の知識人のなかには、ポーランドのロシアからの解 放と、ユダヤ人解放や農民解放といった社会改革を 一体のものと考えるグループも存在する。キリスト 教徒とユダヤ教徒の宥和を目的として 1862 年のワ ルシャワでは、「ポーランド全宗教連合 Alliance polonaise de toutes les croyances religieuses」のような 組織もできていた。一方、パリでは、1830 年蜂起後 パリに亡命したポーランド人が、ポーランド独立の ための活動を継続していた。たとえばヤン・カジミェ シュ・チンスキ(1801-67)は、パリの亡命ポーラン ド人活動家の中心であると同時に、ポーランド全宗 教連合の中心的メンバーでもあった。 アリアンスは、しかし、パリの亡命ポーランド人 やワルシャワの開明知識人との連帯には慎重だっ た。ダマスカス事件にかかわったクレミューは、ア リアンスの中心的メンバーとなるが、彼は、ポーラ ンド独立闘争に対して、ポーランド側にもロシア側 にもつけないユダヤ人の困難な立場を次のように述 べる。すなわちユダヤ人は、ロシアにつけば、ポー ランド独立運動の闘士に攻撃されるし、ポーランド につけば、ロシアから敵とみなされ、ロシアのユダ ヤ人の立場を危うくする。中立の立場を貫けば、両 者から攻撃されるだろう(4)。いずれにせよユダヤ人 は、迂闊には動けないというのである。 さらに、アリアンスは社会的に成功した同化ユダ ヤ人の組織であり、フランスではフランス愛国主義 を掲げていた。ユダヤ人のためといえども、フラン スの対ロシア政策に反する行為は避けるのがアリア ンスの基本的な立場であり、フランスが親ロシア政 策をとるなら、ロシアを攻撃するような言動はでき なかった。結局、アリアンスは、ロシア帝国の国内 問題としてのユダヤ人解放には干渉できず、アリア ンスの救援のネットワークは、ロシア帝国のユダヤ 人が国境を越え、西側に姿を現したときにはじめて 発動されることになる。その最もよく知られた例が、
1881 年 3 月のアレクサンドル2世の暗殺後、4 月 にロシアのユダヤ人定住地域南部のヘルソン県で始 まったポグロムは、南ウクライナ一帯の都市、町、 農村部に広がる。以後のロシアで頻発するようにな るポグロムに比べ、このポグロムでは死者の数こそ 少なかったが、暴行、略奪、家屋の破壊など、危害 を受けたユダヤ人は記録されているだけでも 6420 人にのぼった(5)。このとき西へと逃走したユダヤ人 難民に対し、ヨーロッパのユダヤ人諸団体やアメリ カのユダヤ人と連携しつつ、救援活動の中心に立っ たのがアリアンスである。 とりわけ難民が集中したのが、ロシアとオースト リア帝国の国境に近い東ガリツィアのブローディ だった。ブローディは、1880 年当時の人口が2万人 程度で、その 76.3 パーセントをユダヤ人が占める東 ガリツィアの典型的な町の一つである。日本では、 ユダヤ人のドイツ語作家ヨーゼフ・ロートの生地と しても知られる。 ブローディに流れ込んだ難民は、1881 年段階では 4000 人程度であった(6)。アリアンスは、難民ならび にロシアに残る犠牲者に対する金銭的、物質的援助 を開始し、ブローディ現地にスタッフを派遣した。 1881 年から 82 年に集まった義捐金は、推定で総額 約 700 万フランという当時としては桁外れの金額で (7)、ポグロム犠牲者によせるユダヤ人の同情の大き さと、また、それだけの金を集めることのできるユ ダヤ人のパワーを示すものでもあった。 しかし、最終的な問題は、難民の再定住地を見つ けることであり、アリアンスはアメリカ移住の可能性 を検討した。というのも、もともとアリアンスには、 ロシアのユダヤ人の苦境の原因は彼らが定住地域の 都市や町に過剰に集中していることにあり、これを 解決するには、ロシア国内での農業移民か、アメリ カその他への国外移民しかない、という認識があっ たからだ。 アメリカでアリアンスの移住計画に対応したのが、 アメリカ・ユダヤ人コミュニティ代表者会議である。 少なくとも 1561 人がブローディからアメリカに渡っ ている(8)。しかし、いざ難民の移動が始まると、ア リアンスとアメリカのユダヤ人のあいだで認識の相 違が顕在化する。アメリカ側には、到着するやいな や生活保護が必要となるような難民を大量に受け入 れる用意も、そのつもりもなかった。そのためアメリ カ側は、当面、移民は何らかの技能をもつ独身の男 性にかぎるよう要請する。他方でアリアンスにとっ て、要請に応じることは不可能だった。難民は家族 ぐるみであり、働き手の男がアメリカに渡った後、 誰がヨーロッパに残された女、子どもや老人の面倒 を見るのか。結局、両者のあいだで折り合いがつか ず、アリアンスは 1881 年末、難民のアメリカへの送 り出しをいったん中止した。 ところが、この段になって、アリアンスには想定 外の事態が発生する。ポグロムは 1881 年の 8 月半 ばには収束したが、それで難民流出が止まるどころ か、82 年の年明けから難民がぞくぞくとブローディ に押し寄せるようになったのだ。6月29日、ブローディ にいるアリアンスのメンバーは、パリの本部に宛て、 1 万 2000 人もの難民がブローディにいて、収容する ところもなく、困窮を極めているという、悲鳴にも似 た報告を送っている(9)。人口2万の町が最大時で 1万 6000 人もの難民を抱えるにいたった理由は、ロ シアのユダヤ人のあいだに、ブローディまで行けば アメリカに移住させてもらえるという噂が広がり、こ れを信じたユダヤ人が、ポグロム危害に関係なく、 家財を処分してブローディに向かったこと(10)、また、 ポグロム後、ロシアでは、1882 年の 5 月法によって ユダヤ人の経済活動の制限強化や農村部からの追 放が行われるなど、反ユダヤ政策が強化され、ユダ ヤ人がロシアでの生活に絶望感を深めたことがあげ られる。 しかし、ブローディの事態によってアメリカ側の 意向が変わったわけではない。1881 年末に中断され たアメリカへの移住は、82 年春に再開されたものの、 7月末には完全に停止され(11)、困り果てたアリアン
2015 年度大会 ● ユダヤ人ネットワークの実像と虚像 ─「世界イスラエル連合」から『シオンの賢者の議定書』へ─ ……… 野村 真理 スは 8 月 2 日から 4 日まで、ウィーンでブローディ 問題を話し合うための国際会議を開催した。会議に 代表を送ったのは、パリ、ベルリン、ウィーン、ブ ダペスト、ロンドン、ルヴフ、フランクフルトで結成 されたポグロム犠牲者救援委員会で、これを見れば、 ポグロムがヨーロッパのほとんど全ユダヤ人社会の 関心事であったことがわかる。しかし、会議であら われたのは、ユダヤ世界の連帯、結束というより、 それぞれが代表するユダヤ人社会の都合の方だっ た。彼らは、ロシアに戻ることを拒否する難民のヨー ロッパへの受け入れが、さらなる難民を呼び込むこ とを恐れていた(12)。会議に先立つ 7 月14日に、ウィー ンのアリアンスのリーダーの1人であったヨーゼフ・ フォン・ヴェルトハイマーがパリ本部宛てに送った 手紙は、彼らの本音をあらわしている。 「つまるところ問題は、数百家族の面倒を引き受け ることであるかもしれません……[しかし、]そのよ うなことをすれば、われわれ 150 万の者たちの利益 を危うくし、また、われらを政府との対立に追い込 むことになりはしないでしょうか? われわれは政 府の考え方をよく承知しており、それに、政府に対 しては、さまざまなことで当然の恩義を感じてもい るのです。[だから]われわれは、そういうことは拒 絶せざるをえないのです(13)。」 1880 年代はじめは、ウィーンでもベルリンでも、 反ユダヤ主義者によるユダヤ人攻撃が新たな高まり を見せ始めた時期にあたる。そのようなときに反ユ ダヤ主義者をさらに刺激し、自分たちの立場を危険 にさらしかねない難民を受け入れることはできない というのである。もちろんパリをはじめとして、西側 のユダヤ人社会がまったく難民家族を受け入れな かったわけではない(14)。しかし、オーストリア政府 がロシアに難民の引き取りを求めて交渉した結果、 ロシアが出国許可証をもたず不法にロシアを出たユ ダヤ人に対して帰国に必要な旅券の発行に合意する と、ブローディから先への行き場を失った難民の多 くはロシアに帰還した。1882 年のブローディの難民 は 591 人にまで減少した(15)。 西ヨーロッパとアメリカのユダヤ人社会の国際的 連携のもとで行われた 1881 年ポグロム難民の救援 活動は、確かに一定の成果を上げた。しかし、ヴェ ルトハイマーの手紙が端的に述べているように、各 国のユダヤ人社会は、結局、各国の事情に配慮し、 それが許容する範囲でしか行動することができな かった。これが、国境なきユダヤ人の連帯の実態だ が、他方で設立当初からアリアンスは、反ユダヤ主 義者から「ユダヤ人の世界政府」と呼ばれ、ユダヤ 人による世界征服の陰謀の拠点と見なされていた。 『ユダヤ人の歴史』全 11 巻を著したユダヤ人歴史家 ハインリヒ・グレーツは、1881 年ポグロムではドイ ツのブレスラウで組織された救援委員会の代表の地 位にあったが、81 年 7 月 4 日にアリアンスのパリ本 部に宛て、およそ次のように書いている。ドイツ人 はアリアンスに対して強烈な反感をもち、あからさ まに国際的陰謀のレッテルを貼っている。そのため 少なからぬユダヤ人が、アリアンスのメンバーにな ることを嫌がっている(16)。 3. 『シオンの賢者の議定書』とユダヤ人の世 界征服の陰謀 ユダヤ人が世界征服を企み、国際的陰謀をめぐら しているという妄想は、すでに中世からキリスト教 徒の頭のなかにあった。しかし、近代にいたってア リアンスのような組織が活動を開始し、さらに 1897 年に第1回世界シオニスト会議が開かれるようにな ると、陰謀の妄想は俄然として実体性をおびるよう になった。 ポーランドのシュラフタ、ユリアン・ウルスィン・ ニェムツェーヴィチ(1757-1841)は、小説、詩、演 劇で作品を残したほか、コシチューシコの蜂起や 1830 年蜂起に参加し、最後はパリに亡命して、そこ で亡くなった。そのニェムツェーヴィチは 1817 年頃、 『3333 年。とんでもない夢』という空想短編小説を 書いている。小説では 3333 年のワルシャワは、欲 深く、汚くて臭いユダヤ人に征服されたみすぼらし い「モシコポリスMoszkopolis」に変わり果てている。 ユダヤ人は武器によらず、ユダヤ人らしくも策略と 買収でこの征服をやってのけたが、ユダヤ人が街の 全権を掌握するや、ユダヤ人移民が押し掛け、かた やポーランド人の方は、殺され、財産を奪われ、残
る前、親交のあったポズナンの書籍収集家に売られ たという。後に 1858 年になって原稿が発見され、 雑誌『ポズナン評論』に掲載されたが(17)、当時は、 たんにおもしろおかしい話と受け止められたようだ。 ところが、19 世紀末頃から明らかに読まれ方が違っ てくる。すなわち、ユダヤ化されたポーランドの悲 劇的未来を予言し、警告する小説として世に出回る ようになるのである(18)。ポーランド文学史では啓蒙 主義作家に分類されるニェムツェーヴィチが、なぜ ユダヤ人に対する偏見と悪意を助長するような小説 を書いたのか、動機について筆者には調べがついて いない。いずれにせよ『3333 年』は、19 世紀末に 始まる「ユダヤ化されたポーランドJudeo-Polonia」 のスローガンのイメージ作りに貢献した最初の作品 と位置づけられることになった。 とはいえ『3333 年』が空想小説であることは、反 ユダヤ主義者にとっても否認できない事実である。 これに対して、人びとにユダヤ人の世界征服の陰謀 の実在を信じ込ませ、その反動としてユダヤ人に破 滅的影響を与えたのが『シオンの賢者の議定書』(以 下『議定書』と記す)であった。世界のユダヤ人の 代表者が 24 回にわたって会議を開き、世界征服に ついて討議し、議定書を作成し、署名したのがこれ だというものだが、まったくの作り話である。ノーマ ン・コーンは、1897 年か 98 年頃、パリ在住のロシ ア帝国内務省の秘密警察関係者によって書かれたと 推測しており(19)、偽書を書くにあたってユダヤ人の 世界会議という設定にヒントを与えたものの一つが、 ほかならぬアリアンスだったとされる。ここでは『議 定書』の詳細には立ち入らないが、偽書はツァーリ に読まれることを意図して書かれ、目的は、ロシア の自由主義化と資本主義化を推進する者はユダヤ人 の走狗であり、ユダヤ人の企みは伝統的なロシア社 会とロシア正教の土台を掘り崩すことだと皇帝に警 告することにより、ロシアの近代化を阻止すること であったとされる。 20 世紀に入ると『議定書』は活字印刷されて出 発的に普及した。『議定書』は内容に論理的脈絡が ないため、まじめに読むと何をいっているのかわか らないのだが、全体として示唆しているのは、現状 を変革するあらゆる動きの背後にはユダヤ人がいて、 事態の推移を操っている。彼らの目的は、いまの世 界を破滅させ、ユダヤ人が支配する世界に転換する ことだ、ということである。革命とは、まさしくラディ カルな現状の変革であり、『議定書』の読者は直ちに、 ロシアの帝政を転覆したロシア革命はユダヤ人の仕 業という結論をえることができた。すなわち人びと は、いま目の前で起きていることを理解する、いわ ば言葉を与えられることになり、これが、『議定書』 が革命と内戦期に普及した理由であった。実際、内 戦中、白軍の将校や下士官は『議定書』の抜粋集を 携行し、字が読めない兵士には口頭でその内容を伝 えることになっていた。白軍兵士の頭のなかでは、 ユダヤ人の陰謀のネットワークは確かに実在してお り、内戦期に吹き荒れたポグロム正当化の根拠とさ れた。 『議定書』は、1920 年にはドイツ語、英語、ポー ランド語その他、各国語に翻訳される。ポーランド では、1920 年 4 月 25 日に始まるポーランド・ソ連 戦争のあいだに普及した。ポーランドの特徴は、本や、 新聞、雑誌といったマスメディアだけではなく、カ トリッ ク の 聖 職 者 も、 戦 間 期 に 一 般 化 す る Żydokomuna(ユダヤ共産主義者)というコンセプ トの形成に一役かったことである。ポーランド・ソ 連戦争でポーランドの司教団は、1920 年 7 月 7 日付 けで世界の司教区に宛て、救援を求める書簡を送る が、そこでポーランドのカトリック教会は、戦争を ユダヤ=ボリシェヴィキとキリスト教世界のあいだ のほとんど文明間闘争ととらえており、その文言に は明らかに『議定書』の影響を見ることができる。 「ボリシェヴィズムを率いる人種は、すでにカネと 銀行によって世界を隷属させたが、今こんにち日、彼らの血 に流れる不変の帝国主義的欲求に駆り立てられ、諸 国民を彼らの政権の下に服させようと、まさに最後
2015 年度大会 ● ユダヤ人ネットワークの実像と虚像 ─「世界イスラエル連合」から『シオンの賢者の議定書』へ─ ……… 野村 真理 の征服行為に着手した。[中略]ボリシェヴィズムの 憎しみは、とりわけキリストとその教会に向けられ ている。ボリシェヴィズムを操る者たちは、その血 に伝統的にキリスト教への憎悪をみなぎらせている からだ(20)。」 『議定書』は、1921 年 8 月、ロンドンの『タイムズ』 の連載記事によって偽書であることが立証された。 しかし、これによって、『議定書』がばらまいたユダ ヤ人の陰謀という確信が揺らぐというものではな かった。なぜ、陰謀論は、それほど強固に人びとの 心をつかんだのだろうか。 ポーランド司教団の書簡が典型的だが、ユダヤ人 は、カネと銀行を握る資本家であると同時に、資本 主義の転覆をめざすボリシェヴィキであるとされる。 一見、これは矛盾だが、陰謀論から見ればそうでは ない。マルクスがいうように、資本主義は世界のす みずみを資本主義市場に引き込むまで運動を止め ず、したがって、資本主義的世界秩序の転覆をめざ す共産主義の運動もまた、世界的に展開される世界 革命でしかありえない。両者は、世界支配をめぐっ て表面的には対立関係にあるように見えるが、実は、 ユダヤ人=資本家であり、ユダヤ人=ボリシェヴィ キであって、資本主義にせよ、共産主義にせよ、そ の背後で運動を操っているのはユダヤ人である。ユ ダヤ人は両陣営の闘争で世界を破滅に導き、その後 にユダヤ人の世界支配を確立するのだ、というので ある。陰謀論は、とりわけ西から押し寄せる資本主 義と、東から押し寄せる共産主義の脅威にさらされ た東欧の人びとにとっては、当時の世界のあり方を うまく説明してくれるものであったといえよう。 末尾ながらニェムツェーヴィチの作品については、 日本学術振興会特別研究員(PD)でポーランド文 学専攻の田中壮泰氏から貴重なご教示をえた。御礼 申し上げたい。 注 (1) アリアンスの設 立を促したその他の事 件とし て、1858 年のモルターラ事件をあげることが できる。ボローニャで、ユダヤ人モルターラ家 のキリスト教徒の女中が密かに子どもに洗礼を 授け、これを知った教皇庁の警察隊が子ども を連れ去り、修 道院に引き渡した。この暴挙 に対し、ヨーロッパのユダヤ人が連携して抗議 活動を行ったが、結局、子どもは返されなかっ た。 (2) 露土戦争後、1878 年にビスマルクが招集した ベルリン会議で、ドイツ、イギリス、フランス、 オーストリア=ハンガリー、ロシア、イタリア、 オスマン帝国はベルリン条約を締結し、そこで セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立な らびにブルガリアの事実上の独立が承認され た。会議でアリアンスは、イギリスのユダヤ人 団体と連携してロビー活動を行い、これらバル カン諸国の独立承認の条件として、ユダヤ人に 対する平等な市民権付与の一項を盛り込むこと に成功する。参加国でこれに抵抗したのはロ シアのみであった。
(3) Zoza (sic) Szajkowski, The Alliance Israelite Universelle and East-European Jewry in the ’60s, in : Jewish Social Studies, Vol. 4, 1942, p. 155. 1861 年のアリアンスの総会員 850 名の うち、ロシアとポーランドの会員は合わせてわ ずか 3 名であったが、75 年には 453 名に増加 した。なお Szajkowski は、注(13)の文献で はファーストネームを Zosa と記している。 ポーランド東部で生まれた Szajkowsk i (本名 Szajko Frydman 1911-78)は、1927 年からフ ランスに住み、共産主義者のサークルで活動し た後、41 年、アメリカに渡って従 軍した。独 学の歴史研究者で、ヨーロッパのユダヤ人の近 現代史、とくにフランスのユダヤ人の歴史に関 して業績を残したが、1963 年、ストラスブー ルの図書館から文献を盗み出そうとしたところ を現行犯逮捕された。また 1949 年から 50 年 にかけて世界イスラエル連合の図書館で仕事を したさい、重要な文書史料を盗み出し、ニュ ーヨークの公立図書館やユダヤ神学校に売却 した疑惑がもたれている。彼の研究は、豊富 な文 書館史 料に依 拠している点で 貴重だが、 史料の恣意的な解釈も散見され、扱いに注意 を要する。 (4) ibid., p. 149. 1863 年から 80 年までアリアンス の会長を務めたクレミューは、親ポーランドで 知られる。 (5) 黒川知文『ロシア社会とユダヤ人』ヨルダン社、
und Russland 1772-1918, Wien/Köln/Weimar
2011, S. 203.
(7) Jonathan Frankel, The Crisis of 1881-82 as a Turning Point in Modern Jewish History, in : David Berger (ed.), The Legacy of Jewish
Migration : 1881 and its Impact, New York
1983, p. 14. ユダヤ人の企業家で、慈善家で知 られるモーリス・ドゥ・ヒルシュは 100 万フラ ンの寄付を行った。(Leo Goldenstein, Brody
u n d d i e r u s s i s c h =j ü d i s c h e E m ig ra t i o n,
F r a n k f u r t a . M . 1 8 8 2 , S . 7. M o r i t z Friedländer, Fünf Wochen in Brody unter
jüdisch-russischen Emigranten, Wien 1882,
S. 4.)
(8) Zoza (sic) Szajkowski, How Mass Migration to America Began, in : Jewish Social Studies, Vol. 4, 1942, p. 297. 1881 年 10 月半ばから 11 月 26 日まで、ウィーンのアリアンスからブロー ディに派遣され、パリのアリアンスから来たシ ャルル・ネッテルに協力して難民のアメリカ移 住業務に携わったモーリツ・フリートレンダー によれば、冬に入り、移民の送り出しが中断す るまで、ニューヨークに渡った難 民は約 1600 人であった。(Friedländer, a.a.O., S. 42.) ネッ テルは、パリのアリアンスの設立メンバーの1 人である。 (9) ibid., p. 299.
(10) Adelsgruber u. a., a.a.O., S. 203. Vgl. auch Goldenstein, a.a.O., S. 20. 難民のなかには、 脱走兵や学校から追放された学生、プロの乞 食など、得体の知れない者たちも含まれていた。 (G oldenst ei n, a. a.O., S. 23. Fr ie d lä nder,
a.a.O., S. 42.)
(11) Goldenstein, a.a.O., S. 27.
(12) Szajkowski, How Mass Migration to America Began, pp. 302-303. 会議は、ブローディの難 民問題解決のため、難民の一部をアメリカに送 り、一部はヨーロッパ各国のユダヤ人社会で受 け入れ、一部はロシアに帰すことを決定した。 8 月後半に 1521 人がアメリカに送られ、アリア ンスの本部所在地であるパリでは 500 人程度 が 受け入れられたが、 本 文 で 述べたとおり、 三つの選択肢のいずれにおいても困難が発生 民族別統計は存在せず、ユダヤ人移民につい ては、アメリカのユダヤ人移民援助団体の統計 資料 等を参考にせざるをえない。しかし、そ れも 1886 年以前は不完全である。こうした不 完全さを前提した上での推定であるが、ロシ アからアメリカへ 移 住したユダヤ人の 数 は、 1881 年、3125 人、1882 年、1 万 489 人、 1883 年、6144 人で、 ポグロムの影 響が出た 82 年に急増していることがわかる。(Sa muel Joseph, Jewish Immigration to the United
States. From 1881 to 1910, New York 1914,
pp. 93-94.)
(13) Zosa Szajkowski, The European Attitude to East European Jewish Immigration (1881-1893), i n : P u b l i c a t i o n o f t h e A m e r i c a n
Jewish Historical Society, Vol. XLI, No. 1-4,
September, 1951 to June, 1952, p. 139, note 34. [ ]内は引用者による補足である。 (14) 注(12)を見よ。難民の子どもたちの一部は、
ネッテルがパレスティナのヤッファに設立した 農業学校に送られた。(Goldenstein, a.a.O., S. 15.)
(15) Szajkowski, The European Attitude to East European Jewish Immigration (1881-1893), p. 147.
(16) Heinrich Graetz, Tagebuch und Briefe, hrsg. von Reuven Michael, Tübingen 1977, S. 370. (17) J. U. N i e m c e w i c z , R o k 3333, c z y l i s e n
niesłychany, in : Przegląd Poznański, Tom XXXVI, 1858, s. 346-356.
(18) Joanna Beata Michlic, Poland’s Threatening
Other. Image of the Jew f rom 188 0 to the Present, Lincoln/London 2006, pp. 47-48.
(19) Norman Cohn, Warrant for Genocide : the
Myth of the Jewish World- Conspiracy and the Protocols of the Elders of Zion, Chico,
CA. 1981. (ノーマン・コーン『シオン賢者の議 定 書』内田樹訳、K K ダイナミックセラーズ、 1986 年。) (20) A g n i e s z k a P u f e l s k a , D i e > > J u d ä o -K o m m u n e << . E i n F e i n d b i l d i n P o l e n , München/Wien/Zürich 2007, S. 50.